8世紀(1300年前)ごろ、大和朝廷による東部の開拓が着々と進みフロンティアが北上する本州島東北部に、竪穴住居が400軒以上も建ち並ぶ開拓者と征服者たちのブームタウンが存在か
東北最大級の集落か 400超す竪穴住居跡 仙台
河北新報 2008年07月31日木曜日仙台市太白区のJR長町駅東側で整備が進む「あすと長町」地区は1300年前、竪穴住居が400軒以上ある大集落だったことが30日、仙台市教委の「長町駅東遺跡」発掘調査で分かった。7—8世紀の竪穴住居の集落としては、東北最大級とみられる。
地区東側の国史跡、郡山遺跡で見つかった官衙(かんが、役所)の造営にかかわる人や、役人の集落とみられる。
2008年度調査の対象は、長町駅から太子堂駅の東側約5100平方メートル。遺跡の北東に長さ40メートル、幅2—3メートル、深さ1.5—2メートルの溝の跡を発見した。南には川が流れていた跡を見つけた。溝と川はほぼ平行で、約200メートル離れている。集落を守る機能があったという。
今回の調査で見つかった住居跡は50軒。1998年度からの調査で発掘した分を含めると、300軒以上に上る。集落ができた時期は、7世紀前半から8世紀初めとみられる。
あすと長町地区ではほかにも、郡山遺跡の一部と、長町駅東遺跡北東側の西台畑遺跡の一部で計170軒の竪穴住居跡を発掘した。地区全体で発掘された住居跡は400軒以上になる。
市教委文化財課は「役所関係者の集落で、計画的につくられたようだ。これからも発掘を続けるので、集落の規模は大きくなる可能性がある」と話している。
8世紀には現在の仙台に大和朝廷の出先機関というか「砦」があり、蝦夷との北方物産交易などもかねた相当なブームタウンができていたということかな。あるいは東部開拓にともなう蝦夷掃討作戦を展開する兵士たちの住居用か。竪穴住居は、簡単に作れて便利だったのだろうね。
ちなみにどういう時代だったのかの雰囲気をつかむために、小生の本「Native Time」(地湧社刊)から「724 年」のところを以下に引用しておく。[なおここに引用するのは Native Time の Version 4 デジタル版のもの]
724女帝が退位してその皇子が天皇になった。犯罪人を島流しにする場合の、配流地の遠近の規定を改訂し、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の六国は遠とされて、諏訪・伊予は中に、越前・安芸は近とされた。本州島東北部、陸奥の海道(太平洋沿岸)の蝦夷がはげしい戦いを起こして、帰降した蝦夷【2字ルビ・えみし】で天皇の親衛隊として登用されていた佐伯児屋麻呂【6字ルビ・さえきこやまろ】が殺された。藤原宇合【2字ルビ・うまかい】(不比等の三男)が持節大将軍に、高橋安麻呂が副将軍に任命され派遣された。七道の諸国に数を決めて軍器と幕と釜などを造らせた。坂東九国の軍三万人に乗馬と射術の訓練をさせるなど特別軍事教練がおこなわれた。陸奥鎮所に軍事用品としての布や綿などが運びこまれた。さらに出羽国の蝦夷が蜂起したので、小野牛養【4字ルビ・おののうしかい】が鎮狄将軍に任じられて鎮圧に出向いた。陸奥国から宮城郡が分権され、対蝦夷戦争の前線の要塞となる鎮守府を置くための多賀城が築かれはじめた。この年の太政官の奏上に「大昔は人間が淳朴で、冬は土中に居室を作り、夏は樹上をすみかとしました」とある。陸奥国の鎮守軍の屯田兵たちを陸奥国の住人として戸籍に入れ、家族を呼び寄せることも認められた。
Source : 東北最大級の集落か 400超す竪穴住居跡 仙台
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