Last Modified Friday, January 1, 2010
ヘェメヨースツ・ストーム他 述・著
再話 北山耕平
Japanese text version 4.0.1
むかし、あるところに、一匹の野ネズミがいた。
とてもいそがしがり屋のネズミで、長いひげをひくつかせ、かさこそかさこそと、草むらをかきわけては、あちらこちらと、いつもなにかを探しまわったり、食料にする種をあちらからこちらへと移させたり、こちらからあちらへと運んだり、とにかくひとつの場所にすこしもじっとしていることがなかった。
まあ、ネズミにもネズミのやることがあり、ネズミというものはだいたいがそういうものではあるわけで、ごたぶんにもれず彼も、そういうネズミたちの一匹ではあったのである。
しかし、でも、しかし−−。
そうやって、たえずいそがしくしている彼ではあったが、ときおり、さよう、ごくたまにではあるけれど、頭を宙にもたげ、まるでなにかをさぐるように、長いひげをひくひくさせて、ひとり遠くの見えないものを見つめるかのごとく目を細めては、しばし、物思いにふけることがあった。
で、あるときのことだ。
仲間のネズミのもとに、息せききってかけよると、彼がたずねた。
「ねえ、兄弟、あのゴーゴーいう音だけれど、きみの耳にも聞こえるよね?」
「なにい? 音だって? いいや、そんなものは聞こえないね」
相手のネズミは、鼻の先でいそがしく地面をまさぐりながら、顔をあげようともせずに、こたえた。「いまはいそがしいから、話かけないでくれないかな」
しかたなく彼は、別のネズミに、声をかけた。
「ねえねえ、兄弟、きみになら、あのゴーゴーいう音が、聞こえるよね?」
そう聞かれたネズミは、いぶかしそうに彼を見返して、
「おいおまえ、頭でもおかしいんじゃないか? しっかりしろよ。どこにそんな音がしてるっていうんだい? くだらないことを言ってる暇があるなら、さっさとやることをやれよ」
と、いうがはやいか、地面にたおれていたコットンウッドの木の穴に、そそくさと姿をかき消した。
しかたがない。ひげをすくめると、彼は、いつものいそがしい自分にもどることにした。そして聞こえている音のことなど、もう二度と気にすることはやめようと、あらためて自分にいいきかせるのだった。
ところが、しばらくするとまた、あのゴーゴーいう音が、聞こえているではないか。遠くの方から、かすかに、ではあったけれど、確かに、その音は聞こえてきていた!
ゴー、ゴー、ゴー、ゴー。
彼は、今度こそ決心をした。ようし、あの音のことを、もうすこし確かめてみるぞ。
例によっていそがしそうに振る舞っているほかのネズミたちをしり目に、彼は、音のする方へ小走りに向かった。
おそるおそる森のなかの草むらをぬけ、さらにしばらく行ったところでたちどまって、あらためてもういちど、耳をかたむけてみる。
ゴー、ゴー、ゴー、ゴー。
やはり、そうだ、確かに、音は、聞こえている!
日も暮れかけたころ、われを忘れて、彼が、一心に耳をかたむけていると、いきなり、何者かが暗がりから声をかけてきた。
「こんにちわ、小さな兄弟」
声は、たしかに、そういった。
いや、びっくりしたのなんのって。
思わず彼はとびあがった。あまりに勢いよくジャンプをしたので、皮だけをのこして、中身がとびだしてしまうのではないかと思えた。あわてて背中としっぽをまるめて、逃げようとしたほどだった。そのとき彼は母親から言われた「まずは自分から名乗ること」という忠告を思い出した。
小ネズミは暗がりに向かってたとたどしく声をかけた。
「ぼくはネズミ、小さなネズミ、リトル・マウスです」
「こんにちわ、ブラザー・マウス」
また、暗がりのなかで声がした。
「ぼくだよ、きみの兄弟で、洗い屋のアライグマさ」
近づいて声の主を確かめると、なるほど、アライグマだ。
「いったいぜんたい、こんなところにひとりぽっちで、なにをしているのかね、小さな兄弟?」
アライグマに、そうたずねられると、はずかしさから顔を真っ赤にして、小さなネズミは、鼻先を地面におしつけたまま、こたえた。
「夜がきれいだったから、散歩でもしようかと思って」
「そうだね、いい夜だ。死ぬにしても、学ぶにしても」
「じつは耳のなかで、ずっとゴーゴーいう音が聞こえていて、だから、それがなんだか知りたくて、さがしていたんです」
おずおずと、自信なさげに、小ネズミがいうと、
「耳のなかの、ゴーゴーいう音だって?」
アライグマが、となりに腰をおろしながら、こたえた。
「小さな兄弟、それならわたしが力になれるかもしれないぞ。きみの耳に聞こえているその吠えるような音は、偉大な川からやってくるものだよ。わたしは毎朝そこに食べものを洗いに行くんだ」
「かわ?」
小さなネズミは、神妙(しんみょう)な面持ちでたずねた。
「かわとは、いったいどんなものですか?」
すると、アライグマが、立ちあがっていった。
「ついてきたまえ。もし望むのなら、きみに川を見せてあげよう」
とたんに小ネズミは、おじけづいた。うれしい反面、それがとてもおそろしいことのように思えたのだ。しかしどうしても、音の正体を、彼は自分の目で、確かめたかった。
ネズミは頭のなかで考えた。
「その『かわ』というのがなんであるのかわかったら、もういちど、いつもの暮らしにもどればいい。それに、そのことを知ることが、探したり、集めたりする、日ごろの自分の生活にも、なにかの役にたつかもしれないじゃないか。そんな音なんてしていないと、さんざんいいはっていた兄弟たちみんなにも、きっとわかってもらえる。ひょっとしたら『かわ』の一部だって持ち帰れるかもしれない。それに、このアライグマさんを連れて一緒にかえれば、嘘じゃないことを証明してくれるだろうし」
「おねがいします、兄弟」ネズミは口を開いた。「どうかその『かわ』とやらへつれていってください。ついていきます」
小さなネズミは、アライグマの後ろを歩いた。小さい心臓が、胸元ではれつしそうなほど、ドキドキと大きな音をたてた。アライグマは、小ネズミがいちども通ったことのない道を、奥へ奥へと進んでいった。
これまでにその道を通りすぎたであろう、さまざまなものたちの匂いが、あちこちでした。おそろしさに、小ネズミは、何度となく後ろをふりかえっては、そのまま引き返そうかと思った。しかしそれにもまして夜の新しい世界は、さまざまな色や動きや香りに満ちていて美しかったのだ。
歩きすすむに連れて小ネズミの耳のなかの音はとてつもなく大きなものになった。これが偉大なる川の偉大なる音なのか。やがて、周囲の空気がなんとなくひんやりしてきて、どうにかこうにか、ふたりは、川べりまでたどりついた。
川だ!
それは、すぐには声にならないぐらい、とてつもなく大きくて、力強いものだった。あるところは深くて、透明で、ほかのところは渦を巻いていたり、暗く、よどんで、謎めいていた。おそろしく大きなはばの広い川で、小さなネズミには、闇のなかの向こう岸など、およそ見ることもできなかった。
流れはゴーゴーとうなり声をあげ、歌い、さけび、雷鳴のごとく鳴りひびいた。生まれてこの方こんな経験はしたことがなかった。水面を流れに運ばれていく、世界の無数のかけらを、小ネズミは目で追いかけた。大きいものもあれば、小さなものもあった。これほどまで力のあるものを彼は今までに見たことがなかった。
「なんて、とてつもない、力なんだ!」
彼には、それだけいうのが、やっとだった。なにしろそれまでに見たことがある水といえば、雨粒か夜露ぐらいのものでしかない。小ネズミは、水辺(みずべ)に近づいて、おそるおそる川のなかをのぞきこんで思わず後ずさりした。困惑して、おびえたような顔をした一匹の野ネズミが水のなかから自分を見ていたのだ。野ネズミはそのときまでなにかに写しだされた自分の姿を見たことがなかった。
「偉大な川はきみが感じていることや考えていることをそのまま写しだすのさ。きみが恐れていればその恐れを、喜んでいれば喜びをね。でも写しだされたものは、たいていゆがんでいる。間延びしていたり、つねに動いたりしていて、ほんとうの姿がそのまま見えるわけじゃないんだ。ほんとうの自分を見ることは、聖なる山を見るぐらい大変なことさ」
「聖なる山って、なんのことですか?」
「さあな。わたしにはわからない。どうせなら食べもののことでも聞いてくれないかな。自分は食べものを洗いながらよく川のなかに写るものを見て勉強してるからね」
「なぜ食べものを洗うのですか?」
「さあ、知るわけないだろ、そんなこと。あそこにいるアンティロープがどこでおしっこするのか、きみだってしらないだろうが」
アライグマはなんとかして岸辺で川の水の流れのなかに小ネズミの手を浸させようとした。そうすれば自分で水の味を確かめることもできるはずだった。でも小ネズミは川岸にあった小さな岩のうえにかたくなに腰を落ち着けたまま、夜通し朝が来るまで偉大なる川を眺め続けた。
朝、彼は川辺に生い茂る丈の長い草の先にたまった水滴が、きらきらと輝きながら川のなかに落ちていくのを見ていた。小ネズミには世界が違って見えた。ゆっくりと大きくなって、草の先端を離れて川の水の中に落ちてゆく水滴が歌を歌うのを、小ネズミは確かに聞いた。
濡れた、小さな、水の粒
陽の光のなか きらきらと
川のなかへと 落ちてゆき
家に帰るよ 母のもとへ
「もう水滴が見えないや。全部同じ水に見えるもの」
小ネズミは水の中から水滴が「母さんにはわかるのさ」とこたえるのを聞いた。
ネズミは自分の耳を疑った。ぼくはほんとうに一粒の水滴が歌う歌を聞いたのだろうか? 偉大なる川の偉大なる音は、想像できないぐらいの数の水滴たちの歌う歌が混ざりあっているものだというのか。そんなことを考えただけで小ネズミの小さな頭ははち切れそうになり、くらくらとめまいがしたほどだった。小ネズミは回らない頭でアライグマに水滴のことを聞いてみたが、あいにく真剣に聞いていなかったのでなにを聞いたのか覚えてはいない。アライグマは水滴には三つの種類があるとこたえたのだった。家に帰ることを知っているものと、家に帰るのだろうなと想像しているもの、そしてほんとうに家に帰れるのだろうかと疑っているものの三つだと。リトル・マウスはアライグマがせっせと川の水で食べものを洗うところを見ていた。
「そこに集めてきた葉っぱを洗うのを手伝いましょうか?」
「いやけっこう。こう見えてもわたしは食べものの味にはうるさいんでね」そしてアライグマの兄弟は続けた。「さらに何事かを学びたいのなら、きみはもっと心を開かなくてはならないぞ。かたくなに心を閉じたままでいると、この石ころのように、いくら長い年月を川のなかで過ごしたとしても、知恵の影響を受けることもなく、乾いたままの心でいなくてはならないよ」
こうしてアライグマは自分に教えられるだけのものを小ネズミに教えた。
「リトル・マウス、わたしはきみと一緒に帰ることはできない。わたしは友だちではあるがきみの証人になれるようなものではないからな。どうしてもきみが川のことをきみの一族に伝えたいのなら、それにふさわしい人物やものを見つけなくてはならない。ついてはひとつきみに、わたしよりもずっと偉大な川のことを知っている友だちに引きあわせよう。わたしは川で食べものを洗うだけだが、彼は偉大な川のなかで暮らしているんだ」
ふたりはしばらく堤を歩いた。あるところで、川の縁に目をやると、流れのおだやかな、浅瀬の水たまりに、あかるい緑色をした一枚の水蓮の葉がういていた。そしてその葉のうえに、葉とほとんどおなじ緑色をした大きなカエルが、すわっていたのだ。カエルの腹だけが、やけに白く見えた。
「こんにちわ、兄弟」
リトル・マウスがまず声をかけた。
「やあ、小さな兄弟。川に、ようこそ」
カエルが口を開いた。
「それじゃあ、わたしは、そろそろいとまごいでもするかな」アライグマが口をはさんだ。「なあに、心配はご無用だ、小さな兄弟よ。この先はこのカエルさんが、きみの面倒をみてくれるから」
そんな言葉をのこすと、アライグマは、洗って食べられるものをさがしさがし、きょろきょろしながら、そそくさと堤から姿を消した。
小さなネズミは、水辺(みずべ)に近づいて、おそるおそる川のなかをのぞきこんだ。川の水が、おびえたようすの一匹の野ネズミの姿をまた写しだした。
「きみは、誰?」
小ネズミは、水に写った自分にむかって問いかけた。
「こんなにとてつもなく大きな川のなかにいるのに、こわくはないのかい?」
「いいや」答えたのはカエルだった。「ちっともこわくなどないぞ。わしは生まれながらに、川のなかでも、川のそとでも、どちらでも生きていける力をさずかっているからな。冬将軍がやってきて、この不思議な力を凍らせてしまうと、わしはどこからも見えなくなってしまうのだがな」
そこでしばし間をおいて、カエルは言葉をつづけた。
「しかし、そのいっぽうで、サンダーバードが空を飛びまわっている季節なら、わしはいつだってここにおる。だから、わしに会いたければ、世界が緑に包まれているときに、ここに来なくてはならない。よいかな、わしの兄弟よ、このわしは、ダイアモンドのごとく光り輝く水の守り人なのだ」
「すごいなあ!」小さなネズミは感嘆した。カエルの生き方がとても素晴らしいもののように思えたのだ。「アライグマの兄弟は、あなたは水のうえを歩けるといっていましたが、ほんとうですか?」
「もちろん夢のなかではな。わしにはちょっとした力があるのさ。どうだね、おまえさんにも、この不思議な力、メディスン・パワーを、すこし分けてしんぜようか?」
カエルにいわれて、小ネズミは、聞き返した。
「メディスン・パワーを? ぼくに、ですか? すごいや。はい! お願いです、できることなら、ぜひ」
「ならば、よく聞くのだ。できるだけその体を小さくかがめて、それから思いっきり高く、できるだけ高く、そこでジャンプをしてごらん。そうすれば、メディスン・パワーがおまえさんにもたらされよう」
カエルにいわれるまま、小ネズミは体を小さくかがめると、その場で、思いきり高く飛びはねた。
自分の体が空中高くに浮かんだまさにそのとき、彼は目の片隅で聖なる山の姿をとらえていた。小ネズミには、自分の見たものが信じられない思いがした。しかし、山は、たしかに、そこに存在したのだ!
だが、つかのま宙にあった小ネズミの体は、突然、次の瞬間には一転して、本来あるはずの地面にではなく、まっさかさまに川のなかへ落下した。水しぶきが盛大にあがった。
ザブーン!
いやはや、肝をひやしたのなんのって。小ネズミはおそれおののき、大あわて、いまにも死にそうな形相で、ずぶ濡れのまま、命からがら岸へとはいあがってきた。
「だましたな、ぼくを!」小ネズミは、ものすごい顔で、カエルにむかって大声をはりあげた。「なにが力なもんか!」
「まあ、待て」とカエルは、さとすように、いった。「べつに傷ついたわけでもなかろう。それにわしは飛べとはいったが落ちろとはいわなかったぞ。おまえは空気がお前をつかまえてくれるとでも思っていたのか」
「ぼくは水に落ちたんだぞ」
「恐れと怒りにまかせて、自分を見うしなったままでいてはならない。そんなものはほうっておけ。おまえさんは、飛びあがったときに、いったいなにを、見たんだ?」
「ぼくは」ネズミは口ごもった。「ぼくは、あの、その、聖なる山を、見ました!」
「な、そうじゃろ、おまえはもう、ただの小ネズミなどではないのだ。おまえには新しい名前がある。よいか、今から、おまえは、ジャンピング・マウスと名のるがいい」
「ありがとう、ほんとうに、ありがとうごさいます」ジャンピング・マウスは、自分がずぶ濡れであることもかまわず、いくたびもカエルに礼をのべた。怒りも、恐れも、もうすっかりどこかへ消えていた。「さっそくこれから一族のところへとって返し、自分の身に起きたことと、自分の見たものについて、話して聞かせたいと思います」
ネズミのなかでなにかが変化していた。これまでの彼だったら、仲間のネズミたちに会ったとたん興奮のあまり「ざまをみろ、ちゃんと川はあったじゃないか」などとこれ見よがしに相手をののしっていたかもしれないのに、聖なる山のヴィジョンを見た今は、興奮はしているものの、自分の見たものを一族のものたちと分けあいたいと感じていたのだ。カエルから教えを受けた今、彼は知らないことは知らないと正直に言えるようになっていた。
「ならば、はやくゆけ」カエルは答えた。「一族のもとへ帰るがよい。仲間を見つけるのはたやすいことじゃろう。ゴーゴーいうこの川の魔法の音を背中で聞くようにしながら、ただひたすら進めばよいのだ。そうすれば、兄弟たちにも、出会えよう」
他のネズミたちがみなそうであるように、もともと近くのところしか見れず、まっすぐに進むのを苦手としていたジャンピング・マウスは、体から水がしたたり落ちるのもおかまいなしで、今度は背中の方で確かに聞こえているあの魔法の音だけを唯一の頼りに、歌でも歌いたいような気分で意気ようようと、ネズミたちの暮らすいつもの世界にもどっていったのだ。だが、そこで彼を待ちかまえていたものは、あろうことか「失望」の二文字でしかなかったのである。
アライグマの兄弟に連れられて川までたどり着いた話も、川辺で水滴が歌う唄を聞いた話も、そこで聖なる山を見せてくれた魔法使いのようなカエルの話をしても、ただただみんなは沈黙するばかり。じきに彼の話に耳を貸そうとするものは一人もいなくなってしまった。しかもそれだけではない。雨など降った気配もまったくないのに、なぜか文字通り「濡れネズミ」でいきなりふらりと帰ってきて、しかもろくに筋の通った説明もできないでいる彼のことを仲間はずれにして、他のネズミたちは、遠くからこわいものを見るような目つきで見はじめた。
ジャンピング・マウスの全身がびしょびしょに濡れているのは、食べられるすんぜんに、なにかのけものの口からよだれまみれになってはきだされたからなのだと、みんなは勝手に思いこんでいた。つまり、そのけものがあえて彼を食べなかったということは、彼そのものに毒があるからに違いなく、その毒は、おそらく自分たちにとってもよいものではないのだと、他のネズミたちは判断したのだ。
だから川のことも、そのはるか向こうにあった聖なる山の話なども、もはや誰も聞こうとさへもしなかった。そしていつしか彼のことはみんなの記憶の彼方へと消え去った。
ジャンピング・マウスは意気消沈していた。それでも、しばらくのあいだは、以前の仲間たちと「普通にいそがしく」暮らして過ごした。彼らはみな自分の一族だったからだ。だが、あのとき目に焼きついた聖なる山の姿だけは、どうしても忘れることができなかった。自分の目に見えたものだからといって、それがそのまま他のものたちの目にも見えるとはかぎらないのだ。
それはヴィジョンであり、自分の頭と心にすりこまれた消すことのできない記憶だった。ジャンピング・マウスはみんなと分けあいたいものをたくさん持っていたが、友だちはみな彼といるのをいやがった。
業をにやしたジャンピング・マウスは、あるとき仲間たちの前で宣言した。こうなれば自分一人ででもあの聖なる山まで行くまでだと。すると友だちはみなあきれ顔で口々に、
「おい、おまえどうかしてるぞ? そんなことはできっこないじゃないか。空のあの黒い点々を見てみろ。常識あるネズミなら、そんなことをしたらあのワシたちが舞い降りてきて、あっというまにエサにされてしまうことぐらいみんな知ってる。そんな馬鹿なことはやめるんだな」
と言うのだった。
しかしそういうネズミたちも実は、自分たちの話に出てくるワシというものがいかなるものなのか、ほんとうはまったく知らないのだ。あまりにも空の高いところを飛んでいるために、ネズミたちの目にはそれは空にあるただの黒い点々にしか見えていなかった。自分の周囲の地面にあるものならなんであれ見分けることができたが、はるか空の彼方では、それは単なる動く黒い点にすぎないのだ。おまけにワシの方はワシの方で、あまり地上に近づきすぎると見えているものがにじんでぼやけてしまうのだが、むろんネズミたちにはそんなことは知るよしもなかった。
そしてある日、あの記憶にさそわれるまま、ジャンピング・マウスは気がつくと、長いひげをひくつかせながら、また例の川のある土地への境界まで、足をのばしていた。
そこはネズミ領のはずれだった。その先には、どこまでも続く大草原が広がっていた。ジャンピング・マウスは、野ネズミを餌にするワシの姿がないかどうかを確かめるために、顔をあげて空を見た。見あげた空は、無数の黒い点で、あふれかえっている。それらの黒い点のひとつひとつが、ワシ、イーグルなのだ。
しかし、そのときすでに、自分はなんとしても聖なる山のあるところまで行くのだ、とジャンピング・マウスは心にかたくきめていた。後を振り返ることもなく、ありったけの勇気をふるいおこすと、わき目もふらずに、彼はそのまま全速力で草原を走りはじめた。
大草原は大きな動物たちが遠くまで旅をして出会うところで、小さなネズミが旅をするような場所ではない。そんなことはわかりきっていた。小さな心臓が、興奮と恐れで、今にもはりさけそうに高鳴った。
そのまま一気に走れるだけ走って、彼はとあるスウィート・セージの茂みに駆けこんだ。そこなら空の黒い点々から身を隠すこともできた。ふうと一息ついて、呼吸を整えようとしたそのとき、ジャンピング・マウスは、いきなり老ネズミと遭遇(そうぐう)したのである。
そこは、その老マウスの、すみかだった。
セージの茂みのなかにあったその場所は、ネズミにとってはまさしく天国のようなところで、食べものになる種はふんだんにあり、巣を作るための材料や、いそがしくするにはうってつけのものが、ところせましとあふれかえっていた。
「よくきた」と、老ネズミが口を開いた。「ほんとうに、よくきた」
ジャンピング・マウスは眼をまるくした。こんなところに、しかもネズミまで暮らしていたなんて。
「グランドファーザー、あなたはネズミの鑑(かがみ)そのものです」ジャンピング・マウスは、ありったけの尊敬の念をこめて、言葉を選んだ。「これほど素晴らしい場所も、まず、よそにはないでしょう。ここなら、空のワシたちに見つかる心配も、まったくいりません」
ジャンピング・マウスがいうと、老ネズミがこたえた。
「おうよ。しかも、ここからなら、大草原の生きものたちだって、すべて見渡せる。バッファローだって、アンテロープだって、ウサギだって、コヨーテだって、なんだって見える。おまけにここからなら、それらのすべてを見て、しかもそれらの名前まで知ることができるのだぞ。おまえさんはなにを求めてここまできた? まあセージのお茶でも一服しなさい。わしが若かったころの話を聞かせよう」
「なんとありがたいことでしょう」ジャンピング・マウスはいった。「じつはわたしはごーごーとうなる音を聞いて偉大な川まで行ってきたのです」
「そうか、おまえさんもか」老ネズミはうなづきながら続けた。「わしもな、昔あの音を聞いて偉大な川のところまで行ってきたことがある」
ジャンピング・マウスは興奮した。はじめて自分と経験を共有できるネズミと出会えたのだ。うれしくないわけがない。ふたりは偉大なる川について、さらにはふたりが知っていることについて、いっそう饒舌に語りあった。
「聞いてください。ぼくはあそこで師のカエルと巡り会い、空高くジャンプしろといわれて、言われるまま飛びあがり、そこで聖なる山を見たのです」
ジャンピング・マウスがそう言うと、会話がとぎれた。長いこと老ネズミは押し黙ったまま沈黙していた。それからおもむろに口を開いた。
「息子の息子よ」すべてをわかっているかのような口調で、老ネズミが続けた。「偉大なる川があることは、わしも知っておる。わしも川まで行き、おまえさんと同じようにその水を口にしたことがあるのだ。だが、偉大なる山となると、残念なことではあるが、話はまたべつで、そんなものは耳に心地よく響く伝説にすぎん。よいか、そんなものはこの世には存在せんのだ。偉大な山をなんとしても見たいという気持ちなど、おまえさんも、このさいすっぱりと忘れて、わしとここにとどまるがよい。ここには、ほしいものがすべてある。こんなに恵まれた場所は、他にはまず見つからんぞ」
ジャンピング・マウスはいきなり冷や水をさされた気分だった。がっかりした。「なぜこの人はそんなことを断言できるのだろう?」彼は考えた。「聖なる山の不思議な力は、おいそれとは忘れられないものなのに。きっとこの人は咲いている花よりも高くは飛ばなかったのだ。もしかしたらまったくジャンプなんかしていないのかもしれない。ジャンプをしてさへいれば、今頃こんな大平原の真ん中になんて住んでいるわけがない」
「さてと、おじいさん、お茶までごちそうになったばかりか、この素晴らしい家で休ませていただいて、御恩は忘れません」とジャンピング・マウスは、切り出した。「でも、ぼくは、その山をさがしにいかなくてはならないのです」
「なんと! ここを出ていくとは、おまえもよほど愚かなネズミよのう。よいか、大草原は危険なところじゃぞ! 顔をあげてあれを見てみい!」老ネズミはさらにさらに確信にみちた声でいった。「あの黒い点々が見えるじゃろ! よいか、そのひとつひとつが、ワシ、イーグルなんだぞ。連中は、おまえを、とっつかまえようと待ち構えとるんだ!」
もちろん、そこから出ていくことが、どれほど大変なことなのかは、ジャンピング・マウスにも、痛いほどわかっていた。背中に黒い影が近づくのを感じることもできた。地面は焼けたように熱くごつごつと荒れていた。しかし、いかねばならない。彼は、意を決して、再び全力で走りはじめた。
いつ果てるともなくどこまでも続くでこぼこだらけの地面。それでも、彼は走りに走った。ひげをやたらひくひくさせ、長い尻尾を弓なりにして、力のかぎり、走った、走った。
そうやって走りながらも、彼は、空の黒い点々の投げかける影の存在を、背中に痛いほど感じていた。空にあふれかえる黒い点々。命からがら、彼は、どうにかこうにか大平原の真ん中に、そこだけぽつんとあった群生するチョークチェリー(北米産の山桜)の茂みのひとつに走りこんだ。このサクランボは食べるとなかなかおいしいのだが、あとでものすごく喉が渇いてくるのが難点なのだ。
すごいや! ジャンピング・マウスは、自分の目をうたぐった。なんとそこは、ひんやりと涼しくて、広々としていただけでなく、水も、甘酸っぱいサクランボも、さまざまな種までもそろっていたのだ。飲みものや、食べるものだけでなく、おあつらえむきに寝床を作るために集めるのにちょうどいい草まであり、おまけに探検できそうな穴もいくつもあって、ネズミとしていそがしくするにはこのうえないほどのものがならんでいた。しかも、そればかりでなくて、その気になって集めようとすれば、なんだって、いくらでも、集めてこれそうな場所なのである。
そうやってジャンピング・マウスが、新しい自分の縄張りをあちらこちら探索(たんさく)しているときのことだった。どこからともなく、ぜーぜーいう重苦しい息づかいと、さらに大きなため息が聞こえてきた。
彼は、そくざにその音の調査に取りかかり、ほどなくして音の発信元をつきとめた。音は、黒々とした山のような毛のかたまりから発せられていた。しかもそのもじゃもじゃな、巨大な黒い毛のかたまりからは、巨大な黒い角も二本、ぬっとつきだしている。前足と後ろ足は巨大な体の下で折りたたみ、頭を地面にのせるようにしていた。それはなんと、とてつもなく大きな体をしたバッファローだったのだ。
ジャンピング・マウスは、自分の目の前に存在するバッファローの横たわった体躯(たいく)の、あまりの偉大さに圧倒された。自分なら、この巨大な片方の角のうえにでも、はいあがれるのではないかと、思えた。
「なんとまあ、壮大な生きものであることか!」
ジャンピング・マウスは、そっとにじりよりながら、思わずため息をついた。そして声をかけた。
「こんにちは、大きな兄弟」
「やあ、こんにちは、小さな兄弟」バッファローが応じた。「たずねてきてくれてありがとう」
「偉大な存在よ」ジャンピング・マウスがたずねた。「どうしてあなたはここに横たわっておられるのですか?」
「わたしは病んでいて、ろくに食べるものもなく、もうじき死ぬ身なのだ」バッファローがいった。
その言葉を聞いたとたん、悲しみがジャンピング・マウスに襲いかかってきた。今、出会ったばかりだというのに、目の前で偉大な存在は死のうとしていたのだ。
「ぼくになにかできることがありますか? 薬になるものを探してきましょうか?」
ジャンピング・マウスが言うとバッファローがこたえた。
「この病を癒せるものは、ネズミの目のなかにある火だと聞いたことがあるのだが、小さな兄弟よ、ネズミなどというようなものなんて、どうせこの世にはいやしないのさ」
ガツンと頭をなぐられたぐらい、ジャンピング・マウスはショックをうけた。「ぼくの目だって!?」彼は思った。「このぼくの、ちっぽけな目玉のひとつだって」
あわてて彼は、例の群生するチョークチェリーの茂みのひとつに、逃げかえった。まだ心臓がドキドキしていた。それはぼくだってできるならあげたいさ。ほかのもので代わりになるようなものがあればいいのに。よりによってぼくの片方の目だなんて。
だが、そうこうしているうちにも、バッファローの息づかいは、さらに苦しげに、そして次第にゆっくりとしたものに、かわっていった。
「こうして自分が安全なところでのうのうとしているときにも、あのヒトは死のうとしている」と、ジャンピング・マウスは考えた。「ぼくが自分の片方の目をあげないからだ。このまま、死なせていいものだろうか? あんなに偉大な存在を」
長い尻尾を引かれる思いでジャンピング・マウスはバッファローが横たわる場所にもう一度かろうじてとって返すと、話しかけた。
「お話があります。ネズミというのは実在の動物でして、じつはわたしがそのネズミなのです」ふるえる声で彼は告げた。
「そうかいありがとうよ、小さな兄弟。ネズミがほんとうにいるということがわかっただけでも自分は幸せに死んでいける。そのうえおまえさんに片方の目をくれなんて言ったらそれこそ罰が当たるというものだ」
「でも、大きな兄弟よ、偉大なる存在よ、わたしはあなたを、このまま死なせるわけにはいきません。わたしには目がふたつありますから、これであなたが元気になれるのなら、そのひとつをさしあげましょう」
その言葉が終わるいなや、いきなりジャンピング・マウスの片方の目玉が顔から飛び出したかと思うと、ほどなくしてバッファローは健康な体をとりもどしていた。ジャンピング・マウスにとっての全世界、その世界をのせた大地をごう然とふるわせながら、バッファローが、にわかに力強く立ちあがった。
「ありがとう、わが小さな兄弟のジャンピング・マウスよ」バッファローがいった。「じつは、おまえさんの名前も、おまえさんが聖なる山に行こうとしていることも、それから、あの川まで行ってきたことも、わたしには全部わかっている。おまえさんはわたしの命の恩人だ。おまえさんが片方の目を与えてくれたおかげで、わたしも人びとに、この肉体のすべてを与えることができる。われわれは、永遠の兄弟だ。ここからは、わたしのしたを走ればいい。わたしがおまえさんを、聖なる山のふもとまで、かならず連れていこう。もう、空の黒い点々など、心配しなくてよい。わたしの影のなかを走っているかぎり、空のワシたちにはおまえさんの姿は見えん。あの連中に見えるのは、バッファローの背中だけだ。だが、大平原に生きる運命のわたしにできることは、そこまででしかない。わたしは、山には登れない。山に登ろうとして脚を滑らせて転びでもしたら、それこそ倒れておまえさんを、押しつぶしてしまいかねんからな」
自信たっぷりのバッファローの言葉をいくら聞いても、ジャンピング・マウスはすこし心配だった。なにしろまだ朝が早いにもかかわらず、偉大なバッファローはもう出発の準備を整えているのだ。明るい時間に旅をつづけると聞いただけで不安になった。しかも話を聞けば、これから通り抜けなくてはならないところはかなりの高原だとか。心配顔のネズミにバッファローが話しかけてきた。
「ジャンピング・マウスよ、きみはこれまで、暗い時を選んで、月あかりのなかを旅してきた。もしまだ聖なる山を見つける気持ちが変わらないのなら、これからは太陽の光のなかを旅することが必要になるだろう。この先しばらく行くと、小さな川の流れる場所に出る。おそらくそのあたりで激しい雷雨に遭遇するかもしれん。だがあの人たちはこの私の走る姿を見ただけで退散しよう。用意はできたかな?」
ジャンピング・マウスはその時はじめてそのバッファローの足首から下が白いことに気がついた。彼の四本の脚の下半分が白い毛で覆われていたのだ。普通のバッファローは脚が茶色か黒ときまっていた。いつだったか母親に聞かされた伝説に出てくる白い脚のバッファローのことをジャンピング・マウスは思い出した。
チョークチェリーの茂みは深い絶壁のはずれに位置していた。崖を下ったその先にはほとんど水の涸れた川の川底がむき出しになっている。意を決したようにバッファローが動き出した。深い崖の縁を越えて、ふたりは重なるような体勢で、急な長い坂を下りはじめた。
そうやって、小さなネズミは、それからは偉大なバッファローに守られながら、空の黒い点々をおそれることもなく、走りつづけることができた。もちろん、目が片方しかないわけだから、いくらバッファローの腹のしたにいれば安全だとはいえ、まったくおそろしくなかったといえばうそになる。バッファローの巨大なひづめが、自分のまわりで一足進むごとに、盛大に土ぼこりが舞いあがり、全世界をびりびりとふるわせた。
「今はとりあえず安心していられるけれど、どちらかが足の踏み場を間違えたとたんに、それでもう終わりじゃないか」とジャンピング・マウスがひとりごちた。
やがて太陽が雲の後ろにかくれ、辺りが暗くなってきた。空気を切り裂くように不気味な光が走った。さほど離れていないところでいきなり雷が大地を直撃したのだ。気がついた時にはふたりは草原の雷雲のただ中にいた。雷雨の下をバッファローが走り、バッファローの下ではジャンピング・マウスが必死に走っていた。右や左のあちこちで立て続けに稲妻が立木を切り裂いていく。雷が地面を激しく撃ちつけるたびに頭上の雷雲のうえが一瞬赤く輝いた。
こんなことってありなのか? 小ネズミは考えた。なんてことになったのだろう? バッファローばかりかそこに稲妻までもがやってくるだなんて。どうせならもっとのんびり歩いて聖なる山を目指せればよかったのになあ。
そのときまるでジャンピング・マウスの心を読んだかのように、ゆっくりと雷雲が遠ざかりはじめた。果てしなく続く乾ききった広大な草原が一瞬にして水に洗われて潤っていた。
そうやって、ふたりの大平原を越えていく波乱に富んだ旅はつづき、そしてあるとき、偉大なバッファローがついに足をとめる場所まで、やってきた。ジャンピング・マウスはへとへとに疲れ切っていた。生きているだけでありがたいと思えた。とっくに激しい雷雨はおさまったのに、心臓が電気を受けたように激しく鼓動を打っていた。それはそれはきつい旅だった。バッファローが、おもむろに口を開いた。
「小さな兄弟、ここでお別れだ」
「かさねがさねありがとうございます、ほんとうに」ジャンピング・マウスは息も絶え絶えに礼をいった。「じつは、あなたも感づいていたと思いますけれど、ひとつしかない目で、あなたのしたを走るのは、とてもこわいことでした。大地をとどろかせるあなたの偉大なひづめが、おそろしくておそろしくて、わたしは、びくびくのしっぱなしでした」
「そのような心配は、はじめから無用だった」バッファローがこたえた。「なぜなら、わたしの足の運びは、サンダンスの足の運び方とおなじものだからだ。おまえがどこにいるかも、自分のひづめが大地のどこを踏みしめるのかも、わたしにはつねにわかっていたのだ」
「ではあの嵐と稲妻の襲来は?」
「嵐だと? 稲妻だと? さあてそんなものはあったかな。蛍が飛んでいたことは覚えているがね。さあ、兄弟よ、わたしはここから草原にもどらなくてはならない。おまえさんは、そこでなら、いつでもこのわたしを見つけることができるだろう」
そう言葉を残してバッファローは草の海のなかに姿を消した。
偉大なバッファローはそうやって片方の目のないネズミを聖なる山の麓に一人残して大平原に帰っていった。ジャンピング・マウスは、すぐさま自分の新しい環境を検分しはじめた。
そこには他のどこよりもたくさんのものがあった。いかにもネズミの好きそうな場所で、こまごましたものがつぎからつぎとでてきて、時間がいくらあってもたりそうにない。ありあまるほどの種だけでなく、ほかにもネズミの気をひくようなものが山ほどもあった。ここにあるものを持って帰るだけで一財産作れるなと、彼は思わず考えたりした。そうやって彼があわただしく周辺の調査をしているときのことである。
冷気を感じた瞬間、いきなりジャンピング・マウスは、美しい灰色毛をしたオオカミとでくわした。かたわらには木の皮を編んで作られた籠がひとつ置いてあり、なかには陽に干した魚が入れてあった。そのグレイ・ウルフは、まったくなにをするでもなく、ただそこで妙な笑いを浮かべたまま、ぼーっと座っていた。
「こんにちわ、オオカミの兄弟」ジャンピング・マウスが声をかけた。
オオカミの両耳がぴくりと動き、そのときだけ目が光った。
「オオカミ! オオカミだと! そうか、そうだった! わしは、オオカミなのだ!」
だが、つぎの瞬間には、頭のなかにふたたび靄(もや)でもかかりはじめるのか、自分が誰だったのかすらもすっかり忘れて、ただそこに座っているだけの状態にもどっていた。
「こんにちわ、オオカミの兄弟」ジャンピング・マウスがもう一度声をかけた。
「オオカミ? オオカミだと! そうか、そうだった! わしは、オオカミなのだ!」
そうやってジャンピング・マウスが声をかけて、彼に、彼が誰であるかを思い出させると、そのときにはいっときだけ、その言葉に心を高ぶらせるオオカミではあったけれども、すぐにまた、彼は自分が誰なのかを忘れてしまうのだ。
「せっかくこんなに偉大な存在なのに」とジャンピング・マウスは考えた。「自分が誰だかもわからなくなっているなんて」
ジャンピング・マウスは、新しい場所の中心に移動すると、そこでしばし押し黙ったまま、自分の心臓の鼓動に耳を傾けた。まるで自分の内側に太鼓でもあるかのように大きな音が聞こえた。そしてその音が彼にあのバッファローのことを思い出させた。きっとぼくの目の玉には病気を治す不思議な力があるに違いない。それから急に意を決したかのように、オオカミが座っていたところへもどると、「オオカミの兄弟よ」と話しかけた。
「オオカミ! オオカミだぞ」と、グレイ・ウルフが反応した。
「オオカミの兄弟よ」とジャンピング・マウスはつづけた。「おねがいです、話を聞いてください。わたしに力になれることがありますか?」
「さあどうかな。悲しみは増すばかり、頭はおかしくなるばかりで、あとは飢えて死ぬばかり」
「なにを言っているのです。すぐそこに干し魚がたくさんあるじゃありませんか」
「なんだと? それはまことか? ここにあるものが魚に見えるとは、さてはおまえはネズミだな。わたしには自分が誰か思い出せないのさ。なにを食べればよいのかもわからない。おまえさんが干した魚だというものも、わたしには川底の土にしか見えない。食べるものか」
「お困りでしょう。もうなにを食べればよいのかもわからなくなってるのですね。なにがあったのですか?」
「自分を美しいものに造りかえようとして力の使い方を誤ったために、無駄に時間を使い、病気にもなって、最悪なことに今は自分が誰かもわからなくなった」
「わたしはあなたの病気を治せるものを知っています。それは、わたしのこの目のなかの火です。目はあとひとつしかないけれど、お役に立てるのなら、あなたにさしあげましょう。わたしにくらべたらあなたはあまりにも偉大な存在です。わたしはたかだかネズミにすぎません。どうぞこの目をおうけとりください」
ジャンピング・マウスが話すのをとめたとたん、彼の残されたただひとつの目玉がポンと飛び出して、オオカミの病は、うそのように消えていた。
オオカミの頬を幾筋もの涙が伝わっておちるのを、オオカミの小さな兄弟は、もはや見ることができなかった。すでに両目をうしない、彼は、盲目になっていたのだ。
「おまえこそが偉大な兄弟だ」とオオカミが口を開いた。「わたしはオオカミ。おかげで記憶をとりもどせたが、おまえはこれから盲目で生きていかねばならない。もともとわたしは聖なる山の案内人だ。おまえがジャンピング・マウスという名前であることも知っている。偉大なる川におもむき、カエルの兄弟から聖なる山を見せてもらい、偉大なバッファローとともに大平原を越えてやってきた。だからもしここから先まだ旅をつづけるつもりなら、わたしがおまえさんをそこへお連れしよう。山の頂には、不思議な力の湖がある。この世で最も美しい偉大な湖だ。世界のすべてがそこには写しだされている。すべての生きてあるものも、大草原も、空も、なにもかも」
「どうかわたしをそこまでお連れください」両方の目が見えなくなったジャンピング・マウスはいった。もはや彼には長いひげとふたつの耳があるだけだった。触れたり聞いたりして世界を理解することはできても、彼は自分を差し出した結果、世界を見る力を失っていた。
グレイ・ウルフは山麓の松林のなかをぬうようにして、より高く、さらに高いところへと、そんな彼を森林限界線を超えたところにある、神秘の湖まで導いた。魔法の湖の周囲にはもはや樹もなく灌木もなく、ネズミの体をかくしてくれるようなものはなにひとつとしてなかった。ふたりが湖の畔にたどり着いたとき、世界は平安に包まれて静まりかえっていた。
ジャンピング・マウスは手を差し伸べて湖の水を口に含んだ。それはそれはおいしい水だった。心の底から感動した。オオカミが隣に座って、湖の美しさを、彼にもわかるように、話して聞かせてくれた。この湖にはすべての人びとの姿が、空を飛ぶすべての鳥たちが、山々のスピリットたちが、そして大平原に生きるすべての生き物の姿が写しだされていると。そしてまたこの湖には世界のなにからなにまでもが、そしてその上を覆うように果てしなく広がる色塗られた美しい空が全部写しだされていると。
「わたしはここにおまえさんを残していかなくてはならない」オオカミがいった。「聖なる山の案内人として、他にも、案内しなくてはならない人たちがわたしを待っているからだが、しかしおまえさんが望むなら、望むだけは一緒にここにとどまろう」
「兄弟よ、ありがとう」ジャンピング・マウスはこたえた。「わたしにとって、ひとりぼっちになるのは、とてもとても、おそろしいことではありますけれど、いずれにしてもあなたは行かなくてはなりません。あなたには、この場所への道を、他の人たちに示す、おつとめがあります」
ジャンピング・マウスは、おそろしさに震えながら、その場にうずくまったまま、とにかくじっとしていた。すでに両方の目をうしなってしまった今となっては、やみくもにいくら走ったところで、それはまったく意味のないことだった。
彼にはわかっていた。案内をしてくれたオオカミがこの場を去れば、いずれ一羽のワシが、ここにいる彼の姿を見つけることになるのは時間の問題だろう。はたせるかなしばらくすると、背後に、黒い影が迫ってくるのを、彼は感じた。そして物音。ワシのたてる羽根の音が、すぐ近くで聞こえた。
くるぞ。
身構えた瞬間、いきなり一羽のワシが彼に体当たりをしてきた! ふいの一撃をまともにくらって、ジャンピング・マウスは意識を失い深い眠りにおちた。
さあ、それから、どのくらいたったのだろうか? 彼は眼を覚ましつつあった。どこか遠くで師であるカエルの声が「メディスン・パワーがほしくはないかね?」と言うのを彼は聞いたような気がした。
まだ、生きている! それは、たいへんな驚きだった。だが驚いたのはそれだけではない。目が、見えるようになっていたのだ! なにもかもが、ぼんやりとしてはいたが、あざやかな光りの色彩が飛び込んできた。
「見える! 目が、見える!」
ジャンピング・マウスは、何回も何回も、同じ言葉を繰り返した。ぼんやりとしたひとつの影が、緑色と白い色をしたなにかが、ジャンピング・マウスにむかってやってきた。しかし、いくらいっしょうけんめい目をこらして見ても、そのかたちはぼんやりとしたままさだまらない。
「元気かね、兄弟」と、緑と白のものがいった。「メディスン・パワーを、すこしお分けしようかな?」
「メディスン・パワーを、分けてくれる、ですって?」ジャンピング・マウスはつづけた。「ぜひ、ぜひお願いします!」
「ようし、それならば、その場所で、いちどできるだけ体を小さくかがめて、それから思いきり高くとびあがるがよい」
小さなネズミは、教えられたようにやった。
できるだけ低く身をかがめ、ありったけの力で、思いきり高くジャンプしたのだ! 高くとびあがったとたん、一陣の風が、彼をとらえた。そしてその風は、より高いところへと、見る見る彼を運んでいった。
あの声が、下の方でまた彼に呼びかけた。
「恐れるんじゃないぞ。しっかりと風にしがみついて、すべてを風にまかせるんだ。信じよ!」
ジャンピング・マウスは、言われるままにした。眼を閉じて、風にその身をまかせ、広げたふたつの手で風をしっかりとつかまえた。風は、彼をさらにさらに、空高く、運んでいった。
高く、高く。
ジャンピング・マウスは、目を開いた。世界が隅々までよく見えるではないか。より高いところに昇れば昇るほど、世界がいっそうはっきりと見えはじめた! なにからなにまでくっきりと見えるのだ。偉大なるもののすべてが、大いなる草原が、そこにいるバッファローが、山の岩のうえの灰色オオカミが見えた。
はるか下界に目を移せば、そこには、たとえようもなく美しい湖が、神秘の力を持つ湖が、広がっていた。そして魔法の力を秘めたその湖には、水蓮の葉が一枚浮かんでいて、そのうえに、ちょこんと、あのなつかしい師の姿が見えた。
それは、あのカエルだった。
「おまえに新しい名前をさずける!」
師の叫ぶ声を彼は聞いた。
「イーグル、それがおまえの新しい名だ! おまえは、ワシになったのだ!」
《おしまい》
THE JUMPING MOUSE, a story from Seven Arrows copyright © 1972,2004 by Hyemeyohsts Storm. Retold for Japanese young people copyright © 2005,2010 by Kohei Kitayama. All rights reserved.
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・単行本「ジャンピング・マウス」(太田出版刊)のまえがき 再録
・ジャンピング・マウスの物語の全文を新しい年のはじめに公開することについての弁
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