日蝕を見ないでヴィジョンを見ること
日蝕の日が近づくにつれて、人々の奇妙な振る舞いが目立つようになってきた。あわてて本を出版したり、さまざまなグッズを売り出したり、ツアーを企画したりと、この機会に金儲けを企む人たちもあちこちからあらわれているし、メディアもこぞってこの日空を見ようとあおり立てている。南の島ではレイブパーティまで開かれるという。日ごろは天界の出来事に興味も払わなかったにもかかわらず、うなされたように日蝕のことを話題にする人たちも多い。どうやらスピリチュアルとされる人たちも、この流れには逆らわないらしい。それどころか妙に熱心なのもその人たちなのだ。最近は友人の中にも「お前のいうそんな教えはどうということはない」と公言する人物まであらわれた。まるでぼくは孤立しつつある。
でもぼくは知りたい。昔から、いったい世界のどこに、日蝕を見ることをすすめるメディスンマンがいるというのだろうか? 日蝕を見ることをすすめる聖者がどこにいるのか? チベットの道士はなんといっているのだろうか? アフリカではワニが太陽を食べるときといわれていると聞いた。占星術の偉い人は日蝕を見ることをすすめているのだろうか? 誰か「白人頭(ホワイト・マインドにずっぽりの人)」以外に、日蝕を見ることをすすめている人を知っていますか? もしいるのなら、冗談ではなく、その理由を尋ねたいものであります。別に喧嘩を売るつもりはない。日蝕を見ることをすすめる理由が知りたいのだ。
ぼくは、「日蝕は見てはならない」というぼくにこの道を指し示してくれたネイティブのグランドファーザーの教えを守るつもりでいる。少なくともぼくの友人たちや家族にはそうしてもらいたいし、日蝕を見ないようにするために力を注ぐつもりでいる。それが素晴らしい神秘的な光景を見せてくれたのなら、あとでゆっくりと写真や映像で見せてもらうとしよう。そしてあの日この「見てはならない神聖な死」「太陽がなにものかと闘う光景」を見なくてよかったと確認することにしたい。「人間以外のすべての動物たちは、日蝕の時間にはどこかに篭もってしまう。それは、すべてのいのちに大きな影響を与え、人間にはブレーン・ダメージを与えることを知っているからだ」という前の世界からの言い伝えを、それでもぼくは信じる。ここでいわれるブレーンダメージがどのくらいの長きにわたって影響を与え続けるものなのかわからない。ディネ(ナバホ)のあるメディスンマンは「妊娠中の女性は、とりわけ妊娠三ヶ月を過ぎた女性は日蝕を見るべきではない」と発言している。インディアンの迷信として一笑に付すのは簡単なことであるが、彼は日蝕が胎児へ与える影響をけして小さなものとは見ていないことだけは確かである。
いわゆるゴーストダンスなる千年王国を希求するネイティブの人たちの最後の信仰のヴィジョンは、19世紀最後の皆既日蝕が北米大陸のグレートベースン沙漠で起こった日に、ウォボカと名乗ることになる少年にもたらされた。ぼくは同じ沙漠で20世紀最後の日蝕を見るために彼の地を訪れ、ローリング・サンダーと名のるメディスンマンと日蝕の前日に運命的に出会い、日蝕を見ることを止められたことが、巡り巡って今このネイティブ・ハート・ブログを書き続けるひとつの原因ともなっている。日蝕。それはおそらく「ヴィジョン」がもたらされる瞬間であるのかもしれない。そのときは、われわれは内側を見るときなのだろう。内面を深く観察する貴重な時間とするか、世界が一瞬の闇に包まれる瞬間に熱狂するか、それはわれわれ次第である。
下の写真はぼくがこれを見るために沙漠の奥へ出かけて、結局それを見ることがなかった日に起きた日蝕の瞬間をとらえた天文の専門家が撮影した写真。これを見なかったおかげでぼくは今君にこれを書くことになった。「26 February 1979 Total Solar Eclipse」で検索すると、その日の写真がたくさん出てくるし、あれから30年がたった今も、その1枚1枚に、ぼくはありがたさと同時に畏怖を覚える。
(追記 読者に指摘されて、神秘さよりも恐ろしさがきわだっていたため、写真サイズをとりあえず60パーセントにまでしてみた。それでもすごい力だ。)

過去記事:
・NASAが制作した2025年までの世界皆既日蝕地図(2007年7月)
参考記事:
「To All My Relations」カテゴリの記事
- わたしにつながるすべてのみなさまへ(2010.04.03)
- 一月の二回目の満月が訪れるまでの間のtweets収録(2010.02.08)
- 冬至、クリスマス、新年を間にはさんで月が満ちて欠けて消えるまでのtweetsを公開(2010.01.14)
- 『地球のレッスン』が本日発売されました(2009.12.18)
- ほぼこの1ヵ月の間にぼくがTwitterで公開してきたものなど(2009.12.14)
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Comments
継承している文化の違いということでいかがでしょう。今を自分自身を生きる大切さを忘れないで、イベントに参加してくださればと感じます。
Posted by: ユリッチ。 | Wednesday, July 15, 2009 08:57 AM
ユリッチ。さま
「継承している文化の違い」とはいえ、精神と頭脳に与える影響の話ですから、文化の違いだとしたらおそろしいことですよね。日蝕をみんなでお祭りのごとく観るような「文化」は、ごく最近のものではないかとぼくには思えます。その人たちはなにを継承するのかしらね? 日本列島でも古代はみな家にこもっていたと聞きます。ご自愛のほどを。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, July 15, 2009 09:21 AM
アンドルー・ワイル氏の「太陽と月の結婚」と言う本に、日食についての記述があります。
先住民が日食を畏怖する姿勢を小馬鹿にしたような記事を書くアメリカの文明化した人々も、日食に関しては同じ様な恐怖心を持っているようだとの事です。
私が注目したのは、日食はテレビで見る様にとの通達が、合衆国司法省で1970年代にあった事です。
私はこの時の、「テレビで」と言う部分に、特殊な意図を感じます。
大勢の人が日食を直接見ることは、良くも悪くも、男性原理の社会秩序の維持に関してなんらかの影響があるのかもしれない、と思いました。
Posted by: TOKI | Wednesday, July 15, 2009 11:51 AM
TOKI さま
サンキューです。アンドルー・ワイル博士が書かれていましたか。先住民は「畏怖」し、白人も「恐怖心を持つ」。アメリカ司法省が出した通達は、ぼくが見る予定だった皆既日食にむけて出されたものかもしれませんね。この時以降、つまり世界中があのときの日食をテレビで見て以降、80年代になって日食を見に行こうツアーなどが大流行しはじめます。今度の日本列島で見える皆既日食は、もし雲がなくよく晴れて見えるとしたら、ハイビジョンテレビで中継される最初の皆既日食ということになりますか。日食が起こるときは、昔は「権力の委譲」があるとされたり、不吉な前兆とされたりしましたが、そうしたものも「畏怖」する心が引き起こすのかもしれません。
もう少しさまざまな民族についての資料があればいいなぁ。別にブレーン・ダメージの証明のようなものはいらんけど。\(^O^)/
ぼくは小学校の時にすすで黒くしたガラスで日食を見せられた記憶があります。あのとき以来、おかしくなつたのかしらん。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, July 15, 2009 12:55 PM
天岩戸の神話も日蝕説があるそうですね。
「新月や満月の日には、事故や犯罪などの人為的被害の他、
津波、地震、火山の噴火などの自然被害が多くなる」という
統計データがあるそうですが、これは月蝕や日蝕の場合にもあてはまるのではないでしょうか。
ブラインダメージといえるかはわかりませんが、恐らく各人の中にある何かが再生する日であり、
北山さんのおっしゃるとおり静かに自分の内側に向かうには最適な日といえそうですね。
世界が大きく変わり始めているこの時代に
私たちの生きている場所で日蝕が起こることは
何か象徴的なことを意味しているように思います。
当日は働いていますが、せめて建物の中で穏やかに過ごすことにします。
どうもありがとうございました。
Posted by: ryota goodman | Wednesday, July 15, 2009 01:34 PM
(偶然読みが同じ人がいるようなので私はこのHNで「しゅろ」と読んでください)
やはり日蝕を安っぽい一大エンターテインメントにしてしまう背景には、
全てを科学的に解明できると驕る現代が抱えている病があると思います。
戦争までもがエンターテインメントにされてしまうような現実を見ていると、
結局現代人は「得した感」によってしか支配されていないのだなと強く感じることがあります。
その科学至上主義の姿勢はミヒャエル・エンデも痛切に批判していました。
(彼はネイティブの世界観にも共感を抱いてました)
彼の科学至上主義へのコメントがちょっとユーモアが利いていて秀逸です。長いので要約です。
「単に科学的に証明できるものが示す現代の現実像が、複雑にも関わらず、結局は全く退屈なものだという事実。私にとってはこの事実だけで、精神的なものの方がはるかに真実に近づくという確信をもつには十分なのです」
映画でよくある、タイムスリップした主人公が日蝕を利用して、
未開の人々を手玉に取るなんて話はまさに「科学的事実を知る者が最も賢い」という驕りに他ならず、
本当はどっちが阿呆なのか分かったもんじゃないんだぜ、とため息が出ます(笑)。
P.S.
上記のエンデの文章は『エンデのメモ箱』という本に収録されています。
タイトル通りエンデの書斎に残っていたメモを書籍にした本ですが、
先住民の逸話なども少し収められています。
お時間とご興味がありましたら図書館などで借りてパラパラとめくってみて下さいな。
本当に希有な作家で、物語が持つ力を信じた点や、原子力に対するエンデの考え方など、
北山さんが共感できる点も多いと思われますので、ご参考までに。
Posted by: 朱鷺(しゅろ) | Wednesday, July 15, 2009 03:12 PM
今度の新月が日蝕なのだと気づいたのが、
2週間前なのですが、(かなり疎い。。汗)
迷わず休暇を職場に申請しました。
もちろん、家でじっと静かにしている為にです。
もう十数年以上も前になりますが、
ローリング・サンダーの本の中に、
『日蝕は見てはいけない。』
との記述を目にしたとき、
とてもしっくり来るものがありました。
それにしても、
日蝕見る為のツアーなどなど・・
正気の沙汰とは思えません。
Posted by: . Sarah | Wednesday, July 15, 2009 07:59 PM
私は他人に観るようしむける立場でも観ないように誘導する立場でもありませんし、勘違いされては困りますが観に行くこともありません。北山さんの指摘なさるダメージについて、曖昧にされず伝えていかれたほうが、ただダメだと言われても恐らくは理解に困難ではないでしょうか。
Posted by: ユリッチ。 | Wednesday, July 15, 2009 09:02 PM
たぶん私は北山さんに近い年代だと思いますが、小学生の時分に日蝕がありました。
先生は「昔の人は日蝕が起きる理由がわからなくて怖がっていたけれど、今は太陽の活動を科学的に調べる好機として観測すべきだ。」という意味のお話しをされて、磨りガラスに煤を付けて授業中にみんなで日蝕を見上げたものでした。
最近の新聞には、煤を付けた磨りガラスで見てはいけないと説明してありショックでした。が、それよりなにより、その時、日蝕を見てしまった私は、もしかして既におかしいのでしょうか?
ところで検索してみたら、こんなのがありました。
http://www.media.saigaku.ac.jp/download/pdf/vol7/human/05_yuasa.pdf
吾妻鏡の論考ですが、鎌倉時代にも日蝕を予報していた事が書かれており(つまり日蝕が起きる理由は天文知識としてすでに既知であったのでしょう)、曇りなどで日蝕を見られないことを吉と捉えていた様子です。
この地でも、日蝕は見ない方が良いとしていた時代は、(科学的な知識は踏まえたとしても)それほど遠い昔のことではない...と考えて良いのでしょうかね。
日蝕とヴィジョン...できればヴィジョンを見たいものですが、それはそれで怖いかも...
Posted by: 猫仙人 | Wednesday, July 15, 2009 09:06 PM
日蝕を見てはいけない教えがあると初めて知りました。(たぶん以前に聞いたことはあったと思うけど
忘れていたかも)その日、たまたま行くイベントで
フィルムで生中継で皆既日食が見られるとのことで、それを見るか外で見るか迷ってましたが中にしようかな。
映像なら大丈夫かな?
日蝕は、年2回世界中のどこかでおこってるそうですね。そして一度見るととりこになって世界中の日蝕を
おっかけてる人もいるそうで、、、それも日蝕を見てはいけないという教えの由来だったりして。
Posted by: ことり | Wednesday, July 15, 2009 09:30 PM
ユリッチ。さま
もし怒らせちゃったとしたらごめん。決めつけるつもりはなかったの。あらためてこの時期になって「日蝕は見ないように」というのはぼくにはかなり勇気のいることでね。「ネイティブ・マインド」という本を書いていたときには、物心ついて以来二度目の日蝕というイベントが自分の身にやってくるなんて考えていなかったのよ。(実際は3度目なのだけど)今回日蝕の日が現実の物として迫るにつれて、メディアの狂熱ぶりなんかを眼にして、考えることが多かったわけ。自分がローリング・サンダーのようなメディスンマンだったらどうしたろうかナー? やはりその日は朝早く太陽とともに起きて近くの山にのぼり、自分につながる人たちが日蝕を見なくてすむような「おまじない」をするのかもしれないって。他意はないのです、文章にすると冷たくなりがちだけど、気を悪くしないでください。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, July 15, 2009 10:24 PM
朱鷺(しゅろ)さま
昔山の中に暮らしていたとき、『エンデのメモ箱』は大切な本として読んでいたのに、その個所のことを失念していました。思い出させていただいたこと感謝にたえません。また読み返してみよう。どこかに持っていたはずなのだが、もうなくしちゃったか・・・引越が多いもので。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, July 15, 2009 10:28 PM
猫仙人さま
吾妻鏡の論考は、ぼくが探していたものに近いかもしれない。鎌倉時代は、日本列島で母系制から父系制へと時の輪が回転した年代で、人間の精神になにか大きな変化を与える出来事があったはずなのです。それが日蝕によるブレイン・ダメージだなんて結論には飛びつきませんがね。「宿曜師」という職業の人たちがいたのですねえ。武士の時代になっても、神秘さよりも、不吉さの方が重視されていたようです。
わたしも小学生だったか、すすで黒くなったガラス板で日食を観させられた記憶があります。自分の見方がひねくれはじめたきっかけはあのときのダメージだったのかもしれません。\(^O^)/
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, July 15, 2009 10:41 PM
今日の午後も、ここロサンゼルスで小型機の墜落があったばかり。
飛行機の墜落事故が続いていますね。 地震も発生していますね。
偶然かもしれぬ事故を、「必然」には置き換えたくないし、それを地球のアセンションと結びつけて考えることを誰に押し付けるつもりもありません。
ただ、私は北山先生と同じ様に、古代の昔から畏怖されてきた自然現象は、畏怖するに足りる何らかの意味があることを先祖が教えてくれているのだと信じたい。 だから、私は最初から皆既日食の情報に興味がなかったし、お祭り騒ぎもしない。 じっとそれが過ぎるのを見届けたいと思っています。
新月と今回の皆既日食が同じ日だとは知りませんでした。
7月22日の新月は近年で最もパワフルだから、新月のアフォメーションをするように・・・と薦められていましたのでその日だけは記憶しています。
私は、ただ、いつもと同じ様に皆の心が幸せで穏やかでいられるよう祈るのみです。
Posted by: ココのママ | Thursday, July 16, 2009 10:19 AM
毎日興味と尊敬をもって拝見させてもらってます!
僕は石を売って生きているのでその買い付けのためによくインドやタイにいくんですが、もう2,3年も前から世界各地を旅する人々の間では今回の日食のことが話題になっていて、はじめは僕も見に行きたいと思っていました。
でもそんな前からすでにチケットやフェリーの入手が困難で高価なこと、なにより現地の島々と住人にかかる迷惑が懸念されていたし、最近の超商業主義的なお祭り騒ぎにはすっかり興ざめです。
だいぶ以前に北山さんが始めてローリングサンダーその人と奥方に出会ったときの記事を読ませていただいた時、そして昨日の日食の記事をよんで今回の日食は静かに自分の内側に耳を傾ける神聖な時間にしようと思いました。
ローリングサンダーが雪を降らせたように今回もどこかのメディスンマンが雲を呼ぶのか密かに楽しみにしたいとおもいます。
北山さんのブログや本が大好きです!
とても影響をうけているし何年も活動を続けてくれていて感謝しています!
これからも楽しみにしています。
ほんとうにいつもありがとうございます!!
p.s いつも北山さんの時間をぶっとばす熱のはいったお話を何時間でも聞いてみたいなと思ってます。北海道でその機会があるときは絶対いきますからvv
Posted by: タカ | Thursday, July 16, 2009 11:08 AM
北山さんへ
お忙しい中、私のコメントに対し丁寧なお返事を頂きましてありがとうございました。
珍しい天体ショーをビジネスと捉えて金儲けを企てるのは現代資本主義社会ではありがちな浅ましき光景です。
ワイル博士の個人的体験やそこから洞察された、性の二元化や意識と無意識の二元化の融合を齎す儀式、のような解釈とは比較にならない、次元の異なる愚かな話だとも考えています。
(彼の場合は現代医学へ警笛をならす意味合いも兼ねた実験的、学術的姿勢を取る中での日食との邂逅であったのでしょう)
多くのメディスンマンが自然の運行を畏怖する心により、天体がかいま見せる一瞬の光景やその深遠な意味合いに、自らの闇の存在を照らし合わせ、内側深くと対峙せねばならない厳粛さに満ちたその時を、静寂のうちに分かち合う。
そういった心の土壌と言うものや、矜持を保った精神の孤高さを、多くの現代人は既に忘れ去っているのでしょうね。
あるいはそれを維持しようと努力するものを見下すような品位を欠く意識の流れの中で、崇高さを忘却させ、陳腐化しようとする流れなのかもしれません。
もちろん見る見ないは個々人の選択によるわけですが、全てを奇麗ごとで覆う様な偽の文明教育を受けて来た現代人に潜む、内なる闇を愛せるものが一体どれだけの数存在するのかと思います。
ある映画では、イエス=キリストが十字架に張り付けにされる時、その場面で日食が起きていたそうです。
真実とは自らのうちなる世界にこそあるものだと言うことを、メディスンマンは言いたいのではないだろうかと思います。
もちろん私は日食は見ないでしょう。
前日は家族の誕生日でもあります。
愛する家族の存在に感謝しながら、慎ましい、されど奇跡と言えるこの時を迎える幸福に感謝しつつ、内側深くに耳を澄ませて静かに過ごしたいと思います。
長くなりまして申し訳ありません。
北山さんのヒューマニティに感謝ですm__m
Posted by: TOKI | Thursday, July 16, 2009 11:28 AM
ネイティブの人たちのコスモロジー(宇宙論)を説明する「NATIVE SCIENCE」という本の中に、日蝕について記された部分があったことを思い出しました。探し出して読んでみると、そのなかでディネ(ナバホ)のメデイスンマンが、やはりRT と同じように日蝕は「禁忌(タブー)」として見ないことをすすめています。ここまでは同じなのですが、そのディネのメディスンマンはさらに踏み込んだ発言をしていました。
「妊娠している女性、とりわけ妊娠後三ヶ月以上のいのちをみもごっている女性は、日蝕を見ないように」
と。理由はやはり説明されていません。でもわかるような気がしますけれど。なにかの参考になればよいと思います。
Posted by: Kitayama Smiling Cloud Kohei | Thursday, July 16, 2009 11:29 AM
今回の内容は攻撃的で怖れを持たせて、参加しようとする人達にただ不愉快さを与えるのみになっているので、とても良くないと感じました。ですから、今を自分自身を生きる大切さを忘れないで、イベントに参加してくださればと感じます。とお伝えしました。
継承している文化とは、つまり日本でいえば若者文化と呼ばれる類です。
芸能人夫妻が発端となりマスメディアもそこに乗っかり盛り上がってお祭り騒ぎなのです。
月が太陽を隠す以前に彼らの将来に不安があるのですから、引力が発せられているのでしょう。
いつどこにいるのかは、その方の魂の問題なのです。
日本のTVから発せられる文化レベルはすでに崩壊していることは周知のとおりですが、TVを止める事も無く、それこそ脳に悪い地デジ放送を強制的に始めるため、不利益を受ける国民に自腹でTVを購入させる国なのです。
日本で太陽神信仰と言えば天照大神さまです。
自宅に神棚もないのが、殆どの家庭ではないでしょうか。
北山さんが、観に行く事を止めるのに勇気がいるとは意外です。
力まず当たり前のように「ネイティブアメリカンは観ないのだよ」とさらりと言っておけばいいのではないでしょうか。
それ以上に反対の立場に対して否定的なコメントは不要なのではないでしょうか。マイナスのエネルギーを発する必要はないかと。
風を知るメディスン・マンとの交流の在る存在なのですから。
それから、掲載されているお写真を観て何も感じないでしょうか?
写真には波動を伝える力があります。
何度も観ることになりましたが、いま一度お知りあいのメディスン・マンに確認してください。この写真はいいのかと。
Posted by: ユリッチ。 | Thursday, July 16, 2009 10:42 PM
ユリッチ。さま
メディスンマンにもいろいろいるのですよ。黒魔術を公然と使う人もいます。
ぼくは、みんなが考えるよりもこの問題を非常に重視しています。ぼくのエゴで、どうしても見てほしくない人が何人かいたから。脅迫のようになり、不快感を覚えたのなら謝りましょう。さらりと言って聞いてくれる人ばかりなら、よいのですがね。
本文を少しだけ修正し、写真をすこし小さめにしました。いい悪いで言えば、それでも神秘的で美しいと思わない人がまだたくさんいるでしょう。見てはならないものを見ることが可能な時代をわれわれは生きています。ここで見せる必要はなかったかもしれませんが、とはいえ神秘が全部あきらかになると世界が終わるとしばしば聞いたことのある部分ははっきりと見えます。でもダーク・サイド・オブ・ザ・サンのフォースには密教が似合うのかもしれません。ご指摘を感謝します。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Thursday, July 16, 2009 11:38 PM
ユリッチさん。へ
あまり人に自分が望む反応を期待しすぎない方が良いと思うのです。
それは関係性を否定する事に繋がりかねません。
僕も北山さんのブログを読んでいて、
「おやおや、北山さんらしからぬ…」と思う事は
ごくたまにですがあります。(ほとんどありませんよ!笑)
でもむしろ尊敬する北山さんが普通の人だと垣間見れて、
少し嬉しかったりするのですよ。
今回の日蝕の記事で問題になっているのは、
日蝕を見る見ないというレベルの事以上に、
太陽と月という神聖なものが織りなす神秘を、
人々が興味本位のイベントに変えてしまっているという事実の方だと思うのです。
「イベントに参加する」という発想自体が、
すでに軽率なのではないでしょうか。
僕たちはもっとうんと根深いところで、この神秘を捉えなければならないはずです。
それをレイヴ・イベントだとか、自己陶酔の高揚感や、
珍しい現象を見れるお得感だけで捉えて良いものでしょうか。
そもそも愉快に思うなどもっての他ではないでしょうか。
日常そのものが祈りであり、どのような瞬間も神秘であると考えるネイティブの人々にとって、
日蝕はまさに「恐れ」「畏れ」以外の何ものでなかったのではないでしょうか。
あなたが北山さんの記事に「恐怖」を煽る感じを受けたというならば、
それはまさしくネイティブの人たちが日蝕に持っていた「恐怖」だと思うのです。
日蝕を「恐ろしい」と思わないということは、
太陽が毎日あそこにある事を何とも思っていないという事なのです。
巧く言えないのですが、日蝕を「特異な天体ショー」と捉えてしまう背景にある精神性は、
日常を限りなく無意味なものに変えてしまうと思うのです。
例えば「見たいから見て何が悪い。好奇心を満たして何が悪い」
という発想も実はとても危険です。
分からない事は分からなままにしておくという勇気が現代人には欠けているのです。
最後に私の好きなとある人物の言葉をお教えしましょう。
「あなたがその人を愛しているのならば、
彼に裏切られたと思うことは絶対にない」
僕は最初この言葉が何を言っているのか全然わかりませんでした。
敬具。
Posted by: 朱鷺(しゅろ) | Friday, July 17, 2009 12:15 AM
こんにちは。 この前は遅くまで羽根木でのお話ありがとうございました。
北山さんはエンデのメモ箱の読者だったんですね。今から7冬前、中学生をしていた最後の冬に生きること死ぬことの教えを探す中でこの本を読んでいて、その中の一編、「考えさせられる答え」で「せんじゅうみん」とされる人々と初めて出会いました。薄々感じてたようにやっぱり文明の世界が全てではないんだ、こういう高貴な人が今もまだ同じ星に存在しているんだ、と希望を持ち、それがネイティブの世界との出会いだったので何だか嬉しく思いました。
今回の日蝕は、ローリングサンダーが部族の人や北山さんに日蝕を見るべきではない、と言っていたこともあり、私は妄信的に(?笑)見ないつもりでいました。でも、その根拠は何なのだろう、自分はただ北山さんのおっしゃることやネイティブフリークなだけなのか・・・?と疑いが湧いて、最近、怖いもの見たさも手伝って、日蝕のテレビ報道を見たりしました。が、不思議な形の木漏れ日を見たら、頭がグワングワンするというか、何だか気持ち悪くなってしまい、日蝕の映像自体も美しいというか異様な感じでした。(ここに載っている写真も、60%縮小でも見てると引き込まれてしまいそうです・・・。)根拠は無くても、生理的直感的レベルでの感じと、かすかに今に伝えられるネイティブの人々の教えだけで、見ない理由は十分じゃないかな、と思っていた矢先のこの北山さんの記事でした。
日蝕の日は何かが死んで何かが新しく生まれる時のようですが、私も、生活が大きく変化していきそうな、何かがもう少しではっきりと生まれそうな状況にあるので、もしかしたらそうした流れとシンクロしてるのかなと感じます。
当日は日蝕を見ることなく、宇宙の時間を感じて、静かにヴィジョンを見られたらと思います。
Posted by: 朱那 | Friday, July 17, 2009 10:06 AM
朱鷺(しゅろ)さま
そして関係あるすべての皆さまへ
ぼくはただの普通の人間です。聖者でも、メディスンマンでもないし、魔法を使うわけでもない。しかも、とても怒りっぽい。これは父親譲りか、ローリング・サンダーの影響でしょうか。それでいてなにを見るときでも、そこに人間として歩く道を探そうとしている。
ぼくは20代の頃、RTに「日蝕を見てはならない」といわれたとき、そこにネガティブなものをいっさい感じなかったことは間違いありません。当時も世界は日蝕を見ることに熱狂していました。なにしろ20世紀最後だったから。彼は「インディアンは日蝕を見ない」とはいわない。そんな他人ぎょうぎな言い方は彼にはふさわしくない。現代のインディアンのなかにも、科学を信じて畏れをなくし、たくさん日蝕を見る人はいるはずです。彼は「自分と縁があつた人間には日蝕は見させない」という決意のようなものを持っていたし、彼のファミリーや一族もそれを共有していました。はじめて逢ったばかりのぼくにも、その縁を大切にしてくれました。今回日蝕の日が迫るにつれて、今あらためてあの当時の出来事が次々と頭のなかを通り過ぎていきます。
日蝕のある来週はあまり更新しません。というよりできません。たとえその日に天気が悪くなって日蝕が見えなかったとしても、それはぼくのせいではありません\(^O^)/。ぼくは30年前の日蝕を見れなかった旅を後悔などこれっぽっちもしていないし、かえってその沙漠に心惹かれる自分を発見しました。ぼくにとってはその間に与えられたヴィジョンの方がはるかに大切なものです。日蝕を見に行くツアーにも参加するなというメッセージと受け取ったなら、それはまちがえです。行くことはかまわないのです。遠くまで日本列島を旅することはなかなかできることではありません。きっと日蝕が終わったあとに生まれかわった世界を見れるのは、素晴らしい体験になるでしょう。その人たちは自分の魂のある部分がその日蝕を観た大地や島とつながったのを感じるでしょう。それ以後その島や土地に何度も帰ることになるはずです。そのときにはツアーなどはもうありません。そこであなたは母なる地球とつながるのですから。皆既であれ部分であれ日蝕の間をどのようにして過ごすのかが、きっと残りの人生を決定づけます。ぼくがこの文章で伝えたかったのは、そういうことです。文中に怒りのようなものが残っていたら、それはぼくの物書きのメディスンの至らない部分であります。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, July 17, 2009 11:34 AM
すみませんでした、少し的外れに熱くなったようです。
実は僕も日蝕を見る事自体は良いも悪いもないと思っています。
しかしそれを自分の精神的高揚のために「利用」してしまうのは、
ちょっと違うかな〜と。
僕が日蝕において注目したいのは野生の動物たちの日蝕に対しての反応です。
やはり彼らは日蝕のあの異様な雰囲気に騒いだり、巣穴に籠ったりすると聞きます。
だとすると
「あれはただ単に太陽が月の陰に入るだけの話さ。珍しい現象だけど何十年に一回は見られるよ」
などと解釈して浮かれてしまうということは、
「何か大事なもの」が人間から抜け落ちてしまったのかな〜とは思うのです。
これは科学的事実を無視しろとかそういう話ではなくて、
例えば「都会から大自然に出かけていくときは違和感がないのに、
都会に戻ってくるとしばらくは妙な違和感があり、しかしすぐに慣れてしまう」
ということと似たような話なのかも知れません。ちょっと分かりませんが。
ユリッチ。さん。
礼に失した部分がありましたら、
僕の浅知恵と言葉の至らなさの所為であることをなにとぞご理解下さい。
北山さん。
僕自身は北山さんが普通の方である事はよく理解していますし、
そうでなければ困ります!(笑)
僕自身も、もちろん迷える現代人の一人である事を
特に記して筆を置かせていただきます。
敬具。
Posted by: 朱鷺(しゅろ) | Friday, July 17, 2009 12:09 PM
みなさん語ってますが日本を考えてください
Posted by: 特に無し | Friday, July 17, 2009 03:24 PM
特に無しさん
まさに日本列島とそのうえに暮らす人たちのところになにかが起ころうとしているからこの話題になっているのではありませんか?
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, July 17, 2009 03:40 PM
特に無しさんへ
誰ニ向かって口きいてんだ!、そんなもん自分で考え自分で行動してからものを云え!
Posted by: J3 | Friday, July 17, 2009 07:48 PM
『月と農業 LA LUNA
中南米農民の有機農法と暮らしの技術』
(ハイロ・レストレポ・リベラ著 農文協)という本の中に、
「蝕」に関し、以下のように書かれている箇所がありました。
・・・・・・・・・・・・・・・
インカ
・・古代から農耕民族であったアンデスの人々は天空の観察を日常ふつうに行っていた。彼らの天文分野に関する知識は、主に生活と密接に関わっていた。
その意味で、天界は彼らにとっての神々の住む場所であり、つねに畏敬の念をもって眺める対象だった。・・・・・・・・・・
また、彼らは月食・日食を大変特別なものと捉えていた。あるときはこれを天体の儀式と捉え、またあるときはそれが太陽、もしくは月の怒りを表し、また、太陽・月が猛獣に攻撃され断末魔の苦しみを受けているなどと想像していた。こうした場合、インカの人々は、太陽または月をこのままにしておくまいという強い願望と、何とかしてこの急場を救おうという気持ちから、占い師のもとに出向き、助けを求めた。占い師はすぐにおびただしい数の、そして高額の捧げものをした。それは金・銀の偶像であり、性別を問わない動物の生贄であった。
インディオの考えでは日食は誰か大物の死を予告するものだった。太陽がその死を傷み、悲しみを表していると考えたのである。また、蝕の期間中とその儀式中は断食をし、悲しみを表す特別な装いをし、捧げ物を供え続けた。加えて、この現象が見られる地域では火を起すことも禁じられた。
・・・・・・・・・・・・・・・
インカ文明では、日食について、彼らの悪行によってお天道様をとても怒らせてしまったために起こったと考えていた。だから、日食で太陽が不愉快な顔を見せており、それは大きな罰がくる徴とも考えられていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
他にもいろいろ関連した記述があります。
私自身まだちゃんと読んではいないのですが、この本には、月が植物に及ぼす影響など、バイオダイナミック農法とも共通する捉え方と対処方法が書かれてあり、それが中南米の伝統的な農業の中にあって、今も日常のなかで続けられている事に感動します。
日食への対応の仕方を含め、私たちの住むこの列島上でのそうした知恵や伝承は、いったいどうなってしまったのでしょう。
もうほとんど残されていないのだとしたら、それがつくづく残念なことです。
まだ、残されていればいいのですが。
伝統的な品種が姿を消していくのと一緒に、そうしたことも伝承されなくなっていったのかも知れません。
Posted by: こうじ | Friday, July 17, 2009 08:59 PM
J3さん 特に無しさんさんへ
売り言葉に買い言葉は、このページでは避けて、一呼吸おいてから書き込むようにしましよう。そんなことでやり合う必要はない。だつたらほかですることがあるでしょう。ぼくは怒りッぽいので注意してください。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, July 17, 2009 09:25 PM
以前、北山さんの仙台でのお話会に参加した者です。
その時にも、始まりになるきっかけとして、ローリングサンダーとの出会いを聞かせていただきました。
そしてそのきっかけに皆既日食があったことも。
私は、なんのためらいもせず、見ないことになるだろうと思いました。
北山さんに本で出会い、直接に会うことができ、その時にとっても安心したのを覚えています。
すぐそばに偉大な人たち(たっくさんのグランパ*ママ)の強くてやわらかい気持ちも持ってきてくれました。
見ない人は見ないだろうし
また、その裏には見ることになる人もいると思います。
私の大切な人が、見ることをためらっていたのに、まるで呼ばれるかのごとく、奄美大島へ行ってしまいました。初めは止められない自分を悔やんだけど、彼は行かなければいけなかったのだと思うようになりました。
商業的な網をくぐり抜け、彼は皆既日食を残すべき映像という形にして持って帰ってきます。
私はホ・オ・ポノポノで彼の帰りを待ちます。
それでいて、全てにホ・オ・ポノポノします。
北山さんや、ローリングサンダーさん、たくさんのコメントを残されたみなさんに感謝感謝です。
糧となり勇気となりました。
ありがとうござ
Posted by: mego | Saturday, July 18, 2009 09:50 AM
北山さんがご紹介下さった日蝕の写真ですが、私もこの写真を見て始めは怖いと思いました。
ですがある事を思い出して涙が止まらなくなりました。
それは私の父が亡くなった時の事です。
父は私にこう言いたかったのではないでしょうか。
「死に行くものとしての自分がたとえどんな姿であろうとも、君には泣いている暇はない。
私の屍を乗り越えて新しい次の世界の為に道を切り開いて行かねばならない。」
時は流れ世の中は移り変わって行きます。
しかし生き物としての親の愛は、厳しくとも有難いその愛は、永遠に変わらないものなのでしょう。
戦時中に生まれ、過酷な世界を命がけで生延び、命を繋いだ両親に感謝。
そして混沌の激流の時代にあって、なおも命をつないで行こうとする、これからの子どもたちに光あれと願います。
Posted by: TOKI | Saturday, July 18, 2009 12:38 PM
北山さんと日食に関心を持つ皆さん
こんばんは。
私は1999年8月の皆既日蝕をハンガリーで見て経験した者です。
(20世紀最後の日食は北山さんが見る予定だった日食ではなく
この時の日食の事だと思います。)
そして惑星たちがグランドクロスするということも重なるとても強烈な天体の配置でした。
経験してしまってから世界中の世紀末的雰囲気も重なって
私自身、精神的危機とも言える経験をいくつかしました。
神ダーリ状態だと言われたり、自分と世界との境界線がわからない状態になったりしたことで、友人が北山さんのことを紹介してくれました。
北山さんが日食を見に行って結果的にローリングサンダーに出会ったようにして、私は日蝕を見てしまったが故に北山さんと出会いました。
なので、今となってはあの時の日食や日食を見に行くというチャレンジをしたことを(例えその選択が『しまった!』というものだったとしても)ありがたく思っています。
しかし、このような心境に落ち着いて至るまでになんと長い月日を必要としたことでしょう!
それほどまでに日食と言うのは強烈な体験であり
私も私以外の人(現地で出会った外国の人)も口を揃えて
「着地できたかい?こちらはなかなか厳しいよ!」
と言い合っていたものです。
そして、日食を見てしまった者としてメディスンマンがどうして「見るな」と言うのかと言うことを自分なりに考え続けていました。
1つはあまりにも強烈な体験過ぎて精神が混乱する可能性がある。と言うことが言えると思います。私が大変だったこととは別にしても実際、精神病院に入院した人がいたりしましたから。
2つめは強烈な体験は人々を魅了し過ぎてしまうから。
太陽+月+自分+地球のエネルギー串刺しですからね。
意識はぶっ飛ぶ&地球意識と一体化した快感は強烈です。
が!それに魅了され過ぎて日食を追いかけて生きるというのは
なんとも足が地に着かないとでも言いましょうか。。。
特別視し過ぎてしまうというか。奇跡は毎日起こっているのでね。
3つめは日食に限らずですが至高体験したことで逆にその後「すごい体験をしたのだ」というエゴが増大するという反動が起きる可能性がある。ということですね。地球意識と一体化してもそれでは台無しになりかねないです。
4つめは、これは特に私個人が感じたことかもしれないですけど
日食って死と再生の儀式でもあると同時に、官能的な月と太陽の交わりでもあったのです。私まで全部脱ぎたくなりました。(笑)雄叫びをあげて号泣してしまわずにはいられない感覚でした。
自分以外の存在が交わり合うのは人間にとってとても興味深いものかもしれませんが、見ないでおくことでその神秘が保たれるのも事実だと思います。ましてや団体でツアーを組んでまで見に行くような類いのものではないですよね。(笑)
日食を見に行くことは時間とお金さえかけてしまえば簡単にできてしまいますが、問題なのは、やはり、その後をどう過ごすのか、どう生きるのかということだと思います。それなりの覚悟がいります。着地には時間がかかるでしょう。
それでも、見に行くことは「悪いこと」でもないし日食は単に「不吉なもの」でもないと思います。ただその経験がない者ほど「覚悟」が必要なのだと思うのです。そして、全ては必要な時に必要なことが起こっているのだと私は信じています。
日食には確かに「地球意識」を目覚めさせる体験でもあると思うので
その事はある部分で考えれば必然なのかもしれないし、良い影響を起こすかもしれないとも思っています。
ただしお手軽な観光気分で行くつもりでいたらそれなりの覚悟がいるとだけ伝えておきたいです。
長くなってしまいましたが
日食を経験した上で、今回の日食を見ないという選択をした人はこう考えているのだというあくまでも私の場合の話ですがここに記させていただきました。
ではでは。
Posted by: Hazuki | Saturday, July 18, 2009 11:38 PM
あ、そうだ!
書き忘れましたが
ハンガリーで日食を見る集いには
白い肌や黄色の肌の人は現地の村人以上に大勢いましたが
黒い肌の人はたった1人しか見かけませんでした。
当時はそれを不思議に思っていましたけれども。
北山さんが言うように「白い頭の考えにズッポリ」な人たちが熱狂しているだけなのかもしれないなあ、と実感を持って今は思います。
Posted by: Hazuki | Saturday, July 18, 2009 11:47 PM
Hazuki さま
日蝕が霊的な成長を止める働きをひきおこすものであると、知者といわれる人がしばしば言うのは、その経験を理解するまでに以後とてつもない努力を要求されるからなのかもしれません。物心がついてからまともに日蝕と出会った人の声には、教えられることがたくさんありました。このブログが、今回の日蝕を契機として、スビリチュアルな道を選ぶ人たちに、地球に生きる普通の人の感覚を取り戻されるといいと心から思います。ウエルカム・ホーム! 今回もその後しばらくは人々の集合意識に余波が残りそうですが。日蝕を語るときに霊性の面から語る人が思いの外少ないことに今回は愕然としました。
追伸 ちなみにぼくが見た(はずの)日蝕は「亀の島(アメリカ大陸)」において20世紀最後に見えたものです。地球規模のものではないのです。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Sunday, July 19, 2009 12:01 AM
北山さんへ
日蝕を追う友人に誘われ無知だった私はトルコまで行ってそれを体験してきました。ブレインダメージを受けてしまったかもしれません...が、後悔している訳でもありません。今回の日蝕ももちろん何があっても...と思っていました。それが3年の年月を経て今日に至るまでに全く違う思いが生まれてきました。日蝕はお祭りでもなければ高い旅費を払い無理に休暇をとっていくようなことではないのでは...と思います。難しいことは言えないしわかりませんが世の中が騒ぎ立てるようなそういうことではないとただ感じるのです。今スピリチュアルという言葉の本当の意味がどこか遠いところにいってしまっているようにも感じます。もっと地に足をつけて日々の生活や出来事から多くの気づきを得ていくこと、自分の内にヴィジョンを見ることが私にとって大切なことだと北山さんの言葉を聞いて再確認できました。勇気ある行動に感謝します。ありがとうございました。最近このブログに出合ったのですがこれからも読み続けたいと思います。
Posted by: moon | Sunday, July 19, 2009 02:59 AM
日蝕を見るかどうかは、各々が信ずる所によって
決めればいいのではないでしょうか。
メディスンマンに出逢い、その人が見ないように
言ったとして、それを信じて見ないようにするのか、
迷信だと思って、やっぱり見るのかは自分が決める
ことだと思います。
北山さんが「あなたには見ないでほしい」と言った
として、素直に受け入れてそのとおりにするのも
よし。反論して何とか自分が正しいと納得して見る
のもよし。その人次第、それがその人の運命だと
思います。
僕は昔日本でも日食の時は家に篭ってお天道様を
見てはいけないと言われていたと聞きました。
それを僕は動物が異常行動を起こすことがあり、
人間も異常な精神状態になることがあるから、危険
を避けるためと、やはり見たいから見てしまうと
眼を傷め、失明の危険もあるために、家に篭るよう
に戒めたのだと解釈しています。
それを踏まえたうえで、専用の太陽めがねを買い、
当日は外で日食を見るつもりです。
流星群を見に行ったり、彗星が近づいたら見に
行ったり、天体には常に感心を持って見ています
ので、その一環としても見逃せないと思っています。
Posted by: ながみね | Sunday, July 19, 2009 11:21 PM
中島みゆきさんの「地上の星」と言う歌に
名だたるものを追って
輝くものを追って
人は氷ばかりつかむ
とあります
世界には
テレビ等持たない人たちの方が圧倒的に多い
私たちがテレビで
珍しいものを見て楽しむ生活を維持するために
犠牲になっているいのちは計り知れない
今もその犠牲は続く
既に取り返しのつかなくなった
これらの狂気のその先で
わたしたちは
その姿を変えながら
永遠に維持される天体の軌道を飲み込んでなお
輝くことができるだろうか
もしもそれが可能であるなら
そのありかたは?
考えさせられます
Posted by: TOKI | Monday, July 20, 2009 10:16 AM
以前北山さんのお話し会に参加したことがあるものです。この度、はじめてコメントします。
日食を見るとき、眼に対する遮光が十分ではないため、網膜にやけどのような損傷、日食網膜症という症状を発生する人もいるそうで、放置しておくと最悪の場合、失明する危険もあるそうです。今回も専用グラスの使用などが注意されていますね。
昔の人は、日食を見てから失明した人なども出て、これは良くないと経験から悟ったのではないでしょうか。見るものではない、不吉な現象だと感じたのでは??
動物も本能的にその害を知っていて、その時間は隠れるのではないかと、そう私は考えています。
それと視覚的にも、普段とは違う見たこともない太陽の姿は、人の心を揺らすものなのでしょうね。
私もこの日は静かに過ごしたいと考えています。
機会がありましたら、北山さんのお話し会に足を運びます。いつも心にグッとくるブログの発信、ありがとうございます。ご自愛ください。
Posted by: Lif_eri | Monday, July 20, 2009 03:40 PM
6月下旬の candle JUNE さんの個展で、カムイユカラ(港敦子さん・おはなし)と、ウポポ(床絵美さん・うた)と、トンコリ(千葉伸彦さん・演奏)でひとつの世界を作りあげて見せてくれた、詩人であり、アイヌの伝承を学び続ける港敦子さんが、彼女のブログに「http://voices55.jugem.jp/?eid=118">月しょく2年後のいま、わたしのスピリットは変化したか」としてつぎのように書かれていました。部分的に引用。
|母なる大地
|とは言うが、その大地の親は太陽と月であろう。
|そして
|わたしたちは、彼らとどういう関係にあるのか考えたとき、
|月しょくであれ日しょくであれ、祖父母の聖なる営みを、
|凝視するのは、ちょっと遠慮しておこうという気持ちに
|ならないだろうか。
http://voices55.jugem.jp/?eid=118
詩人らしい直感で、彼女はそれを「祖父母の聖なる営み」と書いています。
これで思い出しましたが、この受けとめ方は、地球のネイティブの人たちに特有のもので、それをグランドファーザーとグランドマザーの「まぐわい」と表現するフイチョールの知者もいました。アメリカ国境の南のメキシコに暮らすフイチョールの人たち。太陽はフィチョールの言葉で「タウ」といい「男性」を意味します。月は「メツァ」といい「女性」を意味します。日蝕が起こるのは、太陽と月がまぐわうからであると彼らはいうのです。太陽と月が愛を確かめ合う時間は危険なときで、愛の熱によって大地は焼けこげ、作物は干上がり、家畜や動物たちは死にゆき、木になっていた果実はだめになると。
神聖な営み。聖なるまぐわい。
明日は早朝に起きて、山にのぼり、セージを焚き、タバコを撒いて、カメムシをひっくり返してこようかな。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Tuesday, July 21, 2009 03:55 PM
今日私の暮らす地域では、朝から激しい雨と雷が、空と大地を潤しておりました。
明日も曇るかもしれません。
カメムシに会ったら、どうぞよろしくお伝えください¦-)
みな様にとって、明日がよい日となりますよう。
Posted by: 放浪ミミズク | Tuesday, July 21, 2009 09:18 PM
雲がカーテンになって隠してくれると思います。
Posted by: m | Tuesday, July 21, 2009 11:21 PM
こんにちは。北山さんの今回の勇気ある発言に敬意を表します。北山さんの訳された「ローリング・サンダー」やお書きになった「ネイティブ・マインド」は、初めて読んだ時より自分にとってある種の道標となっております。
今回の皆既日食は、私の友人達の多くも観察に出かけてます。しかし以前から違和感を感じていた自分は観ないことに決めました。北山さんのおっしゃる通りでローリング・サンダーの言うことは、直感的に正しいと思えるのです。理論とか科学とかいうことでなく。。。
Posted by: Jun Jikooha | Wednesday, July 22, 2009 10:35 AM
こんばんは。
いつも学ばせていただいております。
ありがとうございます。
私もその時間にはセージを炊いて、タバコを供え、瞑想し子供たちに今何が起きているかを話し、静かに過ごしておりました。カメムシは探さなくてもそこいらじゅうにいっぱいいる田舎暮らしです。
すると子供が、
「あっ、雪だ」
「えっ?」
と外を見ると、細かな霧がまるで雪のよう…。
夏でも雪は降るんだね…。
耕平さん、カメムシさん、ローリングサンダー、
そしてつながっている皆さん、
ありがとうございます。
素敵な新月、また気持ちを新たに前進します。
ありがとうございました。
Posted by: 徳雲 | Wednesday, July 22, 2009 08:58 PM
今回の蝕について、私もいろいろ思うところがあり、検索した結果ここにたどり着きました。 私が言語化できなかったことを優しさをもって書き記されていることに感謝の念が浮かびます。
私の場合、言及するととてもオカルティックになりすぎ、恐怖のみを喚起してしまいましたので。
畏怖という謙虚さは、日ノ本の国では化石化してしまったのでしょうか。
わが町では無事曇り、安心しました。
Posted by: 蘇芳 | Wednesday, July 22, 2009 10:33 PM
今回の過熱した報道では某●HKにてブータンでは吉兆として祝っていると報道されていましたね。
そのためでしょうか「文化の違いによる日食への思いの違いは、面白かった」等々の感想がネット上では彼方此方に見受けられました。
チョッと気になるのは、現地で暮らしている方のBlogやチベット僧の言葉では逆のことが書いてあるんですよね・・・・
すごい日でした
http://windofbhutan.blogspot.com/2009/07/blog-post_22.html
ラマたちの抵抗
http://givinghands.at.webry.info/200907/article_3.html
小骨が喉に引っ掛かるような微妙な感じです。何かが摺り返られたようで・・・・
Posted by: Hollyfield | Thursday, July 23, 2009 06:21 AM