Thursday, February 26, 2009

それは30年前の今日のことだった

今からちょうど30年前の今日、1979年2月26日に、今に続くぼくの旅ははじまっている。あれは北米大陸で20世紀最後の日蝕が見える日の前日のことだった。ユタの沙漠で日蝕を見るために、ぼくは友人と2人で、3日前にロサンジェルスを旅立ち、サンフランシスコからインターステイトフリーウェイでソルトレークシティに向かっていた。25日の午後3時過ぎ、ネバダ州カーリンという町で遅いランチで腹を満たそうと立ち寄ったカフェで、ぼくたちはその古ぼけたレストランの女主人からいきなり声をかけられた。「あんたらもあの気の狂ったインディアンに会いに来たのか? 天気を変えるとかいっているようだけれど、わたしは信じませんからね」

そして彼女が「気の狂ったインディアン」と吐き捨てるように言った存在こそが、カーリンの町外れに家族で暮らしていたローリング・サンダーその人だった。2月25日の夕方、ぼくたちはなんとかローリング・サンダーの家を探し出してその家の門の前に立っていた。ドアが開いて出てきたのはひとりの体格の立派な女性だった。あとでそれがセージの匂いだとわかったのだが、家のなかから薬草を炊き込めたような香りが流れ出した。彼女はぼくたちを招き入れた。一目見た瞬間ぼくは彼女の発している大いなる優しさと強さに包み込まれた。それがローリング・サンダーの奥さんでショショーニ一族のスポッテッド・フォーンとの最初の出会いだった。というよりぼくがはじめて直接顔を見合わせて話を交わした最初のアメリカ・インディアンだった。じきにわかったのだが、彼女はローリング・サンダーの一族から「ビック・ママ」と呼ばれ、すべての人から尊敬されていた。スポッテッド・フォーンは一族のクランマザーであり、その権力は絶対だった。ローリング・サンダーですら彼女の言葉には従わざるを得なかった。チェロキーに生まれて放浪の旅にあったローリング・サンダーを、結局最後までショショーニの土地につなぎ止めたのは彼女の尽きることのない魅力だった。ローリング・サンダーのメディスンのひとつの大きな源が彼女という存在だったことは間違いない。80年代半ばに彼女がスピリットの世界に旅だって以後のローリング・サンダーの落胆ぶりは誰の目にも明らかだった。

「ローリング・サンダーは仕事で外出しており、帰るのは今夜遅くになると」彼女はむだのない英語で言った。ぼくたちが明日の日蝕をユタの沙漠で見るつもりだと伝えると、彼女は真顔になり、こちらに向き直った。その瞬間彼女の身体がさらに大きくなったような気がした。「ローリング・サンダーは日蝕は見てはいけないと言っているわ」と彼女がおもむろに言った。「あなたたちは今夜はここに泊まりなさい。ローリング・サンダーもきっとあいたがると思うから。毛布はあるの? お腹はすいていない?」

そうやってぼくらはスポッテッド・フォーンに受け入れられ、ローリング・サンダー・ファミリーの客人になった。カーリンの町はずれの沙漠の中に作られたウィグアムという土まんじゅうのような寝ぐらを与えられ、たくさんの毛布とともに眠りについた。夜中に1度目をさまして外に出てみると頭上に満天の星がひろがっていた。翌26日の早朝、まだくらいうちにウィグアムの入口の布のフラップが音をたてて開き、ローリング・サンダーが独特の物腰で入ってきた。この時の話は、まだ印象が鮮明だったころに『ネイティブ・マインド』(地湧社刊)という本の前編に詳しく書きとめてあるので、興味があればお読みいただきたい。「日蝕を見ると、ブレーン・ダメージを受けるので、日蝕は見るべきではない」と彼も言った。「あらゆる動物たちはそのことを知っている」とも。「日蝕はなにかが死ぬ時であり、新しく生まれる時である。自分はこれからひとりで山の中に入り、日蝕を一族の者たちが見なくてよいようにしてくるつもりだ。日蝕のはじまる時間までには帰ってくるので、おまえたちはここにとどまりなさい」

その日、ちょうど30年前の今日、2月26日、午前11時ごろ、ネバダの沙漠の中にぽつんとうち捨てられて錆び付いた小さなキャンパーのなか、小さな薪ストーブが勢いよく燃えて、そのうえに載せられた黒く焼けたヤカンから沸きたつ蒸気で曇る窓ガラスのむこう側の世界を、ローリング・サンダーとぼくらは、パチパチとはねる薪の音を耳にしながら眺めていた。窓の外の沙漠には、さっきからしきりと雪が降り続き、それはもうかなり積もりはじめている。「みなが日蝕を見ないですむように、あの雪はわたしが降らせた」ローリング・サンダーがおもむろに言った。

30年前の今日は、アメリカ・インディアンの目で世界を見るその見方を学びはじめた日。スポッテッド・フォーン(ショショーニ)、ローリング・サンダー(チェロキー)、デイビツド・マニャンギ(ホピ)、マッド・ベア・アンダーソン(タスカローラ、イロコイ)、ジョン・ファイアー・レイム・ディアー(ラコタ)、アーチー・ファイアー・レイム・ディアー(ラコタ)。そうしたぼくを導いてくれた名だたる偉大な人たちはみなこの間に、地球の旅を終えてスピリットの世界に旅立たれた。そしてぼくはまだやらなくてはならないことがあるので、ここで地球の旅を続けている。学びは、どこまでも続く。




A Hard Rain's A-Gonna Fall
Bob Dylan,the Rolling Thunder Revue. 1976

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Wednesday, February 04, 2009

なにかを知ることとはどういうことか?

start_quoteただ座ったままで真実について語るなどできるわけもない。物事はそのようにはできておらんのだ。お前は真実を生きなくてはならない。そして真実の一部になったとき、お前ははじめてそれを知る。end_quote.gif
—— ローリング・サンダー チェロキー

なにかを知りたくなったとき、インターネットの Google で検索したり、必要な本を探してそれを読んだりするのは誰もがしていることだろう。そして自分の気になった言葉やせりふをいくつかそこから拾い上げて記憶する。われわれはみな内側に一羽のフクロウを飼っている。フクロウは名前を「知」という。そしてそのフクロウがわれわれに話しかけてくるのだ。フクロウはわれわれを導き、われわれを育てる。われわれが情報を得たとしても、そうして得た情報の全部が全部、そのまま自分の生き方にできるわけではないのだが、しかし眼前に展開される情報を読んで覚えると、それについて語ることだけは誰にでもできてしまう。重要なのはそれについて語ることではなくて、それを生きること。道について語るのではなく、道を歩いていくことなのだ。自分がこの人生においてほんとうに自由になりたいと望むのなら、自分が人生において幸せになりたいと願うのなら、自分が人生において平和を求めるのなら、われわれが探し求めなくてはならないのは真実である。ほんとうのことが知りたくはないか?

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Sunday, November 02, 2008

あなたはなにを話しているのか?

われわれは目に入るものすべてを食べる必要もないし、考えていることすべてを口に出して言わなければいけないというものでもない。であるから、われわれがまずはじめるべきは、自分の使う言葉に注意し、声として発するのはよい目的だけにかぎることだ。
ローリング・サンダー チェロキー メディスンマン

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Wednesday, July 09, 2008

ローリング・サンダーが感謝を捧げるときに口にしていたシンプルな祈りの言葉


To the East where the Sun rises.
To the North where the cold comes from.
To the South where the light comes from.
To the West where the Sun sets.
To the Father Sun.
To the Mother Earth.


--- Rolling Thunder


たいようの のぼる ひがしへ
さむさの やってくる きたへ
ひかりの やってくる みなみへ
たいようの しずむ にしへ
ちちなる たいようへ
ははなる ちきゅうへ


—— ローリング・サンダー


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Sunday, March 02, 2008

人は考えていることにも責任を持たなくてはならない

人間は自分の考えていることに責任を持たなくてはならない。だから人間は自分の考えることをコントロールすることを学ばねばならないのだ。それは簡単なことではないかもしれないが、やってやれないことではない。
ローリング・サンダー、チェロキー

自分に向かって話しかけることをコントロールすることで、われわれは思考をコントロールできるということを、ぼくは教わった。人間というのはいつも自分に向かってさまざまに−−声に出すこともあれば声に出さないまでも−−話しかけているものなのだな。考えていることというのはたいていそれぞれに感情がつきまとっていて、気がつくとその感情と感情が対立しあう結果を生んでいたりする。

だから感情がおもいきり高ぶって、どうしても自分の手に負えなくなり、ああこのままでは危ないなと思えた時には、自分に向かっていい加減にそれを止めるように伝えることもできるのだ。深呼吸を何度かして気分を静め、万物を創られた存在にむかって、正しい思考、正しい決定、正しい行動を求めてみるのもひとつの手だろう。これをことあるごとに繰り返すようにしていくうちに、自分の考え方も違ってくるはずだ。毎朝目を覚ました時に、偉大なる存在に自分の考えることを導いてくれるように求めてみるのも効き目があると聞いた。目に見えない不思議な存在は、さまざまな形でわれわれに力を与えてくれるものなのだ。

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Sunday, September 09, 2007

この大地をどうすればクリーニングできるか?

この大地から汚れをきれいになくすためには、われわれはまずその前に自分たちのスピリットの汚れを落とすことからはじめなくてはならない。

——ローリング・サンダー(チェロキー出身のメディスンマン)晩年の言葉

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Sunday, September 02, 2007

人は自分がなるべきものを知る、少なくともその人間がインディアンであるのなら

Rolling Thunder

あるインタヴューで、ローリング・サンダーが、「自分はメディスンマンになるために生まれてきたとあなたはおっしゃられたことがありますが、自分の持って生まれたその使命にどうやって気づかれたのでしょうか?」とたずねられてこたえた言葉の一部。

メディスンマンであることが生まれたときからの定めであることに嘘偽りはない。何冊かの教科書を読んだり、あるいは特殊な学校に行ったりすれば、この仕事に就けて、なんとなくやっていけるようなものではないのだ。そのようなことでメディスンマンになれるものではない。人は自分がなるべきものを知る、少なくともその人間がインディアンであるのなら、その人間にはわかるようになってる。

これまでもたくさんのものが、お前さんと同じようなことを、わたしにたずねてきた。どうやってメディスンマンになることを人は知るのですか、と。そうだな、ある部分それは本能的なものともいえなくもないが、またある部分ではそれは、慎重の上に慎重を重ねた探求の結果ともいえるだろう。

たいていの場合インディアンの若者は、12歳か13歳のころに、その人間の人生の目的を見つけだすことになっている。そのぐらいの年齢になると、若者は高い山の頂に登ったり、あるいは同じような人里離れた特別に聖なる場所で、付き添いの老人を遠くに待たせたまま、少なくともまる3日間の長きにわたって、たったひとりで過ごすことになる。

探求者はなにひとつ食べるものを持たず、身につけるものは毛布が一枚のみで、その時間を断食と祈りのなかでおくる。するとなるようになってヴィジョンがやってくるのだ。そのヴイジョンのなかで、その少年が、あるいは少女が、人生においてなにをなすべきかが明らかにされている。

ほとんど眠れないその探求から戻ってくると、若者は自分に告げられたものを、待機していた賢いエルダーにことこまかに説明する。そしてそれがすんだなら、今度は二人してメディスンマンのもとを訪れて、そのメディスンマンがふたりに若者の見たものの意味を解説することになる。それが終わると、一族は部族をあげての大きな儀式を執りおこない、その若者に公式な名前を授け、彼もしくは彼女が生涯をかけてつとめるべき使命が明らかにされるのだ。

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Monday, July 23, 2007

そして皆、スピリットの世界へと旅立たれた

eaglefthr.gifグランドファーザーのデイビツド・マニャンギ(ホピ)、クランマザーのスポッテッド・フォーン(ウェスターン・ショショーニ)、インター・トライバルなメディスンマンであるジョン・ポウプ・ローリング・サンダー(チェロキー)、ジョン・ファイアーとその息子のアーチー・ファイアーというふたりのメディスンマンのレイム・ディアー(ラコタ)、そして先日スピリットの世界に旅立たれた精神的指導者でメディスンマンのコービン・ハーネィ(ウェスターン・ショショーニ)。70年代から今日までぼくがなんらかのかたちで教えを請うたネイティブ・アメリカンの偉大なエルダーたちが、これでとうとう全員が帰らぬ人となってしまった。

Rolling Thunder Lives三十数年という時の流れを感じざるを得ない。これらの人たちをつないでいた目に見えないものは、アメリカ・インディアンのなかでも特殊なメディスンマンと呼ばれる職能の人たちのネットワークであった。ぼくにとってこれらの人たちの存在はすべてがローリング・サンダーその人(図版)を基点としてつながりあっている。デイビツド・マニャンギ翁はローリング・サンダーの無二の親友であったし、スポッテッド・フォーンはローリング・サンダーの奥方であると同時にぼくの背中を押してくれた恩人であるし、レイム・ディアー親子とはメディスンマンのネットワークとアメリカ・インディアンの権利回復と精神復興の運動を通じて、コービン・ハーネィとはヴイジョンを共にしてコロンブス到来ではじまった長い戦争を戦い続ける同志としてのつながりでかたくむすびつけられていた。コービンはローリング・サンダーとスポッテッド・フォーンのふたりの息子夫婦であるマーラとスカイがオレゴンで立ちあげたネイティブの教えを世界に広げていく新しい動きの後見人でもあった。

それらの人たちに共通していたのは、「前の世界」と「今の世界」のふたつの世界をきわめて巧みに往き来しつつ生きる技を習得して、前の世界から伝えられたソフトでリズミカルな言語と、ハイで詩的な英語とを巧みに操ることで人びとを教育し、そのふたつの世界の橋渡しをし続けたところにある。

Rolling Thunderぼくにとっては彼らと共にあることがそのまま希望だった。彼らと一緒にいて、共に第二外国語である英語で話していると、自分たちはアメリカのなかにあった別の国にいるのだと言うことが痛いほど確認できた。この人たちはアメリカという国のなかで生活をしていたにもかかわらず、アメリカの国が人びとに押しつける法律のもとではなく、グレイト・スピリットの法とでも言うべきものに従い、耳を傾け、正直に1日1日を生き、生涯を終えた。彼らが従っていたグレイト・スビリットの法については、もともとが口から耳へと伝えられてきたものであるがゆえに、ひとつの形あるものとして残されたものは少ない。

ぼくが教えを請うたエルダーたちの全員が旅立たれた今、もう一度初心にかえって、彼らが伝えようとした偉大な精霊の法について、ぼくはこの夏さまざまな機会に考え直してみるつもりでいる。

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Friday, March 09, 2007

カラダの浄化とアタマの浄化

はじめは浄化だ。それが最初のステップになる。そしてここでいう浄化とは肉体的な浄化だけでなく、頭の浄化も意味する。頭のなかを浄化することなくして、肉体の浄化などできるわけもない。物事はそういうふうになっているのだ。
ローリング・サンダー チェロキー

悪い考えが、毒のような思考が、もしも頭のなかにあるとしたら、当然のことながらそれは体にもあらわれる。どんなあらわれ方をするかはケースバイケース。頭痛、痛み、胃がきりきりするなど症状はさまざまだろう。われわれの体というのはそうやって連動するようにできている。だからわれわれが成長する段階になったり、ネイティブ・ピープルの道を歩きはじめたりするときには、まず自分の頭のなかの浄化、さまざまな思考ひとつひとつの洗濯からはじめるべきではないか。そのようにして自分たちの体にたいして敬意を表すところからスタートするしかない。祈りと瞑想によって頭のなかを浄化するところから手をつける。それから体の方の浄化に取りかかる。必要なだけの量の睡眠を与えてやり、食事を良いものにあらためてやる。毎日自分はよい考えを頭のなかに持っているかを観察するようにしておきたいものである。

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Thursday, January 25, 2007

正しい時と場所を生きる

Portrait of RT

Portrait of RT, at the Meta Tantay community
in Carlin, Nevada.
Painting by Hank Greb


"We say there is a right time and place for everything. It's easy to say, but hard to understand. You have to live it to understand it."
-- Rolling Thunder, CHEROKEE


ローリング・サンダーの命日である今日は、彼がインディアンの精神と権利の復興のために最も精力的に活動していた1945年から1965年までの20年間を『ネイティブ・タイム』(補遺)として時系列を追って見ていくことにした。ホピとローリング・サンダーの出会いが、ヨーロッパによる征服以来眠り続けたネイティブのスピリットにいかに目覚めをもたらし、また21世紀の今にもつながる南北アメリカの先住民のルネサンス(正義と平和と自由と調和と自然のよみがえりを求める潮流)や汎インディアン運動といった時代の動きに、どのようにかかわっていったのかの一部でも、読者に理解されれば幸いである。

ホピの国でコヨーテが話した
核爆弾が日本列島の2個所で人間の暮らしている土地に投下されて全世界が原子力時代の入口におかれた1945年はまた、南北アメリカ大陸の先住民にとっては忘れられない年でもある。この年、インカ帝国滅亡後412年目にしてはじめてインディアン会議がボリビアで招集され、1500人の代表が顔をそろえた。その2年後の47年、ホピ国のコヨーテ氏族のキクモングイ(長)が「天から灰のつまったヒョウタンが落ち、海を煮えたぎらせ、大地を焼き、それに続く何年も植物が育たない」ことが起こるまで秘密にするように指示されていた教えと預言をホピの他の指導者たちにはじめてあきらかにした。この預言があきらかにされると、ホピの国では「コヨーテが話すまでは語るな」と指示されていたという教えがつぎつぎとあきらかにされていく。

ホピの教えを世界に広めよ
1948年、ホピの国で、「灰の詰まったひょうたん(原爆と水爆)が二つ大地に落とされる」という予言の実現を受けて、各氏族の精神的指導者たちおよび長老たちの正式な集会が開かれ、ホピの教えを世界の人たちに広く知らしめることの重要性についてはじめて話し合われ、ホピの教えを世界に伝えるための通詞四人が選び出される。これが21世紀までつながるインディアン再生運動のはじまりを告げる出来事だった。まずはその年、ホピの国から貨物列車で預言の確認のことでトーマス・バンヤッカという名前の、外の世界にたいするスポークスマン兼通詞をふくむ使者たちが、東のイロコイ6ヵ国連合に派遣された。ホビの国の人たちはミシシッピ川の東側のインディアンたちは絶滅させられたと思っていたのだが、第二次世界大戦で戦地におもむいた若者のなかにニューヨークから来たインディアンと出会ったというものがいたことから、あらためて使者が派遣されることになったものだ。

ホピ、すべてのインディアンに呼びかける
翌1949年、ホピ・インディアンの三つの村の祖先以来のチーフたちが合議のうえで、「ホピ・インディアン帝国」から合衆国大統領とすべてのアメリカ・インディアンたちに宛てた親書を送り、そのなかで「なにがあなたたちの宗教のもとになっているのか?」と問いかけた。南米のペルーで大きな地震が起こり、クスコという町の近くに建っていたある修道院の地下の地面がふたつに破れて、そこから黄金で作られた古代インカの寺院が姿を現わした。南北アメリカの先住民の国々を代表するエルダーたちが正装でニューヨークにある国際連合のビルの正門前に訪れて議会での発言を求めたが拒絶されている。そして50年にはラコタの聖者だったブラック・エルクが87年の生涯を終えた[ちなみに、この年の暮れにぼくは生まれてる。^^;]

ショショーニの土地に核実験場
1951年にアメリカ政府は「インディアン都市移住計画」を開始する。土地利用問題解決を目的としてホピ国で有名無実化していた部族議会が復活。アメリカ政府が先住民である西ショショーニの人たちから取り上げて軍用地にしたネバダの砂漠にネバダ核実験場の施設を作りはじめた。52年、イギリスがオーストラリア西岸のモンテベロ島で最初の大気圏核実験をおこない、アメリカは大平洋で水爆の実験。53年にはソ連が水爆の実験をセミパラチンスクで成功させ、アメリカ合衆国の大統領が国連で「原子力の平和利用——アトム・フォー・ピース」をぶちあげた。また同じアメリカではこの年に「部族廃止法」が制定されて、特定の部族と合衆国政府間の信託関係が廃止されている。54年には世界で最初の工業用原子力発電所がソ連で稼働しはじめる。

ホピ、ローリング・サンダーらに呼びかける
1955年、アメリカが南ベトナムの軍事政権に肩入れする形でベトナム戦争がはじまった年、それまで人里離れたところでおこなわれていた核実験が、ストロンチウム九○の濃度というかたちで、めぐりめぐって、地球上のすべての人たちに影響を与えていることがわかりはじめる。イギリスが水爆製造計画を公開し、フランスが原爆製造計画を発表したこの年、イロコイ(タスカローラ)のマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーのジョン・ポープ・ローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったインディアンのメディスンマンやスポークスマンたちに、ホピの国で開催されるインディアン統一運動への支援が呼びかけられた。

グレイトスビリットの道へ戻れ
1956年、詩人のアレン・ギンズバーグが「吠える」を発表し、アメリカに最初の白いインディアンであるビート族があらわれたこの年、前年の呼びかけを受けて、ホピ国のホテビラ村において宗教者会議が開かれ、インディアンの国々の代表や白人の心ある人たちが出席して、「ホピの預言」がはじめて英語化されて世に出た。席上「グレイトスピリットの道に戻れ」とする呼びかけが出されて、これがのちのインディアン統一運動へとつながっていくことになる。タスカローラのマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーとショショーニのローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったネイティブのメディスンマンやカフナで、それぞれがインディアン世界のスポークスマンだった人たちにホビの国があらためて支援を要請。この年、アメリカが日本にウランを貸し与えることを認めるかたちで、日本がアメリカの原子力(経済)政策に組み込まれていく。

日本列島に原子力の火が
1957年、日本国の茨城県の東海村に、国策で建造された原子力研究所の実験炉が臨界に達し、日本列島に最初の原子の火がともる。日本国の各地方の電力会社が原子力発電計画を作りはじめる。ジャック・ケルアックが『オン・ザ・ロード(日本語タイトルは「路上」)』を著したこの年、アメリカがネバダ州の沙漠の核実験場で初めての地下核実験をおこなう。イギリスがハワイ島の南に位置するクリスマス島で最初の核実験。ソ連ウラル地方の核工場で核廃棄物の爆発事故が起きたが、その事実は20年間封印された。

ホピ、国連を目指す
1959年、アラスカがアメリカ合衆国の49番目の、ハワイ諸島が50番目の州にされた年、アメリカ南西部の高原沙漠で生き残っていた伝統派のホピの国の人たちが、古代から伝わる伝承に基づき、自分たちの母なる国土の東のはずれに建つ雲母の家(国連ビル)に赴く時だと判断して、代表者6人をはるばるニューヨークの国連に派遣している。ホピに伝わる伝承では、「国土の東のはずれにたてられた雲母の家には困っている人たちを助けるために世界各地から偉大な指導者たちが集まっている」ことになっていた。翌60年、ホピの国で歴史上はじめて女性のキクモングイ(長)が誕生し、聖なる石版が彼女にゆだねられることになった。

次世代を導く使者にえらばれた4人のカリスマ
そして1961年、アメリカ合衆国政府がこれまでとり続けてきた先住民族絶滅と強制移住政策に終止符を打つべく、いくつものインディアンの青年たちの戦闘隊がアメリカ国内で組織された。ホピの国がインディアンの若者だけでなく白人でインディアンの心を理解する世代を導き社会を有益な方向へと組織化し次世代を先導させるための使者として、ローリング・サンダー(チェロキー・ショショーニ)、シム・ワウーテ(チュマッシュ)、クレイグ・カーペンター(オジブエ)、デイビッド・ブレイ(ハワイのカフナ)の4人のカリスマたちを正式に指名した。全米の64の部族から700人を超えるインディアンたちがシカゴに集まり、自分たちの置かれている現状や今後の課題を討議し、自分たちの主張を宣言にまとめた。

サイレント・スプリング(沈黙の春)の衝撃
1962年、日本国が初めて製造した原子炉が臨界にたっし、アメリカ人作家のレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書いた年。ホピのキクモングイらの反対にもかかわらず、ホピの居留地の主要な部分を、ナバホとの共同利用区域に指定するというアメリカ政府の行政命令が出された。そしてこの共同利用区域には、ブラックメサの露天鉱の借地権がふくまれていた。このためにホピの土地とナバホの土地を分割すべしとの声がホピの部族会議のなかで高まる。

権利回復と価値転換のはじまり
1963年、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で金錫亨【キムソクヒョン】という名前の歴史学者が「歴史科学」という雑誌に「三韓三国の日本列島内分国について」という論文を発表し、明治以後の日本ではあたりまえとされていた「古代の朝鮮半島にあった百済・新羅・任那(伽羅)を支配していたのは日本である」という「日本中心主義歴史観」を全面的にひっくり返し「古代にはそれらの諸国が日本列島内に分国を配置して支配と経営をしていた」と主張した。同じ年、黒人やマイノリティの権利回復運動が高まりはじめたアメリカで、ジョージ・ウォレスという右翼の政治家が「今日も差別、明日も差別、永遠に差別!」と公然と主張した。この演説の草稿を書いたのは実はウォレス本人ではなく、「エース・カーター」ことアサ・アール・カーターが本名の、当時過激な活動を展開していた極右白人優越主義者団体KKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーの男といわれ、このカーターはのちに「フォレスト・カーター」を名乗って西部劇を書く小説家となり、かの有名なインディアン小説の『リトル・トゥリーの教育』(邦題『リトル・ツリー』)を発表することになる。ハーバード大学の教授のティモシー・レアリー博士がマジック・マッシュルームの成分であるシロシビンの研究をおこない、その結果を「チベットの死者の書」と対比させながら「サイケデリック体験」をポジティブに使うための手引書として出版した。

アメリカ・インディアンが動く
1964年、アラスカをマグニチュード8という桁はずれに巨大な地震が襲った。伝統的な部族の衣装を身にまとった5人のアメリカ先住民に伴われて、偉大なるスーの国の一員であり、アメリカ・インディアン会議のベイエリア地域支部長が、サンフランシスコ湾のまん中にある岩でできた小さな島に降り立ち、丘の斜面にアメリカの国旗を立てて儀式を行ったあと記者会見を開き、1868年のララミー砦における条約に基づき、この「岩」がインディアンのものであると宣言した。巨大な岩の塊はアルカトラツ島と呼ばれ、脱走がむずかしい島としてアメリカ合衆国が連邦刑務所を設けていたが、その頃にはもう空になっていたのである。やがてひとりのメディスンマンがパイプに火をつけ、白い煙がたちのぼると、国立公園のレンジャーがやってきて、インディアンたちを退去させるという事件が起きた。ホピとナバホの国でアメリカ政府と企業(世界最大の炭坑企業)の意向を受けた部族議会が、ブラックメサの地下に眠る石炭の採掘権を承認した。この年、東京オリンピックが開催され、陸上トラックの1万メートル競技で、ひとりのアメリカ・インディアン(ラコタ族パイン・リッジ・リザベーション)出身の26才の青年が優勝した。青年は名前を「ビリー・ミルズ」といい、アメリカ陸上チームに選ばれた最初でただひとりのスー・インディアンの青年だった。

日本列島と南米のつながり
1965年、産軍複合体にコントロールされるかのようにアメリカがベトナムで地上戦に突入し、世界各地でベトナム反戦運動の気運が高まった。アメリカの先住民で徴兵されてアメリカ軍の兵士としてベトナムに派兵された者は42500人を数えた。アメリカの大統領が日本国の首相に核武装を示唆。アメリカ人の考古学者であり国立スミソニアン研究所のエバンスとメガースの両教授が、南米エクアドルのバルディビア遺跡を調査し、そこから発掘される土器群が、様式や年代において日本の「縄文」土器と明確な対応を示していると発表した。二人は「日本から南米への土器文化の伝播」もありうるのではないかと指摘した。この年、日本国東海村に設置されていた原子力発電所が初めて臨界に達した。


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