大中遺跡
(播磨町郷土資料館に隣接)
開園時間 午前9時より午後5時まで(10〜3月)
休園日 月曜日(祝日の場合はその翌日)
入園料 無料
アクセス JR土山駅より、「であいの道」を歩いて15分
山陽電車 播磨町駅より、喜瀬川沿いに歩いて20分
播磨地方の中心を流れる加古川周辺は、古くから文化をはぐくみ栄えさせる条件を備えており、旧石器文化を始め、多くの遺跡を残しています。大中遺跡は、昭和37年6月に考古学同好グループの播磨中学校生徒3人によって発見されました。当時、この台地での耕作時には、土器片などが多数出土していたといわれています。大中遺跡は海抜13mの洪積世台地の南端にあって、加古川の氾濫源の東端に位置してます。弥生時代中期から古墳時代中期にかけての代表的な遺跡で、約44,000平方メートルの範囲に多くの住居跡が残されています。そして、ここから様々な用途や機能に応じた土器や鉄器・砥石などとともに、中国と交流のあったことを証明してくれる分割鏡が出土しています。これらの出土品や住居跡は稲作農業がようやく根づいて生活が安定し、階級の文化がはじまり、古代国家が形づくられようとする時代の社会や暮らしのようすを知る上で非常に重要なものです。播磨町のプロフィール 大中遺跡の解説より
小生が10月10日に講演をし、マーク・アキクサ氏がインディアンフルートの調べを響かせるこの大中遺跡のある土地で、人びとが活発に活動していた西暦100年から200年頃の「日本国以前」の日本列島周辺で起こっていたことを『ネイティブ・タイム』ではつぎのように記述している(デジタルバージョン Version 4)。播磨周辺のことは強調してある。通読されると、そこは日本列島におけるコロニーの走りのような土地であることがわかるだろう。コロニーとしての役目が終わったあとは長いこと眠りについていたが、20世紀に遺跡として発掘されて現在に至っている。およそ2000年前にはひとつの文化の最先端だったところだ。母なる地球を考え直すための旅をはじめるには、ふさわしいかもしれない。今は遺跡となっている土地の上に、どんなスビリットたちが帰ってくるのだろうか?
講演会の案内:地球に生きるひとりの人間から日本列島に存在している地球に生きる人たちへ
100 TO 200
このころ北アメリカ大陸のメキシコ中央高原とその南にマヤの諸都市が出現する。なかには人口が一万人規模の大きな都市もあったようだ。球規模で海水面が最も低い時期だった。
日本列島で石の矢じりなどが使われることが少なくなり、鉄器が普及しはじめる。鉄器では「斧」「刀子」「ノミ」などの工具がまず普及し、しばらく間を置いて「鎌」「鍬先」などの農具が普及する。鉄器の広まるのは九州島で早く、瀬戸内や本州島は遅れた。この当時の鉄の原産地は朝鮮半島南部だった。『魏志』(韓伝)によれば、倭人は他の朝鮮半島南部の国々と同様、中国朝廷の指図に従い、奴隷たちと引き換えにして、弁韓、辰韓の鉄を採取し輸入していたものらしい。
朝鮮半島では、高句麗が後漢に侵略をくりかえし、馬韓、邑【手偏に邑】婁【2字ルビ・ユーロー】などと協力して中国コロニーの玄菟【2字ルビ・げんと】郡や遼東郡やこれを背後から支援した扶余【2字ルビ・ふよ】などと戦い、東北諸族の盟主となりつつあった。結果として扶余国が弱体化し難民が南へ−−朝鮮半島や日本列島へ−−流出した。高句麗は後漢と和議を締結。
『後漢書』(東夷伝)は「倭面上国王帥升等は生口(奴隷)百六十人を献じ皇帝の拝謁を申し出た」と書いている。中国の官僚としての「倭に面した上国」の王の名前は「帥升【2字ルビ・すいしょう】」というのだった。「倭面上国」はアラカヤ(本伽耶)が九州島に作って三百五十年近くたったベア・クランの国の狗奴国だと推測される。そこでは奴隷を狩り集めて中国の皇帝に献上することが挨拶代わりにおこなわれていたようだ。奴隷にされるのはいつだって「先住民の若い男女」である。
水田稲作の技術がとりあえず本州島東北部の北辺にまで普及。朝鮮半島から伽耶部族連盟の住民のかなりの部分が難民として、開拓者として、九州島や本州島西部、四国島に移り住んだ。高句麗も、辰韓や馬韓(伯済国)も、伽耶に負けじと独自に領土拡大路線をとった。韓半島から九州島を経由してヤマトにいたる瀬戸内海海上ルートの最終拠点である淡路島に、伽耶国産の鉄鉱石をとかし本州島侵攻のための鉄鏃を作る鉄の加工工場が稼働。九州島や本州島の山陰、北陸、瀬戸内の播磨、吉備、淡路、摂津などにあったいくつもの、半島南岸からの渡来系の人たちが作ったコロニーの間で、朝鮮半島南部の肥よくな大地と豊かな鉱物資源を持つ伽耶族の故地をも巻き込んで、大和盆地の勢力と北九州を中心とする勢力の間で覇権を競う争いが起こった。中国の歴史書によって「倭国大乱」と呼ばれるこの極東アジアの動乱は、およそ四十年ほども続いたろうか。
このころの遺跡とされる鳥取県気高郡青谷町の青谷上寺地遺跡の溝から大量の、およそ九十体以上の人骨が散乱した状態で発見されている。なかには、鋭い武器で刺されたり、切られたりした傷跡の残る人骨もあるし、女性や十歳ぐらいの子供の骨までもある。
本州島西部に築かれていた移民のキャピタル出雲の伽耶族とネットワークを組んで、暫時大和飛鳥をコロニー化しつつあったサン・クランの国である弥烏邪馬【4字ルビ・みうやま】国(ウガヤ・上伽耶・大伽耶)は、しかし朝鮮半島南部洛東江中流の本拠地において、このころにわかに拡大してきた馬韓(伯済国・熊氏族/ベア・クラン)によって、朝鮮半島の本貫の地、帰るべき故郷を奪われてしまう。洛東江中流の高霊の地にあった本国を失ったことによって、ウガヤ系ヤマト王朝(弥烏邪馬国)は日本列島西部においても伽耶部族連盟内での発言力を低下させていく。軍事的緊張の高さを物語るように、この時期、瀬戸内周辺や九州島、本州島の関東地方のいたる地域で、山頂や台地などの見晴らしのよい場所に高地性集落がいくつも出現する。周囲に濠がめぐらされるなど防御機能が完備された臨戦体制集落である。朝鮮半島でこのころ作られたと思われる渦巻き装飾のついた鉄剣や青銅製の馬形のバックルが長野県長野市の遺跡から出土。(おそらくこのころのことを後に書きとめたものだろうが、鹿島神宮の祭神「武甕槌神」が出雲の国譲りの後、各地を平定されて国の統一をはかり、未開の東国に入っては星神香々背男を討って国中を平定したと、現在の鹿島神宮に伝わる「鹿島神宮誌」にある。「星神香々背男」は「ホシカカセオ」と読むのが学問の世界では通例だが、常陸地方の古老たちはかつてこれを「ホシカウラザメ」と呼んだという伝承(「久慈郡大甕山の倭文神社」)もある。いずれにせよこの人物は身体がとてつもなく大きくて、以前は富士山麓の海岸地帯に一族を率いて居住していたのが、常陸国久慈郡大甕山の東端に移り来たったもので、ここから東北地方にかけての太平洋の制海権を握るネイティブのチーフだった可能性がある。彼は今も常陸国では「星の神」「目の神」として祀られている。南方ミクロネシアもしくはポリネシア系のナビゲーターだったのかもしれないが、渡来系の日本列島統一の邪魔者として歴史から消されたのだろう。)
ウガヤは、やがて二十八の小さな王国をどうにか束ねて弥烏邪馬国の後身の「邪馬台国」を興し、女王卑弥呼−−伽耶の王女か−−をたてて女王盟主とし、奴隷制に基盤を置いた倭の部族連盟国家を形成して、争乱の時代を終結させた。邪馬台国に属するそれぞれの小国には王がいて、王の下に「大人」という身分があった。盟主(女王)と王と大人という階級が、下戸と奴婢とされる人たちを支配していた。『三国史記』(新羅本紀第二 阿逹羅尼師今【6字ルビ・アタラニスクム】)には「倭国の女王卑弥呼が遣いを送ってきた」の記述が見える。ウガヤの卑弥呼は、まず同じサン・クランである新興の斯蘆【2字ルビ・しろ】国(のちの新羅)と友好関係を結ぼうとしたのである。この当時、半島や大陸との往き来において、船には「持衰(じすい)」と呼ばれる特殊な男が乗り込んだらしい。彼は、髪の毛は伸ばし放題でくしけずることもなく、虱がついていてもとることはせず、服は着替えないから汚れるに任せ、肉を一切口にせず、女性をそばに近づけず、まるで喪に服している人のようにしているのだという。航海が無事に行けば、彼には財物や奴隷があてがわれ、途中で病人がでたり嵐に遭うなどの被害が出れば、いのちをうばわれることもあったという。
本州島中西部日本海に突出した能登半島の北側先端部にかつて類のない巨大な高床倉庫群を備えた施設が作られる。この施設はその周囲をぐるりと板塀によって囲まれていた。また本州島中東部大平洋岸、現在の静岡県静岡市の南の海岸近く、安倍川が作り出した長さ三百メートル、幅八十メートルの扇状地の南端に十戸ほどの住居と二戸の高床倉庫のある集落が、高度な生産技術を持つ入植者たちの一団によって作られ、この集落の東側の低地に総面積約二万三千坪で潅漑施設の整った、他のどこにも見られないぐらい大規模な水田が出現する。彼らは魚介類や鳥獣の調達から、糸を紡いで布を織り、小さな琴のような楽器をたしなむなど、ほぼ自給自足のプランテーション・ライフを満喫していた。登呂遺跡として知られるこの壮大な稲作の入植実験農場は、しかし六十年から七十年後に突然起こった大洪水による安倍川の氾濫ですべてが土砂の下に埋められてしまうのである。富士山が噴火して火砕流を流した。
このころ仏教を取り入れた中国では、大乗経典の翻訳がはじまっているが、道教徒による叛乱も起こる。中国からの亡命者によって日本列島に蚕種と桑および製絹法が伝えられた。倭人が朝鮮半島の東辺を荒らし回った。
ネイティブ・タイム—先住民の目で見た母なる島々の歴史
(単行本 Version 3 )
北山 耕平 (著)
☆☆☆☆☆
単行本: 925ページ
出版社: 地湧社 (2001/02)
ISBN-10: 4885031583
ISBN-13: 978-4885031588
発売日: 2001/02
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