あなたは誰なのか?
今日掲載するのは今年の春に創刊された『⇔special』(ティー・ブックス)という雑誌の第1号に寄稿したものである。編集部の許可をもらえたのでここに若干の修正を加えて転載することにした。なおこの雑誌は今後も不定期で刊行されるという。
あなたは誰なのか?文 北山耕平小学生ぐらいになるとよく子どもたちは喧嘩をしたときに大声で相手の名前を呼んだりする。きっとあなたにもそういう経験があるかもしれない。そうやって相手の名前を大声で呼ぶことが、相手をとてつもなく辱(はずかし)める強力な攻撃であることを、子どもたちは本能的に知っているのだ。
ネイティブ・ピープルの多くが自分の本名を相手に明かさないのはおそらくそのせいでもある。これはネイティブ・ピープルの精神年齢が小学生程度であるからというのでは断じてなく、文明人化していると思って、互いに平然と名前を呼び合っているわれわれの精神状態の方に、少なからず問題があるような気がしてならない。
自分のほんとうの名前を相手に伝えるというのは、その相手を絶対的に信頼するということを意味する。そして相手が自分のほんとうの名前を告げるに値するかを判断するにはとてつもなく長い時間を必要とするはずである。同時に彼らは簡単に自分の名前を口にする人間を信用できないやつとして見ている。
アメリカ・インディアンと呼ばれている人たちの世界に長く浸っていると、彼らの多くがいくつも名前を持っていることに驚かされることがある。白人世界で通用する名前と、彼らの世界で使われる名前とは異なっているのが普通だったりする。
ジョンだとかロバートだとかキャサリンだとかいういわゆる西洋人名前と、しばしばみんなも耳にするクレイジー・ホース、スタンディング・ベア、レッド・クラウド、キッキング・ベアといったインディアン・ネームがある。西洋人名前の多くは、19世紀後半から20世紀にかけて、彼らが強制的にリザベーションと呼ばれる居留地のなかでの生活をはじめさせられたあと、インディアン・ネームがわかりにくいという理由で、政府の台帳に登録されるときに役人たちに半ば強制的につけられたもので、アメリカ人になりつつある彼らも税金などを払うときや生活保護をもらうときにはこの名前を使う。
インディアン・ネームにも、赤ん坊のときの名前、幼年期の名前、メディスンマンがつける成人になったときの名前(メディスン・ネームといわれたりする)、髪の毛が白くなりはじめてからの名前と、ざっと数えても普通四種類ぐらいある。
ぼくにアメリカ・インディアンの世界を指し示してくれた西ショショーニ国の奥さんと暮らすチェロキーのメディスンマンは、彼の暮らすネバダのある町では「ジョン・ポープ」として知られていた。「ジョン・ポープ」というのは「ヨハネ・パウロ」という名前の英語読みである。
しかし彼はインディアンの人たちの世界では「ローリング・サンダー(転がる雷鳴)」という名前で文字通りその名を轟かせる人物だった。すでにこの世界から次の世界へ入っていってしまわれた彼のことを言う場合、人びとの多くは生前の彼に敬意を払うように「ジョン・ポープ・ローリング・サンダー」とわざわざことわったりするが、しかしそれが彼のほんとうの名前だったかどうかは、実を言うと定かではない。
ネイティブ・アメリカン・ピープルのなかで、その名をとくに知られるような人物の多くが、そして「戦士」としてその名を知られた偉大な存在のすべてが、「絶対に誰にも明かしてはならない名前」という特別な名前を持っているのが普通とされてきた。この「絶対に誰にも明かしてはならない名前」を知っているのは、本人と、親と、その名前をつけた人物に限られていた。彼はおそらくその名前を最後まで明かさないで、地球の旅を終えた。そして最後まで明かさない名前を持っていることが、おそらくその人間に、計り知れないほどのとてつもない魔法の力を与えていたのだ。
そろそろ親がつけた名前だけで生きるのをやめてみるのはどうだろうか?
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Comments
初めまして。まずは、「日々是布哇」とても素敵な本ですね!
書店で手に取った瞬間から大好きになって、思わず遠くに暮らす
恋人の分も購入して贈ってしまいました。心にハワイを。
私はハワイに行ったことは無いのですが、ハワイの心を持つ事は
できるでしょう。スピリットの出逢いは尊いものですね。
名前の事、最近考えていたところです。考えはまとまりませんが、
私は自分の名前が好きです。人の名前も大切に思うので、呼ぶ時は
緊張しているんだと思います。深いところで。
名前とは、ただその人を他の人と区別するための記号では無い
事は確かです。まだそれだけしか私には分かっていません。
もっと考えてみます。自分の力で。でも、北山さんのお言葉に、
いつも助けてもらっています。長々と失礼しました。
Posted by: ゆきやなぎ | Friday, July 14, 2006 11:54 PM
北山さん、お久しぶりです。
中国南部のサニ族のひとたちと友人になり、一緒に行動したときも、漢語(中国の共通語となっているいわゆる中国語。アメリカの英語に相当する)の名前で呼びあい、サニ語の名前はいいませんでした。恥ずかしげに笑いながら「わたしたちの間でも、その名前は呼ばないんだよ」といって。その純粋なかわいらしい表情に好感を覚えつつ(自分の親くらいの女性でしたが)、やたらと明かさない名をもつ彼女たちが羨ましかった。
自分の名前を誰にでも明かさなければならないこの社会で、おれはほとほとイヤになっています。自分のたましいを無用心に赤裸々と晒している気になるのです。そのことに、親からして何の疑問も持たぬ中で育ったのですから、たましいを守るためには自分で自分に名をつけるしかないなと幾つもの名を考えて日々過ごした思春期時代を思い出します。
おかあさんのおなかの中にいるときのなまえ、生まれたときのなまえ、すこし育って自分のおもてが出来たなまえ、おとなになったなまえ、・・・
たくさんの名を持ち、そのすべてに通じてかわらぬ自分をひそかにわかちあって生きているのが、ひとにとって自然なのだと思います。
Posted by: 山竒 | Tuesday, July 18, 2006 10:04 AM