Friday, June 26, 2009

ドイツ南西部のシュバーベン・ジュラ山脈にある洞窟(どうくつ)で発見された、3万5000年以上前の、ハゲワシの骨とみられるものでできた人類最古の縦笛(フルート)。長さは約22センチ。

oldest flute

直径は2センチはない。穴は4つ。吹き口は「V」に削られている。音階的には現代のものと近いのではないかとAFPは伝えている。石器時代の人間も、現代の人間と同じように文化的な行動をとっていたことが証明されたのだろう。音が聞いてみたいものです。

Source : 独洞窟に3万5000年前のフルート、世界最古の楽器か
    35,000-year-old flute oldest instrument ever found
    Prehistoric flute in Germany is oldest known

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Thursday, June 25, 2009

沖縄で「縄文人の墓」が発掘されている

沖縄の摩文仁に縄文時代を通しての遺跡がある。約1万2000~2800年前ごろの遺跡で、2年前にも「約3千年前の縄文時代晩期のほぼ全身の化石人骨」が発見されている。この「摩文仁ハンタ原遺跡」で、今回は縄文人骨27体分が発見された。新聞はつぎのように伝えている。

琉球新報:

糸満市摩文仁の埋葬遺構「摩文仁ハンタ原遺跡」で、縄文時代後期(約4000〜3000年前)の縄文人骨27体分がこのほど見つかった。糸満市教育委員会によると、人骨は最終的に50体分近くになるとみられる。人工遺物も232点出土し、その8割は貝製品。市教委は「この時期の人骨と貝製品がまとまって出土したのは本島南部では初めて。縄文人の生活や死生観を知る上で大変貴重だ」と話している。
今回発見された人骨は2種類の方法で埋葬されていた。地表面近い場所で見つかった人骨は頭骨を石灰岩で取り囲む「石囲墓」と呼ばれる方法で、さらにその下層から発見された人骨は1カ所に集める「集骨」と呼ばれる方法でそれぞれ埋葬されていた。2種類の方法があるため、異なる年代に埋葬されたとみられる。

Source : 摩文仁で縄文後期の人骨27体 貝製品など232点も出土(2009年6月25日)


沖縄タイムス :

琉球大学の池田榮史教授(考古学)は「縄文時代後期の人骨がこれだけまとまって出たことはない。形質人類学的にしっかりとした資料ができ、当時の人々の平均的な姿が明らかになる」と評価した。
人工遺物は約80%(186点)が貝製品。装飾品の一種とみられる「線刻有孔製品」は類例がなく、縄文人の精神活動の一端を知る貴重な手掛かりという。湖城清市教委文化課長は「遺跡周辺でも類似の人骨が出土する可能性もあり、人骨を葬った人々の住居跡などが発見される可能性も高い」と推測する。

Source : 縄文後期の人骨出土/県内初 最多数 形質知る資料に/摩文仁ハンタ原遺跡

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Thursday, June 18, 2009

さらにもうひとつのネイティブ・ジャパニーズの存在

petroglyphオホーツク人と呼ばれる漁撈の民たちがかつて北海道の東の沿岸域に暮らしていた。モヨロ貝塚など遺跡がかなり残されている。ロングハウスと呼んでもいい大きな集合住宅に、おそらくはクランごとにまとまって基本的には暮らしていたらしい。内部は家族ごとに区切られた空間があり、中央に共同作業スペースが設けられていた。クマ信仰があり、食べるものはすべて海から来ると考えるカヌーを自在に操る人たちで、またあらゆる人がアーティストだったこの人たちは、あるときにはアイヌの祖先たちと戦をしたり、またあるときには婚姻関係を結んだりして自分たちの文化的影響を与えあったりした。アイヌの祖先とされる人たちは「擦文土器」を残した人たちのことだが、オホーツク人は最終的に擦文人のなかに姿を消してしまったとされている。日本の歴史書の中では「粛慎(みしはせ)」という名前で呼ばれているともいわれるが確かではない。住居遺跡の周辺にはいくつもの墓が残されていたために、北大はこの人たちの残した墓から骨をとりだして遺伝子の解析をすすめてきた。北海道新聞は6月18日の記事「オホーツク人DNA解読 北大研究グループ アイヌ民族と共通性」でこのことを伝えている。

5〜13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功した。オホーツク人のルーツには諸説があるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことが分かり、北方からの渡来説が有力となった。アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。

彼らが道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体のうち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した結果、

ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことが分かった。現在、カムチャツカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。

一方、縄文人−続縄文人−擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している。

Source : オホーツク人DNA解読 北大研究グループ アイヌ民族と共通性 (06/18 09:50)

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Friday, June 12, 2009

大量の乾し貝は固形スープの素として利用されたのか

ウィキペディアによれば、東京湾周辺は世界一の貝塚密集地帯と言うことになる。また世界的には、日本をはじめ、カナダのブリティシュコロンビアを中心とした北西太平洋沿岸域、北米アメリカ東海岸のメイン州を中心とした大西洋岸、デンマークを中心としたヨーロッパ地域のほぼ同緯度で、氷河期が終わった以降に貝塚がどっと出現している。これまでこの貝殻の堆積については、当時の人たちのライフスタイルがなかなか見えてこなかったために、貝を食べた後のゴミという考え方が普通だった。これに対して縄文時代の貝塚は、貝の身に海水の塩分を濃縮させた「干し貝工場」のごみ捨て場だったと思考を一歩進めた学者がいる。奈良文化財研究所(奈良市)の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)で、アフリカ・セネガルで約4000年前から続く貝活用法をヒントにこの説を考えたという。朝日ニュースコムが報じている。

松井さんは08年4月、セネガルの首都・ダカールの南約50キロに広がる貝塚群を調査した。数万平方メートルの広大な貝塚の上にある集落で、約100人が古代と変わらない漁労生活を営んでいた。最古の貝塚はダカール大学の調査で約4100年前から続く。

住民は太古から、カキや巻き貝のむき身を海水で煮込み、水分を蒸発させてから天日干しをして大量の干し貝を作ってきた。身には塩分が濃縮され、そのままでは食用に適さないが、スープの固形だしとして使う。現在は近隣都市の市場で販売され、現金収入源になっている。

松井さんはセネガルの例をもとに「日本でも集落全体で塩分を濃縮した干し貝を生産し、内陸部との交易品としていたのではないか」と考えた。セネガルの干し貝を奈良県工業技術センターで分析したところ、サケやサバの干物の約3倍の塩分が確認された。縄文時代の技術では、海水から塩を作るより、貝のむき身に塩分を濃縮させる方が効率的だったのではと推測。

貝をインスタント固形スープの素として使うという考え方は、新鮮だな。お湯の中に入れることでだしが取れるだけでなく、塩分も取り出せてスープのベースができあがる。内陸の人たちとの交易品にぴったりだったかもしれない。

arrowhead_small 縄文貝塚「干し貝工場のごみ捨て場」 奈良の研究者新説(2009年6月12日8時9分

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Tuesday, May 26, 2009

エゾの国の地図



Imagename

国連が立ちあげ、各国の相互理解を目的として加盟各国の大きな図書館が協力する「ワールド・デジタル図書館(World Digital Library)」がネットで公開されている。これは「東アジア」の欄の一番最初で公開されている1854年に江戸の日本で刊行された「エゾ・サハリン・クリルの地図」の北海道の部分を切り抜いたもの。地図はもっと広くカムチャッカの一部まではいっている。19世紀半ばの、まだ完全には日本という国に組み込まれる以前の現在の北海道のすがたが、なんとなく想像できる。津軽と蝦夷を結ぶ船のルートの多さは、蝦夷の大地がブームタウンになりつつあることを想像させます。

追記(2009/05/30) 地図はもともとは「エゾの土地が閉じられたところの全図」というような意味らしい。日本国というより当時の江戸幕府は未開発の土地として現在の北海道、サハリン、千島列島、カムチャッカまでを見ていた。北海道は「口蝦夷」「西蝦夷」「東蝦夷」に分けられている。「口蝦夷」とは「入口」の意味だろう。蝦夷地への入口の土地だ。アイヌの人たちにとっては、習俗、風習、信仰、様式の異なるたくさんの人たちがここから流れこみはじめて、始まりも終わりもない世界からの文化的破壊と涙の旅路がはじまっていた。

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Monday, May 04, 2009

百済王族の日本人子孫が1400年ぶりに韓国へ墓参

韓国日報が4月、ある日本人夫妻が韓国の益山市にある「武王陵」を訪れ、参拝したと紹介した。千葉県在住の大内公夫さん夫妻は百済の聖王(ソンワン)の三男の琳聖(イムソン)太子の 45代目の子孫にあたり「1400年ぶりに先祖の墓参りが叶ってとても嬉しい」と喜びを伝えた。

Source : 【韓国ブログ】百済王族の日本人子孫、1400年ぶりの墓参

このニュースを見て昔のことを考えさせられた。朝鮮半島にあった国がひとつ消されて、かつての百済の人たちはかなりの部分が命からがら日本に逃げてきて日本人化しているのだ。逃げてきたのは1400年前のことだけど。というよりこの人たちが日本国の主要な部分を作っているのだな。1400年前には日本なんという国家はまだなかったのだから。

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Friday, February 13, 2009

岐阜県高山で見つかった7世紀の人骨に縄文人と渡来系混血の特徴があったそうだ

news中日新聞が「高山・三福寺古墳群から7世紀の人骨 縄文、渡来系混血の特徴」という白山泉記者の記事を掲載した。岐阜県高山市が、同市三福寺の古墳群で1988(昭和63)年に出土した7世紀の人骨を復元・鑑定した結果、これまで渡来系の特殊工人集団の人骨と考えられていたが、縄文系と渡来系の混血の特徴があることが分かったと発表したもの。縄文系と渡来系などという言い方を新聞もするようななったのですね。

復元したのは下あごのない1体と、完全形の1体で、いずれも40−60歳の男性。鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平たん−などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽ほお骨が角張っている▽みけんが出っ張っている−といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。

復元したのは下あごのない1体と、完全形の1体で、いずれも40−60歳の男性。鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平たん−などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽ほお骨が角張っている▽みけんが出っ張っている−といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。

Source : 高山・三福寺古墳群から7世紀の人骨 縄文、渡来系混血の特徴[中日新聞 2009年2月13日]

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Wednesday, February 04, 2009

アイヌは縄文人の単純な子孫ではないという結論が

news北大総合博物館にある、オホーツク文化の遺跡で見つかった人骨78体を、増田隆一准教授(分子系統学)と大学院生の佐藤丈寛さんが調べ、その37体からDNAの抽出に成功したというニュース。

オホーツク文化はサハリン起源と考えられ、日本列島が古墳時代にあたる5世紀ごろ北海道に南下し、まず北部に広がり、次第に東部から千島列島まで展開するようになるが、10世紀ごろ忽然と姿を消してしまう。

今回ミトコンドリア遺伝子の塩基配列の特徴を分析した結果、オホーツク人は、今はサハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフの人たちに最も近く、同川の下流域に住むウリチと祖先を共有するという結論が出たと記事には書かれている。そして増田准教授らはそのオホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認したという。

「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」
今回の結果を受けて北大の天野哲也教授(考古学)の言葉

Source :

消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査[ asahi.com ニュース 2009年2月4日11時2分]

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Thursday, January 22, 2009

21000年まえから現在までのベーリンジアをとりまく古環境

Beringia_land_bridge-noaagov

後にネイティブ・アメリカンと呼ばれることになる人たちの最初の先祖の集団は、17000年から15000年前にこの地図のエリアを越えて今のアメリカ大陸に渡っていったという。最新の遺伝子の研究では集団はふたつあり、ひとつは海水の引いていた太平洋沿岸を岸伝いに渡る海ルートで北西部太平洋岸に、もうひとつは北東シベリアからアラスカの北部ロッキー山脈へ陸塊を伝う山ルートらしい。地図は米国海洋大気庁(NOAA)製作のもので、ベーリング海峡の環境の21000年前から現在までを、23枚のgif画像で連続して見せてくれるもの。想像力が刺激されるでしょ。

Source :

First Americans Arrived As Two Separate Migrations, According To New Genetic Evidence, ScienceDaily (Jan. 21, 2009)

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Monday, December 29, 2008

傷ついた膝の傷ついた心



Wounded Knee

新年を目前にした毎年12月29日はネイティブ・アメリカンの信仰、とくに「ゴースト・ダンス」と呼ばれる「地球のよみがえりを希求する信念体系」を学び続けるものには忘れられない日である。1890年のその日、傷ついた膝と名づけられたなだらかな丘の続く野営地で、最後の希望としてのゴーストダンスを信じていたラコタの人たち、女性も年寄りも子どもたちもふくむ150人(正確な数はいまだにわかっていない)ほどが、500名のアメリカ軍兵士によって虐殺される事変が起きた。自分たちの国(大地)を守るものと奪うものの最後の武力衝突とされるものだ。それは未来永劫にわたってアメリカの歴史の汚点であり、人々の心が決定的に傷つけられた事件である。アメリカの心はあの日以来今なお傷ついたままだ。このサイトで毎年この日に紹介してきた上記の動画は、虐殺にいたるまでの過程を追ったドキュメンタリーである。

現在、まさにここ数日、中東のガザで起こっていることも同じように心を永遠に傷つけるものだ。昔カール・グスタフ・ユングという偉大な心理学者が「心と大地」という論文に、オーストラリアのアボリジニの発言としてこう書き記していた。「よその土地を奪うことはできないものだ。というのはよその土地にはよその祖先のスピリットが住んでいるからだ。だから、あたらしくうまれるものは、よその祖先の姿をしてあらわれるだろう」この言葉は真実以外のなにものでもなく、征服国家アメリカはなぜネイティブ・アメリカンが今日も、そしてこれからもずっと生き残り続けているかを知るべきだし、同じように征服国家イスラエルは自分たちが絶対にアラブの土地を奪うことができないことを知るべきではないだろうか。

あわせて読んでいただきたい過去記事:

その年は凍てつくような寒い冬だったという

参考記事:

ガザで「今」起きていること。

In pictures: Gaza Massacre(写真検証・ガザ大虐殺)

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Thursday, November 27, 2008

ネイティブ・アメリカンにとって感謝祭のリアリティとは

Reality of Thanksgiving day

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Friday, November 21, 2008

石のなかであぐらをかいて笑っている人に会いに行こうと思う

smiling stone people

群馬県の安中市にある「安中市ふるさと学習館」というところでいま「ストーンツールズ‐縄文石器の世界」という展示会をしている。ここでは聞くところによると「実用的ではない石器」「なんの目的かわからない石器」も展示されているらしい。この石器の展示会は、大規模開発事業によって出土させられ眠りを破られた石器たちを整理して陳列してあるものだという。実用的じゃないと「現代の人たち」が判断した石器というのに心惹かれるものがありませんか? ぼくが行きたいと感じた最大の理由がこの写真の石器だ。いったいなんのためのものなのか、目的はなにかなど、実際に見ながら考えて、一緒に笑ってみたい。

安中市ふるさと学習館
〒379−0123
群馬県安中市上間仁田951
地図
TEL:027−382−7622

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Thursday, November 06, 2008

ワン・フー・ヘルプス・ピープル・スルーアウト・ザ・ランド

Last Modified 10:46 pm, Thursday, November 6, 2008

obama

アメリカ合衆国の44代目になる大統領がきまった。勝利宣言の生中継をCNNで見ながら、今のようなリザベーション体制ができあがる以前の昔のアメリカ・インディアンがアメリカの大統領のことを「ワシントンにいる偉大な白人の父(グレイト・ホワイト・ファーザー)」と呼んでいたことを思い出した。今回新しく大統領に選ばれた47歳の彼は、白人でも黒人でも黄人でも赤人でもなく、今風の言葉で言うとそれらのさまざまな色が織りなす「レインボウ・トライブ」のひとりなのだが、シカゴのグランド公園につめかけた数万の人々を前にして「アメリカにチェンジが訪れた」と語りかけたその宣言において、あえて彼はネイティブ・アメリカンの人たちの力添えが今回の選挙戦で果たした大きな役割について語っていた。実際今回の投票において、ミシガン、ニューメキシコ、ワシントン、オレゴン、ミネソタ、ウィスコンシン、ネバダ、ハワイなどのネイティブ・アメリカンの人たちの影響の大きな州における勝利は無視できない。彼はホワイトハウスの中にネイティブ・アメリカンの問題を国と国の問題として扱う最高機関を設置すると公約している。歴代のアメリカの大統領のなかで、アメリカ・インディアンの部族の一員として迎え入れられた人間はこれまでいたことがなかったのだが、レインボウ・トライブの彼は今年の5月にクロウの国を訪れた際に正式に部族の一員に認められている。そしてその時に彼に与えられたインディアン・ネームを背負って彼は2ヵ月後にワシントンの偉大な父となるのだ。「大地のいたるところで人々を助ける男(One Who Helps People Throughout the Land)」それが、クロー一族が彼に与えた名前である。

*上の写真は The Boston Globe という新聞社が提供する Boston.com のサイトで「The next President of the United States」というタイトルの元に昨日掲載されていた44代目のアメリカ大統領になる男の写真の一枚。さすがという写真が集められているのでぜひご覧ください。

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Tuesday, November 04, 2008

大陸と半島からの侵攻におびえて百済の亡命貴族は九州島西部に城を築いたのだった

百済で作られた青銅菩薩立像が出土、熊本の「鞠智城跡」で

熊本県教委は3日、同県北部の国史跡の古代山城(さんじょう)「鞠智(きくち)城跡」(山鹿市、菊池市)で青銅製の菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)が見つかったと発表した。

顔立ちなどの特徴から朝鮮半島の古代国家・百済で7世紀後半に作られたのはほぼ確実という。百済の青銅仏像は国内では初めての出土。

菩薩像は全長12・7センチ、幅3センチで、頭飾と肩から足にかけて垂らした天衣(てんね)を着け、横から見るとS字を描くような姿勢。先月23日に貯水池遺構北端の深さ約1・5メートルの地中で見つかった。

読売新聞のオンライン版の11月3日の午後9時42分に配信された記事だ。熊本県の遺跡で百済製の仏像が出土したというもの。記事はこのあと続けて、

4世紀中頃、朝鮮半島南西部に興った百済は大和朝廷と友好関係にあり、百済から多くの渡来人が文化を運んだ。大和朝廷は663年、百済を支援した白村江の戦いで、中国・唐と朝鮮半島の国家・新羅の連合軍に敗れ、逆襲に備えて7世紀後半に鞠智城を築いたとされるが、菩薩像の年代は鞠智城の築造時期とも符合するため、築城に携わった身分の高い百済人が持ち込み、仏堂に安置したか、携帯していたとみられる。

と記し、古代史の資料の記述や百済系瓦の出土例などから「鞠智城は百済の亡命貴族の指導で築城された」と考えられていると大西修也記者はあたりまえのように書いていた。ぼくはよくわからないのだが、こういう場合は「半島勢力の武力侵攻を恐れた亡命百済人が、九州島の西に城を築いた」と直截に書くべきではないのかな。

しかしここであたりまえのように書かれている「身分の高い百済人」というステレオタイプな「偏見を植えつける目的の意図的な表現」も、なにかおかしいように思える。まるで彼らが無知な野蛮人の跋扈する日本列島に仏教という文化をわざわざ持ってきてくれたかのような書き方だ。

ここはやはり亡命貴族が築造の指導をしたのではなく、亡命貴族と彼に従って命からがら逃げてきたボートピープルの一団が、自分たちの生活様式を守るために城を築いたと考える方が整合性がとれるのではないだろうか。百済と大和朝廷(旧伽耶勢力)のふたつの半島勢力がたくらんで今につながる「日本国」のプロトタイプを作ったわけだし、この菩薩像もその隠すことのできぬ証拠のひとつではあるのだろう。

663年前後のありさまを小生の『ネイティブ・タイム』(Version 4)では以下のごとく記載してある。興味ある人だけ続きをお読みください。

Source : 百済で作られた青銅菩薩立像が出土、熊本の「鞠智城跡」で(2008年11月3日21時42分 読売新聞)

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Sunday, November 02, 2008

人類の偉大なる旅の経路地図はぼーっと見ているのが一番面白い

Map-of-human-migrations

これは人類の起源に関する仮説のひとつである「アフリカ単一起源説」について解説してあるウィキペディアの項目のページに掲載されている「ミトコンドリアDNAのハプログループの分布から推定した人類伝播のルートおよび年代」という図版を、力づくで左に90度回転させてみたもの。人間が地球に広がっていったとされるルートマップだけど、見てるだけで飽きないよね。兄弟姉妹と離ればなれになった分かれ道というのは、この図を見るかぎりそう多くはなかったようだ。「われわれ」は遠くから来て、遠くまで行ったんだね。ただ、それだけなんだけれど。

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Wednesday, October 29, 2008

古代アンデスのミイラの髪の毛からアヤワスカの成分が発見されたことについて

Ancient mummynewsチリのアタカマ砂漠にあるアサパ渓谷で見つかった800年から1200年頃の大昔の成人男性と赤児の2人のミイラの髪の毛から向精神薬ハルミンを使っていた証拠が発見されたと研究グループが報告したとナショナル・ジオグラフィック誌が報じている。ハルミンは南米のインディオたちが今も使用するサイケデリックのひとつアヤワスカの主要成分で、彼らはこれを粉末にして鼻から吸引していたようだ。昔のアンデスの先住民が何らかの向精神性薬用植物を利用していたことが事実として確かめられたのはこれがはじめてだという。

チリのアリカ市にあるタラパカ大学で化学分析を行った考古学者のファン・パブロ・オガルデ先生は「ハルミンを摂取したのは心の病を癒すためか、病気の治療のためだろう。妊娠と出産にも関係があるかもしれない」と言ってから「しかしながらハルミンの摂取が宗教儀式の中に組み込まれていたという可能性も捨てきれない」と語った。

X線写真で見ると、楽器や帽子や皿といった社会的な地位をあらわすものと一緒に地中に埋められていた成人男性は、鼻の周囲にかなりの損傷を受けていて、これはアヤワスカの粉の鼻からの吸引が原因ではないかという。

赤児の髪の毛からも同じ成分が発見された理由として、オガルデ先生は「母親が妊娠期間中や出産のとき、また授乳の際にアヤワスカを摂取していたからだろう」と推測する。

この研究発表を聞いて、自らは今回の研究に参加しなかったカリフォルニア州立大学の考古学者アレクセイ・バラニッヒ先生は、「頭の状態を変容させる薬物がわずか1歳の乳飲み子の髪の毛からすら見つかるというのは、そうしたものが彼らの日常生活の一部になりきっていたことをあらわしている」と語った。

Source : Drugs Found in Hair of Ancient Andean Mummies

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Tuesday, October 28, 2008

フロリダ半島で発見された1100年前の外洋航海用カヌー

southeastern_indian_fishing_1585米国フロリダ州タンパベイエリアのセントピーターズバーグにあるウィードン島の入り江にある沼地の泥の中から14メートル近い長さのある古代のカヌーが今年の5月に発見されていたというニュースを読んだ。カヌーはざっと1000年以上も前にそこに埋まってしまったもので、そのカヌーを使っていたのはその辺りで暮らしていた古代のアメリカ大陸先住民としかわからないと書かれている。とりあえず地表近くまで持ちあげたが、泥の中にとどめ置いたまま現在は専門家がどうやってそのカヌーを保存すればよいかを検討中だとある。

一本の松の木から削り出されたカヌーで、考古学者たちは、これまでフロリダで発見された湖や川といった静かな水面を移動するための内海航海用の古代カヌーとはあきらかに異なるため、湾から外洋へ乗り出すために使われたものではないかと推測している。

カヌーの後方が壊れてなくなっていて、現存する部分だけの長さは12.2メートル。失われた後半部を加えるとカヌーの全長はさらに後2メートル近く伸びるだろうという。考古学者グループの意見では「この大型外洋カヌーは遠方に住む人たちとの交易に用いられたものだろう」ということだ。

「先史時代のカヌーとしてはこれまでにフロリダで発見されたものの中でも最大のもの」とウィードン島保存センターのマネジャーであるフィリス・コリアノスさんは語る。彼女はさらに「これはとても重要な発見なのです。この島でその当時暮らしていた人たちはすでに遠方との交易をしていた可能性を示唆しているのですから」

フロリダ半島のほぼ中央部西側のタンパベイから外洋に出ればそこはメキシコ湾沿。湾岸沿いにならかなり遠方にもいけただろう。学者の中には現在のジョージア州辺りまで往来していたのではないかというものもいる。

放射性炭素年代測定法で測定するとカヌーはおよそ1100年前のものであるらしいと、コリアノスさんは語った。

その頃日本列島では大和朝廷による東北の「蝦夷征伐」が本格化しようとしていたころ。左上の図版は15世紀にヨーロッパ人の画家が描いたアメリカ南東部のインディアンが漁をしている図である。そろそろわれわれも、先史時代を語る際に「丸木舟」という記述をやめて「カヌー」という言葉に切り替えるときであると思う。

Source : 45-Foot Ancient Canoe Stuck In The Muck Of Weedon Island

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Friday, September 26, 2008

「本土型」と「琉球型」の日本人だって

日本人は本土型か琉球型 理研、7000人の遺伝子解析

日本人は遺伝的に「本土型」と「琉球型」の2つのグループに大別できることを、理化学研究所の鎌谷直之グループディレクター(応用数学)らが、約7000人のゲノム(全遺伝情報)のわずかな個人差を統計学的に解析して突き止めた。25日付の米人類遺伝学専門誌電子版に発表した。

日本人の起源については、在来の縄文人と北東アジアから渡来した弥生人が混血する一方、アイヌや沖縄の人は弥生人の影響をあまり受けずに縄文人の要素が強いとする学説「二重構造モデル」があるが、今回の結果はこれを支持する内容だ。鎌谷さんは「大量のデータを網羅的に解析しており、証拠力が高い」と話している。

意図的にわかりにくくしているのかどうか知らんけれど、ぼくの認識では「琉球型」がネイティブ・ジャパニーズであり、「本土型」が日本列島をコロニーにしようとした人たちのことだよな。「米人類遺伝学専門誌電子版」のありかを捜さなくては。せっかく記事にするのなら、オリジナルの記事へのリンクを張るべきではないだろうか。

Source : 日本人は本土型か琉球型 理研、7000人の遺伝子解析

追記 もととなる論文を見つけました。以下のものだと思います。全部に目を通すにはお金を払わなくてはならないけれど、抄録は読むことができる。

Japanese Population Structure, Based on SNP Genotypes from 7003 Individuals Compared to Other Ethnic Groups: Effects on Population-Based Association Studies

Most Japanese individuals fell into two main clusters, Hondo and Ryukyu; the Hondo cluster includes most of the individuals from the main islands in Japan, and the Ryukyu cluster includes most of the individuals from Okinawa. The SNPs with the greatest frequency differences between the Hondo and Ryukyu clusters were found in the HLA region in chromosome 6. The nonsynonymous SNPs with the greatest frequency differences between the Hondo and Ryukyu clusters were the Val/Ala polymorphism (rs3827760) in the EDAR gene, associated with hair thickness, and the Gly/Ala polymorphism (rs17822931) in the ABCC11 gene, associated with ear-wax type. Genetic differentiation was observed, even among different regions in Honshu Island, the largest island of Japan. Simulation studies showed that the inclusion of different proportions of individuals from different regions of Japan in case and control groups can lead to an inflated rate of false-positive results when the sample sizes are large.

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Tuesday, September 23, 2008

彼らが太陽の動きを正確に知ろうとした理由はなんだろう

一万年以上前の縄文草創期から縄文時代が終わるまでのおよそ一万年間人間がカレンダーとして使ったと見られる痕跡のある巨石を組み合わせた巨石群の遺跡が岐阜県下呂市金山町にある。今では「下呂市金山町岩瀬の岩屋岩蔭遺跡」として知られているが、この遺跡で明日まで秋分の太陽観測会が開かれている。23日の中日新聞が写真入りで次のように簡単に伝えた。

古代人の智恵に関心 岐阜・金山巨石群で太陽観測会

equinox_sunbeam古代人が造ったという岐阜県下呂市金山町の金山巨石群で22日、秋分の太陽観測会が始まり、訪れた人たちが石組みに差し込む光を眺め、古代の知恵を感じた。24日まで。

高さ9メートル前後の巨石の石組みが3カ所にある。地元の研究者が10年前から調査。3千−2千年前ごろの縄文人が設けた天文台と推測されている。

差し込む光で暦を測るが、神秘的な雰囲気に「古代人のパワーが伝わりそう」と光に手をかざし、御利益?を願う人も。

Source : 古代人の智恵に関心 岐阜・金山巨石群で太陽観測会(中日新聞 2008年9月23日 07時28分)

写真にまず惹かれ、すこし興味を持って調べてみたら、たちどころに「金山巨石群と太陽暦」という本格的な調査記録のサイトを見つけた。3人の金山巨石群周辺調査委員という人たちが十年前から調査を開始してきた記録を整理してわかりやすく紹介しているサイトで、どうも上記の記事に出てくる地元の研究者とはこの人たちであるようだ。その調査は綿密を極め、いくつかの巨岩に囲まれた空間と太陽の光の動きの関係や、巨石群と北極星や北斗七星との関連のデータが、冬至、春分、夏至、秋分にわけて記録され、解析されている。

calender_teaching_stones

これと似たような研究を、ぼくはかつてニューメキシコ州のチャコ・キャニオン国立公園の線刻画と巨石群のなかで見たことがある。そこでも冬至・春分・秋分・冬至の日のそれぞれの太陽と地球の関係を太陽光線の差し込み方で研究していくもので、前の世界の人たちが太陽の動きに異様な関心を払っていることに驚きと衝撃を受けた。今の世界の人たちがあずかり知ることのない前の世界の人たちが、知恵のありったけを総動員して可能な限り正確に太陽の動きを読み取ろうとした背景になにがあるのか、興味は尽きない。

一度訪れなくてはならない遺跡が出てきてしまったようだ。

金山巨石群と太陽暦 ‐‐日本の考古天文学と巨石群

Ancient Observatories: Chaco Canyon

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Monday, September 15, 2008

縄文時代にマメ栽培か 九州出土の土器に痕跡

九州各地で出土した約3600−3000年前の縄文土器の表面に、栽培種とみられる大豆や小豆の痕跡があることが熊本大の調査で分かった。定説では豆類の栽培は弥生時代以降とされるが、調査した小畑弘己(ひろき)准教授らは「縄文後期には九州地方にマメ科植物の栽培技術があった可能性がある」と指摘している。

azuki bean縄文期の豆類は出土例は多いもののことごとくが炭化しているため、豆の種類や、その豆が野生種か栽培種かの特定は困難とされてきた。熊本大では「土器の作製過程で粘土に混入したマメ科種子が焼け落ちてできたとみられるくぼみにシリコーンを流し込んで型を復元、電子顕微鏡で調べる『レプリカ法』を採用」し、「九州の遺跡から出土した5万点以上の土器片から豆類とみられる痕跡について分析した」と記事は書いている。写真は「縄文土器の表面の痕跡からシリコーンで復元された小豆を電子顕微鏡で見た」ところ。記事はさらに続ける。

その結果、長崎県の大野原(おおのばる)遺跡や熊本県の三万田(みまんた)遺跡から出土した縄文土器計4点に残っていた跡を、豆の「へそ」と呼ばれる部分の形状などから大豆と特定。福岡県の大原(おおばる)D遺跡や鹿児島県の柊原(くぬぎばる)貝塚など10遺跡の土器15点でも、大豆形の跡を確認した。いずれも長さ十数ミリと、野生の大豆に比べ大きく、形も現代の大豆と似ていることから栽培種と考えられるという。

共同研究者の仙波靖子さん(熊本大)は「豆類は田畑のあぜなどで粗放栽培できる。大陸から伝わったコメやムギと複合的に栽培されていた可能性が高い」と話している。

さまざまな植物の種をもって人々はかなり自由に大陸と往き来していたと言うことになるようだ。

Source : 縄文時代にマメ栽培か 九州出土の土器に痕跡(2008年8月16日 中日新聞夕刊)

約3600−3000年前を小生の『ネイティブ・タイム』(Version 4)では以下のように記録している。よければお読みください。なお書籍版の『ネイティブ・タイム』(地湧社刊2001年)に書かれていない部分があれば、それは刊行後に新しく追加された部分である。

Continue reading "縄文時代にマメ栽培か 九州出土の土器に痕跡"

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Saturday, September 13, 2008

縄文時代にイノシシが飼育されていたのかも

news日本人という観念が完成する遙か以前の縄文時代中期(約5000年前)に、琵琶湖の周辺でイノシシが家畜として飼われていたらしいことが、京都市北区にある総合地球環境学研究所の内山純蔵准教授(環境考古学)の研究で分かってきた。弥生時代にすでにブタを家畜化していたことは定説になっているが、今回の発表は「縄文時代は狩猟採集という固定観念に再考を迫るもの」と京都新聞は書いている。

内山准教授は、1990年に発掘調査が行われた粟津湖底遺跡第三貝塚(大津市)から出土したイノシシの歯約20本を調べた。食用に最適な子どもがほとんどで、歯のすり減り方が野生より大きく、「ドングリなど硬い餌を人から与えられていたのではないか」という。縄文中期以降、木の実の利用が拡大したことが分かっており、イノシシの家畜化が一因となった可能性もあるという。内山准教授は「縄文時代は狩猟だけでなく、家畜を飼う先進的な試みなど、試行錯誤があったのではないか。今後、他の遺跡も調査し、家畜化の実態を明らかにしたい」と話している。

Source : 縄文人、イノシシ飼育!? 琵琶湖周辺 京の研究者新説(Kyoto Shimbun 2008年9月10日)

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Saturday, September 06, 2008

チーフ・クレイジー・ホースのことを思いながら

131年前の9月5日はネイティブ・アメリカンの指導者だったクレイジー・ホースが殺された日だ。1877年、日本暦明治10年のその日、ネブラスカのロビンソン砦において戦争捕虜だったオグララ・ラコタの戦士クレイジー・ホースはほんらい彼を守る役目だった警護中のアメリカ陸軍の護衛兵によって殺害された。

米国陸軍の公式書類では彼が絶命した日は9月6日と記されている。

クレイジー・ホースの遺体がその後、一族の者によってどこに埋葬されたのかはわかっていない。

関連記事:

クレイジー・ホースが死んだ日

イン・ザ・スピリット・オブ・クレイジー・ホース

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Thursday, September 04, 2008

日本列島の先住民だったニブヒの人たちのニュース


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アムール川は黒竜江とも呼ばれているユーラシア極東の大河だが、この川の上流から下流にかけての両岸、河口付近の中国東北地方及びロシア・沿海地方地方に、そして古代の日本列島の北海道島や本州島の東北部にも暮らしてきた比較的背の低い漁労と狩猟のツングース系モンゴロイドのネイティブの人たちが「ニブフ」で、ロシア語で複数形になると「ニブヒ」と呼ばれてきた。ニブフは彼らの言葉で「人間」「ヒト」を意味し、彼らは長いこと近隣の別の部族からは「ギリヤーク」と呼ばれた。言語についてはかなり独特で、ネイティブ・アメリカンの言語との類似性を指摘する学者もいる。カラフトの南で生まれて暮らしていたニブフの人たちの一部は、同じツングース系のウィルタの人たちなどと一緒に戦後すぐ「日本人」として送還され、つい最近まで北海道島で暮らしていた。もともと日本列島の先住民の部族のひとつで、列島古代史のなかに登場する「粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ)」と名づけられている部族の人たちがニブヒのことだと推測されているし、蝦夷(えみし)という名前で日本国の歴史に登場する人たちは、この粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ)の末裔たちではなかったかと考える人もいる。アイヌの人たちとの関係が今ひとつはっきりしていない。

とまあこのぐらいの知識を持った上で、下の北海道新聞が昨日掲載したニュースを読んでほしい。

サハリン先住民族 ニブヒ語、日ロで研究を 専門家が来道(09/04 00:26)

 ロシアの言語学者が残したサハリンの先住民族ニブヒの貴重な録音テープがこのほど活用可能となったことを受けて、ロシア科学アカデミー言語研究所=サンクトペテルブルク=でニブヒ語を研究するアレクサンドル・ペブノフ主任研究員(59)が三日、来道した。「ニブヒ語の専門家は国外には日本にしかいない」として、日ロ共同で解読を進めたい意向を示した。協議はこれからだが、今回の来日を機に共同プロジェクトが実現しそうだ。

 解禁された資料は、ロシアの言語学者イエロヒム・クレイノビッチが一九六〇年代に採録した貴重な民話類で、一時間テープ十三巻分。八五年に死去した時に「二十年間、開封してはならない」と言い残したため、サハリン州郷土博物館に眠ったままだった。今年、ようやく持ち出しがかない、ペブノフ氏が民族出身の言語学者ガリーナ・オタイナ(故人)が残した音声資料とともにデジタル化し、活用の道を開いた。

 ペブノフ氏は三日、北大大学院文学研究科に北方言語を専門とする津曲敏郎教授(言語学)を訪ね、「私一人では解読作業は難しい。日本には千葉大の金子亨名誉教授や同大の中川裕教授、札幌学院大の白石英才准教授などの研究者がいる。将来は辞書を共同でつくることも考えていきたい」と構想を伝えた。津曲教授は「眠っていた資料が日の目を見るとすれば歓迎すべきこと」と歓迎した。

 ペブノフ氏の滞在は一週間。六日午前十時から北大の人文・社会科学総合教育研究棟W202教室で開かれる公開シンポジウム「サハリンの言語世界」にこれらの研究者が一堂に会することから、ペブノフ氏はその場を利用して協議を進めたい考え。自身も「ロシア・日本共同によるウイルタ語・ニブヒ語の記録と研究」と題して講演する。入場無料、一般の参加も可。

Source : サハリン先住民族 ニブヒ語、日ロで研究を 専門家が来道北海道新聞(09/04 00:26)

関連サイト:

ウィルタ協会(北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ)

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Wednesday, August 27, 2008

温暖化しても2100年の気温は「縄文時代と同程度だ」そうだ

 今のペースで温暖化しても2100年の気温は実は「縄文時代と同程度」だ。
 地球の温度は昔から激しく変化しており、人類誕生後だけを見ても、海面が現在より30メートル以上高かった高温期が何回もあった。
 北極の氷はなかった時代の方が長いし、北海道にもサンゴ礁の化石がある。
 多くの人々が「普通の状態」と思っている気温は、地球の歴史から見れば瞬間的な、たかだか過去200年程度のものにすぎない。


 日本人が「日本人の利益はヨーロッパ人と共通だ」と考えて温暖化防止をするのは勝手だが、それは決して「地球のため」ではない。

政策研究大学院大学教授・岡本薫

Source : 地球温暖化を歓迎する(産経ニュース 2008.8.27 07:54)

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日本人単一民族説と人種のるつぼ理論

最近でこそ声高に主張する人間は姿を隠しているけれど、「日本人単一民族説」は20世紀を貫いて唱えられた説である。これは「日本民族」なるものの存在が歴史の始まりから存在したと言うことが前提となっている説である。それぞれに特徴を持つたくさんの部族国家の有機的な集合体が日本だという考え方ではなく、人種が入り交じって溶けあい世にもまれなる均一的民族なるものが形作られているとその説は主張する。日本人単一民族説は、長いこと日本国内における文化的多様性と少数民族の独自の自決権を否定し、あらゆる差別の推進力となってきた。長いことアイヌを少数民族と認めなかったのもその理論によっている。

melting potこの日本人単一民族説と通底する考え方がアメリカにおける「人種のるつぼ理論」であるのだとぼくは考えている。人種のるつぼという考え方は、古代のメソポタミア文明あたりに考え出されたもので、さまざまに異なる文化背景を持った民族が、国家というるつぼのなかで溶けあってひとつのうつくしい国を形作っているとするものだ。おそらく中国もロシアも似たような理論で動いているのだと思う。そしてこの考え方は、いつだって有機的多文化国家の存在を完全に否定しようとする。

多文化国家の根っこにある「人間としての尊厳」は、それぞれに独自の文化を持つ少数民族の自治と自決にたいしてリスペクトを求めるものだが、国家至上主義者は自分たちと文化的に異なる人々に自分たちと同等の市民としての権利を与えることを否定する。単一(均一)民族説も、人種のるつぼ理論も、多文化という人間ほんらいのあり方の尊厳を否定するものとして機能してきたのだ。

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Tuesday, August 05, 2008

渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に、日本列島で子孫を残した

母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案したというニュースを見つけた。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、日本全国から人を集める首都圏では弥生系が約7割と多数派を占めていて、東北や南九州などかつて遠い昔に縄文社会が発達した地域では、縄文系が7〜6割と多かったと記事に書かれている。つまり父親は動いたけれど、母親は動いていないと言うことだね。「女たちのスピリットが大地に残っているかぎり、(先住民の)国は滅ぼされない」というネイティブ・アメリカンの言い伝えを思い出した。日本列島にも先住民の国が依然として影のごとく残されているのだ。

母方のルーツで見た縄文と弥生の割合

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。

Source : あなたは縄文系?弥生系? 日本人ルーツの研究に新手法 ミトコンドリアDNAから構成比(産経ニュース 2008.8.4 14:38)

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Thursday, July 31, 2008

8世紀(1300年前)ごろ、大和朝廷による東部の開拓が着々と進みフロンティアが北上する本州島東北部に、竪穴住居が400軒以上も建ち並ぶ開拓者と征服者たちのブームタウンが存在か

東北最大級の集落か 400超す竪穴住居跡 仙台

河北新報 2008年07月31日木曜日

仙台市太白区のJR長町駅東側で整備が進む「あすと長町」地区は1300年前、竪穴住居が400軒以上ある大集落だったことが30日、仙台市教委の「長町駅東遺跡」発掘調査で分かった。7—8世紀の竪穴住居の集落としては、東北最大級とみられる。

地区東側の国史跡、郡山遺跡で見つかった官衙(かんが、役所)の造営にかかわる人や、役人の集落とみられる。

2008年度調査の対象は、長町駅から太子堂駅の東側約5100平方メートル。遺跡の北東に長さ40メートル、幅2—3メートル、深さ1.5—2メートルの溝の跡を発見した。南には川が流れていた跡を見つけた。溝と川はほぼ平行で、約200メートル離れている。集落を守る機能があったという。

今回の調査で見つかった住居跡は50軒。1998年度からの調査で発掘した分を含めると、300軒以上に上る。集落ができた時期は、7世紀前半から8世紀初めとみられる。

あすと長町地区ではほかにも、郡山遺跡の一部と、長町駅東遺跡北東側の西台畑遺跡の一部で計170軒の竪穴住居跡を発掘した。地区全体で発掘された住居跡は400軒以上になる。

市教委文化財課は「役所関係者の集落で、計画的につくられたようだ。これからも発掘を続けるので、集落の規模は大きくなる可能性がある」と話している。

8世紀には現在の仙台に大和朝廷の出先機関というか「砦」があり、蝦夷との北方物産交易などもかねた相当なブームタウンができていたということかな。あるいは東部開拓にともなう蝦夷掃討作戦を展開する兵士たちの住居用か。竪穴住居は、簡単に作れて便利だったのだろうね。

ちなみにどういう時代だったのかの雰囲気をつかむために、小生の本「Native Time」(地湧社刊)から「724 年」のところを以下に引用しておく。[なおここに引用するのは Native Time の Version 4 デジタル版のもの]

724

 女帝が退位してその皇子が天皇になった。犯罪人を島流しにする場合の、配流地の遠近の規定を改訂し、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の六国は遠とされて、諏訪・伊予は中に、越前・安芸は近とされた。本州島東北部、陸奥の海道(太平洋沿岸)の蝦夷がはげしい戦いを起こして、帰降した蝦夷【2字ルビ・えみし】で天皇の親衛隊として登用されていた佐伯児屋麻呂【6字ルビ・さえきこやまろ】が殺された。藤原宇合【2字ルビ・うまかい】(不比等の三男)が持節大将軍に、高橋安麻呂が副将軍に任命され派遣された。七道の諸国に数を決めて軍器と幕と釜などを造らせた。坂東九国の軍三万人に乗馬と射術の訓練をさせるなど特別軍事教練がおこなわれた。陸奥鎮所に軍事用品としての布や綿などが運びこまれた。さらに出羽国の蝦夷が蜂起したので、小野牛養【4字ルビ・おののうしかい】が鎮狄将軍に任じられて鎮圧に出向いた。陸奥国から宮城郡が分権され、対蝦夷戦争の前線の要塞となる鎮守府を置くための多賀城が築かれはじめた。この年の太政官の奏上に「大昔は人間が淳朴で、冬は土中に居室を作り、夏は樹上をすみかとしました」とある。陸奥国の鎮守軍の屯田兵たちを陸奥国の住人として戸籍に入れ、家族を呼び寄せることも認められた。


Source : 東北最大級の集落か 400超す竪穴住居跡 仙台

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Wednesday, July 23, 2008

西日本で最大の大型竪穴住居跡発見

和歌山県文化財センターが同県かつらぎ町の中飯降遺跡から、西日本最大となる縄文時代後期前半(約4000年前)の大型竪穴住居跡を発見したと発表している。直径約14メートルの円形状で、もし復元したとすれば面積は150平方メートル以上になるそうだ。写真を見ると、この円形の遺跡の残り半分は舗装道路によって分断されている。

以下部分引用。

京奈和自動車道(紀北東道路)建設に伴い、同センターは2006年度から発掘調査をしている。中飯降遺跡の発掘は今年5月からで、6月に大型竪穴住居跡を確認した。

big_circle_house北側を町道が遮っているため、確認できるのは全体の半分ほど。しかし、通常の竪穴住居は、直径4〜5メートルで20平方メートルに満たないため、面積は10倍近くなる。縄文時代を通しても、面積が100平方メートルを超えるものは少ない。全国でも最大級の規模という。

竪穴住居跡内に3つのすり鉢状の柱穴があり、上面の直径は約2メートル、最下層が直径約0・5メートル、深さ1・1メートル。柱穴の一部には柱を固定するための石が残っている。穴の大きさから直径40センチ前後、長さ約4メートルの柱を用いていたと推定している。円形状の場合、調査区外にあと1、2本程度の柱穴があるはずという。中央には一般的な竪穴住居同様、炉の跡が残っている。

調査地区は川と川の間で、背後に山があり、人が暮らしやすい立地。周辺100メートルほどの範囲でほかにも、竪穴住居跡や縄文土器などが発見されている。大型竪穴住居跡から西に50メートルほどの地点では、墓の存在を示す、石を並べた「配石」や骨を入れて埋めていたつぼなども確認した。今後、大型竪穴住居跡の町道を越えた北側も調査予定で、一般的な竪穴住居跡が見つかる可能性が高いという。

同センター埋蔵文化財課の内田好昭主任は「遺跡の集落はそれほど大規模ではない。巨大な竪穴住居はこの1つの村だけで使用したと考えにくい。周囲に何カ所か縄文時代の集落が見つかっているので、それらも含めた共同の建物である可能性がある」と話している。

Source : 大型竪穴住居跡を発見 かつらぎ・中飯降遺跡(紀伊民報 2008/07/24)

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Saturday, July 19, 2008

アイヌ文化の歴史を探る上で極めて貴重なお墓から

【厚真】アイヌの実力者か 副葬品に刀8本

厚真町幌内のオニキシベ2遺跡で、400—500年前のアイヌ文化期の墓から、日本刀を含め刀8本が出土した。町教委は「一つの墓からこれだけの刀が見つかるのは異例。とても裕福だったのでしょう」といい、銀と銅の円盤をあしらった矢筒の装飾も同じ墓から見つかり、「(矢筒は)道内でも最古のもの。アイヌ文化の歴史を探る上で極めて貴重」としている。

imagename遺跡調査は厚幌ダム建設事業の一つ。1370平方メートルを調査し、遺物は1万4000点にも及ぶ。5月にアイヌ文化期の墓4つが見つかり、うち3号墓から副葬品が集中して見つかった。地層は1667年よりも古い。

刀8本納められており、内訳は日本刀1本、小刀2本、蝦夷太刀2本、ナイフ3本。町教委の乾哲也学芸員は「道内でアイヌ文化期のお墓は400カ所以上見つかっているが、刀は多くても3、4本」という。交易で手に入れたらしい。「裕福で力のある方のお墓だったことがうかがえる」と町教委。

矢筒は、一回り大きな円盤を中心に整然と並ぶ「九曜文(図版)」で構成し、木材部分は漆でコーティングされていた。このほか鉄製の鍋も同じ墓から見つかった。

町教委は「貴重な資料」とし、保存処理のため岩手県立博物館へ出土品を送った。

疑問点 こういうお墓の発掘にアイヌの人たちを立ちあわせていないのだろうか? アイヌの人たちは当然の権利として一族の祖先の墓を発掘するのに立ちあう権利があると思うのですが。あるいは発掘そのものに反対する権利とか。彼らの土地でおこなわれていることだから。

Source : 【厚真】アイヌの実力者か 副葬品に刀8本(苫小牧民報2008年7月18日)

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Saturday, July 12, 2008

南北アメリカで最古、5500年前の建造物が出てきた

古代アンデス文明に光、5500年前の円形広場跡…ペルー

【リオデジャネイロ=小寺以作】ドイツとペルーの考古学チームは11日、ペルー中部にある古代アンデス文明のセチン・バホ遺跡で、約5500年前の紀元前3500年ごろ造られた円形広場の跡を発見したと発表した。

米州大陸最古の人工建造物となる。スペイン国営EFE通信が報じた。

古代アンデス文明は、ペルーを中心に祭祀(さいし)を行う共同体として発展。紀元前3000〜2500年ごろには文明が形成され始めたとされるが、正確な起源はわかっておらず、同チームは今回の発見が、文明の起源を解明する上で極めて重要としている。

ペルー文化庁などによると、広場は直径10〜12メートルで、社交の場だった可能性がある。紀元前2100〜1600年に建造された建物の下から見つかった。(2008年7月12日21時23分 読売新聞)

Source :  古代アンデス文明に光、5500年前の円形広場跡…ペルー

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6000年前の石の笛が貝塚から出土したと共同通信が伝えている

縄文時代の貝塚から石笛 熊本県宇土市、西日本で初

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縄文時代前期の轟貝塚(熊本県宇土市)から人が加工したとみられる石笛が見つかったことが12日、同市教育委員会の調べで分かった。縄文時代のものは全国でも数例しか確認されておらず、西日本では初めて。日本の音楽史の上でも貴重な発見で、当時の風習を知る手掛かりにもなるという。

石笛は黒色石灰岩で、長さ6センチ、幅2・9センチ、厚さ1・6センチ、重さ44グラム。人が研磨したとみられ、平たい長方形状で内側がくりぬかれている。

上面中央部の穴から息を吹き込むと甲高い音が鳴る。両端の穴を親指と人さし指で押さえて使ったとみられる。

宇土市教育委員会は「神聖な儀式で使用された可能性があり、神楽や能にも通じるものがある」としている。これまでは東北地方を中心に発見されている。

轟貝塚は約6000年前に形成され、轟式土器や貝の腕輪など約2万点が出土している。

2008/07/12 17:06 【共同通信】

Source :  縄文時代の貝塚から石笛 熊本県宇土市、西日本で初

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Monday, July 07, 2008

日本のイネ・ジャポニカの故郷は遺伝子によればはるか南方の島々に

日本のイネ・ジャポニカ「南に源流」 遺伝子研究で解明

日本や中国で栽培されるイネ「ジャポニカ」の起源が、インドネシアやフィリピンまでたどれることがわかった。農業生物資源研究所(茨城県つくば市)の井澤毅・主任研究員らが、もみの大きさを決める遺伝子の変異を手がかりに突き止め、6日付の米科学誌ネイチャー・ジェネティクス(電子版)に発表する。

もみの幅が広くて米粒が大きいジャポニカは、これまでの考古学的な調査によると、約1万年前の長江中・下流域が起源との説が有力だ。

研究チームは今回、ジャポニカの「日本晴」とインディカの「カサラス」の2品種を比べ、米粒の大きさの変化にかかわる遺伝子(qSW5)を発見。この遺伝子が変異してジャポニカのもみが大きくなったことを確かめた。

この変異と、もみを穂から落ちなくする遺伝子変異、もちもちした食感にする遺伝子変異の計3種類について、アジア各地の古い栽培品種142系統を調べた。

その結果、フィリピンやインドネシアの品種で、三つの遺伝子に変異のないものと、もみを大きくする変異のみをもつものが見つかった。このため、この地域でイネの遺伝子が変異してもみが大きくなり、その後、インドシナ半島や中国大陸で他の二つの変異が組み合わさって現在のジャポニカができたという。

総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授(植物遺伝学)の話 もみの幅を広げる遺伝子の変化をとらえたことは大きな発見で高く評価できる。ただ、遺伝子の変化を、直接イネの栽培化と結びつけるのは難しい。考古学資料とのすり合わせが必要だろう。(米山正寛)

Source :  日本のイネ・ジャポニカ「南に源流」 遺伝子研究で解明(asahi.com ニュース 2008年7月7日3時0分)

日本米の起源は東南アジア?米の大きさ決める遺伝子を発見

農業生物資源研究所(茨城県つくば市)の井沢毅主任研究員らのグループは、古いイネ品種の遺伝子変化を調査した結果、日本米(ジャポニカイネ)の起源がインドネシアやフィリピンなど東南アジアであると発表した。7日、英国の科学雑誌「ネーチャー・ゲネティックス」オンライン版で公開した。

井沢主任研究員らは、コメの粒の幅を細くすることに関与する遺伝子を世界で初めて発見。ジャポニカイネの米粒の幅が広いのは、この遺伝子が栽培化の過程で、次第に機能を失ったためだと結論づけた。

さらに、約200種のイネの在来種の遺伝子を調査。(1)コメの粒を細くする遺伝子(2)イネの脱粒性に関する遺伝子(3)炊いたコメのモチモチ感を決める遺伝子−の3点を比較したところ、ジャポニカイネの原型が、インドネシアやフィリピンの在来種(インディカイネ)に多く見つかった。

ジャポニカイネの起源をめぐっては「中国長江説」や「アッサム(インド)雲南(中国)説」がある。今回の調査では、中国のイネもジャポニカイネと同じような遺伝子変化をたどっていることが判明。

井沢主任研究員は「現在、東南アジアで栽培されている『熱帯ジャポニカイネ』が中国に伝わり長江付近で水田化され、『温帯ジャポニカイネ』が誕生し、さらに日本に伝わったと考えられる」としている。

Source : 日本米の起源は東南アジア?米の大きさ決める遺伝子を発見(産経ニュース 2008.7.7 02:03)

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Sunday, May 11, 2008

古代に朝鮮半島から来た鉱山技術集団とは何者なのか?

rockart07[msn.産経ニュース 2008.5.11 00:21]が、その墓の写真と共に伝えている。当然出雲大社そのものの起源とも関係がありそうだけど、そこまでは記事は踏み込んでいない。この渡来系鉱山技術集団が俗に「出雲族」と呼ばれることになる人たちの祖先なのだろうか? 出雲は、古代に朝鮮半島との「交易(人・もの・情報)」の要衝だった。渡来人による日本建国の拠点のひとつなのだな。

縄文晩期から弥生中期にかけて、九州北部で造られていた支石墓とみられる遺構2基が、島根県出雲市大社町の鷺(さぎ)銅山跡で見つかった。支石墓は数個の支石の上に巨石を乗せる特異な墓。中国から朝鮮半島を経て国内に伝わったが、本州での出土は初めて。大塚初重・明治大学名誉教授(日本考古学)は「(朝鮮半島からの)鉱山技術集団が、北九州経由のほかに、ダイレクトに山陰地方に渡ってきた可能性もある」と注目している。

Source : 本州初の支石墓? 出雲の銅山跡で発見

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Friday, May 02, 2008

亀の島(先史アメリカ)のサウスウエストの住民にとってイヌは友だち以上のスピリチュアルな存在だった

newsアメリカ南西部一帯の先史古代遺跡から、大人や子どもの人骨と共に埋葬されたと思われる古代のイヌの骨がこれまで数百体出土しているという調査結果が4月27日に発表された。しかもその埋葬されているところからは一緒に宝石類も出土するのだという。

イヌの種類ははっきりしないが、南西部アメリカに太古に暮らしていた人たちの精神生活においてイヌたちの果たしていた役割はことのほか重要だったのではないか、とニューメキシコ州サンタフェにあるインディアン芸術文化博物館( Museum of Indian Arts and Culture )の副館長ドディ・フゲイトさんは、ナショナルジオグラフィック誌の記者に語っている。

ドディさんはこの地域におけるイヌの埋葬の調査研究を続けてきた研究者だが、これまでの埋葬の実体を見る限り、イヌは単なるペットの域を超えて埋葬者にとりとてもスピリチュアルな意味を持っていたようだと彼女は言う。

wolflft「新世界のアメリカ南西部においてはイヌたちは、つぎの世界へ入っていくときの護衛のように考えられていたように推測されます。場所によっては儀式のなかでもイヌたちが役割を与えられていたことは間違いありません。埋葬が古くなればなるほど、イヌが一緒に埋められているケースも増えていきます。これまで700ぐらいイヌたちの埋葬されたところを調査しデータベース化してきましたが、イヌたちは儀式の行われた場所にまとめて埋葬されているか、特定の個人と共に埋葬されています」

彼女のデータベスによれば、イヌの埋葬が最も広く行われていたのは紀元前400年頃からはじまり、西暦1100年ぐらいまでの間だとか。そしてイヌの埋葬が行われていた地域は、ニューメキシコ州の北西部からアリゾナとニューメキシコの州境の間に大半が集中している。

Source : Ancient Americans believed dogs to be divine escorts for next life

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Thursday, April 24, 2008

縄文時代の布にさまざまなデザイン

Last Modified Friday, April 25, 2008

北海道埋蔵文化財センター(江別市)が、北海道恵庭市の柏木川4遺跡から、複雑な模様が編まれた縄文時代後期の布が出土したと発表したと共同通信が報じた。模様がデザインされた編み布が古代遺跡から出土するのは国内では初めてだ。

縄文の布

布は2006年秋に、恵庭市の柏木川の旧河道跡で、縦1・2メートル、横0・6メートルの範囲から67の断片に分かれて出土。同時に出てきた土器などから、約3200年前のものと推定された。

糸の材質は分析中だが、植物性とみられる。「もじり編み」といわれる技法を用い、糸の間隔を変えたり穴状のすき間を編み込むなど、さまざまなデザインが施されている。

2008/04/24 18:57 【共同通信】

Source : 縄文時代の布に複雑な模様 北海道恵庭市の遺跡から出土

よくはわかっていないのだが「もじり編み」は複雑な編みカゴなどを作るときと同じ手法だよね。

*写真が縄文時代の布の断片。中央部に穴状のすき間が編み込まれている。

追記

北海道新聞  縦糸と横糸を絡み合わせる「もじり編み」という技法が用いられ、そのパターンが一つの布片に複数見られた。中には横糸の一部を引き出して団子状の模様にした部分や、太い横糸に八本の細い縦糸を編み込んだ部分も確認され、技術の高さを裏付けているという。

Source : 国内初の「模様編み」 恵庭で出土縄文後期の布 3200年前 衣服も高い文化

毎日新聞  編み布は06年秋、恵庭市を流れる柏木川近くの泥炭層に幅0.6メートル、長さ1.2メートルの範囲で埋まっているのが見つかった。炭化が進んでいたが、構造解析の結果、太い横糸に細い縦糸を絡ませて複雑に編み込んだ布であることが判明。編み込み方法は数種類あり、表と裏の模様が違うほか、穴を開けたり溝を付けるなどの細工も施されていた。材質は植物性の繊維で、材料などの詳しい分析を進めている。

Source : 最古の編み布:北海道「柏木川4遺跡」から出土

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Thursday, April 17, 2008

1万年よりもまえの瀬戸内海が誕生する以前の人間の営みが確認された

岡山・犬島で瀬戸内最古級の貝塚を確認

瀬戸内海の犬島諸島(岡山市犬島)に属する無人島に、縄文時代早期(約1万年前)にさかのぼる瀬戸内地域最古級の貝塚遺跡が存在することが15日までに、国立歴史民俗博物館などの研究チームの調査で分かった。

「犬島貝塚」と命名された遺跡には、海水では生息できないヤマトシジミの貝層が広がっており、縄文時代の温暖化による海面上昇で同地域が水没、瀬戸内海が誕生した過程を探る上で極めて重要な遺跡になる。

山陽新聞 WEB NEWS 2008年4月16日

Source : 岡山・犬島で瀬戸内最古級の貝塚を確認

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Wednesday, April 02, 2008

ユーラシア大陸から亀の島へのネイティブの言葉の長い旅

Languagemap

西シベリアのイェニセイ川中流から下流に先史時代から暮らしてきた少数民族にエベンキ、ヤクートといった人たちがいる。ほとんどのイェニセイ川の流域の人たちはすでに姿を消したが、このかつてエベンキの国のすぐ西に、ただひとつケットという名の人たちだけがかろうじて今も生き延びて暮らしているという。

イェニセイ川の先史時代ケットの人たちはおよそ1200人が現存するが、そのうちケット語を話せるのは200人ほどだという。そしてそのわずかの数のケットの人たちの話している言葉が、遠くベーリング海峡をはさんで東側の新大陸に暮らしてきたアラスカやカナダのアサバスカンやエヤンク、クリンギット、アメリカの北西太平洋岸のフーパ、そしてサウスウエストの沙漠に暮らすナバホ(ディネ)やアパッチの国といったところで生きているアメリカ大陸先住民の話すナ・ディネ言語と深いつながりのあるらしいことが、この3月上旬にアラスカのアンカレッジで開かれた言語人類学者たちのアラスカ人類学協会の年次総会であきらかにされたと、アンカレッジで刊行されている新聞が伝えた。研究を発表したのは、ケット語の解析を10年間続けてきたウエスターン・ワシントン大学の言語学者のエドワード・バホダ研究員ら。

1万年から1万2000年前に、氷河期時代に北ユーラシアで生きていた狩猟者たちがベーリング陸橋を渡って旧世界から新世界に足を踏み入れるまでは南北アメリカ大陸に人間は暮らしていなかったと結論が出されて以来、アメリカ・インディアンの話す言葉とシベリアの少数民族の言語とのあいだに関係があるのではないかとこれまでも推測されていたが、ここまではっきりと特定の言語の原郷が指摘されたのははじめてではないか。エドワード・バホダ研究員は「ケット語とナ・ディネ言語のあいだにはただ単に音が似ているといった共通点以上の、もともと共通のひとつのものだったとしか説明できない特異点があまりにも多い」と話している。

Source: Distant Native languages bridge Bering Sea

参考サイト:北ユーラシアの歴史 貂主の国 イェニセイ川の先史時代

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Monday, March 17, 2008

すべてのアメリカ・インディアンたちの6人の母

DNAアメリカ・インディアンの95%が2万年前にアジアからアメリカに渡ってきた6人の母親の子孫であることがわかったと遺伝子研究の専門家が発表した。15日のUPI電が伝えたもの。

この事実を報じたCNNなど他のいくつかの報道をまとめてみると、今回の遺伝子調査は母から娘へと伝えられるミトコンドリアDNAの研究に基づいたもので、今までにおこなわれたどの調査よりも総合的なものであるそうだ。そして、この6人の女性たちのデオキシリボ核酸(DNA)の形見が北米・中米・南米のすべてのインディアンの95%から発見されるのだという。

ただしこの6人の女性たちだけが、アジアからアメリカに渡ってきたインディアンのすべての祖先であるというわけではないらしい。研究者によれば、この6人の女性は、1万8000年から2万1000年前のあいだのどこかで別々に生きていたのであって、全員が同じ時に生きていたわけではないからだ。そしてこの6人がどこにいたのかというと、それは今のアジアのどこかではなくて、かつてアジア(シベリア)と北米(アラスカ)をつないでいて今は海のなかに没している陸橋ベーリンジア、橋とはいえ幅1400キロの大平原のなかのどこかであったらしい。CNNはこう書いていた。

この時代には、もっと多くの女性が生きていたはずだが、現在のアメリカ大陸で暮らす先住民に引き継がれたミトコンドリアDNAの由来は、この6人だったとしている。

アメリカ大陸へどのように人類が居住したかを研究している米フロリダ大学のコニー・マリガン氏は、先住民の祖先が6人に集約されることは、驚くことではないと話す。現在の先住民の人数を考えれば、6人は妥当な数だという。

しかし、この研究からは、この6人の女性が「どこで」暮らしていたかはわからず、また「どれぐらいの人数」がベーリング海峡付近を離れてアメリカ大陸へ移動したかがはっきりしないため、さらに詳しく研究する必要があると話している。

ぼくとしては、残りの5%の母親のことも気になるのだが・・・

next Genes link 95 percent of American Indians

next アメリカ大陸の先住民、2万年前の「女性6人」が先祖

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Friday, March 14, 2008

「植民地化」についての個人的なメモ

植民地化という言葉は英語では「コロニアリズム(colonialism)」という。このコロニアリズムは「コロン(colon)」という英語の単語と関係がある。コロンとは「消化器官のひとつである大腸」のことだ。つまり植民地化とは「消化してしまうこと」「ひとつの国をまるごと食べ尽くすこと」であり、植民地にされることは「一族の土地といのちとその人たちの富や伝統がことごとく消化されていくプロセス」ととらえることができる。

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Thursday, March 13, 2008

抱きしめられたい?

女性土偶

埼玉県の久喜インターから15分ほどの菖蒲(しょうぶ)町役場前の小林八束(おばやしはっそく)1遺跡で発見された縄文後期(約3500〜4000年前)のユニークな表情をした女性土偶。高さ4・7センチ、顔の直径は3・5センチ程度で、胸にふくらみがある。鼻から口にかけてゆがんでいるのが特徴で、叫んでいるようにも見える。文様や土質などから縄文後期のものと推定されている。読売新聞(YOMIURI ONLINE)埼玉版 3月13日より。

Source : 菖蒲では女性土偶 小林八束1遺跡 18、19日公開

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Saturday, March 08, 2008

今の大阪のあるところは、日本がつくられる前「豊かな狩り場」だった

feather
キャンプ(野営地)で狩りに用いる石器を加工しながら、水場に集まる獲物を狙う——。そうした、後期旧石器時代(約2万3000〜約2万年前)の日本列島先住民の暮らしの痕跡が、大阪市平野区の瓜破(うりわり)北遺跡で見つかったと、YOMIURI ONLINE(読売新聞)が伝えている。

縄文時代中期(約6000〜5000年前)までの間の石器が、破片も含めて2000点以上出土したのだそうだ。ここが長期間にわたる「豊かな狩り場」だったことがわかり、専門家も「大阪市内で、1か所から大量に見つかるのは珍しい」と言っているほど。記事はつぎのように続ける。

後期旧石器時代の石器は、ナイフ形石器(長さ3〜9センチ)約50点など。薄くはがれた破片や石の芯の部分なども、まとまって見つかった。縄文時代は、石の矢尻(長さ1〜3・5センチ)約50点など。いずれの時代も石器製作跡と確認できた。

使われた石は、大阪、奈良府県境の二上山産サヌカイトが大半。近畿北部産チャートや瀬戸内産凝灰岩、府外でしか採れない黒曜石もあり、交流の広さがわかる。また、調理用とみられる焼けた石が見つかったが、住居跡などは確認できず、野営をしていたらしい。

大阪平野南部の丘陵地から北に延びた、台地の先端に立地。調査地東側に南北に延びる谷跡があり、多数の木の根が残っていたことから、当時は水場が近い森で、多くの動物などの獲物がいた可能性が高い。田中清美・市文化財協会担当課長は「後期旧石器時代と縄文時代の石器製作技術の違いや、当時の生活の様子が具体的にわかる」と話す。

Source : 古代の大阪「豊かな狩り場」旧石器〜縄文時代平野・瓜破北遺跡 2000超す石器出土

このニュースを読みながらまず頭に浮かんだのは「幸福な狩り場」という言葉だった。これはアメリカ大陸先住民のなかの、イロコイ、チェロキー、アルゴンキン、ラコタ(スー)といったいくつかの部族が「死者の(スピリット)赴くところ」として用いている概念である。彼らがいつごろからこの言葉を使っているかははっきりしないのだが、「獲物がいくらでもある豊かな狩り場」が日常のなかから消えた後につくられたものかもしれない。

たとえば平原インディアンにとっては、バッファローが白人移住者たちの皆殺しによって姿を消した後、バッファローたちが生活圏に共存していた平和で美しかった時代のことを「幸福な狩り場」として忘れないようにしたとも考えられる。

狩猟・最終・農耕を組み合わせて生活の基盤にしていた人たちにとっては、「豊かな狩り場」はそのまま楽園のような自分たちの世界の一部だった。「幸福な狩り場」は現実の「豊かな狩り場」そのままであり、違っているところはほとんどなく、あるとすれば雨が降らずつねに良い天気で、うさぎや鹿やバッファローたちも、人間を見てもまったく逃げる気配を見せないところだという。ラコタの人たちの死生観によれば、人は死ぬと、その人間が生きているあいだに髪の毛を切る(しばしばこれを「頭の皮をはぐ(スカルピング)」と表現された)ことさへなければ、そのスピリットはその幸福な狩り場に行くことになっている。戦において勝者が敗者の髪の毛を切り取るのは、その敵のスピリットを幸福な狩り場に行かせないためなのだろう。余談ではあるが実際に頭の皮を戦利品としてはぐことを教えたのは白人の入植者だった可能性がある。

ラコタの人たちの「幸福の狩り場」にたいする深い思い入れは、英語のウィキペディアに掲載されていたオグララ・ラコタのメニー・ホースィズ(Many Horses)のつぎの言葉にもうかがえるだろう。

Many Horsesわたしは白人の道を進むことになるだろう。白人を自分の友にするだろうが、白人の役に立つようなことをするつもりはない。コヨーテのように、ずる賢く生きるだろう。白人の道を理解するのに助力を求め、そして自分の子どもたちのための道を整えてやることになる。子どもたちはきっと自分の靴を履いて白人を追い越していくはずだ。

われわれにはふたつの道しかない。餓えて死に通じる道か、白人の貧乏人たちが暮らすところへ通じる道のふたつの道だ。いずれにせよその道の先には、白人の行くことのできない幸福の狩り場が待っている。


メニー・ホースィズ、オグララ

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Thursday, March 06, 2008

縄文人・倭人・弥生以降の日本人を巡るアサヒコム関西のトリップにつきあう

asahi.com 関西版が「九州大ミニミュージアム・倭人(わじん)の形成」を紹介する記事を掲載していた。

日本人の起源 探る第一歩に

日本列島に先住していた縄文人と弥生期に渡来した人々との混血で、日本人が成立したとみるのが定説になっている。その渡来人が最初に足を踏み入れた北九州発の「九州大ミニミュージアム・倭人(わじん)の形成」が、日本人の起源を探る第一歩にふさわしい。

九大では地の利を生かし、遺跡から発掘された古人骨の研究が盛んだ。「縄文人と弥生人」中の「身長・遺伝」を見ていただこう。面長の渡来系と彫りが深い縄文人の頭骨の違いは印象的。さらに頭骨の形態小変異から縄文人、アイヌ、古墳人、現代本州人、中国人、タイ人からハワイ人、北米先住民まで類縁関係を整理した図は圧巻。

「縄文人と弥生以降の日本人は同系統の集団とは考え難い」のだが、縄文人の血を消し去るほど大量の渡来人が来たのか。「今日の学説」で「弥生人の人口増加」は「稲作農耕の定着とともにおこった人口の急激な増加によると考える方が自然」とする。縄文人も急速に農耕技術を身につけ移行したのだろう。

約半々であった縄文人と弥生人」は最近のY染色体の研究を引いて縄文人由来の多さに驚く。民族学者の梅棹忠夫さんが「日本人の物づくりが得意な体質は縄文期から続いている」と言われたのを思い出す。

Source : 日本人の起源 探る第一歩に(asahi.com 関西 2008年03月03日)

この記事がなんのための物か非常にわかりにくいのだけれど、「縄文人と弥生以降の日本人は同系統の集団とは考え難い」という点について、「九州大ミニミュージアム・倭人の形成」が掲載している図がこれだ。

縄文人と弥生以降の日本人

読めばわかるけど正確を期すために書き写しておくと、「縄文人と弥生以降の日本人の間には非常に大きな違いがあり、同系統の集団とは考え難い」と「頭骨の形態小変異22項目に基づく東アジア、北アメリカ、オセアニア集団の類縁関係」のところに記されている。「非常に大きな違いがあり」の部分は消されている。

さらにこの記事はその直後に「約半々であった縄文人と弥生人」という九大とは関係のない別のサイトが掲載する論文にわれわれを誘っている。こちらは京都大学大学院理学研究科の蔵琢也という研修員の人が大衆の啓蒙活動として書いた『天皇の遺伝子』(廣済堂出版刊2006年)のなかの一部を自ら公開しているサイトであり、そこにつぎのような文章があった。

約半々であった縄文人と弥生人

日本人の由来はどうだったのだろうか。結論から言えば、ミトコンドリアでははっきり、縄文系と渡来系弥生人に別れなかった。それでも様々に推定されてはいるが、これが縄文系のミトコンドリア、これが弥生系渡来人のミトコンドリアとは単純に別れなかったのだ。

この理由は中国を含む近隣の地域のミトコンドリアが多様であり、日本も多様だったからである。ミトコンドリアは分岐して多様化した年代が古いので、縄文人と渡来人の区別がはっきり付かなかったのである。

しかし、多様化した年代が新しいY染色体は違った。縄文系と渡来系が、だいたいはっきり別れたのである(図3.2)。そして、縄文人由来のY染色体と渡来人のY染色体の比率は、だいたい半々であった。これは意外である。(中堀豊『Y染色体から見た日本人』岩波書店,2005、あるいは、最新の研究を参照)

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Y染色体から見ると日本人の三分の一から半分は中国で大多数の系統(中国や東南アジアで多数を占めるO型と)であり、渡来系弥生人が持っていたと思われるタイプである。しかしもう半分は、ほとんどチベットにしかないD型と、広く環太平洋に見られるC型の混合である。いわゆる縄文系である。

D型とC型に別れるのは縄文系もやはり二種類に分かれるという一部で言われていた説を、ある程度裏付ける結果である。フィンランド人や東シベリアのウラル語族に多いN型も数%ある。このN型は遺伝的にはO型の兄弟ではあるが分岐年代は1万年以前であり、これらの民族は北極近辺に集中している。もしかするとN型はO型に近くても「渡来人」系ではなくて、「縄文人」系なのかもしれない。

この結果からいえることは金属器と稲作を持ってきた弥生人が増えるのと併走して、なぜか縄文人の遺伝子も爆発的に増えてきたのである。

この原因は今後の重要な議論になるだろう。だが、縄文人は基本的に狩猟採集民の新石器時代人とはいっても、土器や石器のレベルが最も高度な部類だったし、簡単な農耕もしていた証拠が増えつつある。とりわけ西日本では焼畑農業を既に行っていたようだ。

そもそも農耕は、それに適した作物の種が手にはいらないとできないので、良い品種の米が伝来しないと本格的な農業には入れなかった。しかし伝来すると、ほぼ数十年で名古屋の方まで伝わったと推測されている。ヨーロッパやアメリカの農耕の拡大のスピードと比べて、驚異的に速い。縄文系の人々は金属や稲作農耕を見て、他の狩猟採集民ではあり得ないほど、すぐに学んだと考えるのが最も簡単な説明だろう。

Source : DNAから見た人種と日本人 −日本人の起源を遺伝子から探る−京都大学大学院理学研究科研修員/蔵琢也

そしてこの論文のなかで、著者が意外だといっている「縄文人由来のY染色体と渡来人のY染色体の比率」についての中堀豊という研究者の最新の研究に掲載されているイリノイ大学のサイトで見つけた最新のものという「世界のY染色体グループ」(J・D・マクドナルドという学者が2005年に作成)の図 (クリックで拡大)というのがこれである。いやー、なかなかのトリップだけど、やはりネイティブ・アメリカンのもっとたくさんの部族のY染色体グループを見てみたい気がするなぁ。日本とチベットに著しくある「Dグループ」のこととかさ。

y_hapologroups_of_the_world.jpg

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Thursday, February 28, 2008

日本人(東京人)は平均で縄文系が17%で弥生系83%なんだって

news岐阜新聞 Web が(2008年02月28日09:14付)記事のなかで、隣りあわせにすむ「飛騨人」と「美濃人」のルーツの違いについて報じている。そのなかでさりげなく日本人の平均と推測される東京人が「縄文系17%、弥生系83%」だと書いているので驚いた。アメリカのごとくこの国でもプライベートに遺伝子を調査してルーツをはっきりさせてくれるサービスがはやりそうだな。

飛騨は縄文人、美濃は弥生人ルーツ DNA解析

飛騨人の3人に2人は縄文人の子孫で、美濃人の3人に2人は弥生人の子孫—。同じ県民同士なのにルーツが異なることを示す研究成果が遺伝子(DNA)解析で判明したとして、27日、高山市で中間報告記者会見が開かれた。

報告したのは、筑波大名誉教授で東京大人類学教室客員共同研究員の住斉さん(65)=高山市下三之町=。人の細胞質の中に存在する母系遺伝のミトコンドリアDNAを飛騨で調べ、美濃や沖縄、東京の住民データと対比した。

住さんは約1年半前から、高山を中心に飛騨人から口腔(こうくう)粘膜を提供してもらい、調査を開始。今年1月末までに約930人が協力し、これまでに156人分を解析した。

縄文人を特徴付けるミトコンドリアDNAの「M7a」グループと、渡来系弥生人を特徴付ける「N9a」グループに着目。飛騨での出現確率と、学術誌に報告されている他地域の出現確率から、飛騨、美濃、沖縄と、ほぼ日本人平均と考えられる東京の4カ所について、縄文人か弥生人のどちらにルーツを持つか割合をはじき出した。

その結果、飛騨人は縄文系が64%で弥生系は36%、美濃人は全く逆で弥生系が69%、縄文系が31%。日本人平均(縄文系17%、弥生系83%)と比べ、飛騨人の縄文系の割合がいかに高いかが分かった。

住さんによると、これまでの研究で飛騨人の祖先は、大陸から朝鮮半島を渡ってきた弥生人よりもっと以前から日本に住んでいた「本土縄文人」と推測されていたが、「琉球系縄文人」とDNAタイプが似ていることも判明。住さんは「琉球系縄文人が、沖縄から少なくとも飛騨周辺にまで広がっていたことを示している」と解釈している。

また、「飛騨と美濃で縄文系の人たちはDNAタイプが似ていることも分かり、両地域は太古から互いに交流していたことがデータで裏付けられた」と話している。

Source : 飛騨は縄文人、美濃は弥生人ルーツ DNA解析

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Thursday, February 21, 2008

「縄文」と「弥生」の融合は平安時代のほぼ400年間に進んだのか

asahi.com 2008年02月21日10時59分

今日の日本人は、古くから列島に暮らしていた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が合わさり誕生したと考えられている。それでは、両者の融合はいつごろから進んだのだろうか。日本人の形成をめぐる大きななぞに、遺伝子の面から一つの回答が示された。鎌倉時代に関東地方に住んでいた人々のミトコンドリアDNAの特徴は現代人とほぼ同じだというのだ。

Source : 鎌倉時代人と現代日本人、ミトコンドリアDNA同じ特徴

ちょうど日本の建国からだと500年間ぐらいになるわけか・・・フルブラッドの縄文人が消えてルーツの消された日本人ができあがるまでは。

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Wednesday, February 20, 2008

髪の毛を切ることの意味

eaglefthr.gifアメリカ・インディアンのことを学んだり研究したりする「日本人」が増えたことに驚いたり喜んだりする最近である。60年代から70年代にこの世界に生まれた人たちが多い。この人たちはほとんど偏見も、恐れも持たずに、ネイティブ・ピープルの世界に飛び込んでいけるからだ。

あまりニュースにならないのだが、出版状況は非常に厳しいにもかかわらず、アメリカ・インディアンについて書かれたり翻訳されて、出版される日本語の本は、この30年間一貫して増え続けている。書店にもよるが、インディアン関係の棚を用意しているところも増えてきた。

またネイティブの世界との交流や探求や研究について、自分の視点から書き綴っている原則日本語で記されたブログも、とても全体を把握しているわけではないのだが、かなりの数にのぼるようだ。そうしたもののほとんどが、60年代から70年代にこの世界に生まれた人たちによって公開されているといっていい。

きっと、彼や彼女たちが、ネイティブ・ピープルの存在の仕方について、過去の研究者などが見失っていたものを再評価して、日本列島に暮らしてなにも疑問を持たずに「日本人」をやっているわれわれの内側の深いところで眠らされているネイティブの精神を揺り起こしてくれることだろう。

ネイティブアメリカン研究奮闘記at UCDavis」というブログも、そのひとつだ。著者はカリフォルニア大学デイビス校という「インディアン研究の本丸」でネイティブアメリカン研究(歴史学、現代インディアン史、カリフォルニア・インディアン史)に従事する女性。その2月20日の記事に、1902年1月15日に、連邦インディアン局からだされた「インディアンの長髪を禁止する」一枚の通達なるものがさりげなく紹介されている。この通達が出された背景や、なぜ今のインディアン学を教える先生たちが長髪であるのかなどは、該当ブログをぜひ読まれるといい。

boarding school

この記事のなかに「夢のような60年、70年代の運動を経て、インディアンは、そしてインディアンの知識人は、今度は自らの意志で、『髪』を伸ばしはじめる」という記述がある。ボーディング・スクール・サバイバーと言われる「寄宿舎学校を生き延びた者」たちによってネイティブ・アメリカンのルネッサンスがどのようにして起こったのか、そこにおいて各部族の伝統派やメディスン・ピープルや精神的指導者がどんな働きをしていたのかについて、ぼくもまたできうる限り自分の知り得たことを伝えていきたいと考えている。

[写真は同一人物。寄宿舎学校に入れられると、左の人が右のようになる。学生服を着せられるのも、寄宿舎学校の慣習。いわゆる詰め襟学ランのルーツもインディアン矯正施設であったここにある。]

reddot ネイティブアメリカン研究奮闘記at UCDavis

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Friday, February 01, 2008

顔に黥面(入れ墨)するという伝統を復活させた台湾島先住民の女性

tattoo台湾島東部の先住民アタヤル族のひとりの女性が、このほど昔の伝統にのっとって顔に手のこんだ入れ墨をいれたことで、百年ぶりの伝統復活と話題になっている。1月22日のタイペイ・タイムズ紙が報じたもので、その前の州の週末に33歳になるシャユン・フォウドゥさんが顔に大きくV字型の細かい入れ墨を彫り込んだ。

アタヤルの人たちの伝統的な風習のいっさいが禁止されたのは95年前の日本帝国の植民地時代。現在の台湾政府は入れ墨を法律で禁じてはいない。台湾のネイティブ・ピープルの顔の彫りものの歴史は1400年近くさかのぼり、アヤタル以外にもいくつかの部族がこれをおこなう風習を持っていた。日本列島の先住民にも黥面(顔の入れ墨)や文身(体の入れ墨)をいれる風習を持つ人たちがいたことが古い歴史書に出てくる。

「顔の刺青はアヤタル一族には古い文化伝統です。顔に彫りものをしたことはわたしにはたいへんに自慢です」とフォウドゥさん。彼女はさらに、アヤタルの女性が顔に文身をいれるのは、普通は初潮の直後で、彼女と結婚を希望する男性も永遠の絆の誓いとして顔に文身をいれるものだったという。フォウドゥさんはすでに同じアヤタルの旦那さんと結婚していて、旦那さんの顔にも黥面が入っている。ふたりは、なにかアヤタルの伝統を伝えるものを一緒に守りたかったと語った。

文身の彫り師は、昔ながらの、針と傷口に灰をかける苦痛を伴うやり方とはいかず、傷みの少ない現代的な入れ墨の技法で彼女の顔に顔料をおよそ2時間ほどをかけて彫り込んだという。

Source : Atayal woman revives full facial tattooing tradition

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Thursday, January 31, 2008

縄文人を最初の日本人と教えたがる勢力の存在

rockart09このところ産経新聞は歴史における「縄文時代」にやけに力を入れている。今朝のmsn産経ニュースにも、小学6年生の歴史教科書に「旧石器・縄文時代」の記述がないことを憤慨しているような印象を受ける「『弥生以前』教える意義 4日にシンポ」という記事が出ていた。「自国の歴史を基礎から学ぶ必要はないのか」と。

記事によると2月4日に日本考古学協会(会長・西谷正九州大学名誉教授)が「弥生時代以前を教える意義」について討論する公開シンポジウム「歴史教育と考古学」を東京・小金井にある東京学芸大学で開催するのだという。

シンポジウムでは、「小学校教科書から消えた旧石器・縄文時代の記述」「学校教育と考古資料の活用」などのテーマで、岡内三真・早稲田大学教授、釼持輝久・元神奈川県横須賀市立長井小学校教諭らが基調報告をしたあと、考古学者ら専門家8人がディスカッションする。

同協会理事の大竹幸恵さんは「日本史を24時間にたとえると午後10時半まで占めるこの時代は、子供の人気が高い。自然との共生など多分野にかかわることを、単なる暗記ではなく、日常に引きつけて学ぶことができる。そういうことをきちんと伝えたい」と話している。参加無料。午後1時から6時まで。問い合わせは同協会(電)03・3618・6608。(牛田久美)

産経新聞が縄文時代にこだわるのは、それが「自国の歴史」と思いこんでいるからだし、縄文時代の人たちを「最初の日本人」と教える教育がこれから推進されていくことになるのだろう。「日本列島における人の営みの歴史を24時間にたとえると午後10時半まで占めるこの時代」と、「残りの1時間半しかない日本」がほんとうは連続性がなかったということを、語り継いでいく必要性を痛感する。

アメリカ・インディアンが「最初のアメリカ人」ではないように、「縄文人は最初の日本人」ではないのだから。日本列島における日本人の歴史は、1時間半しかないのである。

Source : 「弥生以前」教える意義 4日にシンポ

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Friday, January 25, 2008

昨日アラスカで地球の言葉がまたひとつ消えた

Native Village of Eyakアラスカで生き延びていたエヤク語を話す最後のエルダーが、昨日、老衰のためにアンカレッジの自宅で89歳でなくなった。亡くなったのは最後のフル・ブラッド・エヤクであったチーフ・マリー・スミス・ジョーンズさん。エヤク語はアラスカ中南部、コッパーリバーの河口周辺で1万年近く生き延びていた先住民エヤク族の言葉。彼女の死で事実上エヤク語を母国語として話せる人はいなくなったことになる。ジョーンズさんは1918年、日本でいう大正7年の生まれだった。

arrow2 Native Village of Eyak

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やはり梅毒はコロンブス一行が旧大陸に持ち込んだらしいな

「梅毒はコロンブス一行が持ち込んだとの研究報告」とAFPが報じていた。持ち込んだ先はヨーロッパ大陸。記事の一部を引用する。

梅毒は1495年、イタリア・ナポリ(Naples)に上陸したフランス軍の傭兵の間で初めて確認され、その後、欧米全土に広まった。医学史専門家の中には、この傭兵らはコロンブスの船の乗組員で、米大陸を探す大航海中に先住民の女性から梅毒に感染し、1493年に欧州に戻って感染源となったとの説を唱えるものもあった。これまでこの説の信憑性は低いとされ、逆に、梅毒は欧州起源であり、コロンブスの船の乗組員によって米大陸に持ち込まれたとする説もある。

米エモリー大学のクリスティン・ハーパー氏らは、梅毒などの伝染病を引き起こす細菌「トレポネーマ」の異系統を世界中の26か所で採取、比較した。その結果、梅毒はトレポネーマから進化した最も新しい伝染病であることが判明したというもの。記事の結論は次のようになる。

遺伝学的には、梅毒は南米だけに分布する熱帯風土病「フランベシア」に近い病気だという。フランベシアは梅毒と同様、皮膚、骨、関節に影響を与えるが、梅毒ほど症状はひどくなく、性交渉による感染はない。ハーパー氏らの仮説は、「コロンブスの船の乗組員がフランベシアに感染。細菌は航海するうちに徐々に欧州の涼しく乾燥した気候に適応、後に梅毒を引き起こす病原菌に変化し、以来安定した状態にある」というもの。

つまり新大陸にずばり梅毒そのものがもともとあったわけでなく、梅毒の基となるような風土病が、ヨーロッパ大陸でパワーを得て強力な梅毒に「変異」したというわけ。

ちなみに梅毒が中国を経由して日本列島に到達するのはそれから17年後のこと。

Source : 梅毒はコロンブス一行が持ち込んだとの研究報告、哲学者ボルテールの説を裏付け

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Wednesday, January 16, 2008

弥生時代の墓23基、石のやじりも確認

paw弥生時代の大規模集落とされる愛知県豊田市の高橋遺跡で、弥生時代中・後期(紀元前2〜紀元2世紀)の有力者の墓とされる方形周溝墓計23基や竪穴住居3棟が見つかったという。産経ニュース(2008.1.15 21:45)が報じている。

以下に記事の一部を引用する。

市郷土資料館によると、高橋遺跡は矢作川左岸に帯状に伸びる幅70−80メートル、長さ800メートルの集落跡。方形周溝墓は各地で確認されており「口」型に溝が掘られ、中央に土が盛られている。今回見つかったのは1基の大きさが約3・5−7・5メートル四方、溝の深さが約15−80センチで、墓の大きさが階層差を表している可能性があるという。

また、弥生時代中期の竪穴住居1棟からは石のやじり9点が出土。資料館は「弥生時代は鉄のやじりが主流と考えられており、1カ所から石のやじりが多数出土するのは珍しい。縄文時代と比べて大型で粗雑なため、戦争や儀礼的な目的で置かれていた可能性もある」と話している。

戦争や儀礼的な目的?

いわゆる日本列島の本州という小さな大陸に「環濠集落」がたくさん作られていった時代にあてはまる。かつて僕は『ネイティブ・タイム—先住民の目で見た母なる島々の歴史』(地湧社刊 2001年)という本のなかでこの時代のことを次のように書いた。

こうした環濠集落は、おそらくそれぞれが砦として点で存在し、いくつもの点が互いに、狼煙などで連絡を取り合いながら、ネットワークを構成していたようだ。環濠やその付近からは、数千個のつぶて石、黒曜石の矢じり、覗き穴のついた一メートルほどのスギの板を使った楯、焼け焦げた弓、打撃によって折れた銅剣、刃が鋭く研がれた石剣などが見つかったりしている。環濠集落について知れば知るほど、この時代が、平和とは程遠く、おそろしく不安定な侵略戦争の時代であることがわかってくる。

Source : 弥生時代の墓23基、石のやじりも確認 豊田市・高橋遺跡

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Monday, January 14, 2008

ネイティブ・アメリカンと縄文人のつながり

paw産経ニュースに連載中の「試行私考 日本人解剖」〔第3章・ルーツ・縄文人のかたち(4)〕がアップロードされていた。今回は「北の影響」についてである。

記事によれば、縄文人がどこからきたのかついては、かつては南方説が支持されていた。ルーツは東南アジア(寒冷期に海面が下がって亜大陸となっていたスンダランド)方面が想定されたと。

しかし90年代以降に遺伝子によるルーツ研究が盛んになると、北方説(シノドント)が優勢になってきて、日本人が「縄文人と弥生系渡来人との混血」という論は現在も幅広く支持されてはいるものの、南方起源説には否定的な見解も多くなってきた、とある。

ここでいう北方の「シノドント」は日本人もそのなかにふくまれる北東アジア人で、上顎(じょうがく)切歯(上あごの前歯)の内側がシャベル状にくぼむなど大きく複雑な形の歯をもつ人たちで、アメリカ大陸先住民もシノドントに分類されている。

縄文人が特異な集団となっている理由は、「東アジア、恐らく大陸の広い範囲にいた集団がいろいろなルートで列島に入ってきて縄文人となった。その後、シベリアで寒冷地適応した、のっぺり面長、胴長、短足を特徴とする新モンゴロイド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の祖先集団は駆逐されたが、日本の縄文人だけが残ったのだろう」(中橋孝博・九州大大学院教授)とされている。

中橋教授によれば、アメリカ北西太平洋岸、ワシントン州のケネウィックで1996年に発見された古人骨が縄文人と似ていると指摘するアメリカの研究者もいるとしたうえで、

「ケネウィックマン」と呼ばれるこの古人骨は約8400年前のもので、アメリカ先住民の古い祖先とみられる。アメリカ先住民の祖先は、2万年〜1万年前にシベリアから凍結したベーリング海峡を通って北米に渡った人々とされる。ケネウィックマンと縄文人のルーツが共通だとすると、消えた縄文人の祖先を探す手がかりになるかもしれない。

と語っているのが印象的だ。縄文人の祖先集団は、新モンゴロイドによって駆逐され、一部は日本列島に残ったものの、多くはアメリカ大陸に移動したということだろうか。

Source : 【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(4)

関連記事:もしかして、この顔に見覚えがありませんか?

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Thursday, December 27, 2007

ラコタ国独立の経緯を確認する

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12月19日に、ワシントンDCにて、合衆国政府を相手に交わした過去のすべての条約の破棄を表明した翌日、つまり2007年12月20日に、ラコタ・スーのアメリカン・インディアンの代表団は、自分たちの国が正式に主権国家であることを宣言した。条約撤回の声明は時をおかずして国務省長官補佐に手渡されて、1851年、および1858年にワイオミングのララミー砦で締結された条約に述べられているラコタ・スー・インディアン国と合衆国政府のあいだのすべての合意事項は、ここに完全に破棄された。

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Thursday, December 13, 2007

この2000年間にいったいなにが起きていたのだろうか?

Imagename

「縄文人はその日暮らしで厳しい食糧事情の中で生きていた、農耕が始まって豊かになった、なんていうのは誤りですよ。農耕社会は米などの主食が不作になるとたちまち困ってしまう。季節にあわせてあらゆる食材を利用していた縄文社会のほうがはるかに豊かだった。だからこそ1万年も続いたのです」

国学院大学文学部、小林達雄教授の縄文社会観は明快だ。縄文時代の遺跡から発見された食料は哺乳(ほにゅう)動物60種以上、貝類350種以上、魚類70種以上。このほかに500種以上の植物、加えて海藻や昆虫まで食べていたと考えられている。その多彩な食生活から連想できるのは、動植物についての知識が蓄積され、世代を超えて伝えられていったということだ。

「【日本を探す】縄文(2)自然の恵みを敬う」というMSN産経ニュースからの引用。産経ニュースは「縄文」が今の日本人や日本文化の本になっているという証拠探しにこのところいそがしい。縄文から現代に続く弥生への質的量的な転換について、直線の時代をさかのぼって探求する必要がある。時間が輪を描いていた時代を生きる縄文人の末裔たちがたった数千年でかくもめちゃくちゃな国土改造をおこなったとは、およそ考えにくいのだが。上の図版は、いわゆる「縄文カレンダー」。

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Saturday, November 10, 2007

現代の日本人は全国平均で縄文系3、渡来系7の割合で双方の遺伝子を併せもつですと

start_quote日本列島の住民のなりたちは、在来の縄文人(南モンゴロイド)と、弥生以降の渡来系の人びと(北モンゴロイド)の双方を視野に入れてとらえなければならない。現在のアイヌ民族、琉球民族は、南モンゴロイドに属する先住民族であるが、大多数を占める「日本民族」は、弥生以降に大挙して朝鮮半島から渡来するようになった北モンゴロイドと在来の南モンゴロイドが混合して形成された集団である。

あるシミュレーションによると、現代の日本人は全国平均で縄文系3、渡来系7の割合で双方の遺伝子を併せもっており、西日本ではさらに渡来系の比率が高いといわれる。「新撰姓氏録」(815年)によると、畿内の1182の氏のうち渡来系と分類されている氏が326におよぶ。7世紀後半に成立する「日本」なるものは、そうした弥生文化とその系譜のうえに創出されたのである。この点をあいまいにしたまま、縄文文化と「日本」を無媒介に連続させ、「日本人」や「日本文化」の起源をむやみにさかのぼらせるのは適切なこととは思えない。end_quote.gif
(康成銀、朝鮮大学校教授)       [朝鮮新報 2007.11.9]

Source : 朝鮮史から民族を考える 3 朝鮮民族の形成発展(上)

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Thursday, November 01, 2007

「我々はアイヌの血を引く蛮族」という政治家のものすごい発言

「我々はアイヌの血を引く蛮族」民主・山岡氏 直後撤回
asahi.com 2007年10月31日19時08分

imagename民主党の山岡賢次(写真)国会対策委員長は31日、自民党の大島理森国対委員長との会談で、同席した別の2人を指して「2人はヤマトンチュ(沖縄の方言で本土出身の人)の貴族だから」とした後、大島氏と自らを「こちらはアイヌの血を引く蛮族ですので」と発言した。直後の記者会見で山岡氏は「冗談だ。誤解を与えたとすれば申し訳ない」と陳謝し、発言を撤回した。

発言は会談冒頭の写真撮影の際に行われた。山岡氏は発言の真意について「大島委員長の地元は青森、私は栃木県真岡市で、北の方だ。大衆、生活者という総称において、私らは生活者中心の(大衆的な)土壌から出ているんだ、という意味で申し上げた。そういう立場を擁護しようという意味だ」と説明した。

アイヌ民族に対する認識について、山岡氏は「日本の先住民族ですから、同じ日本人であるし、特に意識をしたことはない」と説明。「誇りに思い、(大衆的な立場を)代表して言っているという解釈をしていただきたい」と語った。

arrow2 asahi.com:「我々はアイヌの血を引く蛮族」民主・山岡氏 直後撤回

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Monday, October 29, 2007

竪穴住居でない掘立柱建物とはどんなものだろう?

宮城県教育委員会が、蔵王町曲竹の鍛冶沢遺跡で、太い柱を用いた縄文時代晩期の掘立柱建物跡と、弥生時代初めの再葬墓(土葬後に骨を掘り出し再び葬る方法)が見つかったと発表した。以下は河北新報の「蔵王鍛冶沢遺跡 縄文期の掘立柱建物跡 宮城県内初」というニュースの部分。

掘立柱建物跡は15棟を確認した。大きさは一辺が3—4メートルの四方形。柱の直径は最大で50センチと太く、柱を埋めた穴が1メートルに達するものも。縄文時代晩期前半から中ごろ(2800—2700年前)のものと推定されるという。

再葬墓と見られる遺構からは、骨が入っていたと見られる3つのつぼと、ふたが1つ見つかった。つぼは高さ35センチ、最大径13センチ。

再葬墓近くの掘立柱建物は、何度か建て直された跡があった。この区域には当時の一般的な住まいである竪穴住居跡はなく、土地利用の在り方を探る上でも貴重という。

県教委文化財保護課の菊地逸夫技術主幹は「掘立柱建物跡からは生活に直接結びつく遺物は発掘されておらず、特別な意味を持つ建物だったと考えられる。共同体を維持するため、建物を造ること自体に意味があった可能性もある」と話した。

遺物も多数出土した。縄文時代後期後半から弥生時代初頭の約1000年間にわたる。赤い顔料(酸化鉄)が、くっきり残るすりつぶし用石皿、南方産の貝を模した石製品、天然アスファルトを接着剤に使い補修した土器などが見つかった。

Source : 蔵王鍛冶沢遺跡 縄文期の掘立柱建物跡 宮城県内初(河北新報 2007年10月26日)

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縄文の大規模集落跡かもしれない遺跡

新潟日報 NIIGATA NIPPO On Lineによれば、発掘調査が進められてきた縄文時代後期の大規模集落の環状遺跡が日本海東北自動車道(日東道)の建設予定地で報道陣に公開された。村上市の長割遺跡と呼ばれる4000年程前の遺跡で巨大な柱跡や出土品から、県埋蔵文化財調査事業団は「県内最大規模の遺跡で、地域の中核的な集落であったことは間違いない」と指摘している。

遺跡は三面川支流、門前川の自然堤防上に位置し、東西約300メートル、南北約200メートルにわたって広がる。縄文時代後期前半(約4000年前)の遺跡としては県内最大規模。中央広場を中心に、住居跡と推測される炉跡が40基以上見つかっており、直径100メートル以上の範囲でドーナツ型に住居が配置されていた環状集落だった可能性が高い。

調査区域の南側では、掘立柱建物の跡とみられる直径1・6メートルもある柱穴が複数発見された。痕跡から直径60センチ以上の巨大な柱が使われていた大型の建物があったと考えられる。

石器や土器なども大量に出土した。遺物の中には、石に穴を開けて首飾りにした大珠(たいしゅ)と呼ばれる装飾品や、平らな石に細かい線で模様が刻まれた線刻礫(せんこくれき)などが見つかっている。大珠は長さ約10センチ。県内の発見例では最大級という。

調査を担当している同事業団の滝沢規朗・主任調査員は「調査中のため、柱穴の配置が明確になっていないが、大きさからすると、これまで県内では例のないような巨大な建物があったのかもしれない。集落の規模も大きく、慎重に調査を進めていきたい」と話していた。

Source : 縄文の大規模集落跡か、村上(新潟日報2007年10月26日)

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Saturday, October 13, 2007

国連の先住民宣言に日本が賛成した裏の理由

newsアイヌが日本の先住民であると結論は下せないと、日本国の新しい首相が今国会で答弁したことを知っていますか?

福田首相:アイヌ「先住民か結論下せぬ」--国連宣言受け答弁 /北海道

国連総会で「先住民の権利に関する宣言」が採択されたことについて、福田康夫首相は3日の衆議院本会議で「アイヌの人々が同宣言に言う先住民族であるかについては結論を下せる状況ではない」と述べ、9月に町村信孝外相(当時)が示した政府見解を踏襲した。

民主党の鳩山由紀夫幹事長の代表質問に答えた。鳩山氏は「北海道洞爺湖サミットが開かれるのに、国連が先住民と認めたアイヌを政府が認めていないことを諸外国にどう説明するのか」とただした。福田首相は「同宣言には先住民を定義づける記述はない」と理由を語った。

道ウタリ協会はアイヌ文化振興法の改正などを求めていく方針だが、福田首相は「アイヌの人々が固有の文化を発展させてきた民族とは認識しており、文化振興などの施策を引き続き推進する」と具体的な言及を避けた。【大谷津統一】

Source: 毎日新聞 2007年10月4日

ここで触れられている9月の政府見解とは、国連が「先住民族宣言」を採択したことで、町村信孝外相(当時)が9月14日の会見で「日本はアイヌが先住民族と結論を出していない。(政府として)結論を出せる状況にない」と発言したことを指す。

つまり先住民族宣言には日本も賛成票を投じるには投じたが、「あくまでも」と外務大臣は説明した。「集団的権利とか財産権について日本の解釈を説明したうえで賛成した」と。日本国は条件付きで賛成したのだと言っているわけね。

わかりやすく言えば、政府はアイヌを先住民だとはまだ認めていないのだから、先住民族宣言でもなんでも認めますよ、というスタンスだったのね。まるで「アイヌが先住民だったらそんなものに賛成はできない」といっている見たいなもの。ここまで日本国政府がアイヌを先住民族と認めない理由について「国際的な先住民の定義が決まっていないこと」や、「国内でも多数の関係省庁から意見が出されている最中であること」を挙げていた。つまり、賛成の反対だったってことじゃないか。どこまで、そしていつまで、日本国政府はこんなことを言い続けるつもりなのだろうか?

next 国連宣言の採択が先住民と世界に与える大きな影響

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Friday, October 05, 2007

ネスパース一族の指導者だったチーフ・ジョセフがアメリカ軍に投降した日(1877)

Chief Joseph

Chief Joseph, Nez Perce leader who surrendered on October 5, 1877

太陽が昇るかぎり、わたしはもう永遠に戦わない」

チーフ・ジョセフが投降のときに語った言葉とされるものの一節
1871年にチーフ・ジョセフが死を前にした父親から
その偉大な名前を引き継いだときに受けた教え


start_quote息子よ、わたしの身体は母なる地球に帰ろうとしている。わたしのスピリットもじきに偉大なるスピリットのチーフと会うことになるだろう。わたしが逝ってしまったら、お前はお前の国のことを考えよ。その国人たちのチーフ、それがお前だ。国人たちはお前の導きを今や遅しと待ちかまえていよう。お前の父親がけして自分の国を売り渡すことがなかったことを、いついかなるときも忘れてはならない。家を売るための条約に署名しろと求められたときにはいつも、お前は自分の耳を塞がなくてはならない。あと数年もすれば、どちらを見ても白人だらけになるだろう。その者たちは必ずこの大地に目をつける。息子よ、けしてわたしのこの死にゆくときの言葉を忘れてはならない。この国土があるかぎりお前の父親の肉体は不滅なのだ。お前の父や母の骨をけして売り渡してはならない。end_quote.gif


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Friday, September 21, 2007

言語が急激な絶滅の危機にある地球の5つの地域

newsひとつの言葉が絶滅すること、つまりその言葉を話す最後の人が亡くなることは、その言葉が抱えてきた宇宙そのもの、地球に生きるある集団の人たちが歴史がはじまる以前から保ち続けた膨大な知識の貯蔵庫がまるごとそっくり地上から消滅することを意味する。ぼくたちはとてつもなく大切ななにかを失いつつあり、そして失われたものは永遠の彼方に消え去って二度と帰っては来ない。今わたしたちのこの惑星では、14日ごとにひとつずつ言葉が消えて言っていると、ナショナルジオグラフィック協会のサイト「Enduring Voices」が伝えている。このままでいけば2100年までには7000を超える言葉が一度も記録されることもないままに消滅するのだと。なかでも今の地球で最も急速に先住民の言語が消滅して言っている5つの地域を、ナショナルジオグラフィック協会が支援する「生きている言葉たち 絶滅危惧言語研究所」が、ホットスポットとして特に先日公表した。

Top 5 Language Hotspot

地球で最も急激に言語が消えて行っている地域

  1. 北部オーストラリア
    クイーンズランド、ノーザン・テリトリー、西部オーストラリアでは153の先住民の言葉がありそのいずれもが絶滅の危機にある。
  2. 中央部南アメリカ
    アンデス山脈からアンデス盆地にかけてのエクアドル、コロンビア、ペルー、ブラジル、ボリビアでは113の言葉が危機的な状態。カラワヤ一族は日常的にはスペイン語やケチュア語を使っているが、薬草などの名前ではかろうじて自分たちのオリジナルの名前を用いている。
  3. 北アメリカ北西部太平洋高原
    カナダのブリティッシュコロンビア、アメリカ合衆国のワシントン州、オレゴン州ではおよそ54の先住民の言語が絶滅危機に。たったひとりしか話す人のいない言葉も。
  4. 東部シベリア
    この地域にふくまれるのは、ロシア、中国、旧日本のそれぞれの一部だったところ。23の言語が残っているが、侵略征服者たちの社会は支配的な言語の使用を少数集団である先住民たちに求め続けてきた。
  5. 南西部アメリカ合衆国
    オクラホマ州、テキサス州、ニューメキシコ州など。40の言語がかろうじて残っている。そのひとつが「ヨーチ語」で、この言葉はほかのどの先住民の言葉とも関連がない。前回の調査ではヨーチ語を話すエルダーは5人だった。20世紀に強制的に子どもたちの話す言葉を英語に転換させられたことで、部族は英語を公用語にするようになった。

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Saturday, September 15, 2007

現代日本人の約2割が日本列島の先住民とおなじタイプの耳あかを持つ

よく言われてきたことだけど、ネイティブ・ジャパニーズとはなにかを考えるためにも、ときどきは自分の耳あかをほじくり出してじっくりと観察してみましょう。

arrow2耳あか遺伝子に地域差 高校生が日本人類遺伝学会で発表

耳あかが湿っているか、乾燥しているかは遺伝子のタイプで決まるが、どちらの型の人が多いかは地域によって微妙に違う−。

長崎県の高校生らが、全国の高校生から集めたつめのDNA分析を基に、長崎大と共同でこんな研究結果をまとめ、東京で開催中の日本人類遺伝学会で15日発表した。

研究に取り組んだのは県立長崎西高3年の山田賢輔君(18)ら。

耳あかは、両親の双方から特定の変異がある耳あか遺伝子を受け継ぐと乾燥型になる。過去の研究から、古くから日本にいた縄文人は変異がなく湿っていたとみられるが、大陸から渡来した弥生人は乾燥型だったとされ、現代の日本人は約八割が乾燥型といわれる。

山田君らは、地域による違いがあるのかを調べようと計画。長崎西高は理数教育に重点を置く「スーパー・サイエンス・ハイスクール」の指定を文部科学省から受けており、全国のスーパー高校に協力を呼び掛けた。これまでに28道府県の32校から計771人分の高校生のつめを集め、長崎大で遺伝子の型を分析してもらった。

すると、乾燥型の比率は岐阜、京都、愛媛、大分などで比較的高く、岩手、三重、島根、沖縄などでは低めとの結果が出た。耳あかと遺伝子の関係を解明した新川詔夫長崎大名誉教授(分子医療)は「もっと詳細に調べれば、弥生人の移動経路の推測に役立つかもしれない」と話した。

(2007/09/15 10:38 サンケイWeb)

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Thursday, September 13, 2007

「美しい国」は誰が創られたのだろうか?

Cheyenne Warriors

ここにお聞かせするのは、シャイアンの人たちが歴史をどのように伝えているのかを知るために参考になる話である。19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカの人類学の重鎮だったジョージ・A・ドージィ George A. Dorsey の1905年の報告に記録されている「シャイアンの創世記 グレイト・メディスンが美しい国を創られた」を個人的に興味があって翻訳してみたものだ。十数年程前に、おなじシャイアンの人たちに伝えられたメディスン・ストーリー(不思議な力の物語)である『ジャンピング・マウス』のできる限りオリジナルに近いものを探しているときに出会った話のひとつだ。

話は17世紀後半に、おそらくはすでに渡来のフランス人から火器を手にしていたオジブエの人たちから追われるようにして、シャイアンの人たちが自分たちが狩り場としていたアメリカ大陸北中央部から出ることを余儀なくされたときの状況を、象徴的には伝えているものだろうと推測される。しかしそれだけでなく、この話は、18世紀から19世紀にかけてのシャイアン一族の分裂も伝えているらしい。いずれにせよ、文字を持たなかった人たちの歴史は、たくさんのシンボルが散りばめられたこのようなお話しとして伝えられてきた。文字を持たされてしまったわれわれには、文字を得たのとひき換えに、象徴的に歴史を見る目を永遠に奪われてしまったのだった。

北山耕平 記


Imagename

グレイト・メディスンが美しい国を創られた


すべてのはじまりにさいして、グレイト・メディスンは大地をお創りになられた。そして大地のうえに水を創られた。次に太陽を、月を、そして星たちを創られた。それらができあがると、グレイト・メディスンははるか北の外れのところに美しい国をひとつお作りになった。

そこには冬はなく、氷も、雪が降ることも、凍てつく寒さもなかった。気候は常に春。そこかしこに野生のさまざまな果物やベリーが実り、いくつもの巨木の投げかける影が、大地を縫うように流れる清らかな水の流れを覆っていた。

この美しき国に、グレイト・メディスンはありとあらゆる動物たちや、鳥たち、虫たち、魚たちを置かれた。そしてそれから彼は人間をお作りになり、ほかの生き物たちとともに暮らすようにした。動物たちはすべて、大きいものも小さいものも、鳥たちもすべて、大きいのも小さいのも、魚たちもすべて、そして虫たちもすべて、人間と話ができ、その言葉を理解できた。人間たちも互いに理解し合えた。なぜならみな共通の言葉を話し仲良く暮らしていたから。

彼らはあえて身を隠すものをまとう必要もなく裸で暮らし、野生の果実やハチミツを食べて、ただの一度も飢えることはなかった。人間たちは野生の動物たちとともにあちらこちらと歩き回り、夜になって疲れると、みなはつめたい草の上にごろりと横になって眠りについた。仲のよい友だち同士だったので、陽があるうちはほかの動物たちともよく語りあった。

グレイト・メディスンは3種類の人間を創られた。まず最初に創られたのは、全身が毛で覆われた毛むくじゃらの人間だった。2番目に創られたのは、頭と顔とそれぞれの脚に毛が密生した白い人を創られた。3番目には赤い人を創られた。赤い人は頭にだけ長い髪をはやしていた。

毛むくじゃらの人間たちは力があり活動的だった。顔に長い髭を蓄えた白い人たちは狼たちと同類だった。なぜならこの美しき国においては、白い人も狼も、とにかく他を抜いて狡猾でずる賢い生き物だったから。赤い人たちはみな、走るのが得意だった。身のこなしが軽やかで、動きが速かったから、まだ誰も人間が肉を食べることなど知らなかったときに、グレイト・メディスンはこの人たちに魚を捕まえて食べることをお教えになられた。

それからしばらくして、毛むくじゃらの人たちが北の国を離れて、荒れ果てた大地の続く南を目指した。それに続いて赤い人たちも彼らの後を追って南に向かう準備をはじめた。しかし赤い人たちが美しき国を離れる前、グレイト・メディスンはみなを呼び集められた。赤い人たちが一堂に会するのはそれがはじめてのことだった。

グレイト・メディスンは彼らを祝福したあと、ずっと眠ったままでいた赤い人の頭を覚醒させるために、なにがしかのメディスン・スピリットを授けられた。このことがあって以来、赤い人たちは頭を使うようになり、自分たちがなにをすべきかを理解するようになった。グレイト・メディスンはなかのひとりにとくに白羽の矢を立て、一族の者たちに教えをほどこして集団としてひとつにまとめるようにと、このものに命じられた。結果、ひとり残らず全員が働くようになり、裸の身体にもパンサーや熊や鹿の毛皮をまとうようになった。

グレイト・メディスンは彼らに力をお与えになり、さまざまな石を好きな形に切り出したり、大きな岩のかたまりから火打ち石を切り取ったり、矢尻や槍の穂先や石のコップや鍋や斧などができるようにされた。そしてそれ以後赤い人たちがばらばらになることはただの一度もなかった。

やがて赤い人たちも美しき国を離れ、毛むくじゃらの人たちが辿った道を使って南の同じ方角を目指した。毛むくじゃらの人間たちはあいかわらず裸のままで暮らしていたが、グレイト・メディスンの教えがあったので、すでに着るものを身につけるようになっていた。

赤い人たちが南に着いたとき、先にきていた毛むくじゃらの人たちは、散り散りばらばらになって、めいめいが勝手に丘の影や山々のなかの洞窟に家を構えていた。赤い人たちはめったに毛むくじゃらな人たちの姿も見ることはなかった。赤い人たちがやってきたときには、毛むくじゃらな人たちはそれぞれの洞窟のなかに隠れるようにして外に出ることを恐れていたからだ。毛むくじゃらの人たちも赤い人たちと同じような土器を作り火打ち石を使い、洞窟のなかに木々の葉や動物の毛皮を使って作った寝台で夜は寝ていた。

なんらかの理由で、毛むくじゃらな人たちは数を減らしていき、最後には全員がことごとく姿を消した。この人たちにいったいなにが起きたのかは、今となっては赤い人たちにも皆目わからない。

赤い人たちが南の地についてしばらくたったころ、グレイト・メディスンは彼らに、南の荒れ地が洪水に覆われることになるからという理由で、いま一度北の国に帰ってくるように命じられた。赤い人たちが北のあの美しい大地に戻りついてみると、かつてそこにいた白い肌の人たちと、髭の長い人たちと、野生の動物たちの何種類かがいずこへともなく姿を消しており、人びとはすでに動物たちと話をすることができなくなっていた。

しかし話はできなくなっていたが、そのときには人間はありとあらゆる生き物たちを支配しており、パンサーや熊や同様の猛獣たちにも、望むままに餌を得られるように猟の仕方を教えていた。猛獣たちは数を増やしており、体も、大きく、強く、活動的になっていた。

またしばし時が流れ、再び赤い人たちが美しい大地を離れて南へ向かうときが訪れた。大地を覆っていた水はすでに引いていて、草や木々が生い茂り、荒れ果てていた大地は北の国のように美しく姿を変えていた。しかしその土地に暮らしているあいだ、まだ幾度か洪水が襲ってきて、赤い人たちはその結果、四方八方にばらばらになってしまった。たとえようもない洪水の水がやっと引き、大地が再び乾きあがっても、しかし赤い人たちが昔のようにひとつに集まることはなかった。赤い人たちは、グレイト・メディスンからひとつにまとまるようにと命じられる以前の、あのはじまりのときにそうだったように、それぞれ小さな集団を形作って旅をしていた。

洪水はありとあらゆるものを破壊しつくしていた。人びとは餓死する寸前だった。彼らはもう一度また、三々五々、前のときのように、北のあの故郷に戻りはじめた。だが、人びとが北の大地になんとか辿り着いてみると、そのときには世界が一変していた。美しかった大地がどこも荒れ果てていたのだ。木々が一本もなくなっていた。生きている動物たちは姿を消していた。川には魚一匹泳いでいなかった。かつてはあれほど美しかったふるさとの大地の無残な姿を眺めながら、男たちは声をあげて泣いた。女たちも、子どもたちも、すすり泣いた。これとおなじことが、グレイト・メディスンがわれわれを創られたあのはじまりのときにも起きていたことだった。人びとは再び南の地へ戻り、わずかながら良い年もあったものの、ほとんどの年はひどい状態で、それでもなんとか生き続けた。

それから何百年も過ぎた。そしてまた新しい冬が巡ってくる直前のことだった。大地が激しく震えた。高い山々で火事が起こり煙が立ちのぼった。その冬は再びとてつもない洪水が襲ってきた。冬は長く、またことのほか寒くて、人びとは毛皮を身につけねばならず、洞窟での生活も余儀なくされた。寒い冬は木という木を枯れ死させたが、それでも春の訪れと共に新たな成長が見られた。赤い人たちは大変な被害をこうむり腹をすかせた。

グレイト・メディスンは赤い人たちをたいへんに哀れんで、トウモロコシを授けてこれを地面に植えさせ、バッファローを与えて肉を食べられるようにした。そしてそれからというもの、洪水もなくなり、飢えることもなくなった。人びとは南の地で暮らし続け、成長し、数を増やした。たくさんのそれぞれに異なる集団が生まれたが、話す言葉はみな全部違っていて、2番目の大洪水のあとは、もはや赤い人たちがひとつになるようなことはなかったのだった。

もともとのシャイアンの子孫のなかには、超自然的な知恵を持つマジシャンたちがいたのだ。この人たちは一族の者たちを惹きつけただけでなく、生き延びていた動物たちの心もとらえた。いかにどう猛で、荒れ狂っていたとしても、この人たちの前ではみな手のひらを返したように穏やかになり、言うことを素直に聞いた。この魔法の知識は、遠い北の国からやってきたあのいちばんはじめのシャイアンの人たちから伝えられたものだった。今ではその太古からの儀式を理解できているのはブッシー・ヘッド(「もじゃもじゃの頭」が名前の人物)ただひとりで、シャイアン一族では彼を、神器たるメディスン・アローの守護者とその助手たちと同格に位置づけて考えている。

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Wednesday, September 12, 2007

小学校歴史授業に「縄文時代」復活へ

「学習指導要領の改定作業を進めている文部科学省は11日、主に弥生時代から教えることになっている小学社会の歴史分野について、時代をさかのぼって縄文時代以前から教えるように改める素案を作成した」というニュース速報。日本国がどのような縄文時代を子どもたちに教えこもうとしているのかに注目です。

追伸

中国新聞ニュースの『小学社会に「縄文」復活へ 文科省、中教審部会に素案』という記事にもう少しくわしく載っている。素案では「歴史や文化を大切にし、日本人としての自覚を深めるため、農耕の始まり以前の内容についても取り上げる」としているという。

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1492年からテロとの闘いを続ける

Homeland Security

数年前にも別のもので紹介したけれど、やはりもう一度掲載しておこうと思って。アメリカの先住民はその日からずーっと戦争状態にあるのだと言うことを、あらためて確認しておきたい。

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Sunday, September 02, 2007

縄文時代土偶・土製品画像データベース

arrow2 縄文時代土偶・土製品画像データベース (Clay figurines from the Jomon period, a photographic imagery database.)

jomon clay mask
このデータベースは東京大学総合研究博物館・人類先史部門所蔵の土偶、その他土製品、岩版、岩偶などの石製品若干数、総計800点ほどの先史・考古学標本の画像データベースである。当コレクションは1877年のE.S.モースによる東京大森貝塚の調査まで溯り、ほとんどの標本が明治期後半から昭和初期に収集され、中でも明治期に由来するものが多い。これらの標本は、日本の人類学、考古学の草創期に本学の研究者による学術調査の一環として、あるいは寄贈品として集積されたものである。このため、当館のコレクションには学史的に重要な標本が多数含まれ、また、優品が少なくない。
同サイトの解説の一部より
(図版は「標本番号A4117、青森県・麻生遺跡出土の土製仮面」)

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Sunday, August 26, 2007

南アメリカ大陸で起きたことについての20の質問

あなたはいくつ以下の空欄を埋めることができますか?

およそ500年程前、「□□□□」という名のひとりの探検家が、「□□□□」という国から、「□□□□」の岸辺にやってきた。

男が目にしたのは美しい大地。豊かな樹木や鉱物、肥沃な土壌。そこには「□□□□」万人ものインディアンたち。「□□□□」もの部族、話される「□□□□」もの言葉。部族間にたまに起こるいさかいをのぞけば、じつに平和な人びと。

インディアンのなかでも自分たちの望みや要求に素直に従う“文明化された人たち”を友好的と呼び、侵略者や強盗たちに抵抗するものたちを敵対的と名づけた。

友好的であれ敵対的であれ、いずれにせよ良いことはなにもなく、希望もなかった。友好的な人たちは「□□□□」といった奇妙な新しい病気にかかって、わけもわからずにばたばたと死んだ。敵対的な人たちは圧倒的な武力であっけなく皆殺しにされた。

500年後、生き残ったのは「□□□□」人ほどで、部族の数では「□□□□」、言葉の数では「□□□□」だけになっていた。

「□□□□」といったさまざまな見せかけをした荒くれ者たちは略奪や強姦をほしいままにした。大地は奪われた。「□□□□」の聖人たちが、「□□□□」の名のもとに不信心な異教徒たちを殺害したことで、人びとのなかから希望が失われることになった。

現代における最大の悲劇のひとつは「□□□□」の「□□□□」である。

こうした大虐殺は国際社会で不評を引き起こすことになった。大きな騒ぎが起こり、土地の一部がインディアンに返還され、安全地帯がもうけられた。

だが「□□□□」政府は、政府機関が本来自分たちが守るべき人たちから土地財産を奪うことを認めたことで、自らの内部崩壊を認めざるを得なかった。

病原菌のつけられた衣類が支給され、またもや人びとのあいだに病気が広まった。「□□□□」や「□□□□」が「□□□□」を散布するのに用いられた。

インディアンを殺害したものには報奨金が支払われた。

これらの残虐行為を推し進めた牧場主や土地の略奪者たちのうちのただの「□□□□」も裁かれることはなかった。

ここまでが質問です。模範解答は「続きを読む」で。

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Friday, August 17, 2007

ネイティブ・ジャパニーズのフィッシャーマンたちだぜ

arrowhead「新世界最初の住民は日本人か? New World's first dwellers Japanese?」という記事が、8月16日のジャパン・タイムズ紙に掲載されていた。ロンドンから共同通信が発信したものだ。記事はニューサイエンティスト New Scientist という雑誌の最新号に、南北アメリカ大陸を最初に小さな舟で旅をしたのが日本からやってきた漁民だったのではないかとする、研究の発表がなされるというもの。

これまで「最初のアメリカ人」はおよそ13,500年年前にベーリング氷橋を歩いて渡りアラスカに入ったアジアからの狩猟採集人[ハンター・ギャザラー]たちとされていたが、今回発表された研究はこの説に疑問を投げかけるものになると記事は伝えている。

オレゴン大学で考古学を教え、パレオインディアンと呼ばれる原インディアンの研究、なかでも環太平洋の古代海洋民の研究をしているるジョン・アーランドソン Jon Erlandson 教授は「新大陸に最初に到達したのはおそらく漁民(フィッシャーマン)たちで、海洋中を連続して続いている昆布の林を追いかけて、太平洋岸を日本からアラスカへ、そして南カリフォルニアへと移動してきた」という持論をいくつかの科学的な根拠を元に展開しているという。「その人たちは沿岸に沿って移動し探検をしていたのだろう。昆布ハイウエイみたいなものかもしれない」とサイエンスジャーナル紙にも語っているとある。

この記事を書いたのは日本人の記者であることは間違いない。そうでなければ13,000年前の日本列島に日本人がいたなどとは考えることもないだろうから。問題にされるべきはこうしたメディアの姿勢なのかもしれない。日本人というのは、日本を建国した人たちによって1,300年ぐらい前に考え出されたコンセプトであり、それ以前には日本人などは影も形もなかったのであるから。

もちろんアーランドソン教授の研究自体はきわめて説得力のあるもので、現在のチベットと日本と南北のアメリカ先住民にのみ共通するDNAのタイプの調査研究や、20,000年前の縄文人が丸木船で伊豆の神津島まで黒曜石を黒潮を超えて採集に行く技術を持っていたことなどから、15,000年程前に南北アメリカ大陸の太平洋沿岸に姿をあらわした人たちは、昆布の採集や海の採集をする現代日本人が暮らしている日本と呼ばれている島々から訪れた人たちであったと考えているらしいが、その人たちを短絡的に「日本人」として報道してしまうところが、日本の今のジャーナリズムの限界を露呈している。きっとこれを読んだ現代日本人のなかには、「最初のアメリカ人は日本人だ」と思いこんでいい気持ちになる人がたくさん現れるのだろうな。

ネイティブ・ハートという当ブログを長く読まれてきた方なら、ことはそんなに単純ではないことがわかるはずだ。ネイティブ・ジャパニーズは、日本人のなかに消えているが、その人たちが日本人だったことはただの一度もない。日本語を話していたわけでもない。この人たちは、日本列島もその一部である北太平洋の沿岸地帯をテリトリーとする地球に生きる人たちの一部である。ネイティブ・ジャパニーズは、日本人の血脈のなかに姿を消した・あるいは隠れているのだろう。しかし彼らを日本人にしてしまうことは、アメリカ・インディアンをアメリカ人にするのと同じぐらい陰謀的なことなのである。ぼくはそう考える。

こうした記事を読むときにつねに考えなくてはならないことは、「日本人」とはなにかということだ。無条件に日本人の存在を前提として受け入れてしまうと、自然やすべてのいのちとつながっている大切なものをそっくり失いかねない。ぼくたちのなかには「日本人ではなかった時代の魂」も宿っているのだから。

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Thursday, August 09, 2007

今日は世界の先住民の日だから

feather

今日は国連が定めた「世界の先住民の日( International Day of the World's Indigenous People )」でもある。日本列島の先住民で、現在まで生き残っているのはアイヌの人たちだけ。北海道という小さな大陸が日本帝国に完全に組み込まれるのは明治になってからのことだが、アイヌの人たちをあの手この手で征服する試みは、軍事武家政権の時代から巧妙にまたずる賢く進められていた。それではアイヌ以外に日本列島に先住民はいなかったのかという視点から、もう一度「日本列島史の細部」を点検すると、飛鳥・奈良・平安時代とされている朝廷貴族政権のころから、武士による軍事政権が完成していくあたりまで、ほかにも先住民たち、あるいはその末裔とわかる人たちが、本州や九州のそこかしこにいたことがわかってくる。

今日本列島で日本人をやっている人たちの祖先の一部は、もともと「倭人」と呼ばれる船を操る人たちで、九州北部と朝鮮半島の南部等にまたがる海洋国家を作っており、この人たちがのちに「日本」を建国して、文明というさまざまな仮面をかぶりつつ差別を巧みに操ることで周辺に「日本人トリップ」を押し広げていった。そうやって周辺にいたさまざまな先住民たちを征伐征服吸収して日本人化していったわけ。これはちょうど、イギリス人がコアとなってアメリカを建国し北米大陸に「アメリカ人トリップ」を強制したのと同じようなものだ。アメリカ人という人たちがもともと存在しなかったように、日本人と呼ばれる人たちがもともといたわけではないと考えると、話の筋が通る。千年を経てもなお日本人が日本列島のネイティブたり得ない理由もそこにある。

we are one

日本人が日本列島の自然にたいする敬意を回復することはなかった。日本というのは、はっきりと言ってしまえば征服国家であり、さまざまにいた日本列島の先住民たちを絶滅させたり内部に取り込んだりしてミキサーにかけて形作られているからだ。では日本人なるものがもともと存在していなかったとすれば、たまたまここで日本人をやっているぼくたちの「隠されたルーツ」はどこにあり、どこで自分のスピリットを地球とつないでいたのだろうか? ネイティブの根っこを引っこ抜かれることで日本人になったぼくたちが、もう一度地球の声を聞けるようになるためには、自分のなかの奥深いところで精神の監獄に入っている名前を喪失した先住民を、ひとりの地球に生きる人としての自己を解放してやる以外に道はないのかもしれない。ということで今日は世界の先住民の日。あなたのなかの先住民と地球の先住民はひとつ。

next International Day of the World's Indigenous People - UNPFII - United Nations Permanent Forum on Indigenous Issues

追伸 長らくお待たせしましたが当ブログの日本と日本人についての論考に新たな書き下ろしを加えて、もう一度日本列島のネイティブとなる道を探るためのテキスト『ネイティブ・アメリカンと・ネイティブ・ジャパニーズ』太田出版刊行は、ようやく校了となりぼくの手を離れましたので、8月末日、次の満月(ハーベスト・ムーン)を過ぎたころには書店に並びます。定価1449円(本体1380円+税)。

Native America & Native Japanese

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Sunday, August 05, 2007

もしかして、この顔に見覚えがありませんか?

kennewick_man

「最初のアメリカ人」とされている人の科学的な想像図で、2006年の5月にタイム・マガジン(US版)の表紙になりました。ワシントン州ベントン郡のケネウィックという町の近くのコロンビア川の堤で発見された9000年前の人骨から復元された人物の想像図です。記事のなかでひとりの科学者は「この人物はシベリアや北東アジアの人たちとのつながりは見つけられない。どちらかというと、ポリネシア人か、あるいは日本の北部にだけ今も暮らし、歴史以前には東アジアの沿岸部に広く暮らしていたアイヌか、南のアジアの人たちなどとよく似ている」と語っている。もしかしてあなたのまわりにこの人とよく似た人物はいませんか?

arrow2 Who Were The First Americans? - TIME

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Wednesday, June 06, 2007

ポリネシアの人たちの南米大陸到達は1407年以前であることの証拠

petroglyphポリネシアの人たちが太平洋を渡って南米大陸に到達したのは1407年以前のことだったことが証明されたと、6月5日のロサンジェルスタイムズが報じた。この事実の証拠とされたもの、それはチリの古代遺跡から発掘されたニワトリの骨だった。

imagename放射性炭素年代測定と遺伝子分析の結果、ニュージーランドの科学者がチリで見つかったニワトリの骨の起源がポリネシアにあることを突き止めたもの。遺伝子分析によれば、南中部チリ(Arauco半島の南の側の上の内陸のおよそ1マイル半)のEl Arenal-1と呼ばれている遺跡で見つかったニワトリの骨の遺伝子が、チリから8000キロ以上も離れたサモアやトンガのニワトリのものと遺伝子配列が一致していたのだ。遺伝子の配列はまた、ハワイやイースター島のニワトリともよく似ていたという。問題のニワトリの骨が回収されたチリの遺跡は、調査の結果西暦700年から1390年まで使われていたとされる。

かつてトール・ハイエダールというノルウェーの探検家がインカの人たちがいかだで南米からポリネシアに到達したことを証明しようと、ペルーからトウアモトウ語諸島への6920キロのいかだによる航海を100日以上をかけて成功させたことがあるが、それは、ポリネシアの人たちの航海技術の確かさを証明したものではなかった。南米原産のスイートポテトが西暦1000年頃にポリネシアのクック諸島で栽培されはじめたという事実と、ヘイエルダールの旅行は、インカの人たちがサツマイモを島へ持っていったかもしれないことを示したが、ポリネシアの島の人たちが南アメリカ大陸に来ることができたことを証明するものではなかったのだ。

カリフォルニア州立大学バークレー校には、南カリフォルニアの太平洋沿岸に暮らしていたチュマッシュ・インディアンは、厚板を縫い合わせて造るカヌーの作り方をポリネシアの人たちから学んだと主張する言語学者がいる。インディアンの人たちの使う釣り針とポリネシアの人たちのそれはただならない類似を見せる。

ポリネシアの人たちが南太平洋を渡って南米大陸に到達できたと考えるのなら、同じようにハワイから南カリフォルニアまで到達できていたとしてもおかしくないと思いませんか。ポリネシアの人たちは昔も今も偉大なる航海者たちなのです。

おりしも、ポリネシアのハワイからはるか西のミクロネシアを経由してホクレア(喜びの星)という名前の双胴のカヌーが、沖縄から日本列島にやってきています。今週の土曜日ごろには最終目的地の横浜にやってくる。この偉大なる太平洋の航海者たちよ!

source : Polynesians beat Spaniards to South America, study shows - Los Angeles Times

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Thursday, May 17, 2007

血液定量制——100%インディアンから1%インディアンまで

rockart01.gif「血液定量制(Blood Quantum / ブラッド・クアンタム)」というもの——考え方——がある。もともと自分たちの土地でないところに侵略してかってにそこで国家を樹立して、その土地に以前から住んでいた「先住の人たち」を排斥し征服して居座ったままのアメリカ合衆国政府が、誰を「ほんもののインディアン」として認定するかどうかは、その人間の血液のなかに占めるインディアンの血の量で決定されるというもので、何世代か前の先祖が100%インディアンの——普通これを「フル・ブラッド」と呼ぶ——のときから、純血ではないインディアンたちとどのように結婚を重ねて血が混ざっていったかを、おそろしく不可解な矛盾だらけの方法で算出していく。

これをする目的は、白人が樹立した政府が、その先住民がどのくらい白人に近いのか、あるいは白人から遠いのかを、なんとか知ろうとしてはじめたものだ。2分の1(50%)インディアン、4分の1(25%)インディアン、8分の1(約13%)インディアン、16分の1(約6%)インディアンという具合に、分母の数が多くなっていき、分子の数が「1」である場合は、その人は白人に近づいたとされる。逆に4分の3(75%)インディアン、8分の7(約87%)インディアンという具合に、分子と分母の数が近ければ近いほど白人から遠いインディアンとされる。問題があるとすれば、先祖がフル・ブラッドのインディアンだったという文字の記録がない場合は、その人間の「インディアン」の部分は完全に否定されてしまうことだ。またそれがためにインディアンは白人と結婚しないような暗黙の圧力が加えられていくし、白人と結婚すると伝統文化が喪失するのではないかという恐怖がかもしだされる。最近では同じ部族であっても、東と西にわかれてリザベーションを与えられて暮らしている部族のもの同士が結婚した場合、その子どもたちは法律ではなぜか「半分インディアン」とされるケースまである。

A.Warholこうまで血の濃さにこだわったのは、もとより先住民を「獣と同類」と長く認識して、これを排斥してきた白人の側に理由がある。また今となっては政府にとっては生活保障をできるだけ減らしたいという現実的な問題もある。インディアンにとって混血の問題はどうだったのかを、昔年寄りに聞いてみたことがある。ローリング・サンダーは「インディアンというのは血の問題ではなく生き方の問題だ」と言っていた。コロンブスがやって来る以前のアメリカ先住民の考え方では、異なる部族の者同士が結婚して血が混ざったとしてもその子は母親の部族の人間として育てられた。実際、ほとんどの部族が部族間の結婚を繰り返していて、アメリカ大陸の先住民たちの血はそれこそ「るつぼのなか」のように混ざりあっていたと考えられる。そうやって血液が混ざりあって数千年を経たあとも、それぞれに異なる伝統文化が消え失せてしまうようなことはほとんど起こらなかった。いくつかの部族では例外があったものの、生まれてきた子供たちは母親の伝統文化のなかで育てられるのが通例だったからだ。自分たちがどのくらいの割合でその部族の人間なのかを問われることはまったくなかったし、自分でその割合を証明する必要もなかった。父系制の単一文化というパワートリップによる国造りが母系制の前に押しとどめられていた。

白人国家というパワートリップがはじまって、500年が過ぎ、アメリカ大陸における混血の速度は多くの人たちの推定を越えて早く進行していて、2050年にはすべてのアメリカ人のなかにインディアンの血が入り込むという試算をしている研究者もいる。今では、アメリカ人のなかにインディアンの血が混ざっていることなど珍しいことではないので、インディアンの血がほんとうに薄い人たち、分母の数の大きさに比べて分子が小さい人たちを、普通は「ノン・インディアン」といっている。人種差別が徹底していた時代にはけして起こらなかったことだが、70年代に価値の大転換が起きて以来、自分の中日本の少しでもインディアンの血が入っていることを「発見」したアメリカ人が、もう一度インディアンになりたいものだと考えるようになったことが、最近のインディアン問題をより複雑化させていることは間違いない。

以上、「日本人」が日本列島でどのように単一文化のパワートリップによって醸し出されたのかを考える参考になるかもしれないと思えたので、書きとめておく。

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Sunday, May 06, 2007

大阪に蝦夷の英雄の慰霊碑が建立された

神戸新聞のウェブ・ニュースに出ていた記事と写真。

蝦夷の英雄の慰霊碑建立 最期の地?大阪・枚方

aterui monument8-9世紀に朝廷軍の東北侵攻に抵抗した先住民蝦夷の英雄アテルイとモレの慰霊碑がこのほど、2人の最期の地とされる大阪府枚方市の牧野公園に建立された。

アテルイらは802年に征夷大将軍坂上田村麻呂に投降、朝廷軍に処刑されたとされ、枚方市には2人の首塚とされる石がある。

没後1200年を機に岩手県水沢市(現奥州市)と枚方市との交流の一環として「牧野歴史懇話会」ができ、メンバーらが2006年6月、慰霊碑建立の実行委員会を結成。アテルイ、モレの最期の地として地域の人たちに認識してほしいと活動を始め、建立にこぎ着けた。費用は、市内の小中学校をはじめ多くの市民から寄せられたという。

慰霊碑は高さ約1・4メートル、幅1・2メートルの黒御影石製。奥州市や清水寺(京都市)に建立された慰霊碑同様、清水寺の森清範貫主が「伝 阿弖流為 母禮之塚」との碑文を揮毫した。

蝦夷(えみし)の最後の偉大なチーフとサブ・チーフの記念碑が1205年を経て建てられたことを伝えるニュースだ。ちなみに小生の本『ネイティブ・タイム』から802年の項目を以下に再録しておく。

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イヨマンテは祭式儀礼と環境省が認める

MSN毎日インタラクティブニュースから
アイヌ儀式:「イヨマンテ」禁止通達を52年ぶりに撤廃というニュース

<アイヌ儀式>「イヨマンテ」禁止通達を52年ぶりに撤廃
(毎日新聞 2007年5月2日 1時04分【横田愛】)

アイヌ民族の伝統儀式「イヨマンテ」(クマ送り)を「野蛮な行為」として事実上禁じた1955年の北海道知事名の通達について、道は4月、52年ぶりに撤廃した。イヨマンテは、神とあがめるクマの魂を天上に送るための儀式で、撤廃により行政が初めてアイヌ文化の枢要をなす儀式を認めた形だ。北海道ウタリ協会の阿部一司副理事長は「(イヨマンテの禁止は和人とアイヌ民族との)同化政策の総仕上げの意味合いがあった。今後は力を入れて儀式を復活させていきたい」と話している。

イヨマンテについて道は55年、支庁長と市町村長に対し、「アイヌ民族の宗教儀式として生活文化を形成する要素となっていることは是認されるが、社会通念上または教育上好ましくない」「野蛮な行為であり廃止されなければならない」とする通達を出した。通達に法的拘束力はないが、近年の開催は極めて少なくなっていた。道自然環境課は「どういう目的、経過で出されたのか今となっては分からない」と説明する。

同協会は05年、道に対して通達撤回を求め、道は国に動物愛護管理法との兼ね合いで正式な見解を出すよう要請。環境省は昨年10月、同法に基づく基本指針で、動物を利用した祭式儀礼について「正当な理由をもって適切に行われる限り法律に抵触しない」と初めて示した。これを受け、道は今年3月、環境省に改めて照会し「イヨマンテは祭式儀礼に該当する」との回答を得たため、4月2日付で通達の廃止を通知した。

阿部副理事長は「通達の廃止は評価するが、今後どれだけ徹底していくかが重要。多民族、多文化の共生と、アイヌ文化の復活につなげていきたい」と話している。

  ◇  ◇  ◇
イヨマンテ アイヌ民族は、クマを「人間の世界に姿を変えてやってきた神」と位置付けており、大切に育てたクマの魂を天に返すことで謝意を示し、再び人間の世界に恵みがもたらされることを願う儀式。古くは近隣の村から大勢を招いて執り行われ、生け捕りにして2年ほど飼い育てた子グマに矢を放ち、肉をふるまった。近年は胆振管内白老町、日高管内平取町、旭川市などで数年に1度行われている。

▼ English Hokkaido retracts ban on Ainu people's traditional ceremony

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Friday, April 20, 2007

人間にとって歩くことは祈りの形のひとつ

walk9

*3月21日春分の日に島根県の島根原発を出発して6月22日夏至に六ヶ所村に到達するピースウオークが石川県に到達しようとしています。熊本デアンナプルナ農園を営む正木高志さんが提唱してはじまりました。木を植えながら、おむすびを食べながら、日本海側を北上中。憲法9条の精神と六ヶ所の事を伝えようという祈りの巡礼です。[スタジオ・リーフ/人間家族編集室からの情報]

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Wounded Knee

Wounded Knee

*19世紀末のゴーストダンスという平和と希望を求める平和運動と、その結末としてウーンデッドニーで起こった虐殺事件が、ネイティブ・アメリカンの人たちの頭とこころにどのくらい深い影響を与えているかを知ることができる。

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Friday, April 13, 2007

死者の饗宴というワイアンドット一族の習慣

Inside Longhouse「ワイアンドット」は、以前は「ヒューロン」と呼ばれていた人たちだ。ヒューロンというと地が北米にはいくつもあるためにまぎらわしいとして最近は「ワイアンドット」とか「ウェンダット」と呼ぶようになっている。カナダのケベック州の南部南オンタリオにもともといたイロコイ語族に属すクウェンダケなど先住民族の4つの部族の連合体で、ヒューロン族という名前はフランス人の探検家の命名によるもの。

ワイアンドットの人たちは大きな村を形作り、ロングハウスと呼ばれる長屋で暮らしていた。長屋は「ガナンチャ」と呼ばれる、幅約6メートル、長さが50メートル近くもある大きなもので、内部にはふたつの炉が作られ、天上には煙抜きの穴がふたつあけられていた。1410年に現在のニューヨーク州にあった最大の長屋は全長が125メートルもあったという。(図はロングハウスの内部)

彼らは10年から15年に一度、長屋の地面が乾燥しきってしまうと、村全体が別の——地面がしめっている——土地に移住することを昔から繰り返してきた。村の周りには当然ながらその土地に暮らしてきたあいだに亡くなった人たちの墓が作られている。そして村が移動する際には、非業の死を遂げたもの以外の死者の骨は、そうした一時的な墓からあらためて取り出されて、部族が共有する納骨場所に移された。納骨場所は地中に掘られた深い穴で、周囲をビーバーの毛皮で囲われていた。その移動にさいして、死んだ一族の者への深い愛情を表し、部族と部族の同盟をより強固なものとするために、「死者の饗宴」が盛大に開かれ、死者の魂を解き放ち、先祖の神々が生きて暮らしている西方の土地へ旅立たせる儀式か執りおこなわれた。

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Tuesday, April 03, 2007

このつぎにポテト・チップを食べるときに思い出してください

potato_chip_george_crum人間がこの地球で栽培している作物で、最も多く消費されているものは米。では2番目にたくさん人間の胃袋におさまっている作物といったら、それはジャガイモ、ポテトなんだな。そのポテトを薄く輪切りにして、からっと油で揚げて、軽く塩をふったものが、ポテト・チップで、これを好きな人は意外なほどたくさんいる。どのスーパーマーケットやコンビニに行っても、実にたくさんの種類のポテト・チップが人々を招き寄せている。最近の日本語では「ポテチ」と省略して呼んだりする。ポテチはアメリカ人だけでなく世界の多くの人たちが好物にしているスナックである。

しかしこのポテチこと「ポテト・チップ」がネイティブ・アメリカンの発明だと言うことを知っている人は少ない。ぼくも教わるまではそんなことを考えたこともなかった。

ポテト・チップは1853年に作られた。この年はペリーを乗せた黒船が江戸湾の入口に姿を見せた年である。この年、ニューヨーク郊外のリゾート地のしゃれたレストランで料理人をしていたネイティブ・アメリカンとアフリカンの血を引く——いわゆる「ブラック・インディアン」の——ジョージ・クラムという人(写真)が、彼の調理したフレンチフライのジャガイモの厚さが厚すぎるといって二度も皿を突っ返してきたお客に腹を立てて、載せているフォークが透けて見えるぐらい薄切りにしたポテトでカリカリのフライを作ったことが端緒である。

あくまでも抗議のつもりでわざとつくって見せたものが、彼の意に反して大評判となったのだった。リゾート地にやってくる物見高いお客たちは紙のように薄いポテトに熱狂したという。そのリゾート地の他のレストランでも、クラムが思いついたポテト・チップを注文する客があとを絶たず、いつしかその薄切りのポテトをからっと揚げた料理は「サラトガ・チップス」という名前で呼ばれるようになった。

それから7年後の1860年に、ジョージ・クラムはサラトガ湖のそばに自分の店を開店。多くのセレブや各界の著名人や金満家が彼の店の常連になったという。クラムは1914年に92歳でなくなった。

arrow2 A History of the Potato Chip

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Friday, March 30, 2007

縄文土器の底にアサの果実

縄文土器の底にアサの果実 秋田・由利本荘の貝塚から [CHUNICHI WEB PRESS]

縄文土器の底にアサの果実  秋田・由利本荘の貝塚から

秋田県由利本荘市教育委員会は29日、縄文時代早期の菖蒲崎貝塚で出土した縄文土器の底から、炭化した約7600年前のアサの果実10数粒が見つかったと発表した。アサの繊維でできた縄や種子が見つかった例はあるが、アサを加工、利用しようとしている状況が分かる例はなかった。市教委は「縄文時代の植物資源の海外からの導入や栽培、利用を知る上で重要な発見」としている。

市教委によると、アサは直径約31センチ(推定)の深鉢の中で見つかった。「おこげ」のような状態の炭化物として見つかり、アサの果実と確認された。

市教委によると、食用に加工したり、果実から油を取った可能性があるほか、アサには毒性があるため祭祀に使われたとも考えられるという。

アサは日本に自生しておらず、中央アジア原産とみられるが、日本へ伝わったルートはほとんど分かっていない。

これってつまりは「マリファナ」のことですよね。「ハッパ」「ポット」「ガンジャ」その他無数の呼び名があるけど。「毒性があるため祭祀に使われた」って書き方は、底知れない悪意と偏向に満ちています。祭祀というのは神聖な儀式のことじゃないか。こういうときには「毒性」ではなく、少しは言葉を選んで「向精神作用があるために」とか書けないものだろうかしらん ^^;

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Wednesday, March 07, 2007

怒れる白人の子どもたちが立ちあがるとき

Die-in

アメリカの子どもたちの間にも相当不満が募ってきているらしい。この3月19日の正午に、サンフランシスコのダウンタウンで大規模な戦争を止めるための抗議行動「ダイ・イン」がおこなわれる。これはその呼びかけのポスター。「イラクがもしアメリカだったなら」「2003年3月19日の侵攻以来サンフランシスコのベイエリア地区の全人口に匹敵する数のヒトがひどい殺され方をしてたかも!」「その数、7,000,000人」「戦争を止めよう!」「死んだふりで抗議を!」と書いてある。日本の自衛隊もこの戦争に荷担しているんだよな。

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Friday, March 02, 2007

韓国でも中国でも、ものを人格化することはないらしい

eclipse_sun神奈川県小田原市で活動する特定非営利活動法人の「子どもと生活文化協会(CLCA)」と縁があって毎月その機関誌「あやもよう」を贈っていただいている。その2月号と3月号に、評論家で拓殖大学の教授の呉 善花(オ ソンファ)さんと同会の会員のみんなとの質問学習の一部始終が掲載されていた。呉さんは韓国済州島の生まれで、日本に移り住んで23年になる。つまり23年間日本というものを観察し続けてきた人なわけ。その彼女が話のなかで、日本の伝統文化についておもしろい指摘をしている。それは「すべてのものは生きている」という発想を日本人は持っていて、これは韓国にも中国にもないものだと、彼女は指摘したのだ。もう少しくわしくそこのところを引用すると彼女の言葉はこうである。

「ものを人格化するのは日本人しかいないんですよ。もともと古い未開人の世界では、ものも生き物だという発想があったんですが、日本では現代でもあらゆるものを人格化しているんですね。」

このブログの読者であれば、すべてのものは生きているという発想を持っているのは日本人だけでなく、あらゆるものを生き物として、いのちあるものとして接する北米大陸の先住民もまた同じようにあらゆるものを人格化する心性を持っていることはすでにおわかりのことと思う。

ぼくが驚いたのは「未開人」という彼女の言葉遣いではなく、「韓国も中国もものを人格化することはない」という点だった。もし彼女の言葉を信じるとすれば、中国や朝鮮から遠い昔に「文化」なるものを携えて日本列島に渡ってきた人たちによって日本国が建国されたのだとしたら、日本国の建国の父たちは「大地に心があるという発想すらなかった」ということになる。大地に心があると発想する人たちのことを、その人たちは常に未開人とレッテルをはり続けたことは想像に難くない。現代の日本人のなかに未開の部分が残っているということを彼女はもちろんここで伝えようとしているのではないだろうし、反対にそのことがあるからこそ「日本は世界性を持っている」とも指摘しているところからすれば、彼女が23年間も日本で暮らし続ける力となったものがその部分だったと考えられなくもない。

ぼくは、自分の乗っているおんぼろの車を愛馬と呼び勇ましい名前をつけていたネイティブ・アメリカンの青年を知っているし、石や木や草や空を行く雲までが生きているといったネイティブのエルダーに教えを乞うたことがある。そうした話を聞きながらまったくそれに疑問をはさむことはなく、むしろきわめて自然にそれを受け入れていた自分がそこにいた。

現代日本人のなかにはすべてのものは生きていると言うことを信じない人も当然いる。日本人がそうした発想を持っていたのではなく、そうした発想を持つ人たちとそうした発想を持たない人がかけあわさることで日本人が生まれたと見る方が正しいような気がする。なぜなら、日本列島にもともと日本人がいたなどというのは歴史の捏造かもしれないのだから。

ともあれ、ぼくたちは「すべてのものは生きている」という発想を失わないかぎり、日本人である以前に、地球に生きる人たちとどこかでつながっているのである。

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Saturday, February 17, 2007

ネイティブ・ジャパニーズの衣服か敷物か

編布(あんぎん)編みなにに見えているかは推測するしかないのですが、これは焚き火のあとなどではありません。現在の北海道の恵庭にある、3000年以上も昔の古代遺跡から出土したネイティブ・ジャパニーズ・ピープルが伝ったと見られる衣服か敷物ではないかとされるもの。昨日2月16日の北海道新聞・文化面に掲載された記事はつぎのように伝えている。

縄文の大布出土 3種類の網目模様 恵庭の遺跡 2007/02/16 08:22

【恵庭】恵庭市の柏木川4遺跡内にある縄文時代後期(三千−三千五百年前)の河川跡から縦一・二メートル、横六十センチの布が出土したことが、道埋蔵文化財センター(江別)の十五日までの調査で分かった。一メートルを超える縄文時代の繊維品は全国でも珍しいといい、同センターは「縄文人の編み物文化を知る大きな手がかりになる」と話している。

 布は、地表から一メートル下の泥炭層から重なった状態で発見された。布は黒褐色で、糸を縦横に直角に交差させる「編布(あんぎん)編み」と呼ばれる縄文時代独特の技法で編まれている。糸は十数本の植物繊維をよって作ったとみられ、太さは三−五ミリ。縦糸と横糸の間隔を変えるなど、少なくとも三種類の網目模様が確認された。

編んで作る布だから「編布」で、これを「あんぎん」と読むのはなぜなのだろう? そのものは「からむし・あかそ・大麻などからとった植物繊維を素材とする布」で、日本列島の先住民の遺跡からしばしば出土するが、こんなに大きな布はかつてなかったという。きっと日本列島ではこの伝統的な編み布を伝えてきた人たちが各地にいたのだろうが、今では新潟県の十日町に残る「越後アンギン」だけになってしまったらしい。

arrow2 越後アンギン

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Monday, February 12, 2007

右の視点からの現行日本国憲法擁護論

創出版が刊行している月刊誌「創(つくる)」3月号[2月7日発売]のコラムに、外交官としてロシアで情報活動をおこない後に鈴木宗男にまつわる事件において背任容疑で逮捕された佐藤優という人物が、「右の視点からの現行日本国憲法擁護論」を書いている。「仮に憲法第9条を改正し、日本が正規軍を保持し、交戦権を確保したとする。その場合、宣戦の布告は誰が行うのであろうか。」この疑問から導き出される思弁的な彼の結論が興味深いので引用しておく。

宣戦の布告が、国会の召集よりも重みがあることは確かなので、天皇が国事行為として行うことになる。日本が行う戦争が勝利すればよい。大日本帝国憲法が制定された時点では「わが国が戦争に敗れることはない」という神話が機能していた。この時点では、国民国家を形成した後の日本国家が戦争に敗れたことがなかったので、そのような希望的観測に基づいて憲法を組み立てることができた。しかし、日本は62年まえに戦争に敗れたではないか。今度、戦争をした場合に負けないという保証はない。敗戦の場合、宣戦布告を行った者の責任が追及されるのは論理必然だ。だからこそこの論理連関を断ち切るために、交戦権は否認しておいたほうがいい。

太平洋戦争敗北後、日本の国体は危機に瀕した。東西冷戦の兆候が顕在化した状況で、アメリカは日本に共和制を導入すると、それがブルジョア民主主義の枠内にとどまらず人民民主主義(社会主義)化することを恐れ、皇統を維持したのである。わが国体は、かなり偶然の要素に作用されて、ようやく護持されたのである。このような過去の歴史から学ぶべきだ。筆者が憲法第9条の改正に反対するのは、それによって、将来、国体を毀損する恐れがあるからだ。

佐藤優(「ナショナリズムという病理 私の護憲論」月刊創3月号)

国体というのは、日本列島の上に敷かれた日本という一枚の絨毯のことであり、その絨毯の下に眠っている大地のことではないのだね。「国破れて山河あり」という言葉があったけど、戦後50年で山も川も海も森もみんななくなろうとしている。「日本」を美しくするためには、やはり自然なんてどうでもよかったのだな。右も左も「母なる日本列島」という視点を持つことはできないようだ。

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Thursday, February 08, 2007

新石器時代の恋人たちだろうか?

skellovenewsバレンタインデーを前に、5000年以上も前の恋人たちの骨が手つかずのまま発掘されたとして、ちょっとした話題になっている。どうやらふたりは最後の瞬間に互いに抱き合ったままらしい。北イタリアのマントバという都市の近郊で発掘されて夢から覚まされたふたりは、顔を見合わせたままからだを寄せ合い、膝をあわせ互いの体に手をかけているように見える。ロイターが記事と共に世界に配信した写真は上半身だけだったが、全身が写っている写真を見つけてきた。写真には発掘にかかわったエレナ・メノッティというイタリアの女性考古学者の先生のコメントが寄せられている。

「新石器時代の墓でふたりが一度に埋葬されているものだってこれまでなかったのです。そのふたりが互いにハグしあったままのようだと聞いてまさかと思いましたが、ほんとうに抱き合っていたのです。発見したときには全員が興奮しました。25年間発掘に携わり、ポンペイなど名だたる遺跡のの発掘もしましたが、これほど感動したことはありません。これは特別にスペシャルな発見なのです」

イタリアの女性考古学者のエレナ先生は一目見てふたりが恋人同士であると確信したというが、ほとんどすり減っていない歯の状態から見て、このふたりは若くして死んだ男性だと見る学者もいる。現在ふたりの年齢と死んだ時期を特定するための分析が研究室で続けられているが、もし、もしも、このふたりが若い男だったとしたら、ふたりの戦士たちは死の瞬間になにをしていたとあなたは見るだろうか?

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Tuesday, February 06, 2007

かつて東北地方には「蝦夷(えみし)」と呼ばれる
朝廷の支配がおよばない人々がいました

東北東北の支配者 蝦夷

こだわりアカデミー・教授対談シリーズ・日本史
工藤雅樹(福島大学名誉教授)インタヴューからの抜粋

蝦夷の人々の中にも、朝廷との関わりに賛成する集団と反対する集団がいました。

どの国でも共通することですが、集団同士は、上から権力で押さえつけられないと、絶えず対立抗争を繰り返す傾向があります。朝廷はその性質を利用して、朝廷側に味方する集団に物や称号を与え、敵対する集団と戦わせました。こうして争いが激しくなっていき、大きな反乱へと発展していったのです。

蝦夷という言葉は本来、「朝廷の直轄支配地の外の人達」という意味を持ちます。だから、もともと直轄支配地にいた人でも、政府の力の及ばない東北の地に移住すれば、その人も蝦夷になります。

例えば北海道の地に住む「アイヌ」と日本人は、人種が違うなどといってきましたが、そうではないのです。

そもそも私達日本人が、同じ顔つきの韓国や中国の人達と違う点は、異なる言語、風俗、習慣、価値基準、そして異なる政府の下にいるということだけであって、そうした要素をなくしてしまえば違いはほとんど分らなくなります。

蝦夷も人種ではなく、民族と捉えるべきだと思います。

arrow2 工藤雅樹教授へのインタヴュー全文

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Wednesday, January 31, 2007

アメリカにとって最も危険な男のクールなドキュメンタリー



1969年から1979年までの10年間に、連邦捜査局(米国、FBI)がのべ17000ページにおよぶ人物調査記録を作成しそのなかで「おそろしいまでに雄弁であり、それがゆえに桁外れに危険」と指摘され「アメリカにとって最も危険なインディアン」のひとりとされてきたジョン・トルーデル(John Trudell)。サム・シェパードが監督としてラコタのリザベーションにおける殺人事件を描いたクールな映画「サンダーハート」でも彼の分身のような男が出てくる。ネイティブ・アメリカンを代表する詩人であると同時にスピリットダンサー、アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)の社会活動家としてもその名を轟かせてきた。アルカトラツ島占領、ワシントンDCのインディアン局(BIA)占拠など、過去30年におよぶほとんどすべてのアメリカ大陸先住民の権利回復運動に深く関与し、その活動の代償として何者かによって妻子は殺害された。これはレオナルド・ペルティエーとならんでアメリカが最もおそれているインディアンの平和活動家の過去と今の姿を追いかけた1時間(60分)のプロフィール・ドキュメンタリーだ。まるでロックコンサートのような熱気あふれる彼のポエトリーリーディングの会場から大自然のなかまで。ロバート・レッドフォード(俳優)、ウィルマ・マンキラー(チェロキー部族会議議長)、ジャクソン・ブラウン(ロック・シンガー)が語る彼の人物像。インデイニアス・ジェネティック・メモリー(先住民としての遺伝子の記憶)から流れ出す言葉を体験してみてください。当時のアルカトラツ占領のテレビニュースも見れるし、アルカトラツ島からアメリカに向けて流された自由ラジオのメッセージも聴くことができる。pbs(アメリカの公共放送)で放映されたもの。インディペンデントレンズ制作、監督 Heather Rae。(英語)

Google VIDEO : John Trudell efforts to gain equality for indigenous people

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Saturday, January 27, 2007

続・正しい時と場所を生きる(1966-1976)

今回も「正しい時と場所を生きる(Native Heart: Thursday, January 25, 2007)」の続きの10年を『ネイティブ・タイム』(補遺・Version 4)から拾い出して再構成してみた。ローリング・サンダーが生きた時代がどんなものだったか理解されれば幸いである。なお76年以降は、Native Time 補遺 Version 4 として、限定的に『ネイティブ・タイム』(地湧社刊 Version 3)の読者のために公開してあるので、お知らせをご覧ください。


バックパッキング革命が起こる
1966年、LSDや大麻やシロシビン(マジック・マッシュルーム)やペヨーテといった、人間をさまざまに縛りつけている文化的な条件づけを解除させる働きを持つドラッグが、欧米の若者たちの関心事になった。アメリカでバックパッキング革命がはじまり、多くの若者たちが寝袋など背中に背負えるだけの家財道具を持って地球を放浪するようになった。そして意識を拡張する働きを持つLSDがアメリカで非合法化されたこの年、ベトナム戦争で死んだアメリカ人が五千人を越えた。国連総会で「国連人権規約B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)」が採択され、その二十七条は「種族的・宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」と明確に規定した。フランスが自国の領土としていた南太平洋ポリネシアのムルロア、ファンガタウファ両環礁で大気圏核実験をおこなった。大気圏核実験は七十四年まで続けられた。

ホピの伝統派と進歩派の分裂が顕在化
1967年、アメリカ中から何万人という若者たちがサンフランシスコ市のハイトアシュベリー地区やニューヨーク市のイースト・ビレッジに「愛の夏(サマー・オブ・ラブ)」のために集まった。支配者的な階層制度に基づく価値観から逃げ出し、体制の網の目からおっこちてヒッピーやフラワー・チルドレンになる−−白いインディアンの−−生き方が、若者たちの心をとらえた。アメリカで大人と子どもの間が内戦状態に。アメリカ合衆国が保有する核爆弾は三万二千五百発と発表された。アメリカ政府の傀儡であるホピ部族会議が、伝統派の人たちの強硬な反対を押し切るかたちで、いかなる「ヒッピー」たちのグループがリザベーションのなかに留まることを独断で禁止し、部族内の対立が激化した。

先住民文化への関心の高まり
1968年、先住民文化への関心が高まりはじめた一方で、混血が急増し、自分が何族に属するのかもわからないようなインディアンも多数生まれて、インディアンの各部族社会が文化的な危機を迎える。アメリカ先住民の間で「白人文化と対抗するためにはインディアンは部族を越えてひとつにまとまるべきだ」という考え方に基づいて「汎インディアン運動」が起き、アメリカンインディアン運動(AIM)が誕生。インディアン市民権法が施行され、部族政府が個人権利を侵犯することを禁止した。ホピのキクモングイのひとりダン・カチョンバはこの年百歳を超えていたがマーロン・ブランドと共にテレビに出演して、電柱の設置問題に端を発したホピのなかの進歩派との争いに言及し、伝統派のホピへの支援を広く大衆に要請した。シカゴで狩猟採集民を研究する世界中の人類学者たちの学会が開かれて「狩猟採集民の生活形態が農耕社会に比べて長時間の余暇を生み、通常は集団を養うに足る栄養価の高い食料を確保する」と結論づける議事録を公開し、社会科学の世界に激しい衝撃を引き起こした。フランスがなにごともなかったかのように南大平洋で核実験を行った。ベトナム南部の集落で米軍による住民の大量虐殺がおこなわれたが、事件は秘密にされた。

アルカトラツ占拠事件のはかりしれぬ衝撃
1969年、結婚したばかりのジョン・レノンとオノ・ヨーコがアムステルダムのヒルトンホテルで最初のベッド・インを行ない「戦争ではなく、愛をしよう」と訴えた。アメリカ合衆国 がアリューシャン列島 のアムチトカ島 で行おうとしている地下核実験 に反対するために、カナダ のバンクーバー に「波を立てるな委員会 Don't Make a Wave Committee」という組織が誕生した。この組織は、のちに「環境」を意味する「グリーン green」と「平和」を意味する「ピース peace」をくっつけて、「グリーンピース Greenpeace」と改名する。モホークのチーフを長とした諸部族からなる八十九人のアメリカ・インディアンの青年活動家たちが、自ら「すべてのインディアンの代表 "Indians of All Tribes"」を名乗り、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツ島を占拠して「アメリカ大陸はもともとインディアンのものである」と世界に向けて宣言した。全米のアメリカ・インディアンたちがこの占拠事件に影響を受けて、ネイティブ・アメリカンの精神復興と権利回復の運動がはじまる。このときのアルカトラツ島の占拠は、同時に進行していたアメリカの若者革命にも影響を与えつつまる二年間続いた。この年、アメリカの宇宙飛行士がはじめて月面に立ち、残りの人類が、月から眺めた地球の映像をテレビで目撃した。地球全体の姿が人類の目にさらされたのはこれがはじめて。宇宙飛行士たちは月面を歩き回りそこで得た石のサンプルを地球に持ち帰った。神秘主義や神霊や魔術や密教への関心が若者の世界で高まりつつあった。前年のベトナム南部の集落における米軍による住民の大量虐殺が内部告発によって世界に知らされた。アメリカ合衆国がアリューシャン列島のアムチトカ島で地下核実験を実施。ホピの部族会議の承認を得たとして伝統派の反対を押し切る形でホピの土地で石炭の大規模な露天掘りによる採掘が開始された。日本国政府が「部落差別の解消は国の責務」として西暦二千年までの特別措置法を制定。改善が必要な地域を同和地区と指定した。

ネイティブ・アメリカンという用語の発明
1970年、アメリカの大統領が公式にインディアン絶滅政策を終了させ、部族に自決権を認めた。アメリカ合衆国内務省が「ネイティブ・アメリカン」という政治用語を発明した。人口構成の一覧表をつくりやすくすることが目的で、この「ネイティブ・アメリカン」のなかには「ハワイの先住民(ハワイアン)」「エスキモー(イヌイット)」「サモアン」「ミクロネシアン」「ポリネシアン」「アリュート(アリューシャン列島の先住民)」も含まれた。すべての先住民の痕跡や真のアイデンティティーをきれいに消し去ることが目的だった。この年の夏、アメリカ大陸南西部のホピの国の周辺でUFOがしばしば目撃された。ホピ・インディアンのなかにはそれを古くから語り継がれてきた「浄化の日」のはじまりだと主張するものもいた。浄化の日が訪れると、ホピは「翼のない船」で別の惑星に運ばれるのだという。このUFO騒動をきっかけにして、ホピの人たちは再び信じる者と信じない者とに分裂した。ディー・ブラウンという小説家の書いたノンフィクション『わが魂をウーンデッドニーに埋めよ』という本がベストセラーに。自分たちの聖地だった青き湖ブルーレイク周辺の原生林の森の自由な通行と本来の所有権の認定を求めて戦い続けてきたプエブロの人たちが60年かかって勝利した。AIM(アメリカン・インディアン運動)の最初の全米会議が開催された。

世界の聖なる中心における資源開発という愚行
1971年、アラスカで「先住調停法(アラスカ先住民権益措置法)」が制定され、北極圏とアラスカをつなぐパイプラインの建設計画が始動。サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツ島に大学を作りインディアンのスピリチュアルな中心としてはどうかというネイティブ・ピープルの提案を拒絶した合衆国政府が、武装した十五人の兵をアルカトラツ島に上陸させた。二年以上居座っていたインディアンたちは、流血さわぎを起こすことなく、整然と島から退去した。四十人の各部族からなるアメリカ・インディアンが、サウスダコタ州パイン・リッジ・リザベーションのなかにあるマウント・ラシュモア国立公園の、アメリカを建国した三人の大統領の顔が掘られている岩山の山頂、ちょうど大統領の頭のてっぺんを占拠して権利の復興を訴えるという事件が起きる。亀の島が長い眠りから目を覚ました。ホピ国の有志が、彼らが「世界の聖なる中心」と見るフォーコーナーズ地域の資源開発に異議の申し立てをおこなった。アリューシャン列島のアムチトカ島でアメリカ合衆国が史上最大の地下核実験(広島型原爆の二百五十倍)を強行した。カナダの市民らがこの実験に反対して現地に船を出して抗議。グリンピースという環境平和直接行動団体が誕生した。日本国の岐阜県下呂市金山町岩瀬でダム建設に伴って発見された縄文遺跡から高さと幅約五〜十メートルの巨石群が見つかり、太陽の観測に使われた暦であることが後にわかった。七月の東京の練馬区で夜間かろうじて天の川が観測された。そしてこのときの記録を最後に、東京では夜に天の川を見ることができなくなってしまった。

アメリカ・インディァン精神復興運動の高まり
1972年、アメリカ合衆国で亀の島の住人たちによるデモがおこなわれた。「アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)」や「破られた条約の道(トレイル・オブ・ブロークン・トリィティズ)」のメンバーや支援者たちがアメリカの首府ワシントンDCで合衆国内務省インディアン局(BIA)の連邦政府ビルを占拠した。シカゴ大学のマーシャル・サーリンズ教授が『石器時代の経済学』という書物を著し、そのなかで「人口が少なく、満ち足りて、特定の地域に精通している状況で、人間は充分に食べ、余暇を堪能し、心身の健康も保たれる」として、人間社会の進化に関する固定観念を覆した。スウェーデンのストックホルムで世界の少数民族の精神的指導者などの代表らも参加して国際連合が人間環境会議を開催し、宣言のなかで「地球の危機」がうたわれた。ローリング・サンダーも招かれてこの会議に参加して先住民の視点からの自然環境の見え方について語った。73年にはアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)のグループに属するインディアンの若者たち二百人ほどが、サウスダコタ州のパイン・リッジ・リザベーションにある交易所と教会とラシュモア山を二か月以上にわたって占拠。ホピの国のオライビ村が白人のよそ者の観光客の立ち入りを禁止した。この事件を契機に亀の島が再び目覚め、アメリカ・インディァンの精神復興運動が大きく動きはじめた。この年のアカデミー賞を受賞したハリウッド・スターのマーロン・ブランドが、授賞式の会場で合衆国政府のアメリカ・インディアンの不当な扱いにたいして抗議の声をあげた。

意図的に作られたホピとナバホの対立
1974年、北海道島の根室市内において祖先供養のための儀式「ノッカマップ=イチャルバ」が開催されたこの年、アイヌ解放同盟綱領案が起草された。アイヌの山本多助エカシが『阿寒国立公園とアイヌの話』という本を著し「エゾが島の主権者はアイヌである事は異論をとなえる余地がない」として、アイヌは「北はカムチャッカに至り、千島列島其の他の小島まで地名を名付けて保護利用していたものである。現在、本州・四国・九州に至るまで少なからずアイヌ語によらなければ解明出来かねる多くの地名の現存して居るのはなんのためなのであろうか。それにカラフト及び黒龍江までアイヌ語地名はなぜあるのか。更にアイヌ語の研究をきわめると日本語の原流を開明出来る其のカギが、アイヌ語の内にしっかりと保管されて居る事はなんのため、どんな理由があるのだろう。大いに疑問を持って研究すべきである」と書き記した。亀の島の先住民であるホピ族とナバホ族の土地争議を解決させるという名目で、合衆国政府がこれに直接関与できるようにするための法律が作られた。狙いはホピとナバホの土地の下に眠っている石炭や石油やウラニウムといった埋蔵鉱物資源だった。ホピ部族会議はこれと前後して自分たちのものと主張する土地を勢力下に置きナバホの人たちを立ち退かせるなど意図的に悪感情をかもしだしはじめた。ホピとナバホの二つの部族の対立をあおることが、地下資源に目をつけた多国籍企業にとっては都合のよいことだったから。

伝統的な生き方を探し求めて
1975年、沖縄県で沖縄国際海洋博覧会が半年間開催され、皇太子が沖縄を訪問したが、「ひめゆりの塔」のそばで現地の青年から火炎ビンを投げつけられた。この海洋博開催にあわせて、ミクロネシアのサタワル島から外洋型航海カヌーに乗った使者が五千キロを旅してやってきた。アメリカ合衆国サウスダコタ州のパイン・リッジ居留地でアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)の活動家とFBIの間で武力衝突が起き、二人のFBI捜査官が死亡した。俗に「最後のウーンデッドニーの戦い」といわれるものである。この事件の犯人としてAIMのメンバーだった青年がのちに容疑者として逮捕され、容疑否認のまま無期懲役の刑を言い渡されて刑務所に収監された。ネバダ州の北東部のカーリンという町の東の外れの二百六十二エイカーの土地に、チェロキーのメディスンマンだったローリング・サンダーと彼の妻でウエスタンショショーニのスポッテッド・フォーンのふたりのヴイジョンに基づいて、部族を越え、人種を越えてもう一度昔ながらの祈りのある生き方にもどりたいと望む人たちにそのための学びの場を提供する非営利の組織メタ・タンテイが築かれた。部族会議と対立するホピの国の伝統派の長老たちが自分たちの機関紙を刊行しはじめた。インディアンの自決と教育を支援する法律によってアメリカ・インディアンの裁量権が拡大した。

「ブラック・エルクは語る」が日本語に訳された
1976年、合衆国でインディアンの健康支援法が施行され、一般のアメリカ人と同程度まで、アメリカ・インディアンおよびアラスカのネイティブの健康程度を高めることが国の政策に盛り込まれた。[この年の十一月に北山耕平が渡米してアメリカ無宿となる。^^; ]翌77年、二年前のウーンデッドニーの武力衝突で、レオナルド・ペルティエというラコタの青年がFBI捜査官殺人の容疑者として逮捕された。ペルティエは最初から殺人容疑を全面的に否定して、以後合衆国政府と裁判闘争を続ける。ホピはナバホとの土地分割によって自分たちから奪い取られたすべての土地の賠償金として五百万ドルを政府から受け取ることを求められた。部族議会は六千人余りの有権者のうちで金を受け取ることに賛成した三百人たらずの数字でこの申し入れを受け入れることに。アメリカ・インディアンのスー族のメディスンマンであったブラック・エルクが語った言葉をまとめた『ブラック・エルクは語る』が、二年前のウーンデッドニーの武力衝突で現場にいたためにアメリカを追われることとなったシャイアン育ちの女性とその夫の日本人の手によって日本語化された。


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Thursday, January 25, 2007

正しい時と場所を生きる

Portrait of RT

Portrait of RT, at the Meta Tantay community
in Carlin, Nevada.
Painting by Hank Greb


"We say there is a right time and place for everything. It's easy to say, but hard to understand. You have to live it to understand it."
-- Rolling Thunder, CHEROKEE


ローリング・サンダーの命日である今日は、彼がインディアンの精神と権利の復興のために最も精力的に活動していた1945年から1965年までの20年間を『ネイティブ・タイム』(補遺)として時系列を追って見ていくことにした。ホピとローリング・サンダーの出会いが、ヨーロッパによる征服以来眠り続けたネイティブのスピリットにいかに目覚めをもたらし、また21世紀の今にもつながる南北アメリカの先住民のルネサンス(正義と平和と自由と調和と自然のよみがえりを求める潮流)や汎インディアン運動といった時代の動きに、どのようにかかわっていったのかの一部でも、読者に理解されれば幸いである。

ホピの国でコヨーテが話した
核爆弾が日本列島の2個所で人間の暮らしている土地に投下されて全世界が原子力時代の入口におかれた1945年はまた、南北アメリカ大陸の先住民にとっては忘れられない年でもある。この年、インカ帝国滅亡後412年目にしてはじめてインディアン会議がボリビアで招集され、1500人の代表が顔をそろえた。その2年後の47年、ホピ国のコヨーテ氏族のキクモングイ(長)が「天から灰のつまったヒョウタンが落ち、海を煮えたぎらせ、大地を焼き、それに続く何年も植物が育たない」ことが起こるまで秘密にするように指示されていた教えと預言をホピの他の指導者たちにはじめてあきらかにした。この預言があきらかにされると、ホピの国では「コヨーテが話すまでは語るな」と指示されていたという教えがつぎつぎとあきらかにされていく。

ホピの教えを世界に広めよ
1948年、ホピの国で、「灰の詰まったひょうたん(原爆と水爆)が二つ大地に落とされる」という予言の実現を受けて、各氏族の精神的指導者たちおよび長老たちの正式な集会が開かれ、ホピの教えを世界の人たちに広く知らしめることの重要性についてはじめて話し合われ、ホピの教えを世界に伝えるための通詞四人が選び出される。これが21世紀までつながるインディアン再生運動のはじまりを告げる出来事だった。まずはその年、ホピの国から貨物列車で預言の確認のことでトーマス・バンヤッカという名前の、外の世界にたいするスポークスマン兼通詞をふくむ使者たちが、東のイロコイ6ヵ国連合に派遣された。ホビの国の人たちはミシシッピ川の東側のインディアンたちは絶滅させられたと思っていたのだが、第二次世界大戦で戦地におもむいた若者のなかにニューヨークから来たインディアンと出会ったというものがいたことから、あらためて使者が派遣されることになったものだ。

ホピ、すべてのインディアンに呼びかける
翌1949年、ホピ・インディアンの三つの村の祖先以来のチーフたちが合議のうえで、「ホピ・インディアン帝国」から合衆国大統領とすべてのアメリカ・インディアンたちに宛てた親書を送り、そのなかで「なにがあなたたちの宗教のもとになっているのか?」と問いかけた。南米のペルーで大きな地震が起こり、クスコという町の近くに建っていたある修道院の地下の地面がふたつに破れて、そこから黄金で作られた古代インカの寺院が姿を現わした。南北アメリカの先住民の国々を代表するエルダーたちが正装でニューヨークにある国際連合のビルの正門前に訪れて議会での発言を求めたが拒絶されている。そして50年にはラコタの聖者だったブラック・エルクが87年の生涯を終えた[ちなみに、この年の暮れにぼくは生まれてる。^^;]

ショショーニの土地に核実験場
1951年にアメリカ政府は「インディアン都市移住計画」を開始する。土地利用問題解決を目的としてホピ国で有名無実化していた部族議会が復活。アメリカ政府が先住民である西ショショーニの人たちから取り上げて軍用地にしたネバダの砂漠にネバダ核実験場の施設を作りはじめた。52年、イギリスがオーストラリア西岸のモンテベロ島で最初の大気圏核実験をおこない、アメリカは大平洋で水爆の実験。53年にはソ連が水爆の実験をセミパラチンスクで成功させ、アメリカ合衆国の大統領が国連で「原子力の平和利用——アトム・フォー・ピース」をぶちあげた。また同じアメリカではこの年に「部族廃止法」が制定されて、特定の部族と合衆国政府間の信託関係が廃止されている。54年には世界で最初の工業用原子力発電所がソ連で稼働しはじめる。

ホピ、ローリング・サンダーらに呼びかける
1955年、アメリカが南ベトナムの軍事政権に肩入れする形でベトナム戦争がはじまった年、それまで人里離れたところでおこなわれていた核実験が、ストロンチウム九○の濃度というかたちで、めぐりめぐって、地球上のすべての人たちに影響を与えていることがわかりはじめる。イギリスが水爆製造計画を公開し、フランスが原爆製造計画を発表したこの年、イロコイ(タスカローラ)のマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーのジョン・ポープ・ローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったインディアンのメディスンマンやスポークスマンたちに、ホピの国で開催されるインディアン統一運動への支援が呼びかけられた。

グレイトスビリットの道へ戻れ
1956年、詩人のアレン・ギンズバーグが「吠える」を発表し、アメリカに最初の白いインディアンであるビート族があらわれたこの年、前年の呼びかけを受けて、ホピ国のホテビラ村において宗教者会議が開かれ、インディアンの国々の代表や白人の心ある人たちが出席して、「ホピの預言」がはじめて英語化されて世に出た。席上「グレイトスピリットの道に戻れ」とする呼びかけが出されて、これがのちのインディアン統一運動へとつながっていくことになる。タスカローラのマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーとショショーニのローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったネイティブのメディスンマンやカフナで、それぞれがインディアン世界のスポークスマンだった人たちにホビの国があらためて支援を要請。この年、アメリカが日本にウランを貸し与えることを認めるかたちで、日本がアメリカの原子力(経済)政策に組み込まれていく。

日本列島に原子力の火が
1957年、日本国の茨城県の東海村に、国策で建造された原子力研究所の実験炉が臨界に達し、日本列島に最初の原子の火がともる。日本国の各地方の電力会社が原子力発電計画を作りはじめる。ジャック・ケルアックが『オン・ザ・ロード(日本語タイトルは「路上」)』を著したこの年、アメリカがネバダ州の沙漠の核実験場で初めての地下核実験をおこなう。イギリスがハワイ島の南に位置するクリスマス島で最初の核実験。ソ連ウラル地方の核工場で核廃棄物の爆発事故が起きたが、その事実は20年間封印された。

ホピ、国連を目指す
1959年、アラスカがアメリカ合衆国の49番目の、ハワイ諸島が50番目の州にされた年、アメリカ南西部の高原沙漠で生き残っていた伝統派のホピの国の人たちが、古代から伝わる伝承に基づき、自分たちの母なる国土の東のはずれに建つ雲母の家(国連ビル)に赴く時だと判断して、代表者6人をはるばるニューヨークの国連に派遣している。ホピに伝わる伝承では、「国土の東のはずれにたてられた雲母の家には困っている人たちを助けるために世界各地から偉大な指導者たちが集まっている」ことになっていた。翌60年、ホピの国で歴史上はじめて女性のキクモングイ(長)が誕生し、聖なる石版が彼女にゆだねられることになった。

次世代を導く使者にえらばれた4人のカリスマ
そして1961年、アメリカ合衆国政府がこれまでとり続けてきた先住民族絶滅と強制移住政策に終止符を打つべく、いくつものインディアンの青年たちの戦闘隊がアメリカ国内で組織された。ホピの国がインディアンの若者だけでなく白人でインディアンの心を理解する世代を導き社会を有益な方向へと組織化し次世代を先導させるための使者として、ローリング・サンダー(チェロキー・ショショーニ)、シム・ワウーテ(チュマッシュ)、クレイグ・カーペンター(オジブエ)、デイビッド・ブレイ(ハワイのカフナ)の4人のカリスマたちを正式に指名した。全米の64の部族から700人を超えるインディアンたちがシカゴに集まり、自分たちの置かれている現状や今後の課題を討議し、自分たちの主張を宣言にまとめた。

サイレント・スプリング(沈黙の春)の衝撃
1962年、日本国が初めて製造した原子炉が臨界にたっし、アメリカ人作家のレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書いた年。ホピのキクモングイらの反対にもかかわらず、ホピの居留地の主要な部分を、ナバホとの共同利用区域に指定するというアメリカ政府の行政命令が出された。そしてこの共同利用区域には、ブラックメサの露天鉱の借地権がふくまれていた。このためにホピの土地とナバホの土地を分割すべしとの声がホピの部族会議のなかで高まる。

権利回復と価値転換のはじまり
1963年、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で金錫亨【キムソクヒョン】という名前の歴史学者が「歴史科学」という雑誌に「三