チーフ・レッド・クラウドの肖像
右サイドバーの巻頭にある Peace な写真を入れ替えた。いつものようにノースウエスタン大学のデジタル図書館のなかに収蔵されているエドワード・S・カーティスが19世紀末から20世紀初頭にかけて撮影した北米インディアンの写真のなかから選んでいる。今回はオグララ(オガララ)・ラコタを代表するチーフだったレッド・クラウドの晩年の肖像写真。写真は1905年に最初に公開されているから、おそらく1822年生まれのチーフ・レッド・クラウドは80歳をゆうに超えていたと思われる。ラコタのチーフのなかで、シッティング・ブルと並んで最も世界に名前の知られたチーフであり、戦士だった人物。名前はラコタ語で「マクピヤ・ルタ」といい、正確に訳すと「赤い雲」ではなく「雲は緋色」となる。
レッド・クラウドは15歳の時にはじめてポーニー一族との戦に加わって8人を倒したという。その後もショショーニやアプサロケ一族の闘いに加わって武勲をあげている。「雲は緋色」という名前は父親から受け継いだものだという。レッド・クラウドを名乗る以前には、「ツー・アローズ(二本の矢)」を意味する「ワノ・パ」と呼ばれていた。義理の兄からもらったというメディスンの収められた鹿皮の小さな袋を肌身離さず持ち歩き、闘いの前には必ずそれで全身をこすってお払いした。
1866年のフィル・カーニー砦におけるアメリカ軍との戦いに勝利したことで一族のなかの最高位のチーフに推挙され、それから数年のは2000から3000人のラコタの戦士たちを率いて一族の故地であるブラックヒルズ防衛のための闘いをおこなったが、常に平和の道を模索し続け、クレイジー・ホースとシッティング・ブルらが率いる戦士たちとカスター大佐が闘ったいわゆる「ラコタ戦争」には加わっていない。ラコタ一族がアメリカ政府との戦闘をやめて居留地にはいることでその生命を救われたのはチーフ・レッド・クラウドのおかげだったといわれる。彼が戦をやめたときの言葉が英語に翻訳されて残っている。以下はその一部だ。
子供だったころに、タク・ワカン(超自然力)というものが強力で、奇妙なことをしでかしかねないものだと教わった。一族の賢者やシャーマンたちが教えてくれたのだ。その力を自分のものにしたいのなら、一族のものには優しく、敵の前にあっては勇敢であれと教わった。真実を口にし、正直に生きよと。一族の生命と、一族の狩猟の場を守るために闘えと。こうしたことを信じておれば、それでラコタのものは幸福であり、幸せに死ねるのだ。白人は、それ以上のなにをわれわれに与えてくれるというのか?
写真をクリックすると大きな画面に切り替わるし、さらにその大きくなった画像の下にある「Higher resolution JPEG version」をクリックするとより解像度の高い精密な写真で見ることが出来る。深く刻まれた顔のしわの一本一本が彼の生きてきた道を雄弁に物語ってくれるだろう。
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