Monday, January 25, 2010

タブリタとはネイティブ・アメリカンに起源を持つティアラ(頭髪の飾り物)のこと

Update | 22.32 p.m.

右側のサイドバーの最上部の Peace な写真を入れ替えた。「タブリタ・ウーマン・ダンサー」と名前がつけられている。「タブリタ」とは、わたしたちの言葉で言う「かんざし」にあたるもので、頭髪につける飾り物。「ティアラ」という言葉と同意だとも言う。こうした飾り物を頭につける踊りは、ホピやテワなども含まれるプエブロと呼ばれる南西部の農耕インディアンの人たちが踊るもの。写真の彼女はサン・イルデフォンゾ・プエブロの人。下に掲載するのは、エドワード・カーティスが1905年に撮影した別の、テワの人たちのタブリタ・ダンスの光景(一部)。遠くでよくわからないかもしれないがみんなが頭部に飾りものをつけている。

Tablita-Dance

*Tablita の読みが「タリビタ」となつていたのを友人に指摘されて訂正した。原稿書くときは老眼鏡をかけないで、読めているという思い込みだけで書くとこういう失敗をしてしまう。多謝。

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Saturday, November 21, 2009

歴史の流れを変えた40年前の小さくて大きな出来事について


「40年前の今日金曜日、ほとんどが大学生だった十数人のネイティブ・アメリカンが、サンフランシスコ湾に浮かぶ、当時はほとんど使われていなかった小さな島にボートで渡り、武器を持たずにその島を占拠することになりました。この占拠は19ヶ月間続くこととなり、世界中のメディアの注目を集めたのです」とCNNは昨日の午後のニュースで「1969 Alcatraz takeover 'changed the whole course of history'」として伝えた。

ニュースのなかで、40年前に占拠に参加していたアダム・フォーチュネイト・イーグルはCNNの記者にこう語っている。

「われわれは歴史の流れそのものを変えた。この島の歴史の流れを変えたし、政府の歴史の流れを変えたし、政府とインディアンの関係の歴史も変えた」

ここに紹介するビデオは、ネイティブ・アメリカンの人たちが当時撮影したモノクロの写真だけで構成されている。よけいな言葉はいっさいないが、かえってそれがこれらの写真に雄弁に語らせているかのようにも思える。ここに登場するインディアンの若者たちはみなすでに60を過ぎているし、なかにはすでにスピリットの世界に旅立たれた方もおられる。このアルカトラツという大きな岩の塊の占拠がアメリカに与えた衝撃は、その後80年代まで続いていた。

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Monday, November 16, 2009

見ていると懐かしさもこみあげてくるファーストネーションズの人たちのドキュメンタリー

パシフィック・ノースウエストコーストのバンクーバーの沿岸にクワキウートル一族が住んでいる。現在では彼らは15の居留地に分けられている。ここに紹介するのは彼らが伝統的に行ってきたポトラッチという儀式を再生させる試みを記録したものだ。この儀式はカナダ政府によって禁止されて久しい。カヌーを扱う人たちで、1の方の後半に出てくる、鳥人間が乗ってカヌーで航海する光景を見るたびに、ぼくは日本列島に日本国が建国される以前の情景を想像する。きっとご覧になると、この人たちとわれわれの祖先はどこかでつながっていたと思うに違いない。




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Friday, October 30, 2009

長野県で縄文時代の鮭の骨が大量に発見されたことの意味するもの

newsimagename長野県千曲市の屋代遺跡群から採取された縄文時代の土から、「縄文人」と呼ばれている人たちが食べ残したとみられるサケの骨の破片約570個が見つかった(写真は屋代遺跡群で出土したサケの椎骨の化石。1目盛りが1ミリ=奈良文化財研究所埋蔵文化財センター提供のもの)。長野県の縄文遺跡でサケの骨がこれほど大量に見つかったのは初めてのことだ。東日本の「縄文人」の主食をめぐってはこれまで「ドングリ中心論」「ドングリ+サケ・マス論」などいろいろ言われてきているが、「サケ・マス」が物証として出てきたのは初めて。信濃毎日新聞は次のように記している。

縄文遺跡は西日本より東日本で多く見つかっている。サケ・マス論は、縄文時代、西日本ではドングリしか頼る主食がなかったのに対し、東日本では川を遡上(そじょう)するサケやマスも主食にして繁栄できた−とみる説。縄文土器研究の第一人者、故・山内(やまのうち)清男(すがお)博士が提唱し、1940年代から考古学者の間で議論されてきた。

屋代遺跡群は縄文時代から中世の遺跡で、91〜94年に上信越道建設に伴い県埋蔵文化財センター(長野市)が発掘した。調査後、縄文期の炉や住居跡があったとみられる部分の土約210キロを県立歴史館が保管。奈文研が2007年から、この土を「土壌水洗選別法」で調べた。

水に混ぜてふるいにかけ、網に残った粒を選別すると、サケの椎(つい)骨約550個と歯約20個が見つかった。1個の大きさは0・5〜3ミリほど。白みがかっているのは焼いたことを示すという。奈文研埋蔵文化財センターの松井章センター長によると、歯の大きさなどから体長は60〜100センチと大型で、日本海から千曲川を遡上したサケと考えられるという。

同遺跡群は千曲川に近い。縄文期の地層は現在の地表から約4メートル下で、たびたび水害に見舞われてきた地域とみられる。県立歴史館考古資料課の水沢教子・専門主事は「なぜ縄文人が水害に遭いやすい川近くに住んでいたか疑問だった。今回の研究から、サケなどの魚を捕りやすい場所を選んだのではないかと推測できる」と話す。

この記事に出てくる山内清男博士(1970年没)は1964年に「北米のIndianには、サケの溯上する地帯で、これをとって保存食料とする処もある。Salmon Areaといわれる。南はカリフォルニアから北はアラスカに至る。これに対応するアジアの東岸もこれと似ていて、各地の原住民はサケを主食とするといってよい。その南端が北海道アイヌであり、日本の東北部である。カリフォルニアIndianは北部ではサケとドングリの両者を保存食料としている。南半ではドングリが主食である。Acorn Areaといわれている。これと似て繩文式文化圏の西南半は木の実を主食とし、東北半は木の実とサケの二本建になっていたと考えられる」(「日本先史時代概説」『日本原始美術』講談社刊)と書いた。以後博士は、カリフォルニア・インディアンと縄文人の環境がにていることにこだわり続けるが、学問のヒトたちからは考古学に仮説、フィクションは不用として批判をされた。

アイヌやネイティブ・アメリカンのヒトたちの鮭とのつきあい方、とくに鮭の中のヒトとのつきあい方を学ぶことから、より鮮明な「縄文人」と呼ばれているネイティブ・ジャバニーズの姿も浮き上がってくるに違いない。今日からあなたも鮭を食べるときには心して食べてください。

Source : 千曲で縄文サケの骨 県内初大量発見 主食知る貴重資料

あわせてお読みください

サーモン・ボーイ(鮭だった少年)の教え

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Tuesday, October 13, 2009

10月12日のコロンブスデーにむけての抗議ポスター

columbus who?

お尋ね者 クリストファー・コロンブス 重窃盗罪 大量虐殺
人種差別 先住民族への強姦、拷問、身体的破損、文化破壊に着手した
大嘘つきの扇動者 500年続く 手前勝手な集団観光事業

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Thursday, September 10, 2009

明治時代の日本人はインディアンを見てなにを考えたのだったか

岩倉使節団
岩倉使節団の主要メンバー 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

1871年11月に、明治になってつくられた直後の新生日本国が近代化を目指す目的で欧米に大使節団を送り出した。維新で権力を手に入れた岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった「明治」の主役たちがみなそろってアメリカを経由してヨーロッパに出かけた。政府の役人や、留学生も含めて、総勢は100人を軽く超えていたという。主役たちの旅は、言うなれば取材旅行を大がかりにしたようなもので、結果として彼らは2年近く世界を旅して回ることになった。これが「岩倉使節団」と俗に言われる一行である。

この岩倉使節団の旅を再現させることを試みた書物『岩倉使節団という冒険』(泉 三郎著)を面白く読んだ。新生日本人が初めて団体でアメリカとヨーロッパを「観光(真の意味での観光だ)」してまわる旅行の再現録を読みながら、ぼくには70年代中ごろに意識革命直後のアメリカに取材を敢行した「Popeye」という雑誌の編集者、カメラマン、イラストレイターら総勢7、8人の取材旅行の一部始終を思い起こしていた。もちろんスケールは小さいものの、世界から学ぼうとする気概は共通して大きかったからだ。そして岩倉使節団は、西海岸のサンフランシスコからアメリカを見るための豪勢な団体旅行をはじめるのだ。

サンフランシスコから大陸横断列車で7昼夜をかけてワシントンDCを目指す。この鉄道は、後にローリング・サンダーがブレーキマンとして勤める鉄道である。サクラメント、シエラネバダの山塊を越え、トラッキーリバー沿いの高原砂漠、ぼくが言うウエスタンショショーニの人たちの国のまんなかを突っ切り、偉大な沙漠の中を進んだという。この途中で、彼らは車窓から、「顔を赤く塗り頭に羽毛をはさんだインディアン」の姿を目撃したとある。その際の、この旅の記録係だった久米邦武と米国通のやり取りが興味深いので引用しておく。

「インディアンは日本人と先祖を同じくするというではないか。今でこそ白人が天下をとってインディアンはまるで居候のように小さくなっているが、もとはといえばインディアンの土地でござろう。そこへ白人が鉄砲をもっと乗り込んできて、いわば乗っ取ったも同然ではござらぬか」

「さよう、その恨みは深く、このあたりでは鉄道工事中よくインディアンが襲ってきて妨害したようだ。鉄道が開通してからも、物陰から毒矢を放って窓を開けていた乗客がやられて死んだこともある」

「文明、文明というが、アメリカ人は結局先住民族の国を蹂躙した乱入者で、原住民たるインディアンはまるで強盗に家財一切を掠奪された上に、その家から追 い出されたようなものではないか」

「いやいや驚くには足らぬ、現実世界は弱肉強食、すべて欧米諸国のやり方はそんなものでござる」


岩倉使節団という冒険岩倉使節団という冒険 (文春新書) (新書)
泉 三郎 (著)
価格: ¥ 735

新書: 221ページ
出版社: 文藝春秋 (2004/07)
ISBN-10: 4166603914
ISBN-13: 978-4166603916
発売日: 2004/07

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Saturday, August 29, 2009

8月29日は最後の野生のネイティブ・アメリカンが発見された日

Ishi_1914feather今から98年前の1911年(明治44年)8月29日、アメリカ合衆国カリフォルニアのオロヴィル( Oroville )でその人は発見されて保護された。数千年間その地方をテリトリーとして暮らしてきたヤヒ・インディアンの文字通り最後の生き残りだった。その生涯の大半の部分をヨーロッパ・アメリカ文化の影響を受けることなく生きたという点からも、彼はおそらくアメリカにおける「最後の野生のインディアン」だったろう。その人は男性であり、世界は彼のことを「イシ( Ishi )」という名前で知っている。この「イシ」というのはヤヒの人たちの言葉で「人間」を意味する。ヤヒの社会においては、自分のほんとうの名前を一族以外のものに口にすることが禁じられており、誰ひとり彼のほんとうの名前を口にできるものがもう現存していなかったために、結局彼のほんとうの名前はわからないままになった。だから彼は「人間(イシ)」として世界に知られている。写真は1914年当時のイシ。

ヨーロッパ文化と接触する以前、北カリフォルニアにはおよそ3000人のヤヒの人たちが暮らしていたと推測されている。イシが5歳だった、1865年、ヤヒの人たちが暮らす山岳高原地帯でヨーロッパから移り住んだ人たちによる大虐殺事件が起こった。この大虐殺を生き延びたヤヒの人たちは、わずか30人ほどだったという。虐殺後、そこに牧場をしつらえた牧場経営者たちは生き残ったヤヒの人たちの半数を見つけてつぎつぎと殺害した。この血も凍るような大虐殺を身をもって体験した彼は、母親や数名の仲間たちとともにさらに山奥に隠れ住み、40年間を生き抜いたのだった。やがて母親が亡くなり、仲間たちもひとりまたひとりと亡くなっていった。

オロヴィルの近くで発見されたとき、彼は全身が衰弱していてほとんど病気だった。彼はその地方の保安官によって厚く保護されたのち、サンフランシスコにあるカリフォルニア大学バークレー校の人類学博物館に移送された。そしてその大学の人類学博物館で、5年後の1916年、結核にかかって地球における旅を終えた。カリフォルニア大学の人類学博物館では、アルフレッド・L・クローバーとトーマス・タルボット・ウォーターマンの2人の学者などがことこまかに彼のこととヤヒの人たちのライフスタイルを研究し本を書いている。

イシについて書かれた本

イシ—北米最後の野生インディアン (岩波現代文庫)

イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語(岩波書店刊)

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Monday, August 24, 2009

「ソンミ村虐殺事件」で「(命令に)従った自分が愚かだったのだろう」と元中尉が41年ぶりに口を開いた

ネイティブ・ピープルの視点から言うと、戦争というのは大虐殺が移動しながら繰り返されることである。あるアメリカ・インディアンのおばあさんが、アメリカの歴史は「東海岸からはじまった大虐殺が東から西に向かって進み、太平洋岸に到達したあと、その後大虐殺は太平洋を渡り、日本列島(原爆と水爆)、朝鮮半島(朝鮮戦争)、アジア大陸(ベトナム戦争)へと移動した」と語ったことがある。アメリカが戦争中毒といわれるゆえんだが、日本国も、蝦夷征伐の平安時代から、鎌倉時代から始まる侍のほんとうの首切り時代、それに続く西欧化にならった日本帝国の時代と、同じように虐殺を移動させ展開してきたてきたことを忘れてはならない。日本は第二次世界大戦で連合国に敗れて「戦争はしない」という首輪をつけられるまで、戦争中毒だった。いまもアメリカに味方するという理由で戦争に荷担しようとする戦争中毒の禁断症状を見せる勢力がうごめいている。若者たちよ、「戦争とは、上官の命令に従うたくさんの兵士を必要とするある種の人たちにはおいしいビジネス」であることをしっかりと覚えておこう。

ベトナム戦争中の1968年、米陸軍部隊が南ベトナム(当時)の村を襲撃し、ベトナム人の女性や子供ら500人以上を皆殺しにした「ソンミ村虐殺事件」で、部隊を率いたウィリアム・カリー元中尉(66)が、41年の沈黙を破って当時の状況を語り、犠牲者と家族らに謝罪した。 元中尉は、虐殺を指揮したとして終身刑になったが陸軍の働きで懲役10年で保釈されたのだったが、事件について「良心の呵責(かしゃく)を感じなかった日は一日たりともない」と振り返るとともに、犠牲者とその家族、当時の部下らに「大変申し訳ない」と謝罪。「上官の命令に従って殺害した」という当時の説明を繰り返しながら「(命令に)従った自分が愚かだったのだろう」と話したという。ニューヨークから共同通信が伝えた。

ソンミ村虐殺事件を謝罪 米陸軍元中尉、41年後に

ソンミ村虐殺事件 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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Monday, August 17, 2009

縄文時代の終わりと弥生時代のはじまり ー 日本列島でなにが起こってこんな今になったのかを理解するために

稲作渡来民日本列島の歴史を通観するときに、しばしば「外からやってきたのは文化であって人間ではない」とする考え方が主張される。長いこと縄文時代を築きあげていた縄文人が農耕技術を取り入れて弥生時代を開花させて今の日本の基礎を作ったとする「日本中心主義的歴史観」を展開する学者の人たちも少なくない。最初から日本人が日本列島にいたとしておかないとなり立たない価値観が彼らを背後からバックアップして、今ではそのように信じ込んでいる人も多くない。『稲作渡来民』という本は、そうした考え方を根本的に否定しているようにぼくには読める。久しぶりに面白い歴史の本だった。ぼくは『ネイティブ・タイム』という本を読まれるとわかっていただけるが、かねてから日本列島は米のプランテーションとして開拓されたと主張するものであるが、著者の主張はつぎの一文に象徴されている。「舟を駆使して移動性に富む稲作渡来民が、水田稲作の圧倒的な有利性を背景として、はじめから水田の適地を求めて渡来、移住したもの」

「稲作渡来民」という言葉は、外来作物である稲と、農具としての「舟文化」を持ち込むことで、日本列島に弥生時代をはじめて「日本人の母体」となった人たちをさす著者の用語であり、この本は東アジア大陸から朝鮮半島南部に水田稲作を持ち込んだその人たちの足跡をていねいに追いかけた研究書であると同時に、優れて今的な自分とは誰でどこから来たのかを考えるのに不可欠な視点を与えてくれる良書と言っていい。韓国における稲作文化のはじまりと日本列島の弥生時代のはじまりにおける類似点や違いの分析など、あらためて教えられることもたくさんある。日本列島でそれ以前に数千年間続いた文化が、中国大陸や朝鮮半島で起こっていたことの影響を受けて、どのように変容していったか想像させてくれるという点で、読んでいて刺激を受けた本としては最近では珍しいものである。惜しいのは、稲作によってもたらされる「富」という考え方の部分や、稲にたいする信仰の移り変わりなどの精神的なものからのアプローチがほとんどないところだろうか。しかしねポリネシア、倭人、日本列島の丸木舟文化、当時の航海術などの指摘は大いに参考になるだろうし、人類学的形質を置換するほどの大きな変化を日本列島にもたらしたものの、それ以前からあった言語の基本的な性質に変化を与えなかった理由など、知っておくといい考え方も提示されている。著者はこの本の結論部分にこう書いている。

「稲作渡来民の入植という視点からみることによって、『すでに原始的農耕を行っていた縄文人が稲作を受容して低湿地に進出した』という考え方よりも、容易にいろいろな問題が理解できる。しかしそれは『縄文人が弥生文化を育てて農耕社会を築いた』といった、心の和む話ではない」

稲作渡来民 —「日本人」成立の謎に迫る (講談社選書メチエ)池橋 宏 (著)
価格: ¥ 1,785
単行本: 264ページ
出版社: 講談社 (2008/04)
ISBN-10: 4062584115
ISBN-13: 978-4062584111
発売日: 2008/04

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Thursday, August 06, 2009

HIROSHIMA DAY

Update | 1.06 p.m.


Little_boy

1945年8月6日は月曜日だった。上の写真のリトル・ボーイと名づけられたウラン爆弾が日本列島の広島市の上空から、B29爆撃機エノラゲイ号の乗組員たちによって落とされた。この爆弾ひとつで、その瞬間80000人の人が亡くなったとされる。その年が終わるまでに、全体で90000人から140000人が絶命した。広島市に建っていたビルの65バーセントが完全に崩壊した。下の写真は流川教会。奥の右手が広島駅。

日本はその後唯一の被爆国という言葉をたびたび使いはじめるが、核兵器の廃絶ではなく、核そのものの使用停止と廃絶を訴えることを避けてはいけない。ウラニウムを掘り出す作業にあたっていた人やその家族、ウラン鉱山周辺に暮らしてきた人たち、核実験場の周囲でなにも知らされることなく暮らしてきた人たち、核実験場とも知らされることなくその実験場を訪れた人たち、実際に実験に立ちあった兵士たち、人知れず原発の掃除を生活のためにまかされている人たちなど、地球規模でみれば、日本人だけが被爆国民なのではなく、この50年近くの間の核保有国のパワートリップの結果、ウラニウムによる被爆者数は先住民のいくつもの国々を巻き込んで、アメリカ、中国、ロシア(旧ソ連)、南太平洋、オーストラリア、アフリカなど、また世界中の原子力発電所などでも、実体がわからないくらいほんとうは多い。気がつかないようにされている人もたくさんいる。

この日から3日後には九州のナガサキに暮らす人たちの頭上でファットマンと名づけられたプルトニウム爆弾がB29爆撃機ボックスカー号の乗組員たちによって投下される。地球のどこであれ、いっさいの被爆者をこれいじょう作り出さないためにも、核兵器廃絶だけでなく、平和利用という「美名」に隠れず、エネルギー資源と人との関係をあらためて、すべての現存する核を廃絶し、すでに今あるものは医学的なわずかな利用のみに制限し、地球の内部からこれ以上ウラニウムを掘り出さないことを、母なる地球とその大地と水を放射能で汚染させないことを、地球に生きる人間として誓う日が来ますように。

Nagarekawa church

Beadline.jpg

原子力について忘れてはいけない呪文(改訂版)

  • 原子力はクリーンエネルギーじゃない。
  • 原子力は安いエネルギーじゃない。
  • 原子力は地球温暖化への解答じゃない。
  • 原子力は安全なものじゃない。
  • ウラニウム採掘には危険がいっぱい。
  • 核兵器の投げかけた脅威は終わってない。
  • 核廃棄物の問題はずっと未解決のまま。
  • 核施設の誘致はその土地を豊かにしない。

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