『雲のごとくリアルに』(北山耕平著)が本日発売されるので、そのまえがき全文を掲載
『雲のごとくリアルに −− 長い距離を旅して遠くまで行ってきたある編集者のオデッセイ 青雲編』(ブルース・インターアクションズ刊)が本日発売される。ブルース・インターアクションズ社のサイトには『ビート・ジェネレーション ジャック・ケルアックと旅するニューヨーク』(ビル・モーガン 著 今井栄一 訳)という本と同時発売というお知らせが掲載され、日本のアマゾンでも数日前から予約は可能になっていた。売文の徒にとって、本が形になるのは無上の喜びではあるが、とはいえ印刷される部数の関係で、すべての書店で並べられるとは限らないから、興味のあるかたは、そんなことで書店に文句を言う前に、こういう本を扱ってくれるニュータイプの書店にさっさと行くか、通販書店でご購入ください。:-)
これは、インターネットがまだ想像の範囲にとどまっていた頃、運命的に昭和の御世の帝都 TOKYOで「若者雑誌編集者」という職業に就くことになってしまった有機ワードプロセッサーであるぼくが70年代の前半に目にすることになったイノセントな時代の、若者がかろうじて汚れなき夢を持つことができたおそらく最後の時代の、紙の雑誌の文化が落日の夕日のなかで一瞬きらめくことになる前夜の有様を描いたノンフィクション・ノベル(?)。ここに託されたメッセージがそれを必用としている人たちの手に届き、必用としない人たちの目に触れないことを切に祈るものである。以下はそのまえがきの全文。
ほんとうのことを伝える文体(スタイル)が必要だった
長いこと活字の世界を生きてきた。活版印刷の時代が終わる直前に活字の世界に飛び込み、原稿用紙の四角い桝をひとつひとつ手書きの文字で埋めていく作業をあたりまえのように受け入れた昔から、輪転機とインクの香り漂う写植オフセット印刷の時代を経て、デスクトップ・パブリッシングを可能にするパーソナル・コンピュータのワードプロセッサーという道具で個人が活字を自在に操れるようになって、インターネットの網の上でブログの時代がはじまる以前から、活字で自己表現をすることをぼくは生業としてきた。
活字は今もかわることなくぼくを世界とつなげる媒介の働きをしてくれている。音楽少年にとってエレキギターが武器であったように、コンピュータ(とその機能の一部であるワードプロセッサー)は(かつて活字少年だった)ぼくにとっては自己を解放するための武器であり続けている。自分には伝えなくてはならないことがあると、いつのころからか信じ、口から耳へと声で伝えることの大切さに気がついた今でも、映像の力を教えられた今でも、それでも活字をぼくは必要としている。自分がどのようにして活字の世界のなかに足を踏み入れ、その世界のなかで生き延びる方法を獲得してきたのかについて、なんとか次世代に伝えたいものだとかねがね考えてきた。
文字はもともとはそれを読む人間を支配するための道具として発明されたとぼくは考えている。グーテンベルグが活版印刷を発明して以来、これ見よがしに活字にされた文字は、紙に話をさせて人を操るための道具として使われてきた。二十世紀後半に活版印刷の時代が終焉を迎え、タイプライターによって、あるいはパーソナルコンピュータによって活字が個人に解放されると、印刷機から解放された活字の不思議な力もまた特別な人たちのものからすべての人のものへとゆるりと転換された。
気がつけば誰もが活字を自己表現の媒介として使えるようになった時代をぼくたちは生きている。手書きの文字が力を得る反面、活字は解放に向かう途上にある。ぼくたちは活字との新しいつきあい方を求められはじめた時代を生きつつある。パーソナルなメディアの時代をだ。そうした時代に活字の世界に求められるのは、活字を操る能力と、活字によって表現されたもの全体を再構成していく編集の能力であることは間違いない。メジャーな古いタイプの雑誌が、大物作家と著名人の名前が目次に並べられた雑誌が、インターネットの時代に押されるように衰退していく直前、パーソナルなメディアを予見させるようにさまざまな「若い雑誌」がいくつか花を咲かせた七十年代に、時代の子としてのぼくは結果的に等身大のメディアを作る作業に悪戦苦闘しつつ没頭していた。
世界が大きな変化にのまれつつあった時代、活字が解放されて個人のものとして利用できるようになる少し前の時代、新しい意識の波に乗り自分たちの世代のことを自分たちの言葉で語る最初のメディアを模索しはじめたぼくたちがどのようにして時代の波に危ういバランスで乗っていたのかを、インターネットで自己表現が解放されて以後を生きる君に話しておきたいと思った。そしてそうした自分のことを語るのにもっとふさわしいスタイルで書こうと考えた。ぼくはこの「雲のごとくリアルに」を「自然発生的散文」と個人的に分類している。別の言葉でいえば、その時の意識の流れにできるだけ正直に逆らわないようにして、一度書くべきことが決まったら句読点や文の切れ目などに気をとられずに一気に書けるだけ書いて言葉を積み上げていく「無作為の散文」というスタイルで、このさながらジャズやロックのインプロビゼーションように現実を取り込む正直な文章のスタイルを創り出したのは、記憶に間違えがなければかのジャック・ケルアックである。
アメリカの七十年代の友人のひとりが「書くことは宇宙とファックすることだ」とぼくに言ったことがある。自然発生的な、書きはじめたら成りゆきに逆らわない散文とは、まさしくそれではないかと思っている。この文章のスタイルはじきにニュージャーナリズムを生み、ゲイ・タリーズ、トム・ウルフ、ハンター・S・トンプソン、ノーマン・メイラーらのジャーナリストや作家らによってノンフィクションと小説の壁に穴があけられ、そこからあふれ出した言葉のスタイルが時をおかずして若き報告者たちによって、リアルなもののあふれる現場に持ち出されて、アメリカではやがてローリング・ストーン誌など新時代の雑誌のライティング・スタイルへと結晶化していく。活字の世界で生きるようになって以来、書くことの快感に引きずられるように、ぼくはさまざまな雑誌メディアで、広告という危険な匂いのするところには用心深く立ち入らないようにしつつ、自分たちの世代の言葉を語る文体を模索してきた。書く人間の意識がどのように文体に載って活字の並びを通して読む人間の頭や心に届いていくのかを、たとえば「自由」や「差別」についてを政治的な文脈ではなく詩のように伝えられる文体を探してきた。
二十一世紀になって、再び自分たちの言葉で話そうとするフリーペーパーやインディーズ・パブリッシングやファンジンといったニュータイプの既成概念に囚われない媒体の萌芽も見られる。活字の持つ力を信じる新しい世代が生まれつつあるような印象も受ける。なによりもまず、その世界で生きようとするものは伝えるべきものを獲得し、それを表現する自分たちの、時代を切り開いていくための意識の乗り物としての文体を作りあげなくてはならない。そして時代の息吹を—「今」と「ここ」とを—胸いっぱいに吸い込んでおもいきりハイになり、自分たちが没入できる媒体を誕生させ、そのなかを意識の流れにしたがってキーボードからあふれ出す活字で満たしてやる必要がある。
七十年代というイノセントな時代にぼくたちが産み出そうとしたものが、欲に目をくらませた薄汚れた大人たちの手でゆっくりとその向かう方向を変えられてしまったことは否定できない。しかしそれでもなにかが残された。感性に正直になって自分たちにとってほんとうだと思えることを活字に託して伝える若者らしい行為が、結果としてゴミではないなにかを残すことを、ぼくは信じる。自分たちが自由になるための道具としてデジタルな活字たちを使う日のために、あの時代というものをぼくの頭がどのように感じ取っていたのかを正直な意識の流れで話すことは、けして無駄ではないことのように思える。いくら映像が主流の時代となり、映像しか見ない人たちが増えたとしても、ハートからあふれ出す言葉で自分たちを自由にできなければ、時代を変えることなどできるわけがないのだから。キーボードを叩け。そしてあふれ出す活字で時代を編集してみせてほしい。
ぼくはいまだに正直なメディアの登場を夢見ている。
雲のごとくリアルに
長い距離を旅して遠くまで行ってきた
ある編集者のオデッセイ 青雲編著者: 北山耕平
ブックデザイン: 加藤雄一
価格: ¥ 1,680 (税込)
出版社: ブルース・インターアクションズ
ハードカバー: 200ページ
ISBN-10: 486020266X
ISBN-13: 978-4860202668
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