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Saturday, September 12, 2009

Native Time 1,000 TO 400B.C. in and around Japanese Islands

Update | 19.20 p.m.

Native Timeおよそ3000余年前から2600年前までの400年間の間に、日本列島をメーンに、その周辺で起こっていたことを、現在も編集作業進行中の Native Time のデジタルバージョン (Version 4) で確認してみると、今につながるさまざまなことが見えてくるような気がするので再録した。当時はまだ「日本」などという国はどこにもなく、ここには先にきた人たちと後から来た人たちが自分の属するところを探し回っていた。日本以前のこの島々の呼び名は、人びとによって違っていたかもしれないが、それらはすでに永遠に失われた。なお書籍『ネイティブ・タイム』として2001年に公開したものは Version 3 である。時代の変化と共に加筆したり修正した個所があるものの基本的な部分はかわっていない。ぼくはいつかこの新しいバージョンをかたちにするのを夢に見ているのだが、残念ながら書籍を巡る状況が今のままだと1000ページを超える書物の製作はむずかしいかもしれない。


Native Time 1,000 TO 400B.C. in and around Japanese Islands 本文は下をクリックして

1,000 TO 400B.C.

全地球規模で「最初の偉大なる覚醒」が起った余波を受けて、ホーマー、ゾロアスター、モーゼ、ブッダ、孔子、老子、プラトン、ソクラテス、アリストテレスなどといった人たちが生まれてくる。中国の北方山麓地帯にはのちに鮮卑族やチベット系となる半猟半牧の生活を営む少数民族がいたし、東ヨーロッパに連なる広大な北方草原地帯(シベリアの草原)ではスキタイ(スキュート・匈奴)と呼ばれる独自の青銅器文化を持った遊牧騎馬民族が周辺の諸部族や国々に影響を与えはじめていた。スキタイ人は赤く熱した石の上に大麻を置いて燻蒸しその蒸気に酔った。中国に西方より高温の火を操って石を溶かす魔法としての製鉄技術が伝わる。中国で子安貝を模した青銅や銅製の最初の貨幣も登場する。中国の東海岸から伝播した稲作渡来民によるプランテーションが北部九州で作られはじめる。そしてわずか百年ほどでこの水田稲作施設は近畿地方に到達する。

日本列島では本州島中央部のちに富士山と名付けられる山の東側で別の火山が噴火して火砕流が起き山々の一部が崩壊してこれもまた後に芦ノ湖と呼ばれることになる湖ができた。「フォッサマグナ」とはるかのちに名づけられる活断層がずれたことによる巨大地震が発生。また中西部でも、大阪平野北部に位置する有間−高槻構造線活断層が動いて、さらにはこの活断層の東方延長線上にある琵琶湖のあたりでも、大きな地震がそれぞれ発生し、琵琶湖の湖岸が広範囲で水没した。

朝鮮半島では青銅器が、そしてのちには鉄器も使われはじめる。豚や牛の飼育もはじまっていた。おそらくそのころ、アルタイ・ツングース系のオロチ族(のちの高句麗人)が、現在の朝鮮半島北部の東の朝鮮湾からウラジオストックにかけての沿岸より海流に乗り、北西の季節風の吹くころ一気に南下して、能登半島を中心に東北から山陰島根の中部にいたる本州島西北海岸地方に上陸しはじめる。彼らは麦、栗、稗、粟などの栽培に長け、かつてなかったほど高温の火を操る人たちで、ハンターでもあって、穴のあいたガラス小玉を作り出し、のちには高度な産鉄の技術を持った産鉄民となり、日本の歴史には「コシ−−越・古志−−の民」とか「ヤマタノオロチ」として登場する。この、朝鮮半島の東のつけねのあたりから直接本州島西北部に上陸する海上ルートは、こののち「扶余」「高句麗」「渤海」などからの難民や開拓者たちなどに利用される海のハイウェイとなっていく。

火を操る技術の影響を受けて、日本列島ではより高温による土器生産が可能となり、複雑な模様と形態で呪術的要素の強い亀が岡スタイルの土器が、高度に進化した漆器製作技術と出会うことでクライマックス期を迎え、本州島の東部で大流行したようだ。列島南北端の南島地域と北海道島道北・東部の土器文化は相変わらず独自性を維持していたが、本州島、四国島、九州島の土器に見る地域文化圏は統合される傾向にあり、ついには亀が岡式の東日本と、突帯文式の西日本に二分されるようになる。

照葉樹林文化の典型的な技術であるウルシの利用もこのころには定着した。また青森県の亀が岡遺跡からは中国古代貨幣−−明刀銭−−も出土したりしているし、青森県各地の縦穴住居跡から大陸渡来の青磁のかけらが出土するようになった。これらは日本海を越えた人々の移動と交易を暗示するものである。このころの北極星は、つまり天の北極に最も近い位置にあった星は、小熊座のβ星で、この星が西紀がはじまるまでの事実上の北極星とされており、中国名を「帝星」とか「北極大帝」とか「天官」といわれた。

北海道島、知床半島の羅臼町植別遺跡の墓から、鉄製の刀とともに、その鞘の部分と思われる純度九十パーセント以上の三片の銀製品の破片が出土している。日本列島で発見される銀製品では、これが最初のものだ。北方の宗谷海峡に面する礼文島の船泊【2字ルビ・ふなどまり】砂丘遺跡群からは、本州島東北部、現在の秋田県昭和町槻木【2字ルビ・つきぎ】あたりを原産地とする天然アスファルトや、新潟県糸魚川産の翡翠【2字ルビ・ひすい】、九州島以南の南東海域で採取されたタカラガイなどが見つかっている。秋田県産のアスファルトは矢と矢じりをつける接着剤や補強剤として以前から日本列島各地のネイテイブ・ピープルの間で重宝されていたものだった。同時に、この礼文島で製作された平玉【2字ルビ・へいぎょく】が、近隣の北海道島各地のみならず、サハリン島などからも出土する。さらに奄美諸島や南西諸島で採れるゴホウラ貝やイモ貝など南島産の貝のブレスレットはとくに人気があったようで、南方系海人族のネットワークを経由して、九州島全域に広まっているばかりか、本州島を経由して北海道島にまで渡っているほどである。ゴホウラ貝の腕輪は男性用で、イモ貝のそれは女性用で、腕輪はどうやらある種の権力の象徴とされていたらしい。こうして見ると、交易圏の広さと、長い距離を旅するネイティブのセールスマンの存在が浮かび上がってくる。この時代の日本列島に暮らす人々は海をものともせずに長い距離を移動していたし、当然ながら世界の原初の人たちと同じように、かろうじてまだ、神秘的な力の存在を確信しており、母なる地球と父なる太陽にもとづく自然の宗教を生き、すべての人がその下でつどうことができるという生命の樹を持ちつづけていて、男色や衆道や売春がシステムそのものの一部に巧妙に組み込まれることもないまま、性も解放されていて、詩的な意味での自由が存在していた。

また千葉県八日市場市多古田の低湿地遺跡からヒョウタンを縦にまっぷたつに割った形の木製杓子が出土した。木彫の一本作りの黒漆塗りのもので、頭部には蔦を模した橋状の把手まで彫られている。母なる地球を表現したと思われる不思議な形体の土器が、この時代数多く作られた。本州島東北部にはじまった抜歯の風習が九州島と海の道を経由して沖永良部島にも伝播。南島との交易の活発さをうかがわせるように、南西諸島に縄目の文様のついた土器も定着した。が、最高時で二十六万人を数えた先住民の推定人口は、新しく持ち込まれた流行性の病気などが原因して、この当時、のちのちの学者の研究によれば、すでに約七万五千人ほどにまで落ち込んでいたとされる。

もちろん日本列島の先住民の人口激減の原因は「病気」だけではない。おそらく最大の原因は、渡来人たちとの「戦争」だっただろう。高知県土佐市の居徳遺跡群から出土したこの時代の動物たちの骨に混ざって、あきらかに先住民のものと思われる筋肉のよく発達した人骨十五点がある。それらの骨は分析から少なくとも九人の人間のものとみられ、そのなかの女性の太ももの骨にはひざのすぐうえに骨製の矢じりが貫通した穴があった。男性の太ももと腕の骨には鉄製とみられる金属ののみのようなもので刺された傷がついていた。

この時代の文献とされる中国の『管子』にはじめて「朝鮮」の名前が登場する。その古・朝鮮は、朝鮮半島西北部から中国東北部の遼東地方にかけての限られた地域にあったらしく、鉄器文化と強力な政治知識を持つ燕【1字ルビ・えん】の国と敵対関係にあり、斉とは盛んに交易を進めていたという。中国人が王位に就いていた可能性も否定できないが、いずれにせよ差別と奴隷制を基盤にすえた征服王朝国家であることは間違いなく、スキタイの影響を受けた青銅器の高い技術を持ち、それに続いて製鉄の技術もいち早く取り入れていた。遼東半島南端にある旅大市の郊外の崗上墓と呼ばれるこの時代の古墳からは、百人あまりの奴隷たちが殉葬されているのが発掘されている。彼らは生きながら埋められたわけ。

中国ではこのころ、周の勢いも衰えていて、地球規模の寒冷化による北方遊牧騎馬民族の匈奴−−自らを「胡【1字ルビ・ふ】」と呼んだ太陽信仰の母系制氏族のスキタイの人たち−−の南下と、古代宗教文字の持つ力の争奪戦に端を発した動乱激動の春秋戦国時代に入っていて、秦、斉、楚、燕、韓、趙、魏の七つの大きな国が戦争をくりかえした。長江の下流域にあって互いに対立していた呉や越の国の人々も故国を追われて難民となり、水田稲作と金属採集加工の技術と、結核や麻疹【2字ルビ・はしか】などのさまざまな病原菌を持ち、陸伝いに、あるいは海伝いで、遼東半島から朝鮮半島に流入した。一説によればその規模約十万人以上とか。たとえば越などは、およそ五万人の軍隊が大船団を組織して呉の本拠地である姑蘇【2字ルビ・こそ】を渡洋攻撃したあと、そのまま杭州湾南部の根拠地を引き払って、国ぐるみで約六百五十キロを渡航して山東半島の南部に移転し、その後は歴史の舞台から忽然と姿を消してしまっている。

越の人たちはもともと華南の海岸地帯、浙江省、福建省、広東省、広西省からベトナムへかけての海洋性のネイティブ・ピープル(古モンゴロイドのマラヨ・ポリネシア系海人族)で、ドラゴン・クランあるいはスネーク・クラン−−龍や蛇をトーテムとする一族−−であり、全身に入れ墨をほどこし、米と栗と魚を常食とする人々だった。そして彼らは犬も食べた。この人たちが初期の−−水田開拓をともなわない自然湿地帯利用の−−稲作とともに日本列島に移り住んで、各地の湿地帯に村−−小国−−を築き、先住民たちと同和雑婚混血して倭人のベースとなっていった可能性がきわめて高い。同様に、越に敗れた呉の人々が、海を渡って朝鮮半島南部から日本列島に難民として流れ着き倭人のベースになったとする説もある。海人族の彼らは「阿麻【2字ルビ・あま】」「海人【2字ルビ・あま】」と自分たちのことを称した。そしてのちに「天の王朝」などと呼ばれる彼らが一番多く暮らしていたのが、古文書に「高天原」として記載されている琵琶湖周辺の淡海(近江)だったとする興味深い考え方もある。またおなじころ、呉や越の人たちが太平洋を渡って中米や南米に到達して文化的な影響を与えたともいわれる。

柱状抉入【2字ルビ・かいにゅう】石斧という特別な、石刃が直角に柄につけられている道具が、中国の揚子江河口以南の東シナ海に面した一帯、海南島、台湾、琉球列島、九州島、本州島西南、瀬戸内、四国島、朝鮮半島南西沿岸部などでしばしば出土する。この道具こそ、初期の米作りを極東アジアに広めた人たちの足跡を物語るものとされるものだ。九州島では、福岡市の板付【2字ルビ・いたつけ】遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡などで、土留めされた畦によって区画されていて水路のはりめぐらされた水田の痕跡らしきものが発掘された。本州島でも大阪の長原遺跡(平野区)からは籾の圧痕のついた深鉢土器と水田の遺構が、同じ大阪の牟礼遺跡(茨木市)からは水田の遺構が、岡山県の南溝手遺跡(総社市)からは籾跡のついた土器が発見されている。四国島の現在の高知県土佐市のこの時代のものとされる縄文遺跡から、動物の骨に混ざって特異な人骨が発見されている。それらの人骨は、矢で射られたり、金属の刃物で切られたりした痕跡が見られるのだ。

この時代、朝鮮半島では、漢民族の南下にともなって、馬韓族が移動をはじめ、この馬韓族の移動にともなって、辰韓・弁韓族も再移動をし、朝鮮半島東南部に落ち着いておのおの辰韓国、弁韓国を建国する。馬韓族は発達した金属文化を持って先住民を征服しながら漢江西南で目支【2字ルビ・もくし】国を建国、これがのちの馬韓国となる。そして同じころ太白山脈を源として朝鮮半島南部を横断して流れる−−全長三百五十キロメートルの−−洛東江流域沿岸から、騒然としつつあった北方勢力の影響を避けるように、ほぼ完成された水田稲作栽培と青銅を扱う技術を持った南方アジア系と推測される海洋性の倭人たちが、家族で、集団で、あるいは部族ごとに、新天地を求めて三々五々南下して海峡を越え、対馬や壱岐を足場にして、九州島の北部などにおいて先住民を奴隷にしたり、その奴隷で商売をしたり、追放したり、絶滅させたりしつつ、自国の分国としてのコロニー作りをはじめていた。

九州島でも、現在の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県にだけ分布する支石墓は、大型で扁平の巨石を数個の支石で支え、その下に瓶棺や石棺がある南朝鮮式の墓のスタイルで、副葬品には朝鮮半島製の磨製石器や銅剣銅矛、中国製のガラス製品などが収められていて、それらはこの時代に作られたものだった。
 稲作農耕祭祀をもって精神を支配する権力とし、身分制度で兵隊と奴隷を巧に扱い、地球を聖なるものとして−−生きている母親として−−みることをやめ、自然は人間の手で征服できるとし、法律と牢獄を文明の証とする−−これまでの「自然とともにある精神的な相互扶助システム」とはまったく異なる−−「新しい−−プログレッシブな−−生き方」が、それまでになかった結核や疱瘡や麻疹【2字ルビ・はしか】などの新しい病気とともに、日本列島の西部から中央部に徐々にひろがりはじめる。

水田稲作農耕は、潅漑施設、鋤や鍬などの木製農具、石包丁など大陸系磨製石斧、煮炊きや食器に使われた土師器【3字ルビ・はじき】という独自の赤褐色の素焼きの土器、大型の貯蔵用壺などとセットになっており、あらかじめ技術などが完成された形で、コロニアル経営の根幹として導入されたらしい。入植者たちは、新しい土地を発見し、そこに自分たちと同じ言葉を話す人があらかじめいないかぎり、そして米作りに適した低湿地帯に米が植えられていないかぎり、その土地を自分のものだと宣言してよいとする、おそろしく不思議な単純さを持っていたようだ。

九州島北西部の佐賀県にある吉野ケ里遺跡に代表されるような、周囲に二重の濠をめぐらせた環濠(城塞)集落が出現する。そうした環濠集落は、中国大陸や朝鮮半島でも発見されており、稲作とともに伝わった朝鮮半島からの入植者(屯田兵)による開拓砦兼実験農場である可能性がきわめて高い。外堀には常に水が流され、内堀はから濠で、敵の侵入を防ぐために先端を尖らせた木の枝を並べた逆茂木【3字ルビ・さかもぎ】や外側に向かって斜めに打ち込まれた杭列が見つかっている。吉野ケ里遺跡からは直刀の銅剣と一緒に首から上のない人骨を納めた甕棺や、矢じりのつき刺さった人骨も出土した。数百体の人骨を調査した結果、吉野ケ里の環濠集落で暮らしていた人たちについてわかったことは、男子の平均身長は百六十三センチで、女性は百五十センチ以上であり、集落においてははっきりと身分や階級が分かれていたことであった。吉野ケ里に埋葬された死者には、南の島でしか採れない前述のゴホウラ貝を加工したブレスレットを使う習慣が見られた。本州島中央部の地震で生駒・金剛山地の亀ノ瀬付近で断層による陥没が起きて、水深七十メートルほどもあった広大な湖(大和湖)の水位が二十メートルあまり低下し、その後もさらに水位は低下しつづけた。新しい文化の波が北九州から瀬戸内海を辿って近畿地方に押し寄せはじめる。現在の滋賀県守山市伊勢町・阿村町にきわめて特別な作られ方をした都市が造られた。これまでに例を見ないほどの大型の竪穴式建物が計画的な配置で置かれており、半島や大陸からの渡来系の巨大政治勢力がここで国造りをはじめた可能性を否定できない。ここが後の邪馬台国だとする説もあるように、この都市は、邪馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代の二世紀末に最も栄え、そして大和地方に巨大な古墳が築かれる古墳時代前期になると急速に衰える。

仏教の開祖であるゴータマ・シッタルダが、現在のネパールで誕生(前五六三年)する。春秋時代から戦国時代にかわりつつあった中国では孔子が没した(前四七九年)。「東夷、天性従順、西南北と異なる。孔子は中国で道がおこなわれていないのを悼み、海に浮かんで九夷とともに住もうとした、もっともなことだ。」と『漢書』(巻二十八下 地理志第八下)は記す。鳥海山が大噴火した。

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