1000年前の東北でなにが起きていたのか?
今回の大震災は「貞観地震」と酷似しているとしばしばニュースで言われます。「貞観」は「じょうがん」と読み、ウィキペディア日本語版には「日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す」とあります。実はこの時代のことをぼくたちはほとんど知りません。最大の理由は、現在の東北地方が完全には未だ「大和朝廷の支配下に入っていなかった」からです。わかりやすく言えば「日本ではなかった」わけ。貞観と今では呼ばれるようになった時代になにが起きていたのかを、小生が20年近くの長い年月をかけてまとめた『ネイティブ・タイム−−先住民の目で見た母なる島々の歴史』(北山耕平著)を以下に引用しておきます。1000年以上も前の出来事、学校の教科書には載ることのない歴史を知ることも、役に立つことがあるでしょう。なおここに掲載する『ネイティブ・タイム−−先住民の目で見た母なる島々の歴史』は現在地湧社で刊行されている1000ページほどある書籍版(Version 3 2001年刊行)に今日までを加筆し、本文の中を訂正したり、大量に新しく書き直したりして(紙の本としては厚さの限界を超えるため)近いうちに電子書籍として刊行予定のVersion 4のものです。東北をもう一度抱きしめるために、1000年の時の流れを感じ取っていただければ幸いです。 北山耕平
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武内宿禰【4字ルビ・たけのうちすくね】の末裔で南都大安寺の僧となっていた行教【2字ルビ・ぎょうきょう】が、九州島の宇佐の八幡宮に参篭中に八幡神のヴィジョンを見た。八幡神は「われが都のそばの石清水男山の峯に鎮座して国家を鎮護しよう」と彼に語ったらしい。ま、いずれにせよそのように彼は朝廷に報告したのだ。風水害により陸奥国に食料を配給した。富士山の位が正三位とあげられた。
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薩摩国の開聞岳が噴火し、大地を震わせて火山灰を雨のように降らせた。政府が開聞神の位を引き上げた。宇佐八幡宮三所の分霊が三基の御輿に乗せられ、神官と真言宗の僧に伴われて、豊後水道を渡り、四国島の八幡浜に上陸し、四国島の瀬戸内海沿岸を練り歩いたのち、大阪湾を経て、山城国男山鳩峰(京都府八幡市高坊)に入った。これが京都鎮護の神とされる石清水八幡宮の起源である。宇佐八幡もそうだったが、八幡というのはもともとが仏教と神道の合作だったと考えてよい。国家祈願寺である摂津国の四天王寺の毘沙門天像が、手に持っていた−−王城鎮護のための−−刀と塔形などを壇の下に投げ捨ててあるのが発見された。朝廷政府はこの怪異にあわてて使者を派遣して護摩修法におよんだ。
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陸奥国・出羽国から国外に馬を出すことが再度禁じられた。このころ東国では浮浪人の数が増える一方で、彼らは生きる糧を求めて盗賊化しつつあり、フロンティアにはアナーキーな空気が蔓延していた。『日本三代実録』にはこの年の武蔵国のことが「兇猾【2字ルビ・きょうかつ】党をなし、群盗山に満つ」と、さながら悪人たちの巣窟のごとく書かれている。そのために中央政府は武蔵国の各郡に検非違使【4字ルビ・けびいし】(公警察権力)を配置した。「みなもと」を自称して馬をたくみに操り、白衣を着たり白旗をたてる新羅系の−−新羅花郎のような−−集団が、関東地方から中部太平洋沿岸地帯に群居し、支配体制の華風になじまず、韓神を租神とする反体制の側で抗争をくりかえしていたらしい。
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瀬戸内海周辺で海賊に襲撃される事件が頻発した。『三代実録』は「往還の諸人を殺害し、公私の雑物を掠奪す」と記す。備前国では官米八十石を積んだ船が襲われ、乗組員ら十一人が殺された。ヤマト政府は、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐などの国に通達を送り、人夫を徴発して海賊を捕まえるために追跡させた。空海の門下となって長年修行を積み上人となっていたヤマトの天皇家の皇太子が、八十歳近くでありながら、精神世界の旅をするために唐の明州(現在の寧波【2字ルビ・ニンポー】)に上陸した。
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前年のくれから平安京周辺で疫病(インフルエンザ)が大流行し百姓が多く病没した。夏、本州島日本海沿岸の越後から越中にかけてで大地震発生。天災や疫病などを怨みを持って死んでいった人たちの霊のなせるわざと信じた人々が、そうした霊をなだめるのを目的として反権力的・反王権的な御霊会【3字ルビ・ごりょうえ】と称する集会を各地で開きはじめた。これに危機感を抱いた朝廷も、禁苑の神泉苑において一般にも解放された−−天皇以外の王侯貴族が総出で参加する前代未聞の−−大規模な御霊会を自ら主催して、人々の間で高まりつつあった不穏なガスを抜き、反逆心を愛国心に転化させようとしたが、うまくいかなかった。丹後や因幡に漂着した細羅人・新羅人に食べ物を与えて返した。
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山陰の石見に漂着した新羅人を追い返した。富士山が大噴火。噴火は十日以上も続き、北麓に大量の溶岩が流れ出して「せの海」を埋めた。青木ケ原樹海ができたのはこのとき。『三代実録』の駿河国サイドの記録によれば「富士郡の浅間大神山が噴火し、その勢いはなはださかんで、一、二里四方の山が焼けた。光る炎は高さ二十丈ばかり、雷が起き地震が三度あった。十日たっても火が消えることなく、熱い岩が峰を崩し、砂が雨のように降ってきて、噴煙が立ち込めて人は近づくことができない。大山の北西に本栖湖がある。焼けた石が湖に流れ込み、湖面を埋めた。長さ三十里ほど、幅三、四里ほど、高さ二、三丈ほどであった。火災はついに甲斐国との国境に達した」となる。甲斐国サイドの記録ではこれが「駿河国の大山が突然火を吹き上げ、小丘を焼き壊し、草木を焦がして、熱い土砂が流れ出した。甲斐国八代郡本栖、ならびにせの海の『両水道』がそのために埋められた。水は湯のように熱くなり、魚や亀はみな死んだ。人々の住居は湖とともに埋まり、一家全員が死んだ家もあったが、被害はまだ数えることができない」とある。この溶岩流で、現在の富士五湖のうちの西湖と精進湖が形作られた。甲斐国は、山梨と八代両郡に浅間神社を建てて山霊の機嫌をとった。九州島の阿蘇山でも神霊池が煮えたぎりはじめた。出羽国の月山神社の神に従三位下が与えられ、鳥海山の大物忌【3字ルビ・おおものいみ】神社の神は正四位上に格上げされた。
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上総国市原郷の俘囚三十人あまりが暴動を起こして官物を盗みとり、一般人を殺害する事件が起きた。郡兵一千人が出動して追討したが、暴徒はみな山中に逃げ込んで捕らえることができなかったという。京畿七道諸国を対象に民間が主催する御霊会【3字ルビ・ごりょうえ】が、あるいは御霊会と称してたくさんの人を集めることが、禁じられた。不平分子が多く、人々がたくさん集まると何が起こるかわからないと、政府(王権)は考えたのだった。再び山陽道と南海道の諸国に海賊追捕の命令が下された。老骨にむち打って精神世界の旅に出たもとヤマトの天皇家の皇太子が唐の都長安に到着した。
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過度の飲酒や宴会が禁止された。蝦夷【2字ルビ・えみし】征服の武神で軍神として中国系藤原一族に崇められていた常陸国の鹿島大神が、伊具【2字ルビ・いく】、亘理【2字ルビ・わたり】、宮城、黒川、色麻【2字ルビ・しかま】、志太【2字ルビ・した】、小田、牡鹿などそれぞれの郡にある苗裔神【3字ルビ・びょうえいしん】(子孫の神)に幣帛を奉納した。ヤマト国家の支配が北進するにつれて鹿島の苗裔神が陸奥国に多数祀られるようになっていた。出羽国の位禄の物価を陸奥斛【1字ルビ・こく】に準じた。播磨国から夷俘長五人が勝手に出境して近江国に来ているとして国司を叱責し「今後は境から出してはならない」とする命令書が下された。各地にあった俘囚のための限定居留地に生活することを余儀なくされた俘囚たちに自由などなかったことがここからもわかる。
肥前国の郡司ら地方の権力者が共謀して新羅に渡り、新羅人に兵弩などの武器を製造する技術を教えて、対馬を奪い取ろうとした事件が発覚した。山陰道諸国と太宰府に諸国の俘夷(蝦夷)を集めて新羅からの来襲の準備をさせた。海賊の追捕をおこたっている国司が罰せられることになった。唐の長安にいた仏教徒で、もとヤマトの天皇家の皇太子が、精神世界の旅のためにインドに向けて船で出発したものの、マラッカ海峡を越えたあたりで行方不明となり消息を絶った。
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海賊にほとほと手を焼いていたのか、各地の国司に、国司同士がもっと連絡を取り合って対処するよう命令が下され、海賊や盗賊の鎮圧に俘囚を動員することが決められた。九州島で阿蘇山が噴火。
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播磨国で大地震。神官の禰宜につけるのが女性に限定された。これによってそれまでその呪術性によって禰宜の職についていた祝【1字ルビ・はふり】の民らは、呪術的仏教(密教)に取り込まれ、その結果先住民や先着民の原初的な信仰はことごとく解体されて、神社の要職などが密教サイドに独占されてしまうことになる。職を奪われた祝【1字ルビ・はふり】の民は、神社の雑役に従事することになった。
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陸奥国(本州島東北の太平洋沿岸)に巨大地震が発生。この地震による津波が多賀城の城下を急襲し建物などが倒壊する大きな被害が出た。死者千人を越えた。新羅からの海賊が太宰府の近くの博多津を襲い、豊前国の朝貢船から年貢絹や綿を略奪した。警備の者たちを選んで事に当たらせようとしたが、兵たちはみな軟弱で海賊を恐れて迎え撃つ気概もなかった。太宰府はあきれて俘囚を徴用したいと申し出た。この年の末に、移住させた俘囚や夷俘を九州島・筑紫国の太宰府に再配置したところ、一をもって千にあたる勇敢さであったという。太宰府、対馬、山陰道に新羅来襲に備えさせた。第一回の祇園御霊会が開催された。
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上総国の夷俘が民家を焼いたり、人や財物を盗んだりするので、朝廷政府の教化に従う者は手厚く哀れみをかけ、従わない者は「奥地に追い入れ」るように、上総国に命令が出された。『三代実録』は「夷種を征伐し捕虜にして中国に散居させたのは、まんがいち盗賊などが出た場合、その者たちに防御させるためだ」との天皇の言葉を記す。新羅人二十人が陸奥国に移住させられた。太宰府の官僚だった藤原元万侶【3字ルビ・もととしまろ】が新羅国王と通謀して叛乱を計画したことが、新羅からの通報で発覚し、逮捕された。子どものころから秀才だった菅原道真が二十六歳で役人に登用された。
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出羽国の鳥海山が噴火して周辺に大きな被害を与えた。山上から火を吹き上げ、土石を焼き、雷のような音がした。山に源を発する川は泥であふれ、泥水の色は青黒く、臭気が充満した。魚がたくさん死んで浮かび上がり、流れをせき止めた。大きな蛇が二匹、無数の小さな蛇たちを従えて海に流れていった。京の郊外の人の住めないような河原に人々が流れ込んで暮らしはじめた。河原を住み処とする最底辺の人々はこの後年々増加の一途をたどり、やがては一大集落を形成するようになる。朝廷の記録では一貫して鳥海山を「大物忌神がいます山」と呼び、大物忌神が瀬織津姫神を秘した神名であることから、本州島の先住民の信仰厚い山が怒ったとの認識があったらしい。渤海使一行が加賀国に来日し、存問渤海客使【6字ルビ・ぞんもんぼっかいきゃくし】に、若干二十七歳の菅原道真が任命されて到着地におもむくはずだったが、たまたま母の死にあってその役を辞任した。
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渤海使が入京し、彼らに官銭四十万が与えられ、市井人が呼び集められて珍しい文物のバザールが開かれるわ、また彼らが持ち帰ろうとした物の取引が熱をおびるやら、市中が賑わいを見せる。しかし渤海使がやってきたときにあわせたように都でへんな咳が出る病気が蔓延して死者が多数出た。渤海使が運んできた「異土の空気」が流行病の原因とされ、朝廷の建礼門の前で大祓いがおこなわれた。「異土の空気」がケガレとされたのだった。このころから蝦夷【2字ルビ・エミシ】や南島の人たちも−−大八州の境界の外はケガレた空間とするパラノイアックな見方が広まりつつあり−−同様にケガレた存在と見なされるようになっていく。
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陸奥国に植民した開拓者たちは周囲の蝦夷【2字ルビ・エミシ】をことのほか恐れていたらしい。この年、陸奥国の役人が中央政府に次のように申し出ている。「俘夷【2字ルビ・ふい】が境にたくさんいて、ややもすれば反乱を起こすような状態で、役人も住民も恐れおののき、まるでトラやオオカミを見るような目で夷俘たちをながめております。願わくば、武蔵の国の例にならい、五大菩薩像を造って、国分寺に安置し、蛮夷の野心をただし、役人や住民の恐怖を取り除いていただきたい」
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国司や郡司が百姓の子女と結婚するのが禁じられた。九州島の薩摩国で開聞岳が噴火した。
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京の冷泉院から出火。翌日まで延焼は続き図書や財宝が焼失した。下総国では俘囚が再度暴動を起こして、官寺を焼いたり、良民を殺略したりした。武蔵、上総、下総、下野などの国からそれぞれ三百人の兵が徴発されて鎮圧にあてられた。下野国でも叛乱を起こした捕虜八十九人が斬殺され、ひと月後には賊徒二十七人、帰降俘囚四人が殺されている。渡嶋の荒狄【2字ルビ・あらえびす】が水軍八十隻で出羽国飽海郡を襲い、農民を殺略した。渡嶋の蝦夷【2字ルビ・エミシ】が蜂起したという報告が出羽国からもたらされたので、さっそく出羽国に征討の命が下された。渡島の狄【1字ルビ・エビス】が出羽国秋田郡へ来襲した。
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夷俘【2字ルビ・いふ】たちが常に鹿などを殺して食べるために、正月と五月の節には、鎮守府自体が主催して夷俘たちを饗応するための盛大な狩猟をおこなった。
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菅原道真が朝廷お抱えの文章【2字ルビ・もんじょう】博士に就任した。三十二歳だった。作物が実らず、百姓は疲弊した。本州島東北で飢饉(ききん)、役人の税の取り立てが厳しくなり、倭人の開拓者の三分の一が奥地に逃げ込んだという。
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宮城の紫宸殿に、夜間、盗賊が侵入した。前年の大凶作が引き金を引いたものか、出羽国の第二国府の所在地である秋田城(秋田市高清水岡)の城下に住まう夷俘たちが、出羽月山と鳥海山の神の力を借り受けていっせいに蜂起し、秋田城や郡衙などの政府施設や城辺の民家などを襲って焼き落とした。
出羽国の官兵六百人が俘囚兵を前面に立てて緊急出動したものの、夷俘の叛乱は−−日増しにその数を増やして−−空前の大乱に拡大し、一千名あまりの叛乱軍にふくれあがって、たちまち五百人ほどが殺害され、城下は焼け野原になった。叛乱を起こしたのは敵対関係にある狄【1字ルビ・えびす】ではなく、すでに秋田城よりの支配を受け入れてその城下に移住していた狄【1字ルビ・えびす】で、すでに納税や朝貢の関係に入っていた先住民たちだったが、その徴税があまりに酷なことに耐えかねて起こしたものとされる。またこのころ官位の高い権力者の子弟が大勢、特産の良い馬や良い鷹を求めて都からこの地にやってきて、善良なフロンティアのネイティブ・ピープルたちをだまし、安い値段でそうした特産物をこぞって手にいれることが流行していたので、そうしたことも叛乱の原因のひとつになったかもしれない。
出羽守・藤原興世【4字ルビ・ふじわらおきよ】による政府軍全滅の報に、陸奥、上野、下野国より出羽国に計四千名の援軍派遣が命じられた。京都から藤原保則【2字ルビ・やすのり】が出羽権守に、清原令望【2字ルビ・よしもち】が出羽権掾として派遣されることになった。政府軍は秋田河左岸に砦を築き、そこを拠点として俘囚たちと戦ったが苦戦を強いられていた。蝦夷【2字ルビ・えみし】三人が秋田旧城下にやってきて政府の役人に「秋田河(雄物川)から北をわれわれの国として認めよ」と、日高見国の独立を改めて宣言した。
秋田旧城には政府軍五千が集められていたが、こちらも叛乱俘囚軍に不意をつかれ、城を包囲されて大敗を喫し、あげくのはてに甲冑三百領、備蓄米七百石、馬千五百頭などを奪われる始末だった。小野春風が鎮守府将軍に任命され、急きょ出羽国秋田城救援に向かったものの、当然ながら救援軍の到着を待ちきれずに叛乱俘囚軍に砦を包囲された政府軍二千人が秋田河左岸の砦から逃亡した。
ヤマトの天皇は次ぎに阿闍梨【3字ルビ・あじゃり】の寵寿【2字ルビ・ちょうじゅ】を出羽国に派遣して降伏の法を修させることにして都を送り出した。出羽国に到着した藤原保則【2字ルビ・やすのり】が常陸と武蔵両国の軍二千を派遣してくれるよう要請している。小野春風らの率いた軍が陸奥路経由で出羽に到着した。この春風は、父親が陸奥国の官人であり、若いころ辺境を旅して回ったので夷語に堪能で、彼は武器や鎧をかなぐり捨てて単身夷虜のなかに飛び込んで対話をくりかえし終戦を実現させるのに功があった。藤原保則は秋田の南側にある蝦夷村(向化俘地)のうち 添河(旭川流域)など3か村の懐柔にのりだし、 雄勝・平鹿・山本の不動穀(官米)をえさにして味方に引き入 れることに成功。朝廷側についた蝦夷(俘囚)二百余人が反乱軍に 夜襲をかけて八十人を殺している。かくして叛乱の鎮圧にあたった国守の藤原保則、将軍の小野春風らは全面的に非を認めて、停戦と現状復帰を要請した。要求が全面的に受け入れられたために、夷俘の三百人ほどが投降するなど和議帰順を希望する夷俘が続出した。例によって権力者側による反乱軍の分断作戦が功を奏した感じ。朝廷が出羽鳥海山の大物忌神社と月山神社の神の位階をさらに引き上げた。
このころの出羽国の狄【1字ルビ・えびす】の政治地理が秋田城からの距離によって「政府与力エビス村(秋田河南向化俘地−−添河、覇別、助川の三村)」「叛乱エビス村(秋田河北賊地−−鹿角、比内、椙淵、野代、河北、脇本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡の十二村)」「去就不明遠エビス族(津軽、渡嶋)」の三地区に分類されている。渡嶋(北海道)の俘囚のチーフたち百三人が三千名の部下を率いて秋田城に来て、叛乱に加わらなかった津軽の俘囚百人あまりとともに帰順した。秋田城ではこの俘囚たちの労をねぎらって饗応がなされている。この段階でエミシたちの領土回復の最後の夢が崩壊した。
関東諸国で大地震。武蔵、相模の二国に被害が集中した。出羽国の俘囚の叛乱が平定されたのち、清原令望はそのまま秋田城司として秋田にとどまり、土着して、出羽清原氏の祖となった。
「津軽の夷俘は其の党種多く幾千人なるを知らず。天性勇壮にして、常に習戦を事とす。若し逆賊に 速(まね)かば、その鋒当たり難し(津軽のエミシたちはさまざまな部族から構成されていてその数ははなはだ多く、みな生まれついて勇敢で戦いが得意であるために、このまま国家の敵として放っておくととてもやっかいなことになります)」
——藤原保則が常陸と武蔵両国の軍二千を派遣してくれるよう要請した上奏文の一節
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出羽権掾の藤原保則が叛乱した夷俘を征討したことを報告。諸国の軍士は陣を解き職を免ぜられ、それぞれの甲冑をすべて出羽に保管し、兵一千六百五十七人、烈士(志願兵)八百八十人を秋田・雄勝の両城と出羽国政府軍の三つに分けて配置して、叛乱鎮圧作戦は終了した。
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