どのように生きたかが、どのように死ぬかを決める
「団塊パンチ」(飛鳥新社刊)という雑誌から「サクセスフルエイジング」の特集をするので「生き方と死に方」についての3つの質問にたいするアンケートを求めるメールが送られてきたのはひと月程前のことだった。そのアンケートになにを書いたのは、今となつてはもうあまりよく覚えていないので、3月18日に雑誌の4月号が書店に並んだ時にでも読んでほしい。「サクセスフルエイジング」がなにを意味するのかぼくには良く理解できなかったがそれが「自分が望んだとおりの年齢の取り方」のことであることぐらいは推測ができた。
これまでぼくは生きることに夢中で自分の死に方について考えたことがあまりなかったのだが、どのように生きるかは、最終的にどのようにして死ぬかということであると、ずいぶん昔に聞かされた覚えがある。かつてこのブログでも「戦士として生きるとはどういうことか?」というアーティクルのなかで、テクムシェという偉大な戦士の「死にたいする恐怖を、けして自分の心に入らせないようにして、生きるべし」という言葉を紹介した。
一時ぼくがアメリカ南西部の沙漠を旅していたころの愛読書だったカスタネダの書いた一連の「ドン・ファンの物語」に登場するファン・マテウスという呪術師は「死はどこにでもある」といっていた。死は遠くにあるものではなく、恐れようが恐れまいが、つねに自分の近くにいて、一緒に旅をしていると。二十代、三十代、四十代と、いつ死んでもいいやと思えたことも何回かあったが、そのつどぼくは生き延びることを選択して今日に至る。地球に生まれてきた人間はこの地球でやるべきことをすべてやり終えるまでは地球の旅を終えることができないと、ローリング・サンダーというエルダーに言われたことがあるからだ。やらなくてはならないことをやり残すとまたこの地球に戻らなくてはならないらしい。それもつらいよな。やるべきことを全部やり終えると人間の体を脱ぎ捨ててスピリットの世界に帰れるのだ。人間のサイドから見るとそれは死なのだろうが、スピリットにとっては世界が変わるだけのことにすぎない。ネイティブのエルダーたちが昔からずっと「スピリットに死はない」と言い続けているのにはきっと理由があるのだろうとぼくは考えている。ラコタの偉大なメディスンマンだった先代のレイム・デイアー(ジョン・ファイアー)翁(写真)は、亡くなる時に息子のアーチー・ファイアー・レイム・ディアーにつぎのように語り残していた。
みんなには泣かないように伝えてほしい。悲しむ必要はないと。わしらのエルダーたちは世界がふたつあることを知っている。形のある世界と、スピリットの世界のふたつだ。わしらがスピリットの世界に渡る前に、それこそ何度も、わしらの知人や親戚がわしらよりもまえにあちらの世界に入っていっている。その人たちが出迎えに来て、力を貸してくれるだろう。スピリットの世界は、エルダーたちにいわせれば、たいそう良いところだそうで、みんなハッピーで、調和がとれていると聞いた。われわれにとって死ぬことは、別の世界に入る程度の意味しかない。われわれはまたそこで、みんなともう一度会うことができるのだ。
ジョン・ファイアー・レイム・デイアー、ラコタ
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Comments
はじめまして
私がまだ6歳だった時に祖母が亡くなり、周りの大人たちが涙を流しているのを不思議に思って見ていたことを思い出しました。
あの時の私は確かに「死は悲しむべきものじゃない」と思っていたのです。
でも、大人になった今では大切な人との別れの時には思いっきり泣きます。きっと、その時繋がれていたエネルギーを解放するために必要だからなのでしょう・・・。
こうしてここに書かせていただくことも、心の解放になるのではと思い、勇気を出してコメントしました。
ありがとうございます。
Posted by: 湖翠 | Sunday, March 09, 2008 08:24 AM