アイラ・ヘイズ(左写真)というネィティブ・アメリカンの人を知っていますか? アリゾナの南に広がるソノーラという美しい沙漠をわが家と呼ぶいくつかのネイティブの部族のひとつアキメル・オーダム一族、英語でピマ族と呼ばれる一族に生まれた青年でした。じつは彼はもういません。今日は彼の命日です。1955年の今日1月24日に33歳であの世に旅だったのです。第二次世界大戦直後の1950年前後数年間のアメリカで、彼は最も有名なアメリカ・インディアンの1人であり、国家の英雄として祭り上げられていました。彼が有名になったのは、太平洋戦争における武勲でした。
硫黄島という激戦地のことをあなたがどのくらい知っているかわかりませんが、大日本帝国軍とアメリカ軍が想像を絶する壮絶な闘いをした太平洋上小笠原諸島の外れにある小さな島で、大日本帝国軍の守備隊はこの島で玉砕しました。そういえば数年前に映画にもなりましたね。日本語のウィキペディア(Wikipedia)「硫黄島の戦い」の項目の一部を引用します。
「硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20933名のうち20129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1023名であった。アメリカ軍は戦死6821名、戦傷21865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であり、また、上陸後わずか3日間にて当時のD−デイを含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回った。」
硫黄島の摺鉢山の上にアメリカの6人の海兵隊兵士たちが星条旗を掲げている有名な写真(上)が残されていて、このジョー・ローゼンタールという写真家が撮影した写真は、太平洋戦争を象徴する写真の1枚としておそらくあなたも知っていると思う。写真には4人の兵士しか写っていないかのように見えるが、写真をクリックすればわかるように、実はそこには6人の海兵隊員がいる。この6人のうち一番左側で旗をおさえているのが南アリゾナにあるギラ・インディアン居留地で生まれて育った心優しい普通の青年のアイラ・ハミルトン・ヘイズです。もちろん太平洋戦争で兵隊となったインディアンは彼ひとりではありません。インディアンの志願兵はいつの戦争でも激戦地に送られました。(ぼくも過去にナバホのリザベーションで硫黄島の戦闘に加わっていた人とあいました。日本軍の日章旗と武器をいくつか彼はまるで博物館のようにきれいに家のなかに飾っていました。ディネ(ナバホ)の彼は「日本兵はとても勇敢だったと」心からほめ讃えていました。)そしてアイラ・ヘイズ、彼はこの1枚の目に焼きつく写真のために「さすがは死を恐れないインディアンの戦士じゃないか」ということで一夜にして「偉大な海兵隊員」とアメリカの国民的英雄に祭りあげられます。インディアンでも戦争で立派な働きをすればアメリカ人として有名になれると、アメリカの軍隊は彼を宣伝に使ったのです。
その後の人生については、カントリーシンガーで自らもネイティブの血を引き継ぐのあのジョニー・キャッシュが思い入れをこめて歌った美しくて悲しい歌(作詞作曲 Peter LaFarge)があり、それがいくつも YouTube にあげられているので聞いてみてください。リザベーションなのかネイティブの年寄りを前にして歌っているものもあります。ちなみにぼくはというと、73年にリリースされたボブ・ディランの13枚目のアルバム(『ディラン』[Dylan])でカバーしたものを最初に70年代の後半に聞いて驚きました。オリジナルを作詞作曲したピーター・ラファージ(Peter Lafarge)とディランはディランも加わっていた60年代前半のニューヨークにおけるグリニッチ・ヴィレッジのフォークソング・ムーブメントの重要なメンバーのひとりで、才能のあるプロテストソングの歌い手であり画家でありましたし、彼自身ネイティブの血を引き継いでいますが、65年に34歳の若さで夭折しています。彼はディランに拳銃をプレゼントした人として知られていますが、ディランが70年代半ばにローリング・サンダー・レヴュー・ツアーに出る直接のきっかけを与えた存在だったかもしれません。寓話詩(バラッド)の歌詞は、小生がディランの歌った「バラッド・オブ・アイラ・ヘイズ - The Ballad of Ira Hayes 」から試みに翻訳したものを以下に掲載しておきます。これは残念ながら YouTube では聞けないようですが。
The Ballad of Ira Hayes
結局彼は、もてはやされたあげく、リザベーションでは誰にも相手にされなくなって、酒浸りとなり、やがてアメリカの社会からゴミのように捨てられてしまいます。1955年の1月24日、寒い朝、ギラ・インディアン居留地の彼の生家の近くの廃屋の脇を流れるドブのような川にうつぶせに倒れ、口から血を流して死んでいるアイラの死体が発見されました。前夜にインディアンの仲間たちと酒を飲みながらポーカーをして喧嘩となり、暴行を受けたあげく寒い野外に放置されたことが死んでしまった原因でした。硫黄島で共に旗を立てた同僚の白人兵によれば「いつの日にかインディアンが白人のようにアメリカ国内を自由に歩いてあちこちと旅出来るようになればいいと言う小さな夢」を抱いていた彼は、その夢を抱えたまま、32歳で生涯を終えました。
彼は今、バージニア州にあり、アメリカ軍が管理するアーリントン国立墓地で、ひとりのアメリカ人海兵隊員として眠っています。
バラッド・オブ・アイラ・ヘイズ by ボブ・ディラン
Bob Dylan The Ballad of Ira Hayes
お集まりのみなさんにわたしがひとつお話しを聞かせましょう
ひとりの勇敢なインディアンの若者のお話です
どうかその青年のことを忘れないようにしてください
青年はピマ族の出身 ピマと言えば誇り高き平和の一族
千年も前からアリゾナはフェニックス渓谷の土地を耕し
灌漑のための用水を設けて あふれる泉の水を流してきたけれど
それも白人たちが水利権を奪い取って 水を独り占めにするまでのこと
アイラの一族は腹をすかせ 畑には雑草しか育たなくなった
ところが戦争がはじまって 彼は志願兵となり
白人の欲のなか 忘れ去られた
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
彼は仲間と共に硫黄島の山を登りはじめた
仲間は最初250人
だが生きて山を下りてきたのはわずかに27名の兵士のみ
戦いが止んで 山の頂に星条旗がたてられた
その星条旗をたてた兵士のひとり
それがインディアンのアイラ・ヘイズ
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
アイラは英雄として帰還した 国中がみんな誉め讃えた
ワインをふるまわれ スピーチを求められ ほめそやされ
顔を合わせる人全員が握手を求めてきた
だが アイラはただのピマ族のインディアン
金になる作物があるわけでなく チャンスもなかった
故郷に戻れば誰も彼の武勲などに鼻もひっかけず
ただ風がインディアンダンスを踊るだけ
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
やがてアイラはまた酒浸りに
そして牢屋は彼の家がわりに
あそこではたてさせてもらえた旗を
まるで犬の食べてる骨を遠くに投げ捨てるように引き下ろす
ある朝彼は酔っぱらったまま死んでいた
命をかけて彼が守った国でひとりぼっち
5センチほどの水が流れているだけのただのどぶ川
そこがアイラ・ヘイズの墓場だった
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
そうさ「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼べばいい
彼の故郷では今だに酒は禁制品
あのどぶ川には彼の幽霊が喉を渇かして横たわる
「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
そうさ「酔いどれのアイラ・ヘイズ」と呼んでも 彼はもう返事はしない
ウイスキーで酔っぱらってるインディアンとしてでなく
あるいは戦争をしにいった海兵隊員としてでもなく
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