正しい時と場所を生きる
"We say there is a right time and place for everything. It's easy to say, but hard to understand. You have to live it to understand it."
-- Rolling Thunder, CHEROKEE
ローリング・サンダーの命日である今日は、彼がインディアンの精神と権利の復興のために最も精力的に活動していた1945年から1965年までの20年間を『ネイティブ・タイム』(補遺)として時系列を追って見ていくことにした。ホピとローリング・サンダーの出会いが、ヨーロッパによる征服以来眠り続けたネイティブのスピリットにいかに目覚めをもたらし、また21世紀の今にもつながる南北アメリカの先住民のルネサンス(正義と平和と自由と調和と自然のよみがえりを求める潮流)や汎インディアン運動といった時代の動きに、どのようにかかわっていったのかの一部でも、読者に理解されれば幸いである。
ホピの国でコヨーテが話した
核爆弾が日本列島の2個所で人間の暮らしている土地に投下されて全世界が原子力時代の入口におかれた1945年はまた、南北アメリカ大陸の先住民にとっては忘れられない年でもある。この年、インカ帝国滅亡後412年目にしてはじめてインディアン会議がボリビアで招集され、1500人の代表が顔をそろえた。その2年後の47年、ホピ国のコヨーテ氏族のキクモングイ(長)が「天から灰のつまったヒョウタンが落ち、海を煮えたぎらせ、大地を焼き、それに続く何年も植物が育たない」ことが起こるまで秘密にするように指示されていた教えと預言をホピの他の指導者たちにはじめてあきらかにした。この預言があきらかにされると、ホピの国では「コヨーテが話すまでは語るな」と指示されていたという教えがつぎつぎとあきらかにされていく。
ホピの教えを世界に広めよ
1948年、ホピの国で、「灰の詰まったひょうたん(原爆と水爆)が二つ大地に落とされる」という予言の実現を受けて、各氏族の精神的指導者たちおよび長老たちの正式な集会が開かれ、ホピの教えを世界の人たちに広く知らしめることの重要性についてはじめて話し合われ、ホピの教えを世界に伝えるための通詞四人が選び出される。これが21世紀までつながるインディアン再生運動のはじまりを告げる出来事だった。まずはその年、ホピの国から貨物列車で預言の確認のことでトーマス・バンヤッカという名前の、外の世界にたいするスポークスマン兼通詞をふくむ使者たちが、東のイロコイ6ヵ国連合に派遣された。ホビの国の人たちはミシシッピ川の東側のインディアンたちは絶滅させられたと思っていたのだが、第二次世界大戦で戦地におもむいた若者のなかにニューヨークから来たインディアンと出会ったというものがいたことから、あらためて使者が派遣されることになったものだ。
ホピ、すべてのインディアンに呼びかける
翌1949年、ホピ・インディアンの三つの村の祖先以来のチーフたちが合議のうえで、「ホピ・インディアン帝国」から合衆国大統領とすべてのアメリカ・インディアンたちに宛てた親書を送り、そのなかで「なにがあなたたちの宗教のもとになっているのか?」と問いかけた。南米のペルーで大きな地震が起こり、クスコという町の近くに建っていたある修道院の地下の地面がふたつに破れて、そこから黄金で作られた古代インカの寺院が姿を現わした。南北アメリカの先住民の国々を代表するエルダーたちが正装でニューヨークにある国際連合のビルの正門前に訪れて議会での発言を求めたが拒絶されている。そして50年にはラコタの聖者だったブラック・エルクが87年の生涯を終えた[ちなみに、この年の暮れにぼくは生まれてる。^^;]
ショショーニの土地に核実験場
1951年にアメリカ政府は「インディアン都市移住計画」を開始する。土地利用問題解決を目的としてホピ国で有名無実化していた部族議会が復活。アメリカ政府が先住民である西ショショーニの人たちから取り上げて軍用地にしたネバダの砂漠にネバダ核実験場の施設を作りはじめた。52年、イギリスがオーストラリア西岸のモンテベロ島で最初の大気圏核実験をおこない、アメリカは大平洋で水爆の実験。53年にはソ連が水爆の実験をセミパラチンスクで成功させ、アメリカ合衆国の大統領が国連で「原子力の平和利用——アトム・フォー・ピース」をぶちあげた。また同じアメリカではこの年に「部族廃止法」が制定されて、特定の部族と合衆国政府間の信託関係が廃止されている。54年には世界で最初の工業用原子力発電所がソ連で稼働しはじめる。
ホピ、ローリング・サンダーらに呼びかける
1955年、アメリカが南ベトナムの軍事政権に肩入れする形でベトナム戦争がはじまった年、それまで人里離れたところでおこなわれていた核実験が、ストロンチウム九○の濃度というかたちで、めぐりめぐって、地球上のすべての人たちに影響を与えていることがわかりはじめる。イギリスが水爆製造計画を公開し、フランスが原爆製造計画を発表したこの年、イロコイ(タスカローラ)のマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーのジョン・ポープ・ローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったインディアンのメディスンマンやスポークスマンたちに、ホピの国で開催されるインディアン統一運動への支援が呼びかけられた。
グレイトスビリットの道へ戻れ
1956年、詩人のアレン・ギンズバーグが「吠える」を発表し、アメリカに最初の白いインディアンであるビート族があらわれたこの年、前年の呼びかけを受けて、ホピ国のホテビラ村において宗教者会議が開かれ、インディアンの国々の代表や白人の心ある人たちが出席して、「ホピの預言」がはじめて英語化されて世に出た。席上「グレイトスピリットの道に戻れ」とする呼びかけが出されて、これがのちのインディアン統一運動へとつながっていくことになる。タスカローラのマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーとショショーニのローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったネイティブのメディスンマンやカフナで、それぞれがインディアン世界のスポークスマンだった人たちにホビの国があらためて支援を要請。この年、アメリカが日本にウランを貸し与えることを認めるかたちで、日本がアメリカの原子力(経済)政策に組み込まれていく。
日本列島に原子力の火が
1957年、日本国の茨城県の東海村に、国策で建造された原子力研究所の実験炉が臨界に達し、日本列島に最初の原子の火がともる。日本国の各地方の電力会社が原子力発電計画を作りはじめる。ジャック・ケルアックが『オン・ザ・ロード(日本語タイトルは「路上」)』を著したこの年、アメリカがネバダ州の沙漠の核実験場で初めての地下核実験をおこなう。イギリスがハワイ島の南に位置するクリスマス島で最初の核実験。ソ連ウラル地方の核工場で核廃棄物の爆発事故が起きたが、その事実は20年間封印された。
ホピ、国連を目指す
1959年、アラスカがアメリカ合衆国の49番目の、ハワイ諸島が50番目の州にされた年、アメリカ南西部の高原沙漠で生き残っていた伝統派のホピの国の人たちが、古代から伝わる伝承に基づき、自分たちの母なる国土の東のはずれに建つ雲母の家(国連ビル)に赴く時だと判断して、代表者6人をはるばるニューヨークの国連に派遣している。ホピに伝わる伝承では、「国土の東のはずれにたてられた雲母の家には困っている人たちを助けるために世界各地から偉大な指導者たちが集まっている」ことになっていた。翌60年、ホピの国で歴史上はじめて女性のキクモングイ(長)が誕生し、聖なる石版が彼女にゆだねられることになった。
次世代を導く使者にえらばれた4人のカリスマ
そして1961年、アメリカ合衆国政府がこれまでとり続けてきた先住民族絶滅と強制移住政策に終止符を打つべく、いくつものインディアンの青年たちの戦闘隊がアメリカ国内で組織された。ホピの国がインディアンの若者だけでなく白人でインディアンの心を理解する世代を導き社会を有益な方向へと組織化し次世代を先導させるための使者として、ローリング・サンダー(チェロキー・ショショーニ)、シム・ワウーテ(チュマッシュ)、クレイグ・カーペンター(オジブエ)、デイビッド・ブレイ(ハワイのカフナ)の4人のカリスマたちを正式に指名した。全米の64の部族から700人を超えるインディアンたちがシカゴに集まり、自分たちの置かれている現状や今後の課題を討議し、自分たちの主張を宣言にまとめた。
サイレント・スプリング(沈黙の春)の衝撃
1962年、日本国が初めて製造した原子炉が臨界にたっし、アメリカ人作家のレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書いた年。ホピのキクモングイらの反対にもかかわらず、ホピの居留地の主要な部分を、ナバホとの共同利用区域に指定するというアメリカ政府の行政命令が出された。そしてこの共同利用区域には、ブラックメサの露天鉱の借地権がふくまれていた。このためにホピの土地とナバホの土地を分割すべしとの声がホピの部族会議のなかで高まる。
権利回復と価値転換のはじまり
1963年、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で金錫亨【キムソクヒョン】という名前の歴史学者が「歴史科学」という雑誌に「三韓三国の日本列島内分国について」という論文を発表し、明治以後の日本ではあたりまえとされていた「古代の朝鮮半島にあった百済・新羅・任那(伽羅)を支配していたのは日本である」という「日本中心主義歴史観」を全面的にひっくり返し「古代にはそれらの諸国が日本列島内に分国を配置して支配と経営をしていた」と主張した。同じ年、黒人やマイノリティの権利回復運動が高まりはじめたアメリカで、ジョージ・ウォレスという右翼の政治家が「今日も差別、明日も差別、永遠に差別!」と公然と主張した。この演説の草稿を書いたのは実はウォレス本人ではなく、「エース・カーター」ことアサ・アール・カーターが本名の、当時過激な活動を展開していた極右白人優越主義者団体KKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーの男といわれ、このカーターはのちに「フォレスト・カーター」を名乗って西部劇を書く小説家となり、かの有名なインディアン小説の『リトル・トゥリーの教育』(邦題『リトル・ツリー』)を発表することになる。ハーバード大学の教授のティモシー・レアリー博士がマジック・マッシュルームの成分であるシロシビンの研究をおこない、その結果を「チベットの死者の書」と対比させながら「サイケデリック体験」をポジティブに使うための手引書として出版した。
アメリカ・インディアンが動く
1964年、アラスカをマグニチュード8という桁はずれに巨大な地震が襲った。伝統的な部族の衣装を身にまとった5人のアメリカ先住民に伴われて、偉大なるスーの国の一員であり、アメリカ・インディアン会議のベイエリア地域支部長が、サンフランシスコ湾のまん中にある岩でできた小さな島に降り立ち、丘の斜面にアメリカの国旗を立てて儀式を行ったあと記者会見を開き、1868年のララミー砦における条約に基づき、この「岩」がインディアンのものであると宣言した。巨大な岩の塊はアルカトラツ島と呼ばれ、脱走がむずかしい島としてアメリカ合衆国が連邦刑務所を設けていたが、その頃にはもう空になっていたのである。やがてひとりのメディスンマンがパイプに火をつけ、白い煙がたちのぼると、国立公園のレンジャーがやってきて、インディアンたちを退去させるという事件が起きた。ホピとナバホの国でアメリカ政府と企業(世界最大の炭坑企業)の意向を受けた部族議会が、ブラックメサの地下に眠る石炭の採掘権を承認した。この年、東京オリンピックが開催され、陸上トラックの1万メートル競技で、ひとりのアメリカ・インディアン(ラコタ族パイン・リッジ・リザベーション)出身の26才の青年が優勝した。青年は名前を「ビリー・ミルズ」といい、アメリカ陸上チームに選ばれた最初でただひとりのスー・インディアンの青年だった。
日本列島と南米のつながり
1965年、産軍複合体にコントロールされるかのようにアメリカがベトナムで地上戦に突入し、世界各地でベトナム反戦運動の気運が高まった。アメリカの先住民で徴兵されてアメリカ軍の兵士としてベトナムに派兵された者は42500人を数えた。アメリカの大統領が日本国の首相に核武装を示唆。アメリカ人の考古学者であり国立スミソニアン研究所のエバンスとメガースの両教授が、南米エクアドルのバルディビア遺跡を調査し、そこから発掘される土器群が、様式や年代において日本の「縄文」土器と明確な対応を示していると発表した。二人は「日本から南米への土器文化の伝播」もありうるのではないかと指摘した。この年、日本国東海村に設置されていた原子力発電所が初めて臨界に達した。
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Comments
本日命日でした。
大切な日を忘れていました。
僕がローリングサンダーの訃報を知ったのは
パソコン通信?まだそんなにインターネットが
普及してなかった頃の北山様のサイトでした。
それから時が過ぎ、ある日ふといつ亡くなったのかが、
気になりネットで検索してたどり着いたのがここです。
数年前の今日の事です。
それから、ほぼ毎日拝見させて頂いておりましたが、
北山様の「セレモニー」という詩が
僕のローリングサンダーとの思い出そのもの
だったのでコメントさして頂きました。
いつも素敵な情報、そしてローリングサンダーの貴重なお話
感謝しております。
本当はローリングサンダーについてもう一冊本を
書いて頂けたらな~なんて想っております
有難う御座いました。
Posted by: 眞司 | Thursday, January 25, 2007 07:50 PM
数日前に北山さんの翻訳された「ローリング サンダー」を
読み終えたばかりです。
私もダグ ボイドと一緒に心の旅をしてきたようで
感無量です。
そしてぜひローリング サンダーの写真が見たい、
彼の優しい目を見てみたいと検索していて
こちらのホームページにたどり着いたのが
彼の命日で、そしてここで彼の暖かい笑顔に出会えました。
ありがとうございます。
地球にも人にも優しくと、彼が言っているような気がします。
彼のスピリットはちゃんと生きているのですね。
Posted by: 白いうさぎ | Saturday, January 27, 2007 09:02 PM