大阪に蝦夷の英雄の慰霊碑が建立された
神戸新聞のウェブ・ニュースに出ていた記事と写真。
蝦夷の英雄の慰霊碑建立 最期の地?大阪・枚方
8-9世紀に朝廷軍の東北侵攻に抵抗した先住民蝦夷の英雄アテルイとモレの慰霊碑がこのほど、2人の最期の地とされる大阪府枚方市の牧野公園に建立された。
アテルイらは802年に征夷大将軍坂上田村麻呂に投降、朝廷軍に処刑されたとされ、枚方市には2人の首塚とされる石がある。
没後1200年を機に岩手県水沢市(現奥州市)と枚方市との交流の一環として「牧野歴史懇話会」ができ、メンバーらが2006年6月、慰霊碑建立の実行委員会を結成。アテルイ、モレの最期の地として地域の人たちに認識してほしいと活動を始め、建立にこぎ着けた。費用は、市内の小中学校をはじめ多くの市民から寄せられたという。
慰霊碑は高さ約1・4メートル、幅1・2メートルの黒御影石製。奥州市や清水寺(京都市)に建立された慰霊碑同様、清水寺の森清範貫主が「伝 阿弖流為 母禮之塚」との碑文を揮毫した。
蝦夷(えみし)の最後の偉大なチーフとサブ・チーフの記念碑が1205年を経て建てられたことを伝えるニュースだ。ちなみに小生の本『ネイティブ・タイム』から802年の項目を以下に再録しておく。
802坂上田村麻呂によって胆沢城(岩手県水沢市)が完成した。鎮守府が多賀城からその胆沢城に移される。駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野などの国の浮浪人四千人を胆沢城に、新しい占領地の支配のために強制的に移住させた。
富士山の東側五合目あたりから噴火、足柄道が一時通行不能となって、御山は十日ほど雲に包まれていたが、雲が晴れるとそこに小さな山が出来ていた。「小富士」と呼ばれている山の出現だった。
およそ十年以上も政府軍の侵略に抗して戦い続けた偉大なチーフのアテルイが、投降の呼びかけに応じ、一切の処罰はないという口約束を信じて、同族の者たち五百人ほどを率いて、坂上田村麻呂の軍に降伏した。部族連合国家であった日高見国がここに事実上解体した。
越後国の米一万六千石、佐渡国の塩百二十石が出羽国雄勝城に運び入れられた。蝦夷【2字ルビ・えみし】との私交易が禁じられた。田村麻呂の配慮にによって身体的には拘引されることなく平安京に連行されたグレートチーフ・アテルイとサプ・チーフのモレには、それぞれアテルイには「大萬公」、モレには「磐貝公」という「夷姓」が与えられた。二人は蝦夷が帰順するための屈辱的な儀礼に参加させられている。田村麻呂はこの儀式のあと二人を陸奥に帰す予定だったといわれている。しかし「そういう者を生かしておけばわざわいのもとになる」という公家たちの声が高まり、政府は約束を反古にして、最終的には天皇の命令で、この年の八月十三日、百済人のコロニーのあった河内の国杜山(椙山? 植山?)で処刑にされてしまう。のちに著された『諏訪大明神縁起絵詞』ではチーフ・アテルイは「阿倍高丸」という日本風の名前になっている。
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