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Wednesday, January 31, 2007

彼のために世界中からアメリカの大統領にカードを送ろうキャンペーン

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2007年2月6日は、レオナルド・ペルティエというネイティブの戦士が無実の罪で逮捕され刑務所に送られてからちょうど31年目にあたる。

この機会に、彼を自由にするために世界中からカードをアメリカ大統領のジョージ・ブッシュ宛に送ろうというキャンペーンが「ここ」でおこなわれている。ご覧の2種類のカードからお好きな方をダウンロードし、印刷して葉書にして——裏面には自分のメッセージを書き記して——あとは70円切手を貼って国際郵便として投函すればよい。

レオナルド・ペルティエについては以下のサイトが詳しいし、日本語で読める。

arrow2 ペルティエに自由を!

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ネイティブ・アメリカンの聖なる湧き水を破壊的な石炭の採掘から守るために声をあげよう

Black Mesa Water CoalitionピーボディWestern Coal社がアリゾナのブラックメサでの石炭採掘を拡大する許可を求めている件で、現在アメリカ内務省が一般からの意見を求めている。世界最大の石炭会社である同社は米連邦露天採掘局(OSM)から永久採掘許可を入手しようとしていて、計画が実行に移されると、沙漠という環境ではなにものにも代え難いいのちの水を何千億ガロンもホピとナバホの人たちの土地から吸い上げることになり、同じ帯水域の地下水から流れ出すホピの聖なる泉が壊滅的な被害をこうむることになるだろう。またネイティブ・ピープルの長老は「石炭は母なる地球の肝臓だ」と語っており、大地から石炭を取りだし続けることが地球に与えるダメージについても思いを馳せてほしい。地球に生きる人たちが、アメリカの政府に反対の意志と意見を伝える最終期限は2月6日。現在「STOP PEABODY!」をはじめいくつかのサイトから直接反対意見をアメリカ政府に伝えられるようになっている。いくつか見比べてみていちばんわかりやすかったのが「自然資源防衛会議(Natural Resources Defense Council)」の「Earth Action Center」のサイト。メールのアドレスや名前や住所を書き込んでクリックするだけでよい。世界中どこからでも意見を伝えられるようになっているので、今すぐに行動を。

   http://www.nrdconline.org/campaign/nrdcaction_013007

ブラックメサにおける水資源を守り化石燃料採掘に依存しない先住民社会をめざす「Black Mesa Water Coalition」のサイトにも詳しい情報が掲載されている。

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アメリカにとって最も危険な男のクールなドキュメンタリー



1969年から1979年までの10年間に、連邦捜査局(米国、FBI)がのべ17000ページにおよぶ人物調査記録を作成しそのなかで「おそろしいまでに雄弁であり、それがゆえに桁外れに危険」と指摘され「アメリカにとって最も危険なインディアン」のひとりとされてきたジョン・トルーデル(John Trudell)。サム・シェパードが監督としてラコタのリザベーションにおける殺人事件を描いたクールな映画「サンダーハート」でも彼の分身のような男が出てくる。ネイティブ・アメリカンを代表する詩人であると同時にスピリットダンサー、アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)の社会活動家としてもその名を轟かせてきた。アルカトラツ島占領、ワシントンDCのインディアン局(BIA)占拠など、過去30年におよぶほとんどすべてのアメリカ大陸先住民の権利回復運動に深く関与し、その活動の代償として何者かによって妻子は殺害された。これはレオナルド・ペルティエーとならんでアメリカが最もおそれているインディアンの平和活動家の過去と今の姿を追いかけた1時間(60分)のプロフィール・ドキュメンタリーだ。まるでロックコンサートのような熱気あふれる彼のポエトリーリーディングの会場から大自然のなかまで。ロバート・レッドフォード(俳優)、ウィルマ・マンキラー(チェロキー部族会議議長)、ジャクソン・ブラウン(ロック・シンガー)が語る彼の人物像。インデイニアス・ジェネティック・メモリー(先住民としての遺伝子の記憶)から流れ出す言葉を体験してみてください。当時のアルカトラツ占領のテレビニュースも見れるし、アルカトラツ島からアメリカに向けて流された自由ラジオのメッセージも聴くことができる。pbs(アメリカの公共放送)で放映されたもの。インディペンデントレンズ制作、監督 Heather Rae。(英語)

Google VIDEO : John Trudell efforts to gain equality for indigenous people

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Monday, January 29, 2007

子どもには最初にわけあうことを教えこむ


Mourning Dove
Mourning Dove
(Christine Quintasket)
Salish, 1888 - 1936

子どもたちはなにはさておきまず「わけあうこと」を考えるように厳しくしつけられました。女の子がはじめていちご摘みや植物の根を掘り出しに参加したときなどには、自分の摘んだいちごや掘り出した根を一族の長老にまずプレゼントするようにしむけられます。そうすることで少女は将来にわたって自分が得たものをみんなと分けあうようになるのです。子どもが水汲場から水を運んできたら、エルダーたちはそのことを褒め、少年が運んできた水や少女の摘んできたいちごをさもおいしそうに大げさなまでに味わって見せました。子どもは怠けることなく若木のようにまっすぐに育つことを奨励されたのです。

モーンニング・ダブ(クリスティーン・クィンタスケット)
サリッシュ一族、作家


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Saturday, January 27, 2007

続・正しい時と場所を生きる(1966-1976)

今回も「正しい時と場所を生きる(Native Heart: Thursday, January 25, 2007)」の続きの10年を『ネイティブ・タイム』(補遺・Version 4)から拾い出して再構成してみた。ローリング・サンダーが生きた時代がどんなものだったか理解されれば幸いである。なお76年以降は、Native Time 補遺 Version 4 として、限定的に『ネイティブ・タイム』(地湧社刊 Version 3)の読者のために公開してあるので、お知らせをご覧ください。


バックパッキング革命が起こる
1966年、LSDや大麻やシロシビン(マジック・マッシュルーム)やペヨーテといった、人間をさまざまに縛りつけている文化的な条件づけを解除させる働きを持つドラッグが、欧米の若者たちの関心事になった。アメリカでバックパッキング革命がはじまり、多くの若者たちが寝袋など背中に背負えるだけの家財道具を持って地球を放浪するようになった。そして意識を拡張する働きを持つLSDがアメリカで非合法化されたこの年、ベトナム戦争で死んだアメリカ人が五千人を越えた。国連総会で「国連人権規約B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)」が採択され、その二十七条は「種族的・宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」と明確に規定した。フランスが自国の領土としていた南太平洋ポリネシアのムルロア、ファンガタウファ両環礁で大気圏核実験をおこなった。大気圏核実験は七十四年まで続けられた。

ホピの伝統派と進歩派の分裂が顕在化
1967年、アメリカ中から何万人という若者たちがサンフランシスコ市のハイトアシュベリー地区やニューヨーク市のイースト・ビレッジに「愛の夏(サマー・オブ・ラブ)」のために集まった。支配者的な階層制度に基づく価値観から逃げ出し、体制の網の目からおっこちてヒッピーやフラワー・チルドレンになる−−白いインディアンの−−生き方が、若者たちの心をとらえた。アメリカで大人と子どもの間が内戦状態に。アメリカ合衆国が保有する核爆弾は三万二千五百発と発表された。アメリカ政府の傀儡であるホピ部族会議が、伝統派の人たちの強硬な反対を押し切るかたちで、いかなる「ヒッピー」たちのグループがリザベーションのなかに留まることを独断で禁止し、部族内の対立が激化した。

先住民文化への関心の高まり
1968年、先住民文化への関心が高まりはじめた一方で、混血が急増し、自分が何族に属するのかもわからないようなインディアンも多数生まれて、インディアンの各部族社会が文化的な危機を迎える。アメリカ先住民の間で「白人文化と対抗するためにはインディアンは部族を越えてひとつにまとまるべきだ」という考え方に基づいて「汎インディアン運動」が起き、アメリカンインディアン運動(AIM)が誕生。インディアン市民権法が施行され、部族政府が個人権利を侵犯することを禁止した。ホピのキクモングイのひとりダン・カチョンバはこの年百歳を超えていたがマーロン・ブランドと共にテレビに出演して、電柱の設置問題に端を発したホピのなかの進歩派との争いに言及し、伝統派のホピへの支援を広く大衆に要請した。シカゴで狩猟採集民を研究する世界中の人類学者たちの学会が開かれて「狩猟採集民の生活形態が農耕社会に比べて長時間の余暇を生み、通常は集団を養うに足る栄養価の高い食料を確保する」と結論づける議事録を公開し、社会科学の世界に激しい衝撃を引き起こした。フランスがなにごともなかったかのように南大平洋で核実験を行った。ベトナム南部の集落で米軍による住民の大量虐殺がおこなわれたが、事件は秘密にされた。

アルカトラツ占拠事件のはかりしれぬ衝撃
1969年、結婚したばかりのジョン・レノンとオノ・ヨーコがアムステルダムのヒルトンホテルで最初のベッド・インを行ない「戦争ではなく、愛をしよう」と訴えた。アメリカ合衆国 がアリューシャン列島 のアムチトカ島 で行おうとしている地下核実験 に反対するために、カナダ のバンクーバー に「波を立てるな委員会 Don't Make a Wave Committee」という組織が誕生した。この組織は、のちに「環境」を意味する「グリーン green」と「平和」を意味する「ピース peace」をくっつけて、「グリーンピース Greenpeace」と改名する。モホークのチーフを長とした諸部族からなる八十九人のアメリカ・インディアンの青年活動家たちが、自ら「すべてのインディアンの代表 "Indians of All Tribes"」を名乗り、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツ島を占拠して「アメリカ大陸はもともとインディアンのものである」と世界に向けて宣言した。全米のアメリカ・インディアンたちがこの占拠事件に影響を受けて、ネイティブ・アメリカンの精神復興と権利回復の運動がはじまる。このときのアルカトラツ島の占拠は、同時に進行していたアメリカの若者革命にも影響を与えつつまる二年間続いた。この年、アメリカの宇宙飛行士がはじめて月面に立ち、残りの人類が、月から眺めた地球の映像をテレビで目撃した。地球全体の姿が人類の目にさらされたのはこれがはじめて。宇宙飛行士たちは月面を歩き回りそこで得た石のサンプルを地球に持ち帰った。神秘主義や神霊や魔術や密教への関心が若者の世界で高まりつつあった。前年のベトナム南部の集落における米軍による住民の大量虐殺が内部告発によって世界に知らされた。アメリカ合衆国がアリューシャン列島のアムチトカ島で地下核実験を実施。ホピの部族会議の承認を得たとして伝統派の反対を押し切る形でホピの土地で石炭の大規模な露天掘りによる採掘が開始された。日本国政府が「部落差別の解消は国の責務」として西暦二千年までの特別措置法を制定。改善が必要な地域を同和地区と指定した。

ネイティブ・アメリカンという用語の発明
1970年、アメリカの大統領が公式にインディアン絶滅政策を終了させ、部族に自決権を認めた。アメリカ合衆国内務省が「ネイティブ・アメリカン」という政治用語を発明した。人口構成の一覧表をつくりやすくすることが目的で、この「ネイティブ・アメリカン」のなかには「ハワイの先住民(ハワイアン)」「エスキモー(イヌイット)」「サモアン」「ミクロネシアン」「ポリネシアン」「アリュート(アリューシャン列島の先住民)」も含まれた。すべての先住民の痕跡や真のアイデンティティーをきれいに消し去ることが目的だった。この年の夏、アメリカ大陸南西部のホピの国の周辺でUFOがしばしば目撃された。ホピ・インディアンのなかにはそれを古くから語り継がれてきた「浄化の日」のはじまりだと主張するものもいた。浄化の日が訪れると、ホピは「翼のない船」で別の惑星に運ばれるのだという。このUFO騒動をきっかけにして、ホピの人たちは再び信じる者と信じない者とに分裂した。ディー・ブラウンという小説家の書いたノンフィクション『わが魂をウーンデッドニーに埋めよ』という本がベストセラーに。自分たちの聖地だった青き湖ブルーレイク周辺の原生林の森の自由な通行と本来の所有権の認定を求めて戦い続けてきたプエブロの人たちが60年かかって勝利した。AIM(アメリカン・インディアン運動)の最初の全米会議が開催された。

世界の聖なる中心における資源開発という愚行
1971年、アラスカで「先住調停法(アラスカ先住民権益措置法)」が制定され、北極圏とアラスカをつなぐパイプラインの建設計画が始動。サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツ島に大学を作りインディアンのスピリチュアルな中心としてはどうかというネイティブ・ピープルの提案を拒絶した合衆国政府が、武装した十五人の兵をアルカトラツ島に上陸させた。二年以上居座っていたインディアンたちは、流血さわぎを起こすことなく、整然と島から退去した。四十人の各部族からなるアメリカ・インディアンが、サウスダコタ州パイン・リッジ・リザベーションのなかにあるマウント・ラシュモア国立公園の、アメリカを建国した三人の大統領の顔が掘られている岩山の山頂、ちょうど大統領の頭のてっぺんを占拠して権利の復興を訴えるという事件が起きる。亀の島が長い眠りから目を覚ました。ホピ国の有志が、彼らが「世界の聖なる中心」と見るフォーコーナーズ地域の資源開発に異議の申し立てをおこなった。アリューシャン列島のアムチトカ島でアメリカ合衆国が史上最大の地下核実験(広島型原爆の二百五十倍)を強行した。カナダの市民らがこの実験に反対して現地に船を出して抗議。グリンピースという環境平和直接行動団体が誕生した。日本国の岐阜県下呂市金山町岩瀬でダム建設に伴って発見された縄文遺跡から高さと幅約五〜十メートルの巨石群が見つかり、太陽の観測に使われた暦であることが後にわかった。七月の東京の練馬区で夜間かろうじて天の川が観測された。そしてこのときの記録を最後に、東京では夜に天の川を見ることができなくなってしまった。

アメリカ・インディァン精神復興運動の高まり
1972年、アメリカ合衆国で亀の島の住人たちによるデモがおこなわれた。「アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)」や「破られた条約の道(トレイル・オブ・ブロークン・トリィティズ)」のメンバーや支援者たちがアメリカの首府ワシントンDCで合衆国内務省インディアン局(BIA)の連邦政府ビルを占拠した。シカゴ大学のマーシャル・サーリンズ教授が『石器時代の経済学』という書物を著し、そのなかで「人口が少なく、満ち足りて、特定の地域に精通している状況で、人間は充分に食べ、余暇を堪能し、心身の健康も保たれる」として、人間社会の進化に関する固定観念を覆した。スウェーデンのストックホルムで世界の少数民族の精神的指導者などの代表らも参加して国際連合が人間環境会議を開催し、宣言のなかで「地球の危機」がうたわれた。ローリング・サンダーも招かれてこの会議に参加して先住民の視点からの自然環境の見え方について語った。73年にはアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)のグループに属するインディアンの若者たち二百人ほどが、サウスダコタ州のパイン・リッジ・リザベーションにある交易所と教会とラシュモア山を二か月以上にわたって占拠。ホピの国のオライビ村が白人のよそ者の観光客の立ち入りを禁止した。この事件を契機に亀の島が再び目覚め、アメリカ・インディァンの精神復興運動が大きく動きはじめた。この年のアカデミー賞を受賞したハリウッド・スターのマーロン・ブランドが、授賞式の会場で合衆国政府のアメリカ・インディアンの不当な扱いにたいして抗議の声をあげた。

意図的に作られたホピとナバホの対立
1974年、北海道島の根室市内において祖先供養のための儀式「ノッカマップ=イチャルバ」が開催されたこの年、アイヌ解放同盟綱領案が起草された。アイヌの山本多助エカシが『阿寒国立公園とアイヌの話』という本を著し「エゾが島の主権者はアイヌである事は異論をとなえる余地がない」として、アイヌは「北はカムチャッカに至り、千島列島其の他の小島まで地名を名付けて保護利用していたものである。現在、本州・四国・九州に至るまで少なからずアイヌ語によらなければ解明出来かねる多くの地名の現存して居るのはなんのためなのであろうか。それにカラフト及び黒龍江までアイヌ語地名はなぜあるのか。更にアイヌ語の研究をきわめると日本語の原流を開明出来る其のカギが、アイヌ語の内にしっかりと保管されて居る事はなんのため、どんな理由があるのだろう。大いに疑問を持って研究すべきである」と書き記した。亀の島の先住民であるホピ族とナバホ族の土地争議を解決させるという名目で、合衆国政府がこれに直接関与できるようにするための法律が作られた。狙いはホピとナバホの土地の下に眠っている石炭や石油やウラニウムといった埋蔵鉱物資源だった。ホピ部族会議はこれと前後して自分たちのものと主張する土地を勢力下に置きナバホの人たちを立ち退かせるなど意図的に悪感情をかもしだしはじめた。ホピとナバホの二つの部族の対立をあおることが、地下資源に目をつけた多国籍企業にとっては都合のよいことだったから。

伝統的な生き方を探し求めて
1975年、沖縄県で沖縄国際海洋博覧会が半年間開催され、皇太子が沖縄を訪問したが、「ひめゆりの塔」のそばで現地の青年から火炎ビンを投げつけられた。この海洋博開催にあわせて、ミクロネシアのサタワル島から外洋型航海カヌーに乗った使者が五千キロを旅してやってきた。アメリカ合衆国サウスダコタ州のパイン・リッジ居留地でアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)の活動家とFBIの間で武力衝突が起き、二人のFBI捜査官が死亡した。俗に「最後のウーンデッドニーの戦い」といわれるものである。この事件の犯人としてAIMのメンバーだった青年がのちに容疑者として逮捕され、容疑否認のまま無期懲役の刑を言い渡されて刑務所に収監された。ネバダ州の北東部のカーリンという町の東の外れの二百六十二エイカーの土地に、チェロキーのメディスンマンだったローリング・サンダーと彼の妻でウエスタンショショーニのスポッテッド・フォーンのふたりのヴイジョンに基づいて、部族を越え、人種を越えてもう一度昔ながらの祈りのある生き方にもどりたいと望む人たちにそのための学びの場を提供する非営利の組織メタ・タンテイが築かれた。部族会議と対立するホピの国の伝統派の長老たちが自分たちの機関紙を刊行しはじめた。インディアンの自決と教育を支援する法律によってアメリカ・インディアンの裁量権が拡大した。

「ブラック・エルクは語る」が日本語に訳された
1976年、合衆国でインディアンの健康支援法が施行され、一般のアメリカ人と同程度まで、アメリカ・インディアンおよびアラスカのネイティブの健康程度を高めることが国の政策に盛り込まれた。[この年の十一月に北山耕平が渡米してアメリカ無宿となる。^^; ]翌77年、二年前のウーンデッドニーの武力衝突で、レオナルド・ペルティエというラコタの青年がFBI捜査官殺人の容疑者として逮捕された。ペルティエは最初から殺人容疑を全面的に否定して、以後合衆国政府と裁判闘争を続ける。ホピはナバホとの土地分割によって自分たちから奪い取られたすべての土地の賠償金として五百万ドルを政府から受け取ることを求められた。部族議会は六千人余りの有権者のうちで金を受け取ることに賛成した三百人たらずの数字でこの申し入れを受け入れることに。アメリカ・インディアンのスー族のメディスンマンであったブラック・エルクが語った言葉をまとめた『ブラック・エルクは語る』が、二年前のウーンデッドニーの武力衝突で現場にいたためにアメリカを追われることとなったシャイアン育ちの女性とその夫の日本人の手によって日本語化された。


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Friday, January 26, 2007

アーバン・インディアンであること

アーバン・インディアンであること、それはふたつの世界を歩きながら、自分の文化的アイデンティティーをおとしめないことです。自分がなにもので、どこで生まれて育ったかを無視することはできません。現代世界で暮らしながら、伝統的な習慣を維持できていることが、わたしの誇りです。

ジャナ・ムッショーニ(Jana Mashonee)ランビー・タスカローラ

ジャナ(写真)は昨年末「American Indian Story」というアルバムでグラミー賞にノミネートされた歌い手であり、ソングライターで、女優でもある。ノースカロライナ出身で、ネイティブの部族でいうとランビーとタスカローラ(イロコイ連合)に属する。Jana Mashoneeデビューアルバムの「Flash Of A Firefly」で「2006 Native America Music Awards」も受賞、二十一世紀を代表するネイティブ・アメリカン・ポップ・アーティストのひとりになることはまちがいない。一曲だけダウンロードして聞くようなタイプのミュージシャンではなく、アルバム全体をぜひ聞いてほしいな。2005年のクリスマスアルバム「American Indian Christmas」はさまざまな部族の言葉で歌ったクリスマスソング。けっこう気に入っています。なお「アーバン・インディアン」とはリザベーションから離れて大都市に出て暮らしているネイティブ・アメリカンを指す言葉。「ふたつの世界を美しく歩め」(Walk in Beauty in Two World)は,早くから文化的な緩衝の位置にいたランビーの人たちの教えだという。

shop NATIVE HEART powered by Amazon にもいれておきました。

ジャナの公式ホームページ「ジャナ・ネーション」(2006 Native America Music Awards受賞アルバムから "I'll Be With You" が聞けます。)

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南カリフォルニア・スタイル——寿命を延ばすための10か条

  1. 笑う
  2. 携帯電話を運転中に使用しない
  3. ストレスを減らす
  4. 歯の手入れ
  5. 運動をする
  6. 頭の体操をする
  7. ビタミンを摂取する
  8. ファストフードを避ける
  9. トマトを積極的に食す
  10. 喫煙をやめる

詳しくは:livedoor ニュース - 寿命を延ばすための“10か条” 笑い・頭の体操・禁煙など

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Thursday, January 25, 2007

正しい時と場所を生きる

Portrait of RT

Portrait of RT, at the Meta Tantay community
in Carlin, Nevada.
Painting by Hank Greb


"We say there is a right time and place for everything. It's easy to say, but hard to understand. You have to live it to understand it."
-- Rolling Thunder, CHEROKEE


ローリング・サンダーの命日である今日は、彼がインディアンの精神と権利の復興のために最も精力的に活動していた1945年から1965年までの20年間を『ネイティブ・タイム』(補遺)として時系列を追って見ていくことにした。ホピとローリング・サンダーの出会いが、ヨーロッパによる征服以来眠り続けたネイティブのスピリットにいかに目覚めをもたらし、また21世紀の今にもつながる南北アメリカの先住民のルネサンス(正義と平和と自由と調和と自然のよみがえりを求める潮流)や汎インディアン運動といった時代の動きに、どのようにかかわっていったのかの一部でも、読者に理解されれば幸いである。

ホピの国でコヨーテが話した
核爆弾が日本列島の2個所で人間の暮らしている土地に投下されて全世界が原子力時代の入口におかれた1945年はまた、南北アメリカ大陸の先住民にとっては忘れられない年でもある。この年、インカ帝国滅亡後412年目にしてはじめてインディアン会議がボリビアで招集され、1500人の代表が顔をそろえた。その2年後の47年、ホピ国のコヨーテ氏族のキクモングイ(長)が「天から灰のつまったヒョウタンが落ち、海を煮えたぎらせ、大地を焼き、それに続く何年も植物が育たない」ことが起こるまで秘密にするように指示されていた教えと預言をホピの他の指導者たちにはじめてあきらかにした。この預言があきらかにされると、ホピの国では「コヨーテが話すまでは語るな」と指示されていたという教えがつぎつぎとあきらかにされていく。

ホピの教えを世界に広めよ
1948年、ホピの国で、「灰の詰まったひょうたん(原爆と水爆)が二つ大地に落とされる」という予言の実現を受けて、各氏族の精神的指導者たちおよび長老たちの正式な集会が開かれ、ホピの教えを世界の人たちに広く知らしめることの重要性についてはじめて話し合われ、ホピの教えを世界に伝えるための通詞四人が選び出される。これが21世紀までつながるインディアン再生運動のはじまりを告げる出来事だった。まずはその年、ホピの国から貨物列車で預言の確認のことでトーマス・バンヤッカという名前の、外の世界にたいするスポークスマン兼通詞をふくむ使者たちが、東のイロコイ6ヵ国連合に派遣された。ホビの国の人たちはミシシッピ川の東側のインディアンたちは絶滅させられたと思っていたのだが、第二次世界大戦で戦地におもむいた若者のなかにニューヨークから来たインディアンと出会ったというものがいたことから、あらためて使者が派遣されることになったものだ。

ホピ、すべてのインディアンに呼びかける
翌1949年、ホピ・インディアンの三つの村の祖先以来のチーフたちが合議のうえで、「ホピ・インディアン帝国」から合衆国大統領とすべてのアメリカ・インディアンたちに宛てた親書を送り、そのなかで「なにがあなたたちの宗教のもとになっているのか?」と問いかけた。南米のペルーで大きな地震が起こり、クスコという町の近くに建っていたある修道院の地下の地面がふたつに破れて、そこから黄金で作られた古代インカの寺院が姿を現わした。南北アメリカの先住民の国々を代表するエルダーたちが正装でニューヨークにある国際連合のビルの正門前に訪れて議会での発言を求めたが拒絶されている。そして50年にはラコタの聖者だったブラック・エルクが87年の生涯を終えた[ちなみに、この年の暮れにぼくは生まれてる。^^;]

ショショーニの土地に核実験場
1951年にアメリカ政府は「インディアン都市移住計画」を開始する。土地利用問題解決を目的としてホピ国で有名無実化していた部族議会が復活。アメリカ政府が先住民である西ショショーニの人たちから取り上げて軍用地にしたネバダの砂漠にネバダ核実験場の施設を作りはじめた。52年、イギリスがオーストラリア西岸のモンテベロ島で最初の大気圏核実験をおこない、アメリカは大平洋で水爆の実験。53年にはソ連が水爆の実験をセミパラチンスクで成功させ、アメリカ合衆国の大統領が国連で「原子力の平和利用——アトム・フォー・ピース」をぶちあげた。また同じアメリカではこの年に「部族廃止法」が制定されて、特定の部族と合衆国政府間の信託関係が廃止されている。54年には世界で最初の工業用原子力発電所がソ連で稼働しはじめる。

ホピ、ローリング・サンダーらに呼びかける
1955年、アメリカが南ベトナムの軍事政権に肩入れする形でベトナム戦争がはじまった年、それまで人里離れたところでおこなわれていた核実験が、ストロンチウム九○の濃度というかたちで、めぐりめぐって、地球上のすべての人たちに影響を与えていることがわかりはじめる。イギリスが水爆製造計画を公開し、フランスが原爆製造計画を発表したこの年、イロコイ(タスカローラ)のマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーのジョン・ポープ・ローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったインディアンのメディスンマンやスポークスマンたちに、ホピの国で開催されるインディアン統一運動への支援が呼びかけられた。

グレイトスビリットの道へ戻れ
1956年、詩人のアレン・ギンズバーグが「吠える」を発表し、アメリカに最初の白いインディアンであるビート族があらわれたこの年、前年の呼びかけを受けて、ホピ国のホテビラ村において宗教者会議が開かれ、インディアンの国々の代表や白人の心ある人たちが出席して、「ホピの預言」がはじめて英語化されて世に出た。席上「グレイトスピリットの道に戻れ」とする呼びかけが出されて、これがのちのインディアン統一運動へとつながっていくことになる。タスカローラのマッド・ベア・アンダーソン、チェロキーとショショーニのローリング・サンダー、チュマッシュのシム・ワウーテといったネイティブのメディスンマンやカフナで、それぞれがインディアン世界のスポークスマンだった人たちにホビの国があらためて支援を要請。この年、アメリカが日本にウランを貸し与えることを認めるかたちで、日本がアメリカの原子力(経済)政策に組み込まれていく。

日本列島に原子力の火が
1957年、日本国の茨城県の東海村に、国策で建造された原子力研究所の実験炉が臨界に達し、日本列島に最初の原子の火がともる。日本国の各地方の電力会社が原子力発電計画を作りはじめる。ジャック・ケルアックが『オン・ザ・ロード(日本語タイトルは「路上」)』を著したこの年、アメリカがネバダ州の沙漠の核実験場で初めての地下核実験をおこなう。イギリスがハワイ島の南に位置するクリスマス島で最初の核実験。ソ連ウラル地方の核工場で核廃棄物の爆発事故が起きたが、その事実は20年間封印された。

ホピ、国連を目指す
1959年、アラスカがアメリカ合衆国の49番目の、ハワイ諸島が50番目の州にされた年、アメリカ南西部の高原沙漠で生き残っていた伝統派のホピの国の人たちが、古代から伝わる伝承に基づき、自分たちの母なる国土の東のはずれに建つ雲母の家(国連ビル)に赴く時だと判断して、代表者6人をはるばるニューヨークの国連に派遣している。ホピに伝わる伝承では、「国土の東のはずれにたてられた雲母の家には困っている人たちを助けるために世界各地から偉大な指導者たちが集まっている」ことになっていた。翌60年、ホピの国で歴史上はじめて女性のキクモングイ(長)が誕生し、聖なる石版が彼女にゆだねられることになった。

次世代を導く使者にえらばれた4人のカリスマ
そして1961年、アメリカ合衆国政府がこれまでとり続けてきた先住民族絶滅と強制移住政策に終止符を打つべく、いくつものインディアンの青年たちの戦闘隊がアメリカ国内で組織された。ホピの国がインディアンの若者だけでなく白人でインディアンの心を理解する世代を導き社会を有益な方向へと組織化し次世代を先導させるための使者として、ローリング・サンダー(チェロキー・ショショーニ)、シム・ワウーテ(チュマッシュ)、クレイグ・カーペンター(オジブエ)、デイビッド・ブレイ(ハワイのカフナ)の4人のカリスマたちを正式に指名した。全米の64の部族から700人を超えるインディアンたちがシカゴに集まり、自分たちの置かれている現状や今後の課題を討議し、自分たちの主張を宣言にまとめた。

サイレント・スプリング(沈黙の春)の衝撃
1962年、日本国が初めて製造した原子炉が臨界にたっし、アメリカ人作家のレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書いた年。ホピのキクモングイらの反対にもかかわらず、ホピの居留地の主要な部分を、ナバホとの共同利用区域に指定するというアメリカ政府の行政命令が出された。そしてこの共同利用区域には、ブラックメサの露天鉱の借地権がふくまれていた。このためにホピの土地とナバホの土地を分割すべしとの声がホピの部族会議のなかで高まる。

権利回復と価値転換のはじまり
1963年、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で金錫亨【キムソクヒョン】という名前の歴史学者が「歴史科学」という雑誌に「三韓三国の日本列島内分国について」という論文を発表し、明治以後の日本ではあたりまえとされていた「古代の朝鮮半島にあった百済・新羅・任那(伽羅)を支配していたのは日本である」という「日本中心主義歴史観」を全面的にひっくり返し「古代にはそれらの諸国が日本列島内に分国を配置して支配と経営をしていた」と主張した。同じ年、黒人やマイノリティの権利回復運動が高まりはじめたアメリカで、ジョージ・ウォレスという右翼の政治家が「今日も差別、明日も差別、永遠に差別!」と公然と主張した。この演説の草稿を書いたのは実はウォレス本人ではなく、「エース・カーター」ことアサ・アール・カーターが本名の、当時過激な活動を展開していた極右白人優越主義者団体KKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーの男といわれ、このカーターはのちに「フォレスト・カーター」を名乗って西部劇を書く小説家となり、かの有名なインディアン小説の『リトル・トゥリーの教育』(邦題『リトル・ツリー』)を発表することになる。ハーバード大学の教授のティモシー・レアリー博士がマジック・マッシュルームの成分であるシロシビンの研究をおこない、その結果を「チベットの死者の書」と対比させながら「サイケデリック体験」をポジティブに使うための手引書として出版した。

アメリカ・インディアンが動く
1964年、アラスカをマグニチュード8という桁はずれに巨大な地震が襲った。伝統的な部族の衣装を身にまとった5人のアメリカ先住民に伴われて、偉大なるスーの国の一員であり、アメリカ・インディアン会議のベイエリア地域支部長が、サンフランシスコ湾のまん中にある岩でできた小さな島に降り立ち、丘の斜面にアメリカの国旗を立てて儀式を行ったあと記者会見を開き、1868年のララミー砦における条約に基づき、この「岩」がインディアンのものであると宣言した。巨大な岩の塊はアルカトラツ島と呼ばれ、脱走がむずかしい島としてアメリカ合衆国が連邦刑務所を設けていたが、その頃にはもう空になっていたのである。やがてひとりのメディスンマンがパイプに火をつけ、白い煙がたちのぼると、国立公園のレンジャーがやってきて、インディアンたちを退去させるという事件が起きた。ホピとナバホの国でアメリカ政府と企業(世界最大の炭坑企業)の意向を受けた部族議会が、ブラックメサの地下に眠る石炭の採掘権を承認した。この年、東京オリンピックが開催され、陸上トラックの1万メートル競技で、ひとりのアメリカ・インディアン(ラコタ族パイン・リッジ・リザベーション)出身の26才の青年が優勝した。青年は名前を「ビリー・ミルズ」といい、アメリカ陸上チームに選ばれた最初でただひとりのスー・インディアンの青年だった。

日本列島と南米のつながり
1965年、産軍複合体にコントロールされるかのようにアメリカがベトナムで地上戦に突入し、世界各地でベトナム反戦運動の気運が高まった。アメリカの先住民で徴兵されてアメリカ軍の兵士としてベトナムに派兵された者は42500人を数えた。アメリカの大統領が日本国の首相に核武装を示唆。アメリカ人の考古学者であり国立スミソニアン研究所のエバンスとメガースの両教授が、南米エクアドルのバルディビア遺跡を調査し、そこから発掘される土器群が、様式や年代において日本の「縄文」土器と明確な対応を示していると発表した。二人は「日本から南米への土器文化の伝播」もありうるのではないかと指摘した。この年、日本国東海村に設置されていた原子力発電所が初めて臨界に達した。


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Wednesday, January 24, 2007

チェロキー一族最後のメディスンマン


Amoneeta Sequoyah

Amoneeta Wolf Sequoyah
Cherokee Medicine Man

「今後、世界が終わるときまで、イースタン・チェロキーからメディスンマンの指導者が現れることは、もうないだろう。人種としてのチェロキーは終わったも同然だ。みなことごとく白人になってしまった」
アモニーダ・ウルフ・シクォヤ( Amoneeta Wolf Sequoyah )

明日1月25日はローリング・サンダーが地球の旅を終えてからちょうど10年目になる。この機会にローリング・サンダーに薬草のことやメディスンのことを教えた偉大な人物をすこし紹介しておこう。このふたつの世紀を生きた偉大なチェロキーのメディスンマンがローリング・サンダーに与えた影響の大きさがわかるはずだ。ロバート・ヤードレーという、運命的に彼の最期を看取った医療関係の人物が後に描き残した「チェロキーの最後のメディスンマン」という文書が手元にあるので、それを参考にした。[source : The Last Medicine Man in Cherokee written by Robert Yardley ]

アモニーダ・シクォヤはフルブラッドのチェロキーとして19世紀の前半に生まれて百年を超えて生き、1976年に地球の旅を終えている。メディスンマンであり、トリックスターであり、きわめて正直な人だったという。動かなくなったおんぼろの——なかにはただのひとつも時計がない——トレーラーハウスで暮らし、動物や植物との会話ができ、白人相手にはアパラチアン・イングリッシュといわれるかなりかわった——ぶっとんだ——英語を話し、生き残るためにはなんでもやった人で、テレビや映画の西部劇にも端役で出演したりしていたが、そうした仕事のない時——狩猟がうまくいかないとき——には、アメリカ政府からの生活補助を受けてフードクーポンで暮らしていた。小さなからだで、50年代後半にはフィンのついたボロキャデラックに乗り、生涯に3人のアメリカの大統領とも出会っている。

伝統的なヒーラーであり、アメリカ医師会から「ライセンスを持たないにもかかわらず医療行為をした」と非難されたことがあるが、彼は治療行為をしたのではなく、薬草の力を借りて「治癒をもたらした」にすぎないとして、それ以後はメディスンマンという名前を用いることはできなくて、単に「薬草家(ハーバリスト)」とのみ自分のことを名乗るようになった。赤と、白と、青とに塗り分けられた大きなピースパイプで誰とでも煙をわけあい、治癒を求める相手にも薬草をつめて吸わせた。相手がインディアンだと一切の治療費は受け取らず、インディアン以外だと「返金保証」で、一律18ドル(もしくはそれに見合うほどのもの)を請求したが、死ぬまでただの一度も金を返せと言われたことがないことが自慢だった。

チェロキー文字の開発者であり、「チェロキーの父」「チェロキーの最も偉大なチーフ」と呼ばれた大偉人のセコイヤ(シクォヤ)は母方の祖父であって、こともあろうにその名前がつけられた「セコイヤ原子力発電所」がチェロキーの人たちの墓地であるテネシー川そばのチャタヌーガの土地に建設されるときには自ら「一坪地主」となって抵抗運動にも加わった。(セコイヤ原発は1980年に操業を開始)

晩年は自分のことを「チェロキーにおける最後のメディスンマン」と呼ぶようになっていた。彼のメディスンについてはさまざまな奇跡の話が言い伝えられているが、実際に彼のヒーリングの場に立ちあった人によれば、それは自然にたいする全面的な信仰であったという。「信心と誠を偉大なる存在に与えれば、それは10倍の力を返してくれる」というのが、彼の癒しの中核にある考え方で、「癒しは自然がもたらす」と常に口にしていた。

リューマチで苦しむ女性が彼のもとを訪れて薬草を与えられ痛みがなくなったとき、「なぜこのリューマチの薬を売り出さないのか?」と尋ねられて、アモニーダは「このメディスンはあなたのためだけのものだから」とこたえている。「自分は病気を癒しているのではなく、それぞれの人が自分の力で自然に癒されているのだから、同じやり方はふたつとない」と。

「自分が教えたメディスンでわずかな金を稼ぐのはかまわんが、くれぐれもそれを使って大きく儲けようとなどしてはならない。もしそんなことをしたら、魂が毒に汚染されて永遠に地獄に堕ちることになる」

メディスンの極意を訪ねられて、彼は「真実を語ることだ。真実はあなたを自由にする」と答えている。「死」という言葉を使わずに、彼はいつも「眠る」という言葉を使った。そして彼がノースカロライナのクアラ自治領(東部チェロキーの土地)で長い眠りについたのは1976年のことだった。

 以前、ローリング・サンダーについて書いた記事のなかで「Amoneeta Sequoyah」の読み方を英語読みで「アモネータ・セコイヤ」と書いた。今回あらためてチェロキーの発音辞典で確認して、極力オリジナルに近い読み方にすることにして「アモニーダ・シクォヤ」と改めたことを付け加えておく。

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Tuesday, January 23, 2007

ONE(われわれはひとつの家族)

start_quote色々ありますが、要するにこれらは航海の一部に過ぎないんです。ただ、この出来事は私たちの結束を更に強めてくれました。私たちは2艘のカヌーで旅をしていますが、1つの航海に取り組んでいるんです。クルーは2組に分かれていますが、1つの家族です。今回のステアリング・スウィープの破損は、2組のクルーの間にさらなる力と結束を生み出したんです。end_quote

22日にホクレアのナビゲーターのナイノア・トンプソンが
ホノルル・アドバタイザー紙記者のインタヴューのなかで語った言葉の一部
(「航海カヌーマニア」の[ステアリング・スウィープの破損について続報]より)

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Monday, January 22, 2007

マオリの人たちが今朝夜明けの儀式を行った

NHKニュース(VIDEO映像あり)で興味深いお知らせを見つけた。マオリの人たちが今朝早くに東京の国立美術館のなかで儀式を行ったというニュースだ。儀式にはマオリの王も列席されたという。日本の王はどうしたのかしらね? これって「サンライズ・セレモニー」なのかなぁ。

マオリ民族は古くから航海を得意とし、およそ1000年前、ニュージーランドで定住したといわれる先住民族で、現在、人口の15%ほど占めています。「夜明けの儀式」は、23日から東京・台東区でマオリ民族の歴史や文化を初めて大規模に紹介する展覧会が始まるのを前に、災いが起きないようにとの願いを込めて、22日、日が昇る前の午前6時すぎに会場の東京国立博物館で行われました。マオリの人たちは、羽で出来たマントなど民族衣装を身にまとい、長老の祈りに合わせて、19世紀に作られた木彫りの記念碑や、500年以上前のものとみられるクジラの歯で出来たペンダントなどの前で、祈とうを繰り返していきました。この儀式は、ふだんは国外でめったに行われないもので、マオリのテ・アリキヌイ・トゥヘイティア王も参加して、神聖な展示物の前で祈りの歌をささげていました。マオリ民族のスポークスマン、コロ・ウィテレさんは「展示会を通して、日本とニュージーランドやマオリが、お互いの文化を理解しあってもらいたい」と話していました。この展示会は、東京国立博物館で、23日から3月18日まで開かれています。

source: マオリ民族 都内で伝統の夜明けの儀式(NHKニュース)

さっそく飛んでいった先の東京国立博物館の特別展のお知らせサイトには「日本初、マーオリ美術の大展覧会を開催します」とあります。「マーリオ」と「マリオ」だと「マーリオ」が正しい発音に近いんだろう。

imagename 南太平洋に浮かぶニュージーランドに、1000年前から暮らすマーオリ人。彼らの先祖は、すぐれた航海技術で太平洋の大海原を征服し、猛獣のいない豊饒の楽園アオテアロア(ニュージーランドのマーオリ名)にたどり着きました。太平洋の先祖たちの伝統から独自に発展したのがマーオリ美術です。

 マーオリのイウィ(部族)は、彼らを運んできたワカ(カヌー)、食料や貴重品を入れるパータカ(高床倉庫)、そして儀式や集会の場になるファレヌイ(集会所)を、アイデンティティの象徴としました。武勇を重んじてさまざまな武器を持ち、ニュージーランド南島で産出するポウナム(軟玉)の美しい緑の輝きを愛した彼らは、飛ぶことを忘れた美しい鳥の羽を利用して、さまざまなカフ(マント)を編み、首長を飾りました。すぐれた木彫には神や先祖の姿を刻み、イウィの絆を表現しています。マーオリ人は金属を利用しませんでしたが、人物像の眼の表現にアワビの殻の真珠層を用いるなど、独自の工夫がこらされました。

また東京国立博物館では2月3日(土)には国立民族学博物館教授 印東道子さんの「マーオリはどこから来たか」という講演もある。第一次の募集は終わっているが1月26日(金)まで先着順にて追加募集中。詳細はここへ。

source: マーオリ——楽園の神々(東京国立博物館)

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スピリット・オブ・アロハ

eddie_would_go
78年スターナビゲーションという伝統航法を学んだナイノアをナビゲーターにすえて、ハワイアンだけでタヒチを目指したホクレア号は、悪天候のため初日に転覆、エディ・アイカウという伝説のサーファーを失っている。転覆したホクレアにしがみついていたクルーは全員救助されたが、パドルボードで救助を呼びにいったエディだけが帰らぬ人となったのだった。今ではハワイでは「勇気」をふりおこすときに「エディなら行くぜ」という言葉が日常的に用いられる。
from Hansen`s Mixi
昨夜遅く神戸から帰り着いた。神戸のメリケン波止場近くで行われたホクレアのスピリットを顕彰し、それを迎える人たちの意識を高めるためのイベントはとても盛況で、130人かそれ以上の人たちが訪れてくれた。海洋ジャーナリストの内田正洋さん、HALKO(桑名晴子)さん、岡野弘幹さん、西表島出身の歌い手・南ぬ風人まーちゃん、長野県大鹿村在住の歌旅人・内田ボブさんといったひとたちと(それぞれの仲間たちとの)ジョイントした豪華な——質素であるがスピリットある——イベントで、内容も盛りたくさんであって、おかけでたくさんの懐かしい顔とも出会えたし、新しい出会いも多くあり、気がつけばあっという間の9時間を港のわきの倉庫を改造したイベントスペースで過ごすことができた。前日当日と今回のイベントの企画構成演出や裏方として参加してくれた20名を超える仲間たちにお礼を言います。こうしたイベントをとおして、ホクレアとその精神がさまざまな困難を乗り越える試練の航海(ロンゲスト・セイル)を続けて、正しいときと場所において、その優雅な姿を見せてくれるまで、常にハートが太平洋航海の歴史と文化を祝う旅の途上にあるホクレアと共にある人たちが、いずこからともなくたくさん自発的に出現するといいな。

追伸 ホクレア号、アリンガノ・マイス号の2艘のカヌーは、マヌカ沖を航行中に舵を取る為の木製の大きなパドル(ステアリング・スウィープ)の柄に亀裂が入っているのが発見され、その補修のためにビッグアイランドのケアラケクア湾に投錨して補修作業中だそうだ。内田さんが、ハワイ諸島の周辺の航海が貿易風の関係で最もきついと言っていたっけ。

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Saturday, January 20, 2007

アマゾンのインディアンを救おう


Amazon Indians

newsブラジルのアマゾン熱帯多雨林で生き延びている先住民の集団は、これまで信じられていたよりもはるかに数が多いが、しかしこの人たちは製材業者や鉱山業者のために絶滅させられようとしていると、イギリスのスコッツマンというニュース専門サイトが伝えている。

ブラジル国立インディアン財団の調査によると、これまで40グループほどと見積もられていた外界と隔絶したところで生き残っている先住民集団の数が、推定で67集団はあるらしいことがわかった。

「アマゾンの破壊のひどさからすれば、外界と接触しない人たちがまだ存在していること自体驚異的なことです」と部族の人たちを支援する活動を続けるサバイバル・インターナショナルの関係者は語る。

インディアン財団は今回の世界最大の熱帯雨林のジャングルを調査する過程で、新しいものも古いものもふくめていくつもの足跡やうち捨てられた小屋など、人間の生存をしめすものを数多く発見した。そこにはいまだ世界と接触したことのない大きな集団の先住民がいる可能性もあると、サバイバル・インターナショナルのコオーディネーターは話す。

その人たちは、1500年にポルトガル人のペドロ・カブラルがヨーロッバ人としてはじめてアマゾンに足を踏み入れた当時のままの、吹き矢と弓と矢で狩猟をする暮らしを送っているらしい。つまり「縄文時代」が、「ドリームタイム」が、まだそこではどうにか続いているというのである。

ブラジル政府は、極端な危険が彼らの身に迫らないかぎり、隔絶した暮らしを送るインディアンたちと接触することは避ける方針だそうだ。

図版は1899年にドイツで刊行された「 BIG PEOPLE AND LITTLE PEOPLE OF OTHER LANDS 」(EDWARD R. SHAW)という子供たちに世界のさまざまな土地で暮らす人たちのことを教えるための本に掲載されていたアマゾン・インディアン。

source: Experts double estimate of unknown Amazon tribes

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Friday, January 19, 2007

信ぜよ、さらば救われん

人の女性が大学の卒業を祝して、ある晩メキシコまで足を伸ばした。3人でしこたま酒をのみ、酔っぱらって、目を覚ましたらそこは刑務所だった。しかもこれから自分たちの死刑が執行されるというではないか。いくら考えても3人には昨晩自分たちがなにをしたのか皆目思い出せなかった。

最初の死刑執行はラコタの女性だった。電気椅子に縛られて、なにか言い残すことはないかと聞かれて、彼女はこたえた。

「わたしは昨日オグララ・ラコタ大学を卒業したばかりだし、ワカンタンカが全能の力を持っていて、必ず無実の人間を救ってくださるものと信じています」

その言葉のあとで彼らはスイッチを入れたがなにも起こらなかった。死刑の執行人たちはみなその場で床にひざまずいて許しをこい、彼女を釈放した。

つぎはチェロキーの女性の番だった。電気椅子のベルトがきつくしめられ、同じように言い残す言葉はないかと尋ねられた。

「わたしは昨日ハスケル・インディアン・ネーションズ大学を卒業したばかりですし、無実の人間を救うために正義の力がふるわれることを固く信じています」

再びスイッチが入れられたが、このときもまたなにも起こらなかった。刑の執行人たちはみな再びその場で床にひざまずくと許しをこうて彼女を放免した。

最後に残ったのがポタワトミの女性だった。彼女も同じように電気椅子に座らされてベルトがきつくしめられ、最後の言葉を求められた。彼女は言った。

「ええと、わたしはポタワトミ職業大学で電気工学を学んで卒業したばかりなので言わせてもらいますが、何度スイッチを入れてもコンセントが外れていては感電死なんかさせられっこありませんよ」

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Thursday, January 18, 2007

あの、真夜中まであと5分なんだけど

5 Minutes to Midnightnews語だと「5 Minutes to Midnight」となる。18人のノーベル賞受賞者をふくむ原子力科学者のグループが提供する終末時計の針がいっぺんに2分も進んで、終末5分前となった。

人類そのものの滅亡の最も大きな要因は核戦争だが、今は第2の核拡散時代のおそれにくわえ、先端科学者のグループは天候異変という新しい要素も加味し、そうしたものを起こしかねない技術や、生命に取り返しのつかない危害を加える生命科学やナノテクノロジーの新たな開発の分析も取り込んだ結果と説明している。自分の目で時計を確認してください。

arrow2 "Doomsday Clock" Moves Two Minutes Closer To Midnight

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近畿最古の弥生土器が出土

近畿最古の弥生土器が出土、縄文の特徴残す

日本経済新聞ネットニュースから

 大阪府四条畷市と寝屋川市にまたがる讃良郡条里遺跡を調査中の同府文化財センターは17日、最初期の弥生土器(紀元前7—同5世紀)が大量に出土したと発表した。近畿地方では最古の弥生土器で、形や文様に縄文土器の影響を色濃く残していた。縄文時代晩期の土器も見つかり、同センターは「縄文から弥生への過渡期の様相を示す資料」としている。

 遺跡は当時の集落跡で、住居跡の周囲から百数十個分の甕(かめ)や壺(つぼ)の破片や石包丁、ひしゃく形木製品などが出土。土器には縁に刻み目があるなど、縄文土器と共通の特徴がみられた。焼成に失敗した土器が複数あり、他の地域から持ち込んだのではなく集落内で製作していたとみられる。(23:24)

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世界でいちばん孤独だった木

Tree_of_Tenerenews語のウィキペディアで「有名な木のリスト( List of famous trees )」という項目を見つけて眺めていたら、そのアフリカの項目のトップに「テネレの孤独な木( Tree of Ténéré )」というのが出ていた。それはこの惑星で最も隔絶したところに生えている——いや生えていた——木だというではないか。アフリカ中西部、大陸のおなかが減っこんでいる所あたりの沙漠のまんなかのどこからも遠いところに、その樹は1973年まで確かに生えていたようだ。(写真)

ところがその年の11月のある日、申し立てによればひとりの酒に酔ったリビア人の運転するトラックが、コントロールを失って激突してこの木を砂の地面からなぎ倒してしまったのだという。開いた口がふさがりません。

いや酒に酔うっていうのはこういう事なのですね。見渡すかぎり400キロ四方植物なんてなにもないどころか、視界を遮るものなどなにひとつなくて、どこまでも広がるひたすらのっぺりとした灼熱の、世界有数の沙漠のどまんなかで、どんなにマヌケでも遠くから目に入ったランドマークのたった一本の木に、わざわざ狙ったように追突していくのですから。ものすごい確率だよね、これは。ったく、人間てわからないことをするものであります。

この木の生えていた正確な場所はここ(Google Map)。

ちなみに「有名な木のリスト at Wikipedia」にはアジアの代表として、屋久島の縄文杉と鎌倉鶴岡八幡宮の樹齢千年の大銀杏の樹が選ばれている。

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誰がアメリカなんか作ったのか?


Mt. Rusmore
図はインディアン・カントリーのど真ん中のサウスダコタにあるラシュモア山の岩山に彫り込まれた4つの大統領の首。左からジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン。空から見下ろしているのは四人の偉大なネイティブのチーフ。左からチーフ・ジョセフ(ネスパース一族[本名はヒンマトゥ・ヤラトラット。意味は山々のうえを転がり渡る雷])、チーフ・シッティング・ブル(ハンクパパラコタ一族[本名はタタンカ・イヨタケ。幼名はハンケシニ、意味はスロー])、ジェロニモ(チリカウアアパッチ[本名はゴヤァレェ。意味はあくびをするもの]ジェロニモというのはあだ名)、レッド・クラウド(オグラララコタ一族[本名はマクピャ・ルタ、意味は雲が赤い])。


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Monday, January 15, 2007

ネイティブ・ハートからのお知らせ

謹啓

excl

明日16日の午後からココログが24時間のメンテナンスを実施します(閲覧は可能)。また小生には原稿の締切もあり、週末には神戸のイベントに向かうので、今週は記事のアップロードがあまりできません。関心が高かったコギの人たちのことももう少し書いておきたいことがあるし、他にも記事として扱いたいことが多々あるのですが、残念ながら時事ネタはよほどのことがないかぎりしばらくスルーします。神戸のあとも、帝都東京におけるストーリーテリングの会がひかえていて、今月後半は記事を書くペースがスローになります。

またこれまで3年間にわたって当ブログに書きためて書庫に収めてあるもののなかから大切なものやおもしろいものを選び出し、新たに加筆や訂正をするなどして書籍化するプロジェクトが現在進んでいます。アナログな本ではありますが、ぼくはその世界で育ち、それで食べさせてもらっている身の上であり、時代が変わりつつあるとはいえ書籍を愛していることもあって、原稿が紙に文字として印刷された時点で、オリジナルの原稿は当ブログから消去されることになるとおもいます。コメントなどはそのまま残しますが、それ以降は、該当の記事は書籍版の「ネイティブ・ハート」をご購入いただき、お読みいただければ幸いです。

これからも物質的精神的なご支援をよろしくお願いします。

敬白

北山耕平
2007年1月15日月曜日 午後

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ホクレアはなにを運んでくるのだろう?

petroglyph クレアのハワイ島出航が迫っている。今日はホクレアについて書かれた二つのブログから言葉をひろってきた。ひとつはホクレアの動向を逐一報告し続けている「非公式応援サイト」である航海カヌーマニア[Floatin'round Vaka Houlua]からの引用だ。

それでだよ。ホクレアがついでに日本まで来る理由。まあ表向きの理由は色々あるだろうし、裏の理由も色々推測されている。でも、俺が思うに、今日本列島人がホクレアに学ばなきゃいけないのは次の二つだ。勇気、そして祈る心だ。

 勇気。血の気が引くことに、今日本でホクレアの記事を書いている雑誌のかなりのところは、ホクレアの魂、人類史上最も勇気ある男の一人、エディ・アイカウのことを書かない。多分知らないんだな。冗談よせよ。勇気ってものをローマ字にしたらcourageじゃなくてEddie Would Goになるんだよ。それってどうなのよ。全く駄目でしょう。お話にならん。エディの勇気が無かったら今頃ホクレアはモロカイ海峡の水底だ。命をかけてホクレアを生かした男の事跡を語らないでどうする。

 そして祈る心。荒木さんが俺たちの代わりにホクレアの旅立ちに際して祈りを捧げてくれたわけだが、祈りってのは船出の時にだけ捧げるもんじゃない。人間も人間社会も、それだけじゃあ自分のケツを拭けない。これは端的な事実だ。だから人力を越えた何かに祈る。祈って何かが確実に起こるわけじゃないが、祈ることで人間は人間以上の何かとコミュニケーションする。それが実在しているかどうかは問題じゃない。人間が無敵じゃないってことを対話のなかで理解する。その為の行為が祈りだ。

 ポリネシアの航海カヌーが旅立ちの前に必ず祈るのは、それで実効的な何かを呼び起こそうとしているんじゃないと俺は思う。あれはコミュニケーションなんだ。宇宙との。

ホクレアってなに? と今さらながらあっけにとられてる人は、上記「航海カヌーマニア」サイトの加藤晃生さんが「ホクレア号を待ちながら」というハワイの航海カヌー「ホクレア」に関する情報をまとめたウェブサイトを立ちあげているのでそちらを参考に。そこには「ホクレア」概説・用語集・年表・Who’s Whoなどが掲載されている。

もうひとつは今週21日の神戸メリケン波止場でのイベント「スピリットの帰還」をプロデュースしてくれたランド・アンドライフの辰巳玲子さんのプログ「ランド・アンド・ライフからの風」に掲載された「縄文からのいざない」という文章からの引用。

わたしたち、この日本と呼ばれる島じま(シマー縄張りー故郷ーよりどころ)に植えつけられたわたしたちは、問われている。そのシマに地球人としてのスピリットをもって再び立ち、誇りと希望を取り戻し、シンプルにスピリチュアルな暮らしを選び取る覚悟はあるのか、と強く問われていると感じて止まない。 ホクレア号は、30年間という年月のなかで、海と一体になり、自身と向き合い、何にも依存せず、からだと精神を持って、大海原の道を切り開いていく術を蘇らせていった。そして、西洋近代文明に侵され、忘れさられようとしていた先住民ー地球人ーとしてのアイデンティティ、尊厳、希望、喜びを取り戻していった。この事実はこれまでの既成概念・価値から解放され、不気味に巨大化し仕組まれた社会システムからはずれ、何にもまつろわず、地球と生命に対して揺ぎなく生きていくというというひとつの選択に、勇気と希望と、そして、リアリティを与えてくれているのではないか。

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Saturday, January 13, 2007

冬の季節だからストーリーテリングを聞こう

冬は物語の季節です。テレビやインターネットも悪くはないけれど、やはり寒い季節は物語を堪能してほしいな。物語は耳で聞くのがいちばん。同じ物語でも聞くたびに新しい発見があるから。目で活字を追いかけると、読んだことは頭にとどまってしまう。頭にとどまったものがハートまでおりてくるためには、長い時間と瞑想が必要になる。でも耳で聞いた話は、頭にとどまらずにハートに直接触れてくる。しかしただぼーつと聞いているのではダメで、物語は心の耳で聞くこと。人間には第三の目があるように、第三の耳もある。第三の目も、第三の耳も、頭にではなくて心にくっついている。第三の耳で聞いた物語はあなたの心の栄養となるはずだ。

そこで古屋和子さんとのなかかつみさんによる「虹の戦士」と「ジャンピングマウス」のストーリーテリングと小生のトークのお知らせであります。


storytelling


ふたつの物語を体験する冬の夕べ

結ーゆいーむすびあうものたちー

日時:1月26日(金曜日)19時〜21時
物語:虹の戦士 古屋和子(ストーリーテリング)+のなかかつみ(インディアン・フルート)解説トーク:北山耕平

日時:1月28日(日曜日)14時〜16時
物語:ジャンピングマウス 古屋和子(ストーリーテリング)+のなかかつみ(インディアン・フルート)解説トーク:北山耕平 番外編 16時〜18時 北山耕平のロング・メディスントーク「ネイティブ・マインド———地球に生きる人となるには」

参加費|予約¥2500|当日¥3000|2回通し¥4000


主催 SHOW showstamp

会場 アコスタジオ|地図

アクセス JR原宿駅:竹下口下車:徒歩3分
左方向に歩き:代々木ゼミの角を右折:一筋越えて右側:赤星ビルBF1

arrow2 予約申込先 Tel: 03-3356-2635

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「兄」から「弟」へのメッセージ

つはぼくが長いことネイティブ・アメリカンのなかで関心を持ち続けてきたのは、いわゆる古モンゴロイドと考えられる人たちの生き方が色濃く残っているところにある。南北アメリカ大陸はとても広くて、新旧のモンゴロイドは、日本列島のように混血しあっていないのが特徴だと推測されるからだ。いわゆる古モンゴロイドは、遠くまで旅をした人たちで、南北大陸先住民には新旧大きなモンゴロイドの流れが見て取れる。

古モンゴロイドは南米・中米メソアメリカ・メキシコ北部・アメリカ合衆国南西部に暮らしてきていて、その北限がぼくが最初にネイティブの世界に足を踏み入れることになったショショーニの人ではないかと思う。アメリカからメキシコ・中米・南米(グァテマラ、コロンビア)にかけての古モンゴロイドの人たちの多くは、言語研究家の間では「ユート・アズテカン語族」などと呼ばれているが、それらのなかにはショショーニ、ショショーニと同族のコマンチ、ユート、パイユート、トーノオーダム(パパゴ)、ホピ(モキ)、ヤキ、タラユマラ、フイチョール、アステカ、マヤといった人たちがふくまれている。この同じような語族の人たちの文化にはある種の共通項「いのちと大地はひとつ」「自分たちは地球の守護者」とする認識がある。

kogi_villageここでアメリカ先住民の言語について書くつもりはないし、さほど詳しくもないからこのぐらいにしておくが、こうした古モンゴロイドの人たちのひとつに「コギ(Kogi)」といわれる人たちがいる。コギの人たちは南米のとっつきにあるコロンビアという国の北コロンビアに連なるシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ(現在は国立公園)という山脈のなか、500人ほどがひっそりと完ぺきな自給自足で暮らしていて、その隔絶された自然環境(写真はコギの村)のためにスペイン帝国の占領からかろうじてまぬがれ、現存するなかでは唯一前の世界を今も知っている人たちとされている。

1940年代から50年代にかけてコギの人たちを調査研究した人類学者はコギの人たちがカリブ海やメソアメリカやアメリカ南西部、そしてアンデス山脈の南部の先住民となんらかのつながりがあると指摘したと記録にある。

コギの人たちは現在も生き残っていて、自分たちの山に囲まれた環境の守護者としての伝統をしっかりと守り、彼らが「世界の心臓」と呼ぶ聖なる山の世話をすることを、自分たちに与えられた義務であると認識している。いまだかつて戦争というものとは無縁のところにいるコギの人たちの文化を伝える人の話では、興味深いことに、彼らは自分たちのことを「兄」と呼び、新しくやってきた世界のバランスを破壊する人たちのことを「弟」と呼んでいるのだという。

kogi_manコギの人たち(写真はコギの男性・99年にコギの部族共同体が「すべてのいのちのかたちの調和のとれた共存と共栄を守る」ことに貢献したとしてバイオス賞を受賞したときに撮影されたもの)が自分たちの守ってきた教えについて世界にむかって話すことを決心したのは1990年のことだった。彼らはあえて自分たちを他から隔絶するところに置くことで生き残ってきたわけだが、自分たちの守る山、世界の心臓にただならないこと、雪が降らなくなり、川の水が涸れはじめるなどの良くないことが起こりはじめたことから、「もしも彼らの山が病になれば、世界に問題が起きる」という祖先の教えに従って、外の世界に、「弟」たちにむかって話をするときがきたと決心したという。

コギの人たちは、一族の教えを守る特別な役割の人間のことを「ママ」と彼らの言葉で呼んでいる。ということで、説明のあらましはこれぐらいにして、以下は最近になって公開された「ママのお話し」の一部始終である。


兄であるコギの人たちからの伝言

わたしたちは世界を護っている。

わたしたちは母なる地球を敬う。大地が自分たちの母親であることを知っている。

もしわたしたちが、例えば一本のオレンジの木を植えたとする。木はなんでもかまわない。そうやって植えた木を根ごと地面から引き抜いたら、その木は死んでしまうだろう。大地のなかに眠っている黄金を掘り出すのもそれとかわらない。黄金だってちゃんと死ぬ。わたしたちはこれまでも世界が死につつあるという話をたくさん耳にしてきた。なぜ世界が死ぬのか? あまりにもたくさんの墓が盗掘されてきたからだ。世界というのは人間とよく似ている。墓を暴いたり、金を掘り出したりすれば、それはいずれ死んでしまう。わたしたちは地面のなかで眠る黄金を取り出したりはしない。わたしたちはそれがそこにあることは知っているけれど、あえてそれを手にとろうとは思わない。わたしたちは一族の預言として母親から聞かされて黄金を取りだしてはならないと言うことを教わってきた。われわれはそれがそこにあることは知っていたので、あえて掘り出さずに、しかしそれに捧げ物だけは欠かさないようにしてきた。

わたしたちが生きている仕組みをご存じか? 血液がなければわたしたちは生きられない。骨がなければわたしたちは歩くこともできない。今ならすべての[コギの人たちの宇宙論的思索の守護者で、教えを守る人である]ママたちは、わたしたちがここで言おうとしていることといかにそれを話すかについては同意をする。もしわたしが自分の脚を切り落としたら、わたしは歩くことができなくなる。もしあの人たちが、わたしたちが「弟」と呼ぶ人たちが、地面に穴をあけてそこから黄金を取りだしたら、同じことが起こる。黄金はそれ自身が自分の考えを持ち、話もできる。それは生きているものだ。あの人たちはそれを盗むのをやめなくてはならない。

もしあの人たちが黄金を取り出せば、世界は終わるだろう。すべてのバナナの木の母親たち、すべての木の、すべての鳥たちの母親たちは、ことごとく盗み出されてしまった。あの人たちは母親のからだを切り刻んできた。あの人たちは手当たり次第に奪い去った。あの人たちは母親のあらゆるものからスピリットを奪い去ってきた。あの人たちは母親のまさにスピリットと考えそのものを盗んでいっている・・・

水を作るのは山だ。山は川を作り雲を作る。山の木々が倒れたら、そこではもう水が作られなくなる。わたしたちは川のそばで育っている木は切り倒さない。その人たちが川を護っていることをわたしたちは知っている。わたしたちはあの「弟」たちがしているように、広大な地域の森の木々を切り倒したりはしない。切るときは、自分たちの畑とするためにほんのわずかな土地を切り開く。母親はわたしたちにたくさんの木を切らないように教えてくれた。だからわたしたちはところどころでほんのわずかな数の木しか切らない。

「弟」が今のようにすべての木を切り倒し続けるのなら、太陽が地面を熱くしていずれ火事を起こすことだろう・・・わたしたちは「兄」であるから物事をもっとはっきりと考えなくてはならない・・・

「弟」よ、そのようなまねはやめよ。もうこれまでじゅうぶんすぎるほど手に入れたではないか。わたしたちには生きるための水が必要なのだ。母親はわたしたちに、いかにすれば相応な生き方ができるか、どうすれば健全に考えられるかを伝えてくれた。わたしたちは今もなおここにおり、教えられたことをひとつも忘れたりはしていない。

地球は今、腐りかけている。なぜならあの人たちがあまりにもたくさんの石油や石炭や多くの鉱物資源を持ち去ってしまったがために、ほんらいの力を失ってしまったからだ。「弟」は「どうだ、ぼくを見ろ! ぼくは宇宙のことはなんでも知っているんだぞ!」と考えている。だが、そうやって、世界の破壊の仕方を学んで知っているだけで、やっていることは手当たり次第にすべてを破壊し、人間らしさを破壊し・・・母親を苦しめ続けているのだ。母親の歯を折り、両方の眼球を取りだし、耳をふたつとも切り落としてしまった。母親は食べたものを吐き出し、下痢も止まらない。彼女の病は深刻だ。

もしわたしたちが自分の両腕を切り落としたら、わたしたちは二度と働くことができなくなる。二本の足を切り落としたら、それ以上は歩くことができない。母親はまさに今そのような状態にある。母親は苦しんでいる。母親にはもうなにもない。

「弟」は、いったい自分がなにをしたのか、わかっているのだろうか?

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Friday, January 12, 2007

不都合な真実とコンドーム

An Inconvenient Truthシントン州のある地区の高校がアル・ゴア元副大統領の渾身の作の「不都合な真実」という映画を生徒に見せる計画を立てたところ、聖書に基づく天地創造説を教えることを支持し性教育に反対する父兄のグループから地元の教育委員会に計画の撤回を求める意見が提出されたことで、映画鑑賞が延期されるなど、すこし都合が悪いことになってしまった。

怒りをあらわにした父兄のひとりは「学校にコンドームがふさわしくないのと同じ理由で、アル・ゴアなんていらない。アル・ゴアは学校の教師ではない」と述べている。この父兄は「地球は現在誕生から14000年」という説を信じており、「映画で示される情報は真実からほど遠いゆがんだものである・・・聖書には最後の時はすべてが火に焼かれると書かれてあるのに、映画にはこの視点が欠けている」と主張している。

教育委員会によって鑑賞会が延期されてしまったことに映画の副プロデューサーのひとりであるローリー・デイビッドは腹立たしそうに「この映画には非科学的なものはなにもない。地球温暖化は今ここにもうすでにあることは純然たる真実なのです」と述べた。

いったい生徒たちは「延期された理由」に、なにを感じたのだろうか? 日本でもあと一週間ほどするとこの映画が公開されるし、アル・ゴア元副大統領も近く来日する。なにしろ世界一のコンドームをつくる国だから、アル・ゴアの映画も多いに受け入れられてほしいものであります。^^;

source: Federal Way schools restrict Gore film (Seattle Post-Intelligencer,Thursday, January 11, 2007)

arrow2 日本語版「不都合な真実」公式ウェブサイト

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戦争の地図でなにが見える?

Imagename

フラッシュという技術を使った90秒の動画の地図を3つ紹介したい。全部見ても5分とかからないけれど、自分の世界の見方を確認する意味でも見ておいて損はないと思う。世界を巻き込むトラブルの根っこがどこにあるのかを簡単に手早く見ることができる。

1. 中近東を巻き込む帝国の興亡

中東地域を中心に過去5千年の帝国の勃興の歴史を概観する。なぜこのエリアで問題が起こり続けるのかをわかりやすく見せてくれる。

2. 宗教の歴史

地球規模で信仰と宗教の拡大の五千年の歴史を俯瞰する。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教の5つの巨大宗教による国盗り物語。日本列島が仏教に染められていくさまも。世界がこのように色分けされる以前の前の世界は世界中どこもが偉大なる神秘にたいする信仰を持っていた。(上図)

3. アメリカから見た戦争の歴史

1775年から2006年までのあいだにアメリカがかかわった戦争とそれを率いた政党と指導者や大統領。対インディアン戦争もふくまれる。アメリカは対インディアン戦争をすすめているときも世界各地の戦争に荷担してきたことがわかる。それぞれの戦争における戦死者の数は、戦死したアメリカ兵の数しかでてこない。

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Thursday, January 11, 2007

北半球にお住まいのみなさまへ

comet今ひとつの彗星が太陽に近づきつつあるのをご存じですか? マックノート彗星(MacNote ではなく McNaught)といいます。ここ数日、太陽に近づいてその明るさをいっそう増してきているのです。過去30年間で最も明るい彗星だと指摘する天文学者もいたりします。で、この彗星を見るのに最もふさわしいのが今日の夕方なのだとか。

日没直前の時間になったら、太陽を見に表に出ましょう。日没はそれでなくても世界の割れ目が見える神聖な時間です。重要なのは西の地平線か水平線が見えるところに出かけること。問題の彗星はもうかなり西の外れのところにかかっているからです。太陽が沈んで東から青い夜が忍び寄ってくると、尾を引いた彗星が輝いているのが肉眼で見ることができます。双眼鏡があればなおさら。

あと数日たつとマックノート彗星は太陽の向こう側に回り込んで、今月の下旬には南半球の人たちに見える位置にやってきます。そのときには太陽の熱を受けてさらにさらに明るく輝いているに違いありません。昼間の空にも見えるぐらいに明るく輝く彗星となっていて、個々数世紀で最も明るく輝く彗星と呼ばれるだろうと言うことです。

天文ニュースを配信している日本のアストロアーツ社でも澁谷の本社屋上で数十秒間観測できたと9日に報告されています(【2007年1月9日 アストロアーツ】マックノート彗星(C/2006 P1)がマイナス等級に、国内でも目撃相次ぐ)。また「星の風景」という四国にお住まいの方のウェブサイトでは一昨日と昨日の夕方に撮影されたマックノート彗星の写真が掲載されているのでぜひご覧あれ。

source:http://spaceweather.com

next マックノート彗星北米大陸写真ギャラリー(spaceweather.com)
next マックノート彗星日本列島四国島ギャラリー(星の風景)

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ネイティブの文化とノン・ネイティブの文化についての覚書

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Wednesday, January 10, 2007

なにかが起きているのだけれど、それがなにだかわからない、そうじゃありませんかね、ミスター・ジョーンズ?

昨日見たCNNのニュースではニューヨークの市中を半袖で闊歩するビジネスマンが写しだされていた。北ミネソタの友人のメールでは、いつもの冬の、あの木が凍ってはじける音が今年は聞こえないという。「まるで見知らぬ土地にトランスポートされてしまったよう」と書かれていた。

南極や北極、その他氷河のあるところで今急速に氷河が融けはじめている。氷が融けて、地表の白いところが黒くなり、黒くなったところは太陽の熱を蓄えるから、地球に吸収される熱が増えていく。するとますます温度が上がり、さらにさらに氷が勢いよく融けるという、止めどもない連鎖が続いている。まるで地球が自ら自殺でもしようとしているように感じることがある。

日本列島も暖冬だ。雪の積もってあたりまえのところに雪が積もっていない。金沢の友人は「自然が不自然」と書いたメールをくれた。みんなはあまり現実に目をむけようとしていないのだけれど、誰かに改めて言われるまでもなく、なにかおかしなことが起こっているわけで、その起こっているおかしなことを知るのが実に怖い気もするのだか、こうした天候の異変は当然ながらいずれそこで生きるさまざまないのちのサイクル(動物にも植物にも)に影響を与えることになる。いのちの輪の、すべてのいのちあるものが形作ってきた調和のとれた魔法の力の輪のいろいろなところが、ここへきてとうとう——人間の愚かなふるまいのために——臨界に達しようとしているのだろうか?

Night Earth Vision

わたしたちが暮らしているこの世界、わたしたちが子供たちに預けようとしているこの世界。ぼくはこの事実を最初に伝える人間でもないし、最後に伝える人間でもないけれど、この問題については誰かが発言し、行動に変化を与え続けていかなくてはならないと考えている。これは政治が解決すべき問題なのではなく、我々が7世代先の世代に負っている責任以外のなにものでもないのだから。

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Tuesday, January 09, 2007

喜びの星(ホクレア号)がやってくる

Hokulea

ブログでも「進むべき道を見つける——ウェイファウンディング[Native Heart Sunday, October 15, 2006]」で紹介した『星の航海術をもとめて』(ウィル・クセルク著・青土社刊)の翻訳者の加藤晃生さんのブログ「航海カヌーマニア」によれば、ホクレア(日本語にすると「喜びの星」)は「11日にホノルルを発ち、13日にビッグアイランドを出航し」て、太平洋を一路西の太陽を目指すことになるらしい。ホクレアの今回の大きな危険を伴う偉大な航海の第一の目的は星の航海術を今日まで保ち続けたミクロネシア(の魂であり、ホクレアの初代のナビゲーターでナイノア・トンプソンの師であるマウ・ピアイルグ氏のもと)に到達することである。これはあくまでもホクレアの恩返しの旅なのだ。そしてミクロネシアにたどりついたら、つぎは西太平洋を北西に進んで沖縄から日本列島の弓の島を目指すことになる。

arrow2 2007 Voyages to Micronesia and Japan

航海カヌーマニアポリネシア伝統文化の継承と自然保護を目的に活動する非営利の教育団体である POLYNESIAN VOYAGING SOCIETY (ポリネシアン・ボヤージング・ソサエティ/PVS)が提供するホクレアの「2007 Voyages Weblog」(英文)と、その日本語サイトである「ホクレア号航海ブログ」(公式日本語ブログ Powered by アロハストリート)と並んで、加藤さんの「航海カヌーマニア」はホクレアの動きを刻一刻と伝えてくれるのでとてもありがたいサイトである。また航海がはじまったあかつきにはホクレアの航跡を数時間ごとにトラッキングする専用のサイトもすでにPVSのなかに立ちあがっている。

ぼくにはじめてホクレアの話を聞かせてくれたのは日本の海洋ジャーナリストの草分けである内田正洋さんだった。内田さんは今から十数年前、ぼくが伊豆の修善寺の山の上で富士山と宝永火口を見ながら暮らしていたときに、わざわざ訪ねてきてくれたのがきっかけで友だちになった。シーカヤックの第一人者で、美しい写真のたくさん入った著書をそのときにいただいた。最近では2年前の夏に、内田さんが司会をしていたテレビ神奈川の『湘南』という番組に呼ばれ、撮影が横須賀の内田さんの自宅のテラスでおこなわれたので、そこで夜まで「日本の海はなぜきれいにならないのか」について話し込んだ。そのときにはまだホクレアの日本に向けての航海の予定がきまっていなくて、内田さんは幾分あきらめ顔だったが、この10数年間の海岸とビーチをきれいにする動きの高まりと成果については熱く語ってくれた。

人工的な動力に依存せず、自然の力と人間の叡智だけで海の道を拓くホクレアの航海については「魂の航海」などとしばしば言われるようにきわめてスピリチュアルなものであることは間違いなく、であるからこそ、それは「正しいときと正しい場所」でおこなわれなくてはならないというふうにぼくは考え続けてきた。

だから2年前の夏に内田さんとホクレアの話をしたときにぼくは「日本列島の周辺の海がきれいになるまでホクレアは来ない」という話をした。「環境はそのなかに暮らす人間の心の投影である」というのがぼくがネイティブ・アメリカンから学んだことのひとつであり、日本列島の海岸線が、湘南ビーチが、ホクレアという双胴のきわめて美しい外洋航海用カヌーが入ってくるのにふさわしいような美しさを取り戻す日を夢に見続けてきた。

今回のホクレアのミクロネシアから弓の島への航海が実現したのは、日本列島の海が古代さながらの美しさを回復したからではなく、ハワイ観光局と電通の思惑が一致して、それまで弾みがつかずに先延ばしにされてきたホクレアの日の沈む島を目指す航海が一気に実現する運びとなったものだ。これはこれでよいことなのかもしれない。日本列島で日本人をやっているわれわれのなかには、自分たちのルーツのひとつとも絡んで、南の島とその文化にたいするそこはかとないあこがれがあるのは間違いないのだから。

arrow2 ハワイ観光局[ハワイの歴史とスピリット]

喜びの星そしてホクレアのハワイ出航が迫った。ほんとうは先日の満月の日に出航を予定していたのだが、条件が合わずに延期されたのだ。POLYNESIAN VOYAGING SOCIETY のブログでは出航前の儀式の様子などが写真で公開されている。「この30年間で我々は出航する日をきめるべきではないことを学んだ。いつ出航するかは風が教えてくれる」と語るナイノア・トンプソンの顔もある。これからどのくらいかかるかはまさしく風まかせの偉大な魂の航海がはじまろうとしている。内田さんもこの航海のはじまりに立ちあうためにハワイ入りをしているようだ。

きっとホクレアは、我々が失って久しいなにかを乗せて最終目的地の日本列島を目指す。日本列島にその美しい姿を見せるのは、4月か、5月か。

petroglyphこで今月の21日の日曜日に神戸メリケン波止場にあるTEN×TENというところで、地球の上に生きる主催・ランド・アンド・ライフ共催で「喜びの星(ホクレア号)がやってくる ーポリネシアからヤポネシアへ スピリットの帰還」というイベントが開かれることになっている。唄旅人のHALKO(桑名晴子)さん、天空オーケストラの岡野弘幹さん、南ぬ風人まーちゃん、ハワイから帰ってくる内田正洋さんと小生が公開の場で話をさせてもらうことになった。ホクレアが日本列島に向けて運んでくる目に見えないものについて、ぼくは語るつもりだし、太古の日本列島に最初にたどりついた海の人たちの精神について、内田さんに聞けたらと思っている。ホクレアに関心がある人、自分たちのルーツとネイティブ・ジャパニーズについて興味がある人との出会いを期待している。

詳しくはランド・アンド・ライフのサイトに掲載されている「スピリットの帰還~2007/01/21(Sun)イベントのお知らせ」をごらんください。

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Sunday, January 07, 2007

世界先住民ウラニウム・サミット宣言

今日ここに掲載するのは、昨年11月30日から12月2日までアメリカのナバホ国の首府ウィンドウロック市のナバホ国立記念館で開催された「世界先住民ウラニウム・サミット」と「核のない未来賞受賞式」の最終日に採択された宣言文の翻訳です。



indigenous_world_uranium_summit


世界先住民ウラニウム・サミット宣言
アメリカ、ナバホ国、ウィンドウロック
2006年12月2日


    われわれ、世界先住民ウラニウムサミットに集いしものたちは、母なる地球とすべてのいのちにたいする核の脅威が高まりつつあるこの危機的なときに際し、ウランの採掘、処理、濃縮、そして燃料としての使用、また兵器としての実験と開発、さらには核廃棄物のネイティブの人たちの土地への廃棄を、世界規模で禁止することを要求する。

    地球の先住民たちは、過去の、現在の、そして将来の世代にわたって、国際的な核兵器開発企業と電力産業に、過度の影響を受けてきた。核燃料の連鎖(チェーン)はわれわれの一族と、大地と、空気と、海とを汚染し、われわれのまさに存在そのものと、われわれの未来の世代を脅かしつつある。原子力は地球温暖化を解決するものではない。核燃料の連鎖(チェーン)を助長するウランの採掘、核エネルギー開発と、そのための国際的合意[例えば最近の合衆国とインドとの核協力条約など]は、われわれの人権の土台のみならず、母なる地球の基本的な自然の法に背くものであり、われわれの伝統文化とスピリチュアルな安らぎを危険にさらしている。

    われわれは、1992年のザルツブルグ(オーストリア)における世界ウラニウム公聴会における「ウランおよび他の放射性鉱物は、ほんらいあった自然の場所にとどめ置くべきものである」とする宣言を再確認する。さらにわれわれはディネの人たちの基本法に則ってウラン採掘と処理を禁止した「2005年のディネ天然資源保護法」を成立させるためにナバホ国と連帯して立ちあがる。

    地球の先住民は、スピリチュアルに、そして文化的に、われわれの母である地球とつながっている。したがって、われわれは再生可能な、先住民の大地と地球の生態系を破壊するのではなく持続させるエネルギー資源の開発を支持し、促すものである。

    われわれは、われわれの先祖に対する敬意を表して、植民地主義に対する抵抗の世紀を続ける。地球各地の先住民の国々、そしてオーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、ドイツ、インド、日本、アメリカ合衆国、そしてバヌアツから、今回のサミットに参集したこれら個々の人びとの働きと勇気と献身と犠牲を、われわれは評価する。さらにわれわれは、2006年12月1日におこなわれた式典で、核のない未来賞を受賞した人々のかけがえのない仕事も評価する。そして、われわれは今後も、ウランの開発を止める世界各地におけるこの人たちの非暴力的努力の活動を支え続ける。

    われわれは、今回のサミットでわれわれが手にした知識を、世界と共有する決意である。この先一週間から一ヶ月以内に、われわれはさまざまな証言、伝統的な先住民の知識、ウラン開発の世界規模の禁止を正当化するための医学的科学的な証拠をまとめて公開する。われわれは、各部族の、各地域の、各国の、そして国境を越えたレベルでの、先住民による核燃料の連鎖(チェーン)にたいする抵抗を支援するための明確かつ詳細な行動プランを提示する。そして、われわれは地球の先住民と彼らの資源に、過去、現在、将来に渡っておよぼされる核燃料の連鎖(チェーン)からのあらゆる影響にたいして、法的、政治的な補償の追求を続行する。


arrow2 世界先住民ウラニウム・サミットと核のない未来賞受賞式の公式サイト

pdf_icon DECLARATION OF THE INDIGENOUS WORLD URANIUM SUMMIT(英語オリジナル)

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Friday, January 05, 2007

続・ラコタは親戚でも笑いあう

ラコタは親戚でも笑いあうの第2ラウンドだが、こんどはオグララの人たちが「ローズバッド・ジョーク」とよぶ笑い話をひとつ紹介しておく。そうじゃないと不公平になるからね。

ローズバッドに暮らすシカング(バール・スー)のある人間が、地元のパウワウに出かけたところ、司会者のマイクから思わぬ悲鳴が聞こえてきたそうだ。

「だ、だれか、警備員を呼んでくれーっ! 早く、早くしろ、おーい、警備員、早く来てくれ!」声は言っていた。まさに恐怖におびえた声が続けて「頼む、助けてくれ、今ここでふたりの女が俺を取りあってとっくみあいをしていて、醜い方が勝ちそうになってるんだ!」

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ラコタは親戚でも笑いあう

今月のピースな写真の解説でもすこし触れたように、ラコタとは言っても内側はいくつもにわかれている。ローズバッドに暮らすバール・スーの人たちのことを俗に「シカング」と呼ぶのだが、シカングの人たちはラコタの本流でもあるオグララの人たちとあまり仲がよろしくない。寄ると触ると互いの悪口を言いあい、互いを笑いのネタにしてからかいあう。きっとそれくらい仲がいいのかも。今回は典型的なシカング・ジョークをひとつ紹介する。笑いの矛先がむかうのはオグララの人たちである。オグララの人たちがローズバッドの親戚の家を訪れるとこうした話をしこたま聞かされるのだという。

そこで——

ひどく太ったために健康が不安になってインディアン保健局に駆け込んだあるオグララの男の話

医師が口を開いた。「2日間きちんと食事をしたら、つぎの1日は食事を抜いてください。1日スキップするのです。2日間食べてつぎの1日はスキップすること。これを2週間続けましょう。そうすれば今度ここに来るまでには確実に3キロは減量されていますよ」

忠告を聞いて家に帰ったオグララの男が2週間後再び姿をあらわしたのを見てくだんの医師は激しいショックを受けた。なんと2週間で10キロ以上もやせていたのだ。

「いや、驚いたなあ」と医師はいった。「きちんとわたしの指示どおりやったのですか?」

オグララの男がこたえた。「ああ、言われたとおりにしましたよ。でも3日目はきつかったな。死ぬんじゃないかと思った」

「そんなにお腹がすきましたか?」と医師に尋ねられてくだんのオグララの男がこたえた。

「いやいや、1日中スキップしているのがこんなにつらいとは思ってもいなかったからね」

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Thursday, January 04, 2007

断食は祈りのひとつの形だった

feather右サイドバーの巻頭にある Peace な写真を入れ替えた。ノースウエスタン大学のデジタル図書館に収蔵されているエドワード・S・カーティス(1868−1952)——ネイティブの人たちから「影を捕らえる人(シャドー・キャッチャー)」と呼ばれた写真家——が、19世紀末から20世紀初頭にかけて撮影した北米インディアンの写真群のなかから今月も選んでいる。

今回は「ファスティング(断食)」と題された1900年頃に撮影されて「The North American Indian Volume 3(The Teton Sioux. The Yanktonai. The Assiniboin. / Seattle : E.S. Curtis, 1908)」という限定版として販売された書籍のなかで公開され、現在はノースウエスタン大学マコーミック図書館特別収蔵品に指定されているものから一枚を選んだ。

17世紀以降は大平原に生きたラコタ(スー)一族は、大きく3つの集団にわけられる。テトン、ヤンクトン、サンテの3つだ。その3つのグループのそれぞれがさらにいくつかのバンドと呼ばれる小集団を構成していた。ブラックヒルズの山々を聖地としていたテトン・スーのバンドのひとつが「オグララ」「オガララ」(自らばらばらになる)と呼ばれる人たちで、オガララの代表的なチーフには「レッド・クラウド」がいた。ほかの後にバッファロー・ハンターとして大平原に名を轟かせるこのテトンの人たちは、もともとは五大湖の近くで農耕をしていたことがわかっている。テトンとはラコタの言葉で「草原に暮らす人たち」を意味する。

Imagename

「ワカン・タンカ」と呼ばれる「ことさらに尊い存在」が、夢やヴィジョンを解読し、儀式を執りおこない、薬草を使って病を癒したりするメディスンマンや聖なる人を通して一族に力を与えていることを確信していた。一族の最大の祭祀がサンダンスと呼ばれる祭りで、毎年夏至を前後の夏に一族が集まり、清めと断食と踊りと自分を痛めつけることでワカン・タンカと力の交流をはかった。現在もテトンの子孫はサウスダコタのパインリッジにある居留地などで暮らしている。テトンの他のバンドには「バール」「ブラックフット」「ミニコンジュー」「サン・アーク」「ツー・ケトル」「ハンクパパ」などがある。

断食というと、静的なイメージがあるが、彼らの断食は健康法というよりは祈りのひとつと考えた方がいい。もちろんそれが一族の健康維持につながっていたことも間違いないのだが、ネイティブの人たちは実にまめに断食をおこなってきた。というより断食を祈りのなかに取り入れてきた。丸一日、長いときで3日から4日の断食は、彼らの生活の一部だったと考えていい。断食は、「なにも食べられない(おなかをすかせて我慢を余儀なくされている)状態」ではなく「意識的になにも食べないことを選択した状態」で、この2つには人間のこころのあり方において大きな差がある。写真をご覧になると、ひとりの戦士がほとんど裸のままの状態で東に向かってパイプの柄をむけて祈りをあげていることがわかる。足下にはどうやら彼らの聖なる祭壇とされるバッファローの頭骨が置かれているようである。その前に謙虚に立つ彼は「ひとりの小さな人間のひとりとして自分につながるすべてのいのちあるもののために祈っている」ようではないか。断食は、食べないことを苦しむためのものではない。意識的に食べないことによって自分を偉大なる存在に捧げる神聖な行為なのである。

写真をクリックすると大きな画面に切り替わるし、さらにその大きくなった画像の下にある「Higher resolution JPEG version」をクリックするとより解像度の高い精密な写真で見ることが出来る。なおここに掲載した図版は、ジョージ・カトリン(George Catlin 1796–1872)という古い西部の旅行者であり画家が1860年代に絵で記録にとどめたバッファローを追いかけるスーの人たち。アメリカ国立美術館所蔵のもの。

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わたしがわたしになれる場所

モイヤーズ:先生は『神話のイメージ』のなかで、変容の中心について、時間という壁が消えて軌跡が現れる神聖な場所について、書いておられる。聖なる場所を持つとは、どういう意味でしょうか。

キャンベル:これは今日すべての人にとって必要不可欠なことです。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるか、そんなことを一切忘れるような場所、ないし1日のうちのひとときがなくてはなりません。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所です。これは創造的な孵化場です。はじめはなにも起こりそうにないかもしれません。しかし、もしあなたが自分の聖なる場所を持っていて、それを(上手に)使うなら、いつかなにかが起こることでしょう。

モイヤーズ:この聖なる場所は、平原が狩猟民にもたらしたのと同じものを私たちにもたらす。

The Power of Mythキャンベル:彼らにとっては世界全体が聖なる場所でした。しかし、いまの私たちの生活は、その方向性において非常に実際的、経済的なものになっています。だからみんな、ある程度の年齢になると、次から次へと目先の用事に追いまくられ、自分がいったいだれなのか、なにをしようとしていていたのか、わからなくなってしまう。四六時中、しなければならない仕事に追われているのです。あなたにとって至福は、無上の喜びは、どこにあるのか。あなたはそれを見つけなくてはなりません。ほかのだれもが見向きもしない古くさい曲でもいいから、とにかく自分が大好きなレコードを聴くとか、あるいは好きな本を読むとか。

比較神話学者、比較宗教学者ジョセフ・キャンベル(1904 – 1987)と
ジャーナリストのビル・モイヤーズの会話より
『神話の力』(1992年 早川書房刊 飛田 茂雄翻訳)から。
発言のなかの「(上手に)」の部分は北山が原文の意をくんで加筆した

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