あえて「スピリットは売り物ではない」とこのあたりで言っておこう
最近は mixi を見るたびに憂鬱になる。mixi がおこなった外装の化粧直しもその理由のひとつなのだが、じつはそれはぼくにとっては大きな問題ではない。もともとそれほど熱心にかかわりを持ってきたわけではないし。
憂鬱の種は、mixi にいくと「アメリカ・インディアン」関係の会議室のトピックのタイトルが目に飛び込んでくるからだ。自分のブログのアクセス解析の過程で、いきなり mixi の会議室に連れて行かれることもあり、そういうときはなるべくそのコミュニティーに参加する手続きをしてきた。今を生きるネイティブ・アメリカンのことを日本の若い世代に伝えようと考えてアメリカより帰国し、本を書いたりしはじめたのが1980年代の初めだったから、それ以後今日までに育ってきた人たちの発言にはそれなりに興味も関心もある。自分が彼らになにを伝えてきたのかを確認する意味でも、その世代の声を聞くことは重要な気がしてきた。ブログをはじめた理由のひとつもそこにある。
20年前に比べたらずいぶんネイティブ・アメリカンに対する関心も高まり知識も増えた。ぼくなんかより特定の部族についての知識を持つ人も今では少なくない。書物も、情報もたくさんある。ある意味で自分が望み夢見たように、関心も高まっているし、情報を受けとめて育ってきた彼らの見方にも大きな変化が見られる。昔からインディアンに対する関心の持ち方にはいくつかのタイプがあった。アウトドアライフやサバイバル・テクニークの延長から興味を持ってくる人、過酷な歴史を生き延びる少数民族として関心を持つ人、彼らが残したシンプルで力強い言葉に惹かれる人、そのプリミティブな社会構造に関心を持つ人、精神性の高さに惹かれる人などなど。
これまでぼくは一貫して「日本列島で日本人をやらされているわれわれがネイティブ・アメリカンになる必要は少しもないこと」を伝えようとしてきた。自分のなかで眠り込まされている「ネイティブ・ピープル」の部分の目を覚まさせるだけでよいのだと。そうすれば「日本人という目に見えない牢獄」から解き放たれて世界のネイティブ・ピープルから学べることはたくさんあるのだと。
最近気になっていることは、そうしたネイティブの人たちについて、現代日本人をやっている若い好奇心旺盛な世代の発言のなかに、「自分は心がインディアンだ」とか「前世がインディアンだった」とかいう言葉が目立ちはじめていることがある。それらはまったく、ぼくが70年代末から80年代にアメリカのヤッピーたちのあいだでよく聞いたようなせりふなのだ。ぼくはその人の前世がなにであるのかにあまり関心を持たない。人間が今の地球に生まれてきたのは、やるべきことをやらされるためであると信じてはいるけれど。そして、いやしかし、こういう、ある意味で偏った、インディアンにたいする過度なあこがれに満ちた発言の多くは、ネイティブ・アメリカンの精神性だけにしか関心を持たない人たちの登場を示している。これは危険な徴候であるようにぼくには思える。
憂鬱になるのには、そうした精神性にこだわる発言が目立つようになったのにつれて、このところにわかに「ネイティブ・アメリカンの儀式やセレモニーを売り物にする広告」もしくは「来日するネイティブのメディスンマンやシャーマンが個人的なヒーリングをおこなったりカウンセリングをしたりするお知らせ」「〇〇族のエルダーが来日」などという記事が目立つようになってきたことがある。「個人セッション 4万円、メディスン・ヒーリング 5万円」などというものまであった。
ぼくはこれまでもしばしばそうしたイベントに行こうかと思うのだがという相談を受けた。スエットロッジの儀式で数万円というものもあった。いわゆるスビリチュアル・コンベンションに集うようなニューエイジな人たちが、このての話題に群がるのを多く目撃してきた。実際にアメリカにいき、アリゾナのセドナなどでそうした儀式に参加したという人たちとも多くであった。もちろん話題としてどうということなくスルーできるものもたくさんあるのだが、このところ度を超したものも散見するようになってきた。どうしてもここらでひとつ書いておかなくてはならない。それがまた自分には憂鬱なのだ。
ネイティブ・アメリカン・スピリチュアリティーなるものがアメリカの人びとの口にのぼるようになったのは80年代のことである。「インディアンであること」が70年代の価値転換運動の結果「ひとつの価値」とみなされるようになったために、当時のネイティブのエルダーたちにいわせれば「無知(イノセント)で愚か(フール)」な、瞬時の癒し(インスタント・ヒーリング)を求める白人を相手にした「ネイティブ・ウィズダム・ビジネス」「メディスンマン・ビジネス」「インディアン・ヒーリング・ビジネス」がまんえんしはじめた。プラスティックなメディスンマンたちや、自らを精神的指導者と名のり人びとや追従者を集める人たちが増加するようになると、ぼくが知るかぎり、当時まだ健在だった伝統派インディアンのエルダーたちはそうした傾向、スピリットを売り物にすることに対して警鐘を鳴らし続けた。
たとえば、アメリカ大陸北西部太平洋沿岸の先住民の部族であるテュラリップ・ネーションで、漁業権問題で長いことアメリカ政府と戦い続けたジャネット・マクラウドというエルダーの女性はその当時こういっていた。
白人たちはやって来るとすぐにわたしたちから湖や川や水をとりあげた。そしてつぎは湖や川で穫れる魚たちをとりあげた。さらにその後にはわたしたちの土地の鉱物資源をほしがり、それをとりあげ、わたしたちの自治をとりあげた。最近では宗教をとりあげたがっている。そんなときいきなり、わたしたちのまわりを恥知らずな馬鹿者たちが自分たちはメディスンピープルだなどと口走りながら走りまわりはじめた。この連中はスエット・ロッジの儀式をあなたがたに50ドルで売り渡したりするでしょう。それは正しいことではないだけでなく、反吐が出るほど腹立たしいことでもあるのです。そもそもインディアンは、自分の精神性を誰かに売り渡したりはしないもの。相手が誰であれ、また値段がいくらであれ、そんなことはしません。精神性をお金に替えることは、インディアンの人たちからなにもかも奪い去るという長い泥棒の歴史のひとこまにすぎませんが、しかし泥棒の歴史のなかでも最悪なものです
こうしたエルダーたちからの抗議や声が高まると、にわか仕立てのメディスンマンやメディスンウーマンは、ターゲットをまずはヨーロッパに定めた。90年代のヨーロッパで最もホットな話題のひとつがネイティブ・アメリカン・スピリチュアリティーであり、ドイツやフランスや北欧の国々にそうしたユダヤ人でありながら書物や映画やセミナーで学んでメディスンマンとなり儀式をお金に替える人たちや、ビジネスマインドを獲得したネイティブ・ピープルのなかからも金儲けに走った人たちや、ただの女好きで女性に貢がせるのを目的とした急場仕込みのネイティブ・シャーマンと名乗る詐欺まがいの連中がなだれ込むことになった。
ヨーロッパではその後20年くらいかかって啓蒙運動が進み、聖なるものを売り買いすることに対してネイティブの人たちの抱えている怒りや悲しみを学ぼうとする人たちも増えつつあると聞いた。そのひとつの成果として、今年の秋『売り物にされたスピリット(Spirits for Sale)』というタイトルのドキュメンタリー映画がスエーデンで公開される。その紹介のコピーには次のように書かれている。
ヨーロッパにおけるネイティブ・アメリカンやネイティブ・カナディアンに関する情報の多くはしばしばファンタジー(空想)と嘘で満ちあふれています。一般の人たちは、アメリカ大陸先住民のほとんど知らず、知っていることは西部劇映画やスポーツ競技のマスコットなどからつくられたステレオタイプな知識がもとになっています。「インディアンなどもはや存在しない」と信じている人たちですらいたりします。と同時に、ヨーロッパではいわゆる「ネイティブ・アメリカン・スビリチュアリティー」にたいする興味の高まりを見てとることができます。聖なるさまざまなものを用いた儀式やセレモニーがウエブサイトやフリーペーパーなどで値段をつけて売られています。誰もが週末の講座を受ければ「インディアンのシャーマン」や「メディスンピープル」になれるようなことを謳うカルトまがいのものや組織まであります。情報があまりに乏しいために、ほんとうの先住民の人たちの声はほとんど、あるいはまったくといっていいほど伝わっては来ません。そうした売り物にされる儀式のほとんどは平原インディアンと呼ばれる人たちのものであり、詐欺師まがいの人たちは情報がないことをいいことに彼らの精神性をもてあそび相当な額のお金を稼ぎ出しているのです。
Spirits for Sale
ネイティブ・アメリカンの精神性をお金に替えることでおいしい目を見たプラスティック・メディスン・ピープルたちが、ここへきてターゲットを「イノセントで愚かな」中産階級の日本に絞ったのではないかと思われることをしばしば目撃したり耳にしたりするようになったことは、ぼくには見過ごすことができない問題でもある。少なくともぼくが80年代の前半にアメリカで出会い、教えを乞うた、その生涯をメディスンマンとして生き抜いてスピリットの世界に旅立たれた人の誰もが、教えを求めたぼくにお金を払うように求めてきたことはただの一度もない。彼らは、スピリットに値札をつけたとたんに、精神世界は物質世界へと転換し、目に見えないで存在していた世界は崩壊することを知る人たちだった。
日本国は「すべてのものに値札をつける」ことを文字に書かれた歴史がはじまったときから推し進めてきたために、聖なる穀物を捨ててお金としての稲作を選んだその帰結として、今では「一切の聖なるものが失われ」てしまっている。このあたりのことは『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版)という本に書いたので詳しくはそちらをお読みいただきたい。そうした日本という牢屋のなかで「あらゆるものに値札をつけることに麻痺した人たち」は「ネイティブ・アメリカンの精神性」に対して値段をつけることだっておそらく平気でおこなえるのかもしれない。だが、なんの偶然なのか「まったくお金というものが存在しない世界」の片鱗を半ば強制的に垣間見せられたもののひとりとして、お金の必要ない世界を夢見るもののひとりとして、それでもぼくは「ネイティブ・ピープルのスピリットは売り物ではない」と言わせてもらう。
この世界を創られた存在は今なにが起こっていて、なにが正しいことで、なにがリアルなのかをわかっておられる。そうした「シャーマンたち」はほんとうの自分以外のものになりすまそうとしているのかもしれないが、この連中も、創造主の前ではふりをつづけることなどできない。マシュー・キング オグララ・ラコタのエルダー 1980年
インディアンの精神性を売り物にする人たちに尋ねるべき4つの質問1) いかなる国、部族を、その人物は代表しているか?
2) 氏族(クラン)あるいは結社(ソサエティ)はなにか?
3) 誰の指導のもと、どこで学ばれたか?
4) 現在の住所はどこか?
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Comments
お金の必要ない世界を夢見つつ、その夢を継続させていくためには(つまり現状の世界の中で生き延びるためには)、多かれ少なかれお金が必要になってしまいます。僕もこのジレンマの中で毎日のように悩んでいるのですが、どこに一線を設けるかは人それぞれ。皆同じように、というのは無理があると思います。僕としては、どれだけその人が金儲けに走ろうともその心の中には必ず聖なるものを抱えていると信じて、あとはもうそれこそ祈るのみです。
むやみに他人のものをほしがる人々、あるいはお金で解決しようとする人々って、ある意味可哀想な人たちなんですね。普段お金や低い欲望にまみれているような人でも、何かふとしたきっかけで救われるような経験をしたときの表情を見たら、みんな同じなんだなと思ってしまいます。
ところで、フラの世界でも同じことが起きていますよね。日本人が自分のハラウ(教室)を持ってクム(先生)としてハワイアン・ネームを名乗るとき、そのネームに対していくらかのお金を請求されるらしいです。今や日本のフラ人口がハワイの総人口を上回っているそうですから、この世界にしても、日本人が持ち込むお金によって支えられている部分は無視できないのではないでしょうか。
ただどんなにお金というものーーあるいは「お金」という形をとって表出している、人間が生まれながらに持つ資質ーーが蔓延しても、その核になる部分、聖なるものに対しての認識は保ち続けていきたいものです。
Posted by: がんちゃん | Wednesday, October 10, 2007 05:59 PM
北山さん、こんばんは。
ほんとうは、すべてのものは売り物ではないのだと思います。売るということ、買うということが、道を踏み外す危険な行為なのでしょう。
一方で、与えること、交換すること、(お礼として)かえすこと、など、道に沿った行為もあります。
行為にどのような意味を見出しているのか、どのような意味で行為があらわれるのかが、大切なのだと思います。
「売り買い」するものは精神的な(神聖な)ものではない。
現代の人間にとって売り買いとはなんなのか、記事を拝読してもっともっと考えていかねばならないと感じました。
手にするすべてのものは神聖な恵み、その縁ある過去と未来の流れの先を感じながら、よき道を歩むちからとして使わせていただきたいと思います。(なので、貨幣というものは恐ろしくて、できる限り使わないでゆきたいです。)
Posted by: 大口のま | Wednesday, October 10, 2007 10:09 PM
じつはぼくがこの記事のなかでほんとうに言いたかったことは、自らをメディスンマンと称して法外な金額を要求して儀式を行う人たちを全面的に信用してはなりませんよと言うことです。そうした急造されたメディスンマンもどきの人たちの大半は、ネイティブ・アメリカンではないのにもかかわらず、なりすましている人たちだったりします。こういう人たちによって本来の精神性がゆがめられていき、もともとのものとはかけ離れた、エゴトリップ的なものがアメリカ・インディアンの信仰とされていくことで、オリジナルなものが消滅していくのですから。悪貨は良貨を駆逐する、は精神性の世界でも通じる真理なのかもしれません。やれやれで、トホホなことではありますが。この問題は、リトル・トゥリーの問題とよく似ていて扱い方が難しく、憂鬱になります。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, October 10, 2007 10:30 PM
がんちゃんへ
フラには家元への上納金がつきものというのですかぁ。茶道や華道も似たような構造を持ってる。武道は、免許皆伝になって自分で道場を開くまでに長い段階を経ているね。いわゆる「道」と「お金」は、どこかで綱がつていたりするのかもしれない。
メディスンマン・トリップやネイティブ・アメリカン・スビリチュアリティーの問題は、たとえばユダヤ系アメリカ人がある日突然インディアンネームを名乗って、まるで自分がインディアンであるかのような顔をして自分の知っていることや身につけたテクニックだけをイノセントな人たちに売りつけると言うところにあるわけ。だまされる方が悪いと言えばそれだけだけれど、だまされたと言うことを知らなければ、それがネイティブ・アメリカンなのだという誤った情報だけが一人歩きしはじめて、最終的には彼らの精神性と似てもにつかない別なものが残り、オリジナルなものが地上から抹殺されてしまう。すでに80年代に、彼らの精神性は実を言うと、小さな部族として守ってきたものとは違う形へとかなり変形してしまった。ぼくたちは似てもにつかないものをホンモノのように思いこんでいるのかもしれない。「スピリットは売り物じゃない」などということを言うようなコロンブスが来たとき以来の戦争を続けているエルダーたちはすでにみんな帰幽されているから、ときどきこういう発言をするのは、ぼくが無意識に最初に教わった地点へと帰ろうとしているのかもしれません。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Thursday, October 11, 2007 12:20 PM
大口のま さん
お金とは「仇(かたき)」のようにつきあえという教えが江戸時代の日本にあります。すべてを金に換えてしまった社会は、四方を敵に囲まれているようなものなのかも(^^;)
昔、『ホピ物語』を翻訳させてもらったとき、そこに「ホピの教えを売ることは自分の母親を売るに等しい」というように教えられておそろしく緊張しました。値段のつけられていないその小冊子には、「すすんで寄付をしてくれた人にさしあげること」と但し書きがつけられています。読んだ人は、自分でそのお話に代価を支払わなくてはならないのです。いまだにそうやってすすんで支払われたお金によって『ホピ物語』(非売品)の小冊子版は印刷費などがまかなわれています。先日、増刷をして8刷りになったと聞かされました。
ぼくがローリング・サンダーのところを訪れたときには、必ずあらかじめ贈り物としてタバコを用意していきました。彼は自ら金銭を受け取ることはありませんでしたが、台所で奥さんに喜捨をしたこともあります。「まず先に与えること」というのが、ぼくが彼らから学んだ大切な教えのひとつです。でも、それに見合うだけのものを出すと言うことも、代価を支払うにしても、お金のことはむずかしいですね。
もうひとつ昔話ですが、ぼくが日本列島のあちこちを放浪のようにして旅をしていた80年代後半に、青森県のある山の中にある行者さんの修行場で、祭壇にお参りをさせていただいたとき、「お賽銭をいくら上げればよいか?」と聞いた際、「最低でも電車の一区間分は支払いなさいよ」と教えられたことがあります。それが礼儀だと。スピリットが乗り物だとすれば、当然すすんで支払うべき金額がありますからね。あれ以後ぼくはどこにお参りをしても、最低そのときの電車の一区間分のお賽銭は、相手のスピリットに敬意を表して、出すように心がけています。もちろん、自然にもっと払いたくなるところもたくさんありましたが。以前にもこの話はブログに書いたかもしれませんね。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Thursday, October 11, 2007 12:43 PM
僕が楽観的に過ぎるのかもしれませんが、例えばそのインディアンになりすましたユダヤ人は、その行為を続けている限り精神的な部分ではそれなりの所にしか辿り着けないわけで、それはそれで彼の人生なのだから放っておけばいいのかな、なんて思ったりします。もしかしたらその詐欺まがいの行為自体が精神性に向けた彼なりの旅の一部なのかもしれないですし。
確かにそういう人によって「精神性」という名の商品を売りつけられた人々は一瞬かわいそうに思えますが、それもまた、買った人々のその時の精神的な位置に関わってくるのではないでしょうか。だいいちお金で精神性を買おうという発想自体が・・・ねえ。
北山さんの心配もお察しします。僕は北山さんが見てきたものをひとつとしてこの眼では見たことがないので、やはり最後は他人事のようになってしまうのですが・・・僕は僕自身の経験から、人の持つ眼、本物とまがい物とを見極める眼を信じています。
それに・・・スピリットは売り物じゃあありません!
Posted by: がんちゃん | Sunday, October 14, 2007 03:10 AM
難しいものは目に見えない大切なものだと思います。
すべての変化のスピードは速く、環境事態が変化してしまった今、その中で昔のように形を維持しつづけることは難しく、その中で目に見えない大切なものがどうやって受け継がれていくのかという部分は難しいですね。
自由になってきたという点においても、一人一人に多くのチョイスがあり、自由に生きれるようになってきて、世界が広がり、多くの価値観がうまれ、多くの情報があふれ混沌としている。自由であるということはすばらしいけれども、その反面いいことばかりでもないように思います。自由になったことにより、文化が薄れていってしまうこともあるでしょう。
この先変化しながらどうなっていくか?どこへ向かっていくか?は今を生きる私たちの課題なのかもしれませんね。
いろんなものがいきかい混ざっていくにしたがい、変化していった・・・いい面もあれば悪い面もあるように思います。確かにネイティブ・アメリカンは国(?)を持てないぶんだけその文化がより早く衰えていく可能性が高いかもしれません。日本の文化ももちろん、変化するということは本当はとても難しい問題で、スピードが速ければ速いほど後で取り返しがつかないこともでてくるのかもしれません。ほんとうに複雑ですね。スピードを落とす必要があるのかもしれません。
Posted by: yasu | Monday, October 15, 2007 02:56 PM
私は先日スゥエット・ロッジに行きました。
メディスン・ウーマンの方は素晴らしいおばあちゃんで、彼女に会えただけで来た甲斐があったなと思いました。
でも、このイベントを企画したボランティアグループの方は…まあボランティアだからというのもあると思いますが、メールの返事もよこさない、なんか怖くて打ち解けない、あまり例外を認めない、と、気分が少し悪くなるようなことがありました。
次にそのメディスン・ウーマンの方が来たときも、その人に会いに行ってはみたいとは思いますが、別の団体が主催するもので参加したいと思います。
でも、そのメディスンウーマンの方は、本当に、なんというか慈愛に満ちた、近年まれに見るステキな方でしたよ。それをお伝えしたいと思い、コメントを書きました。
Posted by: レモ | Tuesday, October 16, 2007 02:14 AM
ちょっとしつこいようですが、もうひとつだけ書かせて下さい。
「ぼくたちは似てもにつかないものをホンモノのように思いこんでいるのかもしれない」と書かれたことについて、僕には「ホンモノとはきっとこういうものだろう」と自分なりに見当を付けているモノがあるのですが、それはとても小さなことというかごく当たり前なことで、もしそれを形にして人に見せることができたとすれば、見た人は拍子抜けしてしまいには怒りだすんじゃないかと思うくらいです。
すでに「聖なるもの」「スピリット」といった言葉たちが誇大妄想のごとく一人歩きしているのが現状ではないのでしょうか。例えば北山さんがその言葉を発した時点ではごく素朴で単純なものごとを指していたとしても、それが人々の心に触れたとき、その心自体がアンプリファイアー(拡大装置)となって何やら大げさな、それでいて実体を持たない、得体の知れないイメージに変換されてしまっているような気がしないでもない。
今の時代を生きる人々にとっては(僕自身も含めて)、あまりにも響きの良い心の空洞を持ってしまっていることがまず最初の難関だろうと思います。
Posted by: がんちゃん | Tuesday, October 16, 2007 05:00 AM
レモさん
ぼくはその相手の方が「慈愛に満ちた素敵な人」であるかないかを問題にしているのではありません。そこの点はどうか誤解しないでください。ぼくがこだわっているのは「メディスンを売り物にしてはならない」というつい一時代前までは至極あたりまえだった原則です。どんな理由があれ、その相手の方が自分のコミュニティーを離れて、メディスンをお金に替えてそれだけで生活しているのなら、ぼくが学んだかぎりにおいてそれはメディスンピープルの道の上にいるとはいいがたく、同時にそれを信じて買った方はそのときに得たものに値札がついていることを背負っていかなくてはなりません。ブランドものを求める真理と同じものが作用しなければよいと祈るのみです。ぼくがこの問題について書いたり話したりするのが憂鬱なのは、その相手の人間性を否定しているととらえかねないからなのです。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Tuesday, October 16, 2007 09:26 AM
読めば 読むほど 複雑です。
リトルトリーの時と 同様ですね。
最初に 嘘を本当だ と言った人は 責任をとらなきゃ 本当がなくなってしまう。
何が本当なんですか?
感動した時の自分の気持ちに嘘は無いのに....、
北山耕平さま、これからも 楽しい話し 期待しています。
寒くなりますが、体大事に頑張って下さい。(^-^)/~
Posted by: 美紀子 | Tuesday, October 16, 2007 05:44 PM
北山さま、みなさま、こんばんは。
北山さんのお話を読んでいて時々はっと気がつくことがあります。今回の主題に関しては、次のような事です。日本の社会に育ち暮らしているわたしたちの多くは、北山さんが、そしてネイティブ・ピープルが信じているある根本的な事を信じていないのではないだろうか、という事です。ここでは、それは、スピリットというものが、現実に存在するという事です。それなので、もしスピリットを売り買いするとしたら、そのスピリットは変化を受けるという事です。どういう風にかは表現できませんが、たとえばそれは、伝染性の病を付与されたものになっているようなものかもしれません。だれでも、それがほんとうに目に見えるなら、声を大にして「スピリットをそんな風に受け渡ししてはいけない!そこからはなれなさい!」と、いうのが本当でしょう。スピリットが、わたしたちの頭の中だけで形作られ、それぞれ個人の受け取り方だけで、どのようにでも変形できるというものなら、スピリットをこれほどたいせつに扱う必要もないとおもうのです。スピリットがどこから、どのようにして、わたしたちにやってくるのかをよく考える事は、このようにたいせつなことだと思います。
Posted by: あきら | Wednesday, October 17, 2007 10:03 PM