あるチェロキーの知識人にとってのリトル・トリー
昨日のエントリーについては個人的にもいくつかのメールをいただいた。ショックを隠しきれないで困惑している人も見受けられた。しかしこの問題は、20代の後半から20年以上ネイティブ・アメリカンの世界と関係を持ち続けてきたぼくとしては見過ごすことのできない重大な問題だった。個人的な意見としていわせてもらうならば、『リトル・トリー』という本をとおしてアメリカ先住民を理解されてしまうことはたいへんに困ったことなのである。日本のみならず世界のニューエイジとされる人たちのほとんどがその本を絶賛し、感動して、涙を流したと公言してはばからないものにたいして、あえてそれを逆撫でするようなことを口にするのは、そうした生き方をしている人たちすべてを敵にまわすかもしれないにせよ、なお心ある人たちにほんとうのことを伝えなくてはならないと思ったからなのだ。
この『リトル・トリー』という本について、実際のチェロキーの人たちはどう考えているのかということを、ぼくはかねてから知りたいと思い続けた。なぜならぼくに今の道を指し示してくれた今は亡きローリング・サンダーその人が、チェロキーと白人とのハーフブリード(混血)として生まれて、小説の主人公であるリトル・トリーとほぼ同じ時代に同じような環境で育った人だったからである。彼は白人に近い顔をしていたもののその生き方は、一挙手一投足のすべてがまったくインディアンであった。
チェロキー・ネーション出身のリチャード・L・アレン(Richard L. Allen)は教育学の博士号を持つ知識人で現在は政治アナリストだが、彼は「リトル・トリーの教育に見る偽りの自分の創出 チェロキーなのか、ただのなりたがりなのか?」(Creating a Fraudulent Identity in The Education of Little Tree: Cherokee or Wannabe?)と題された2005年2月10日のアメリカ大衆文化連合年次総会における講演のなかで、彼がリトル・トリーを偽装だとする指摘を列挙し、その本がいわゆるニューエイジと呼ばれる「いとも簡単に答えが与えられると信じた人たち」の市場をにらんで創りだされたもので、いわゆる「高貴な野蛮人(ノーブル・サベイジ)」という一連の考え方の延長線上にあるもの、ヨーロッパ列強による亀の島の植民地化を正当化するためにつくりだされた作品のひとつと結論づけた。要点を以下にまとめておくので、改めて本を読み、フォレスト・カーターことアサ・カーターという人物が小説『リトル・トリー』の行間に忍び込ませたものを解読するときの参考にされたい。
- チェロキーにはもともと豊かな口頭伝承の伝統がある。世代を超えて伝えられる数多くの伝説や神話が存在する。にもかかわらず、本の中のおばあちゃん(グランマ)はそうした話のひとつもリトル・トリーに語ることはない。かわりに、彼女はシェイクスピアを彼に読み聞かせている。
- チェロキーは「名前というものは神聖なものだ」と考えている。真の友以外には自分の名前を伝えないのがしきたりだ。にもかかわらず、本の中でリトル・トリーはどこで出会った誰にでもその名前が知られている。
- チェロキーはふつうしっかりとしたコミュニティーのなかで暮らしている。それはきわめて親密な共同体である。にもかかわらず本の中でリトル・トリー、おばあちゃん(グランマ)、おじいちゃん(グランパ)、ウィロー・ジョンの4人だけが共同体から離れて暮らしている。他の人たちと顔をあわせるのは日曜日に教会でというのも不自然。もちろんチェロキーのなかには、伝統的な宗教だけでなく、キリスト教を実践しているものがいないわけではないが、その場合でも伝統的な宗教をないがしろにすることはあり得ない。『リトル・トリーの教育』のなかに描かれたチェロキーはしかし伝統的な信仰をまったく実践していない。
- 英語版の元本の51ページ。パイン・ビリーが火のなかにつばを吐くシーンが描かれている。チェローキーは火をきわめて神聖なものとしており、おしっこをかけたり、つばを吐きかけるようなことは冒涜と見なされ、いかなる形であれ火を冒涜するような真似はしないもの。チェロキーの子どもは火をおもちゃにすることをきつく戒められて育つ。にもかかわらずパイン・ビリーは火のなかにつばを吐きつけたばかりか、その部屋にいた他のチェロキーの人間も誰ひとりとしてこれに反応していない。これはありえない。
- 『リトル・トリーの教育』のなかに描かれたグランマとグランパは人前で極めて仲むつまじく愛情表現を展開してみせるが、ほんとうのチェロキーのおじいちゃんとおばあちゃんは絶対にそんなまねはしない。時代が大恐慌の1930年代だとしたらなおさらのこと。
- 本の中にはセックスについて触れる箇所がきわめてたくさん出てくる。「売春」のことまで出てくる。ほとんどのチェロキーの人間は、またあの時代ならばほとんどのアメリカ人の誰もが、それが5歳の子どもの前で話すような内容ではないことをわきまえているのが普通だった。
- カーターは本の中で新婚したばかりのカップルがヒッコリーの木で作られた結婚棒(マリッジスティック)を贈られてそれを自分たちのベッドの上につりさげるという伝統について書いている。この棒にはふたりの名前が彫り込まれ、生活のなかで忘れられないことが起きるごとに、その棒に刻み目がひとつづつ加えられていくことになる(ふたりが喧嘩をして仲直りをしたときとか、赤ん坊が誕生して一族の孫の数が増えたときとか)。なるほど心温まるステキな考え方ではあるのだろうし、それを認めるのにやぶさかではないが、しかしそのような伝統はチェロキーのなかのどこを見ても存在しないし、おそらくそんな伝統を持つインディアンはどこにもいないはずである。
- 金切り声を上げるフクロウたちが本の中の2カ所に出てくる。フクロウが高い声で泣くのを聞くことは、チェロキーの人間にとってはよいことではない。チェロキーの人間にとってはそれは死を告げる声であり、悪いことが起こる前兆でもある。しかしその2カ所のいずれでも、そのことにまったく触れられていない。リトル・トリーにとっても祖父母にとっても、フクロウの金切り声は、睡眠を妨げる耳障りな音にすぎないのである。
- おばあちゃん(グランマ)がリトル・トリーに向かってチェロキーの信仰のなかの輪廻、生まれ変わりについて説明する箇所があるが、チェロキーは普通、死後のいのちは信じてはいるものの、生まれ変わることなどまったく信じてはいない。
- リトル・トリーが孤児の施設に送られたとき、彼は犬狼星シリウスを介したテレパシーを使って祖父母やウィロー・ジョンと会話を交わしている。こんなことをまともに信じているのはおそらくニューエイジの人間だけであるだろう。
図版は1997年に映画化された『リトル・トリー』のサントラ盤(マーク・イシャム音楽)のカバージャケット。
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Comments
一年ほど前に、フォレスト・カーターがKKKの幹部だったということを知り、その著「リトル・トリー」「ジェロニモ」について考えています。特に「ジェロニモ」は、いろいろと勇気づけられた本でもあるので。
未読ですが、アボリジニーを書いた「ミュータント・メッセージ」も、ノン・フィクションを騙った小説だとのことです。
いろいろと考えてしまいます。
Posted by: 山竒 | Sunday, January 08, 2006 08:11 PM
山竒 さん、ども
今日はいつもの元気がないですねぇ。内容が内容だったし。でも珍しいことではないのです。みんながチーフ・シアトルのメッセージとして知っているものも、じつは白人のテレビプロデューサーの作だって事ですし。おっしゃるとおり「ミュータント・メッセージ」も著者マーロ・モーガンが自伝として発表したものが偽りとばれて、のちに「小説」として再発売されたものでした。事態が発覚しても、「ミュータント・メッセージ」の作者のファンはモーガンを擁護しているのも、リトルトリーとよく似ています。
カーターはリトルトリーを書く前に白人優越主義者をやめて改心したのだと考えるファンもたくさんいます。でもほんとうに心を入れ替えたというのなら、なぜ彼は自分が誰かということについて嘘を書く必要があったのでしょうか? 事実彼がこの本を書いているときに面会した人の話というのが残っているのですが、そのときにもべろべろに酒に酔っていていつもの白人優越主義を声高に主張していたといいます。カーターはこの本を書いてからもまだしばらく極右白人優越主義者だったことは間違いなく、文は人なりという言い古されたことわざを信じるならば、彼の書いたもののなかにはその思想が当然込められていると見るのが正しいとぼくは考えています。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Sunday, January 08, 2006 11:40 PM
まず宣教師がやって来て自分たちの宗教を押し付け、次いで商人が様々な道具を持ち込んでネイティブの生活を混乱させていった。やがて政府の人間が土地をよこせと言い、断ると軍隊が来て老若男女構わず沢山の命を奪っていった。もはや伝統の生活が出来なくなったところへ寄宿学校が子どもたちを連れ去り、ことばをうばっていった。遠い先祖と子どもたちを繋ぐことばを。最後に人類学者が来て文化を博物館に閉じ込めていった。
という内容をどこかで読みましたが(誰が書いたか忘れてしまった)、「リトル・トリー」などにまつわることを考えると人類学者が最後ではなかったようです。
フォレスト・カーターがどのようなひとでどのような状況で著書を発表したのか知らないので、良くも悪くもいろいろ考えられるのですが、肝心なのはそれらの著書にチェロキーやアパッチのひとびとがなにを感じるか、ということだと思います。
橋根直彦著「我れアイヌ、自然(ここ)に起つ」を思い出しました。アイヌの側からシャモ国家を批判したものです。日本国家に居る者としては忘れていけないもののような気がします。
「リトル・トリー」「ジェロニモ」の二冊からおれは知恵と勇気を貰いつづけていますが、真実を根としない知恵と勇気はほんとうに必要な時にちからにならないことがある、ということを胸に刻み、忘れないようにしようと思います。
>山竒 さん、ども
>今日はいつもの元気がないですねぇ。内容が内容だったし。
北山さん、どもども。
何度も反芻して考えていますが、まだよくまとまらないことなので勢いよく書けませんでした。これからもよくよく考えたいテーマです。
大事なのは、それぞれのひとが自分にとってどのように消化し、自分の道へとつなげていくかですよね。
貴ブログを拙文でよごしてないかいつもハラハラしながらそれでも書いてしまうのですが(社交辞令でないですよ~~)きちんと読んでくださって嬉しくおもいます。
Posted by: 山竒 | Monday, January 09, 2006 04:56 PM
こんばんは。いつも楽しく読んでます。 山竒さんの話も、楽しく読んでます。
私は「リトルトリー」を、さらっと読んで、インディアンの事、自然の事を考えるきっかけを、もらいました。
そしてそして!!北山耕平さまと出会えた、きっかけになったのです。
しかし、とにかくもう一度読み返します。
Posted by: 美紀子 | Tuesday, January 10, 2006 08:36 PM
ストーリーを解体していったら愛は、消えてしまうよ。
Posted by: kiki | Saturday, January 14, 2006 10:01 PM
嘘で塗り固めた愛にどんな意味があるの? それでも残る愛じゃなければ意味はないかもしれないよ。チェロキーの人たちへの尊敬はどこにもなくてよいのかね?
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Saturday, January 14, 2006 11:48 PM
リトルトリーを読んで、私は感動をした。今改めて北山耕平さまのブログに出会ってから、再びリトルトリーを読む事にしました。
前と同じ気持ちで読む事が出来ずに、途中でやめました。
しかし、必要な物を必要なだけ、とか、自然を大切に思う話は、良かったです。 何故真実のふりをして書いたのか、疑問が残りました。フィクションだって良い話だと思いました。
Posted by: 美紀子 | Tuesday, January 17, 2006 02:48 PM
こんにちは いつも『フムフム』と拝見させて頂いております。この記事を拝見し、リトル・トリーは様々な形で多くの人に愛されているのだと改めて感じました。作者の経歴についてはリトル・トリーを散々読んで感動の涙を幾度も流した数年後に他のネイティブアメリカン関係のHPで知りました。その後も『マジで・・・』という思いから色々調べ、一時は非常に残念な気持ちで一杯でした。しかし最近読み直したらやはり泣けました、時間が解決したのでしょうか・・。ネイティブ・アメリカンに対しての興味やそれを知るに到る入り口としての一つの手段としては優しい本だと思います。でもネイティブに心を寄せる者としてはリトル・トリーが真実かフィクションかの違いは大きかったですし(私が読んだのは初版でしたので)作者の背景には大いに落胆させられました。ネイティブの歩んだ歴史を知る為に多くの本を読みました。悲惨な歴史や現在も続いてる様々な困難な状況がある事を知りました。だから私は改めて作者について本当の事を知ってて良かったなと思っています。本の中のリトル・トリーはいい子ですしいい本なので作者の事を思えば多少のわだかまりはありますがこれからも読むと思います。
物語といえば『輝く星』も大好きです。去年アリゾナへ行きましたが赤い大地に染まるメサに感動しました。帰国後もNative Heartを通して赤い大地の世界を感じています。お忙しいと思いますがこれからもブログ楽しみにしています。
Posted by: nonnko | Tuesday, January 24, 2006 09:14 PM