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Saturday, January 27, 2007

続・正しい時と場所を生きる(1966-1976)

今回も「正しい時と場所を生きる(Native Heart: Thursday, January 25, 2007)」の続きの10年を『ネイティブ・タイム』(補遺・Version 4)から拾い出して再構成してみた。ローリング・サンダーが生きた時代がどんなものだったか理解されれば幸いである。なお76年以降は、Native Time 補遺 Version 4 として、限定的に『ネイティブ・タイム』(地湧社刊 Version 3)の読者のために公開してあるので、お知らせをご覧ください。


バックパッキング革命が起こる
1966年、LSDや大麻やシロシビン(マジック・マッシュルーム)やペヨーテといった、人間をさまざまに縛りつけている文化的な条件づけを解除させる働きを持つドラッグが、欧米の若者たちの関心事になった。アメリカでバックパッキング革命がはじまり、多くの若者たちが寝袋など背中に背負えるだけの家財道具を持って地球を放浪するようになった。そして意識を拡張する働きを持つLSDがアメリカで非合法化されたこの年、ベトナム戦争で死んだアメリカ人が五千人を越えた。国連総会で「国連人権規約B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)」が採択され、その二十七条は「種族的・宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」と明確に規定した。フランスが自国の領土としていた南太平洋ポリネシアのムルロア、ファンガタウファ両環礁で大気圏核実験をおこなった。大気圏核実験は七十四年まで続けられた。

ホピの伝統派と進歩派の分裂が顕在化
1967年、アメリカ中から何万人という若者たちがサンフランシスコ市のハイトアシュベリー地区やニューヨーク市のイースト・ビレッジに「愛の夏(サマー・オブ・ラブ)」のために集まった。支配者的な階層制度に基づく価値観から逃げ出し、体制の網の目からおっこちてヒッピーやフラワー・チルドレンになる−−白いインディアンの−−生き方が、若者たちの心をとらえた。アメリカで大人と子どもの間が内戦状態に。アメリカ合衆国が保有する核爆弾は三万二千五百発と発表された。アメリカ政府の傀儡であるホピ部族会議が、伝統派の人たちの強硬な反対を押し切るかたちで、いかなる「ヒッピー」たちのグループがリザベーションのなかに留まることを独断で禁止し、部族内の対立が激化した。

先住民文化への関心の高まり
1968年、先住民文化への関心が高まりはじめた一方で、混血が急増し、自分が何族に属するのかもわからないようなインディアンも多数生まれて、インディアンの各部族社会が文化的な危機を迎える。アメリカ先住民の間で「白人文化と対抗するためにはインディアンは部族を越えてひとつにまとまるべきだ」という考え方に基づいて「汎インディアン運動」が起き、アメリカンインディアン運動(AIM)が誕生。インディアン市民権法が施行され、部族政府が個人権利を侵犯することを禁止した。ホピのキクモングイのひとりダン・カチョンバはこの年百歳を超えていたがマーロン・ブランドと共にテレビに出演して、電柱の設置問題に端を発したホピのなかの進歩派との争いに言及し、伝統派のホピへの支援を広く大衆に要請した。シカゴで狩猟採集民を研究する世界中の人類学者たちの学会が開かれて「狩猟採集民の生活形態が農耕社会に比べて長時間の余暇を生み、通常は集団を養うに足る栄養価の高い食料を確保する」と結論づける議事録を公開し、社会科学の世界に激しい衝撃を引き起こした。フランスがなにごともなかったかのように南大平洋で核実験を行った。ベトナム南部の集落で米軍による住民の大量虐殺がおこなわれたが、事件は秘密にされた。

アルカトラツ占拠事件のはかりしれぬ衝撃
1969年、結婚したばかりのジョン・レノンとオノ・ヨーコがアムステルダムのヒルトンホテルで最初のベッド・インを行ない「戦争ではなく、愛をしよう」と訴えた。アメリカ合衆国 がアリューシャン列島 のアムチトカ島 で行おうとしている地下核実験 に反対するために、カナダ のバンクーバー に「波を立てるな委員会 Don't Make a Wave Committee」という組織が誕生した。この組織は、のちに「環境」を意味する「グリーン green」と「平和」を意味する「ピース peace」をくっつけて、「グリーンピース Greenpeace」と改名する。モホークのチーフを長とした諸部族からなる八十九人のアメリカ・インディアンの青年活動家たちが、自ら「すべてのインディアンの代表 "Indians of All Tribes"」を名乗り、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツ島を占拠して「アメリカ大陸はもともとインディアンのものである」と世界に向けて宣言した。全米のアメリカ・インディアンたちがこの占拠事件に影響を受けて、ネイティブ・アメリカンの精神復興と権利回復の運動がはじまる。このときのアルカトラツ島の占拠は、同時に進行していたアメリカの若者革命にも影響を与えつつまる二年間続いた。この年、アメリカの宇宙飛行士がはじめて月面に立ち、残りの人類が、月から眺めた地球の映像をテレビで目撃した。地球全体の姿が人類の目にさらされたのはこれがはじめて。宇宙飛行士たちは月面を歩き回りそこで得た石のサンプルを地球に持ち帰った。神秘主義や神霊や魔術や密教への関心が若者の世界で高まりつつあった。前年のベトナム南部の集落における米軍による住民の大量虐殺が内部告発によって世界に知らされた。アメリカ合衆国がアリューシャン列島のアムチトカ島で地下核実験を実施。ホピの部族会議の承認を得たとして伝統派の反対を押し切る形でホピの土地で石炭の大規模な露天掘りによる採掘が開始された。日本国政府が「部落差別の解消は国の責務」として西暦二千年までの特別措置法を制定。改善が必要な地域を同和地区と指定した。

ネイティブ・アメリカンという用語の発明
1970年、アメリカの大統領が公式にインディアン絶滅政策を終了させ、部族に自決権を認めた。アメリカ合衆国内務省が「ネイティブ・アメリカン」という政治用語を発明した。人口構成の一覧表をつくりやすくすることが目的で、この「ネイティブ・アメリカン」のなかには「ハワイの先住民(ハワイアン)」「エスキモー(イヌイット)」「サモアン」「ミクロネシアン」「ポリネシアン」「アリュート(アリューシャン列島の先住民)」も含まれた。すべての先住民の痕跡や真のアイデンティティーをきれいに消し去ることが目的だった。この年の夏、アメリカ大陸南西部のホピの国の周辺でUFOがしばしば目撃された。ホピ・インディアンのなかにはそれを古くから語り継がれてきた「浄化の日」のはじまりだと主張するものもいた。浄化の日が訪れると、ホピは「翼のない船」で別の惑星に運ばれるのだという。このUFO騒動をきっかけにして、ホピの人たちは再び信じる者と信じない者とに分裂した。ディー・ブラウンという小説家の書いたノンフィクション『わが魂をウーンデッドニーに埋めよ』という本がベストセラーに。自分たちの聖地だった青き湖ブルーレイク周辺の原生林の森の自由な通行と本来の所有権の認定を求めて戦い続けてきたプエブロの人たちが60年かかって勝利した。AIM(アメリカン・インディアン運動)の最初の全米会議が開催された。

世界の聖なる中心における資源開発という愚行
1971年、アラスカで「先住調停法(アラスカ先住民権益措置法)」が制定され、北極圏とアラスカをつなぐパイプラインの建設計画が始動。サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツ島に大学を作りインディアンのスピリチュアルな中心としてはどうかというネイティブ・ピープルの提案を拒絶した合衆国政府が、武装した十五人の兵をアルカトラツ島に上陸させた。二年以上居座っていたインディアンたちは、流血さわぎを起こすことなく、整然と島から退去した。四十人の各部族からなるアメリカ・インディアンが、サウスダコタ州パイン・リッジ・リザベーションのなかにあるマウント・ラシュモア国立公園の、アメリカを建国した三人の大統領の顔が掘られている岩山の山頂、ちょうど大統領の頭のてっぺんを占拠して権利の復興を訴えるという事件が起きる。亀の島が長い眠りから目を覚ました。ホピ国の有志が、彼らが「世界の聖なる中心」と見るフォーコーナーズ地域の資源開発に異議の申し立てをおこなった。アリューシャン列島のアムチトカ島でアメリカ合衆国が史上最大の地下核実験(広島型原爆の二百五十倍)を強行した。カナダの市民らがこの実験に反対して現地に船を出して抗議。グリンピースという環境平和直接行動団体が誕生した。日本国の岐阜県下呂市金山町岩瀬でダム建設に伴って発見された縄文遺跡から高さと幅約五〜十メートルの巨石群が見つかり、太陽の観測に使われた暦であることが後にわかった。七月の東京の練馬区で夜間かろうじて天の川が観測された。そしてこのときの記録を最後に、東京では夜に天の川を見ることができなくなってしまった。

アメリカ・インディァン精神復興運動の高まり
1972年、アメリカ合衆国で亀の島の住人たちによるデモがおこなわれた。「アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)」や「破られた条約の道(トレイル・オブ・ブロークン・トリィティズ)」のメンバーや支援者たちがアメリカの首府ワシントンDCで合衆国内務省インディアン局(BIA)の連邦政府ビルを占拠した。シカゴ大学のマーシャル・サーリンズ教授が『石器時代の経済学』という書物を著し、そのなかで「人口が少なく、満ち足りて、特定の地域に精通している状況で、人間は充分に食べ、余暇を堪能し、心身の健康も保たれる」として、人間社会の進化に関する固定観念を覆した。スウェーデンのストックホルムで世界の少数民族の精神的指導者などの代表らも参加して国際連合が人間環境会議を開催し、宣言のなかで「地球の危機」がうたわれた。ローリング・サンダーも招かれてこの会議に参加して先住民の視点からの自然環境の見え方について語った。73年にはアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)のグループに属するインディアンの若者たち二百人ほどが、サウスダコタ州のパイン・リッジ・リザベーションにある交易所と教会とラシュモア山を二か月以上にわたって占拠。ホピの国のオライビ村が白人のよそ者の観光客の立ち入りを禁止した。この事件を契機に亀の島が再び目覚め、アメリカ・インディァンの精神復興運動が大きく動きはじめた。この年のアカデミー賞を受賞したハリウッド・スターのマーロン・ブランドが、授賞式の会場で合衆国政府のアメリカ・インディアンの不当な扱いにたいして抗議の声をあげた。

意図的に作られたホピとナバホの対立
1974年、北海道島の根室市内において祖先供養のための儀式「ノッカマップ=イチャルバ」が開催されたこの年、アイヌ解放同盟綱領案が起草された。アイヌの山本多助エカシが『阿寒国立公園とアイヌの話』という本を著し「エゾが島の主権者はアイヌである事は異論をとなえる余地がない」として、アイヌは「北はカムチャッカに至り、千島列島其の他の小島まで地名を名付けて保護利用していたものである。現在、本州・四国・九州に至るまで少なからずアイヌ語によらなければ解明出来かねる多くの地名の現存して居るのはなんのためなのであろうか。それにカラフト及び黒龍江までアイヌ語地名はなぜあるのか。更にアイヌ語の研究をきわめると日本語の原流を開明出来る其のカギが、アイヌ語の内にしっかりと保管されて居る事はなんのため、どんな理由があるのだろう。大いに疑問を持って研究すべきである」と書き記した。亀の島の先住民であるホピ族とナバホ族の土地争議を解決させるという名目で、合衆国政府がこれに直接関与できるようにするための法律が作られた。狙いはホピとナバホの土地の下に眠っている石炭や石油やウラニウムといった埋蔵鉱物資源だった。ホピ部族会議はこれと前後して自分たちのものと主張する土地を勢力下に置きナバホの人たちを立ち退かせるなど意図的に悪感情をかもしだしはじめた。ホピとナバホの二つの部族の対立をあおることが、地下資源に目をつけた多国籍企業にとっては都合のよいことだったから。

伝統的な生き方を探し求めて
1975年、沖縄県で沖縄国際海洋博覧会が半年間開催され、皇太子が沖縄を訪問したが、「ひめゆりの塔」のそばで現地の青年から火炎ビンを投げつけられた。この海洋博開催にあわせて、ミクロネシアのサタワル島から外洋型航海カヌーに乗った使者が五千キロを旅してやってきた。アメリカ合衆国サウスダコタ州のパイン・リッジ居留地でアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)の活動家とFBIの間で武力衝突が起き、二人のFBI捜査官が死亡した。俗に「最後のウーンデッドニーの戦い」といわれるものである。この事件の犯人としてAIMのメンバーだった青年がのちに容疑者として逮捕され、容疑否認のまま無期懲役の刑を言い渡されて刑務所に収監された。ネバダ州の北東部のカーリンという町の東の外れの二百六十二エイカーの土地に、チェロキーのメディスンマンだったローリング・サンダーと彼の妻でウエスタンショショーニのスポッテッド・フォーンのふたりのヴイジョンに基づいて、部族を越え、人種を越えてもう一度昔ながらの祈りのある生き方にもどりたいと望む人たちにそのための学びの場を提供する非営利の組織メタ・タンテイが築かれた。部族会議と対立するホピの国の伝統派の長老たちが自分たちの機関紙を刊行しはじめた。インディアンの自決と教育を支援する法律によってアメリカ・インディアンの裁量権が拡大した。

「ブラック・エルクは語る」が日本語に訳された
1976年、合衆国でインディアンの健康支援法が施行され、一般のアメリカ人と同程度まで、アメリカ・インディアンおよびアラスカのネイティブの健康程度を高めることが国の政策に盛り込まれた。[この年の十一月に北山耕平が渡米してアメリカ無宿となる。^^; ]翌77年、二年前のウーンデッドニーの武力衝突で、レオナルド・ペルティエというラコタの青年がFBI捜査官殺人の容疑者として逮捕された。ペルティエは最初から殺人容疑を全面的に否定して、以後合衆国政府と裁判闘争を続ける。ホピはナバホとの土地分割によって自分たちから奪い取られたすべての土地の賠償金として五百万ドルを政府から受け取ることを求められた。部族議会は六千人余りの有権者のうちで金を受け取ることに賛成した三百人たらずの数字でこの申し入れを受け入れることに。アメリカ・インディアンのスー族のメディスンマンであったブラック・エルクが語った言葉をまとめた『ブラック・エルクは語る』が、二年前のウーンデッドニーの武力衝突で現場にいたためにアメリカを追われることとなったシャイアン育ちの女性とその夫の日本人の手によって日本語化された。


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Tracked on Thursday, February 01, 2007 12:26 AM

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