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Friday, July 31, 2009

I WILL SEE YOU SOON

今日は2回目の講座の日だ。この1カ月の間にさまざまなことがあった。ぼくにとってもっともエネルギーが必要だったのは「日蝕」の問題だった。今日はだから、今後日蝕を見る機会が与えられる世代に向けて、ネイティブの人たちの世界の見方で、なぜ日蝕を見てはいけないのかと言うところを、もう少し深めて話してみたい。これは感情的になる人たちのことも考慮して生々しいときには文字にしなかった話になるだろう。もうひとつ、いよいよまた選挙がくる。戦後の日本とアメリカの関係を、アメリカ・インディアンのアメリカにたいする見方やアプローチと共に考えてみたい。アメリカの日本の統治の仕方が、ネイティブ・アメリカンにたいする統治の仕方とほとんど同じであるということに気がつくと、われわれの生き方も少しは軽くなるかもしれないからである。

ということが今日の予定だ。こうやって書きとめておかないとなにを話すかわからなくなる:-) 本日の講座は前日や当日の予定で取り消しもあるから、まだ数名の余裕があるので、興味ある方は電話[03−5377−1300(マーブルトロン・担当:カクタ)]でお問い合わせを。

  ネイティブ・ピープルのものの見方と考え方・入門編

  第2回 7月31日(金)『祈りとはなにか』

  入場開始 18:45
  公演開始 19:00
    終了 22:30

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Thursday, July 30, 2009

日本列島で生きているすべての人は日本人の知識人とされる人たちが基本的に作成した「アイヌ有識者懇談会が政府にたいして提出した報告書の概要」ぐらいにはとりあえず眼を通しておくべきではなかろうか

 ◆「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告書の概要

 ◇1・今に至る歴史的経緯

 (1)アイヌの人々につながる歴史と文化(旧石器~中世)

 ・北海道に人類が住み始めたのは旧石器時代であり、その後1万2000年前に縄文文化に入った。人類学的研究によってアイヌの持つ形質や遺伝的な特徴の中には、縄文までさかのぼるものがあることが明らかになっている。

 ・他の地域が弥生文化の時代であったころ、寒冷な北海道では稲作が広がらず、独自の続縄文文化が6世紀ころまで続いた。

 ・7世紀に入ると擦文文化が始まったが、この時期に現在に認識されるかたちでのアイヌの文化の原型がみられ、それに続く13~14世紀ころにかけ、狩猟、漁労、採集を中心に一部には農耕を行う生活の中で自然とのかかわりが深く、海を渡った交易を盛んに行うアイヌの文化の特色が形成された。

 (2)「異文化びと」と「和人」の接触~交易(中世)

 ・鎌倉時代以降、和人が北海道との交易を盛んに行うようになり、また、室町時代の書物の中に、言葉の通じない「異文化びと」としてアイヌの人々の記述が見られる。

 ・15世紀半ばには、渡島半島の沿岸に和人が拠点を築き、先住していたアイヌの人々と交易を行った。交易の拡大に伴い両者の間でコシャマインの戦いなど抗争が続いたが、16世紀半ばには講和した。

 (3)過酷な労働生産の場(近世)

 ・江戸時代に、松前藩がアイヌとの交易の独占権を家臣に与えるようになり(商場知行制)、アイヌの人々の交易は制限された。

 ・18世紀に入ると商人が場所の交易を請負うようになったが(場所請負制)、利益を増やすために商人自ら漁場を経営し始めた。アイヌの人々は漁業に従事させられ過酷な労働を強いられた。

 ・こうした中でも、工芸、文芸、思想、宗教的儀礼等独自の文化の伸長が見られた。

 (4)アイヌの文化への深刻な打撃(近代)

 ・明治に入って、北海道の内国化が図られ、大規模な移住により北海道開拓が進展した。

 ・近代的な土地所有制度の導入により、アイヌの人々は狩猟、漁労・採集などの場を狭められ、さらに狩猟、漁労の禁止も加わり貧窮を余儀なくされた。

 ・民族独自の文化の制限・禁止やアイヌ語を話す機会の減少は、アイヌの人々の和人への同化を進め、その文化は失われる寸前になった。

 ・また、圧倒的多数の和人移住者の中で、被支配的な立場に追い込まれ、様々な局面で差別の対象になった。

 ・現在も大学等で研究資料として保管されているアイヌの人骨の中にはその意に関わらず収集されたものも含まれているとみられている。

 ・明治32年(1899年)には北海道旧土人保護法が施行されたが、アイヌの人々の窮状を十分改善するには至らなかった。


上記の文章は「1・今に至る歴史的経緯」の引用のみである。願わくば引用先に移られて過去・現在・未来に関係する全文に目を通されんことを。

1・今に至る歴史的経緯
2・アイヌの人々の現状とアイヌの人々をめぐる最近の動き
3・今後のアイヌ政策のあり方
おわりに

  アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の構成メンバー

    座長 佐藤幸治・京大名誉教授(憲法学)
        安藤仁介・(財)世界人権問題研究センター所長
        加藤忠・(社)北海道ウタリ協会理事長
        佐々木利和・国立民族学博物館教授
        佐藤幸治・京都大学名誉教授
        高橋はるみ・北海道知事
        常本照樹・北海道大学 アイヌ・先住民研究センター長
        遠山 敦子・(財)新国立劇場運営財団理事長
        山内昌之・東京大学教授

        アイヌ民族代表は加藤忠・北海道ウタリ協会理事長

arrow2 アイヌ有識者懇:報告書の概要 /北海道毎日jp 社会 アーカイブ 7月30日

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Wednesday, July 29, 2009

UPDATE! 4時間にわたるペルティエの仮保釈を認めるかどうかの公聴会が終了し、あとはアメリカ政府がどのような答を出すかに注目が集まっている

newsレオナルド・ペルティエを擁護し不法と闘う委員会[The Leonard Peltier Defense Offense Committee (LP-DOC) ]は先ほどペンシルバニアのリューイスバーグにある刑務所の前から以下のような臨時ニュースを出している。

FourFeathers焼けつくような暑さとひどい湿気にもかかわらず、集まった数百人の群衆は、ペルティエの法定代理人であるエリック・サイツがあらわれてみなの前で口を開くまで、何時間も待っていた(実際は4時間ほど)。彼は「FBIの方には委員会にたいして、レオナルドの行為に新しい証拠を提示できるようなものはなにもなかった」と語った。レオナルドは1時間から1時間半にわたって委員会からの聴聞に答えた。聴聞をした委員はすべての書類に眼を通し提言を出すまでに24時間から48時間が必要だと回答した。仮釈放観察委員会が最終決定をくだすまでに(法的には)3週間ほどの時間がある。レオナルドは今日彼のためになされたすべての努力について感謝の念を表明した。エリック・サイツは自分は「楽観的だ」と述べた。

arrowhead_small The Leonard Peltier Defense Offense Committee BREAKING NEWS

arrowhead_small Leonard Peltier's 4 Hour Parole Hearing Is Officially Over

arrowhead_small Attny Eric A. Seitz Talks to Wanbli after Leonard's Parole Hearing July 28 2009 youtubeyoutube

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Tuesday, July 28, 2009

レオナルド・ペルティエの仮釈放を認めるかどうかをきめる公聴会がまもなくペンシルバニアで開かれる ペルティエのための正式な公聴会が開かれるのは1993年以来はじめて

AIMAIMが昨日緊急記者会見をして発表した。冤罪のままで33年間刑務所に入れられ続けているネイティブ・アメリカンのアニシナベ、ダコタ、ラコタ国のレオナルド・ペルティエの仮釈放を認めるかどうかの特別な公聴会は、7月28日火曜日、日本時間本日の夜、ペンシルバニアのリューイスバーグで開かれる。孤独な彼をサポートするために、いまから8時間後、サンフランシスコのゴールデンゲイトストリート(between Polk and Larkin)にある連邦ビル前で、夜明けのための儀式と祈りのための集会が予定されている。すべてのドラマー、シンガー、ダンサー、若者たち、エルダーたち、精神的なグループ、社会活動グループの活動家は午前6時から公聴会の終わる午後3時までスピリチュアルな集会と祈りの場に加わって、ペルティエの放免が認められるよう心をひとつしてほしいと、AIMが呼びかけている。

arrowhead_small AIM WEST

arrowhead_small ペルティエに自由を![Walk in Beauty Project]

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われわれをとりまいているすべての生きものたちとの聖なる関係についてブラック・エルクはつぎのように語っていた

Black Elk family photo

start_quote相手がどんなに小さくて、のそのそ動き回るものであろうと、そうした生きものだって、われわれに貴重なレッスンを学ばせてくれることがないわけではない。ほんとうに小さな蟻たちですら、人間になにごとかを伝えたがっているかもしれないのだ。end_quote.gif

start_quoteイクトミ(蜘蛛)はおおむかしはヒトだった。いまのわれわれと同じような人間だ。彼はこの世界で最も早く成熟し一人前となった。だから抜け目のなさでは人間はとても彼におよばない。すべての人と動物に名前を与えたのはイクトミであり、話術を最初に自分のものとしたのも彼だった。end_quote.gif

start_quoteすべての生きものたちのなかで最も重要なのは翼を持つものたちである。なぜなら、翼を持つものたちはいちばん天に近いところにいるからだ。翼を持つものたちは、四つ足たちのような地を這い回る小さなヒトたちのように、大地に縛られることはない。あの連中の宗教はわれわれのものと同じだ。彼らは地球で起こることのすべてを見、餌としてつかまえるものを絶対に見逃さない。end_quote.gif

ヘハカ・サパ(ブラック・エルク) 1863年12月ワイオミングのリトルパウダーリバーに生まれ、1950年8月にサウスダコタのパインリッジで没。キリスト教の伝教者となった時代の写真を借りてきたウィキペディアの英語版にはつぎのように書かれている。

【要約】オグララ・ラコタの有名な聖者(ホーリーマン)であり、メディスンマンであり、ヘヨカ(道化)であり、チーフ・クレイジー・ホースの2番目のいとこ。1892年に最初の奥さんとなるケイティ・ウォー・ボンネットと結婚。彼女は敬虔なクリスチャンだったために、もうけた3人の子どもたちも洗礼を受けた。ケイティが亡くなった1903年、彼も洗礼を受けて、伝教者としてニコラス・ブラック・エルクという名前になる。キリスト教の教えと部族の伝統的な信仰の間に矛盾をまったく感じていなかった節がある。1905年にふたりの娘のいる未亡人のアンナ・ブリングス・ホワイトと再婚し、さらに3人の子供をもうける。2番目の奥さんのアンナは1941年に亡くなる。晩年にジョン・ナイハルトならびにジョセフ・エプス・ブラウンのふたりの作家や教育者が彼の言葉をまとめて何冊かの本を残した。

ここに今回紹介したのは、われわれ人間をとりまいているすべての生きものたちとの聖なる関係の一端をうかがわせるもので、モンタナ大学宗教学部教授として2000年に亡くなったジョセフ・エプス・ブラウンが聞き書きしたものから。どうでもいいインディアン関係の本の翻訳が増えるなか、彼についての本が『ブラック・エルクは語る』しか今はまだ日本語で読めないのは実に悲しいことであります。

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Monday, July 27, 2009

話しかけてくる不思議なサボテンであるペヨーテの伝説が読みたいときは

arte-indigena-peyote

むかしむかし、ある砂漠の村に若い女がおりました。ある日、女はとなり村に住む家族をたずねるため、ひとりで砂漠を歩いておりました。しかし、歩いても歩いてもたどりつきません。女は道に迷ってしまいました。喉がかわき、腹がすき、ついに疲れはてて倒れてしまいました。

すると、どこからか声が聞こえてきました。
「おねえさん、おねえさん」
いったい誰の声でしょう?
「わたしはここ、あなたの体の下よ」
女は、びっくりして体を起こすと、そこには小さなサボテンがありました。

「わたしを食べるがよい」
サボテンは言いました。腹を空かせていた女は、サボテンを手に取り、夢中になって食べはじめました。ひとつ、ふたつ、みっつ。。。やわらかく、みずみずしいサボテンが、女の喉をうるおしました。

話しかけてくる不思議なサボテン、ペヨーテについてのこの話の続きは、エンセオーグ(entheo.org)の Love S. Dove さんのブログでお読みください。一晩中続くネイティブ・アメリカン・チャーチのミーティングの起源を教えるかのようなストーリーです。

arrowhead_small ペヨーテ伝説を読む

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ジョージ・W・ブッシュと彼の政権が秘密にし続けた地球温暖化の証拠写真

Satellite-images-of-polar-006

アメリカの偵察衛星が撮影していた写真が新しいホワイトハウスの政権によって秘密を解かれ公開された。2006年と2007年の6月にアラスカ州にある米国最北端の町バローを撮影したもの。大気中に含まれる炭酸ガスの濃度が上昇したことが原因による壊滅的な天候異変によって、たった1年で海をおおっていた氷が完全に後退してしまったことがわかる。北極海から夏の氷が消滅することは、その地域に暮らすホッキョクグマなどさまざまな動物たちの生態系の存続にはなはだしい影響を及ぼすのみならず、太陽光を反射するものがなくなってさらに地球を温めることにもつながるという。オバマ政権は長くブッシュの時代に秘密とされてきたこのような写真約1000枚を、議会と市民を奮起させるためにこのほど公開した。(写真はクリックで拡大します)

Source : Revealed: The Secret Evidence of Global Warming Bush Tried to Hide

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Saturday, July 25, 2009

なぜインディアンはいつも盛装を心がけたのか?

Wooden-Leg-Cheyenne-1913
Wooden Leg - Cheyenne 1913

start_quote戦闘においてインディアンが常に盛装を心がけたのは、そうやって着飾ることで戦闘能力が高まると信じていたからではない。盛装を心がけるのは、いつ戦闘に巻き込まれて死んでしまうかもわからないからなのだ。誰であれインディアンはみな、偉大なる精霊と逢うときには身なりを最高にきめていたいと願っている。だから、死が差し迫っている戦いにおいても、また平和時における病気や怪我の時でも、彼もしくは彼女は、常に最高の衣服を身にまとうようにするのである。end_quote.gif

カハマゼヴェオタヘ [ウーデン・レッグ(木でできた脚)]( 1858 – 1940 )の言葉 写真は1913年に撮影されたもの。北部シャイアンに属しリトルビッグホーンの戦いでカスターと闘った。幼名 手で食べる子(イーツ・フロム・ヒズ・ハンド)。「木でできた脚」という名前は、いくら歩いても歩き疲れない木でできた丈夫な脚の持ち主という意味。

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Friday, July 24, 2009

アフター・ザ・スリル・イズ・ゴーン

Update | 11.32 p.m.


   一瞬燃えあがった炎はじきに下火になって
   空っぽのページに凍てついたペン
   恋人ともいえないし 友だちともいえない君
   スリルの去ったいまは もう

        ——"After The Thrill Is Gone" EAGLES LYRICS 1975


日蝕が通り過ぎた。ぼくが30年前にローリング・サンダーから伝えられた教えのひとつを、インターネットの時代になって今回たくさんの人とわけあうことができてとてもうれしく感じている。まともに生きているかぎり、人は生涯に1度か2度か多くて3回皆既日蝕を体験できるときと場所にあうのだろう。ぼくにとっては今回が3度目にあたる。2度目の日蝕の時に、ぼくはそれを見るのを止められるというたぐいまれな経験をした。そのときの教えは心に刻み込まれた。そして先日3度目の日蝕の体験が可能なときと場所が訪れた。その教えを伝えるときとしてこんなにふさわしい時間と場所はなかった。インターネットとコンピュータが常時接続をして以来、ぼくにとっては初めての経験だった。そしてあの記事「日蝕を見ないでヴィジョンを見ること」を書いた。

送られてくるコメントやメールにはできるだけ返事をしたが、そのすべてに回答や自分の感想を送りとどけることは物理的に無理だった。しかし気持ちだけは伝わっているのではないかと思う。とにかく日蝕までの4日間はものすごい数のメールが届いたし、このブログのアクセス数も日ごろの4倍から5倍、あるいはそれ以上もあった。アクセス解析を見れば、mixi を経由して訪れる人たちの数は、数えきれないほどだった。その多くの人がここを訪れるのははじめてだったようだし、なかにはおもしろ半分の人もいたのかもしれない。そして日蝕がすんで熱興は急速に冷めて、ようやくいつもの日常に近い状態に戻りつつある。


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少なくともネイティブ・ピープルの文化のなかには、日常の平安を保つ意味からも「日蝕は見てはならない(とりわけ妊娠中の女性は)」という言い伝えがあることは伝えられたし、当然ながらこれを非科学的だときめつけて笑い捨てることも出来たし、はじめから無視をすることもできた。テレビメディアが狂気のように日蝕を追いかけ回しているのをあとになっていくつかまとめて見たのだが、これはひとつの心の病としか思えない光景を数多く目撃した。30年間、このことをリアリティーをもって次の世代にいつ伝えるかを考えてきたが、そのときが訪れたことをぼくは知っていた。もともと心ある数人の人にその本意が伝わればよいと考えていたし、その深い意味をその人たちが、つぎの世代に伝えてくれるものと信じている。あなたの心に平安がありますように。

金環食が日本列島の太平洋沿岸部を通過する2012年5月21日、また皆既日蝕がつぎに日本列島を通過する2035年9月、タクラマカン砂漠の西からはじまって、朝鮮半島を貫き、北陸、信濃、越後、上野、下野、常陸、武蔵、上総、下総を通過するとき、その人たちの心のどこかにインプリントされた「地球に生きる人たちは日蝕は観ない」という教えをさらに次の世代に語り継いでほしいと心から願う。今回日蝕を見ないことを選択した人たちは、以後長い間そのことを心の中で反芻(はんすう)することになるだろう。

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さて、スリルのあとは学ぶ時間だ。いよいよ「講座 ネイティブ・ピープルのものの見方と考え方」の第2回目があと一週間に迫った。毎回完結型のお話会なので、いつでも興味ある人は参加できる。今回日蝕の記憶が生々しいこの時期だから、当然その話はしたいと思っている。7月のテーマは「祈り」。日本列島に生きているわれわれは、自分本来の素直な祈りの言葉を奪われて、すでに何百年もたっている。聖なるものが消え、祈りが消されたいま、もう一度大地や星や、太陽や月や、海や山や、雲や風や雨、木々や、草花や、偉大な動物たちに向かって、直接祈りをあげる言葉を取り戻せるのだろうか?

現在の段階で、あと10名程度の予約受付が可能。スペースの都合で人数に制限があります。だいたい夕方7時から、夜10時(過ぎ)まで。終電までには解放します\(^O^)/ アルコールの影響下にある人の入場はかたくおことわりします。

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Monday, July 20, 2009

北山耕平7月下旬の出没予定

paw next 7月31日夜 講座 ネイティブ・ピープルのものの見方と考え方  paw

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Thursday, July 16, 2009

講座 ネイティブ・ピープルのものの見方と考え方・入門編 今月のおしらせ

praying

「自然の教科書」「聖なる言の葉」「月に映すあなたの一日(インディアンのことわざ366)」「インディアンは笑う」などをこれまで刊行してくれているマーブルトロンの後援を得て、東京の高円寺にある『SALON by marbletron』でネイティブ・ピープルの知恵や考え方を学ぶための講座の2回目を、今月31日の金曜日の晩におこないます。連続講座とはいえどの回からでも誰でも参加できるゆるいものです。今月のテーマは

「祈りとはなにか」

です。今回の講座も、ネイティブ・ピープルの考え方の基本となるものを、「自然の教科書」「聖なる言の葉」の2冊の教科書を読みながら、もう一度学びなおすためのきっかけとしてもらうためのものです。ただし勉強はみんな苦手だろうから、テキストを使う講座は1時間、その後の1時間から2時間ほどは、質疑応答や、その時節に応じた雑談やトークを予定しています。多少遅くなってもよい人は参加してください。予約申込は以下のサイトをご覧ください。会場の都合で人数の制限があります。

*この講座による収益の一部は当ブログ Native Heart の維持管理費として活用させていただきます。

reddot ネイティブ・ピープルのものの見方と考え方・入門編 講座のあらましと予約受付

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Wednesday, July 15, 2009

日蝕を見ないでヴィジョンを見ること

Update | Thu 11.52 p.m.

日蝕の日が近づくにつれて、人々の奇妙な振る舞いが目立つようになってきた。あわてて本を出版したり、さまざまなグッズを売り出したり、ツアーを企画したりと、この機会に金儲けを企む人たちもあちこちからあらわれているし、メディアもこぞってこの日空を見ようとあおり立てている。南の島ではレイブパーティまで開かれるという。日ごろは天界の出来事に興味も払わなかったにもかかわらず、うなされたように日蝕のことを話題にする人たちも多い。どうやらスピリチュアルとされる人たちも、この流れには逆らわないらしい。それどころか妙に熱心なのもその人たちなのだ。最近は友人の中にも「お前のいうそんな教えはどうということはない」と公言する人物まであらわれた。まるでぼくは孤立しつつある。

でもぼくは知りたい。昔から、いったい世界のどこに、日蝕を見ることをすすめるメディスンマンがいるというのだろうか? 日蝕を見ることをすすめる聖者がどこにいるのか? チベットの道士はなんといっているのだろうか? アフリカではワニが太陽を食べるときといわれていると聞いた。占星術の偉い人は日蝕を見ることをすすめているのだろうか? 誰か「白人頭(ホワイト・マインドにずっぽりの人)」以外に、日蝕を見ることをすすめている人を知っていますか? もしいるのなら、冗談ではなく、その理由を尋ねたいものであります。別に喧嘩を売るつもりはない。日蝕を見ることをすすめる理由が知りたいのだ。

ぼくは、「日蝕は見てはならない」というぼくにこの道を指し示してくれたネイティブのグランドファーザーの教えを守るつもりでいる。少なくともぼくの友人たちや家族にはそうしてもらいたいし、日蝕を見ないようにするために力を注ぐつもりでいる。それが素晴らしい神秘的な光景を見せてくれたのなら、あとでゆっくりと写真や映像で見せてもらうとしよう。そしてあの日この「見てはならない神聖な死」「太陽がなにものかと闘う光景」を見なくてよかったと確認することにしたい。「人間以外のすべての動物たちは、日蝕の時間にはどこかに篭もってしまう。それは、すべてのいのちに大きな影響を与え、人間にはブレーン・ダメージを与えることを知っているからだ」という前の世界からの言い伝えを、それでもぼくは信じる。ここでいわれるブレーンダメージがどのくらいの長きにわたって影響を与え続けるものなのかわからない。ディネ(ナバホ)のあるメディスンマンは「妊娠中の女性は、とりわけ妊娠三ヶ月を過ぎた女性は日蝕を見るべきではない」と発言している。インディアンの迷信として一笑に付すのは簡単なことであるが、彼は日蝕が胎児へ与える影響をけして小さなものとは見ていないことだけは確かである。

いわゆるゴーストダンスなる千年王国を希求するネイティブの人たちの最後の信仰のヴィジョンは、19世紀最後の皆既日蝕が北米大陸のグレートベースン沙漠で起こった日に、ウォボカと名乗ることになる少年にもたらされた。ぼくは同じ沙漠で20世紀最後の日蝕を見るために彼の地を訪れ、ローリング・サンダーと名のるメディスンマンと日蝕の前日に運命的に出会い、日蝕を見ることを止められたことが、巡り巡って今このネイティブ・ハート・ブログを書き続けるひとつの原因ともなっている。日蝕。それはおそらく「ヴィジョン」がもたらされる瞬間であるのかもしれない。そのときは、われわれは内側を見るときなのだろう。内面を深く観察する貴重な時間とするか、世界が一瞬の闇に包まれる瞬間に熱狂するか、それはわれわれ次第である。

下の写真はぼくがこれを見るために沙漠の奥へ出かけて、結局それを見ることがなかった日に起きた日蝕の瞬間をとらえた天文の専門家が撮影した写真。これを見なかったおかげでぼくは今君にこれを書くことになった。「26 February 1979 Total Solar Eclipse」で検索すると、その日の写真がたくさん出てくるし、あれから30年がたった今も、その1枚1枚に、ぼくはありがたさと同時に畏怖を覚える。

(追記 読者に指摘されて、神秘さよりも恐ろしさがきわだっていたため、写真サイズをとりあえず60パーセントにまでしてみた。それでもすごい力だ。)

eclipse_2-26-1979_turtle_island

過去記事:

NASAが制作した2025年までの世界皆既日蝕地図(2007年7月)

参考記事:

「日食は私の原点」毛利衛さん

太陽と月のコラボ、皆既日食で 摩訶不思議な体験ができる?

鏡リュウジが語る「皆既日食」

宇宙 - 日食 - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト

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Tuesday, July 14, 2009

少しずつでものぼり続けることを教えるティーチング・ストーリー

donkeyこれはあるインディァンの村の話だ。ある日、一頭の年老いたロバが涸れ井戸の深い穴に落ちるという事故が起きた。ロバの飼い主だったインディアンの爺さまが穴の縁から下をのぞきこんで、なんとかしようと考えている間、ロバは悲壮な声で何時間も鳴き続けた。

しかし結局爺さまにはロバを助けるためにはなにもできないということがわかっただけだった。穴は深く、助けたくてもどうしようもないという現実を、最終的に爺さまは受け入れるしかなかったのだ。ロバも年齢が年齢だった。仕方がない、ここがあの老いぼれロバの墓場になるのかと爺さまは考えた。大がかりなことをしてどうしても助け出さなくてはならないほど若くバリバリ働けるロバではなかった。爺さまは涙をのんでその穴を埋めることにした。穴をこのままにしておくと、村の子どもたちが落ちないともかぎらない。

爺さまは一族の者たちを呼び集めた。事情を説明し、穴を埋める作業を手伝ってもらうことにした。人々は手に手にシャベルをもち、次々と土を上からおとしはじめた。しばらくの間、穴の底のロバはいっそう悲壮な声で絶叫していた。なにが起こっているのかロバは気がついたのだ。年老いたロバの恐怖にあふれた鳴き声が穴のなかで響いていた。ところが、しばらくすると、その声が嘘のように静まりかえった。村の者たちも、それには驚いた。

穴が半分近く埋まった頃、ロバの飼い主だったインディアンの爺さまが意を決して涸れ井戸の穴の奥をのぞきこんでみた。いったいなにが起きたのか? そこで見たものに爺さまは腰を抜かすほど驚いたという。穴の下で、上から降ってくるひとかたまりの土塊が自分の背中にかかるたびに、ロバは実に驚くべき行動をとっていた。背中に土が降りかかると、ロバは体を震わせてその土を払いおとし、そして払い落とした土を足で踏み固めていたのだ。そうやってロバは一歩一歩階段をのぼるように上にあがってきていた。一族のものたち全員が驚いたのは、それからまもなくして、ロバが穴の縁に姿を見せ、縁に足をかけると穴から這いだして、勝手に外に出て、とことこと歩いていずこへかと姿を消してしまったことだった。

人生というのは、上から泥の塊が降り続けるようなものだという。その泥は、実にさまざまで、ありとあらゆる種類の泥が降りかかってくる。人生を生き抜く鍵は、体に泥がかかったらそれを振り落とし、振り払った土を足の下で踏み固めて、しっかりと上にあがっていくことなのだ。誰の人生にもたくさんの問題が待ちかまえている。その問題のひとつひとつが、踏み固めて行かなくてはならないものなのだな。あきらめて立ち止まってしまったら、われわれは穴から抜けだすことはできない。重要なのは、どんな状況に陥っても、そのロバのように最後まであきらめないことなのだ。体に降りかかった土を振り払い、払い落とした土を足で踏み固めること。


    幸福にいたる簡単な5つのルール:

         憎しみから心を自由にする

         不安から頭を自由にする

         質素な暮らしをする

         より多くを与える

         見返りを期待しない


追伸

「伝統に還ることは、前に進むことである」という話を昔聞かされたことがあります。

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Monday, July 13, 2009

昨日と今日と明日の太陽の子どもたちへ

children_of_the_sun一昨日土曜日の『地球の声を聞く世代へ』というトークには130名をこえる大人から子どもまでの人たちにお集まりいただき感謝します(誰ひとり雨を連れてこなかったことも)。羽根木プレーパークという東京都区内にあってはほんとうに珍しくかすかに自然が残っている空間を、みなさんと共有できたことは、自分にとってのこれまでの30年と、羽根木プレイパークの30年のふたつの旅が出会う正しい時と場所であったことを、あらためて確認できました。

わたしたちになにが欠けていたのか、おそらく両者が理解できた時間と場所でもありました。ぼくは自分がやってきたことへの方向をあらためて確認し、新しい旅をはじめられそうです。羽根木プレーパークがそこを自分の場所として育つ子どもたちにとって、自分を見つめるための場所としてあの場所に残り続けることができることを祈ります。そこが特別な場所になるためになにが必要なのか、環境とコミュニティーにとっても必要とされる場所となるために、つぎの30年に向かってゆっくりと美しくかわっていくように、子どもたちとともにひとつひとつ答を求めていってほしいと心から願います。

一昨日の話はおおやけには2時間ほどでしたが、終了後も夜8時近くまでさまざまな人と、美味しいカレーなどをいただきながら話しあうことができました。その話のすべてを書き記すことはできませんが、なにか大事なものを分けあった気がしています。

つねに子どもたちの明るい笑い声が聞こえていました。ぼくは、毎日日没の時間になると、その子どもたち(小さな人々)が、有り余るエネルギーをクールダウンし、環境の中にかすかに残された自然を学びながら、あの空間の中で1日の終わりを静寂の中で迎える時間をもっている光景を想像しました。プレーパークが太陽のある間の「喧噪の遊び(play)」の場であると同時に、太陽が沈みはじめると共に「静寂の祈り(pray)」の場にかわり、1日が終わる様子を想像しました。それは実に美しい光景でした。すべての人に必要な内的な成長に向けて、自然なるものと力をあわせてなにかがはじまる貴重な場所になればよいと思います。

北山耕平

追記

そうそう、会場でトーク終了後にひとりの女性から「チェロキーのモーニング・ソング」という美しい歌について話しかけられました。「自分は偉大なる精霊とひとつである」とうたうその歌の解説と歌詞と日本語訳はこのサイトの「ワレラが歌う『チェロキー・モーニング・ソング』を聞いたことがあるかな?」という記事にあります。

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Friday, July 10, 2009

I WILL SEE YOU SOON

羽根木プレーパークで話をする日が明日に迫った。東京のなか、戸外で話をする機会は、そう多くない。だからぼくには楽しみである。世田谷の羽根木公園の中に羽根木プレーパークができて30年。ぼくは30年前にネイティブの人たちの世界に足を踏み入れた。これは偶然なんだろうか? この30年間に起こったことを共有するために、明日、世田谷におもむく。はじまりを告げるドラム・コールが待っている。スモーク・シグナルは見えるだろうか? イベントは入場無料。詳細は「この30年羽根木プレーパークはなにを見てきたのだろう」まで。

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動物たちから学べること その1 チームワーク

teamwork

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Monday, July 06, 2009

イヌイットの人たちに残されている世界で最も古い音楽の形態のひとつとされるもの


Nukariik- Inuit Throat Singing- Richmond Folk Festival 2008

ネイティブ・ジャパニーズとそう遠くないところにいるイヌイットの人たちが伝える「喉歌(のどうた)」を紹介したい。モンゴルのホーミーとも似ていて、歌とはいっても、どちらかといえば「詠唱(チャンティング)」にちかいもの。世界で最も古い音楽の形態のひとつであるそうだ。

Nukariik普通人は一度にひとつの音しか出せないと思われているけど、喉歌のシンガーたちは、一度に最低でもふたつ、時にはそれ以上の音を出すことができるという。息を吸うときとはくときの両方で喉を共鳴させる特別な技術があるらしい。唇と、舌と、顎と、口蓋と、喉頭だけの、体を微妙に使うことでユニークなハーモニーを奏でてみせる。

映像はケトラー姉妹(姉のカリンと妹のキャシー)が伝統的なイヌイットの喉歌を聞かせているもの。多くの場合赤ん坊の子守歌だったり、狩りに出た恋人の無事を祈る歌だったりする。立ったまま顔を見合わせて一緒に歌うことがあり、この時はどちらかが、または両者が笑い出したときに終わる。先に笑い出した方が負けというゲームでもある。

喉歌それ自体は、旧ロシアの周辺地域にかなり現在も残っているものが多い。一時すたれたけれども最近はイヌイットの若者たちの間ではかなり復活してきているという。最後の「あ・い・う」の歌というのが、記憶に残ります。

動画のタイトルになっている「ニュカリク(Nukariik)」はイヌイットの言葉で「姉妹」を意味する。ハイスクール時代から喉歌で頭角を現し、伝統的な歌い方を復活再生させる働きをしてきたケトラー姉妹は、現在プロとして活躍、カナダなどでステージパフォーマンスも多い。姉妹の歌は彼女たちのレコードを出しているキー・レコードの「ここ」でも聞くことができる。

arrowhead_smallKey Records

arrowhead_smallOfficial Nukariik Website

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Friday, July 03, 2009

自由貿易協定は人間と自然の調和を破壊するものと先住民のリーダー

ペルー政府は先月、アマゾンの奥地の森林で計画中の油田地帯の拡大に非暴力で抗議するために集まっていた何十人もの先住民活動家を殺害した。ペルーの大統領(アラン・ガルシア)は、たとえ先住民の土地の権利を侵すことになろうとも、対合衆国との自由貿易協定の責任をまっとうするためには国際的資源開発の要求を最優先させなければならないと発言している。そして、今までのところ、米国は沈黙を守ったままだ。米国が態度をはっきりと表明し、ペルー政府が現在の暴力をやめるようにと、誰かが国務長官のヒラリー・クリントンに言わねばならない。

2008年に、ガルシア大統領は、ペルー議会を通すことなく、民主的な議論もないままに、99もの法律を作り、石油・ガス探査のため、大統領命令でペルー土地を多国籍企業を相手に門戸を開放してしまった。議会が、これらの大統領命令が憲法にかなっているか否かを検討している間に、何万もの先住民たちは、彼らが生活のより場としてきたアマゾン熱帯雨林が政治的な目的で利用されるのを防ぐため、平和なデモのために集まり工事現場を封鎖してきた。そして、6月5日に、暴力的な弾圧が開始され悲劇が起きたた。首都リマの北1400キロのところにあるバグア・グランデでは数千人の先住民たちが催涙ガスと実弾によって強制的に分散され、数十人の死者が出た。先月末、ペルー議会は99の法律のうちふたつを保留することを発表したけれど、先住民のリーダーたちは、すべての法律が完全に取り消されるまで彼らの平和抗議運動は継続されると声明を出している。

すこし古いニュースだけど、気になっていたので紹介しておく。地球を「資源」として見ない国の数を増やすことが急務だね。

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『アレクサンダー・テクニーク入門』(ビイングネットプレス刊)が増刷されました

Alexander Techniqueアレクサンダー・テクニーク入門
—能力を出しきるからだの使い方(実践講座)

サラ・バーカー(著)
 北山耕平(翻訳)
 片桐ユズル(監修)

単行本:193ページ
出版社:ビイング・ネット・プレス
ISBN−10:4904117166
ISBN−13:978−4904117163

価格:¥ 1,680

『アレクサンダー・テクニーク入門』(ビイングネットプレス刊)というぼくが翻訳した本がこのたび増刷した。地味に売れ続けている本である。70年代の後半をアメリカで過ごしていたとき、体と心と頭に襲いかかるさまざまな問題に対処して生き残るために、無数にあふれていた健康法や癒しの技術のなかで、おそらくぼくが最終的に到達した生きていく上でのヒントを体得させるための本であり、なんとか完成版を翻訳したいと思い続け、2006年にアレクサンダー・テクニークの指導者でもある片桐ユズルさんの協力を得て完全版を仕上げたものだ。

健康を維持するためのアレクサンダー・テクニークは、実際に体験してみるとそれほど難しいものではないのだが、文字によってこれを学ぶとなると話が違って、途端に難解なものになる傾向をもっている。むずかしい理由をぼくなりに考えると、それはこのテクニークが意識と体の両方に働きかけるものであるため、自分の内側で内部分裂のようなものを起こすからではないかと思う。また多くの本が、一度はそのレッスンを受けたことがあることを前提として書かれているという面もある。

しかしアレクサンダー・テクニークはさまざまな面で役に立つことも間違いない。体を自己表現として使う仕事にあるすべての人たち、音楽家、ミュージシャン、歌手、俳優、武道家、舞踏家、ダンサー、歩く人、走る人、歩く人、山を登る人、なんらかの病気を抱えている人などそうした体と意識の関係に進んで分け入る人たちには、この技術は一度マスターできれば生涯にわたって役に立つだろう。健康増進にもなるはず。今では専門書が日本語になってたくさん出ているが、本を読んでこれを学ぶのはことのほかむずかしく、本によっては意図的にむずかしく書いているのではないかと思うこともあるのだが、この本はとにかくなにも知らない人が先入観なしにこの技術をゼロから学べることを目的として書かれていて、ぼくはおすすめする。

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Thursday, July 02, 2009

チーム結成2年でワールドカップに出場したホーデノショーニ国女子ラクロスチーム

lacrosse_teams先月の17日から27日までの10日間、チェコ共和国のプラハで「女子ラクロス・ワールドカップ大会 2009」が開催された。今年の大会でニュースになったのは、ホーデノショーニ国の代表チームが、代表チームを結成して1年半にもかかわらずワールドカップに出場を果たしたことだった。左の図は、今年のワールドカップに出称した各国々の旗。右列上から2番目がホーデノショーニの国旗。

ホーデノショーニ国(ラクロス日本代表のサイトでは「ホーデノソーニー」と表記されている)は、しばしばイロコイ6ヵ国連合と書かれることもあるように、モホーク国(Mohawk)、オネイダ国(Oneida)、オノンダガ国(Onondaga)、カユガ国(Cayuga)、セネカ国(Seneca)、そしてタスカローラ国(Tuscarora)の6つの国の連合体の総称である。アメリカ大陸の先住民の中でしばしば「東部のホピ」と称されるぐらいに並外れた精神力を持つ人たちで、現在のニューヨーク州の北部、ナイアガラの滝の周辺、カナダのオンタリオ地方を自分たちの国としている。

ホーデノショーニ国の女子ラクロスチームが、ネイティブアメリカンの伝統にのっとり、各チーフたちに意見を求めて承諾を得たうえで、国際女性ラクロス連盟(IFWLA)に正式に参加したのは、わずか2年前のことだが、もともとラクロスはホーデノショーニの人たちにとっては、国技と呼んでもいい神聖なゲームだったのである。

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チーム・ホーデノショーニのメンバー

ラクロスが競技になる以前、それはラケットボールと呼ばれるネイティブ・アメリカンに独自の伝統的なゲームだった。こうしたゲームを美しく見事に闘うことは、造物主に感謝のメッセージを送る神聖なものと考えられ、また「メディスン・ゲーム」として一族の中に病のものがいたりすると、その人の健康が回復されることを祈るために試合がおこなわれたりした。勝つことよりも美しいハートをもっておこなわれるかが最も大切にされたのだ。現代のボールをつかう団体ゲームの多くが、ネイティブ・アメリカンのゲームに起源を持つが、近年はこうした競技においても、相手を倒すことが目的になっている。しかしボールをつかって誰もが参加できるゲームは、人々をひとつにまとめるという意味で、昔から彼らの日常生活の中できわめて大きな役割を持たされていたのだ。

ホーデノショーニ国の男子ラクロスチームはすでに過去4回ワールドカップ大会に出場した実績を持つが、結成2年にみたない女子チームが、今年念願のワールドカップに出場したことを、イロコイの人たちは、そして空におられる創造主は心から喜んでいるにちがいない。

ちなみにワールドカップの結果は、参加16チーム中1位がUSA、2位がオーストラリア、3位がカナダ。日本女子は7位、ホーデノショーニ国は2勝4敗で11位だった。

Source : Native American women's dream comes true in Prague

ラクロス女子日本代表チームのホームページ

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Wednesday, July 01, 2009

北山耕平7月の出没予定

pawpaw  next 地球の声を聞く世代へ 11日 at 羽根木プレーパーク(東京)

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ジャンピングマウス おはなしとひかりえを体験する夕べ

ネイティブ・アメリカンのシャイアン族に伝わる神聖なメディスンストーリー「ジャンピングマウス」のお話のイメージから、4メートル×4メートルの大きな ひかりのアートが誕生しました。七夕まつりの宵に、古民家のある公園の空間に浮かび上がる「ひかりえ」と、300の手づくり灯篭がつくるひかりの道、そして、古から地球に生きる人たちの中で語り継がれた智恵の物語にゆっくりと耳を傾けてみてください。

ジャンピングマウス公演
   ストーリーテラー(語り手)・古屋和子
   インディアンフルート+メディスンドラム(演奏)・のなかかつみ

   ひかりえ プレゼンテーション/創作・アキ+アスカ 
                  照明・コウノスケ

   ジャンピングマウス翻案 北山耕平

7月4日(土)
18:30開場→点灯式
19:00〜20:30 公演
20:45〜10分間、ライトOFFタイム、
灯篭とひかりえの明かりのみをお楽しみください。
それからひかりの道を辿ってお帰りください。

主催:横浜市 長屋門公園
会場:相鉄線 三つ境 駅下車徒歩15分
   横浜市瀬谷区阿久和東1−17
   公式ウェブサイト
電話・FAX:045−364−7072

☆予約不要。当日直接お越しください。
☆参加無料ですが、当日はおひねり(ドネイション)をお願いします。

協力:アース○サークル内 ジャンピングマウスの輪を巡る会

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この30年羽根木プレーパークはなにを見てきたのだろう

羽根木プレーパーク

東京の世田谷区の小田急線梅ヶ丘駅近くに羽根木(はねぎ)公園があり、その公園の一角に「羽根木プレーパーク」がある(上図)。公園の近くで生まれて育つ子どもたちには、そこは特別な場所である。この「羽根木プレーパーク」は今年で生まれて30年。偶然とはいえぼくがネイティブ・アメリカンの世界に足を踏み入れたのと同じ年に、この公園は対抗文化の影響を受けた人間性回復運動の枠組みの中から誕生した。

「羽根木プレーパーク」は、子どもが活き活きと遊べることを願い1979年「国際児童年記念事業」として世田谷区の羽根木公園内の一画ではじまりました。行政(世田谷区)が場所と基本的な運営資金を確保し、日常的な運営や事故や怪我の対応は住民が責任を持って行うという官民恊働体制を取り、「プレーリーダー」を専従で配置してきました。世田谷区内では、現在4カ所のプレーパークがあります。「冒険遊び場」と呼ばれる遊び場を求める動きは広がりをみせ、いまや全国でおよそ200カ所にもおよびます。

これは「羽根木プレーパーク」30周年を祝うイベントを紹介する文章の書き出しで、以下のように続く。

「羽根木プレーパーク」は日本で第一号の冒険遊び場としてスタートし、今年7月20日で、設立30年を迎え、記念のイベントが7月にスタートします。

羽根木プレーパークの設立当時から、そこを活動の拠点にし、自主保育グループ「ひろば」が活動をしています。「自主保育」とは、地域の親たちがグループをつくり、預けあいで野外で子どもを見合う活動。82年には活動のあるいくつかの自主保育グループをまとめる「新しい保育を考える会(しんぽれん)」を羽根木プレーパークで立ち上げました。「しんぽれん」は、ほぼ30年を羽根木プレーパークとともに歩んできました。活動の場所であり、遊び場づくりや遊びを、子どもと親とともに学んだ英知の場所です。

30周年に感謝し、「しんぽれん」と「羽根木プレーパーク」の合同の記念イベントを開催します。

プレーパーク世田谷:
http://www.playpark.jp/index.html
新しい保育を考える会(しんぽれん):
http://www17t.sakura.ne.jp/~shinporen/

そしてぼくはいろいろな力に導かれてこのイベントでお話をさせていただくことになった。みなさんも知っていると思うけれど、普通はどんな公園でも焚き火をすることは認められていない。「羽根木プレーパーク」は、自主管理の中、特別な場所で焚き火をすることが認められている例外的な場所である。子どもたちにとってそこは普通の公園とは異なる特別な場所なのだ。この公園で幼年期を過ごして育った世代は、今、最年長で30代後半になる。この特別な守られた場所で、焚き火でも焚きながら、自然を感じつつ、今回はお話ができる、しかも東京の世田谷区で! 別に会員である必要はなく、子どもでも子どもの心を持つ人でも、世田谷区の住民でなくても、羽根木プレイパークの名をはじめて聞いた人でも、みんな当日は(当日に雨を連れてこないかぎり)歓迎されている。共に土と水と火と風と木の力を讃えよう。

『地球の声を聞く世代へ』

話し手/北山耕平


大地と生命とつながり、感謝と謙虚さの中で、くらしを営んできた先住民たち。
その先住民たちの精神や知恵は、私たちひとりひとりに大切なものは何かを気づかせ、近年先住民たちに起った出来事や変化は、私たちの社会の様をも気づかせるように思います。

先住民族からの学びを通して、いま私たちひとりひとりが、くらしや遊びの中や、価値観や社会理念を育てていく中での、大切ななにか…を見つけるヒントがあるのでは…。

ネィティブの精神を探求し、その世界を伝える北山耕平さんから、お話をして頂きます。


7月11日(土)
15:00~17:00(終了予定)

開催場所:羽根木プレーパーク
無料(予約不要・直接会場にいらしてください)
雨天決行

羽根木プレーパーク
世田谷区代田4−38−52
羽根木公園内 03−3324−9284
小田急線「梅ヶ丘」駅、井の頭線「東松原」駅から徒歩
羽根木プレーパーク ウェブサイト

問合せ:新しい保育を考える会
    03−3324−4491(fax)
新しい保育を考える会ウェブサイト

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