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Wednesday, August 22, 2007

ネイティブとノン・ネイティブはどこが違うのか?

owlrockartふたりの人間が連れ立って森のなかを歩いていると想像してほしい。ひとりはネイティブ・ピープルで、もうひとりは非ネイティブの人間だ。非ネイティブの人間のことを「ホワイト・マインド」の持ち主といってもいいが、無論その人間が白人であるとは限らない。あるとき、ふたりは遠くの木の枝のなかのあるものを同時に目撃した。

「フクロウだな」ふたりは同時に口を開いた。そのままさらに歩を進めて、ふたりは先ほどフクロウを見た樹に近づいていく。そしてまたしばらくしてふたりは同時に言った。「あれはどう見ても大きな松ぼっくりだ」ふたりは同意した。
pine corn
そして森のなかの道を歩きながら、ふたりは自分たちの見たものについて議論を交わした。「最初わたしはそれをフクロウだと考えた」非ネイティブの人間が言った。「だが、近づいて見たらそれは大きな松ぼっくりだということがわかった。わたしがそれをフクロウと見誤ったのは、距離が遠く離れすぎていたからなのだ」

非ネイティブの人は自分の見ている対象物はいつも変わらずに対象物としてのリアリティを保ち、本質的なものはなにひとつ変わらないとする前提で話をしている。だから自分が見ていた対象物が別のものに変わってしまったとき、その人間は自分の最初の判断は誤っていたと結論づけたのだった。

これに反して、ネイティブの人間はどのように世界を受けとめているのだろうか? その人間はきっとこう言うにちがいない。「最初遠くから見たときには、それは自分にはフクロウに見えた。だが近づくにつれて、それは姿を松ぼっくりに変えていた。最初は確かにフクロウだったのだが、歩いているうちにそれは大きな松ぼっくりへと変身したのだ」

ネイティブの人間は自分の見ている対象物が普遍的な外観を持つものとは考えていない。対象物のリアリティはいついかなるときにも不変だなどということを前提にはしていないのである。対象物か変化したように見えたのであれば、ネイティブの人間はその本質的なものも当然変化したと見る

おそらく、この異なる世界観を持つもの同士が意見の一致を見ることはないだろう。話しあえば話しあうほど、気持ちのうえではふたりはどんどん隔たっていく。結局のところ握手をしてハグをして別れるしか道はないのかもしれない。

ネイティブの人は、それがいかなるものであれ自分がヴィジョンを見たことを好むもので、偉大なる存在は相手がどのようにちっぽけなもののなかにさへ自らを顕現させており、自分はそうしたスピリットたちに囲まれているのだという前提を受け入れている。

ところが非ネイティブの人間は、松ぼっくりをフクロウに見間違えとは馬鹿げたことで、こんなことなら眼鏡でも作りかえるしかなかろうと考えるぐらいが関の山なのだな。

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Comments

こんにちは。再び書き込ませていただきます。

この例からすれば、僕は非ネイティブな人間だなと思いました。

外界に対して客観的なスタンスを保って、更に自分の存在もその客観的世界の中の一要素として考え、あらゆる事象を客観的手法で分析して捉えようとする。「客観的」を「科学的」と言い換えてもいいかもしれません。

ただそれと同時に、ネイティブ的な考え方も「そういうのもアリだな」という風に考えています。もしかしたら、心の底では(非ネイティブ的な言葉では「無意識の領域」ですか)ネイティブ的な捉え方をしているのに上っ面(意識の表層?)では客観的に捉えているというだけなのかもしれない。心の中にバッファーを設けてあるというか。実際どうなんだか分かりませんが、どんな人間でも心の底から科学的ってありえないと思っています。どうなんでしょうね。


話は変わって、ミクロネシアあたりの伝統航海法では、例えば風向きが変わったりしてカヌーが方向を変えた時、「カヌーの進路が変わった」とは言わずに「島(目的地)が動いた」と言うそうです。こういうのもネイティブ的な世界の捉え方として通ずるものがあるのかもしれない。ナイノア・トンプソン氏は、ネイティブと非ネイティブの間にわたすブリッジを作ったのではないでしょうか。

Posted by: がんちゃん | Wednesday, August 22, 2007 05:10 PM

ナイノアさんがすごいのは、本来ネイティブの人たち(この場合ポリネシアの人たち)が伝統的な生活のなかで自然に学ぶことを、あらかじめ伝統の切れてしまっていたところから、あらゆる手段で、西洋学問の力すら借り受けて、ひとつひとつ自分の内側に再生させいったことですよね。彼は、知識を知恵に昇華させるというとても重要なことを成し遂げました。今は、ネイティブであるとはどういうことかを学びなおす時代になっているのだろうと思う。そしてそれは一朝一夕にはなしえない。でも、学びはじめれば、いつかはそれその目的を成就できないものでもないらしいと、あらためてナイノアサンは教えてくれたのだと、ぼくは考えている。がんちゃんの言うように、「ネイティブと非ネイティブの間にわたすブリッジを作った」けど、その橋を渡るにはとても長い時間がかかるのだろう。でも、その橋を歩き出さなければ対岸には届かない。いい話をありがとう。:-)

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, August 22, 2007 06:48 PM

ナイノアさんの西洋的なものと太平洋的なものの混ざり具合がとてもそそります。
「星の航海士をもとめて」という本でそのアプローチを垣間見たのですが、ああそういうやり方もありか、と目からウロコでした。決してできないことではなさそうなんですね。

それからああいった島々までヒトが到達したことが不思議がられていますが、実はそんなに難しいことではなかった(と言ったら語弊になりますか)んじゃないかと思っています。少なくとも、そこに島があることが彼らにはずっと「見えて」いて、あとは手段の問題だったんじゃないかなと。地球上のあらゆるモノたちがどこかで繋がっていること、地球という総体としての「目」を皆が共有していることを思い出せればハワイもタヒチもサタワルもきっと「見えて」きますよね。

・・・と話がそれてきたのでここで失礼します。お邪魔しました。

僕も、北山さんの話を楽しみにしています。
ありがとうございました。

Posted by: がんちゃん | Thursday, August 23, 2007 07:34 AM

こんばんは。
書き込みに参加させて頂きます。

ネイティブとノン・ネイティブの違いの話、とっても興味深かったです。
がんちゃんさんの

>例えば風向きが変わったりしてカヌーが方向を変えた時、
>「カヌーの進路が変わった」とは言わずに「島(目的地)が動いた」
>と言うそうです。

という話もとても面白かったですし、北山さんの

>本来ネイティブの人たち(この場合ポリネシアの人たち)が伝統的な
>生活のなかで自然に学ぶことを、あらかじめ伝統の切れてしまっていた
>ところから、あらゆる手段で、西洋学問の力すら借り受けて、ひとつ
>ひとつ自分の内側に再生させいったことです(中略)
>でも、学びはじめれば、いつかはそれその目的を成就できないものでも
>ないらしいと、あらためてナイノアサンは教えてくれたのだと、ぼくは
>考えている。

というお話、本当にその通りかもしれない(いえ、’かも’じゃなくてその通り)と、思いました。

現代科学を生きる文明人は、最先端と言ってはいろいろな科学技術を研究開発していますが、私はネイティブの方達は、それを科学的に理解している訳ではなくて、伝統の中での生活として、もう既に知っていることだと考えるようになりました。(多く本を読んでいないので、私が知らなかっただけかもしれませんが)

科学が先を行っていると思っているのは私達だけで、実は、最先端の科学技術が伝統(的な生活方式)を追っているように思えるんです。

人間は一生懸命自然に似たものを創ろうとしています。造花から人間にそっくりのロボット、現実さながらのネット上での仮想社会(実際レートで換算され現金に替えることができるそうなので)、もの凄い威力の原子爆弾もその中のひとつかもしれません。だけど、それは既に存在するものを追って最新と言っている訳で、やはり自然の生み出した数々の存在には及びません。
でもインディアンの方達は、それらの存在からダイレクトに受け取って生きています。分析せずに、自然の美しさ素晴らしさ、知恵や神秘を、既に知っているんですよね。それは真似することなど出来ない、敬うべきものなのだと知っていて。
だから、私達は自然をダイレクトに受け取ることができなくなってきているから、北山さんのおっしゃる通り、現代社会を生きている私達は一層努力して長い時間をかけて、科学的(?)側面からも多く学んでいくしかないんだなと思いました。

長くなってすみません。なぜここに書き込みをしたかったかと言うと、
フクロウから松笠に’見ていたものが変わった’という見方を読んで、
考えたことがあったからです。

私達は松笠だったことに気づいた時、自分の感じたことを間違っていたと否定してしまい、ネイティブの方はそれをフクロウが松笠に変わったのだと考ます。(感想としては、何て神秘的、物語的なんだと思いました。)
’本質が変わる見方’と’変わらぬ見方’。
私達は、本質は絶対に変わらないものだと考えます。でも、本質は常に流動的に変化しているものだと考えたら・・・?
そこで、今の社会を照らして考えてみたんです。

本質が常に変わるのであれば、自分が感じていることは常に真実である、ということ。「事実」という言葉の使い方も、無くなるかもしれません。客観から、主観へ。主観がビジョンであるのなら、生きている1人1人の感覚、価値観、生き方が尊重される社会になるかもしれません。’正しい’という基準は何一つ無いのですから。

そして、ちょっと話が大きく飛躍しますが、原子力について。
(安直で、机上の考え方ですが・・・。)
ネイティブの考え方では、フクロウが松笠に変わりました。また非ネイティブの考え方では、もともとそれは松笠だった。となっています。
つまり、形而下の’形’は変わらないが、形而上の’人間から見る見方’は変わっています。
形は変わらなくても、存在の持つ意味が変わってくる、ということから、
原子力を当てはめたんです。

原子力に使われる鉱物はもともと地球が内包していたものですが、人類がそれを複雑にいじって脅威的な武器に変えてしまいました。これを地球上から何とか無くすことができたら、と私も思いますし、これ以上開発が進むのを止めなければならないとも思っています。

けれど、この話を見たとき、原子力という形はそのままでも、私達の中にある原子力という本質を変えることができるのではないか、と思ったんです。
(あまりに飛躍し過ぎでしょうか・・・^~^;)

先の話に戻って考えてみると、最先端は伝統を追っているので、進む方向だけは少し変えて、あとは伝統に向けて開発(というのか何と言っていいのか)をしていく、というような・・・。すべては環になっているということなので、人間の中の考え方(原子力の持つ本質)さえ変われば、原子力(という形はそのまま変わらなくても)はあっても害を及ぼさなくなるのかしれない、と(ありえませんよね 汗)。

具体的にどうこう、ということは分からないのですが。

長くなって申し訳ありません。
ホピの予言の中に、人間が原子力の正しい使い方を知るまでは守れ、という言葉があったので、正しい使い方があるんだ、と思いまして・・・。

そして、「本質」が本当に変わるものであるならば、ネイティブの中でも今まで通り本質は変わり続け、また非ネイティブの中でも本質は変わり、どんな世界に生きる人間も、いずれは同じ本質(真実)に辿り着き、一緒に歩くことができるかもしれないですね。

いずれにしても、私も、人類がもっと自然の秩序に対しての気持ちの持ち方を学んで、一方は豊かな人生を送り一方では貧しく苦しい人生を送らなければならない世界の現実が、少しずつ良くなって平和になって欲しいと思う1人です。


Posted by: Rin* | Thursday, August 30, 2007 10:04 PM

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