Monday, November 30, 2009

ホピの国にこの50年ではじめて建てられたホテルの外観と内装をご覧ください

Moenkopi Legacy Inn & Suites

ホピ・カルチャー・センター以外に公式な宿泊施設がなかったホピの国。そのカルチヤーセンターも先日ホピの国を訪れた友人によれば老朽化はかなりのものであったらしい。この50年間ではじめて建築されたホピの国の最新宿泊施設が12月中にオープンする予定で最後の仕上げ段階にさしかかっている。ホビの国の西のはずれ、モニュメントバレーからも遠くなく、チューバシティの近くのモエンコピというところに建設されているMoenkopi Legacy Inn & Suitesがそのホテルだ。フラッグスタッフ経由でホピに向かう人たちのほとんどが通る道にある。モエンコピ村の長老たちの、この村はホビの国の入口として人びとを迎え入れる施設を作るのにふさわしい場所だというビジョンに基づいて建設されているという。モエンコビ・レガシー・イン・アンド・スイートはホピの国を訪れる人たちのための教育施設も目指すらしい。アメリカで最も伝統的な人たちのモダンなホピ的デザインの内装や外観をもっと見たい人はHotel Imagesを見てください。

Experience Hopi

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Tuesday, November 03, 2009

ローラ・インガルス・ワイルダーが「大草原の小さな家」の初版のある部分を十数年後に書き直していた背景になにがあったか、あるいは野蛮人は人間ではないという無意識に焼き込まれた保守思想

プエブロ・インディアン出身の教育者であるデビー・リース(Debbie Reese )さんは子どものために書かれた文学作品のなかに描かれているアメリカ・インディアンの研究をする先生でこのブログでも過去にも取りあげたことがあるが、そのリース先生が11月1日付のブログの記事「Edit(s) to 1935 edition of LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE?」(1935年版の「大草原の小さな家」に書き換え?)で興味深い指摘をしている。


LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE 1935 LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE 1950


それは1935年にアメリカで初版が刊行された『大草原の小さな家』(写真上左)という本についてだが、後に刊行された1950年版(写真上右)では挿絵が変更されただけでなくて、本文にも書き直されている部分があるというのだ。初版が出たあと、誰かが著者であるローラ・インガルス・ワイルダーに文章の変更を要求して受け入れられたらしい。

初版ではその個所は次のように記述されていた。

そこでは野生の動物たちが、見渡すかぎりどこまでも続いている牧草地にでもいるかのように、自由に歩き回って餌を食んでいました。どちらを見ても人間はいません。その土地に暮らしていたのはインディアンだけだったのです。

これが2版以降はこうなっている。

そこでは野生の動物たちが、見渡すかぎりどこまでも続いている牧草地にでもいるかのように、自由に歩き回って餌を食んでいました。どちらを見ても入植者はいません。その土地に暮らしていたのはインディアンだけだったのです。

英語では初版は「people」となっているところが、再版からは「settlers」に変更されている。settlers には「移住者、開拓者、入植者」という意味がある。この変更は、ある意味で重要だが、無意識のうちに焼きつけられている人種偏見をぬぐい去るに至ったかどうかは疑問が残る。なぜならその土地にはすでにネイティブの人たちが長く暮らしてきていたからだ。その個所でローラ・インガルス・ワイルダーが、インディアンとそれ以外の人を区別して書き表したかったのなら、ほんとうは「白人」「white people」とするべきだったかもしれない。

デビー先生は過去にも「大草原の小さな家」にはアメリカの保守とされる人たちの考え方が色濃く反映されていて、「アメリカ・インディアンを野蛮人として描く傾向があり、自分たち以外を野蛮人として、人間的に劣る存在として表現する」と指摘した。結局アメリカ人だけでなく、日本人も含めて、成長過程で保守思想を吹き込まれた人たちは、「どこかに劣った者たちがいなくてはならない」と考える差別にとりつかれているようだ。

福音館版の日本語の翻訳ではどのようになっているのだろうか?

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Thursday, October 22, 2009

古代のアボリジニのなかにはウサイン・ボルト選手よりも早く走れた人がいたかもしれない

footprint

newsオーストラリアで有名な人類学者の推測では、古代のアボリジニーには、人類最速と言われるウサイン・ボルトよりも足の速い人がいた可能性があるという。

イギリスの雑誌スコッツマンの報告では、人類学者で『人間学——不完全な現代人の科学』という本の著者であるピーター・マカリスター先生は、筋力や脚力から見れば、古代人にくらべて現代の人間は歴史上最も軟弱な存在だと主張している。

現代人が古代人にくらべて劣っている証拠は、オリンピックの陸上競技の選手を調べればわかると彼は主張する。20000年前のオーストラリアのアボリジニーの足の速さは、化石化して粘土層湖底に保存されていた6人の男のそれぞれの足跡によって計測された。この6人は、駆け足で獲物を追跡しているところだった。

分析の結果、なかのひとりの男の駆け足の速度は、軟らかな土の上で時速37キロにも達していたという。ウサイン・ボルト選手は、北京オリンピックの公式記録では100メートルを9秒69で走り、時速は42キロ。マカリスター先生は、ボルトの記録はグラウンドの上のもので、この古代のアボリジニーがスパイクつきの靴を履いてゴムの使われた公式トラックの上を走った場合、時速45キロは出たはずだと主張する。

「獲物を追いかけて走っているときはおそらく全速力を出していただろう。軟らかい土の上で時速37キロで走れるのなら、その人はウサイン・ボルトの記録を抜く可能性がじゅうぶんある」と。

Source : Ancient aboriginals in Australia may have been faster than a speeding Bolt!

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Tuesday, October 20, 2009

ネイティブ・アメリカン部族国家会議がホワイトハウスで開催される

news2009年11月5日木曜日、オバマ大統領はホワイトハウスにおいて部族国家会議を主催すると、ホワイトハウスが発表した。これはオバマ大統領が続けているアメリカ国民に手をさしのべる活動の一環であり、連邦政府が認めている564の部族の指導者が招集され、大統領および政府高官らと直接交流する場が提供されるもの。564の部族には各部族につき一名の代表が会議に招待される。

オバマ大統領は次のように述べた。「わたしはインディアン諸国の指導者たちの声を直接聞きたいと思っている。わたしの政権が彼らの求めにどれだけ答えられるか、そして彼らと彼らにしたがう人たちの生活を改善するのにどんな手助けができるかをうかがいたい。この会議は、現在進行中でわたしが重んじている大切な協議の一部を勤めるもので、国と国との関係をより強固にするものになるだろう」

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Friday, October 16, 2009

今年ホピのスネーク・ダンスの儀式に非アメリカ・インディアンの見学者の立ち入りが禁止された

newsホピの踊りの儀式のひとつにスネーク・ダンスというものがある。踊りと言うよりは蛇と一緒に執りおこなわれる踊りをともなった雨を呼ぶための儀式で、手順が複雑であってだいたい丸一日たっぷりかかる。普通夏の後半に行われる。

このダンスも例外ではないのだが、これまで基本的にホピはどんなものであれルールを守る人たちにはすべての踊りを公開してきた。ルールは、伝統を敬い、すべての動画撮影、写真撮影、スケッチ、録音は禁止というものだった。ビールなんかを引っかけてよい気分で出かけて、つい興味深いから手持ちの携帯で撮影したりしては絶対にならないと言うことなのだ。そして伝統的なスネークダンスは、ふたつのホピの村であるミションゴヴィ(Mishongnovi)とシュンゴパヴィ(Shungopavi)で、毎年交互に行われてきた。今年スネークダンスを行ったのはミションゴヴィ村だったが、しかし今年スネーク・ダンスにおいては非アメリカ・インディアンの立ち入りが禁止されていた。日本人はどちらにはいっていたのだろう?

ミションゴヴィ村の儀式の運営に携わるロバート・マヘケワJr氏によれば、不法に写真撮影を試みたり、伝統に敬意を払わないおこないが、週末の儀式の場で横行するようになったことが直接の原因だという。

マヘケワ氏は違法な行為があれば、いかなるカメラも、携帯電話も、その他の録音機材も、すべて没収されるという。また食べ物を売ったり、アルコールを飲んで儀式の場にいることも禁止されている。

古いニュースなのだが、ずつと気になっていたので、紹介した。ホピに行きたいという人たちも多いだろうから。

Source : Hopi Snake Dance closed to non-tribal members

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Friday, October 02, 2009

インディアンとカウボーイとダライ・ラマ

Dalai Lama 2009 Canadafeatherなかなか可愛いと思いませんか。カウボーイハットをかぶり、右手にはネイティブの小さな国から贈呈されたふわふわの手袋をつけ、左手ではもう片方の手袋と、ネイティブのエルダーから贈られたイーグルの羽根を持っています。着ているものはいつもの緋色と明るい黄色のローブ。もちろんいつもダライ・ラマはこんな格好をしているのではなく、これは先週9月30日水曜日に法王がカナダのカルガリーを訪れたときの記念撮影の写真。かぶっているカウボーイハットは、まずネイティブの人たちからの贈り物をもらった後に、チベットの伝統にしたがって白いスカーフをカルガリー市の市長にあげたあと、次に市長から西洋の伝統にならって尊敬の証として返礼されたもの。カルガリー大学が主催した会議に出席するために2年ぶりにカナダを訪れたときの写真の一枚で、カルガリー市には初めて足を踏み入れたそうです。THE CANADIAN PRESS/Jeff McIntosh

Source : Dalai Lama sports cowboy hat in Calgary By THE CANADIAN PRESS

あわせて読みましょう:

「聖地チベット 〜ポタラ宮と天空の至宝〜」展に関して 日本の皆様へのお願い

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Thursday, October 01, 2009

幻の縄文コレクションが今月末10日間だけ公開される

spirit_of_mother_earth

弘前大学(遠藤正彦学長)が、青森県内の考古学、郷土史研究に尽力した青森市の故成田彦栄氏の収集品や資料約5200点からなる「成田コレクション」を収蔵する「成田彦栄氏考古資料収蔵展示室」を弘前大学総合教育棟2階に開設した。亀ケ岡文化ならではの表現豊かな美しい文様の土器や遮光器土偶に代表される多様な形状の土偶、装身具と思われるヒスイ大珠など展示される265点のほとんどが初公開。弘大は10月23日から特別展「成田彦栄氏考古資料展」を開き、11月1日までの10日間だけ一般公開する。期間中無休。

うーむ、久しぶりに弘前に行ってみたいな。(写真はイメージ)

弘前大学のアクセスマップはすごいぞ。アクセスマップ

 これまで成田氏の自宅土蔵に保管され、一部の研究者しか目にできないことから「幻のコレクション」とされてきた成田コレクションは、県内考古学の先駆者として知られる弘前市の故佐藤蔀(しとみ)氏と医師だった成田氏の収集品からなる。  約3000年前の縄文晩期を代表する亀ケ岡文化の土偶や漆塗りの土器、佐藤氏の考古資料などを描いたスケッチ、図書、さらに現在、英国の大英博物館に展示中の田子町の野面平遺跡から出土した土偶など全国的にも優れたコレクションだ。

 弘大人文学部付属亀ケ岡文化研究センターの関根達人センター長は「県の考古学を考える上でなくてはならない資料。今後、全貌(ぜんぼう)を整理していくことで価値を高めたい」とした。

Source: 本県考古学発展にと弘大に「幻のコレクション」(陸奥新報 2009/09/25) 

 特に縄文晩期に栄えた亀ケ岡文化期の遺物は、土偶や漆塗りの土器など優れた品が多く見られるという。その中の一つ、「腕組みする土偶」は大英博物館で開催中の土偶展にも出品されており、英国からの帰国後、この展示室に置かれる。

 図書史料では、1879年E・S・モースがまとめた大森貝塚の調査報告書「大森介墟篇」の多色刷り原本などもある。さらに、寄贈品を大学で整理するなかで、彦栄氏がこまめに記録した発掘ノートも多数、見つかった。

 関根准教授は「この記録と収集品を付き合わせれば収集場所も特定できる。成田コレクションの価値を高めるものだ」と強調。彦栄氏が早くから三内丸山の研究に入っていたことなど、青森の考古学研究そのものの歴史を解き明かすカギになるという。

 これらは優れた個人コレクションと評価されるが、1945年の青森空襲で市内が焼け野原になるなか、収集品は同市古川の成田さん方の土蔵で戦火に耐え、奇跡的に焼失を免れた点も見逃せない。

Source: 弘前大に「成田コレクション」展示室(asahi.com|マイタウン|青森 2009/09/30)

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Thursday, September 24, 2009

ナバホ・ストレッチ ストレッチの仕方とナバホ語の両方を一緒に学べます

ネイティブ・アメリカンは、子どもも大人も走るのが大好きだ。車も馬もなかった頃から、彼らは広い大陸のいろんなところを走り続けてきた。草原を、砂漠を、高原を。このビデオは、走る前のストレッチのやり方をナバホ語(ディネ語)で解説しているもの。ディネ語は美しい言葉であることもわかるし、ストレッチの仕方も、彼らの言葉で10まで数える言い方も学べる。説明はナバホ語と英語が両方出てくるので、実際に役立てることができる。


Stretching Instructions in the Navajo Language


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先住民の権利のつぎは、母なる地球の権利を保護しこれを認める宣言を闘い取る必要性

evo_morales日本の民主党の鳩山総理大臣が国際社会に向かって受け狙いの演説をしたおなじ国連気候変動サミットで、ボリビアの先住民出身であるエボ・モラレス大統領も演説した。モラレス大統領は、西欧先進諸国を喜ばせるような発言はいっさいしなかった。かわりに彼は、環境にたいする責任のことを中心に話し、母なる地球は神聖であり、資本主義システムによって企業がそれを私しするべきではないと訴えた。「資本主義者的生活様式を変えなくてはならない」と彼がいう理由は、資本主義は、自分たち以外のいのちあるもののことや環境のことなどを考慮することなく、限りなく大きな利益を手に入れることだけを好んでいるからなのだ。後の記者会見において、気候変動問題の根っこにあるものを、資本主義者の生活様式だと宣言し、これまでの環境汚染に手を染めてきた人たちに正義の裁きを加えるべきだと彼は提案した。

彼は記者会見でさらにこうも言っていた。20世紀が世界人権宣言の確立を見たように、そしてつい先日は先住民の権利宣言をうちたてたように、これからは母なる地球の権利を保護しこれを認める宣言を闘い取らなくてはならない。人間がクリーンな存在になるためには、「世界のあらゆる国々」が、コミュニティーを基本にした社会主義を確立する一方で、われわれはこの惑星を汚れのないように保ち、すべてのいのちの間にある調和をとる権利を守らなくてはならないと。

先進国の偉い人たちが数字のことや地球の終わり方で一喜一憂しているのよりも、エボ・モラレスのような人の話していることがずっとまともに聞こえるのは、ぼくだけなのだろうか?

Source : UN - Press Conference by President of Bolivia

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Monday, September 21, 2009

カナダでインフルエンザのワクチンの実験的接種で原因のはっきりしない病気が広まりネイティブの人たちの間に動揺が急速に拡大中

news世界で使われているタミフルの75バーセントが日本で使われているという。数年前から日本では副作用が問題とされているが、アメリカの食品薬品局が、インフルエンザの特効薬とされるリレンザとタミフルに「時には死に至ることのある神経学的、精神病理学的問題と関連がある」と警告を出したのは昨年のことだった。

タミフルという薬が売れるとラムズフェルドの財布がふくらんでいくと、アメリカではいわれている。ラムズフェルドというのは、ジョージ・W・ブッシュが大統領時代に国防長官として政権を背後で仕切っていたドナルド・ヘンリー・ラムズフェルドのことで、インフルエンザ特効薬タミフルを開発しその特許を所有しているバイオテック企業ギリアド・サイエンス社の会長を1997年から2001年まで務めた。この事実が明らかになって以来、インフルエンザのパンデミックが話題になるたびに、ある種の陰謀説がささやかれ続けている。

最近のインフルエンザの世界的流行に合わせて、先々週カナダの北太平洋沿岸沿岸地域の奥まった先住民の村で新型のワクチン注射が「実験として」行われた。このワクチン注射から数日たった先週、注射を受けた先住民の100人を超える数の人たちが体の調子を悪くし、以後も病気に罹る人たちの数が急増していて、先住民の人たちに動揺が広まっているというニュースが伝えられてきた。そしてその先週、カナダの北マニトバの先住民居留地にも、死体処理袋がカナダ政府から、日常業務の一環として送りとどけられた。同じ村には、タミフルやワクチンもあわせて届けられたという。

表面的にはカナダ政府が人里離れたネイティブの人たちの居留地に対策のために送ったH1N1インフルエンザの新しいワクチンによって、カナダの先住民の人たちに新たな病気を広めているように見えなくもない。カナダには「インディアン差別法」というものが今も生き続けていて、居留地のインディアンはひとりたりとも政府が施す医学的治療を拒否できないことになっているからだ。つまり、それがなんであれ予防接種は嫌だと拒否できないシステムなわけ。そして、テストもろくにされていない、安全かどうかも確かめられていない、下手をすれば死に至るワクチンが、人里離れたインディアンの居留地で、まず真っ先にネイティブの人たちが実験の対象にされているのだ。

ネイティブの人たちが動揺するのにはそれなりの歴史がある。

1862年、英国教会の宣教師が、ブリティッシュ・コロンビアのサリツシュ・インディアンの人たちの村に意図的に天然痘菌を持ち込み、1カ月もしないうちに村を全滅させる事件が起きている。それは村に金の採掘で一攫千金をもくろむ人たちや教会関係者や政府の人間が移り住む直前に行われた。

1909年、カトリックやプロテスタントの教会関係者が、インディアンの子どもたちに天然痘や結核の菌を故意にばらまいて見殺しにしていると、オタワにあるインディアン局の役人が告発する事件が起きた。この結果インディアンの子どもたち数千人が死んだ。

1932年、ブリティッシュ・コロンビアの地方警察がカトリック教会関係者を子どもたちを結核に感染させて帰宅させることで家族もろとも村を一掃しようとしたと非難する事件が起きた。

1969年、バンクーバー島にあるカナダ国立のインディアン病院から、予防注射を受けた後脱そうしたインディアンの子どもたちの多くが「全身がむくみふやけて死ぬ」という事件が起きた。

こうした出来事をカナダの先住民の人たちは語り継いできているために、今回のインフルエンザの予防接種の直後、彼らに広まった病気のことを、皆殺し政策の一環としてみる見方があることも、伝えておく必要があるだろう。

Source : Canada: Tamiflu, body bags and genocide

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