Friday, March 07, 2008

『雲のごとくリアルに』(北山耕平著)が本日発売されるので、そのまえがき全文を掲載

news『雲のごとくリアルに −− 長い距離を旅して遠くまで行ってきたある編集者のオデッセイ 青雲編』(ブルース・インターアクションズ刊)が本日発売される。ブルース・インターアクションズ社のサイトには『ビート・ジェネレーション ジャック・ケルアックと旅するニューヨーク』(ビル・モーガン 著 今井栄一 訳)という本と同時発売というお知らせが掲載され、日本のアマゾンでも数日前から予約は可能になっていた。売文の徒にとって、本が形になるのは無上の喜びではあるが、とはいえ印刷される部数の関係で、すべての書店で並べられるとは限らないから、興味のあるかたは、そんなことで書店に文句を言う前に、こういう本を扱ってくれるニュータイプの書店にさっさと行くか、通販書店でご購入ください。:-)

これは、インターネットがまだ想像の範囲にとどまっていた頃、運命的に昭和の御世の帝都 TOKYOで「若者雑誌編集者」という職業に就くことになってしまった有機ワードプロセッサーであるぼくが70年代の前半に目にすることになったイノセントな時代の、若者がかろうじて汚れなき夢を持つことができたおそらく最後の時代の、紙の雑誌の文化が落日の夕日のなかで一瞬きらめくことになる前夜の有様を描いたノンフィクション・ノベル(?)。ここに託されたメッセージがそれを必用としている人たちの手に届き、必用としない人たちの目に触れないことを切に祈るものである。以下はそのまえがきの全文。


ほんとうのことを伝える文体(スタイル)が必要だった


いこと活字の世界を生きてきた。活版印刷の時代が終わる直前に活字の世界に飛び込み、原稿用紙の四角い桝をひとつひとつ手書きの文字で埋めていく作業をあたりまえのように受け入れた昔から、輪転機とインクの香り漂う写植オフセット印刷の時代を経て、デスクトップ・パブリッシングを可能にするパーソナル・コンピュータのワードプロセッサーという道具で個人が活字を自在に操れるようになって、インターネットの網の上でブログの時代がはじまる以前から、活字で自己表現をすることをぼくは生業としてきた。

活字は今もかわることなくぼくを世界とつなげる媒介の働きをしてくれている。音楽少年にとってエレキギターが武器であったように、コンピュータ(とその機能の一部であるワードプロセッサー)は(かつて活字少年だった)ぼくにとっては自己を解放するための武器であり続けている。自分には伝えなくてはならないことがあると、いつのころからか信じ、口から耳へと声で伝えることの大切さに気がついた今でも、映像の力を教えられた今でも、それでも活字をぼくは必要としている。自分がどのようにして活字の世界のなかに足を踏み入れ、その世界のなかで生き延びる方法を獲得してきたのかについて、なんとか次世代に伝えたいものだとかねがね考えてきた。

文字はもともとはそれを読む人間を支配するための道具として発明されたとぼくは考えている。グーテンベルグが活版印刷を発明して以来、これ見よがしに活字にされた文字は、紙に話をさせて人を操るための道具として使われてきた。二十世紀後半に活版印刷の時代が終焉を迎え、タイプライターによって、あるいはパーソナルコンピュータによって活字が個人に解放されると、印刷機から解放された活字の不思議な力もまた特別な人たちのものからすべての人のものへとゆるりと転換された。


がつけば誰もが活字を自己表現の媒介として使えるようになった時代をぼくたちは生きている。手書きの文字が力を得る反面、活字は解放に向かう途上にある。ぼくたちは活字との新しいつきあい方を求められはじめた時代を生きつつある。パーソナルなメディアの時代をだ。そうした時代に活字の世界に求められるのは、活字を操る能力と、活字によって表現されたもの全体を再構成していく編集の能力であることは間違いない。メジャーな古いタイプの雑誌が、大物作家と著名人の名前が目次に並べられた雑誌が、インターネットの時代に押されるように衰退していく直前、パーソナルなメディアを予見させるようにさまざまな「若い雑誌」がいくつか花を咲かせた七十年代に、時代の子としてのぼくは結果的に等身大のメディアを作る作業に悪戦苦闘しつつ没頭していた。

世界が大きな変化にのまれつつあった時代、活字が解放されて個人のものとして利用できるようになる少し前の時代、新しい意識の波に乗り自分たちの世代のことを自分たちの言葉で語る最初のメディアを模索しはじめたぼくたちがどのようにして時代の波に危ういバランスで乗っていたのかを、インターネットで自己表現が解放されて以後を生きる君に話しておきたいと思った。そしてそうした自分のことを語るのにもっとふさわしいスタイルで書こうと考えた。ぼくはこの「雲のごとくリアルに」を「自然発生的散文」と個人的に分類している。別の言葉でいえば、その時の意識の流れにできるだけ正直に逆らわないようにして、一度書くべきことが決まったら句読点や文の切れ目などに気をとられずに一気に書けるだけ書いて言葉を積み上げていく「無作為の散文」というスタイルで、このさながらジャズやロックのインプロビゼーションように現実を取り込む正直な文章のスタイルを創り出したのは、記憶に間違えがなければかのジャック・ケルアックである。

アメリカの七十年代の友人のひとりが「書くことは宇宙とファックすることだ」とぼくに言ったことがある。自然発生的な、書きはじめたら成りゆきに逆らわない散文とは、まさしくそれではないかと思っている。この文章のスタイルはじきにニュージャーナリズムを生み、ゲイ・タリーズ、トム・ウルフ、ハンター・S・トンプソン、ノーマン・メイラーらのジャーナリストや作家らによってノンフィクションと小説の壁に穴があけられ、そこからあふれ出した言葉のスタイルが時をおかずして若き報告者たちによって、リアルなもののあふれる現場に持ち出されて、アメリカではやがてローリング・ストーン誌など新時代の雑誌のライティング・スタイルへと結晶化していく。活字の世界で生きるようになって以来、書くことの快感に引きずられるように、ぼくはさまざまな雑誌メディアで、広告という危険な匂いのするところには用心深く立ち入らないようにしつつ、自分たちの世代の言葉を語る文体を模索してきた。書く人間の意識がどのように文体に載って活字の並びを通して読む人間の頭や心に届いていくのかを、たとえば「自由」や「差別」についてを政治的な文脈ではなく詩のように伝えられる文体を探してきた。


十一世紀になって、再び自分たちの言葉で話そうとするフリーペーパーやインディーズ・パブリッシングやファンジンといったニュータイプの既成概念に囚われない媒体の萌芽も見られる。活字の持つ力を信じる新しい世代が生まれつつあるような印象も受ける。なによりもまず、その世界で生きようとするものは伝えるべきものを獲得し、それを表現する自分たちの、時代を切り開いていくための意識の乗り物としての文体を作りあげなくてはならない。そして時代の息吹を—「今」と「ここ」とを—胸いっぱいに吸い込んでおもいきりハイになり、自分たちが没入できる媒体を誕生させ、そのなかを意識の流れにしたがってキーボードからあふれ出す活字で満たしてやる必要がある。

七十年代というイノセントな時代にぼくたちが産み出そうとしたものが、欲に目をくらませた薄汚れた大人たちの手でゆっくりとその向かう方向を変えられてしまったことは否定できない。しかしそれでもなにかが残された。感性に正直になって自分たちにとってほんとうだと思えることを活字に託して伝える若者らしい行為が、結果としてゴミではないなにかを残すことを、ぼくは信じる。自分たちが自由になるための道具としてデジタルな活字たちを使う日のために、あの時代というものをぼくの頭がどのように感じ取っていたのかを正直な意識の流れで話すことは、けして無駄ではないことのように思える。いくら映像が主流の時代となり、映像しか見ない人たちが増えたとしても、ハートからあふれ出す言葉で自分たちを自由にできなければ、時代を変えることなどできるわけがないのだから。キーボードを叩け。そしてあふれ出す活字で時代を編集してみせてほしい。

ぼくはいまだに正直なメディアの登場を夢見ている。

Real as a Cloud 雲のごとくリアルに
長い距離を旅して遠くまで行ってきた
ある編集者のオデッセイ 青雲編

著者: 北山耕平
ブックデザイン: 加藤雄一
価格: ¥ 1,680 (税込)
出版社: ブルース・インターアクションズ
ハードカバー: 200ページ
ISBN-10: 486020266X
ISBN-13: 978-4860202668
 going to amazon.co.jp

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, September 12, 2007

その心に辺境はまだ残っているか?

『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版刊)のあとがき

Native America & Native Japaneseアメリカ・インディアンのことを知れば知るほど「日本人」はいったいなんなのだという思いが強くなる。ぼくたちは日本列島に日本人として生まれてくるのではなく、人間として生まれて日本人になるように教育されて育つのではないのかと。アメリカ・インディアンの人たちから見ると、ぼくらは限りなくインディアンに近い存在だ。とくに北米大陸南西部や、北西部太平洋沿岸などには、自分の親戚だと紹介しても違和感のない容姿や雰囲気の人たちがたくさんいる。にもかかわらず、存在の仕方において、ぼくたちはアメリカ・インディアンの人たちとはなにかが決定的にちがっているようだ。どうやらぼくらは人間として地球に生きるために必要ななにかを、日本人になることとひき換えに失ってしまったらしい。

この本は、あらかじめ失っていたものを取り戻そうとする試みとして、二〇〇四年から書き綴りはじめた自分の精神世界の航海日誌から「日本人と日本と地球に生きる人」について考察した小文や詩文を選び、新たに書き下ろしをくわえて構成した。この本が形になるにさいして力を貸していただいた気鋭のデザイナー峯崎ノリテル氏と太田出版編集者の村上清氏のおふたり、そして小生のブログを支援してくださった多くの方々に深くお礼を申しあげる。


二〇〇七年 夏至の日 北山耕平

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, June 27, 2007

インディアンは笑うという本のまえがき

Revised Friday, June 29, 2007

pawすでに何度かお伝えしたが『インディアンは笑う』という本が28日に世に出る。これはぼくにとっては思い入れの強い本である。ネイティブ・アメリカン・ジョーク・コレクションとして同名のカテゴリーで当ブログに2004年から今年の3月までに掲載されてきたものを一冊にまとめたものだ。ブログでは今もときどきネイティブの人たちのジョークや笑い話を新たにアップしているし、それは今後も可能な限り続けていくつもりでいる。ぼくはネイティブの人たちの世界に足を踏み入れて以来、彼らの笑いやユーモアをきわめて大切なものだと考えて、このブログにも特別にひとつのカテゴリーをもうけてきた。以下の小文は、この28日に世に出る書籍版の『インディアンは笑う』(マーブルブックス)の前書きとしてぼくが書いた文章である。願わくばこの書が、心ある人の手に渡らんことを。また本書を手にされてのちの感想などこの記事へのコメントでお聞かせ願えればこれほど嬉しいことはない。

「歌うことと笑うこととを知るものは、いかなる困難にもくじけない」
——イグルーク・エスキモーの人たちの言い伝え

アメリカ・インディアンの人たちのことをいつも押し黙って表情ひとつ変えないストイックな人たちと考えている人がことのほか多い。でも実際は全く異なる。本書のどのページでも開いて一読されれば、そうしたものが作り話であることがよくわかる。

実際のところ、彼らは、恥ずかしがりではあるものの、仲間たちでいるときには——というよりは、その場に白人(アングロサクソン系アメリカ人)がいないときには——実によく笑う人たちだ。くだらないことを言ってはみんなで腹を抱えて笑いあう。それも何度も何度も。

彼らはそうやって笑うことで、笑いを共有しあうことで、あらゆる価値観をひっくり返してしまう。困難や悲劇、貧乏や、差別や、迫害や、嘲笑など、なにもかも一切の否定的なエネルギーともども世界をさながら笑うことで絨毯のように巻きあげてしまうのだ。

笑いによって巻きあげられた絨毯の下には、彼らに言わせれば、まだ文明によって汚されていない手つかずの自然とバッファローたちが群れをなして駆けめぐるインディアンの天国が広がっていることになっている。

笑いは彼らに残されたおそらく最後の武器でもあるのだろう。彼らの精神生活のなかに絶対に欠かせないもののひとつが、笑いである。

笑いは、彼らだけでなく、おそらくすべての人たちにとって現実の不条理を乗り越えるエネルギー源であり、厳しい自然や、社会によって押しつけられてくる貧しさなどをものともしない心の状態と、それらが不可分の関係にあることを、ネイティブ・アメリカンの人たちはよく知っている。

地球に生きるひとりの人間という「心と頭の状態」をなによりも大切にする価値観において、「自分がひとりの人間である」ということは、つまるところ「自分がひとりの、時には弱さをもあわせもつ存在であること」を知っていることでもある。つまり、われわれは誰もが「神のような存在」などではなく、必ずどこかに弱いところがあり、その弱さが時としてわたしたちを馬鹿げた行動に走らせるのである。

ひとりの人として地球に生きるためには、われわれは誰もが自分の愚かさについて再認識しなくてはならず、従って当然のように「笑いやユーモアは地球に生きる人たちの生き方、彼らが聖なる道と呼ぶもの」の中にしっかりと組み込まれている。

そういう理由があって、アメリカ・インディアンや地球に生きる先住民といわれる人たちの部族には、必ず一族のなかに、その「愚かさ」を人々の面前で行動で示してみせる道化の役割を持つ人間がいるのだ。この人たちは冗談のような生活をまともに演じてみせる人たちであり、彼らは「聖なる道化」として、笑いやユーモアが神聖なものであることを全身全霊で教えてくれる。

Native jokes

インディアの人たちのジョークは、日常のどうってことのないものが、ある瞬間にきわめて「神聖なもの」に転化することを教えている。誰も考えていなかったような「冗談の落ち」は、聖なる体験として人間の意識に働きかけるのだ。とてつもなく不幸な出来事に襲われたり、悲劇の現場にいざるを得ないときに、そうした現実を巻きあげるために笑いの力を用いるのは、地球に生きるネイティブの人たちに共通する技術のひとつであると思う。

同時にまた、アメリカ・インディアンの人たちがなにを笑っているのかを知ることは、彼らの置かれた現実を知ることでもあるだろう。言うまでもなくもちろんユーモアやジョークは人間生活の基本のひとつだが、とくにネイティブ・アメリカンの人たちにとってそれは絶対になくてはならないもののひとつであり、それが世界をひっくり返す力をいまだに失っていないということからも、おおいに注目に値する。

厳しい現実を目の当たりにしているすべての人に本書を捧げる。

Amazon.co.jpRakuten BooksBK1『インディアンは笑う』あなたの厳しい現実もひっくり返す、ネイティブ・アメリカンの聖なるジョーク! 北山耕平編・構成。世界で初めて編纂されたネイティブ・アメリカン・ジョーク集。いかなる困難にもくじけない笑いとは? マーブルトロン発行 中央公論新社発売 ブックデザイン グルーヴィジョンズ。定価1600円+税

| | Comments (5) | TrackBack (1)

Wednesday, July 05, 2006

ハワイィはどこにあるのだろう?

日々是布哇1980年代に、ハワイに長いこと滞在したことがある。それ以前にぼくはアメリカ大陸のなかをいろいろと放浪して回っていたが、ハワイだけは足を踏み入れたことはなかった。アメリカに渡るときも、帰るときも直行便を使うようにしていたし、ハワイというところにいけば必ず好きになることがわかっていたから、ゆっくりと時間がとれるまでそこに行きたくはなかったのだ。はたせるかなそれ以来ぼくはハワイのことが忘れられなくなってしまった。

ハワイの各島を巡り歩き、いにしえのポリネシアの人たち(海の人になったモンゴロイド)の信仰などを確かめるうちに、環太平洋的にある種の信念体系のようなものが広まっていた時代があるのではないかと思うようになった。南北アメリカ大陸も、アラスカも、カムチャツカも、千島列島も、日本列島も、アイヌモシリも、太平洋諸島も、ミクロネシアの島々も、インドネシアの無数の島も、フィリピン群島も、花の島である台湾島も、オーストラリアやニュージーランドになっているところも、全部が同じようでいて少しずつ異なる文化を花開かせていた前の時代(歴史以前のもうひとつの世界)があったと、今では考えている。ぼくが強く心惹かれるのはどこに行ってもその「前の世界」へ続く古く細い道であった。

今回『日々是布哇(ヒビコレはわい)』という本を太田出版から上梓した。ひとりのハワイ島で暮らすネイティブ・アメリカンの血とスピリットを受け継いだ女性が、ハワイで暮らすということとはどういうことかを、土地のスピリットとつながる黙想のなかで紡ぎ出した不思議な力(メディスン・パワー)のある言葉の本である。急ぎ足の観光旅行では見つけることができないもうひとつのハワイのなかへ旅をしたり、今自分のいる場所を「ハワイ」というよりより正しい呼び名で「ハワイィ」とされる場所に変えてしまいたいと望む人の手に渡ることを願う。

日々是布哇本文頁実際にハワイに行く前に読み、ハワイに滞在している間に読み、ハワイから帰ってきてから読み、毎日少しずつ自分の心の状態をハワイィにしていってください。これらの366の心に働きかけるタペストリーのような言葉を長い時間かけて編み出したデブラ・サンダースさんと、ひとつずつそれにふさわしい図案(左図クリックで少しだけ拡大)を描いてくれたイラストレイターの長崎訓子さん、そして持ち運ぶのに絶妙な重さの本をデザインしてくれた新進デザイナーの有山達也さんには感謝の言葉もない。これを読んだ人の心が少しだけ幸せに近づけるのなら、この本は役目を全うしたことになる。

以下に掲載するのは同書の前書きそのまま全文である。

Continue reading "ハワイィはどこにあるのだろう?"

| | Comments (5) | TrackBack (1)

Monday, June 26, 2006

「パワー・オブ・ストーン」の後書き

Power of Stone今日掲載するのは、今月の上旬に荒地出版社から刊行された小生の本『パワー・オブ・ストーン—石の力と力の石』のあとがきの全文である。もともとこの本の母体となったものは、以前に新人物往来社という出版社から出ていた精神世界を扱う雑誌『AZ』のために書いたもので、パワー・ストーンのブームなどもあって、これまでに同社が刊行するムックなどに多くの部分が再録されるなどしてきた。今回、最初の時に収録されただけで以後収録されることのなかった「ストーリーテリング・ストーン(話をする石)」というセネカ・インディアンに伝えられた民話を収め、さらに一章を新たに書き加えるなどし、刊行することができた。石に対する信仰は、世界各地のネイティブ・ピープルに共通してみられるもので、その残りかすはぼくたちの中にもかろうじてある。石に対する思いはわれわれの内側に宿っている。あなたは旅先で気になって仕方のない石を見つけたことがないだろうか? あるいは巨大な石の前で、またはそのうえで長いこと座って過ごした経験はないだろうか? この本は無意識に石とのつながりを求める精神のための書である。どこかに自分を待っている石があると感じている人におすすめ。それでは、『パワー・オブ・ストーン—石の力と力の石』のあとがきを「つづき」でどうぞ。

Continue reading "「パワー・オブ・ストーン」の後書き"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, May 24, 2006

新しい本ができました。石の本です。

powerofstone小生の新刊が刊行されました。これまで雑誌などに発表した「石」についての原稿をまとめて改めて手を入れ、さらに一部を書き加えたものです。新しい「石器時代」——シリコンを用いたマイクロチップとウラニウムに象徴される石の時代——を生きている人たちのための本になることを願って本にしました。

自分のこれまでの経験からして、こういう本は、書店などではどこに置かれるかわかりません。でもほかのタイトルを付けようがなかったぐらいに石のことばかり書いたものをまとめました。ある意味で書店の意識のあり方がはっきり示される書籍だと言えるでしょう。自分としては、これまで出してきたネイティブ・ピープルの本の系譜のうえにあると位置づけているのですが。

POWER OF STONE
パワー・オブ・ストーン  石の力と力の石

北山耕平著 荒地出版社刊
装幀 山田孝之+象
ISBN4-7521-0139-4
定価 本体1400円+税


目次

話をする石
 ストーリー・テリング・ストーン
  セネカ・インディアンが語り継いだ物語

石に触れる
  石の時代は終わらない
    石文明と石を溶かす文明の危うい攻防
  自分の石を見つける
    自分の石を見つけるための10の規則

石のように考える
  だから石は生きている
    石の信仰とわれわれの未来についての大切な覚書
  ストーン・ピープル
    石の人
  シャーマンと石
    この世界で一番年寄りの石
  石の力の輪
    メディスン・ホィール考
  石は人類の四〇〇万年をどう見るか?
  石よりほかに楽しみなし
    木内石亭小伝
 『雲根志』を読む
    木内小繁の「石の書」

石の知恵
  石 の意志
   内へ向かう力、外へ向かう力
  パワー・ストーンかストーン・パワーか

あとがき
   ストーン・ボーイから君へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

Friday, November 18, 2005

アメリカ・インディアンのことわざの本のあとがき

そこでわれわれが出会えますように 北山耕平

「世界のあらゆる人種は、大平原に咲きほこる色とりどりの花のようなものだ」あるアメリカ・インディアンの長老にいわれたことがあります。「なかには黒い花だってある。そしてそこに咲く花はひとつ残らずどれも美しいのだ」と。地球に生きる人たちの文化は、聞くことと見ることと覚えることと分けあうことでとぎれることなく長い間伝えられてきました。二十代後半の時にアメリカ・インディアンの世界に足を踏み入れ、何事にもほどほどとバランスを求める色とりどりの文化を観察するなか、わたしはそこで自分が学ぶことは、自分の生まれ育った土地において多くの人たちと分けあうことで役に立つに違いないと確信したのです。あれからすでに三十年近くが経とうとしています。言葉に精神を注ぎ込むことを技として大切にするアメリカ・インディアンの目には見えにくい文化を日本の次の世代に伝えるという自分が歩いてきた道も、ことわざという形で彼らの伝統的なの教えを伝える本を作れたことで、ようやくひとつの峠にたどりついたと言えるでしょう。真実を明確に伝える方法としてのことわざの役割が広く再認識されてくれるとよいのですが。ネイティブ・アメリカンの言葉については、翻訳するものの精神性が常に問われます。自分はこの言葉を翻訳できるだけのスピリットを内側に育てているだろうか? それだけの準備がおまえにはあるのか? 常にそうした声が心の奥からわきあがってきます。できるだけ正直にそれぞれの言葉の意味するところが伝わるような日本語になることを願いつつ、ひとつひとつの言葉を日本語にしました。これらの言葉があなたに歩くべき道を指し示し、より大きなヴィジョンと理解のなかでわれわれが出会えることを祈ります。

kotowazabookcovers月に映すあなたの一日
—ネイティブ・アメリカンの364のことわざが示す今日を生きる指針

北山 耕平 (編纂と翻訳)

新書: サイズ(cm): 17
出版社: マーブルトロン
ISBN: 4123901069

| | Comments (4) | TrackBack (0)

Saturday, October 15, 2005

単行本「ジャンピング・マウス」(太田出版刊)のまえがき 再録

以下は今年の春の終わりに出版された単行本『ジャンピング・マウス』のまえがきそのままの再録である。したがって本をお読みいただいた人には無用のものかもしれない。再録する目的は、いまだ本を読んでいなくて、その中身がどのようなものか想像している人に、実際に本を手に取ってみようと思わせるための情報提供である。シャイアン一族に残されてきた「ジャンピング・マウス」とはいかなるお話しなのかということを、出来るだけたくさんの人たちにわかっていただきたいと思うし、今回紹介するものが、これまで日本で紹介されてきたいくつかの「ジャンピング・マウス」のお話しのバージョンと、どこがなぜ異なっているかを知っていただきたいと思ったからである。

▼ジャンピング・マウスのまえがきを読む。

Continue reading "単行本「ジャンピング・マウス」(太田出版刊)のまえがき 再録"

| | Comments (0) | TrackBack (1)

Sunday, January 09, 2005

聖なる言の葉のなかから

以下に『聖なる言の葉—ネイティブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い』(スタン パディラ 編  北山 耕平 訳 マーブルブックス/中央公論新社刊 2004年)のなかから「祈り」そのものを取りあげてみた。これまで本ブログでは「一日二十四時間を祈りに」(Tuesday, March 30, 2004)として同書を刊行する理由を、また「忘れていた祈りの歌」(Friday, April 16, 2004)としてその後書きを掲載してきた。もしまだお読みになられていないなら、どうかそちらも目を通していただきたい。今回は、その中から『祈り」の詩を3篇選んで紹介する。こうした祈りに対する必要性がここへきていっそう高まっていると感じたからだ。あなたのハートにこれらの言の葉が届くことを願わずにはいられない。

Beadline.jpg




プレアデス


見たまえ
空と陸の出会う線のむこうで
ゆっくりと、ゆっくりと、起きあがる
プレアデスを!

ご覧あれ!
昇りきて彼らは、われらに道を示す
万全の導きで、われらをひとつにまとめる
プレアデスよ!

汝らのごとく
われらがひとつにつながる道を
なにとぞ指し示したまえ

パウニー
Pawnee tribe





母なる地球への祈り


ここに横たわりしわれらが母なる地球よ
豊かな恵みをもたらす母よ
われらに力をお与えくださりし母よ
ここに横たわりし母なる地球に、
いざ感謝を捧げん。

ものみな生育する大地、母なる地球を見よ
豊かな恵みの約束された大地を見よ
母がわれらにお与えくださった御力
ここに横たわりし母なる地球に、
いざ感謝を捧げん。

一面に広がる木々の森、母なる地球を見よ
豊かな恵みの約束された大地を見よ
母がわれらにお与えくださった御力
ここに横たわりし母なる地球に、
いざ感謝を捧げん。


パウニー
Pawnee tribe





ナバホの祈りの歌


わたしは地球を見る。
彼女をのぞき込み、
笑いかける。
なぜなら、彼女は、わたしを
幸せな気持ちにしてくれるから。
地球も
わたしを見返して
笑いかけてくれる。
願わくは、彼女のうえを行く、
わたしの歩みが
晴れやかで、軽やかで
ありますように。


ナバホの祈りの歌
Navajo prayer song



| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, December 07, 2004

『輝く星』訳者後書き・再録

実際の事件に基づいた小説・あるホピの少年の冒険と成長の物語

▼今年の初夏に小生が翻訳して刊行した『輝く星』という小説本の後書きを再録します。ジョアン・プライスというアリゾナの大学で宗教と哲学の教授をしている女性が著したこの小説は、原題を「真理は輝く星」といいます。19世紀の初頭にスペイン軍に攻撃されたホピの村から拉致されて奴隷として売られた少年が、ふるさとのホピの村まで帰ってくるまでの冒険譚です。この本は何年も前にLAのボディトゥリーという書店で見つけました。その書店はサンタモニカとフェアファックスの交差点にほど近いところにあるシャーリー・マックレーンの本などにしばしば登場する精神世界専門の書店で、わたしとは1976年からのつきあいがあります。初めのうちは小さな街の書店だったものが、10年ほどの間に大きな書店へと変身するのを見守ってきたわけ。アメリカ南西部に暮らすプエブロ・インディアンやホピの人たちを題材にしたスピリチュアルな小説『輝く星』は、SFをのぞくとこのボディ・トゥリー書店で扱っていた数少ない小説の一冊でした。一読したときから、私はこの小説に惹かれました。この本には大切なことを次の世代に伝えようとする意志が感じられたからです。自分の子供が読めるぐらいの年齢になって、翻訳が出版されていなかったら、これを日本語にする作業を自分の手で行おうと心に決めていました。そしてこの本を昨年の後半に翻訳することにしたのです。それは私事ながら老いた父親が別の世界へと旅立つまでの本当に貴重な時間でした。翻訳をしながら私は父親のことをしばしば考えたものです。少年とメディスンマンとの会話はさながら自分と父親の会話のようにも思えました。この本には人が生きることとはなにか、また人が死ぬとはどういうことか、死に与えられた尊厳とはなにかを考えさせるヒントがちりばめられています。ひとりのホピの少年が試練の中で成長する物語なのですが、作者はアリゾナの大学で宗教哲学を教えホピやプエブロの精神世界にも造詣が深い女性であり、ホピの人たちの精神世界を美しくかつ克明に描くだけでなく、プエブロのメディスンマンと少年の交流や白人世界との折り合いの付け方などもわかりやすく表現されています。この本は、だからホピをはじめとする美しい沙漠に暮らす人たちの世界への入門書としてもとても役に立つし、読み終えたあとはさわやかな沙漠の風に吹かれたような気がすることでしょう。ほんとうのことを探し始めた無垢な精神にこの本を捧げます。


「自分の理解できないものを好きな人間などどこにもおらん」

 ジョアン・プライスの書いた『輝く星』という小説には、深く印象に残る言葉が、夜空の星のようにいくつも散りばめられている。とりわけわたしにとって忘れられない言葉は、ここに引用したメディスンマンの老人の言葉である。世界が憎しみと暴力にあふれているとき、いちばんたりないものが「理解」であるからだ。相手の存在にたいする理解、文化にたいする理解、生き方にたいする理解。そうしたものの欠如がひとびとを導く先は、想像するにおぞましい世界である。

 小説『輝く星』は、プエブロと呼ばれる北米大陸南西部の沙漠に暮らす農耕の民の世界と物理的精神的に深くかかわりを持つひとりのアメリカ人女性によって書かれた。彼女はアリゾナに生まれ、その赤い大地を愛して育ち、その土地で生きる人たちの精神を理解している。われわれはこの本をつうじて、次ぎの世代に、暴力に頼ることなく、世界を愛し、受けいれるための伝統的な知恵を学ぶことができるだろう。
 極端に水の少ない土地であるために「砂漠」ではなく「沙漠」と記されるコロラド高原はいまでも「インディアン・カントリー」と呼ばれている美しい土地である。一度でもその中を旅した者は、生涯その風景を忘れることはない。この小説の主人公であるロマは、そうした風景のなかで育つホピの少年である。ホピの暮らすホピの国は、コロラド高原の奥地、近くのどの都市からも等しく遠く離れたところにある。あるひとはそこを「地の果て」と呼んだ。ホピの人たちが極めて高度な精神性を数千年間維持してきている最大の理由も、おそらくはどこからも遠く離れた美しい大地にあるに違いない。ホピの人たちはそこを「宇宙の中心」と認識している。

 ホピという名は、もともと「平和の人」を意味する。極端に過酷な自然条件のなかで、トウモロコシを毎年育て、わずかな数の羊を飼い、祈りと感謝によって自然と向かい合い、祝福の雨の恵みを最大限に利用する高度な知恵と文化を、歴史のはじまりから今日まで語り継いできた。その純粋性と精神的な生き方で、欲望におどらされることもなく、徹底した非暴力を貫き、またそうした生き方を親から子へと、そして孫へと世代を越えて伝えてきた。ホピがホピでありつづけるためには、強靭な精神力にその存在を全面的に依存している。だがどのような風土や環境であれ、人間は安易で便利なもののあふれた暮らしに走りやすく、そのためにホピは、伝統的な生き方にあくまでもこだわるホピと、時代に適応した生き方を選ぶ進歩的なホピと、どっちつかずで塀のうえにいるホピの三つのホピに常に分裂してきた。とりわけ今や伝統的な生き方を是として、電気や水道に頼らない伝統派のホピは風前の灯である。地球を守るために最低必要な知恵----造物主から直接に伝えられた質素で精神的な暮らし方----を守りつづけてきたこの人たちの存続は、おそらく地球の未来、つまり私たちの未来とも、密接に関係しあっているのだろう。伝統的なホピが消えることは、ホピと彼らが守っている地球にとっては大きな曲がり角である。先ごろのアメリカの戦争で、最初に亡くなった女性兵士がホピの女性だったことは、極めて象徴的である。

 もし本書をお読みになられて、ホピの人たちとその生き方とに興味を抱かれたら、どうか専門の書物をひもとき、機会があれば彼らが「宇宙の中心」とよぶ土地を訪れてみていただきたい。


4885031788.09.MZZZZZZZ.jpg輝く星 -ホピ・インディアンの少年の物語
ジョアン・プライス (著), 北山 耕平 (翻訳)

価格: ¥1,680 (税込)

書籍データ
• 単行本: 283 p ; サイズ(cm): 19 x 13
• 出版社: 地湧社 ; ISBN: 4885031788 ; (2004/06/10)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, September 09, 2004

虹の戦士たちへ

Tasks of Rainbow Warriors

*以下は太田出版版『虹の戦士』(1999年刊行)のあとがきではなく、まえがきである。昨日の記事と関連しているものなのでここに再録した。『虹の戦士』の本文そのものは、ぜひ本でお読みください。

▲▲▲▲

わたしたちは、現在、自分たちの生活を見直すべき時代を生きている。この時代は、アメリカ・インディアンの信仰においては、空の星たちの位置の変化によって、一九六〇年代後半にはじまったことが確認されており、劇的なる変化は、活動に激しさを加えつつ世紀を超えて、二一世紀の最初の二〇年ほどを支配することになっている。アメリカ南西部の高原砂漠に暮らすホピ族はこれを「偉大なる浄化の時」と呼んできた。ホピの教えによれば、灰の詰まった瓢箪が二回地球を震わせた後、遠からずして浄化の時がはじまり、ホピと純粋な心をもったインディアンたちが力をあわせて、世界をよりよいところへとつくりかえていくことになるという。この「灰の詰まった瓢箪」は「ヒロシマとナガサキに落とされた原子爆弾」をさす。

かつてわたしは自分の本(注)で、日本人が「ルーツを喪失したインディアン」である可能性を指摘した。わたしたちは「あらかじめ母なる地球との絆を失ってしまっている」のだ。そして「縄文時代のライフスタイルを今に伝える世界の先住民に残された教えと生き方を学びなおすことで、もう一度日本列島と自分とをつなぐこともできるはずだ」と。その後もこの確信は変わっていない。わたしたちはもともと遠い昔にはインディアンでありながら、インディアン的生き方とは一番かけ離れた対極的な「強欲に支配される生き方」を良しとしてきた。それはわたしたちの自然の扱い方を見れば一目瞭然であるだろう。

日本人は、日本という国家を愛するほどには、日本列島を愛してはいない。その結果、日本列島における自然は、ことごとくゴミに覆われて、もはやほとんど残されていない。その昔、朝鮮半島やアジア大陸からの帰化人によって「大きな八つの島」と呼ばれた大きな美しい島々は、二千数百年を経て、今、見るに忍びない姿を曝している。自然のままの浜も森も山も沼も、もうない。二〇世紀には、あらかた原生林も消え、水も黒ずみ、空気も汚染した。川には死んだ魚が浮き、空かからは鳥が落ちた。さらに世界中から食料や化石燃料や森林の木を切り倒して作る紙などの自然資源を大量に輸入することで、世界各地の先住民から土地と生きる権利や環境を奪い、精神的物理的さまざまなレベルにおける汚染を地球規模に広めてきた。当然ながら、母なる自然は日本列島から潮がひくように姿を消しつつある。気がついたときには野性の植物や動物の大半がすでに消えていた。今生まれつつある赤ん坊はダイオキシンに汚染された母乳を飲んで育つのだ。これは「地球が病んでいる」ことの証しである。こうした地球の病に関わる問題は、わたしたちをわたしたちたらしめている生き方と密接に関連するのだ。だから、わたしたちは、地球の病を癒すために、自分たちの生活を根本的に見直さなくてはならない。

世界各地の先住民の教えが伝えている。地球が病んで、動物たちが姿を消しはじめ、人々が健康を失って愚かな振舞いを始める頃、つまり、地球の変化が激しくなって「偉大なる浄化の時」が始まると、伝説や、物語や、古い教えや、儀式や、神話や、太古の部族の風習などを、しっかりと守り続けてきた者たちの時代が到来すると。地球上の生命あるものたちの生存の鍵を握っているのはその人たちだ。日本列島でも例外ではない。本書のタイトルにもなっている「虹の戦士」とは、その人たちを指す。虹の戦士たちは、誰からも命令や指示をうけない。戦士は「指示や命令がなければ動けない兵隊」とはまったく異なるからだ。虹の戦士とは、自分が好きになれるような世界を作るために、なにかを自発的に始める人たちだ。正義と、平和と、自由に目覚め、偉大なる精霊の存在を認める存在だ。日本列島は、母なる地球は、その人たちの到来を必要としている。

虹の戦士たちは、この教えを地球に生きる人々に広めることになるだろう。偉大なる精霊の指し示した生き方を実践し、今の世界がその教えに背いているために、わたしたちの地球が病んでしまったことを伝えていく。自分たちが好きになれるような世界を作るために、病んでしまった日本列島を癒し、もう一度地球を美しくするために、なにをすればよいのかを理解して、力強い行動をとることだろう。

本書は、わたしたちのなかで眠りこけている「母なる地球と直接つながる精神」に働きかけるものである。すべてはその精神が眠りから目を覚まして、わたしたちのもとに帰ってくるかどうかにかかっているのだから。

北山耕平
暗い夜明けのときに

(注)『ネイティブ・マインド−−アメリカ・インディアンの目で世界を見る』(地湧社刊)

| | Comments (1) | TrackBack (0)

Thursday, April 29, 2004

新しい時代を生きる君へ・再録

『ネイティブ・タイム--先住民の目で見た母なる島々の歴史』へのあとがき

▼あえて2004年4月の本日「みどりの日」に以下に掲載するのは、小生が3年前に上梓した本『ネイティブ・タイム—先住民の目で見た母なる島々の歴史』のあとがきの全文です。1000ページ近くもあり、厚さも5センチをこえている(正確には5センチ4ミリの)書籍で、全体はいわゆる年表のスタイルをとっていますが、実はこれは年表などではなくて、今自分の立っている(立たされている?)場所の座標軸を自分の感性で確認するためのいうならば「時空間GPS」として機能するように考えて制作しました。この本を制作するのに、実質的な作業期間とは別に、わたしは15年ぐらいの年月をつぎこんでいますし、その本(時空間位置確認システム)の基礎データの部分は、4月1日付のネイティブ・ハートにも書いたことですが、今もなお、それは新情報に基づく改訂や訂正を加えつつ日々増え続けています。自分の腹づもりとしては2012年までには改訂増補版を刊行にもっていきたいと考えてはいるのですが。なお2001年以降の分は、時をにらんで「補遺」として、「pdf書類」で必要な方にインターネットを経由して年ごとに無料で配布してきました。このアップデート作業は、日本列島に生きる未来の世代にとって、日本という枠組みを超えて「地球に生きる人」となるためには、必要不可欠だと考えているからです。なにかの縁があって、同書をお読みになっていただいた方、あるいは新しく最近に『ネイティブ・タイム』を手に取り、その時空間位置確認システムが重要だと感じて、自分にも「補遺」というかたちでサポートが必要だとお考えになった方は、北山耕平宛に、必ず「ネイティブ・タイム補遺希望」というサブジェクトでメールを送ってください。時期をみて、あるいは忘れたころに、ネイティブ・タイムの補遺が配信されると思います。

Continue reading "新しい時代を生きる君へ・再録"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, April 22, 2004

生きるためのシンプルな教え

『アメリカ・インディアンに学ぶ――子育ての原点』の訳者後書き再録


          growingupindian.jpg


  「朝目を覚ましたときと、そして夜眠りにつくまえには、自らの内側
  で息づくいのちと、ほかのすべてのいのちにたいして、この世界をつ
  くられし存在から、汝と、汝以外のものたちにもたらされた良きもの
  にたいして、さらには日々少しずつ成長する機会のあたえられたこと
  にたいして、感謝をささげよ。過ぎ去りし日々の、汝の考えや行いに、
  深く思いをめぐらせ、より良き人間となるための、勇気と、力とを、
  探し求めよ。すべての人にとって、真に恩恵となるものを、探し求め
  よ」

         ――ネイテイブ・ピープルの普遍的な教えのひとつ


はじめてアメリカ・インディアンと呼ばれていた人たちの世界に足を踏み入れたときのことは、それから四半世紀が過ぎようとしている今でも、忘れることができません。彼らはわたしを遠くの部族からやってきたひとりの旅をする青年として受けいれてくれたのです。インディアンの社会には、神話や伝説の時代から、伝統的に若者が自分の生きる支えとなるものを探して放浪の旅にでることが、めずらしくありませんでした。

あのときインディアンの世界からわたしにかけられた第一声は「お腹はすいていないか?」というものでした。誰であれ遠方より訪れた友達や旅人を、腹をすかせたまま帰してはならないという掟のようなものが、彼らの社会にあることに気づいたのは、それからしばらくしてからのことです。どんなに貧しくて、家族が日々の食べものに窮していたとしても、彼らは最後の食べものを客人に振る舞うことをためらわない人たちです。(余談ですが、ヨーロッパから新大陸に逃れてきて環境に適応できず、食べるものもなくて死にかけていた渡来者たちに食事を与え、とうもろこしの栽培を教えたのも彼らでした)わたしはカップに注がれた温かいスープを口に運びながら、とてつもなくやさしい気持ちに包まれている自分を発見しました。わたしにとって幸いだったことは、文字どおりそのときの自分が放浪の旅の途中にあったことです。観光でアメリカに渡ったわけではなく、帰る予定もなにもなく、わたしは生き延びるための日々の暮らしを続けていたのです。そしてほんとうの偶然から、彼らの世界に足を踏み入れることになりました。

それまで長い間、都市文明社会のなかで育ちましたが、人里離れた高原の砂漠のなかであるにもかかわらず、自分の心があれほどなごむ空間にいたことはありません。雪の降るネバダの砂漠で、たまたまひとりのメディスンマンの老人と知り合ったのをきっかけに、わたしは足しげく彼らの世界に通うようになります。

Continue reading "生きるためのシンプルな教え"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Saturday, April 17, 2004

あなたのなかのインディアンに

White Buffalo Teachings
日本語版『ホワイト・バッファローの教え』のためのまえがき再録

文・北山耕平

whitebuffalo1.jpg

今から十五年ほど前に、わたしの書いた『ネイティブ・マインド』(地湧社)という本が出版されました。この本を書くのに四年の歳月がかかっていますから、その本のもととなる文章を書いていたのは二十年ほど前の一九八十年代初頭のことです。その本は、それまでに日本で出版されたアメリカ・インディアンについてのどの本とも違っていたはずです。わたしが伝えようとしたのは「目には見えない彼らの世界」についてでした。

七十年代の後半に、わたしは偶然に導かれるように彼らの世界に足を踏み入れたのです。そこで見たり聞かされたり体験することになった世界は、それまでにわたしが知っていたものをことごとく否定しさりました。自分が教えられてきた知識が実にあやふやなものであったことを、否応なしに気がつかされました。

自分は誰なのか? どこからきて、いずこへ向かっているのか?

生きていくうえでほんとうに大切なものはなんなのか? 

世界の見え方がそれ以前と全く違ってしまった自分を、わたしは発見することになったのです。それまですごい速さで生きてきたわたしの人生に、あのとき急ブレーキがかかりました。

Continue reading "あなたのなかのインディアンに"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, April 16, 2004

忘れていた祈りの歌

どうかあなたの内側を祈りでいっぱいにしてください
小生がほん訳した本『聖なる言の葉』のあとがきの再録

   sunprayer.jpg
    Northwestern University Library, Edward S. Curtis's
    'The North American Indian': the Photographic Images, 2001.


   たいようが のぼってくる ひがしへ
   さむさの やってくる きたへ
   ひかりの もたらされる みなみへ
   たいようが しずみゆく にしへ
   ちちなる たいようの ために
   ははなる ちきゅうの ために

     ――ローリング・サンダー(西ショショーニ国メディスンマン)

この祈りの言葉をわたしに教えてくれたローリング・サンダーは、「一日二十四時間を宗教にすることの重要性」を常に説き続けた。そこで彼が口にする「宗教」とは、特定の組織宗教を意味するものではない。彼はこう言った。「もしもおまえが古き良きインディアンの道を歩みたいのなら、毎朝夜の明ける前に起きだして、昇ってくる太陽に向かって祈るがいい。わしは一日に二十四時間祈る。生活のすべてが聖なる儀式になりうるのだ」と。ここで重要なのは「インディアンにとって祈りとはなにか」ということである。

Continue reading "忘れていた祈りの歌"

| | Comments (0) | TrackBack (0)