Thursday, August 13, 2009

新しいスタイルの動物園や水族館が生まれているという

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最近の動物園や水族館は大きくその見せ方を変えている。出来るだけ自然に近い姿を見せられるようにしようと人間がようやく考えはじめたからだという。もう何十年も前に、はじめて動物園に行ったときの子供だったぼくの心に与えた衝撃は計り知れないものがあった。いったいここはなんなのだ? 薄汚れて臭い檻に入れられた動物たちを見るところなのか? この時の衝撃はうまく言葉に出来なかったが、のちにネイティブ・アメリカンの文化の洗礼を受けた後は、その衝撃のリアリティがだいぶ見えるようになった。

動物園に収容されている動物たちは、現在地球から姿を消しつつある貴重な動物が多い。先住民の人たちが神の使者としてあがめる神聖な動物たちもたくさんつかまえられて見せ物にされている。そうやってわれわれは知らず知らずのうちに「神聖なもの」がただの「珍奇なもの」におとしめられるのを見ている。それは地球から「聖なるもの」が海の潮が引くように消えていっているのと重なっていた。

「動物というのは、動物の服を着た人々のことなのだ」と語ったのはぼくが尊敬するネイティブ・アメリカンのストーリーテラーであるジョニー・モーゼス氏(師)である。彼はアメリカ北西部太平洋沿岸地域に暮らす先住民族(日本列島の先住民と強い関係にあると想像される)のヌートカなどいくつかの少数民族の血を受け継いでいた。

ネイティブ・アメリカンに伝えられたいくつもの物語を学んでいくうちに、まず気がつくのは、自然界においては人間と動物たち、人間と植物たち、人間と鉱物たちが共通のスピリットを分けあっているという彼らの「世界観」だった。狩人はだから自分の犠牲となる動物のスピリットに絶対的に尊敬を払わなくてはならない。木を切るものはその木のスピリットに尊敬を払わなくてはならない。石を動かすものはその石のスピリットに尊敬を払わなくてはならない。

スピリットの世界と、わたしたちの暮らすこの世界は、おそろしいまでにすぐ近くにある。そのふたつの世界をつなぐための儀式が、昔からさまざまに人間世界にはあり、ぼくが知っているネイティブの人たちはひとり残らずこのふたつをつなぐための儀式や祈りに対してはみな尊敬を払っていた。そうした土地とつながっている先住民のスピリットにたいする知覚は、土地と切り離された渡来系の人たちのスピリットにたいする知覚とは、決定的に違っていたのである。

聖なる動物は、慰みものでも、見せ物でもない。檻の中から世界を見ることがどういうことかを知らないで、動物や植物や鉱物たちのスピリットに尊敬を払うことが、もう一度できるようになるのだろうか? 自然というものとのつきあい方で、地球から切れた人たちが考え出した出来るだけ自然のありさまを見せる動物園も、おそらくはどこかにむかう通過点なのだろう。

写真は歴史がはじまる以前の人が石を少しずつ削ることで作ったクマのスピリット

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Monday, July 27, 2009

話しかけてくる不思議なサボテンであるペヨーテの伝説が読みたいときは

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むかしむかし、ある砂漠の村に若い女がおりました。ある日、女はとなり村に住む家族をたずねるため、ひとりで砂漠を歩いておりました。しかし、歩いても歩いてもたどりつきません。女は道に迷ってしまいました。喉がかわき、腹がすき、ついに疲れはてて倒れてしまいました。

すると、どこからか声が聞こえてきました。
「おねえさん、おねえさん」
いったい誰の声でしょう?
「わたしはここ、あなたの体の下よ」
女は、びっくりして体を起こすと、そこには小さなサボテンがありました。

「わたしを食べるがよい」
サボテンは言いました。腹を空かせていた女は、サボテンを手に取り、夢中になって食べはじめました。ひとつ、ふたつ、みっつ。。。やわらかく、みずみずしいサボテンが、女の喉をうるおしました。

話しかけてくる不思議なサボテン、ペヨーテについてのこの話の続きは、エンセオーグ(entheo.org)の Love S. Dove さんのブログでお読みください。一晩中続くネイティブ・アメリカン・チャーチのミーティングの起源を教えるかのようなストーリーです。

arrowhead_small ペヨーテ伝説を読む

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Tuesday, July 14, 2009

少しずつでものぼり続けることを教えるティーチング・ストーリー

donkeyこれはあるインディァンの村の話だ。ある日、一頭の年老いたロバが涸れ井戸の深い穴に落ちるという事故が起きた。ロバの飼い主だったインディアンの爺さまが穴の縁から下をのぞきこんで、なんとかしようと考えている間、ロバは悲壮な声で何時間も鳴き続けた。

しかし結局爺さまにはロバを助けるためにはなにもできないということがわかっただけだった。穴は深く、助けたくてもどうしようもないという現実を、最終的に爺さまは受け入れるしかなかったのだ。ロバも年齢が年齢だった。仕方がない、ここがあの老いぼれロバの墓場になるのかと爺さまは考えた。大がかりなことをしてどうしても助け出さなくてはならないほど若くバリバリ働けるロバではなかった。爺さまは涙をのんでその穴を埋めることにした。穴をこのままにしておくと、村の子どもたちが落ちないともかぎらない。

爺さまは一族の者たちを呼び集めた。事情を説明し、穴を埋める作業を手伝ってもらうことにした。人々は手に手にシャベルをもち、次々と土を上からおとしはじめた。しばらくの間、穴の底のロバはいっそう悲壮な声で絶叫していた。なにが起こっているのかロバは気がついたのだ。年老いたロバの恐怖にあふれた鳴き声が穴のなかで響いていた。ところが、しばらくすると、その声が嘘のように静まりかえった。村の者たちも、それには驚いた。

穴が半分近く埋まった頃、ロバの飼い主だったインディアンの爺さまが意を決して涸れ井戸の穴の奥をのぞきこんでみた。いったいなにが起きたのか? そこで見たものに爺さまは腰を抜かすほど驚いたという。穴の下で、上から降ってくるひとかたまりの土塊が自分の背中にかかるたびに、ロバは実に驚くべき行動をとっていた。背中に土が降りかかると、ロバは体を震わせてその土を払いおとし、そして払い落とした土を足で踏み固めていたのだ。そうやってロバは一歩一歩階段をのぼるように上にあがってきていた。一族のものたち全員が驚いたのは、それからまもなくして、ロバが穴の縁に姿を見せ、縁に足をかけると穴から這いだして、勝手に外に出て、とことこと歩いていずこへかと姿を消してしまったことだった。

人生というのは、上から泥の塊が降り続けるようなものだという。その泥は、実にさまざまで、ありとあらゆる種類の泥が降りかかってくる。人生を生き抜く鍵は、体に泥がかかったらそれを振り落とし、振り払った土を足の下で踏み固めて、しっかりと上にあがっていくことなのだ。誰の人生にもたくさんの問題が待ちかまえている。その問題のひとつひとつが、踏み固めて行かなくてはならないものなのだな。あきらめて立ち止まってしまったら、われわれは穴から抜けだすことはできない。重要なのは、どんな状況に陥っても、そのロバのように最後まであきらめないことなのだ。体に降りかかった土を振り払い、払い落とした土を足で踏み固めること。


    幸福にいたる簡単な5つのルール:

         憎しみから心を自由にする

         不安から頭を自由にする

         質素な暮らしをする

         より多くを与える

         見返りを期待しない


追伸

「伝統に還ることは、前に進むことである」という話を昔聞かされたことがあります。

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Thursday, June 11, 2009

アホウドリ・メディスン  アイヌの伝承

なぜあなたは、家でこの海鳥の頭蓋骨を大切にしなければいけないのか?

信仰の対象としてのアホウドリ、その起源は以下の通り:

Albatross昔々、何年も前のこと、アイヌの間に悪い病気が流行して、たくさんの人々が死んた。当時、善良で名誉あるトキランゲという名前の男がいた。さて、この男が不思議きわまりない夢を見たことがあった。夢のなかで彼は、人々が列をなして集まっている非常に大きな家を見た。列の先頭にはひとりのチーフが立っていた。彼はこう言っていた。「ある日、アイヌの国のなかを通り過ぎようとしていたら、とりたててなにか悪いことが起こるとは思ってもいなかったのだが、多くの家々の前で海の物と思われるある特別な鳥のおそろしい匂いをかいだ。その鳥は『アホウドリ』と呼ばれていた。よいか、みんな、その鳥たちの頭がある家には入ってはならない。そのような家はあなた方のはいるべき家ではないのだ」

夢から目を覚ますと、トキランゲは自分の見た夢のことをもっとよく知りたいと考えた。彼は起き上がってその夢の意味を求めて国中を聞いて廻った。彼が家々のなかの様子をうかがうと、そこの人々はみなアホウドリの首から上をお守りとして大事に家のなかにしまっており、柳の木を削って作るイナウをその前に捧げて、酒を飲んでいた。そのお守りを持っている人たちの様子をうかがうと、この人たちの間に病気はなかったのだが、アホウドリの頭をしまっていない家という家には、からずなかに身体をこわしている者がひとりはいた。これを見て男は自らもアホウドリの頭をひとつ手に入れて、それを信心し、頭蓋骨とくちばしを一部削ってくずを研ぎ出した。削りくずを容器に入れて、お湯を注ぎ、それを煎じて、病気の人々に飲ませたところ、この煎じ薬を服用したものはみなことごとく病から癒えた。

このことがあって以来、その鳥の頭蓋骨はイナウの削り屑に包まれて大事にしまわれて、病人が出るたびに取り出され、お盆のうえに安置されてみなは熱心にそれにむかって祈りをあげた。祈りがすむと、頭蓋骨の粉末は熱いお湯でで煎じられて患者に飲まされた。このように、アイヌははじまりにおいて、アホウドリの頭の価値を知らなかったものの、その男が夢のなかでその事実に気がつかされたおかげで、みんながそのことを知るに至ったのだ。男は、自分が夢のなかで見て、話す声を聞いたそのチーフこそ、病魔そのものであることを知っていたのである。

『アイヌとその民俗学』(ロンドン:宗教路協会刊行、1901)ジョン・バチェラー師著 より抜粋

The Ainu and Their Folklore, by the Rev. John Batchelor
(London: The Religious Tract Society, 1901)

ジョン・バチェラーのこと

*1854年にイギリスで生まれ1877年に横浜にやってきたたジョン・バチェラーは宣教師として北海道に渡り、アイヌの国を訪れた。いちばんの目的は布教。もうひとつは当時の日本人がアイヌの生活や言語や宗教についてまったくの無知だったので、なんとかアイヌという人たちのことを知らせるためという目的もあったようだ。彼はアイヌの人たちのなかで暮らし、アイヌのことを学び、晩年にはアイヌ語をアイヌと同じように話せるようになっていた。「アイヌの父」と呼ばれる彼が記録した民族学的な当時のアイヌの資料は、何冊かの英語の本にまとめられてイギリスで刊行されている。

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Thursday, March 05, 2009

大地のスピリットたちへのささげもの

Keep Tobacco Sacred

明後日の新宿で開催される無料の健康講座の「タバコトーク」ですが、別に学校や会社が新宿区になくても、住居が新宿区になくても、誰でも見に来てかまわないそうだ。テーマをタバコに限って話をするのははじめてなので、いったいどうなるのかわからないのだが、タバコを吸う人にも吸わない人にも止めた人にも得るものがあるような話ができればなとは思う。ちなみにぼくはタバコ(シガー、シガレット)を無意味に吸うのを止めてからもう15年ほどになるけれど、タバコの葉をささげものとして大地にまくことは、今も時と場所を選んで続けている。大地と純粋なタバコはとても相性がよいような気がしてならない。

ぼくが知るかぎり南から北までのアメリカ大陸の先住民族のほとんどすべての部族の創世神話において、タバコはスピリットたちの愛するものとして登場してくる。ホーデノショーニの人たちに伝えられた神話では、この地球で最初に生まれた女性が、善と悪の双子のスピリットの兄弟を生んだことになっている。善のスピリットは地球にあるすべての良きものを作り出した。そのなかには、人間たち、動物たち、雨、植物が含まれる。しかし植物のなかには、トウモロコシ、豆、スカッシュ(カボチャ)そしてタバコのように神聖な植物は含まれてはいなかった。双子のもうひとりの悪のスピリットは、怪物や病といった考えられるすべての悪いものを作り出した。最初の女性が死んだとき、人間のいのちをつなぐみっつの作物であるトウモロコシ、豆、スカッシュがその女性の死体から育った。さらに心を静めるものとして彼女の亡骸の頭から育ったものがタバコだったという。日本の神話にも五穀の起源として食物をつかさどる女性神が殺された時その死体の「頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆(まめ)生りき」というふうにこれとよくにた話が伝えられている。

造物主ががタバコを地球に作り出した理由は、人間たちがタバコを通して他ならぬスピリットたちと、自然と、創造主と、相互にわかり合うためだとされる。古来からタバコは祈りのための神聖な薬草とされていた。タバコそれ自体が、そして煙草の煙も、われわれに厄災を遠ざける力を与えてくださったスピリットたちへのささげものとして、感謝をあらわすために用いられたのだった。

参考記事:トーク・アラウンド・ザ・タバコ

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Thursday, October 30, 2008

植物の兄弟たちをいかに敬うべきかを教えにきたメニー・ウォークスという名前の乙女の話 (部族不明)

Last Modified Friday, October 31, 2008

Indian Woman

昔あるところに「たくさん歩く(メニー・ウォークス)」と名づけられたひとりの子どもがいた。女の子で、その名のとおりどこまでも歩いていく娘だったが、いつも自分が誰かすら思い出せなくなって帰ってきた。そういうときその娘は一番の年寄りや一番賢いものを探し出して、その人たちに、うやうやしく頭を下げ、自分が誰なのかを思い出すまで質問を続けた。たとえばこのように——

「わたしの兄弟とは誰のことでしょうか?」

聞かれて年寄りはこたえる。

「ありとあらゆるものはお前の兄弟であり姉妹だ。この世界を創られたお方が作り出したものはすべてみんなお前の家族なのだ。わしらはひとりだけでは生きてはいけない。調和のうちに暮らすには、家族みんなが必要だ」

するとメニー・ウォークスはたずねる。

「わたしは自分の家族のみんなをどのようにあつかえばいいのですか?」

年寄りはこたえる。

「お前はみんなからどのようにあつかわれたいのかね? ほかの家族からは尊敬されたいとは思わんのか? ひと言の挨拶もなしに、お前の持ち物のなにかを、いきなり持ち去られたりするのはたまらんだろう? お前さんはそのようにして自分の家族をとりあつかっているようなものだ。相手がなんであれ、いのちあるものからなにかをいただく時には、なにはさておきその前に、正しいやり方でお願いをしなくてはならない。おお、兄弟よ、あなたの一部をいただいてもよろしいですか、わたしにはそれが必要なのです、と。そうお願いしたら、兄弟が返事を返してくるのを待つ。返事を受けとめたら、そこではじめて兄弟から持っているものの一部をいただくのだ。ここでもし兄弟からなにもかもすべてを奪ってしまえば、その兄弟とはもう二度と会えまい。なにかを兄弟からいただくのなら、その代わりに、お前の方もなにかを贈り物としてお返ししなくてはならない。なにかを自分から差し出すことなしに相手のものを少しでも奪ってはならない。これがわれわれ一族の生き方だ。このようにすることで、兄弟にたいして敬意を表すことができる」

自分はこれまでたくさんの道を歩いてきたのでそれなりに年齢をとりましたとメニー・ウォークスが口を開く。自分がこのようにしてそうしたいくつもの道を歩いてきた理由は、あなた方にわたしたち一族のそうした生き方を思い出してもらう手助けをするためです。自分たちの生き方を思い出すためにわたしが力を貸さなくてよくなるには、あとどのくらい自分は歩かなくてはならないのでしょうか?

年老いたものは頭をさげてこたえた。すまなかった、メニー・ウォークスよ、われわれを許してほしい。われわれもまた一族の若者たちに自分たちの生きる道を教えることをすっかり忘れていたのだ。お前のかわりに、これからはわれわれが歩こう。歩いていって、若い連中に一族の生き方を教えることにしよう。だからお前はもう休んでよい。

そういわれてメニー・ウォークスはその場を立ち去りかけたが、立ち止まって振り返り、

「わたしたち一族の生き方が忘れ去られる時がきたら、このような機会はもう二度とこないでしょう」

との最後の言葉を残し、再び歩きかけた道を進んで、創造主の元へと立ちのぼる煙が雲になるごとく、いずこかへと姿を消した。

ホ!


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Wednesday, May 28, 2008

巨大な岩山の上の7人の娘たち(カイオワ一族の言い伝え)

animal constellation

だれも思い出せないぐらい昔のこと、カイオワの人たちの一団が広大な草原のなかを旅して横断している途中、大きな川の岸辺で野営をすることになった。野営地の近くには熊をやっている人たちがたくさん暮らしていた。熊のなかの人たちはカイオワの人たちの匂いをかぎつけた。

熊をやっている人たちはとてもお腹をすかせていた。熊のなかの戦士たちのなかに、仲間とともにカイオワの人たちを狩りに出かけるものたちがいた。

カイオワの人たちの野営地から7人の娘たちが連れ添うように出てきて川の上流に向かって歩きはじめた。娘たちはイチゴ狩りに出かけたのだった。野営地から遠く離れるのを待って、熊たちはうなり声をあげて娘たちに襲いかかった。

広い草原の只中を娘たちは走って逃げた。どこまでも、どこまでも、走って逃げた。そうやってしばらく走ると、草原のなかに巨大な灰色の岩がひとつ見えてきた。

娘たちはみんなで力をあわせてその岩の上によじ登った。ところが後を追ってきた熊たちも娘たちに続いてその岩をのぼりはじめた。

やがてだれからともなく、娘たちがその岩にむかって、熊をやっている人たちから守ってくれるようにと、祈りの詩を歌いはじめた。

そのときまでただの一度も、だれ一人としてその岩を讃える詩を歌いかけたものなどいなかった。生まれ落ちてはじめて娘たちの祈りの歌を聞いて、岩のなかの人は娘たちを救う決心をした。

何千年も黙ったままそこでじっと座ったままでいた岩のなかの人は、よいしょとばかり立ちあがると、空に手を伸ばした。岩がぐいぐいと大きくなるのにあわせて、うえに載っかっていた娘たちも高く高く昇り続けた。

Devils Tower

熊のなかの戦士たちも熊の神々に向かって歌いかけた。すると岩が大きくなるにつれて熊たちも背が高くなっていった。

岩はさらにいっそう高く険しくそびえ立つように成長を続けた。熊たちは何度も何度も大きな鋭い爪を岩にかけて険しい壁のような岩を登ろうとしたが、しかし足をかけるたびにガラガラと岩は崩れ落ちた。

それでも執拗に岩を登ろうとした熊たちは、巨大になった岩のすべての岩肌の手の届くところに爪痕を残し、岸壁は何千という岩のかけらとなって四方の麓に散り落ち山をなした。大きくなった熊たちが懸命によじ登ろうとすればするほど、岩肌のあちこちに無残な傷が残された。

だがついに熊のなかの戦士たちは人間を狩るのをあきらめた。熊たちはきびすを返して自分たちの家に戻ることにした。家路を辿りながら、熊たちは自分たちが次第に最初の大きさに戻っていくのを感じていた。

とてつもなく大きくなった熊たちは草原を越えて帰るにつれてもとの背格好の熊に姿を変えていった。カイオワの一団は遠くから熊たちが集団で歩いてくるのを見て恐怖に駆られあわててキャンプをたたんだ。彼らは熊たちの背後に巨大な、見あげるほどの岩山がそびえ立っていることにはじめて気がついた。そしてその岩山は、あの大きな熊たちの住み家に違いないと思いこんだ。

「ツォ・アイ」

その岩山はカイオワ語で今もそう呼ばれている。それは「熊たちの住み家」という意味だ。

岩山の上に取り残された娘たちははるか高みから下界を眺めておそろしくなった。一族の人たちが野営地をたたんで移動しはじめているのが見えたからだ。みんなは娘たちがあの熊たちに食べられたものと思いこんだに違いない。

娘たちはそこで再び詩を歌った。今度は岩にむかって歌ったのではなく、空の星たちに向かって歌った。星たちは娘たちの歌う詩を聞いて幸せになった。すると歌声を聞いた星たちが空から降りてきて、岩山の山頂にいた7人の娘たちを空に連れ帰った。

カイオワの人たちはプレアデスのことを「7人の姉妹たち(セブン・シスターズ)」と呼んでいる。そして毎晩、彼らが「熊の住み家」と呼ぶ岩山の上を7つの星が通過するとき、岩山のなかのスピリットに感謝を捧げて微笑む。

(注)「熊たちの住み家」は「デビルズタワー」と英語で呼ばれている岩山のこと。


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Friday, May 23, 2008

あなたは小さな人たちの姿を見たことがあるだろうか?

paw

環太平洋のネイティブ・ピープルにほぼ共通しているもののひとつに「小さな人たち」の言い伝えがある。ハワイ諸島にも、ポリネシアの人たちがやってきたときに出会った小さな人たちの言い伝えがたくさん残っていたし、日本列島の北海道島のアイヌの人たちにも、コロボックルの話が伝えられている。個人的な話だが、ぼくは小学生の頃に、佐藤さとるという人がコロボックルを題材にして書いた『だれも知らない小さな国』という魔術的な本を読んで以来、いろいろな局面で小さな人たちの通り過ぎていく影や後ろ姿を見るようになり、その後も小さな人たちの存在を忘れることなくそのまま大人になった。アメリカ大陸に渡ってからも小さな人たちの影は消えることがなく、ぼくは以後その実在を大きな声では言えないが信じ続けている。さてアメリカ・インディアンにも、小さな人たちの言い伝えが残っているので紹介しておく。

チェロキーの人たちの話によれば、小さな人たちを明るい昼間に見ることはなかなかにむずかしいらしい。その人たちは太陽のまぶしい光のなかに隠れるようにしているので、人間の目には見えにくいのだ。しかし彼らの方は太陽の光を通しても世界がはっきりと見えているという。かといって夜暗くなれば姿が見えるかというとそれがそうでもない。夜間に小さな人たちを見るためには月の明かりが必要だというのである。夜に森のなかに行くと、人間の通る道を少し外れたところに、小さな人たちの灯す明かりの灯が木々の間を縫うように動いているのが、ぽつぽつと地面のすぐ近で、いくつも見えたりすることがある。これもまた小さな人たちが意図的に姿を見せようとしているときにだけ、わたしたちの目に見ることが出来るらしい。最もよく小さな人たちの姿が見受けられるのは日没後のたそがれ時か、夜明け前の頃だという。小さな人たちはその時間、いろいろな動物たちと一緒にいて食事をしているのだ。鹿たちとともに草や木の実を集めたり、熊たちと一緒に魚を釣ったり、ビーバーたちと一緒に薪を集めたり、狐をつれて近くのネイティブの人たちのもとを訪れたりする。

チェロキー・プリンセスという名のハナミズキ

小さな人たちは歴史のはじまるはるかずっと前からチェロキーの人たちとは同じテリトリーを分けあってきた。フルブラッドのインディアンのような顔つき、浅黒い肌の色、ふたつの黒い瞳、地面に触りそうになるぐらい長くのばした黒い髪。みななかなかにハンサムで、屈強そうで、身長は3フィート(1メートル)にみたない。着ているものは、いつの時代にも、ネイティブのチェロキーと同じような衣装で、言葉は古代のチェロキー語を巧みに操る。今のチェロキー語とは発音がだいぶことなるので、エルダーのなかの数人だけが今ではその言葉の意味をかろうじて理解するだけだという。年寄りのなかには、その言葉はすでに消滅した古代のチェロキーの「エラティ語」だというものもいる。小さな人たちは、自分たちの共同体というか、コミュニティーというか、氏族を山の中のあちこちに形成しているらしい。チェロキーの人たち同様に、それぞれのコミュニティーにはコミュニティーならでは人たちがいるのだという。道化のごとくみなを笑わせるもの、一本気のきまじめな人たち、指導者になる人たちと彼らに従う人たち、問題を起こす人たちに、思慮深く考える人たち、夢を見る人たち、病を癒す人たち、狩人たち、果樹や木の実を集める人たちもみんないる。

またハナミズキの木の森のなかに暮らしている特別な小さな人たちのグループというのもいる。彼らはハナミズキ一族と呼ばれている。彼らが涙を流すと、その涙がハナミズキの花になるのだといわれている。肉体的にも感情的にもおそろしく繊細なひとたちで、この人たちはいつだってすべての人やありとあらゆるもののなかに「善」と「美」を探しだそうとしているのだ。ハナミズキの花たちが咲いていて、彼らが自ら意図したときにだけ、その姿を見ることが出来るという。そして花が咲く季節が過ぎ去ると、あとはかれらは「すべての人たちと、すべての動物たちと、すべての植物たちと、すべての水のなかを泳ぐものたちと、すべての地を這うものたちと、すべての空を飛ぶものたち」のためにひたすら「良きことのみを夢見続ける」のだ。ハナミズキ氏族の小さな人たちは、母なる地球の子どもたちすべての世話をする人たちなのである。

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Wednesday, April 09, 2008

悟りはどこに隠されているのだろう ラコタ一族のお話 作者不明


造主が、自らのお創りになられたものすべてを呼び集めてこう言われた。

「実は準備ができるまで人間たちから大切なものを取りあげて隠しておこうと思うのだ。それは自分たちのリアリティを創りだしているのは他ならぬ自分たちなのだというサトリなのだが」

「わたしにおまかせを。ひとっ飛びしてそれを月まで運びましょう」

鷲が言うと創造主がおこたえになった。

「それはいかん。あのものたちはいずれ月に行ってそれを見つけるだろう」

「では、わたしが海の底まで運んで埋めてきます」

鮭が言った。

「それもだめだ」と創造主。「連中は海の底へだっていくだろう」

つぎにバッファローが口を開いた。

「大草原のいずこかにわたしが埋めてきましょう」

「人間たちが母なる地球の皮膚を切り刻んで、どこに埋めたところで、いずれ見つけだすにきまっている」

偉大なる祖母であるモグラのおばあさんが言った。モグラのおばあさんは母なる地球の胸の奥、深いところで暮らしていたから、顔についたふたつの目は見えなくなっているものの、スピリチュアルな目はよく見えた。おばあさんはこう言った。

「あの人たちのなかに隠しておくというのではどうかな」

それを聞いて創造主はこたえた。

「それできまりだ」

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Friday, November 16, 2007

ハチドリに生まれかわった若き戦士の話 アパッチ

hummingbirdウインド・ダンサー、「風の踊り手」という名の、ひとりの若き戦士のことを、今に語り継ぐ、アパッチ一族の伝説について、お話ししよう。

ウインド・ダンサーは生まれたときから耳が聞こえなかった。しかし彼には言葉にならない魔法の歌をうたえるという才能が与えられていた。彼がその魔法の歌をうたうと、病が癒され、晴れの天気がもたらされた。

ウインド・ダンサーは、「輝く雨」、ブライト・レインという名前の女性と結ばれた。ブライト・レインは若くて麗しい女性だった。彼女が一匹の狼に襲われそうになったとき、彼女のいのちを救ったのが風の踊り手、ウインド・ダンサーだったというのがなれそめだ。

ウインド・ダンサーはそうやって多くの人を救い出したが、しかしあるとき自ら身を賭し危険にあるいのちを救おうとして彼は殺されてしまった。一族の誰もが彼の死によってひどく寒い、死ぬほどの冷える冬の到来を予感した。そして実際刺すような寒さが到来しかけた。

ところがある日不思議なことに、いきなりその寒さが終わってしまったのだ。それはブライト・レインがたったひとりで、ぶらりといずこかへと散歩に出かけた直後の出来事だった。

一族の長老たちはウインド・ダンサーが彼女のもとへ、いちわのハチドリとなって帰ってきたことを知ることになった。そのハチドリは、彼が儀式の際に身につけるのと同じ衣装をまとい、同じ戦の化粧をほどこしていた。

春の花たちが咲きほこる草原で、いちわのハチドリとなったウインド・ダンサーはブライト・レインに近づき、彼女の耳元であの魔法の歌をささやきかけた。そしてその魔法の歌が、彼女に平和と喜びをもたらしたのだった。

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