新しいスタイルの動物園や水族館が生まれているという

最近の動物園や水族館は大きくその見せ方を変えている。出来るだけ自然に近い姿を見せられるようにしようと人間がようやく考えはじめたからだという。もう何十年も前に、はじめて動物園に行ったときの子供だったぼくの心に与えた衝撃は計り知れないものがあった。いったいここはなんなのだ? 薄汚れて臭い檻に入れられた動物たちを見るところなのか? この時の衝撃はうまく言葉に出来なかったが、のちにネイティブ・アメリカンの文化の洗礼を受けた後は、その衝撃のリアリティがだいぶ見えるようになった。
動物園に収容されている動物たちは、現在地球から姿を消しつつある貴重な動物が多い。先住民の人たちが神の使者としてあがめる神聖な動物たちもたくさんつかまえられて見せ物にされている。そうやってわれわれは知らず知らずのうちに「神聖なもの」がただの「珍奇なもの」におとしめられるのを見ている。それは地球から「聖なるもの」が海の潮が引くように消えていっているのと重なっていた。
「動物というのは、動物の服を着た人々のことなのだ」と語ったのはぼくが尊敬するネイティブ・アメリカンのストーリーテラーであるジョニー・モーゼス氏(師)である。彼はアメリカ北西部太平洋沿岸地域に暮らす先住民族(日本列島の先住民と強い関係にあると想像される)のヌートカなどいくつかの少数民族の血を受け継いでいた。
ネイティブ・アメリカンに伝えられたいくつもの物語を学んでいくうちに、まず気がつくのは、自然界においては人間と動物たち、人間と植物たち、人間と鉱物たちが共通のスピリットを分けあっているという彼らの「世界観」だった。狩人はだから自分の犠牲となる動物のスピリットに絶対的に尊敬を払わなくてはならない。木を切るものはその木のスピリットに尊敬を払わなくてはならない。石を動かすものはその石のスピリットに尊敬を払わなくてはならない。
スピリットの世界と、わたしたちの暮らすこの世界は、おそろしいまでにすぐ近くにある。そのふたつの世界をつなぐための儀式が、昔からさまざまに人間世界にはあり、ぼくが知っているネイティブの人たちはひとり残らずこのふたつをつなぐための儀式や祈りに対してはみな尊敬を払っていた。そうした土地とつながっている先住民のスピリットにたいする知覚は、土地と切り離された渡来系の人たちのスピリットにたいする知覚とは、決定的に違っていたのである。
聖なる動物は、慰みものでも、見せ物でもない。檻の中から世界を見ることがどういうことかを知らないで、動物や植物や鉱物たちのスピリットに尊敬を払うことが、もう一度できるようになるのだろうか? 自然というものとのつきあい方で、地球から切れた人たちが考え出した出来るだけ自然のありさまを見せる動物園も、おそらくはどこかにむかう通過点なのだろう。

これはあるインディァンの村の話だ。ある日、一頭の年老いたロバが涸れ井戸の深い穴に落ちるという事故が起きた。ロバの飼い主だったインディアンの爺さまが穴の縁から下をのぞきこんで、なんとかしようと考えている間、ロバは悲壮な声で何時間も鳴き続けた。
昔々、何年も前のこと、アイヌの間に悪い病気が流行して、たくさんの人々が死んた。当時、善良で名誉あるトキランゲという名前の男がいた。さて、この男が不思議きわまりない夢を見たことがあった。夢のなかで彼は、人々が列をなして集まっている非常に大きな家を見た。列の先頭にはひとりのチーフが立っていた。彼はこう言っていた。「ある日、アイヌの国のなかを通り過ぎようとしていたら、とりたててなにか悪いことが起こるとは思ってもいなかったのだが、多くの家々の前で海の物と思われるある特別な鳥のおそろしい匂いをかいだ。その鳥は『アホウドリ』と呼ばれていた。よいか、みんな、その鳥たちの頭がある家には入ってはならない。そのような家はあなた方のはいるべき家ではないのだ」




ウインド・ダンサー、「風の踊り手」という名の、ひとりの若き戦士のことを、今に語り継ぐ、アパッチ一族の伝説について、お話ししよう。













































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