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Thursday, October 18, 2007

メディスンピープル、伝統派のエルダーたちをすぐそばで見てきて思うこと

ぼくにいえるのは、伝統を守っているほんものの「エルダー」とされる人たちは、どの人も見事なまでに、感動的なまでに素晴らしい人たちだったということだ。これは別に、その人たちの一族に伝承されてきたさまざまな儀式とか治癒の力量の話をしているわけではない。

ぼくの目には、そのひとのあり方、存在の仕方、生き方そのものがはっきりと際立って見えていたのだ。少なくともぼくが知り得たエルダーやメディスン・ピープルは、誰もが、例外なくみな信じられないぐらいに控えめな人たちで、物腰はどこまでも謙虚だった。

その人たちは意図的に注目されるのを避けているようなところがあった。スポットライトが当たっているところにはまず出ていかなかった。出て行くとしたら、どうしてもやらなくてはならないことがある場合に限られていた。伝統に忠実に生きてきた人たちがいかなるかたちであれ、自分の業績を宣伝したり、自分からすすんで自分を売り込むようなまねをする光景は見たことがない。

大昔から伝統を守った一族の指導者は、自分や自分の家族の繁栄を考える前に、他の人たちの幸福や繁栄を考える傾向が強かったという話しも聞かされた。彼らは、話をしている相手の立場に立ち、そこから今なにが起こっているのかを深く理解することができた。そしてほんとうに大切なものはなにかという共通の理解に到達することができた。

彼らは自己をしっかりと律しており、心を穏やかに保つことができ、気配りにたけて、礼儀正しく、相手が誰であれ、たとえそれに値しないような人にさへも、うやうやしく相手を立てて、正直に、そして心をこめて接していた。伝統派のエルダーたちは、みな驚ほど知的であって、世界をより広く見る目をもっていた。そしてその世界を広く見る目で、彼らは自分のとる行動が真に人びとのためになるかどうかをいつだって気にとめていた。

伝統派のエルダーたちは、ぼくたちがひとりの人間としてどちらに向かうのかを常に指し示し、生きる上で大切な目に見えないものを吹き込み、ぼくたちひとりひとりを、各人が本来人間として潜在的にもっている真に善なるものを育てるようにしむけていた。

ぼくがあの記事[あえて「スピリットは売り物ではない」とこのあたりで言っておこう]を書いたのは、彼らが「メディスン」と呼ぶ「不思議な力」を知り、真のエルダーたちや伝統派のリーダーたち、メディスンピープルのことを知っている人は誰でも、その人たちがここまで必死に伝えてきた伝統が、人間の弱みにつけ込む形で個人的な利益のために利用されるのを見るのは、なんともつらいものがあると、考えたからに他ならない。

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Comments

最近 日本では、外国人に日本の文化を体験してもらう ツアーを 行っているらしいです。


これ、もちろん日本人も 参加出来ます。

何だか 変な気がしました。日本では、何かがすでに無くなりかけてる。 そう感じました。

(話しが ズレていたらスミマセン。)

Posted by: 美紀子 | Thursday, October 18, 2007 at 10:22 PM

では、真のエルダーたち以外のネイティブ・アメリカンの方たちはどうなのでしょうか?

Posted by: yasu | Friday, October 19, 2007 at 12:32 PM

yasu

これはむずかしい質問ですよね。知っていて尋ねているのかな。ルーツを失ってるぼくたち日本人とかわりません。経済的なめんで言えば、豊かな人から極貧まで、いろんな人がいます。精神的なめんで言えば、キリスト教に転向した人、キリストとネイティブの信仰を混ぜ合わせようとしている人、信仰を失った人、ネイティブの道を進もうとしてる人。人間性から言えばいい人から悪い人までのあいだのどこか。フル・ブラッドからそうじゃないところまで。すっかりアメリカ人になってしまってる人からアメリカ人になっちゃったことにこだわりを持ってる人。前向きから後ろ向きまで。しらふから酔っぱらいまでのあいだのどこか。エルダーのようにふるまう人。エルダーのふりをする人、勉強中の人。こちらの態度いかんでどうにでもなる人。お金をたかってくる人。尋ねていくだけで、お金なんかなくて貧乏しているのに、盛大に喜んでごちそうまでしてくれる人。バランスをどこでとるかの問題だが。スピリットを売り物にしている人もいるし、知識人もいる。学歴もさまざま。アメリカ軍に入ったことがある人も多い。精神的な成長を求めることを止めてしまった人から求め続ける人まで。一族のなかで構成員のみんなから尊敬をこめてエルダーと呼ばれる人たちは、数えるほどしかいない。部族会議の政治家はほとんどエルダーとは呼ばれない。いくら年齢を数えていたとしても。(これらはあくまでも個人的な印象だが)

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, October 19, 2007 at 02:35 PM

今まで大切に伝えてきたものや伝統が、今まで大切にしてきた意味とは違った、いろいろな形で使われ広がっていくことを目の当たりにするのはなんともいえないことだと思います。

ただ、これだけ混沌とするということはネイティブアメリカンの方々の中でもやはり混沌としている現状があるのだろうと思ったのです。

ではその中で、ネイティブアメリカンの新しい(もしくは今の)世代に真のエルダーというのはうまれて(育って)きている、くるのでしょうか?

また、どうすれば日本の中に「ぼくたちがひとりの人間としてどちらに向かうのかを常に指し示し、生きる上で大切な目に見えないものを吹き込み、ぼくたちひとりひとりを、各人が本来人間として潜在的にもっている真に善なるものを育てるようにしむけて」くれる存在を持てるのでしょうか・・・

一人一人がジャンピングマウスのようにあればいいのかもしれませんね*

Posted by: yasu | Friday, October 19, 2007 at 03:52 PM

「類は友を呼ぶ」という宇宙の法則には、ただし「正しい時と場所において」という付帯条件がついています。ぼくたちがそういう存在と出会うためには、ぼくたちはいつもそのための準備を続けなくてはならないようで。こちら側の準備が整った時、そういう存在が目の前にあらわれるのだと言うことを、ぼくはいまだに信じています。

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, October 19, 2007 at 04:53 PM

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