Wednesday, December 02, 2009

12月18日に発売予定の『地球のレッスン』(太田出版)のまえがきを再録

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「地球のレッスン」 北山耕平著 太田出版刊
12月18日発売 定価 本体1200円+税
ISBN978- 4-7783 -1198-8

まえがき


蛙はけして自分の住む池の水を飲み干したりはしない    



ここに集めた詩や、考え方や、教えは、この三十年間にぼくの周囲に風に舞って運ばれてきたものです。そうした葉の一枚一枚を、言葉のひとつひとつを、それぞれの教えを、ぼくは意識して集めてきました。時折、季節の変わり目を告げるかのように強い風が吹いて何枚もの葉が飛び散っていきました。それでも自分のすぐ近くに残り続けていた教えの記された葉を、三十年前に『自然のレッスン』という本を作ったときのように、もう一度まとめておくことにしました。

認めてくれる人は少ないかもしれませんが、ぼくの意識のなかでは、こうしたものをどれも詩として受けとめています。詩というのは、ぼくにとっては羽根の生えた言葉です。ここに集められた詩のなかには、最近風に舞って運ばれてきたものも、情報の海に浮いていた瓶の中に閉じ込められていたものもあるし、地球に生きるネイティブの人たちから託されたものもあります。図書館で読んでいた本のなかから形をあらわしたものも、何十年も前に、ぼくがなにかを探して沙漠の中をひとりで歩いているとき、風を切るように円を描いて空を舞っていた鷹から落とされたものも、また何キロも遠くからぼくに向かってまっすぐ歩いてきて、すぐ近くまで来て立ち止まったコヨーテの兄弟から預かったものなどもあります。

こうしたものは、みなすべてなにかの印でしたが、ぼくにとっては教えであり詩でもありました。

ぼくは便利な物が世の中にあふれてくるのを見て育ちました。子供の頃の自分には見たことのなかったものに囲まれて暮らしています。たとえば食べ物。インスタント食品が初めて登場したときのことを忘れません。家族で丼にインスタントラーメンを入れお湯を注いで蓋をして三分間待って食べました。その味は記憶に焼きついています。家族がそろって食べた最初のインスタント食品でした。今ではインスタント食品はひとりで食べるのが基本のようです。

ぼくがアメリカにいた頃はインスタント食品の TVディナーが全盛の頃でした。オーブンに入れて温めればそのまま食べられる夕食のことです。どこのスーパーマーケットでも売られていて、寂しい人たちがテレビを観ながらその簡易食を食べていたのです。ところがぼくはそのアメリカで、人間の意識に食が与える力の大きさについてさまざまに学びました。「なにか胃にたまるもの」と食事は別のものだったのです。米や玄米の炊き方や味噌スープの作り方をきちんと学んだのもアメリカでのことでした。

いつか食にたいする考え方にも大きな変化が来るだろうと、なにが人間の食には重要なのか、そして便利なものの増えていく世界のなかで忘れてはならない規則や原則を、いくつも集めてまわり、のちにぼくは『自然のレッスン』という最初の詩集に書き込みました。

しかしファストフードが世界の隅々にまで普及する時代が来ます。今ではさまざまなファストフードがあふれるようになりました。ファストフードなしで食を考えられない人もたくさんいます。今ではどこのスーパーマーケットでもポテトサラダを売っていますが、この「二四時間以内にお食べください」というシールが貼られたトレイのなかのポテトサラダと、子供の頃に母親がポテトを茹できゅうりなどを刻んで作ってくれていたポテトサラダとでは、決定的になにかが違います。

ファストフードの時代になればなるほど、子どもたちは食べ物がどこからもたらされているのかへの関心を薄めていきます。チェーンのレストランなどでは、食べ物はどこかの工場から送られてくるものを温めるだけのような店までたくさんあります。ポップコーンがトウモロコシから作られ、ポテトチップがジャガイモから作られることを知らない子どもたちだっています。世界がファストフードであふれるようになると、あらゆるものが 便利でお手軽なものを求めるようになっていました。

世界からリアルなものが姿を消していました。インターネットがそれに拍車をかけています。今では街の書店に行けば、簡単になにかがマスターできたり、サルでも理解できるように書き直された入門の本、三日で悟りに行けるようにしてくれたり、簡単にお金が稼げて新しい生き方が自分のものになることを謳うような書籍など、無数の快適な人生を提供する心のファストフードがあふれています。一度読んだら捨てられたり売られたりする本を、木を切り倒してつくる紙に印刷する必要などないのではないか。ぼくはそうした本はリアルな本ではないと考えるようになりました。

ぼくがこれまで書いてきた本はどれも、ちょっとした満腹感を与えるためだけのファストフードではありません。この本にも簡単に成し遂げられることはなにひとつ書かれていません。『自然のレッスン』が体と頭に働きかけたのとおなじことを、この『地球のレッスン』は心と魂に向けて行なおうとしています。人間が辿ることになる最も長い旅路は、頭からハートへと続く道だとのちにぼくは教わりました。この人生でたどり着くことができるのかどうかはわかりませんが、歩き出して、前を見て歩き続ければ、いつか着くだろうと楽観的に考えています。


ぼくは七〇年代の初めに大学生として世界を知り始めました。実際、あのときは大変なことがいっぺんに世界的規模で起こっていました。世界はぐちゃぐちゃになりかけていて、そして急激にぐちゃぐちゃになっていきました。

人間が月に行ったり、月から見た地球の映像が家のテレビに映し出されたり、テレビで実際の戦争が中継されたり、ロックが音楽の枠を越えて政治や人間の生き方に影響を与えたり、今まで作りあげられてきた中産階級的な生き方がほころびを見せはじめたり、バブルがさまざまな形でじわりと広がりはじめたり、持つ者と持たざる者の差別があらわになってきたり、空気や水がどんどん汚れて公害という言葉が使われるようになり、人間の手に負えない病気が広まったり、廃棄物の処理のことなど考えない原子力 発電所が増殖し、自然が少しずつ撤退をはじめて不自然が世界をとりまくようになったり、アメリカ・インディアンがサンフランシスコの海に浮かぶ小さな島を占領して「アメリカはわれわれの土地だ」と宣言し直したり、国境や国家を越えたところで人と人とをつなげようという動きが盛んになったり、人種や民族や宗教の対立がことさらにあおられたり。世界は大きく変わりはじめていました。

やがてベルリンの壁が倒されたり、人びとが愚かな振る舞いを繰り返すようになっていって、資本主義にも限界が見え隠れするようになるわけですが、ぼくはそうしたただならぬ変化がはじまったばかりの世界に向かって旅立ったのです。

二〇代から三〇代にかけて、ぼくは旅を続けました。いろいろな言葉を話すさまざまな人たちと出会い、自分が誰で、なぜこんな事をしているのかについて考え、話を聞いていきました。与えられるハイもローも経験しました。

どういう生き方をすれば生き延びられるのか ? ほんとうにたいせつなこととはなにか ? ぼくは解き放たれた矢のように飛んでいきました。そしてある朝目を覚ましたときにはロサンジェルスのホテル、ホリディ・イン・ハリウッドの部屋にいる自分を発見しました。持ち物はスーツケースひとつだけ。

ぼくはそれから五年間ぐらいかけてアメリカで生き延びながら、自分の生まれた世界についての学びを続けました。人間はその一生をずっとコンクリートのうえだけで、山のようなビル群の作る渓谷のなかだけで過ごすべきではないと知ったのもその頃でした。ほんとうの自然があるところまで行かなければ思い出せないこともあるのです。

その過程でアメリカ・インディアンと呼ばれる人たちの存在に心を奪われ、彼らのなかに入り込み、自分がどこにいてどこへ向かっているのかをあらためて思い出させてもらい、自分に道を指し示してくれた何人かの知者やエルダーと会うことができました。

自分たちのことを「地球に生きる普通の人間」と見ている存在との忘れられない出会い。アメリカではコロンブスが来るまで「いのちの輪の中に正しい場所を得て、地球に生きる普通の人間として魂が旅する時代」が続いていたという偉大な気づきは、ぼくの精神のある部分を地球にしっかりとつなぎ止める働きをしました。ぼくにはこの地球という星でやらなくてはならないことがあったのだ、と。

そしてアメリカでインディアンのことを学べば学ぶほど、自分が誰なのか、日本人というのはなになのか、についての関心も高まっていきました。というより、ぼくたち日本人のなかにある「ネイティブ・アメリカンの人たちとつながる部分」に目を向けなくてはならなくなっていったのです。

同時に「ネイティブ・アメリカンから遠く離れてしまっている自己」とも向き合わねばなりませんでした。あらゆる機会を通じてアメリカ・インディアンとして世界を見る見方を学ぶうちに、自分のなかでさまざまなものが動きはじめました。ぼくたちが現在持っているネイティブの部分と、あらかじめ失ってしまっているネイティブの部分。大地から切り離されていた自分と、大地との関係を修復したがっている自分。地球という太陽系の第三惑星という星で、ネイティブとして生きるとはどういうことなのか? 

結局ぼくは、自分が日本列島になぜ生まれたのか、その理由を深く知るためにこの国土に戻されることになりました。自分のなかのなにがこの大地と、本州と呼ばれる小さくて大きな島とつながっているのかを、ひとりの「インディアン」としてあらためて見直すため、そして学びなおすための作業を続けることになるのです。この学びは誰かに言われてする勉強ではなく、自発的なものですから、終わることはありませんでした。


三〇代から四〇代にかけて、ぼくは日本列島のさまざまなところを見て回り、たくさんの人たちと会いました。学びの旅は終わってはいませんでした。アメリカ・インディアンのもとで学んだ世界の見方で、ぼくは日本列島の上にあるものひとつひとつを見直す作業に没頭したのです。

どうして日本列島の自然はこんな風に無残に姿を変えられて、不自然を自然と思い込むに至ったのか ? 日本列島にいたインディアンはなにをきっかけに日本人となり、土地に世界最高の値段をつけて売り買いするまでに至ったのか ? 根の深いところに焼き込まれてトラウマになっている「差別」はどこから来ているのか ? アイヌの人たちのみならず、日本列島にいたであろうさまざまなネイティブ・ピープル、オリジナルの人たちの痕跡と影を追跡する作業に、ぼくはひたすらのめりこみました。右の人たちとも左の人たちとも、上の人たちとも下の人たちとも、危ない人たちとも危なくない人たちとも会いました。世界の見方のバランスを取りながら、どのようにしてぼくたちが「日本人」になるかわりに地球のネイティブとして生きる道を捨てることになったのかを検証していかなくてはならなかったのです。

同時に、たくさんの歴史について書かれた書籍の森のなかの旅もはじめました。あまりにも古いことなので、日本列島で歴史がはじまったときになにが起こったのかを語ってくれる人はもういませんでした。日本列島にいた最初のオリジナルな人たちが、どのようなプロセスを経て「日本人」になっていったのかを、ぼくは知りたいと考えました。ぼくの魂は、日本列島でなにが起こったのかについてのほんとうのことを知りたがっていました。

アメリカ・インディアンの世界の見方を通してぼくは、地球を全体として眺めると、地球のいろいろなところに大地とつながって生きている最初の人たちがいたことを知ることができました。その人たちは天地創造に際してある種の約束を偉大なる存在と交わしたうえで、それぞれの大地を与えられてそこを守る生き方、すべてのいのちが与えられた役割を満足して送る生き方を選択していました。集金組織としての巨大宗教はいまだひとつも存在せず、人びとはあらためてそれと気がつく必要もなく、一日じゅう信仰のなかで生活していました。そうした時代には便利なものなどあまりありません。

やがて人間にとって便利なものが続々と産み出されて、あるとき、大地から切り離された人間だけが中心だと思い込む時代が訪れてしまいます。世界は便利なものであふれかえり、人間は自然を支配できると考える時代が来て、その結果、母なる地球が瀕死の状態に陥り、人びとが自滅に向かう輪を編み出す頃、最終的に、世界平和をタテマエとした宗教戦争が各地で起こるようになると、人びとが愚かな振る舞いを勝手に至るところで行うようになるでしょう。

そのときはじめて、あらゆる権威が崩壊して混乱した価値のなかで、ぼくたちの魂は地球に生きる人間としてほんとうに大切なものを求めはじめます。

地球を母親として見て、その母親をいたわるように生きてきた人たちがなにを知っていたのか、どういう生き方を後の世代に伝えようとしたのかを知ることは、おそらくこの地球で生き残るために最低限必要なことになるはずです。


五〇代になるとぼくは、自分がそれまでに知り得たことを次の世代とわけあうための方法を模索しはじめました。なぜ「地球に生きる普通の人間」と自らを呼ぶ人たちにこだわり続けるのか。その人たちはなにを知っ ているのか ? なぜ彼らのような生き方がもう一度求められるときがくると信じているのか ?

都市のなかで育つことを初めから求められていた世代にとって『自然のレッスン』が少しだけそこから飛び出る勇気を与え、自然についての新しい視点を提示したように、日本人としての自分のことしか考えられなくなって硬直化しつつある人たちのために、そして未来を生きる世代のために、もう一度地球に生きる普通の人に還るための覚書を残しておくことは意味があるでしょう。

ぼくたちの傷ついた魂の歴史もそこからはじまったのですから。そしてその部分を忘れ去ることで「日本人」になってきたのですから。

「日本人」として生きる生き方と、「地球に生きる人間」としての生き方というふたつの世界の間で、自然なるものにたいするいっさいの偏狭な差別を終わらせてバランスをとる方法を、ぼくたちはこれから発見しなくてはなりません。

この本は、そのときに役に立つはずです。しかし、これはあなたの心のファストフードにはなりえません。インスタントな解決策はなにひとつ書かれていません。もう一度自分は「地球に生きる人間」となると、あらためて心を決めた人のための地球の優しい歩き方について書いてあるからです。オリジナルの人と出会うために、これは自分の足で歩いていくための教則本なのです。


ぼくは聖人でもないし、とりたてて清い心を持っているわけでもありません。これまで生きてくるあいだにたくさんの素晴らしい、スピリチュアルな人たちと出会ってはきましたが、みな生身の人間であり、自らを「聖人」などという人とは会ったことがありませんでした。

世の中には自分を聖人だと思い込んでいる人も、思い込まされてる人もいるようですが、みなちゃんと出会ってみれば背中に羽根がついていることもないし、雲に乗っかっているわけでもなく、雲間から音楽と共に光が当たるような存在ではありませんでした。自分がひとりの地球に生きる人間であることを忘れているだけかもしれませんが、そんな人がもしいたとしたら、きっとあまりの退屈さと窮屈さに「大変ですね」のひと言でもかけてあげたくなると思います。

わたしたちはみな役割を与えられて地球に生かされているにすぎません。若いときは、自分がなにをするためにここに生まれてきたのか知るのはむずかしいことです。この世界で起こっているいろいろなことに興味を持つでしょう。セックスの力に翻弄されそうになる自分を体験することもあるでしょう。セックスの誘惑は時としてその強烈な力で遠くを見る目を曇らせてしまうことがあります。その力は、あなたがそれを使うのにふさわしいと思える相手にだけ使うようにしましょう。セックスの力を意識してコントロールする心の使い方を訓練すれば、その他の大切なことやものをミスすることも減って、地球の旅は豊かになります。


体験しなくてはならないことは山のようにあるのです。なんて辛い人生なんだろうと思えることも多いはずです。しかし、その人生という道の所々で、誰かが、なにかが、あなたを引き留めるような気がすることがあるかもしれない。そういうとき、立ち止まって振り返り、辺りを見まわしてみるようにする。自分のやるべきこととはそうしたなかで出会うものです。

そしてそれを見つけたら、それを、自分の進むべき道をしっかりと見続けて、確信と共に歩いて行くことです。人生はいちどだけなどではありません。ぼくの出会った偉大な存在は、自分は四回目の人生を送っている、と語っていました。過去に生きた記憶を持っている人もいるでしょう。過去生の自分は、今回の人生をより良くするための教えなのです。

やるべき事をやり終えるまで、あなたの旅は続き、魂はこの星にとどまり続けるのです。自分に与えられた特別な時間を無駄に使わないようにしてください。


ぼくは、言葉には羽根のついたものがあり、そうした言葉は風に乗って広まると信じています。ほんとうのことを伝える方法を長いこと模索してきましたが、結局は言葉を使うしかないのです。言葉は旅をし、思考も旅をします。ぼくは羽根を生やした言葉となって風に乗って旅を続けるでしょう。


ひとりの地球で生きる人間であることは、本腰を入れて取り組まなくてはならない勤めです。もしわたしたちに地球を破壊しその息を止められるぐらいの力が与えられているのなら、わたしたちはその生き方を改めることで、母なる地球のいのちを救うこともできるのです。


もういちど、あなたと地球に生きる普通の人として会いましょう。


己丑の年、冬、武蔵野にて    
北山耕平    


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*以前当ブログで太田出版刊の『自然のレッスン』のフライヤー用に感想をよせてくださったみなさんのうち、掲載されたコメントをいただいた方には、『地球のレッスン』をプレゼントとしてお送りします。届くのはおそらく年末になります。プレゼントを受け取った方は、なにとぞもう一冊ご購入の上、誰かにプレゼントしてくださればありがたいです。\(^O^)/

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Friday, July 03, 2009

『アレクサンダー・テクニーク入門』(ビイングネットプレス刊)が増刷されました

Alexander Techniqueアレクサンダー・テクニーク入門
—能力を出しきるからだの使い方(実践講座)

サラ・バーカー(著)
 北山耕平(翻訳)
 片桐ユズル(監修)

単行本:193ページ
出版社:ビイング・ネット・プレス
ISBN−10:4904117166
ISBN−13:978−4904117163

価格:¥ 1,680

『アレクサンダー・テクニーク入門』(ビイングネットプレス刊)というぼくが翻訳した本がこのたび増刷した。地味に売れ続けている本である。70年代の後半をアメリカで過ごしていたとき、体と心と頭に襲いかかるさまざまな問題に対処して生き残るために、無数にあふれていた健康法や癒しの技術のなかで、おそらくぼくが最終的に到達した生きていく上でのヒントを体得させるための本であり、なんとか完成版を翻訳したいと思い続け、2006年にアレクサンダー・テクニークの指導者でもある片桐ユズルさんの協力を得て完全版を仕上げたものだ。

健康を維持するためのアレクサンダー・テクニークは、実際に体験してみるとそれほど難しいものではないのだが、文字によってこれを学ぶとなると話が違って、途端に難解なものになる傾向をもっている。むずかしい理由をぼくなりに考えると、それはこのテクニークが意識と体の両方に働きかけるものであるため、自分の内側で内部分裂のようなものを起こすからではないかと思う。また多くの本が、一度はそのレッスンを受けたことがあることを前提として書かれているという面もある。

しかしアレクサンダー・テクニークはさまざまな面で役に立つことも間違いない。体を自己表現として使う仕事にあるすべての人たち、音楽家、ミュージシャン、歌手、俳優、武道家、舞踏家、ダンサー、歩く人、走る人、歩く人、山を登る人、なんらかの病気を抱えている人などそうした体と意識の関係に進んで分け入る人たちには、この技術は一度マスターできれば生涯にわたって役に立つだろう。健康増進にもなるはず。今では専門書が日本語になってたくさん出ているが、本を読んでこれを学ぶのはことのほかむずかしく、本によっては意図的にむずかしく書いているのではないかと思うこともあるのだが、この本はとにかくなにも知らない人が先入観なしにこの技術をゼロから学べることを目的として書かれていて、ぼくはおすすめする。

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Sunday, July 27, 2008

ぼく自身の著書のための広告●自然のレッスン

自然のレッスン(新装版)

自然のレッスンこの本は
とりあえず今の生活を
もうすこしましな方に
変えたいと考えているひとの
役に立つことを願って
つくられました。



「自然のレッスン」は、あらゆる価値が崩壊して、信じられるものがなくなってしまった時代に、なにを道しるべにして生きればよいのかを、さまざまな知者や賢者からの教えを、いちど自分のなかに取り込んで、それらをあらためて自分の言葉による短い詩あるいは散文として、提示したものです。アメリカ・インディアンの考え方、東洋哲学に基づいた生き方、さまざまな宗教の教え、自然のなかで生きる人たちの叡智、そうしたものがまざりあっています。今もときどき読者の方から「北山さんはこの本に書かれているような生き方をしているのですか?」という質問をもらうことがありますが、ぼくにとってこの本は今もなお自分の生活という人生の旅の旅の仕方を教え続けているものです。大きな輪を描いているぼくのメディスン・ホイールの上の旅はこの本に記されていることを求めて旅に出たときからはじまり、何度も何度もぐるぐると輪を巡りつつ、そのたびにこの本に還るものです。それは出発点であり、目的地でもあります。1986年にニューヨークのプッシュピンスタジオのデザイナーであるシーモア・クアスト(Seymour Chwast)氏が特別にこの本のために描いてくれたカバーイラストを用いた角川書店版が刊行されてから22年、21世紀になって太田出版が、長崎訓子氏の赤いリンゴのイラストをカバーにして、軽便な簡装版を刊行してくれてからでもすでに丸7年が経ちました。この本が、生きることが困難になるこれからも、あらかじめ価値観を奪われたままこの国に生まれ落ちた世代の道しるべになることを、願ってやみません。

    単行本: 190ページ
    出版社: 太田出版; 新装復刻版 (2001/07)
    ISBN-10: 4872335805
    ISBN-13: 978-4872335804
    発売日: 2001/07
    商品の寸法: 18.4 x 11.4 x 1.6 cm

自然のレッスン 第一部 こころのレッスンからの引用

ときどき自分に問いかけてみるとよい
人生についての四つの偉大な質問

一、こんなことをしている自分は幸福(しあわせ)だろうか?

二、自分がいましていることで、余計にものごとがややこしくなりはしないか?

三、平和と満足をもたらすために、自分はなにかやっているだろうか?

四、自分が、どこかに行ってしまうとか、死んでしまうとかで、もしここにいなくなったそのときに、いったいどんなふうにみんなの記憶に残るだろうか?


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Friday, March 07, 2008

『雲のごとくリアルに』(北山耕平著)が本日発売されるので、そのまえがき全文を掲載

news『雲のごとくリアルに −− 長い距離を旅して遠くまで行ってきたある編集者のオデッセイ 青雲編』(ブルース・インターアクションズ刊)が本日発売される。ブルース・インターアクションズ社のサイトには『ビート・ジェネレーション ジャック・ケルアックと旅するニューヨーク』(ビル・モーガン 著 今井栄一 訳)という本と同時発売というお知らせが掲載され、日本のアマゾンでも数日前から予約は可能になっていた。売文の徒にとって、本が形になるのは無上の喜びではあるが、とはいえ印刷される部数の関係で、すべての書店で並べられるとは限らないから、興味のあるかたは、そんなことで書店に文句を言う前に、こういう本を扱ってくれるニュータイプの書店にさっさと行くか、通販書店でご購入ください。:-)

これは、インターネットがまだ想像の範囲にとどまっていた頃、運命的に昭和の御世の帝都 TOKYOで「若者雑誌編集者」という職業に就くことになってしまった有機ワードプロセッサーであるぼくが70年代の前半に目にすることになったイノセントな時代の、若者がかろうじて汚れなき夢を持つことができたおそらく最後の時代の、紙の雑誌の文化が落日の夕日のなかで一瞬きらめくことになる前夜の有様を描いたノンフィクション・ノベル(?)。ここに託されたメッセージがそれを必用としている人たちの手に届き、必用としない人たちの目に触れないことを切に祈るものである。以下はそのまえがきの全文。


ほんとうのことを伝える文体(スタイル)が必要だった


いこと活字の世界を生きてきた。活版印刷の時代が終わる直前に活字の世界に飛び込み、原稿用紙の四角い桝をひとつひとつ手書きの文字で埋めていく作業をあたりまえのように受け入れた昔から、輪転機とインクの香り漂う写植オフセット印刷の時代を経て、デスクトップ・パブリッシングを可能にするパーソナル・コンピュータのワードプロセッサーという道具で個人が活字を自在に操れるようになって、インターネットの網の上でブログの時代がはじまる以前から、活字で自己表現をすることをぼくは生業としてきた。

活字は今もかわることなくぼくを世界とつなげる媒介の働きをしてくれている。音楽少年にとってエレキギターが武器であったように、コンピュータ(とその機能の一部であるワードプロセッサー)は(かつて活字少年だった)ぼくにとっては自己を解放するための武器であり続けている。自分には伝えなくてはならないことがあると、いつのころからか信じ、口から耳へと声で伝えることの大切さに気がついた今でも、映像の力を教えられた今でも、それでも活字をぼくは必要としている。自分がどのようにして活字の世界のなかに足を踏み入れ、その世界のなかで生き延びる方法を獲得してきたのかについて、なんとか次世代に伝えたいものだとかねがね考えてきた。

文字はもともとはそれを読む人間を支配するための道具として発明されたとぼくは考えている。グーテンベルグが活版印刷を発明して以来、これ見よがしに活字にされた文字は、紙に話をさせて人を操るための道具として使われてきた。二十世紀後半に活版印刷の時代が終焉を迎え、タイプライターによって、あるいはパーソナルコンピュータによって活字が個人に解放されると、印刷機から解放された活字の不思議な力もまた特別な人たちのものからすべての人のものへとゆるりと転換された。


がつけば誰もが活字を自己表現の媒介として使えるようになった時代をぼくたちは生きている。手書きの文字が力を得る反面、活字は解放に向かう途上にある。ぼくたちは活字との新しいつきあい方を求められはじめた時代を生きつつある。パーソナルなメディアの時代をだ。そうした時代に活字の世界に求められるのは、活字を操る能力と、活字によって表現されたもの全体を再構成していく編集の能力であることは間違いない。メジャーな古いタイプの雑誌が、大物作家と著名人の名前が目次に並べられた雑誌が、インターネットの時代に押されるように衰退していく直前、パーソナルなメディアを予見させるようにさまざまな「若い雑誌」がいくつか花を咲かせた七十年代に、時代の子としてのぼくは結果的に等身大のメディアを作る作業に悪戦苦闘しつつ没頭していた。

世界が大きな変化にのまれつつあった時代、活字が解放されて個人のものとして利用できるようになる少し前の時代、新しい意識の波に乗り自分たちの世代のことを自分たちの言葉で語る最初のメディアを模索しはじめたぼくたちがどのようにして時代の波に危ういバランスで乗っていたのかを、インターネットで自己表現が解放されて以後を生きる君に話しておきたいと思った。そしてそうした自分のことを語るのにもっとふさわしいスタイルで書こうと考えた。ぼくはこの「雲のごとくリアルに」を「自然発生的散文」と個人的に分類している。別の言葉でいえば、その時の意識の流れにできるだけ正直に逆らわないようにして、一度書くべきことが決まったら句読点や文の切れ目などに気をとられずに一気に書けるだけ書いて言葉を積み上げていく「無作為の散文」というスタイルで、このさながらジャズやロックのインプロビゼーションように現実を取り込む正直な文章のスタイルを創り出したのは、記憶に間違えがなければかのジャック・ケルアックである。

アメリカの七十年代の友人のひとりが「書くことは宇宙とファックすることだ」とぼくに言ったことがある。自然発生的な、書きはじめたら成りゆきに逆らわない散文とは、まさしくそれではないかと思っている。この文章のスタイルはじきにニュージャーナリズムを生み、ゲイ・タリーズ、トム・ウルフ、ハンター・S・トンプソン、ノーマン・メイラーらのジャーナリストや作家らによってノンフィクションと小説の壁に穴があけられ、そこからあふれ出した言葉のスタイルが時をおかずして若き報告者たちによって、リアルなもののあふれる現場に持ち出されて、アメリカではやがてローリング・ストーン誌など新時代の雑誌のライティング・スタイルへと結晶化していく。活字の世界で生きるようになって以来、書くことの快感に引きずられるように、ぼくはさまざまな雑誌メディアで、広告という危険な匂いのするところには用心深く立ち入らないようにしつつ、自分たちの世代の言葉を語る文体を模索してきた。書く人間の意識がどのように文体に載って活字の並びを通して読む人間の頭や心に届いていくのかを、たとえば「自由」や「差別」についてを政治的な文脈ではなく詩のように伝えられる文体を探してきた。


十一世紀になって、再び自分たちの言葉で話そうとするフリーペーパーやインディーズ・パブリッシングやファンジンといったニュータイプの既成概念に囚われない媒体の萌芽も見られる。活字の持つ力を信じる新しい世代が生まれつつあるような印象も受ける。なによりもまず、その世界で生きようとするものは伝えるべきものを獲得し、それを表現する自分たちの、時代を切り開いていくための意識の乗り物としての文体を作りあげなくてはならない。そして時代の息吹を—「今」と「ここ」とを—胸いっぱいに吸い込んでおもいきりハイになり、自分たちが没入できる媒体を誕生させ、そのなかを意識の流れにしたがってキーボードからあふれ出す活字で満たしてやる必要がある。

七十年代というイノセントな時代にぼくたちが産み出そうとしたものが、欲に目をくらませた薄汚れた大人たちの手でゆっくりとその向かう方向を変えられてしまったことは否定できない。しかしそれでもなにかが残された。感性に正直になって自分たちにとってほんとうだと思えることを活字に託して伝える若者らしい行為が、結果としてゴミではないなにかを残すことを、ぼくは信じる。自分たちが自由になるための道具としてデジタルな活字たちを使う日のために、あの時代というものをぼくの頭がどのように感じ取っていたのかを正直な意識の流れで話すことは、けして無駄ではないことのように思える。いくら映像が主流の時代となり、映像しか見ない人たちが増えたとしても、ハートからあふれ出す言葉で自分たちを自由にできなければ、時代を変えることなどできるわけがないのだから。キーボードを叩け。そしてあふれ出す活字で時代を編集してみせてほしい。

ぼくはいまだに正直なメディアの登場を夢見ている。

Real as a Cloud 雲のごとくリアルに
長い距離を旅して遠くまで行ってきた
ある編集者のオデッセイ 青雲編

著者: 北山耕平
ブックデザイン: 加藤雄一
価格: ¥ 1,680 (税込)
出版社: ブルース・インターアクションズ
ハードカバー: 200ページ
ISBN-10: 486020266X
ISBN-13: 978-4860202668
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Wednesday, September 12, 2007

その心に辺境はまだ残っているか?

『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版刊)のあとがき

Native America & Native Japaneseアメリカ・インディアンのことを知れば知るほど「日本人」はいったいなんなのだという思いが強くなる。ぼくたちは日本列島に日本人として生まれてくるのではなく、人間として生まれて日本人になるように教育されて育つのではないのかと。アメリカ・インディアンの人たちから見ると、ぼくらは限りなくインディアンに近い存在だ。とくに北米大陸南西部や、北西部太平洋沿岸などには、自分の親戚だと紹介しても違和感のない容姿や雰囲気の人たちがたくさんいる。にもかかわらず、存在の仕方において、ぼくたちはアメリカ・インディアンの人たちとはなにかが決定的にちがっているようだ。どうやらぼくらは人間として地球に生きるために必要ななにかを、日本人になることとひき換えに失ってしまったらしい。

この本は、あらかじめ失っていたものを取り戻そうとする試みとして、二〇〇四年から書き綴りはじめた自分の精神世界の航海日誌から「日本人と日本と地球に生きる人」について考察した小文や詩文を選び、新たに書き下ろしをくわえて構成した。この本が形になるにさいして力を貸していただいた気鋭のデザイナー峯崎ノリテル氏と太田出版編集者の村上清氏のおふたり、そして小生のブログを支援してくださった多くの方々に深くお礼を申しあげる。


二〇〇七年 夏至の日 北山耕平

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Wednesday, June 27, 2007

インディアンは笑うという本のまえがき

Revised Friday, June 29, 2007

pawすでに何度かお伝えしたが『インディアンは笑う』という本が28日に世に出る。これはぼくにとっては思い入れの強い本である。ネイティブ・アメリカン・ジョーク・コレクションとして同名のカテゴリーで当ブログに2004年から今年の3月までに掲載されてきたものを一冊にまとめたものだ。ブログでは今もときどきネイティブの人たちのジョークや笑い話を新たにアップしているし、それは今後も可能な限り続けていくつもりでいる。ぼくはネイティブの人たちの世界に足を踏み入れて以来、彼らの笑いやユーモアをきわめて大切なものだと考えて、このブログにも特別にひとつのカテゴリーをもうけてきた。以下の小文は、この28日に世に出る書籍版の『インディアンは笑う』(マーブルブックス)の前書きとしてぼくが書いた文章である。願わくばこの書が、心ある人の手に渡らんことを。また本書を手にされてのちの感想などこの記事へのコメントでお聞かせ願えればこれほど嬉しいことはない。

「歌うことと笑うこととを知るものは、いかなる困難にもくじけない」
——イグルーク・エスキモーの人たちの言い伝え

アメリカ・インディアンの人たちのことをいつも押し黙って表情ひとつ変えないストイックな人たちと考えている人がことのほか多い。でも実際は全く異なる。本書のどのページでも開いて一読されれば、そうしたものが作り話であることがよくわかる。

実際のところ、彼らは、恥ずかしがりではあるものの、仲間たちでいるときには——というよりは、その場に白人(アングロサクソン系アメリカ人)がいないときには——実によく笑う人たちだ。くだらないことを言ってはみんなで腹を抱えて笑いあう。それも何度も何度も。

彼らはそうやって笑うことで、笑いを共有しあうことで、あらゆる価値観をひっくり返してしまう。困難や悲劇、貧乏や、差別や、迫害や、嘲笑など、なにもかも一切の否定的なエネルギーともども世界をさながら笑うことで絨毯のように巻きあげてしまうのだ。

笑いによって巻きあげられた絨毯の下には、彼らに言わせれば、まだ文明によって汚されていない手つかずの自然とバッファローたちが群れをなして駆けめぐるインディアンの天国が広がっていることになっている。

笑いは彼らに残されたおそらく最後の武器でもあるのだろう。彼らの精神生活のなかに絶対に欠かせないもののひとつが、笑いである。

笑いは、彼らだけでなく、おそらくすべての人たちにとって現実の不条理を乗り越えるエネルギー源であり、厳しい自然や、社会によって押しつけられてくる貧しさなどをものともしない心の状態と、それらが不可分の関係にあることを、ネイティブ・アメリカンの人たちはよく知っている。

地球に生きるひとりの人間という「心と頭の状態」をなによりも大切にする価値観において、「自分がひとりの人間である」ということは、つまるところ「自分がひとりの、時には弱さをもあわせもつ存在であること」を知っていることでもある。つまり、われわれは誰もが「神のような存在」などではなく、必ずどこかに弱いところがあり、その弱さが時としてわたしたちを馬鹿げた行動に走らせるのである。

ひとりの人として地球に生きるためには、われわれは誰もが自分の愚かさについて再認識しなくてはならず、従って当然のように「笑いやユーモアは地球に生きる人たちの生き方、彼らが聖なる道と呼ぶもの」の中にしっかりと組み込まれている。

そういう理由があって、アメリカ・インディアンや地球に生きる先住民といわれる人たちの部族には、必ず一族のなかに、その「愚かさ」を人々の面前で行動で示してみせる道化の役割を持つ人間がいるのだ。この人たちは冗談のような生活をまともに演じてみせる人たちであり、彼らは「聖なる道化」として、笑いやユーモアが神聖なものであることを全身全霊で教えてくれる。

Native jokes

インディアの人たちのジョークは、日常のどうってことのないものが、ある瞬間にきわめて「神聖なもの」に転化することを教えている。誰も考えていなかったような「冗談の落ち」は、聖なる体験として人間の意識に働きかけるのだ。とてつもなく不幸な出来事に襲われたり、悲劇の現場にいざるを得ないときに、そうした現実を巻きあげるために笑いの力を用いるのは、地球に生きるネイティブの人たちに共通する技術のひとつであると思う。

同時にまた、アメリカ・インディアンの人たちがなにを笑っているのかを知ることは、彼らの置かれた現実を知ることでもあるだろう。言うまでもなくもちろんユーモアやジョークは人間生活の基本のひとつだが、とくにネイティブ・アメリカンの人たちにとってそれは絶対になくてはならないもののひとつであり、それが世界をひっくり返す力をいまだに失っていないということからも、おおいに注目に値する。

厳しい現実を目の当たりにしているすべての人に本書を捧げる。

Amazon.co.jpRakuten BooksBK1『インディアンは笑う』あなたの厳しい現実もひっくり返す、ネイティブ・アメリカンの聖なるジョーク! 北山耕平編・構成。世界で初めて編纂されたネイティブ・アメリカン・ジョーク集。いかなる困難にもくじけない笑いとは? マーブルトロン発行 中央公論新社発売 ブックデザイン グルーヴィジョンズ。定価1600円+税

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Wednesday, July 05, 2006

ハワイィはどこにあるのだろう?

日々是布哇1980年代に、ハワイに長いこと滞在したことがある。それ以前にぼくはアメリカ大陸のなかをいろいろと放浪して回っていたが、ハワイだけは足を踏み入れたことはなかった。アメリカに渡るときも、帰るときも直行便を使うようにしていたし、ハワイというところにいけば必ず好きになることがわかっていたから、ゆっくりと時間がとれるまでそこに行きたくはなかったのだ。はたせるかなそれ以来ぼくはハワイのことが忘れられなくなってしまった。

ハワイの各島を巡り歩き、いにしえのポリネシアの人たち(海の人になったモンゴロイド)の信仰などを確かめるうちに、環太平洋的にある種の信念体系のようなものが広まっていた時代があるのではないかと思うようになった。南北アメリカ大陸も、アラスカも、カムチャツカも、千島列島も、日本列島も、アイヌモシリも、太平洋諸島も、ミクロネシアの島々も、インドネシアの無数の島も、フィリピン群島も、花の島である台湾島も、オーストラリアやニュージーランドになっているところも、全部が同じようでいて少しずつ異なる文化を花開かせていた前の時代(歴史以前のもうひとつの世界)があったと、今では考えている。ぼくが強く心惹かれるのはどこに行ってもその「前の世界」へ続く古く細い道であった。

今回『日々是布哇(ヒビコレはわい)』という本を太田出版から上梓した。ひとりのハワイ島で暮らすネイティブ・アメリカンの血とスピリットを受け継いだ女性が、ハワイで暮らすということとはどういうことかを、土地のスピリットとつながる黙想のなかで紡ぎ出した不思議な力(メディスン・パワー)のある言葉の本である。急ぎ足の観光旅行では見つけることができないもうひとつのハワイのなかへ旅をしたり、今自分のいる場所を「ハワイ」というよりより正しい呼び名で「ハワイィ」とされる場所に変えてしまいたいと望む人の手に渡ることを願う。

日々是布哇本文頁実際にハワイに行く前に読み、ハワイに滞在している間に読み、ハワイから帰ってきてから読み、毎日少しずつ自分の心の状態をハワイィにしていってください。これらの366の心に働きかけるタペストリーのような言葉を長い時間かけて編み出したデブラ・サンダースさんと、ひとつずつそれにふさわしい図案(左図クリックで少しだけ拡大)を描いてくれたイラストレイターの長崎訓子さん、そして持ち運ぶのに絶妙な重さの本をデザインしてくれた新進デザイナーの有山達也さんには感謝の言葉もない。これを読んだ人の心が少しだけ幸せに近づけるのなら、この本は役目を全うしたことになる。

以下に掲載するのは同書の前書きそのまま全文である。

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Monday, June 26, 2006

「パワー・オブ・ストーン」の後書き

Power of Stone今日掲載するのは、今月の上旬に荒地出版社から刊行された小生の本『パワー・オブ・ストーン—石の力と力の石』のあとがきの全文である。もともとこの本の母体となったものは、以前に新人物往来社という出版社から出ていた精神世界を扱う雑誌『AZ』のために書いたもので、パワー・ストーンのブームなどもあって、これまでに同社が刊行するムックなどに多くの部分が再録されるなどしてきた。今回、最初の時に収録されただけで以後収録されることのなかった「ストーリーテリング・ストーン(話をする石)」というセネカ・インディアンに伝えられた民話を収め、さらに一章を新たに書き加えるなどし、刊行することができた。石に対する信仰は、世界各地のネイティブ・ピープルに共通してみられるもので、その残りかすはぼくたちの中にもかろうじてある。石に対する思いはわれわれの内側に宿っている。あなたは旅先で気になって仕方のない石を見つけたことがないだろうか? あるいは巨大な石の前で、またはそのうえで長いこと座って過ごした経験はないだろうか? この本は無意識に石とのつながりを求める精神のための書である。どこかに自分を待っている石があると感じている人におすすめ。それでは、『パワー・オブ・ストーン—石の力と力の石』のあとがきを「つづき」でどうぞ。

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Wednesday, May 24, 2006

新しい本ができました。石の本です。

powerofstone小生の新刊が刊行されました。これまで雑誌などに発表した「石」についての原稿をまとめて改めて手を入れ、さらに一部を書き加えたものです。新しい「石器時代」——シリコンを用いたマイクロチップとウラニウムに象徴される石の時代——を生きている人たちのための本になることを願って本にしました。

自分のこれまでの経験からして、こういう本は、書店などではどこに置かれるかわかりません。でもほかのタイトルを付けようがなかったぐらいに石のことばかり書いたものをまとめました。ある意味で書店の意識のあり方がはっきり示される書籍だと言えるでしょう。自分としては、これまで出してきたネイティブ・ピープルの本の系譜のうえにあると位置づけているのですが。

POWER OF STONE
パワー・オブ・ストーン  石の力と力の石

北山耕平著 荒地出版社刊
装幀 山田孝之+象
ISBN4-7521-0139-4
定価 本体1400円+税


目次

話をする石
 ストーリー・テリング・ストーン
  セネカ・インディアンが語り継いだ物語

石に触れる
  石の時代は終わらない
    石文明と石を溶かす文明の危うい攻防
  自分の石を見つける
    自分の石を見つけるための10の規則

石のように考える
  だから石は生きている
    石の信仰とわれわれの未来についての大切な覚書
  ストーン・ピープル
    石の人
  シャーマンと石
    この世界で一番年寄りの石
  石の力の輪
    メディスン・ホィール考
  石は人類の四〇〇万年をどう見るか?
  石よりほかに楽しみなし
    木内石亭小伝
 『雲根志』を読む
    木内小繁の「石の書」

石の知恵
  石 の意志
   内へ向かう力、外へ向かう力
  パワー・ストーンかストーン・パワーか

あとがき
   ストーン・ボーイから君へ

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Friday, November 18, 2005

アメリカ・インディアンのことわざの本のあとがき

そこでわれわれが出会えますように 北山耕平

「世界のあらゆる人種は、大平原に咲きほこる色とりどりの花のようなものだ」あるアメリカ・インディアンの長老にいわれたことがあります。「なかには黒い花だってある。そしてそこに咲く花はひとつ残らずどれも美しいのだ」と。地球に生きる人たちの文化は、聞くことと見ることと覚えることと分けあうことでとぎれることなく長い間伝えられてきました。二十代後半の時にアメリカ・インディアンの世界に足を踏み入れ、何事にもほどほどとバランスを求める色とりどりの文化を観察するなか、わたしはそこで自分が学ぶことは、自分の生まれ育った土地において多くの人たちと分けあうことで役に立つに違いないと確信したのです。あれからすでに三十年近くが経とうとしています。言葉に精神を注ぎ込むことを技として大切にするアメリカ・インディアンの目には見えにくい文化を日本の次の世代に伝えるという自分が歩いてきた道も、ことわざという形で彼らの伝統的なの教えを伝える本を作れたことで、ようやくひとつの峠にたどりついたと言えるでしょう。真実を明確に伝える方法としてのことわざの役割が広く再認識されてくれるとよいのですが。ネイティブ・アメリカンの言葉については、翻訳するものの精神性が常に問われます。自分はこの言葉を翻訳できるだけのスピリットを内側に育てているだろうか? それだけの準備がおまえにはあるのか? 常にそうした声が心の奥からわきあがってきます。できるだけ正直にそれぞれの言葉の意味するところが伝わるような日本語になることを願いつつ、ひとつひとつの言葉を日本語にしました。これらの言葉があなたに歩くべき道を指し示し、より大きなヴィジョンと理解のなかでわれわれが出会えることを祈ります。

kotowazabookcovers月に映すあなたの一日
—ネイティブ・アメリカンの364のことわざが示す今日を生きる指針

北山 耕平 (編纂と翻訳)

新書: サイズ(cm): 17
出版社: マーブルトロン
ISBN: 4123901069

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