Sunday, May 11, 2008

古代に朝鮮半島から来た鉱山技術集団とは何者なのか?

rockart07[msn.産経ニュース 2008.5.11 00:21]が、その墓の写真と共に伝えている。当然出雲大社そのものの起源とも関係がありそうだけど、そこまでは記事は踏み込んでいない。この渡来系鉱山技術集団が俗に「出雲族」と呼ばれることになる人たちの祖先なのだろうか? 出雲は、古代に朝鮮半島との「交易(人・もの・情報)」の要衝だった。渡来人による日本建国の拠点のひとつなのだな。

縄文晩期から弥生中期にかけて、九州北部で造られていた支石墓とみられる遺構2基が、島根県出雲市大社町の鷺(さぎ)銅山跡で見つかった。支石墓は数個の支石の上に巨石を乗せる特異な墓。中国から朝鮮半島を経て国内に伝わったが、本州での出土は初めて。大塚初重・明治大学名誉教授(日本考古学)は「(朝鮮半島からの)鉱山技術集団が、北九州経由のほかに、ダイレクトに山陰地方に渡ってきた可能性もある」と注目している。

Source : 本州初の支石墓? 出雲の銅山跡で発見

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Friday, May 02, 2008

亀の島(先史アメリカ)のサウスウエストの住民にとってイヌは友だち以上のスピリチュアルな存在だった

newsアメリカ南西部一帯の先史古代遺跡から、大人や子どもの人骨と共に埋葬されたと思われる古代のイヌの骨がこれまで数百体出土しているという調査結果が4月27日に発表された。しかもその埋葬されているところからは一緒に宝石類も出土するのだという。

イヌの種類ははっきりしないが、南西部アメリカに太古に暮らしていた人たちの精神生活においてイヌたちの果たしていた役割はことのほか重要だったのではないか、とニューメキシコ州サンタフェにあるインディアン芸術文化博物館( Museum of Indian Arts and Culture )の副館長ドディ・フゲイトさんは、ナショナルジオグラフィック誌の記者に語っている。

ドディさんはこの地域におけるイヌの埋葬の調査研究を続けてきた研究者だが、これまでの埋葬の実体を見る限り、イヌは単なるペットの域を超えて埋葬者にとりとてもスピリチュアルな意味を持っていたようだと彼女は言う。

wolflft「新世界のアメリカ南西部においてはイヌたちは、つぎの世界へ入っていくときの護衛のように考えられていたように推測されます。場所によっては儀式のなかでもイヌたちが役割を与えられていたことは間違いありません。埋葬が古くなればなるほど、イヌが一緒に埋められているケースも増えていきます。これまで700ぐらいイヌたちの埋葬されたところを調査しデータベース化してきましたが、イヌたちは儀式の行われた場所にまとめて埋葬されているか、特定の個人と共に埋葬されています」

彼女のデータベスによれば、イヌの埋葬が最も広く行われていたのは紀元前400年頃からはじまり、西暦1100年ぐらいまでの間だとか。そしてイヌの埋葬が行われていた地域は、ニューメキシコ州の北西部からアリゾナとニューメキシコの州境の間に大半が集中している。

Source : Ancient Americans believed dogs to be divine escorts for next life

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Thursday, April 24, 2008

縄文時代の布にさまざまなデザイン

Last Modified Friday, April 25, 2008

北海道埋蔵文化財センター(江別市)が、北海道恵庭市の柏木川4遺跡から、複雑な模様が編まれた縄文時代後期の布が出土したと発表したと共同通信が報じた。模様がデザインされた編み布が古代遺跡から出土するのは国内では初めてだ。

縄文の布

布は2006年秋に、恵庭市の柏木川の旧河道跡で、縦1・2メートル、横0・6メートルの範囲から67の断片に分かれて出土。同時に出てきた土器などから、約3200年前のものと推定された。

糸の材質は分析中だが、植物性とみられる。「もじり編み」といわれる技法を用い、糸の間隔を変えたり穴状のすき間を編み込むなど、さまざまなデザインが施されている。

2008/04/24 18:57 【共同通信】

Source : 縄文時代の布に複雑な模様 北海道恵庭市の遺跡から出土

よくはわかっていないのだが「もじり編み」は複雑な編みカゴなどを作るときと同じ手法だよね。

*写真が縄文時代の布の断片。中央部に穴状のすき間が編み込まれている。

追記

北海道新聞  縦糸と横糸を絡み合わせる「もじり編み」という技法が用いられ、そのパターンが一つの布片に複数見られた。中には横糸の一部を引き出して団子状の模様にした部分や、太い横糸に八本の細い縦糸を編み込んだ部分も確認され、技術の高さを裏付けているという。

Source : 国内初の「模様編み」 恵庭で出土縄文後期の布 3200年前 衣服も高い文化

毎日新聞  編み布は06年秋、恵庭市を流れる柏木川近くの泥炭層に幅0.6メートル、長さ1.2メートルの範囲で埋まっているのが見つかった。炭化が進んでいたが、構造解析の結果、太い横糸に細い縦糸を絡ませて複雑に編み込んだ布であることが判明。編み込み方法は数種類あり、表と裏の模様が違うほか、穴を開けたり溝を付けるなどの細工も施されていた。材質は植物性の繊維で、材料などの詳しい分析を進めている。

Source : 最古の編み布:北海道「柏木川4遺跡」から出土

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Thursday, April 17, 2008

1万年よりもまえの瀬戸内海が誕生する以前の人間の営みが確認された

岡山・犬島で瀬戸内最古級の貝塚を確認

瀬戸内海の犬島諸島(岡山市犬島)に属する無人島に、縄文時代早期(約1万年前)にさかのぼる瀬戸内地域最古級の貝塚遺跡が存在することが15日までに、国立歴史民俗博物館などの研究チームの調査で分かった。

「犬島貝塚」と命名された遺跡には、海水では生息できないヤマトシジミの貝層が広がっており、縄文時代の温暖化による海面上昇で同地域が水没、瀬戸内海が誕生した過程を探る上で極めて重要な遺跡になる。

山陽新聞 WEB NEWS 2008年4月16日

Source : 岡山・犬島で瀬戸内最古級の貝塚を確認

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Wednesday, April 02, 2008

ユーラシア大陸から亀の島へのネイティブの言葉の長い旅

Languagemap

西シベリアのイェニセイ川中流から下流に先史時代から暮らしてきた少数民族にエベンキ、ヤクートといった人たちがいる。ほとんどのイェニセイ川の流域の人たちはすでに姿を消したが、このかつてエベンキの国のすぐ西に、ただひとつケットという名の人たちだけがかろうじて今も生き延びて暮らしているという。

イェニセイ川の先史時代ケットの人たちはおよそ1200人が現存するが、そのうちケット語を話せるのは200人ほどだという。そしてそのわずかの数のケットの人たちの話している言葉が、遠くベーリング海峡をはさんで東側の新大陸に暮らしてきたアラスカやカナダのアサバスカンやエヤンク、クリンギット、アメリカの北西太平洋岸のフーパ、そしてサウスウエストの沙漠に暮らすナバホ(ディネ)やアパッチの国といったところで生きているアメリカ大陸先住民の話すナ・ディネ言語と深いつながりのあるらしいことが、この3月上旬にアラスカのアンカレッジで開かれた言語人類学者たちのアラスカ人類学協会の年次総会であきらかにされたと、アンカレッジで刊行されている新聞が伝えた。研究を発表したのは、ケット語の解析を10年間続けてきたウエスターン・ワシントン大学の言語学者のエドワード・バホダ研究員ら。

1万年から1万2000年前に、氷河期時代に北ユーラシアで生きていた狩猟者たちがベーリング陸橋を渡って旧世界から新世界に足を踏み入れるまでは南北アメリカ大陸に人間は暮らしていなかったと結論が出されて以来、アメリカ・インディアンの話す言葉とシベリアの少数民族の言語とのあいだに関係があるのではないかとこれまでも推測されていたが、ここまではっきりと特定の言語の原郷が指摘されたのははじめてではないか。エドワード・バホダ研究員は「ケット語とナ・ディネ言語のあいだにはただ単に音が似ているといった共通点以上の、もともと共通のひとつのものだったとしか説明できない特異点があまりにも多い」と話している。

Source: Distant Native languages bridge Bering Sea

参考サイト:北ユーラシアの歴史 貂主の国 イェニセイ川の先史時代

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Monday, March 17, 2008

すべてのアメリカ・インディアンたちの6人の母

DNAアメリカ・インディアンの95%が2万年前にアジアからアメリカに渡ってきた6人の母親の子孫であることがわかったと遺伝子研究の専門家が発表した。15日のUPI電が伝えたもの。

この事実を報じたCNNなど他のいくつかの報道をまとめてみると、今回の遺伝子調査は母から娘へと伝えられるミトコンドリアDNAの研究に基づいたもので、今までにおこなわれたどの調査よりも総合的なものであるそうだ。そして、この6人の女性たちのデオキシリボ核酸(DNA)の形見が北米・中米・南米のすべてのインディアンの95%から発見されるのだという。

ただしこの6人の女性たちだけが、アジアからアメリカに渡ってきたインディアンのすべての祖先であるというわけではないらしい。研究者によれば、この6人の女性は、1万8000年から2万1000年前のあいだのどこかで別々に生きていたのであって、全員が同じ時に生きていたわけではないからだ。そしてこの6人がどこにいたのかというと、それは今のアジアのどこかではなくて、かつてアジア(シベリア)と北米(アラスカ)をつないでいて今は海のなかに没している陸橋ベーリンジア、橋とはいえ幅1400キロの大平原のなかのどこかであったらしい。CNNはこう書いていた。

この時代には、もっと多くの女性が生きていたはずだが、現在のアメリカ大陸で暮らす先住民に引き継がれたミトコンドリアDNAの由来は、この6人だったとしている。

アメリカ大陸へどのように人類が居住したかを研究している米フロリダ大学のコニー・マリガン氏は、先住民の祖先が6人に集約されることは、驚くことではないと話す。現在の先住民の人数を考えれば、6人は妥当な数だという。

しかし、この研究からは、この6人の女性が「どこで」暮らしていたかはわからず、また「どれぐらいの人数」がベーリング海峡付近を離れてアメリカ大陸へ移動したかがはっきりしないため、さらに詳しく研究する必要があると話している。

ぼくとしては、残りの5%の母親のことも気になるのだが・・・

next Genes link 95 percent of American Indians

next アメリカ大陸の先住民、2万年前の「女性6人」が先祖

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Friday, March 14, 2008

「植民地化」についての個人的なメモ

植民地化という言葉は英語では「コロニアリズム(colonialism)」という。このコロニアリズムは「コロン(colon)」という英語の単語と関係がある。コロンとは「消化器官のひとつである大腸」のことだ。つまり植民地化とは「消化してしまうこと」「ひとつの国をまるごと食べ尽くすこと」であり、植民地にされることは「一族の土地といのちとその人たちの富や伝統がことごとく消化されていくプロセス」ととらえることができる。

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Thursday, March 13, 2008

抱きしめられたい?

女性土偶

埼玉県の久喜インターから15分ほどの菖蒲(しょうぶ)町役場前の小林八束(おばやしはっそく)1遺跡で発見された縄文後期(約3500〜4000年前)のユニークな表情をした女性土偶。高さ4・7センチ、顔の直径は3・5センチ程度で、胸にふくらみがある。鼻から口にかけてゆがんでいるのが特徴で、叫んでいるようにも見える。文様や土質などから縄文後期のものと推定されている。読売新聞(YOMIURI ONLINE)埼玉版 3月13日より。

Source : 菖蒲では女性土偶 小林八束1遺跡 18、19日公開

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Saturday, March 08, 2008

今の大阪のあるところは、日本がつくられる前「豊かな狩り場」だった

feather
キャンプ(野営地)で狩りに用いる石器を加工しながら、水場に集まる獲物を狙う——。そうした、後期旧石器時代(約2万3000〜約2万年前)の日本列島先住民の暮らしの痕跡が、大阪市平野区の瓜破(うりわり)北遺跡で見つかったと、YOMIURI ONLINE(読売新聞)が伝えている。

縄文時代中期(約6000〜5000年前)までの間の石器が、破片も含めて2000点以上出土したのだそうだ。ここが長期間にわたる「豊かな狩り場」だったことがわかり、専門家も「大阪市内で、1か所から大量に見つかるのは珍しい」と言っているほど。記事はつぎのように続ける。

後期旧石器時代の石器は、ナイフ形石器(長さ3〜9センチ)約50点など。薄くはがれた破片や石の芯の部分なども、まとまって見つかった。縄文時代は、石の矢尻(長さ1〜3・5センチ)約50点など。いずれの時代も石器製作跡と確認できた。

使われた石は、大阪、奈良府県境の二上山産サヌカイトが大半。近畿北部産チャートや瀬戸内産凝灰岩、府外でしか採れない黒曜石もあり、交流の広さがわかる。また、調理用とみられる焼けた石が見つかったが、住居跡などは確認できず、野営をしていたらしい。

大阪平野南部の丘陵地から北に延びた、台地の先端に立地。調査地東側に南北に延びる谷跡があり、多数の木の根が残っていたことから、当時は水場が近い森で、多くの動物などの獲物がいた可能性が高い。田中清美・市文化財協会担当課長は「後期旧石器時代と縄文時代の石器製作技術の違いや、当時の生活の様子が具体的にわかる」と話す。

Source : 古代の大阪「豊かな狩り場」旧石器〜縄文時代平野・瓜破北遺跡 2000超す石器出土

このニュースを読みながらまず頭に浮かんだのは「幸福な狩り場」という言葉だった。これはアメリカ大陸先住民のなかの、イロコイ、チェロキー、アルゴンキン、ラコタ(スー)といったいくつかの部族が「死者の(スピリット)赴くところ」として用いている概念である。彼らがいつごろからこの言葉を使っているかははっきりしないのだが、「獲物がいくらでもある豊かな狩り場」が日常のなかから消えた後につくられたものかもしれない。

たとえば平原インディアンにとっては、バッファローが白人移住者たちの皆殺しによって姿を消した後、バッファローたちが生活圏に共存していた平和で美しかった時代のことを「幸福な狩り場」として忘れないようにしたとも考えられる。

狩猟・最終・農耕を組み合わせて生活の基盤にしていた人たちにとっては、「豊かな狩り場」はそのまま楽園のような自分たちの世界の一部だった。「幸福な狩り場」は現実の「豊かな狩り場」そのままであり、違っているところはほとんどなく、あるとすれば雨が降らずつねに良い天気で、うさぎや鹿やバッファローたちも、人間を見てもまったく逃げる気配を見せないところだという。ラコタの人たちの死生観によれば、人は死ぬと、その人間が生きているあいだに髪の毛を切る(しばしばこれを「頭の皮をはぐ(スカルピング)」と表現された)ことさへなければ、そのスピリットはその幸福な狩り場に行くことになっている。戦において勝者が敗者の髪の毛を切り取るのは、その敵のスピリットを幸福な狩り場に行かせないためなのだろう。余談ではあるが実際に頭の皮を戦利品としてはぐことを教えたのは白人の入植者だった可能性がある。

ラコタの人たちの「幸福の狩り場」にたいする深い思い入れは、英語のウィキペディアに掲載されていたオグララ・ラコタのメニー・ホースィズ(Many Horses)のつぎの言葉にもうかがえるだろう。

Many Horsesわたしは白人の道を進むことになるだろう。白人を自分の友にするだろうが、白人の役に立つようなことをするつもりはない。コヨーテのように、ずる賢く生きるだろう。白人の道を理解するのに助力を求め、そして自分の子どもたちのための道を整えてやることになる。子どもたちはきっと自分の靴を履いて白人を追い越していくはずだ。

われわれにはふたつの道しかない。餓えて死に通じる道か、白人の貧乏人たちが暮らすところへ通じる道のふたつの道だ。いずれにせよその道の先には、白人の行くことのできない幸福の狩り場が待っている。


メニー・ホースィズ、オグララ

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Thursday, March 06, 2008

縄文人・倭人・弥生以降の日本人を巡るアサヒコム関西のトリップにつきあう

asahi.com 関西版が「九州大ミニミュージアム・倭人(わじん)の形成」を紹介する記事を掲載していた。

日本人の起源 探る第一歩に

日本列島に先住していた縄文人と弥生期に渡来した人々との混血で、日本人が成立したとみるのが定説になっている。その渡来人が最初に足を踏み入れた北九州発の「九州大ミニミュージアム・倭人(わじん)の形成」が、日本人の起源を探る第一歩にふさわしい。

九大では地の利を生かし、遺跡から発掘された古人骨の研究が盛んだ。「縄文人と弥生人」中の「身長・遺伝」を見ていただこう。面長の渡来系と彫りが深い縄文人の頭骨の違いは印象的。さらに頭骨の形態小変異から縄文人、アイヌ、古墳人、現代本州人、中国人、タイ人からハワイ人、北米先住民まで類縁関係を整理した図は圧巻。

「縄文人と弥生以降の日本人は同系統の集団とは考え難い」のだが、縄文人の血を消し去るほど大量の渡来人が来たのか。「今日の学説」で「弥生人の人口増加」は「稲作農耕の定着とともにおこった人口の急激な増加によると考える方が自然」とする。縄文人も急速に農耕技術を身につけ移行したのだろう。

約半々であった縄文人と弥生人」は最近のY染色体の研究を引いて縄文人由来の多さに驚く。民族学者の梅棹忠夫さんが「日本人の物づくりが得意な体質は縄文期から続いている」と言われたのを思い出す。

Source : 日本人の起源 探る第一歩に(asahi.com 関西 2008年03月03日)

この記事がなんのための物か非常にわかりにくいのだけれど、「縄文人と弥生以降の日本人は同系統の集団とは考え難い」という点について、「九州大ミニミュージアム・倭人の形成」が掲載している図がこれだ。

縄文人と弥生以降の日本人

読めばわかるけど正確を期すために書き写しておくと、「縄文人と弥生以降の日本人の間には非常に大きな違いがあり、同系統の集団とは考え難い」と「頭骨の形態小変異22項目に基づく東アジア、北アメリカ、オセアニア集団の類縁関係」のところに記されている。「非常に大きな違いがあり」の部分は消されている。

さらにこの記事はその直後に「約半々であった縄文人と弥生人」という九大とは関係のない別のサイトが掲載する論文にわれわれを誘っている。こちらは京都大学大学院理学研究科の蔵琢也という研修員の人が大衆の啓蒙活動として書いた『天皇の遺伝子』(廣済堂出版刊2006年)のなかの一部を自ら公開しているサイトであり、そこにつぎのような文章があった。

約半々であった縄文人と弥生人

日本人の由来はどうだったのだろうか。結論から言えば、ミトコンドリアでははっきり、縄文系と渡来系弥生人に別れなかった。それでも様々に推定されてはいるが、これが縄文系のミトコンドリア、これが弥生系渡来人のミトコンドリアとは単純に別れなかったのだ。

この理由は中国を含む近隣の地域のミトコンドリアが多様であり、日本も多様だったからである。ミトコンドリアは分岐して多様化した年代が古いので、縄文人と渡来人の区別がはっきり付かなかったのである。

しかし、多様化した年代が新しいY染色体は違った。縄文系と渡来系が、だいたいはっきり別れたのである(図3.2)。そして、縄文人由来のY染色体と渡来人のY染色体の比率は、だいたい半々であった。これは意外である。(中堀豊『Y染色体から見た日本人』岩波書店,2005、あるいは、最新の研究を参照)

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Y染色体から見ると日本人の三分の一から半分は中国で大多数の系統(中国や東南アジアで多数を占めるO型と)であり、渡来系弥生人が持っていたと思われるタイプである。しかしもう半分は、ほとんどチベットにしかないD型と、広く環太平洋に見られるC型の混合である。いわゆる縄文系である。

D型とC型に別れるのは縄文系もやはり二種類に分かれるという一部で言われていた説を、ある程度裏付ける結果である。フィンランド人や東シベリアのウラル語族に多いN型も数%ある。このN型は遺伝的にはO型の兄弟ではあるが分岐年代は1万年以前であり、これらの民族は北極近辺に集中している。もしかするとN型はO型に近くても「渡来人」系ではなくて、「縄文人」系なのかもしれない。

この結果からいえることは金属器と稲作を持ってきた弥生人が増えるのと併走して、なぜか縄文人の遺伝子も爆発的に増えてきたのである。

この原因は今後の重要な議論になるだろう。だが、縄文人は基本的に狩猟採集民の新石器時代人とはいっても、土器や石器のレベルが最も高度な部類だったし、簡単な農耕もしていた証拠が増えつつある。とりわけ西日本では焼畑農業を既に行っていたようだ。

そもそも農耕は、それに適した作物の種が手にはいらないとできないので、良い品種の米が伝来しないと本格的な農業には入れなかった。しかし伝来すると、ほぼ数十年で名古屋の方まで伝わったと推測されている。ヨーロッパやアメリカの農耕の拡大のスピードと比べて、驚異的に速い。縄文系の人々は金属や稲作農耕を見て、他の狩猟採集民ではあり得ないほど、すぐに学んだと考えるのが最も簡単な説明だろう。

Source : DNAから見た人種と日本人 −日本人の起源を遺伝子から探る−京都大学大学院理学研究科研修員/蔵琢也

そしてこの論文のなかで、著者が意外だといっている「縄文人由来のY染色体と渡来人のY染色体の比率」についての中堀豊という研究者の最新の研究に掲載されているイリノイ大学のサイトで見つけた最新のものという「世界のY染色体グループ」(J・D・マクドナルドという学者が2005年に作成)の図 (クリックで拡大)というのがこれである。いやー、なかなかのトリップだけど、やはりネイティブ・アメリカンのもっとたくさんの部族のY染色体グループを見てみたい気がするなぁ。日本とチベットに著しくある「Dグループ」のこととかさ。

y_hapologroups_of_the_world.jpg

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Thursday, February 28, 2008

日本人(東京人)は平均で縄文系が17%で弥生系83%なんだって

news岐阜新聞 Web が(2008年02月28日09:14付)記事のなかで、隣りあわせにすむ「飛騨人」と「美濃人」のルーツの違いについて報じている。そのなかでさりげなく日本人の平均と推測される東京人が「縄文系17%、弥生系83%」だと書いているので驚いた。アメリカのごとくこの国でもプライベートに遺伝子を調査してルーツをはっきりさせてくれるサービスがはやりそうだな。

飛騨は縄文人、美濃は弥生人ルーツ DNA解析

飛騨人の3人に2人は縄文人の子孫で、美濃人の3人に2人は弥生人の子孫—。同じ県民同士なのにルーツが異なることを示す研究成果が遺伝子(DNA)解析で判明したとして、27日、高山市で中間報告記者会見が開かれた。

報告したのは、筑波大名誉教授で東京大人類学教室客員共同研究員の住斉さん(65)=高山市下三之町=。人の細胞質の中に存在する母系遺伝のミトコンドリアDNAを飛騨で調べ、美濃や沖縄、東京の住民データと対比した。

住さんは約1年半前から、高山を中心に飛騨人から口腔(こうくう)粘膜を提供してもらい、調査を開始。今年1月末までに約930人が協力し、これまでに156人分を解析した。

縄文人を特徴付けるミトコンドリアDNAの「M7a」グループと、渡来系弥生人を特徴付ける「N9a」グループに着目。飛騨での出現確率と、学術誌に報告されている他地域の出現確率から、飛騨、美濃、沖縄と、ほぼ日本人平均と考えられる東京の4カ所について、縄文人か弥生人のどちらにルーツを持つか割合をはじき出した。

その結果、飛騨人は縄文系が64%で弥生系は36%、美濃人は全く逆で弥生系が69%、縄文系が31%。日本人平均(縄文系17%、弥生系83%)と比べ、飛騨人の縄文系の割合がいかに高いかが分かった。

住さんによると、これまでの研究で飛騨人の祖先は、大陸から朝鮮半島を渡ってきた弥生人よりもっと以前から日本に住んでいた「本土縄文人」と推測されていたが、「琉球系縄文人」とDNAタイプが似ていることも判明。住さんは「琉球系縄文人が、沖縄から少なくとも飛騨周辺にまで広がっていたことを示している」と解釈している。

また、「飛騨と美濃で縄文系の人たちはDNAタイプが似ていることも分かり、両地域は太古から互いに交流していたことがデータで裏付けられた」と話している。

Source : 飛騨は縄文人、美濃は弥生人ルーツ DNA解析

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Thursday, February 21, 2008

「縄文」と「弥生」の融合は平安時代のほぼ400年間に進んだのか

asahi.com 2008年02月21日10時59分

今日の日本人は、古くから列島に暮らしていた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が合わさり誕生したと考えられている。それでは、両者の融合はいつごろから進んだのだろうか。日本人の形成をめぐる大きななぞに、遺伝子の面から一つの回答が示された。鎌倉時代に関東地方に住んでいた人々のミトコンドリアDNAの特徴は現代人とほぼ同じだというのだ。

Source : 鎌倉時代人と現代日本人、ミトコンドリアDNA同じ特徴

ちょうど日本の建国からだと500年間ぐらいになるわけか・・・フルブラッドの縄文人が消えてルーツの消された日本人ができあがるまでは。

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Wednesday, February 20, 2008

髪の毛を切ることの意味

eaglefthr.gifアメリカ・インディアンのことを学んだり研究したりする「日本人」が増えたことに驚いたり喜んだりする最近である。60年代から70年代にこの世界に生まれた人たちが多い。この人たちはほとんど偏見も、恐れも持たずに、ネイティブ・ピープルの世界に飛び込んでいけるからだ。

あまりニュースにならないのだが、出版状況は非常に厳しいにもかかわらず、アメリカ・インディアンについて書かれたり翻訳されて、出版される日本語の本は、この30年間一貫して増え続けている。書店にもよるが、インディアン関係の棚を用意しているところも増えてきた。

またネイティブの世界との交流や探求や研究について、自分の視点から書き綴っている原則日本語で記されたブログも、とても全体を把握しているわけではないのだが、かなりの数にのぼるようだ。そうしたもののほとんどが、60年代から70年代にこの世界に生まれた人たちによって公開されているといっていい。

きっと、彼や彼女たちが、ネイティブ・ピープルの存在の仕方について、過去の研究者などが見失っていたものを再評価して、日本列島に暮らしてなにも疑問を持たずに「日本人」をやっているわれわれの内側の深いところで眠らされているネイティブの精神を揺り起こしてくれることだろう。

ネイティブアメリカン研究奮闘記at UCDavis」というブログも、そのひとつだ。著者はカリフォルニア大学デイビス校という「インディアン研究の本丸」でネイティブアメリカン研究(歴史学、現代インディアン史、カリフォルニア・インディアン史)に従事する女性。その2月20日の記事に、1902年1月15日に、連邦インディアン局からだされた「インディアンの長髪を禁止する」一枚の通達なるものがさりげなく紹介されている。この通達が出された背景や、なぜ今のインディアン学を教える先生たちが長髪であるのかなどは、該当ブログをぜひ読まれるといい。

boarding school

この記事のなかに「夢のような60年、70年代の運動を経て、インディアンは、そしてインディアンの知識人は、今度は自らの意志で、『髪』を伸ばしはじめる」という記述がある。ボーディング・スクール・サバイバーと言われる「寄宿舎学校を生き延びた者」たちによってネイティブ・アメリカンのルネッサンスがどのようにして起こったのか、そこにおいて各部族の伝統派やメディスン・ピープルや精神的指導者がどんな働きをしていたのかについて、ぼくもまたできうる限り自分の知り得たことを伝えていきたいと考えている。

[写真は同一人物。寄宿舎学校に入れられると、左の人が右のようになる。学生服を着せられるのも、寄宿舎学校の慣習。いわゆる詰め襟学ランのルーツもインディアン矯正施設であったここにある。]

reddot ネイティブアメリカン研究奮闘記at UCDavis

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Friday, February 01, 2008

顔に黥面(入れ墨)するという伝統を復活させた台湾島先住民の女性

tattoo台湾島東部の先住民アタヤル族のひとりの女性が、このほど昔の伝統にのっとって顔に手のこんだ入れ墨をいれたことで、百年ぶりの伝統復活と話題になっている。1月22日のタイペイ・タイムズ紙が報じたもので、その前の州の週末に33歳になるシャユン・フォウドゥさんが顔に大きくV字型の細かい入れ墨を彫り込んだ。

アタヤルの人たちの伝統的な風習のいっさいが禁止されたのは95年前の日本帝国の植民地時代。現在の台湾政府は入れ墨を法律で禁じてはいない。台湾のネイティブ・ピープルの顔の彫りものの歴史は1400年近くさかのぼり、アヤタル以外にもいくつかの部族がこれをおこなう風習を持っていた。日本列島の先住民にも黥面(顔の入れ墨)や文身(体の入れ墨)をいれる風習を持つ人たちがいたことが古い歴史書に出てくる。

「顔の刺青はアヤタル一族には古い文化伝統です。顔に彫りものをしたことはわたしにはたいへんに自慢です」とフォウドゥさん。彼女はさらに、アヤタルの女性が顔に文身をいれるのは、普通は初潮の直後で、彼女と結婚を希望する男性も永遠の絆の誓いとして顔に文身をいれるものだったという。フォウドゥさんはすでに同じアヤタルの旦那さんと結婚していて、旦那さんの顔にも黥面が入っている。ふたりは、なにかアヤタルの伝統を伝えるものを一緒に守りたかったと語った。

文身の彫り師は、昔ながらの、針と傷口に灰をかける苦痛を伴うやり方とはいかず、傷みの少ない現代的な入れ墨の技法で彼女の顔に顔料をおよそ2時間ほどをかけて彫り込んだという。

Source : Atayal woman revives full facial tattooing tradition

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Thursday, January 31, 2008

縄文人を最初の日本人と教えたがる勢力の存在

rockart09このところ産経新聞は歴史における「縄文時代」にやけに力を入れている。今朝のmsn産経ニュースにも、小学6年生の歴史教科書に「旧石器・縄文時代」の記述がないことを憤慨しているような印象を受ける「『弥生以前』教える意義 4日にシンポ」という記事が出ていた。「自国の歴史を基礎から学ぶ必要はないのか」と。

記事によると2月4日に日本考古学協会(会長・西谷正九州大学名誉教授)が「弥生時代以前を教える意義」について討論する公開シンポジウム「歴史教育と考古学」を東京・小金井にある東京学芸大学で開催するのだという。

シンポジウムでは、「小学校教科書から消えた旧石器・縄文時代の記述」「学校教育と考古資料の活用」などのテーマで、岡内三真・早稲田大学教授、釼持輝久・元神奈川県横須賀市立長井小学校教諭らが基調報告をしたあと、考古学者ら専門家8人がディスカッションする。

同協会理事の大竹幸恵さんは「日本史を24時間にたとえると午後10時半まで占めるこの時代は、子供の人気が高い。自然との共生など多分野にかかわることを、単なる暗記ではなく、日常に引きつけて学ぶことができる。そういうことをきちんと伝えたい」と話している。参加無料。午後1時から6時まで。問い合わせは同協会(電)03・3618・6608。(牛田久美)

産経新聞が縄文時代にこだわるのは、それが「自国の歴史」と思いこんでいるからだし、縄文時代の人たちを「最初の日本人」と教える教育がこれから推進されていくことになるのだろう。「日本列島における人の営みの歴史を24時間にたとえると午後10時半まで占めるこの時代」と、「残りの1時間半しかない日本」がほんとうは連続性がなかったということを、語り継いでいく必要性を痛感する。

アメリカ・インディアンが「最初のアメリカ人」ではないように、「縄文人は最初の日本人」ではないのだから。日本列島における日本人の歴史は、1時間半しかないのである。

Source : 「弥生以前」教える意義 4日にシンポ

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Friday, January 25, 2008

昨日アラスカで地球の言葉がまたひとつ消えた

Native Village of Eyakアラスカで生き延びていたエヤク語を話す最後のエルダーが、昨日、老衰のためにアンカレッジの自宅で89歳でなくなった。亡くなったのは最後のフル・ブラッド・エヤクであったチーフ・マリー・スミス・ジョーンズさん。エヤク語はアラスカ中南部、コッパーリバーの河口周辺で1万年近く生き延びていた先住民エヤク族の言葉。彼女の死で事実上エヤク語を母国語として話せる人はいなくなったことになる。ジョーンズさんは1918年、日本でいう大正7年の生まれだった。

arrow2 Native Village of Eyak

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やはり梅毒はコロンブス一行が旧大陸に持ち込んだらしいな

「梅毒はコロンブス一行が持ち込んだとの研究報告」とAFPが報じていた。持ち込んだ先はヨーロッパ大陸。記事の一部を引用する。

梅毒は1495年、イタリア・ナポリ(Naples)に上陸したフランス軍の傭兵の間で初めて確認され、その後、欧米全土に広まった。医学史専門家の中には、この傭兵らはコロンブスの船の乗組員で、米大陸を探す大航海中に先住民の女性から梅毒に感染し、1493年に欧州に戻って感染源となったとの説を唱えるものもあった。これまでこの説の信憑性は低いとされ、逆に、梅毒は欧州起源であり、コロンブスの船の乗組員によって米大陸に持ち込まれたとする説もある。

米エモリー大学のクリスティン・ハーパー氏らは、梅毒などの伝染病を引き起こす細菌「トレポネーマ」の異系統を世界中の26か所で採取、比較した。その結果、梅毒はトレポネーマから進化した最も新しい伝染病であることが判明したというもの。記事の結論は次のようになる。

遺伝学的には、梅毒は南米だけに分布する熱帯風土病「フランベシア」に近い病気だという。フランベシアは梅毒と同様、皮膚、骨、関節に影響を与えるが、梅毒ほど症状はひどくなく、性交渉による感染はない。ハーパー氏らの仮説は、「コロンブスの船の乗組員がフランベシアに感染。細菌は航海するうちに徐々に欧州の涼しく乾燥した気候に適応、後に梅毒を引き起こす病原菌に変化し、以来安定した状態にある」というもの。

つまり新大陸にずばり梅毒そのものがもともとあったわけでなく、梅毒の基となるような風土病が、ヨーロッパ大陸でパワーを得て強力な梅毒に「変異」したというわけ。

ちなみに梅毒が中国を経由して日本列島に到達するのはそれから17年後のこと。

Source : 梅毒はコロンブス一行が持ち込んだとの研究報告、哲学者ボルテールの説を裏付け

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Wednesday, January 16, 2008

弥生時代の墓23基、石のやじりも確認

paw弥生時代の大規模集落とされる愛知県豊田市の高橋遺跡で、弥生時代中・後期(紀元前2〜紀元2世紀)の有力者の墓とされる方形周溝墓計23基や竪穴住居3棟が見つかったという。産経ニュース(2008.1.15 21:45)が報じている。

以下に記事の一部を引用する。

市郷土資料館によると、高橋遺跡は矢作川左岸に帯状に伸びる幅70−80メートル、長さ800メートルの集落跡。方形周溝墓は各地で確認されており「口」型に溝が掘られ、中央に土が盛られている。今回見つかったのは1基の大きさが約3・5−7・5メートル四方、溝の深さが約15−80センチで、墓の大きさが階層差を表している可能性があるという。

また、弥生時代中期の竪穴住居1棟からは石のやじり9点が出土。資料館は「弥生時代は鉄のやじりが主流と考えられており、1カ所から石のやじりが多数出土するのは珍しい。縄文時代と比べて大型で粗雑なため、戦争や儀礼的な目的で置かれていた可能性もある」と話している。

戦争や儀礼的な目的?

いわゆる日本列島の本州という小さな大陸に「環濠集落」がたくさん作られていった時代にあてはまる。かつて僕は『ネイティブ・タイム—先住民の目で見た母なる島々の歴史』(地湧社刊 2001年)という本のなかでこの時代のことを次のように書いた。

こうした環濠集落は、おそらくそれぞれが砦として点で存在し、いくつもの点が互いに、狼煙などで連絡を取り合いながら、ネットワークを構成していたようだ。環濠やその付近からは、数千個のつぶて石、黒曜石の矢じり、覗き穴のついた一メートルほどのスギの板を使った楯、焼け焦げた弓、打撃によって折れた銅剣、刃が鋭く研がれた石剣などが見つかったりしている。環濠集落について知れば知るほど、この時代が、平和とは程遠く、おそろしく不安定な侵略戦争の時代であることがわかってくる。

Source : 弥生時代の墓23基、石のやじりも確認 豊田市・高橋遺跡

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Monday, January 14, 2008

ネイティブ・アメリカンと縄文人のつながり

paw産経ニュースに連載中の「試行私考 日本人解剖」〔第3章・ルーツ・縄文人のかたち(4)〕がアップロードされていた。今回は「北の影響」についてである。

記事によれば、縄文人がどこからきたのかついては、かつては南方説が支持されていた。ルーツは東南アジア(寒冷期に海面が下がって亜大陸となっていたスンダランド)方面が想定されたと。

しかし90年代以降に遺伝子によるルーツ研究が盛んになると、北方説(シノドント)が優勢になってきて、日本人が「縄文人と弥生系渡来人との混血」という論は現在も幅広く支持されてはいるものの、南方起源説には否定的な見解も多くなってきた、とある。

ここでいう北方の「シノドント」は日本人もそのなかにふくまれる北東アジア人で、上顎(じょうがく)切歯(上あごの前歯)の内側がシャベル状にくぼむなど大きく複雑な形の歯をもつ人たちで、アメリカ大陸先住民もシノドントに分類されている。

縄文人が特異な集団となっている理由は、「東アジア、恐らく大陸の広い範囲にいた集団がいろいろなルートで列島に入ってきて縄文人となった。その後、シベリアで寒冷地適応した、のっぺり面長、胴長、短足を特徴とする新モンゴロイド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の祖先集団は駆逐されたが、日本の縄文人だけが残ったのだろう」(中橋孝博・九州大大学院教授)とされている。

中橋教授によれば、アメリカ北西太平洋岸、ワシントン州のケネウィックで1996年に発見された古人骨が縄文人と似ていると指摘するアメリカの研究者もいるとしたうえで、

「ケネウィックマン」と呼ばれるこの古人骨は約8400年前のもので、アメリカ先住民の古い祖先とみられる。アメリカ先住民の祖先は、2万年〜1万年前にシベリアから凍結したベーリング海峡を通って北米に渡った人々とされる。ケネウィックマンと縄文人のルーツが共通だとすると、消えた縄文人の祖先を探す手がかりになるかもしれない。

と語っているのが印象的だ。縄文人の祖先集団は、新モンゴロイドによって駆逐され、一部は日本列島に残ったものの、多くはアメリカ大陸に移動したということだろうか。

Source : 【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(4)

関連記事:もしかして、この顔に見覚えがありませんか?

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Thursday, December 27, 2007

ラコタ国独立の経緯を確認する

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12月19日に、ワシントンDCにて、合衆国政府を相手に交わした過去のすべての条約の破棄を表明した翌日、つまり2007年12月20日に、ラコタ・スーのアメリカン・インディアンの代表団は、自分たちの国が正式に主権国家であることを宣言した。条約撤回の声明は時をおかずして国務省長官補佐に手渡されて、1851年、および1858年にワイオミングのララミー砦で締結された条約に述べられているラコタ・スー・インディアン国と合衆国政府のあいだのすべての合意事項は、ここに完全に破棄された。

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Thursday, December 13, 2007

この2000年間にいったいなにが起きていたのだろうか?

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「縄文人はその日暮らしで厳しい食糧事情の中で生きていた、農耕が始まって豊かになった、なんていうのは誤りですよ。農耕社会は米などの主食が不作になるとたちまち困ってしまう。季節にあわせてあらゆる食材を利用していた縄文社会のほうがはるかに豊かだった。だからこそ1万年も続いたのです」

国学院大学文学部、小林達雄教授の縄文社会観は明快だ。縄文時代の遺跡から発見された食料は哺乳(ほにゅう)動物60種以上、貝類350種以上、魚類70種以上。このほかに500種以上の植物、加えて海藻や昆虫まで食べていたと考えられている。その多彩な食生活から連想できるのは、動植物についての知識が蓄積され、世代を超えて伝えられていったということだ。

「【日本を探す】縄文(2)自然の恵みを敬う」というMSN産経ニュースからの引用。産経ニュースは「縄文」が今の日本人や日本文化の本になっているという証拠探しにこのところいそがしい。縄文から現代に続く弥生への質的量的な転換について、直線の時代をさかのぼって探求する必要がある。時間が輪を描いていた時代を生きる縄文人の末裔たちがたった数千年でかくもめちゃくちゃな国土改造をおこなったとは、およそ考えにくいのだが。上の図版は、いわゆる「縄文カレンダー」。

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Saturday, November 10, 2007

現代の日本人は全国平均で縄文系3、渡来系7の割合で双方の遺伝子を併せもつですと

start_quote日本列島の住民のなりたちは、在来の縄文人(南モンゴロイド)と、弥生以降の渡来系の人びと(北モンゴロイド)の双方を視野に入れてとらえなければならない。現在のアイヌ民族、琉球民族は、南モンゴロイドに属する先住民族であるが、大多数を占める「日本民族」は、弥生以降に大挙して朝鮮半島から渡来するようになった北モンゴロイドと在来の南モンゴロイドが混合して形成された集団である。

あるシミュレーションによると、現代の日本人は全国平均で縄文系3、渡来系7の割合で双方の遺伝子を併せもっており、西日本ではさらに渡来系の比率が高いといわれる。「新撰姓氏録」(815年)によると、畿内の1182の氏のうち渡来系と分類されている氏が326におよぶ。7世紀後半に成立する「日本」なるものは、そうした弥生文化とその系譜のうえに創出されたのである。この点をあいまいにしたまま、縄文文化と「日本」を無媒介に連続させ、「日本人」や「日本文化」の起源をむやみにさかのぼらせるのは適切なこととは思えない。end_quote.gif
(康成銀、朝鮮大学校教授)       [朝鮮新報 2007.11.9]

Source : 朝鮮史から民族を考える 3 朝鮮民族の形成発展(上)

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Thursday, November 01, 2007

「我々はアイヌの血を引く蛮族」という政治家のものすごい発言

「我々はアイヌの血を引く蛮族」民主・山岡氏 直後撤回
asahi.com 2007年10月31日19時08分

imagename民主党の山岡賢次(写真)国会対策委員長は31日、自民党の大島理森国対委員長との会談で、同席した別の2人を指して「2人はヤマトンチュ(沖縄の方言で本土出身の人)の貴族だから」とした後、大島氏と自らを「こちらはアイヌの血を引く蛮族ですので」と発言した。直後の記者会見で山岡氏は「冗談だ。誤解を与えたとすれば申し訳ない」と陳謝し、発言を撤回した。

発言は会談冒頭の写真撮影の際に行われた。山岡氏は発言の真意について「大島委員長の地元は青森、私は栃木県真岡市で、北の方だ。大衆、生活者という総称において、私らは生活者中心の(大衆的な)土壌から出ているんだ、という意味で申し上げた。そういう立場を擁護しようという意味だ」と説明した。

アイヌ民族に対する認識について、山岡氏は「日本の先住民族ですから、同じ日本人であるし、特に意識をしたことはない」と説明。「誇りに思い、(大衆的な立場を)代表して言っているという解