コマンチとショショーニは同じルーツを持つ人たち
サイドバー右冒頭の PEACE な写真を差し替えた。今月は1927年、今から80年前にエドワード・E・カーティスによって撮影されたもので、「コマンチの少女」とコメントがつけられているものだ。写真をクリックすると解像度の大きなものが見れる。そこには透明で、少し怒ったような強い視線をカメラに向けているおかっぱの女の子が写し出されている。
コマンチは、コマンチという名前で日本では知られているが、彼らの発音を聞くと「ケ・マン・チィー」という風に聞こえる。もともとは「いつでもわれらに背くもの」という意味のスペイン語だったという。彼らは自分のことを「ヌムヌー」と、自分たちの言葉で「人間」を意味する言葉で呼ぶ。
北のシャイアンと並んで平原インディアンを代表する南の部族で、北テキサス、オクラホマ東部、カンサスの南西部、コロラドの南西部をまたがって広がる海抜1500メートルほどのハイ・カントリー(高原平原)をテリトリーとするが、ほかの平原インディアン同様、この人たちが馬を駆って大平原でバッファローを追いかけるようになるのは1680年のプエブロの人たちの大攻勢で、ニューメキシコあたりにいたスペイン人入植者たちが追い出されて、結果として馬を自分たちの移動手段に取り入れて以降のことだった。
大平原の南の覇者としてその名を轟かせているが、もともとは現在ワイオミング東部からユタ、カリフォルニアにかけて暮らす高原沙漠の人たちであるショショーニの人たちと同族で、同じユト・アズテカン語族に属する。超自然的な力の存在を信じるものの、信仰はきわめて個人的なものとされ、人間はヴイジョンを持つことで自然の神秘を操る力の源に触れることができると信じてきた。
コマンチの人たちは馬を獲得するとカイオワの人たちと同盟を結んで南のメキシコをたびたび脅かした。コマンチとカイオワはそのためにインディアンのアパッチなどほかの部族も敵に回すこととなり、たびたび攻撃を受けて多くの戦士を失った。彼らはそうやって失った戦士たちの穴を埋めるために、インディアンであれ白人であれ、はぐれてひとりぽっちになっていた子どもたちや女たちを養子として一族に迎入れたといわれる。コマンチ最後の偉大なチーフで、南から伝えられたペヨーテにたいする信仰を全インディアンに広めることに貢献することになるクアナ・パーカー(写真)の母親も、テキサスの白人牧場主の娘だった。
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