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Friday, February 27, 2009

カリフォルニア州議会にマリファナ(大麻)合法化の法案が提出された

 カリフォルニア州のトム・アミアノ州議会議員(民主、サンフランシスコ選出)は23日、同州内での医療目的でないマリファナの使用を飲酒と同様に合法化し、課税する法案(AB390)を提出した。成立すれば全米初となる。

 ロサンゼルス・タイムズによると、アミアノ議員は、現在420億ドルもの巨額の赤字に陥っている同州の財政を立て直すためにも、新たな税収が必要だと主張する。

 同議員の法案は、ビールやワインなどの酒類を規制する法律とほぼ同じものだ。21歳未満の未成年のマリファナ使用は違法とする。マリファナを飲酒と同じように合法化することで、警察機関がより深刻な犯罪の取り締まりに力を入れられるようになると説明する。

 ある見積もりによれば、カリフォルニア州のマリファナ市場は140億ドル規模とされ、野菜の57億ドル、ぶどうの26億ドルをはるかに上回る。マリファナが課税対象となれば、州の税収は年間10億ドル増える計算になる。

Source: 税収対策にマリファナ合法化?〜カリフォルニア州議会で法案提出

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トーク・アラウンド・ザ・タバコ

Native Tobacco

来週3月7日(土曜日)の午後2時から東京の新宿区健康推進課地域保健係が主催し(株)よしもとクリエイティブ・エージェンシーが協力するイベント『お笑い健康トークライブ』に講師のひとりとして出演します。会場は新宿御苑大木戸門近くに建つ四谷地域センター12階の多目的ホール(内藤町18)。新宿御苑を一望する絶景のスペースだそうです。イベントのテーマは「煙草(Tobacco)」です。北米大陸のネイティブ・ピープルにとって、たばことは、本来どんなものであったのかということを中心に話す予定です。当然ですが、いたずらに喫煙をすすめる話ではありません。聖なるメディスンとのあるべきつきあい方について話せたらと思っています。

新宿区に暮らしていたり、学校や会社や勤め先が新宿にある方が対象で、入場料は無料ですが、定員(100名)があるために、あらかじめ電話で申し込む必要があります。

申込は「新宿区健康推進課地域保健係 電話 03−5273−3047」まで。

詳細は、お笑い健康トークライブ 〜たばこって何だ?喫煙ヒストリー〜 を見てください。pdfのチラシはここにあります。

参考記事:

arrowhead_small 煙草から神聖さをとりあげたのは誰なのか?

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Thursday, February 26, 2009

それは30年前の今日のことだった

今からちょうど30年前の今日、1979年2月26日に、今に続くぼくの旅ははじまっている。あれは北米大陸で20世紀最後の日蝕が見える日の前日のことだった。ユタの沙漠で日蝕を見るために、ぼくは友人と2人で、3日前にロサンジェルスを旅立ち、サンフランシスコからインターステイトフリーウェイでソルトレークシティに向かっていた。25日の午後3時過ぎ、ネバダ州カーリンという町で遅いランチで腹を満たそうと立ち寄ったカフェで、ぼくたちはその古ぼけたレストランの女主人からいきなり声をかけられた。「あんたらもあの気の狂ったインディアンに会いに来たのか? 天気を変えるとかいっているようだけれど、わたしは信じませんからね」

そして彼女が「気の狂ったインディアン」と吐き捨てるように言った存在こそが、カーリンの町外れに家族で暮らしていたローリング・サンダーその人だった。2月25日の夕方、ぼくたちはなんとかローリング・サンダーの家を探し出してその家の門の前に立っていた。ドアが開いて出てきたのはひとりの体格の立派な女性だった。あとでそれがセージの匂いだとわかったのだが、家のなかから薬草を炊き込めたような香りが流れ出した。彼女はぼくたちを招き入れた。一目見た瞬間ぼくは彼女の発している大いなる優しさと強さに包み込まれた。それがローリング・サンダーの奥さんでショショーニ一族のスポッテッド・フォーンとの最初の出会いだった。というよりぼくがはじめて直接顔を見合わせて話を交わした最初のアメリカ・インディアンだった。じきにわかったのだが、彼女はローリング・サンダーの一族から「ビック・ママ」と呼ばれ、すべての人から尊敬されていた。スポッテッド・フォーンは一族のクランマザーであり、その権力は絶対だった。ローリング・サンダーですら彼女の言葉には従わざるを得なかった。チェロキーに生まれて放浪の旅にあったローリング・サンダーを、結局最後までショショーニの土地につなぎ止めたのは彼女の尽きることのない魅力だった。ローリング・サンダーのメディスンのひとつの大きな源が彼女という存在だったことは間違いない。80年代半ばに彼女がスピリットの世界に旅だって以後のローリング・サンダーの落胆ぶりは誰の目にも明らかだった。

「ローリング・サンダーは仕事で外出しており、帰るのは今夜遅くになると」彼女はむだのない英語で言った。ぼくたちが明日の日蝕をユタの沙漠で見るつもりだと伝えると、彼女は真顔になり、こちらに向き直った。その瞬間彼女の身体がさらに大きくなったような気がした。「ローリング・サンダーは日蝕は見てはいけないと言っているわ」と彼女がおもむろに言った。「あなたたちは今夜はここに泊まりなさい。ローリング・サンダーもきっとあいたがると思うから。毛布はあるの? お腹はすいていない?」

そうやってぼくらはスポッテッド・フォーンに受け入れられ、ローリング・サンダー・ファミリーの客人になった。カーリンの町はずれの沙漠の中に作られたウィグアムという土まんじゅうのような寝ぐらを与えられ、たくさんの毛布とともに眠りについた。夜中に1度目をさまして外に出てみると頭上に満天の星がひろがっていた。翌26日の早朝、まだくらいうちにウィグアムの入口の布のフラップが音をたてて開き、ローリング・サンダーが独特の物腰で入ってきた。この時の話は、まだ印象が鮮明だったころに『ネイティブ・マインド』(地湧社刊)という本の前編に詳しく書きとめてあるので、興味があればお読みいただきたい。「日蝕を見ると、ブレーン・ダメージを受けるので、日蝕は見るべきではない」と彼も言った。「あらゆる動物たちはそのことを知っている」とも。「日蝕はなにかが死ぬ時であり、新しく生まれる時である。自分はこれからひとりで山の中に入り、日蝕を一族の者たちが見なくてよいようにしてくるつもりだ。日蝕のはじまる時間までには帰ってくるので、おまえたちはここにとどまりなさい」

その日、ちょうど30年前の今日、2月26日、午前11時ごろ、ネバダの沙漠の中にぽつんとうち捨てられて錆び付いた小さなキャンパーのなか、小さな薪ストーブが勢いよく燃えて、そのうえに載せられた黒く焼けたヤカンから沸きたつ蒸気で曇る窓ガラスのむこう側の世界を、ローリング・サンダーとぼくらは、パチパチとはねる薪の音を耳にしながら眺めていた。窓の外の沙漠には、さっきからしきりと雪が降り続き、それはもうかなり積もりはじめている。「みなが日蝕を見ないですむように、あの雪はわたしが降らせた」ローリング・サンダーがおもむろに言った。

30年前の今日は、アメリカ・インディアンの目で世界を見るその見方を学びはじめた日。スポッテッド・フォーン(ショショーニ)、ローリング・サンダー(チェロキー)、デイビツド・マニャンギ(ホピ)、マッド・ベア・アンダーソン(タスカローラ、イロコイ)、ジョン・ファイアー・レイム・ディアー(ラコタ)、アーチー・ファイアー・レイム・ディアー(ラコタ)。そうしたぼくを導いてくれた名だたる偉大な人たちはみなこの間に、地球の旅を終えてスピリットの世界に旅立たれた。そしてぼくはまだやらなくてはならないことがあるので、ここで地球の旅を続けている。学びは、どこまでも続く。




A Hard Rain's A-Gonna Fall
Bob Dylan,the Rolling Thunder Revue. 1976

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Tuesday, February 24, 2009

ジャーニー・トゥ・ザ・スピリット・ワールド

The journey to the Spirit World

The journey to the Spirit World

スピリットの世界への道のりはとにかく長いのだ、友よ。死がその旅の終わりではないことは、おまえが死んだときにわかるだろう。

バディ・レッド・ボゥ ラコタのカントリーミュージシャン
故フロイド・ウエスターマンと並んでネイティブの人たちに
その歌で多大な影響を与えてきた。1949年生まれ。

ネイティブ・アメリカンのエルダーたちはしばしば「もうひとつの次元」の話をする。彼らはそれを「スピリット・ワールド」と表現した。スピリットの世界だ。スピリットをなんという日本語に置き換えるかは悩むところなのだが、これはそのまま「スピリット」として理解したほうがいい。地球に生きているいのちであるわれわれは、みな自分の身体の中にスピリットを宿しており、われわれが死んでもそのスピリットは生き続ける。死というのは、目と頭がそう考えているものに過ぎないらしい。ネイティブの人たちの儀式のなかには、その儀式を通してスピリットの世界を垣間見させてくれるものがいくつもある。死というのは、生きるという過程のごく一部に過ぎないのだな。われわれは死を通してスピリットの世界へと移行するのだ。そしてエルダーたちは口を揃えて言う、いのちのたどる旅には喜びがあふれていると。

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Monday, February 23, 2009

九州ビッグアイランドでぼくに何が起こったか?

九州から昨日帰還した。福岡の講演会には130名ほどがきてくれて充実した時間を持てた。前日は雨だったものの当日の午後には雨もあがり、お話会をする許可を土地の精霊に求めに警固神社に出向いたときにはきれいに晴れ渡っていた。全体が木々で覆われるように設計されたビルの1階にある円形劇場というセットと金曜日の夜というセッティングのおかげか、福岡という都市のなかであったにもかかわらず不思議に魔術的な夜を過ごせた。関係者のみなさん、サポートとして参加してくださったみなさん、ご来場いただいたみなさんに、深くお礼申しあげる。翌日、朝から晴れ。雲が流れていたが、次第にその雲も消えかかっていくことが予想された。大宰府にある博物館を見学に行く予定を取りやめて、天からの声にしたがつて、動物性タンパク質をまったく使わない優れて健康的なマナバーガー特製のランチセットをあつらえ、トヨタのプリウスに乗り込み、30代、40代の友だちら4人で阿蘇山の中に入り込むことになった。目的地は、押戸石oshidoishi大分県南小国町の近くにあるとある丘の頂で、そこは阿蘇の外輪山の内側にある巨大なバレーのほぼまん中。4人のうちのぼくも含む3人はその場所を知らず、30代の1人も数年前に友だちに連れて行かれただけで記憶はあやふやだったが、不思議な山道を上り下りしつつ、四時間ほどかかって、午後2時頃にはなんとかその近くにたどりついた。そこはバレーを一望するポイントで、遠く前方には巨大な壁のように連山がどこまでもうねうねと連なり、まるでカリフォルニアのデスバレーの入口を思い出させてくれた。おそらく2月という冬だったために、青々とした緑に包まれるのとは異なる印象を与えていたのかもしれない。夏至の日に訪れるとまた異なる世界になっているのだろう。さらにそこから一時間ほど谷に降りていくと、その巨大なバレーのほぼまんなか、周辺をあたかも神々のゴルフコースのような景観がどこまでも取り囲んでいる。そのなかのひとつの山を登り、道の舗装が消えて、さらに15分ほどの所に、駐車場らしきスペースがあった。野焼きをされた山肌を歩いて15分ほど斜面を昇ると、感嘆すべき巨石群の存在するところにでる。どこからも遠いところにあるような印象を受ける山の頂で、太陽が西の連山に傾くまでぼくたちは数時間時間を止め、すべての雲を消し去って過ごした。風の音がときおりするぐらいで、ほぼ無音の世界だった。自分の内側をのぞきこみ、山々や大地に語りかける経験をするには、まさしくふさわしいヴィジョンが訪れる場所だった。正しい時と正しい場所で起こるべきことのすべてが起こったといっていい。いきなり九州という大きな島の官能的かつ妖艶な女神と出会ってしまったような気がした。数時間をそこで過ごし、まったく生まれかわったようになって、ぼくたちはまた四時間ほどひたすらプリウスで空間移動し、黒川温泉などいくつもの秘湯を脇目で見つつ、途中夜で人けのない梅の季節の大宰府にお詣りをすませて、九州自動車道でネオンまぶしい福岡市に帰り着き、みんなで川端うどんをすすってから握手をして別れ、ぼくはホテルのベッドにもぐりこんで、いくつも不思議な夢を見た。翌朝、目を覚ますと、空は曇り、やがて雨が降りはじめた。その雨が阿蘇の女神によってもたらされた祝福の雨であることを知っていたのは、おそらくぼくたち4人だけだったかもしれないが、この間に起こったことは、講演会に関係してくれたすべてのみなさんのおかげだったのだろう。何事もなかったかのように普通の一日がはじまり、ぼくはスカイマークのボーイングジェットに乗って空から東京羽田空港に帰り着いた。そして九州の大地がぼくのなかのなにかを変えたことを今ぼくは知っている。なぜならあの祝福の雨が追いかけてきたから。^^;

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Monday, February 16, 2009

北山耕平が出没する3月のトークイベントのおしらせ

pawpaw next 19日(木)春分前夜に仙台でライブトークがあります

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2月28日(土)に北山耕平のトークが東京であります

 最勝寺 at 平井 江戸川区 東京都

このイベントは3月中旬に上野水上音楽堂で開かれる「バカでもできるもん!環境作戦会議(通称:バカ環)」に賛同して、神戸のランドアンドライフとテックワ・イカチ・プロジェクトがおこなう『ホピの予言 2004年度版』リレー上映会&トーク&ライブ第1弾で、会場を提供いただいた江戸川区平井の最勝寺でおこなわれるものです。2月最終日のトークライブには、縁があって北山耕平が参加します。

 next バカでもできるもん!環境作戦会議」

『ホピの予言 2004年度版』リレー上映会&トーク&ライブ

 2月28日(土曜日)

 15:00 『ホピの予言 2004年度版』上映
 17:00 トーク
 19:00 交流会

【トークゲスト】 北山耕平(翻訳家・口演家) 坂田昌子(虔十の会代表)

※入場無料(ドネーション制)

ご寄付は「テックワ・イカチ〜大地と生命〜」の日本語版出版と、「バカ環」運営費用に充てられます。 2000円以上のご寄付は、テックワ・イカチ資料を2冊進呈。

【ご予約・お問合せ】
 Mail techquaikachiproject@gmail.com
 電話 080−6546−5422(みなと)
 ※ 定員50名で、要予約。

【会場】 天台宗 目黄不動 最勝寺
 ウェブサイト http://www.mekifudou.com/
 住所 江戸川区平井1-25-32
 電話 03−3681−7857
※ こちらのイベントに関するお問合せは、お控えいただくようお願いします。

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今週金曜日にはいにしへの倭国でメディスン・トークの時間を

漢倭奴国王印

いよいよ福岡のメディスン・トークが今週末になった。福岡へ行くのは十数年ぶりだろうか。過去に、雑誌の取材の仕事でアイガモ農法の開祖のひとりである古野隆雄さんにあいにうかがって以来のことである。日本が建国される以前に、韓半島の南と北九州にまたがるように「倭国」という独立した国があって、今の福岡のあるあたりはその国の一番の港であり、文化の中心にほど近いところだ。「日本以前」について考えたり話をしたりするのには、そこはうってつけの場所のひとつであるだろう。もう一度地球に直接触れるための風の道をたどる旅において、現代まで2000年以上続く「弥生時代」のはじまりにまでさかのぼるトリップはどうしても避けてとおれない。「日本」とはなにか? 「日本人」とはだれのことか? そこでしか見えないなにかに触れることができるだろうか? どういうスピリットたちとの出会いがあるのだろうか?
 I Will See You Soon!

arrowhead_small お知らせ◎九州でメディスン・トークの場をもちます

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Friday, February 13, 2009

岐阜県高山で見つかった7世紀の人骨に縄文人と渡来系混血の特徴があったそうだ

news中日新聞が「高山・三福寺古墳群から7世紀の人骨 縄文、渡来系混血の特徴」という白山泉記者の記事を掲載した。岐阜県高山市が、同市三福寺の古墳群で1988(昭和63)年に出土した7世紀の人骨を復元・鑑定した結果、これまで渡来系の特殊工人集団の人骨と考えられていたが、縄文系と渡来系の混血の特徴があることが分かったと発表したもの。縄文系と渡来系などという言い方を新聞もするようななったのですね。

復元したのは下あごのない1体と、完全形の1体で、いずれも40−60歳の男性。鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平たん−などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽ほお骨が角張っている▽みけんが出っ張っている−といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。

復元したのは下あごのない1体と、完全形の1体で、いずれも40−60歳の男性。鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平たん−などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽ほお骨が角張っている▽みけんが出っ張っている−といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。

Source : 高山・三福寺古墳群から7世紀の人骨 縄文、渡来系混血の特徴[中日新聞 2009年2月13日]

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Thursday, February 12, 2009

北海道の釧路川に野生のラッコが出現したという

北海道の釧路川に野生のラッコが姿を現したというニュースを読んだ。部分的に引用する。

北海道釧路市の中心部を流れる釧路川に11日、野生のラッコが姿を見せ、盛んに好物のツブ貝を食べている。

道内にラッコは生息しておらず、独立行政法人水産総合研究センターの服部薫研究員は「好奇心の強い若いラッコが北方4島方面から餌を求めて流れてきたのでは」。

Source : 釧路川に野生のラッコ出現、性別不明で名前どうなる?
(2009年2月12日02時44分 読売新聞)

ラッコについてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日本語版の「ラッコ」にはこう記されている個所がある。写真と図版は英語版のWikipediaから。

Sea-otter-map.jpgラッコ(猟虎、海獺、Enhydra lutris、英称:Sea otter)はネコ目(食肉目) イタチ科 カワウソ亜科に属する哺乳類の一種である。体長は55-130cm、体重も40kgを越すことがあり、イタチ科では最も大型の種である。千島列島、アラスカ、カリフォルニア州などの北太平洋沿岸に生息している。分布の北限は北極海の氷域であり、南限はカリフォルニアの「ジャイアントケルプ」の分布の南限と一致している。「ラッコ」の名はアイヌ語の "rakko" に由来する。

地図を見るとわかるように、ラッコの分布は実に興味深いことを伝えている。北部太平洋のなかの、ひとつの大きな文化圏と重なっていることに驚く。ネイティブ・ジャパニーズとネイティブ・アメリカンのある部分をつないでいるのが、この文化圏であり、そこに暮らす人々なのではないかと、ぼくは考えている。おそらく共通の信仰でつながっているはずだ。

ウィキペディアは「日本人とラッコの関係」について次のようにまとめている。

日本では平安時代には独犴の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴がラッコのことではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、気仙の海島に海獺が出るというものと、見たことがないというものとがあり、当時三陸海岸に希少ながら出没していた可能性がある。

かつて北海道の襟裳岬周辺などにはラッコが生息していたが、明治時代の乱獲によってほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法「臘虎膃肭獣猟獲取締法(明治四十五年四月二十二日法律第二十一号)」が施行されている。現在でも時折、千島列島などから来遊してくるラッコが北海道東岸で目撃されることがあるが、定着するまでには至っていない。2003年頃から襟裳岬近海に一匹定着しているがウニなどを大量に食すので漁業被害が問題になっている。

「ラッコ」というのはアイヌ語なのだね。アイヌとある部分共通する文化を持つ北西太平洋沿岸部のネイティブの人たちの所には、当然ながらたくさんラッコのお話が伝えられている。たとえばアレウト(アリュート)の人たちによれば——

昔、地球がまだ若かったころ、若く美しいひとりの娘がいた。娘には献身的な弟がひとり。ふたりは海のそばの村のはずれ、海を見おろす崖のすぐちかくで暮らしていた。その崖は北の鳥のスピリットの住まうところでもあった。そしてその北の鳥のスピリットの力は強力だった。

ある日、その鳥のスピリットが娘の前に現れた。スピリットは娘を妻にするために言葉巧みに巣へと連れ帰った。娘はどこにも逃げることができず、ひとりぼっちで恐怖におびえる日を送っていたが、ある晩、夜陰に乗じて娘の弟がやってきて彼女を救い出し、家に連れて帰った。

娘が姿を消したことでスピリットは怒りに怒った。北の鳥のスピリットがとてつもない地吹雪を作り出して娘の暮らす村の家々をことごとく破壊しつくそうとしたので、村人たちは恐怖に駆られて、姉と弟のふたりを嵐の中へ追放した。

姉と弟はなんとか隠れる場所を見つけようと海岸にむかったのだが、そこへ巨大な波が押し寄せてきて、一瞬のうちにふたりを海へと引きずり込んだ。海の女神がふたりを憐れむことがなければ、姉と弟のふたりはそのままおぼれ死んでいたにちがいない。

Sea_otter_cropped.jpg

女神はふたりを優雅な海の生きものに変えた。そして氷の海のなかでも寒くならないようにと、すべての動物のなかでも最も厚く暖かな毛皮をお与えになった。

こうしてラッコが誕生することになった。姉は東へと向かってそこでわれわれがラッコ一族として知っているクラン(氏族)を興した。弟は西へ向かいシベリアのラッコたちを率いることになった。

もしカヤックを漕いでいるときに、目の前にラッコが姿をあらわして、その愛くるしい輝く瞳で、お前の顔をのぞきこんで挨拶をしてくるようなことがあれば、それは厚い毛皮にくるまれた、海で暮らすお前の兄弟か姉妹のひとりだということを、覚えておくように。

——ということになる。言い伝えによれば、村を地吹雪から救うために人身御供とされたふたりが、ラッコになったのだ。今回、釧路川にやってきた好奇心の強い彼女か彼のラッコは、いったいなにを伝えにきたのだろうか?

釧路川に現れた愛くるしい --- というか、なにかを必死に訴えかけているような顔つきの --- ラッコの写真は、もとのニュース記事にあります。

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Tuesday, February 10, 2009

モーリー・ロバートソンさんのインタヴューを受けました

i-morley昨日満月の日の午後に、ラジオのパーソナリティー、DJ、ジャーナリストとして著名であり、インターネットでも自らの番組を配信するモーリー・ロバートソンさんのインタヴューを受けました。モーリーさんはまじめで、精力的で、正直が服を着ているような人で、偏見もなく、方針として意図的な編集はおこなわないということだったので、おかげで自由に知的な(反知性的な?)会話が弾み、世界を逆さまに見ることを学んできたぼくも、最後まで退屈することなく時を--二時間ほどを--過ごせました。このインタヴューはふたつに分かれていて、すでに昨夜のうちに「先住民の世界史(1)〜絨毯の表」「先住民の世界史(2)〜絨毯の裏」として、速攻で彼のサイトにおいてポッドキャストで配信されています。タイトルはモーリーさんがつけたものですが、「絨毯(カーペット)」とは、先住民たちの国の上に植民地主義者たちによって敷かれた国家という名の絨毯を意味します。インタヴューはその絨毯の下で息づいているもうひとつの世界から、ぼくがなにを学びつつあるかを中心にすすめられました(と思います\(^O^)/)。時間と根性があるときにでもお聞きください。

*おいおい、モーリーさんは冒頭でぼくが雑誌スペクテイターの編集をしていると話していますが、これは正しくありません。ぼくはその雑誌の編集に参加したいとは思っているけれど、若いスペクテイターのほうはそうは考えていないはず。(^^;)

**モーリーさんはすでにスペクテイターの編集についてのぼくの記述を訂正したバージョンを公開してくれています。[2月10日追記]

「i-morley」公式サイト

インタヴューの音声ファイルへのダイレクトリンク

先住民の世界史(1)〜絨毯の表

先住民の世界史(2)〜絨毯の裏

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Monday, February 09, 2009

セネカ一族の認識するライフ・サイクル

イロコイ6ヵ国連合のなかで最も西に位置する国がセネカの人たちの国である。この人たちは「石の人」と自らのことを名乗ってきた。この石の一族の人たちには独自のライフ・サイクルがある。彼らの人生観によれば、人の一生は4つの部分に分かれているとされる。

 誕生してから12歳まで
 12歳から24歳まで
 24歳から36歳まで
 36歳以上、死ぬまで

アナログの時計を考えてみるとわかりやすい。12時が頂点にあり、1時、2時、3時までが「0歳から12歳まで」にあたる。この年代は「学びの時」と認識され「自らの人生を発見するころ」と規定し、そのなかを「真実への感謝(12時)」「真実を学ぶ(1時)」「真実を讃える(2時)」「真実を受け入れる(3時)」にわけている。これが誕生してから12歳までに人がおこなうことである。

3時、4時、5時、6時までは「受容の時」と認識され「自らの考えを受け入れるころ」と規定し「真実を受け入れる(3時)」「真実を見る(4時)」「真実を聞く(5時)」「真実を話す(6時)」にわけている。これが12歳から24歳までに人がおこなうことである。

6時、7時、8時、9時までは「錬磨の時」と認識され「才能や考え方を磨くころ」と規定し「真実を話す(6時)」「真実を愛する(7時)」「真実に仕える(8時)」「真実を生きる(9時)」にわけている。これが24歳から36歳までに人がおこなうことである。

9時、10時、11時、そして一周する12時までは「知恵の時」と認識され「自らの経験や知識を用いて知恵を獲得するころ」と規定し「真実を生きる(9時)」「真実と共に働く(10時)」「真実の道を歩く(11時)」「真実への感謝(12時)」にわけている。これが36歳から命が尽きるまでに人がおこなうことである。

それぞれの段階に人がなすべきことを以下にまとめる。

  ┏━ 12 真実への感謝
  ┃
  ┃   1 真実を学ぶ
  ┃
  ┃   2 真実を讃える
  ┃
  ┣━  3 真実を受け入れる
  ┃
  ┃   4 真実を見る
  ┃
  ┃   5 真実を聞く
  ┃
  ┣━  6 真実を話す
  ┃
  ┃   7 真実を愛する
  ┃
  ┃   8 真実に仕える
  ┃
  ┣━  9 真実を生きる
  ┃
  ┃  10 真実と共に働く
  ┃
  ┃  11 真実の道を歩く
  ┃
  ┗━ 12 真実への感謝


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Friday, February 06, 2009

煙草から神聖さをとりあげたのは誰なのか?

日本たばこ産業(JT)が市販されているタバコの添加物リストを昨年ようやくすべて公開した。タバコを吸っている人は目の玉をぐりぐりさせてよく見てみることをおすすめする。もうやめたという人も一度自分が吸っていたものの中身を見ておくとよい。これを見てみると、市販のタバコが「純粋のタバコ」となにが違っているのかよくわかる。ここに挙げられている百種類を超える化学物質などは、意図的に吸う人をタバコ中毒にさせるために、そのことによってたばこ産業が巨額の利益を得るために加えられているものなのだ。

arrow2 紙巻たばこの製造工程において葉たばこに添加されている物質リスト

よくアメリカ・インディアンの話をすると、インディアンの人たちはみんな昔から煙草を吸っていたと思っている人がたくさんいるが、じつはそうではない。もちろん煙草は北米大陸原産で、数千年前から栽培されてきたものであるわけで、自分たちの育てた煙草の葉を自分たちで乾燥させて、それを薬草として利用する部族がないわけではないが、彼らはそれをあくまでも聖なる薬草(メディスン)と認識しており、ぼくが知るかぎり昔のネイティブの人たちが煙草を吸ったのはあくまでも癒しの儀式のためで、それはだいたい1ヶ月に一度あるかないかだったという。だから当然煙草は明確に意識に変化を与える効果を持っていたわけ。そしてそれはむさぼるように吸うことが目的であったわけではない。多くの場合は、創造主からの贈り物でありきわめて神聖なものと認識されていた煙草の葉は、これを細かくして大地にまいて浄化をしたり、あらゆるいのちを祝福するためのものとして、きめられた神聖なやり方で使われた。北カリフォルニアのカルクなどの部族では長老たちがなんとかタバコを大地を創造された偉大な存在にたいするささげもののための神聖な薬草として留めようと奮闘努力している。

kinnikinnick

また、いわゆるピースパイプとしてみんなで輪になってパイプを巡らしている光景をよく映画などで見るが、ラコタの人たちがピースパイプにつめてくゆらしていたもののほとんどは煙草ではなく、キニキニック(kinnikinnick)と呼ばれ、薬草を扱う専門の人によって何種類かの薬草[赤柳の皮、コケモモの葉、ラズベリーの葉]などが微妙にブレンドされたものである。そこに煙草がくわえられることもないではなかったが、それが必ず必要とされたわけではないことは覚えておくといい。

とにかく、煙草は数時間おきに吸うようなものではないことをこの機会に理解してほしいと思う。神聖なものに化学物質を混ぜ込むことによってその神聖さを取りあげている企業により、気がついたときにはいつのまにか中毒にされてしまって、ただなんとなくこれを吸っているのなら、それはまったくもって正しい煙草とのつきあい方ではない。

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Thursday, February 05, 2009

大麻については付け焼き刃でやけに詳しいくせに麻薬(薬物)の一種であるアルコールについての次のような薬理的認識の決定的な欠如がこの国の抱えるきわめて大きな問題

摂取すると突然に意識障害が現われて、急激な興奮、攻撃的態度となり、周囲の状況の認識を欠く状態となり完全健忘を認めることが多い。中枢神経抑制による陶酔作用との積極的快感と、身体的、精神的苦痛の軽減または消失による快適状態としての受身的快感。中断すると精神的に不快なイライラ感や欲求不満、不眠などの障害を認める。刺激性の亢進や運動亢進(じっとしておれない)、幻覚、妄想、手指および全身的振戦(ふるえ)けいれんなど振戦せん妄状態と呼ばれるような身体障害(離脱症状、禁断症状)を認める。中間代謝産物であるアセトアルデヒドは著明な交感神経様作用を示す物質で、カテコールアミン分泌(遊離)効果をもつとされている。過量の摂取により、代謝が不充分になってくると、生体内にアセトアルデヒドが過剰に産成蓄積される結果となる。この状態は生体にとって交感神経緊張状態(心身のストレス状態)となり、カテコールアミンの血中増加は精神的緊張や不安、抑うつ状態をひきおこす。情動的敏感、焦噪感(イライラ感)衝動性、気分易変、憤怒(おこりっぽさ)抑うつ気分、不眠。倫理道徳感減退、自己中心的、虚言、無責任、無関心、無頓着、感情爆発性、感情失禁、意欲低下、注意力低下、記憶障害、思考力低下、作業能率低下。急性に発症する意識混濁、幻視(小動物の群など)、幻触(蟻走感など)見当識障害、精神不安、興奮、不眠、全身的振戦、自律神経症状、発熱などを認め、症状は数日間持続する。飲酒量を減量したり断酒した場合の離脱症状(禁断症状)として発症することが多い。急性のせん妾、健忘症状、傾眠、昏睡に移行して、10日ないし2週間で死亡する例が多い。精神衰弱状態、記憶障害、判断力低下、知能低下が徐々に現われる。身体、精神に及ぼす影響については、いまなお充分に解明されたとは言えない。

*文中、「アルコール」という主語を省き、「飲酒」という言葉を「摂取」と置き換えたことをおことわりしておく。

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鈴木峻隆老師の話す英語はぼくにはまるでアメリカ・インディアンのエルダーの話す言葉のように聞こえるのだった

70年代の後半をぼくはアメリカで過ごした。その間、たくさんのアメリカにおける日本人の存在を知ったなかで、ぼくが多くの影響を受けた日本人の一人が「鈴木峻隆(Shunryu Suzuki)」という曹洞宗の禅の老師だった。71年に老師はすでにこの世の人ではなくなっていたが、老師の影響を受けたお弟子さんのような人が70年代のアメリカには数多くいた。そのなかには日本人もいたし、ノンジャパニーズもいた。鈴木峻隆老師はヒップな考え方や生き方を求める人たちの心のよりどころだったサンフランシスコ・禅センターの別院を興した偉大な人物で、おそろしくシンプルな英語を操って人々の心をひきつけ、今なおアメリカで出版された禅の本のなかでは老師の書かれた本がよく読まれている。アメリカで禅というと忘れられてはいけないのがもうひとりの老師である鈴木大拙という人物で、同じ鈴木でも日本国においては大拙先生の方がはるかに有名だが、彼は50年代後半のビート世代に大きな影響を与え、一方の峻隆老師は60年代後半の初期のヒッピー世代に多大な影響を及ぼした。良くアメリカ人からも鈴木大拙老師と間違えられることがあって、そういうとき彼は「No, he's the big Suzuki, I'm the little Suzuki.」と冗談のようにこたえていたという。今回、YouTube のなかで運命的に鈴木峻隆老師が話す動画2本と出会ったので紹介しておきたい。彼の話すような英語を、これからの若い世代も話せるようになるとよいと思う。動画の1本は「音と雑音」についての短い講話と、もう1本はサンフランシスコ禅センターの別院(というのかな)、カリフォルニアの山の中にあるタサハラ禅マウンテンセンターをつくった鈴木峻隆老師の人生の紹介と老師が死を迎える前におこなった講話(モノクロ)が写しだされている。禅はもとより日本だけのものではないわけで、カリフォルニアスタイルの禅のあり方というものも見ておいて損はないと思う。





Present! - Talks of Shunryu Suzuki Roshi
at Tassajara Zen Mountain Center

youtubeyoutube http://www.youtube.com/watch?v=w7umcFZEb7c


鈴木峻隆老師の言葉

start_quoteなにかを見るや否やあなたの頭は自分の見たものを分析しはじめている。そしてそうやって分析をしはじめた途端、すでにそれはあなたの見たものではなくなっている。end_quote.gif


start_quote厳密に言うならば、悟った人などは存在しない。あるのは悟るという行為だけだ。end_quote.gif


start_quote初心者の心の中には可能性がたくさんあるが、専門家の心の中にはそれがほとんどない。end_quote.gif

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百まで数えることを学ぶには オマハ一族の話

home_of_native_family

いていのネイティブ・アメリカンの社会にはいくつもの結社がある。それは部族全体に影響を与える組織で、オマハを代表する結社は白い貝殻結社と呼ばれ、一族の者たちから尊敬されるものだけが加盟を許された。そしてその若者はなんとかして一族の者から尊敬を得られる人間になって結社の一員になりたいと願っていた。

エルダーのひとりが青年にむかってこう言った。

「そのためにはな、お前は百まで数えることを学ばねばならない」

それを聞いて青年は思った。「なんだ、簡単じゃないか」


る日、薄汚れたひとりのホームレスの年寄りが町に入ってきた。老婆は見るからに痩せこけていた。町人のなかには彼女の姿を見ただけで追い立てるものもいた。冷たい眼差しで老婆の背中をにらみつけてなにごとかをつぶやくものもあった。

そうしたなか老婆に同情を寄せたのは例のエルダーだった。老人が声をかけた。

「そこのおばあさん、そう、あんただ。うちへ来て休んでいくといい」

彼はそういうと老婆の肩に手をかけてやさしく彼女を自らの家に案内した。

「さあさあ、どうぞ」

老人は老婆をキッチンに招き入れて椅子に腰掛けさせると、喉が渇いているだろうと水を入れたコップを差し出した。老婆はその水を飲み干してほっと一息ついた。それを見て彼は次に鍋からスープを皿に取ってそれを老婆に食べさせた。

それから老人は自分の妻と娘たちを呼び寄せた。

「このおばあさんに風呂を浴びさせてあげなさい。着替えには、先だってわしがギブ・アウェイのためにビーズ細工を施したバックスキンのドレスを着せてな。あとここにある新しいモカシンも履かせてあげておくれ」

娘たちは力をあわせて老婆に湯浴みをさせ、髪を洗い、櫛をあて、新しい服に着替えさせた。そしてそれが住むと、老人の家族は彼女を一家の住人として共に暮らすことを受け入れた。


れからしばらくしてからのことだった。

くだんの若者がその家の新しい住人となった年寄りのおばあさんを見つけた。

「あの人、ホームレスだった人だよね? 誰がこんなことをしたんだい?」

それを聞いてエルダーがこたえた。

「これが、ひとつだ」


このお話の別バージョン:

100まで数える (オマハに伝わる教えの物語)

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Wednesday, February 04, 2009

アイヌは縄文人の単純な子孫ではないという結論が

news北大総合博物館にある、オホーツク文化の遺跡で見つかった人骨78体を、増田隆一准教授(分子系統学)と大学院生の佐藤丈寛さんが調べ、その37体からDNAの抽出に成功したというニュース。

オホーツク文化はサハリン起源と考えられ、日本列島が古墳時代にあたる5世紀ごろ北海道に南下し、まず北部に広がり、次第に東部から千島列島まで展開するようになるが、10世紀ごろ忽然と姿を消してしまう。

今回ミトコンドリア遺伝子の塩基配列の特徴を分析した結果、オホーツク人は、今はサハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフの人たちに最も近く、同川の下流域に住むウリチと祖先を共有するという結論が出たと記事には書かれている。そして増田准教授らはそのオホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認したという。

「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」
今回の結果を受けて北大の天野哲也教授(考古学)の言葉

Source :

消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査[ asahi.com ニュース 2009年2月4日11時2分]

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なにかを知ることとはどういうことか?

start_quoteただ座ったままで真実について語るなどできるわけもない。物事はそのようにはできておらんのだ。お前は真実を生きなくてはならない。そして真実の一部になったとき、お前ははじめてそれを知る。end_quote.gif
—— ローリング・サンダー チェロキー

なにかを知りたくなったとき、インターネットの Google で検索したり、必要な本を探してそれを読んだりするのは誰もがしていることだろう。そして自分の気になった言葉やせりふをいくつかそこから拾い上げて記憶する。われわれはみな内側に一羽のフクロウを飼っている。フクロウは名前を「知」という。そしてそのフクロウがわれわれに話しかけてくるのだ。フクロウはわれわれを導き、われわれを育てる。われわれが情報を得たとしても、そうして得た情報の全部が全部、そのまま自分の生き方にできるわけではないのだが、しかし眼前に展開される情報を読んで覚えると、それについて語ることだけは誰にでもできてしまう。重要なのはそれについて語ることではなくて、それを生きること。道について語るのではなく、道を歩いていくことなのだ。自分がこの人生においてほんとうに自由になりたいと望むのなら、自分が人生において幸せになりたいと願うのなら、自分が人生において平和を求めるのなら、われわれが探し求めなくてはならないのは真実である。ほんとうのことが知りたくはないか?

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Monday, February 02, 2009

3月28日、土曜日、午後8時半から9時半まで Earth Hour 2009 にあなたも参加を

Earth Hour 2009これまでも「百万人のキャンドルナイト」など、地球環境を考え、意識を高めるるためのさまざまな試みがおこなわれていますが、オーストラリアのシドニーで暮らす人たちが一昨年の2007年からはじめた「地球のための1時間(Earth Hour)」が、今年も3月におこなわれるというニュースを伝えておきます。この日を予定表に書き込み、地球のことに関心のある友だちや、知りあいに伝えてください。

「地球のための1時間(Earth Hour)」とはわたしたち一人一人が地球規模の気候変動などにじゅうぶん関心を抱いていることを世界に知らせていくために自発的に電気のスイッチを切る示威行動で、今年はあなたがどこに暮らしていようが、地球時間の3月28日午後8時30分から9時30分までの一時間にわたっておこなわれます。


2009年3月28日、土曜日

8:30 − 9:30 pm


Earth Hour 2009


2007年の最初のアースアワーには、オーストラリアのシドニーだけで2百20万の家庭や会社や企業や役所が参加しました。1年後、昨年のアースアワーには世界370の都市で5000万ものグループが参加しました。今年2009年にはインドのWWF(世界自然保護基金)も参加して世界1000の都市で10億の過程企業自治体等の参加を目的に現在計画が進められていて、アースアワー2009実行委員会では、世界各地の各国の政府機関や、各市町村自治体や、コミュニティーや、企業、個人に引き続き参加を呼びかけています。

アースアワーとは、世界の人たちが自分の暮らしている土地の時間で、同じ日の午後8時半から9時半までの一時間だけ電気をすべて消すことを求めるもので、それは人々がほんの少し意識を地球のことに向けて行動をおこすだけで地球にとって好ましい大きな変化をもたらすことが出来ることを世界中で確認して希望に火を灯すためのものです。

個人で、会社で、組織で、地域で、市町村で、国で参加するようになると、3月28日は地球を廻るように電気を使わない時間が地球を一周することになります。変化は誰にでも起こすことが出来るのだということを確認するためにも、みんなで参加しましょう。電気のスイッチを意識的に切ればよいのです。

参加の意思表明やその他の詳細は以下まで。

reddot Earth Hour

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