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Friday, March 02, 2007

韓国でも中国でも、ものを人格化することはないらしい

eclipse_sun神奈川県小田原市で活動する特定非営利活動法人の「子どもと生活文化協会(CLCA)」と縁があって毎月その機関誌「あやもよう」を贈っていただいている。その2月号と3月号に、評論家で拓殖大学の教授の呉 善花(オ ソンファ)さんと同会の会員のみんなとの質問学習の一部始終が掲載されていた。呉さんは韓国済州島の生まれで、日本に移り住んで23年になる。つまり23年間日本というものを観察し続けてきた人なわけ。その彼女が話のなかで、日本の伝統文化についておもしろい指摘をしている。それは「すべてのものは生きている」という発想を日本人は持っていて、これは韓国にも中国にもないものだと、彼女は指摘したのだ。もう少しくわしくそこのところを引用すると彼女の言葉はこうである。

「ものを人格化するのは日本人しかいないんですよ。もともと古い未開人の世界では、ものも生き物だという発想があったんですが、日本では現代でもあらゆるものを人格化しているんですね。」

このブログの読者であれば、すべてのものは生きているという発想を持っているのは日本人だけでなく、あらゆるものを生き物として、いのちあるものとして接する北米大陸の先住民もまた同じようにあらゆるものを人格化する心性を持っていることはすでにおわかりのことと思う。

ぼくが驚いたのは「未開人」という彼女の言葉遣いではなく、「韓国も中国もものを人格化することはない」という点だった。もし彼女の言葉を信じるとすれば、中国や朝鮮から遠い昔に「文化」なるものを携えて日本列島に渡ってきた人たちによって日本国が建国されたのだとしたら、日本国の建国の父たちは「大地に心があるという発想すらなかった」ということになる。大地に心があると発想する人たちのことを、その人たちは常に未開人とレッテルをはり続けたことは想像に難くない。現代の日本人のなかに未開の部分が残っているということを彼女はもちろんここで伝えようとしているのではないだろうし、反対にそのことがあるからこそ「日本は世界性を持っている」とも指摘しているところからすれば、彼女が23年間も日本で暮らし続ける力となったものがその部分だったと考えられなくもない。

ぼくは、自分の乗っているおんぼろの車を愛馬と呼び勇ましい名前をつけていたネイティブ・アメリカンの青年を知っているし、石や木や草や空を行く雲までが生きているといったネイティブのエルダーに教えを乞うたことがある。そうした話を聞きながらまったくそれに疑問をはさむことはなく、むしろきわめて自然にそれを受け入れていた自分がそこにいた。

現代日本人のなかにはすべてのものは生きていると言うことを信じない人も当然いる。日本人がそうした発想を持っていたのではなく、そうした発想を持つ人たちとそうした発想を持たない人がかけあわさることで日本人が生まれたと見る方が正しいような気がする。なぜなら、日本列島にもともと日本人がいたなどというのは歴史の捏造かもしれないのだから。

ともあれ、ぼくたちは「すべてのものは生きている」という発想を失わないかぎり、日本人である以前に、地球に生きる人たちとどこかでつながっているのである。

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Comments

面白いですね。
「すべてのものは生きている」という発想は当たり前過ぎて疑問にも思わなかったので、中国や韓国ではこの発想はしないという事の方が私には驚きでした。
ネイティブの人達と話していても違和感が無いのはいちいち言葉にしたり、考えたりしない”常識”の共通点があるからかもしれないですね。

Posted by: 朝日菜 | Friday, March 02, 2007 02:56 PM

北山さんこんにちは。
おれが中国に住んでいた期間中にも、ものを人格化する(ものに魂がやどっている)という発想はふつうの中国人にはないように見受けられました。それは個々の人の性格とか教養とかではなくて、ながい時間に培われた「民族」的な世界観のようです。
ただ、すごーく昔には中国人もものの人格化をしたりもしたようで、ある老木から作られた琵琶がたぐいまれなる個性(人格)を持っていたのでどんな弾き手も上手に弾けなかった、最後の弾き手は自分が弾こうとするのではなく琵琶の趣くままに奏でたらたぐいまれなる音色であった、という故事があります。これはたぐいまれなる例外的な「もの」の話ですから、この故事が生まれた頃はすでに(一般に)ものには魂が無い、という観念が普遍的だったのでしょう(個人的な推測ですが、このような故事が生まれたのは三千年以上前のこと)。

中国のことを知っていくほどに、中国文化・文明を「日本」からマイナスするとそこにインディアンがいます(もちろんそれはアイヌも含む意味で)。朝鮮民族のことを知ればより明確になるでしょう。

ちなみに、上記の「中国」はすべて漢民族のみを指しているつもりで、いわゆる少数民族はものを人格化する世界観で生きている人が沢山います。呉さんの言う「中国」も漢民族だけを指していると思いますので今回はそのように表記しましたが、国家を表す語と民族を表す語は区別すべき時を注意しないとおかしなことになりますね。

話が戻りますが、漢民族でも道教哲学に生きている世界観はものを人格化するようでもあります。物語の中で、道士が自分の使っている桃の木の剣に人と同じように名前を付けているのはとても自然でした。くわしくはまだわからないのですが、中国文化の根本たる陰陽思想は、ネイティブの教えが基本のように思います。中国内で「消極的」としてほとんど顧みられないこの古い世界観こそ、中国の本質のようでもあり、次世代へのちからとなるような気がしております。

Posted by: 山竒 | Friday, March 02, 2007 03:18 PM

朝日菜さん

ぼくも驚きました、とても。ここにはなにか謎を解く鍵がありそうだね。

山竒 さん

>国家を表す語と民族を表す語は区別すべき時を注意しないとおかしなことになります

そのとおりですね。「中華」とはよく言った言葉で、周辺の少数民族(日本列島もふくむ)も吸収してしまうすごい力があるから。漢民族とはいったい何者なのか、その検証はおこなわれるべきでしょうね。ぼくはあの偉大な「易」も、周辺の少数民族のひとつが保ってきた「教え」を漢字化したものだと思いますし、易のなかには万物が生きているとする世界観が脈打っています。

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, March 02, 2007 04:48 PM

 はじめまして。
日本人だけが、アミニズムを保持しているというのは、驚きです。確かに、ペットを擬人化しているサイトが沢山ありますね。中には豪華な食事を与えて自慢しているHPもあります。「うちの何々ちゃんは、松坂牛のお肉しか・・・」なんてのもあります。
 アミニズムが発展して、いろんな日本の神様が出来たのでしょうか。東京に行くと、明治時代の人が神様になって奉られていますが、これも日本だけの現象なのでしょうか?

Posted by: 発萬 | Sunday, March 04, 2007 02:27 PM

発萬さま

そういえばわが家の近くには「二宮尊徳」を神として祀ってある神社があります。「神」と「先祖」については、この国の複雑怪奇な「神概念」ととっくまなくてはならないので、多くの人は避けてしまいます。ネイティブ・アメリカンの世界では、死者は精霊のひとつとなりますが、彼らの信じる神としてのグレイトスピリットではありません。シッティング・ブル神社なんてないもの。人は死ぬと大地になるという考え方はあります。大地は祖先の血と肉が形となったものという考え方です。大地が祖先の血と肉からなるとする伝統的な地球に生きる人たちの思考法を放棄させ(ルーツを消し去ることをし)ないと、土地を個人に所有させることはできません。日本列島では、複雑な背景があって、人間を神にするために、わざわざこうした概念が創り出されたのかもしれません。

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Sunday, March 04, 2007 03:52 PM

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