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Tuesday, August 31, 2010

1,947 Ninteen Forty Seven  昭和22年 分かれ目の年

(以下は「ネイティブ・タイム」の最新版から1947年のところを取りだしたものである。2001年に単行本となった「ネイティブ・タイム」よりもかなり情報量が増えている。1500ページを超えてしまうので出版社では本にしてくれそうもないので、近いうちに増補改訂版をデジタルバージョンで提供したいと考えています。 北山耕平) 

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1,947

 アメリカ主導の農地改革により地主階級が解体された。この後四年間で政府によって約二百五十万人の旧地主から農地が買い上げられ(取り上げられ)、約四百二十万人の旧小作人が国から売り渡しを受けた。しかしこの農地改革は、土地所有権中心主義のこの国の土地についてのシステムや意識を本質的に変革することはなかった。なぜなら、史上はじめて地主となった旧小作農民−−百姓−−ははじめから耕作権としての土地所有権と商品的土地としての土地所有権の二重性を持った土地を所有することになったのだから。

 北海道アイヌ協会が、給与地の農地改革法適用除外を道庁と政府に求めるも不許可とされた。GHQ第九軍団司令部のジョセフ・スイング少将がアイヌの長老四人に「独立する意志があるかないか、独立するなら機会は今しかないですよ」と打診。四人はその打診を断っている。少将は「今、独立しないで、あとで日本人とけんかするようなことは絶対にしないように」と伝えた。アメリカのCIAがLSDを武器として使うための潜在的な可能性を求めて実験を開始。

 日本国憲法が施行され、第二次世界大戦までの「国体」なるものは「象徴天皇制」というふうに言葉が置き換えられて、民主主義に基づく天皇制にその姿を変えていた。日本を共産主義の「防波堤」とするために天皇制を残した憲法一条と軍国主義を排除した憲法九条が取引として同時に成立、天皇制の防衛を目的として天皇は占領軍指揮官と何度も会見した。「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」「米国による沖縄占領は共産主義の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」と天皇はアメリカに伝えた。シルクハットにモーニング姿へと装束を改めた古代国家(旧日本帝国・大和朝廷)が、そのまま近代に出現したといっていいかもしれない。共産主義の脅威で頭がいっぱいだったアメリカは、とにかく扱いやすい権力者を日本に必要としていたし、新しくなるふりをきめこむ日本(旧日本帝国・大和朝廷)の政府外務省は、象徴天皇制を維持するためには「アングロサクソンとは二度と喧嘩はしない」と、かたく誓っていた。アメリカの原子力委員会が資金を出して日本国に原爆障害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)がつくられた。被爆者を呼び出してモルモットのように検査するだけで、治療はおこなわれなかった。

 生活保護法が制定され、「北海道旧土人保護法」にあった疾病者、傷痍者の医療保護、就学資金、住宅改良資金の給付が廃止となった。この時点で「旧土人保護法」の実体は消失していた。「北海道旧土人保護法」第四回改正法が公布され、これにより地租、地方税および登録税の免税特権が廃止された。北海道知事選挙にアイヌの佐茂菊蔵が、北海道議会議員選挙にアイヌの小川佐助が立候補し、両者とも落選したが、佐茂菊蔵は一万一千票を獲得した。

 ユーラシア大陸東北部のシベリアのツンドラ地帯に巨大な隕石が落下。長野県の浅間山が噴火し、登山者二十人ほどが死んだ。北米大陸で旱魃。栄養不良と飢えが北米先住民のうえに降り掛かった。アメリカ原子力委員会が放射性物質の人体への影響の調査を開始した。このころ日本人は平均千三百カロリーの食事で、ドイツ人は平均千五百カロリーの食事で、いわゆる「アメリカ人」は三千四百五十カロリーの食事で生活していたが、ナバホを例にとると平均千二百カロリーの食事だった。アメリカの大統領がショショーニ一族の代表に軍事基地にするので彼ら一族の土地のほんの一部を使いたいと申し出た。この土地は四年後には核実験場となる。

 ホピ族のコヨーテ氏族のキクモングイ(長)が「天から灰のつまったヒョウタンが落ち、海を煮えたぎらせ、大地を焼き、それに続く何年も植物が育たない」ことが起こるまで秘密にするように指示されていた教えと預言をホピの他の指導者たちにはじめてあきらかにした。その後、ホピの国で「コヨーテが話すまでは語るな」と指示されていたという教えがつぎつぎとあきらかにされた。


「そこまであなたが戦争に反対していたなら、なぜマイクの前に立ち、その旨を宣言しなかったのか?」
「歴代の天皇で、側近の意見に反して行動した者はいません。1941年の時点で、もし私がそんな行動を取れば、間違いなく首をかき切られていました」 ——この年に占領軍司令官マッカーサーと日本の天皇とのあいだで交わされた会話の一節

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