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Saturday, December 31, 2005

みなさまよいお年をお迎えください

williamtanana  dalailama

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Thursday, December 29, 2005

できるなら行きたい新春のイベント

  • 北海道

    ・特別展「土器の世界 続縄文土器 I」
    会期:2006年3月19日(日)まで
    北海道立埋蔵文化財センター
    (江別市西野幌685番地1 電話:011-386-3231)

    ・講演会「先史時代北海道の漁労活動の歴史-道南地方の縄文・続縄文時代貝塚形成と動物・骨角器を中心として-」
    日時:2006年1月21日(土) 13:30〜15:30 (受付中)
    講師:金子浩昌氏(東京国立博物館客員研究員)
    北海道立埋蔵文化財センター
    (江別市西野幌685番地1 電話:011-386-3231)

  • 青森県

    ・「十腰内文化展−三内丸山と亀ヶ岡の間に隠された謎−」
    会期:2006年1月18日(水)まで
    縄文時代に発展した十腰内文化の多種多様な遺物とともに当時の精神文化を考えます。
    青森県立郷土館
    (青森市本町2-8-14 電話:017-777-1585)


    ・企画展「北の縄文文化回廊」写真展
    会期:2006年2月5日(日)まで
    三内丸山遺跡 展示室
    (青森市三内字丸山293 電話:017-781-6078)

    ・特別展「水辺と森と縄文人」 
    会期:2006年1月15日(日)まで
    八戸市博物館
    (八戸市大字根城字東構35-1 電話:0178-44-8111)

  • 秋田県

    ・企画展「くらしといのり−神を描き、神に祈る−」
    会期:2006年4月9日(日)まで
    秋田県立博物館
    (秋田市金足鳰崎字後山52番地  電話:018-873-4121)

  • 岩手県

    ・企画展(仮称 縄文と世界のアクセサリー展)
    会期:2006年1月15日(日)まで
    御所野縄文博物館
    (二戸郡一戸町岩舘字御所野 電話:0195-32-2652)

  • 宮城県

    ・企画展「縄文人のゴミ捨て場〜貝塚と盛土遺構〜」
    会期:2006年1月29日(日)まで
    奥松島縄文村歴史資料館
    (宮城県東松島市宮戸字里81-18  電話:0225-88-3927)


    ・第19回企画展「よみがえる縄文の美」
    会期:2006年3月5日(日)まで
    多賀城市埋蔵文化財調査センター(文化センター内)
    (多賀城市中央二丁目27-1  電話:022-368-0134)

  • 東京都

    ・特別展示東京大学総合研究博物館開館10周年記念
    『アフリカの骨、縄文の骨—遥かラミダスを臨む』
    会期:2006年4月16日(日)まで
    東京大学総合研究博物館
    (文京区本郷 7-3-1 電話:03-5777-8600)

  • 神奈川県

    ・コレクション展示「石の造形 −縄文時代の石器−」
    会期:2006年1月7日(土)〜2月5日(日) 
    神奈川県立歴史博物館 
    (横浜市中区南仲通5-60  電話:045-201-0926)
    縄文時代に石を素材にして作られた狩猟具・漁労具などのさまざまな道具を、利用された石材の種類や、その使用方法をまじえながら紹介し、縄文人と「石」との深い関わりに触れます。


    ・横浜の遺跡展〜弥生時代の集落と生活〜
    会期:2006年1月16日(月)まで
    横浜市歴史博物館
    (横浜市都筑区中川中央1-18-1 電話:045-912-7777)
    この展示では当時の人びとの社会生活の場である集落から発見された弥生式土器や磨製石器、鉄器などの出土遺物と方形周溝墓からでた土器などから当時の社会と生活について考えてみます。

  • 大阪府

    ・新着資料展示「ポリネシア文化の誕生と成熟」
    会期:2006年3月28日(火)まで
    国立民族学博物館
    (吹田市千里万博公園10-1 電話:06-6876-2151(代表))
    ポリネシアで船に乗ると周囲をぐるっと水平線に囲まれ、「地球は本当に丸いんだ…」と納得できます。そんな広大な海洋地域に点在する島じまに住む人たちは、どこからきて、どんな文化を作りあげてきたのでしょうか?ポリネシア文化の揺籃期から成熟期までを、新着資料(葬送コスチューム、入れ墨用具、ラピタ土器複製など)を使って展示します。

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ひとつの大きな輪を巡る長い旅へ

メディスンマンであるということは、ほかのなににもまして心のあり方であり、この地球の見え方と理解の仕方であり、そのすべてについての感じ方なのだと、わしは信じている。
故レイム・ディアー ラコタのエルダー

ネイティブ・アメリカンの世界の見方のことをしばしば「メディスン・ホイール」という。『ジャンピング・マウス』の物語は、シャイアンという平原部族に伝えられたメディスン・ホイールの世界観を伝えるものだった。この世界観は部族によって微妙に異なるのだが、ひとつの輪と、それを構成する方角を象徴するものによって世界を認識し理解しようとする試みは広く共通している。この世界観はおそらくアラスカを越えてシベリアなどもふくむユーラシア大陸東部にまで広がっていたものと思われる。世界をひとつの輪のなかに写し出されるものとして眺める見方だ。(北方シャーマニズムと中国文明の出会いが産み落とした易などもこの世界観に共通するものを持っている)

輪のまんなかにたとえばひとつの石ころを置いてみるとしよう。自分側のどの位置に立つかによって石の見え方が違ってくる。どの場所に立っても同じ石しか見えていないとなると問題は大きくなる。東側から見たり、南から見たり、西から見たり、北に廻って見たりして違いをはっきりと確認しなくてはならない。

ある部族のメディスン・ホイールの考え方によれば、東は「鷲の目で見た世界」であるとされる。イーグルは空の高いところを滑空して飛び、そこから世界を見下ろす。南は「ネズミの目で見た世界」である。ネズミはイーグルとは違って地面の上を動き回る。ネズミとイーグルの見ている世界はまったく異なっているだろう。しかしネズミもイーグルもひとつの真実を見ているのである。西は「熊の目で見た世界」である。熊は熊で、イーグルともネズミとも違ったように世界を見ている。北は「バッファローの目で見た世界」である。

レイム・ディアーはその伝記のなかで、メディスンマンになるためには、東、南、西、北の四つの方角をことごとく旅してまわり、四つの方角の表す世界の見え方が相互に結びつけられていることを理解するだけの知を開発する必要があると語っていた。メディスン・ホイールを巡る旅は一朝一夕に出来るものではない。一度旅をはじめたら旅が終わるまでには長い年月がかかる。この旅には、忍耐と、なんでもすすんで学ぼうとするオープンな姿勢が求められる。頭が開かれていれば、最終的にあなたは理解するだろう。結局は愛しかないのだということを。

インディアン魂—レイム・ディアー〈上〉 』(河出書房新社|リチャード アードス 編|北山 耕平訳|1998年刊行)『インディアン魂—レイム・ディアー〈下〉 』(河出書房新社|リチャード アードス 編|北山 耕平訳|1998年刊行)

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Tuesday, December 27, 2005

スピリットチャイルド

アステカ・インディアンが残したキリスト降誕の祭文

一族の滅亡と共に忘れ去られていた聖なる歌

Japanese Text Version 2.0.4 Kitayama Kohei

アステカ語から英語への翻訳 ジョン・ビアホースト
英語から日本語への試訳 北山耕平

  覚書

スピリット・チャイルドの祭文(祭りの時に唄われる祝詞)は、もともとはアステカの詠唱者たちが「ウエウエトゥル(huehuetl)」と呼ばれる立てて使う皮製の太鼓と、「テポナツリ(teponaztli)」と呼ばれるふたつの音色を奏でる木製の長い打楽器に合わせて暗唱したものです。作詞作曲はサーグン(メキシコの古い町)のフレイ・ベルナディオという修道士で、彼はアステカ人の詩人を助手に使っていました。歌は、聖書のなかのお話と、西洋の中世伝説、伝統的なアステカの説話のみっつを混ぜ合わせたもので、素材とされたもののうちではっきりとわかるものは「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」です。悪魔の描写とか、キリスト生誕の夜におきたさまざまな奇跡の伝え方などには、ヨーロッパの民話の影響が見られます。しかし物語そのものの展開のしかた、短い文を積み重ねていく技法、掛け合いの部分、主な登場人物のけれんのないまっすぐな描写など、そうした部分にはたぶんにアステカ族の影響が見て取れます。とりわけ、天使たちが羊飼いたちに向かって唄う歌詞の部分などには、アステカの人たちの演説のしかたを彷彿とさせるものがあります。この物語は、「サーグンのパサルモディア・クリスチアーナ」(1583年 メキシコ)という本に収められています。すべてがアステカの言葉で記された本で、新世界において刊行された最も古い書物のひとつです。今まで現代語に翻訳されたことはありません。英語訳に際しては、ブラウン大学のジョン・カーター・ブラウン図書館収蔵のマイクロフィルムに撮影された原本を用いました。
追記

わたしはキリスト教徒ではありません。ネイティブ・アメリカンの信仰に関心があるひとりの人間としてこれを訳出しました。おそらく新世界で最も古いキリストの物語でしょう。キリスト教がどのような形で新世界に入っていったのかを伝える貴重な資料でもあるし、クリスマス・ウィークのことでもあり、よい機会なのでお読みください。

(北山耕平)



界がはじまったのち、五千年もの長きのあいだ、悪魔が王として君臨した。高慢で底意地の悪い王で、地球上の誰ひとりとて、わたしたちを彼の手から救うことはできなかった。

力があり、頭もよくて、正しい生き方をした人たちも数多く生まれはしたのだが、しかしその人たちには、悪魔の手から自分を救う力も、そして他人を救う力も、与えられることはなかった。

悪魔はとにかく悪賢かった。わたしたちが地球で生きているときには、のちのちどれくらいひどいことをするつもりかなどということは、まったくおくびにも見せないでいる。笑いながら悪魔は、わたしたちの目を閉じさせて、二度と目を開けさせなくしてしまうのだ。それから、わたしたちを死者の国に連れて行く。

死者の国にあるものといえば、絶えざるひもじさと、果てることなき議論、そしていくつもの病気と、つらい労働だけ。

だが「イエス」という名前は、世界がはじまる前に、すでに存在していた。それは常に彼の名前だった。たとえ生まれる前でも、彼の名は「イエス」だった。地球にやってきて彼がおこなったのは、悪魔の手から人びとを救い出すこと。イエスとは「人びとを救う者」を意味する言葉だ。彼はまさしくその名前のとおりのことをおこなった。

スピリットよ、御子よ、あなたは燃える炎、全能なる父のきらめき。御子よ、遠い昔にいかに生まれしかを、思い出したまえ。



つてヨセフという、賢く、善良な心を持つ男がいた。ヨセフはひとりのうら若き女と所帯を持った。その相手こそ、誰あろうスピリットの母親となることが定められし女性だった。ふたりは夫婦になったけれど、それでもなお、彼女はひとりの若い処女としての生活を続けた。ヨセフもまた、共に生活をはじめたものの、それでもなお、彼はひとりの少年であることをけしてやめるようなことはなかった。

ヨセフとマリアが、かくも奇跡的なやり方でひとつになったさい、主である神は使者として天使ガブリエルをお遣わしになった。彼が降りたのは、ガリラヤの国のナザレスと呼ばれる町。

その若き女の暮らす家を見つけると、ガブリエルは家の中に入り、かたわらに立って、神聖な言葉を告げた。「よくやりましたね、マリア、喜びなさい。神はあなたとともにおられます。あなたほど運のよい女性はありません。神はあなたを気にいられました。神はあなたの魂をいのちの力でみたしました。そしてそれがために、あなたは世界中でほめたたえられることになるのです」

しかしこの言葉を聞いてマリアは顔を曇らせた。自分は天使の挨拶を受けるに値しないと考えていたから。おとなしすぎて意気地がない人間だと。天使の言葉を考えているうちに気持ちが滅入ってきた。そして口を開いた。「こんなわたしに話しかけてくれたりする人なんておりません。それがどうしてほめられたりするでしょうか?」

天使ガブリエルの顔が明るくなった。太陽がすべてのものを照らし出したかのように。背中の羽根が光を放ちはじめ、やがてきらきらと輝いた。緑の羽根はいちだんと長くなり、カザリキヌバネドリ(ケツァール鳥)の羽根よりもいっそうきらきらと緑色に輝いた。

そして天使が告げた。「マリアよ、おそれることはありません。神の目のなかであなたは讃えられているのです」

「お聞きなさい! これからわたしが偉大なる神秘の話をします。やがてあなたはおなかにひとりの子供を宿すことになるでしょう。あなたは身ごもります。おなかの子供は『イエス』と呼ばれることになるでしょう」

「あなたが生むことになるその少年のイエスは、いずれ大変に偉大な存在となられます。タビデの王国を統治されて、その支配は永遠に終わることがありません」



ころが天使の話を聞くと、レディはおもむろに「そんなことがあるはずもありません。だいいちわたしは男性を知りもしないのですから」とこたえた。

「神の御力、神聖なるスピリットが、あなたのなかにおはいりになるのです」天使はつづけた。「だからこそ、その御子は一点の非の打ち所もなくお育ちになるでしょう。御子はいずれ『神の子』と呼ばれることになります」

「いまここにいるわたしは」マリアがつづけた。「主のしもべです。お召しのまま、いわれるままに、すべてをおまかせしましょう」

この瞬間、われらが主なる神、神の息子が、マリアの、完全なる若きレディの子宮のなかで、ひとりの人間となられた。その瞬間、レディのマリアは神の母となられた。

ヨセフのもとにあらわれた天使が口を開いた。「ヨセフよ、これよりあなたに秘密をお話しします。マリアは精霊の働きでその胎内に御子を宿らされました。おそれることはありません。彼女のそばを離れてはなりません。彼女はこの世を救われる方をお産みになるのですから」

それからのヨセフはマリアの護衛となった。どこへ行くときも彼女を連れて出かけた。その身をかばい、常にかたわらに居つづけた。ふたりは共に暮らし、一心同体だった。

父なる神はそのヨセフを彼の子供の守護者に選ばれた。なぜならヨセフはこの世界の誰よりもよき心の持ち主だったから。こうしてヨセフは神のしもべとなり、神の御子の世話をまかされた。

皇帝の命を受けてベツレヘムにおもむかなくてはならなくなったときも、ヨセフはマリアを同行させていた。そして月日が満ち、いよいよマリアが赤ん坊を産む日がやってきた。

スピリット・チャイルドよ! 世界のすべての人たちがあなたを待っています。囚人として鎖につながれているわたしたちを、御身ならお救いくださるはず。暗闇のなかにいるわたしたちにはあなたは光。さあはやく、はやくこちらにこられよ。そして約束をお果たしください。

エルサレムの神聖なる王よ。聖なる皇太子よ。高貴なる御子よ。目を覚まされよ! 生きてくだされ! 大空は喜び、大地は踊るでしょう。



リアがヨセフと共にベツレヘムにたどり着いたとき、ちょうど十月十日の日が満ちて、彼女に最初の赤ん坊が生まれた。

赤子が生まれると、彼女はその子を布に包み、牛たちが干し草を食べるかいば桶のなかに寝かせた。

わたしたちの救世主が寝床として必要にされたのは、ほんのわずかな干し草だけ。かいば桶のなかで寝かされることもいやがらず、ごくごくわずかな量の食べものだけでも心は満たされていた。

王たるイエスが生まれたのは、夜のこと。なれど、若き女性のマリアは、赤ん坊を抱いたまま、空に太陽がしろしめすのを見た。それから彼女は膝をついて、うやうやしくその赤子を崇拝した。なぜならそれは、ひとりの偉大な王が地球にやってきたことを伝える御しるしだったから。

主イエス・キリストが誕生したとき、世界のいたるところで、無数の奇跡が相次いでおきた。

イエスがあらわれたその夜に、空に出た太陽は、じつはみっつあった。ひとびとはそれを見て驚愕した。しばらくするとそのみっつの太陽が合体してひとつになった。

スピリット・チャイルドのイエスが生まれたのは真夜中のこと。だがそのとき世界の隅々までが光に包まれた。

わたしたちの主であるイエスが生まれたとき、ローマには甘い油の泉が出現した。偶像や偽りの神を崇拝していたすべての人たちが許されるという御しるしだった。

わたしたちの統治者であるイエスが生まれたとき、エルサレムのエンゲディと呼ばれる場所では不思議なこともあるもので、ブドウの木にいっせいに花が咲いた。それは悪魔の教えが葬り去られるという御しるしだった。

わたしたちの支配者である高貴な子供のイエスが生まれたとき、平和の王が召されて到着し、いきなり世界中が平和になった。



てもベツレヘムの町のはずれでは、羊飼いたちが夜通し羊の見張りをしていた。その彼らのもとに、空からひとすじの偉大なる光が降りてきて、天使ガブリエルが姿をあらわした。

「友よ、わたしはみなさんに大切な知らせを伝えに来ました」天使がいった。「今日、ベツレヘムで、救世主がお生まれになりました。そのお名前は『イエス』です」

「さあベツレヘムに行きなさい。彼なら見つかるでしょう。ダビデの都市のなかにおられます。アレルヤ、アレルヤ」

その瞬間、たくさんの天使たちがあらわれた。王として生まれたその子供を讃える「アレルヤ」という不思議な言葉を口々に歌いながら。

羊飼いたちは、わたしたちに話しかける。あなたは、彼と会ったのですか、と。

「たしかにわたしたちはそのお姿を見ました」

いかにして彼を見つけたのですか?

「天使たちの歌声が聞こえていました」

空から鳥のごとく天使たちが降りてきた。歌声は鈴の音のごとく。響きはさながら横笛のごとく。「天におられる神を讃えなされ、アレルヤ」

天使たちは空から舞い降りてきた。口々に「地上に平和を、アレルヤ」と歌いながら。

甘い香りのする歌の花がいたるところにまき散らされ、黄金の雨となって地上に降り注いだ。「さあ、共にこれら黄金の花をまきましょう、アレルヤ」

しずくで重そうな花、花、花。それらしずくは光にあふれ、ベツレヘムのなかで、さながら宝石のごとく輝く。「アレルヤ」

ハートの形をした花、花、花。スモモの形をした鈴のような花、花、花。赤い杯のような花、花、花。

数えきれぬほどの花が暁の光のなか、ひとつひとつ輝きを放ち、黄金のごとく光り輝いて。「アレルヤ」

無数のエメラルドが、真珠が、赤い水晶が、光をたたえて、おのずと輝く、夜明けのとき。「アレルヤ」

ベツレヘムの町なかにまきちらかされる宝石が、つぎからつぎへと地上に落ちてゆく。「アレルヤ」



エスがベツレヘムで生まれたとき、空に新しき星があらわれた。かねてよりヤコブから星が生まれるだろうと予言されていて、ひとびとはそのときを長く待ち続けてきた。予言者は述べた。「男がひとり世にあらわれる。彼はイスラエルから生まれるであろう。ひとりの救世主がユダヤの地に誕生する。そのとき、新しき星がひとつ目撃されるだろう」

ひとびとは空を見つづけた。そして新しき星を確認すると、みなはそれぞれの王に伝えた。さらにはそこに、東方より三人の王がやってきた。彼らは星に導かれて、ベツレヘムに向かって旅をしてきた。

香り高きミルラとお香と黄金とを三人は運んできた。「ユダヤの王にお生まれしその御方はいずこにありや?」と彼らは尋ねた。

エルサレムにたどり着いたとき、三人はひとびとにただした。「統治者はいずこにおられる? 王はどちらに?」

ユダヤの統治者であったヘロデは、ひとびとが新しい王を探していることを耳にして、ねたましさを覚えた。エルサレムの司祭の長らを呼びつけて尋ねた。「王はどこにおるのか? みなのものたちが待ち望んでいるこのキリストとやらは?」

長たちがこたえた。「ベツレヘムでございます。ユダヤの国の一部であるところの」

ヘロデはその知らせを聞くと、ひそかに三人の王を呼び集め、最初にその星を見たのはいつのことかなど、くだんの星について根掘り葉掘り質問した。

三人の王はすべてを話して聞かせた。するとヘロデはこたえた。「このままベツレヘムへ行くがよい。その子供を見つけたときには、もういちどここに戻り、話を聞かせてくれ。わしもその御方を礼拝したいから」

しかしヘロデは腹では別のことを考えていた。ずるそうに彼は三人の王にこう伝えた。「もちろんこのわしとて、真の王が地上に降りられたのなら、自ら出向いてあがめ奉るのもやぶさかではない。こちらから出向いて、その御方をわしの神にしよう」だが、実のところヘロデは、幼いイエスをなきものにしようと、いのちを狙っているだけだった。

ヘロデに話したいだけ話させると、三人の王はその足で、ベツレヘムにまっすぐおもむいた。

するとそこにもまた、あの星が出ていた。三人が以前にも見た星だった。星が三人を照らし出してくれたので、彼らは喜んだ。なぜなら彼らがエルサレムに足を踏み入れたときには、町の城壁にさえぎられてその星が見えなかったから。

ふたたびあの星が彼らを導いた。王たちはその星を頼りに長い旅を続けてきた。三人がベツレヘムにたどりつくと、一軒の馬小屋の上空にその星がとどまっていた。幼子はその中に寝かされている。



うこうするうちにも、三人は建物に足を踏み入れた。そしてひたすら星を追いかけてきた彼らの旅も、ついにそこで終わりを迎えた。一目見て三人には彼がわかった。彼はそこにいた。これ以上動き回ることも、旅を続ける必要もなくなった。三人は馬小屋に入り、そこで幼子のイエスと、そのかけがえのない母親である聖なるマリアと対面した。

彼らはその場にひれ伏して、幼子を礼拝した。信仰するものとしてその三人の偉大な王たちは地面にひざまづき、彼を礼拝した。彼らにはその幼子が誰なのかよくわかっていた。なぜならその幼子は、スピリットであり、最強の力であり、天の所有者であり、地の所有者であったから。

彼らは櫃を開き、貴重品の箱を開けた。そして中から自らの主となった幼子への贈り物を取り出して、うやうやしく並べた。

三人からの貢ぎ物は、黄金、香り高きミルラ、そしてお香だった。

そのことがあってからさらに数日、三人は幼子の元にとどまって、たくさんの不思議がおこるのを目撃した。そして眠りのなかにいるとき、彼らはその場を立ち去るように命じられた。三人はそれぞれの眠りのなかでスピリット・チャイルドと出会った。夢のなかにあらわれたその御方は、三人をそのままふるさとに直接送り届けた。

三人の王がヘロデのところに戻ることはなかった。なぜなら、スピリット・チャイルドにはヘロデのたくらみがわかっていたから。

おお、悪の化身ヘロデよ! 全能なるものをだませるとでもお考えか? まだ幼子にすぎないかもしれぬが、赤子のイエスにはすべてがお見通し。なぜなら、彼は神なのだから。


彼にそなわる神聖さと神秘は、父なる神その存在そのものにそなわる神聖さと神秘と、まさしく同じもの。人間となられ、わたしたちのなかに混ざって生きるためにやってこられしもの、そは父なる神。


彼はわたしたちの救世主になるためにやってこられた。人間は誰もが許されうるのだ。もはや悪魔には、イエスの手からただひとりの人間をつかまえて取り返すだけの力もない。


そのときすでに妙なる平和が地に満ちあふれた。世界のいたるところに、美しき雨が、素晴らしき雨が降り注いでいる。あまりにも不思議な雨が地球のうえをおおいつくしていた。


まさしく今日はは救いの日。長く待ちこがれた癒しの日。救済は頭上より降り注ぎ、わたしたちに道を指し示す。


(完)

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人間はミミズでもなければキツツキでもない

人間は「自分たちの生活に都合のいいように」に加えて「自分たちの主張に都合のいいように」自然を作り替える。そこまで進化したのかも知れない。
Over 40 カザリヤ・ジャーナル

昨日ぼくの書いた記事に即座にトラックバックをしてくれた Over 40 カザリヤ・ジャーナルが、ぼくの主張にはうなづけないとしてその理由を書いている(「本当の自然とは?生物が作り替えた自然」2005年12月26日)。引用したのはその結論にあたる部分だ。

なにが問題の本質なのか?

自然は、わたしたちの命綱であると、ぼくは考えている。自然をつうじてぼくたちは地球とつながっているのだと。自然という命綱が弱まると言うことは、そのまま地球が病にかかっていると言うことであるのだが、これを生きている地球の側から見れば、病気にかかっているのは地球ではなくて、「自分たちの都合のよいように自然を作り替えてきた人間」の内側と言うことになる。あるネイティブの人は「この病気で地球が死ぬことはない。この病気で死ぬのはわたしたち人間である」と言った。そうなのだろうとあらためてぼくは思う。

人間はあきらかに自分のことだけしか大切にしていない。カザリヤ・ジャーナルが言うように、人間はそれを「進化」として見る傾向にある。しかし大切な事実を忘れてはいないだろうか? そうした自己中心的(人間中心的)な人間の生き方・存在の仕方こそが、あまたの問題を引き起こしているのである。ミミズだってキツツキだって、ありとあらゆる植物や鉱物や動物が自然のバランスを壊す力を持っているわけではない。ミミズが川の水を飲めなくするだろうか? キツツキが酸性雨を降らせて木々を枯らせたりするだろうか? 海の魚が海を汚したのだろうか? 答えはNOである。彼らにはそんな力はない。

ひとり人間だけが他のそうしたいのちたちの持っていない力を持つ存在なのだ。これは人間が最も強い生き物であることを意味しない。自然のバランスを壊す力を持っているのは人間だけであるという事実を伝えているにすぎない。人間だけが自分自身を壊す力を持っているのである。ある人はそれを「自殺機械」と呼んだ。わたしたちにはそうした力があらかじめ与えているからこそ、伝統的な文化の多くが、本来は弱くて謙虚であるべき人間にとってふさわしい居場所がどこにあるのかを伝える話を今に伝えてきた。

アメリカ大陸の先住民族が、そうした話を今に伝えているのは、おそらく1万年程前に彼らの祖先がマンモスなどを絶滅させてしまった苦い体験を忘れないためではないかと思われる。ホピの人たちは「人間が創造主の教えを忘れたために前の世界が滅びた」という神聖な物語を語り継いでいる。

nacircle人間の自己中心的な生き方によってわたしたちの存在自体が危ういものになりつつある今こそ、先住民族のエルダーたちが言い続けているように、わたしたちは、未来の7世代のことに思いを馳せることをとおして、地球という惑星で生きる方法を学びなおすようにしなくてはならないのではないか。自分たちに都合のよいように自然を作り替えることが、これから生まれて育つ7世代にどんな影響を与えるだろうか? そんなことをいちいち考える必要なんかどこにもないと、あなたはいうかも知れない。それはあなたがほんとうの自然を生まれてからまだ一度も知らないからなのだ。

ほんとうの自然を前にしたときあなたはなにを考えるだろうか? これだけの巨木があれば大きな家が建てられると考えて、人間は木を切り倒してきた。石油なんかあるだけ使ってしまえばよいといまだに考えている。もしこの木を切ったら鳥たちが巣を作れなくなるのではとか、もしこの川の流れを変えてダムを造れば魚やけものや樹は水を奪われるのではないかとか、それがゆくゆくどんな未来をもたらすのかとか、自分がけものたちをひとつ残らず獲物として取り尽くしてしまったら、なにが起こるのかとか、そうしたことを考えずにこれまでやってきた。自分たちに都合のよい自然だけを自然として、自然を家畜化し、2000年近くやってきて、今わたしたちは最初の教えに戻るべき時にきている。

それは、「自分のとる行動は、自分の子どもの子ども、そのまた子どもの子どもにどんな形で影響を及ぼすだろうか」と絶えず問いかけ続けることである。

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Monday, December 26, 2005

ぼくたちはそろそろ日本列島の自然についての認識を改めなくてはならないのではないか


0.06%

この数字がなんだかわかりますか? ぼくは今『ネイティブ・タイム』に基づいて歴史を見つめなおすことを提唱しているが、そのなかでしばしば「日本列島の自然はあまりにも不自然な自然だ」「盆栽のような自然を人びとは自然だと思わされている」と言い続けてきた。われわれは本来の自然をあらかた失ってしまったのだと。ぼくたちのはるかなる先祖が今現在につながる生き方を選択して以来、およそ2000年近くの年月をかけて、日本列島本来の自然は波がひくように消え去り、もはやわれわれはこの島々の本来の自然の姿を想像すらできなくなっているのだと。

それにもかかわらず「日本の自然は豊かだ」というプロパガンダによって、ぼくたちは不自然な自然を自然だと思いこむことに疑問を抱かなくなっている。環境から本来の自然が喪失していると言うことは、「環境がその中に暮らす人たちの心の投影である」ということを信じるなら、われわれの内側にあった本来の自然もまた失われたと言うことを意味している。こうした話をすると、多くの人たちが「ほんとうなのか?」という顔をするので、かねてよりその事実を裏付けるデータはないものかと探していたところ、つい最近になって冒頭に掲げた数字を見つけることが出来た。

f06この「0.06%」という数字は、環境生態学者として「潜在自然植生(すべての人間の干渉を停止したと仮定したときに、現在の自然環境が支えうる自然の緑、森のこと)」を研究し、日本中の植生を徹底的に現地調査して『日本植生誌全十巻』という書物をまとめた横浜国立大学名誉教授で(財)国際生態学センター研究所長の宮脇昭先生が発表したもので「日本列島にどのくらい土地本来の森が残されているか」を示すものである。(左の図版は日本列島の潜在自然植生をあらわす。クリックすると大きくなる)

つまり日本列島に残されている森の99.94%は人間が手を入れて「家畜化」した不自然な森なのだということなのだ。先生はそれを「人工的な森」といっておられる。先生の意見をまとめると「今の里山のクヌギなどが中心の雑木林は人間が人工的に作ったもので、本来の植生はシラカシなどの常緑樹、海岸部は照葉樹林だった」「現在の雑木林は20年に一回の伐採と3年に一回の下草刈りが前提とされている森。それをやらないと維持することができない」「松にしてももともと条件の悪い山頂部などに限定して生えていただけのものを、人間が自分勝手に広げてしまった」「日本列島の森が不自然な森となったために自然災害が起こる」「元の土地本来の森に戻すためには、200年間は森に人間が手を加えないことが必要」「200年あれば元に戻る」ということになる。

200年かぁ。2000年かかって失われたものが、200年で回復するとしたら、母なる自然の力はそれだけ偉大と言うことになります。言っておきますが、200年手を入れなければ原生林になるというのではありません。先生は「現在の自然環境が支える土地本来の樹木を植えながら、人間と共存できる森をつくっていこう」と主張されているのです。「照葉樹林帯においては、『シイ、タブノキ、カシ類』という“三種の神器”といわれる常緑広葉樹を植えて、人類の生存母体である森を、何とか少しでも再生させていきたい」と。

2005年の3月に公開された宮脇先生のインタビューがここにあります。

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Saturday, December 24, 2005

願わくばあなたの家とハートが暖かさと優しさで満ちあふれますように


pueblo_winter

Wish You Have A Very Native Christmas!

去年のクリスマスにも同じことを書きましたが、今年もすこしだけトーンを変えて同じことを書きます。同じことを書いているつもりでも、すこしずつ中身も変化していくかもしれないので。(余談ですが、今年ほど「アメージング・グレース」がメデイアで流された年はなかったように思われます。それが「賛美歌」なのだということを認識している人はきっと少ないのでしょうし、ましてやその歌がチェロキーの人たちにとっては国歌とされるものであることを知る人はさらに少ないのかもしれません。「アメージング・グレース」が人びとに歌われる背景にあるものは、すっかり失われてしまった聖なるものにたいする郷愁なのでしょうか。上のミュージック・プレイヤーをクリックするとチェロキー語のアメージング・グレースが一度だけ流れます)

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Thursday, December 22, 2005

時の輪講座のためのノート 「自己中心的生き方」がもたらしたもの

MEDICINEMANSEYEこの覚え書きは「時の輪」歴史講座のためのノートであり、近いうちに参加者が加入することになっているメーリングリストが立ちあがったあかつきには、そちらに続きが書き込まれる予定のものである。

歴史講座としてわたしがお話ししていることの中心的な課題は、等身大の持続可能な世界を築いて数万年環を描いて続いていた「地球に生きる人としての生き方」であり、これと対立するのがわずか二千年ほどで地球を生態学的な死に追い込んでしまうことになる直線軌道を描いて現代まで続く「自己中心的生き方」である。この「自己中心的生き方」の起源は、わたしたちが考えている「歴史」のはじまりと無関係ではない。区切られた狭いエリアを支配するひとり(または複数の)人間の意向を受けて歴史が文字で書かれるようになる以前には、始まりもなく終わりもない時の輪のなか、ときおりそうした生き方の萌芽は見られたものの、そうしたものはおそらく社会的な病気と認識され、これが大多数の人びとの心をとらえて知らず知らずのうちに人びとを見えざる牢屋に追い込むもののひとつであるとは誰も考えることはなかったといっていい。

自己中心的な生き方のもたらすものをまとめてみると、以下の6つが考えられる。


  • 人と人との間を切り離す。

  • 自分たちには環境(自然)を敬い愛する義務があるということを考えさせないようにする。

  • どこかに行きたい、なにかをしたい、もっと欲しいと絶えず思わせる。そのことによって、今という瞬間のために生きることよりも、過去や未来のために生きるように仕向ける。

  • 飽くなき欲望、憎しみ、怒り、恐れ、嫉妬によって他の人といつでも自分を切り離すことばかりに向かっていくようにする。

  • いかなる形においても世界観——世界とはいかなるものであるか、人はなんのために生きるものなのか——などについての共通認識にいたることがないようにわざと仕向ける働きがある。

  • ことのほか死を恐れるよう仕向ける。


ではいかにしてこの自己中心的生き方という見えざる牢獄——日本列島においては千数百年前から建設がはじまり、今なおより強固なものにしようと補強工事が続けられている「共同幻想」——から脱出できるのか、そしてこの見えざる牢屋を形作っているさらにほかのものとは? こうした大きな問題についてはまた項目を改めていつか考えてみよう。

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Tuesday, December 20, 2005

冬至は太陽が立ち止まるとき

starsol今年の冬至ですが、日本列島では12月21日ではなく、22日でしたね。厳密には22日の午前3時35分に起こります。だから21日の夜には準備をはじめなくてはなりません。

今年はこんなにもう雪が降っているのに、暦の上では冬至からが冬本番になります。そういえばわたしたちはこの季節に極東アジア上空に現れる猛烈な寒気のかたまりのことをいつのころからか「冬将軍」と呼ぶようになっています。テレビの天気予報には「冬」という1文字を兜(かぶと)の額につけた将軍さまが登場したりします。寒い土地から雪と冷たい風を引き連れて、元寇よろしく攻め込んでくる強力な敵の武将というイメージです。日本海沿岸に暮らす人たちの大雪との戦いぶりを見れば、「攻め込んでくる」という表現もうなづけますね。ネイティブ・アメリカンの世界にも冬を連れて南に降りてくる男の話がレナペの人たちに残されています。こちらは家出した女房が忘れられなくて会いに来る男の話です。

「亀の島の北側に広がるツンドラの地に、いつも天気のことでああだのこうだのと言い争ってばかりいる夫婦が住んでいた。ある日、ほとほと口げんかがいやになったかみさんが、もう我慢の限界とばかり家出をしてしまい、旦那をひとり残したまま、南の暖かな地へ行ってしまった」というところが発端です。男は思うところがあり、わびを入れるつもりで、しかたなく大好きな冬の冷たい空気と雪を連れて、南で暮らすかみさんに会いに出かけることにしたのです。だから毎年今ごろの季節になると、恋しさのあまり男が冬を引き連れて南の別れた女房に会いに来るというわけ。

冬将軍という強そうなイメージはないけれど、「逃げた女房に謝るために冬を連れてやってくる」男といううら淋しげなイメージにも捨て難いものがあります。

冬至の日にはおまつりを

さて、一年で最も昼の時間が短くなる冬至が、地球の北半球に暮らす人たちにとっては重要な意味を持っていた日であることは、間違いありません。陰と陽で世界を見る宇宙観の言葉に「一陽来復」がありますが、これは冬至の日に陰と陽が逆転し「地中に一陽が宿る」ということを意味します。

inyanわかりやすく言うと「最初の夏の一粒が」地中にできて動きはじめるのです。この日を境に日がまた伸びはじめ、本格的な夏のはじまりを告げる6月の夏至の日に「最初の冬の一粒が」降りてきて夜が最も短くなるのです。地球と太陽の位置関係が変わる「冬至」と「夏至」は、信仰や生活の仕方は違っても、自然とともに生きているかぎり太陽と地球の位置関係は地球に生きる人にとってはきわめて重要なターニングポイントでした。

英語では冬至は「Winter Solstice」と言います。Solstice は「太陽が立ち止まる」という意味です。冬至はなにかが終わり、なにかが始まる、その節目にあたっています。この変化の瞬間にじゅうぶんな敬意を払うための儀式を執りおこなうことは、しかし、自然から切り離された生活を選択して以来ほとんどのところで失われつつあります。大昔には北半球のどこでもそのための儀式がその日もたれていたことは疑いようがありません。自然とともに生きると言うことのなかには、当然「天球の自然」もふくまれるからです。月、星、星座、太陽の動きを観察する人たちには、太陽が特別な場所に到達し、そして向きを変えて新しい旅をはじめるその日は、神秘的でもありまた深い意味のあるものであったはずです。その日に太陽に力を与える儀式を行わないと、そのまま太陽の力が衰えて完全なる闇の世界にはいってしまって、光あふれる世界には戻れないかもしれないという恐怖もあったかもしれません。

北半球の各地に、この日を新年のはじまりとする文化が昔はたくさんありましたし、クリスマスだっておそらくはその日の祝祭であったろうと思われます。日本列島でもはるか古代の冬至の儀式を彷彿とさせる奇祭が残されている土地があります。岐阜県揖斐郡揖斐川町上野の朝鳥明神(社がない神社。磐境といって、岩がご神体として祀られている!)で、この明神さまには太陽神が祀られていて、毎年冬至の日の早朝から冬至祭がおこなわれます。言い伝えでは1500年前から続くとされる日本建国以前の祭りで、日の出を迎えて太陽の力の復活を祈る儀式(「日迎の神事」)が中心です。この祭りの光景を3年前に記事にした岐阜新聞がここにあります。

na_dreamcatcher地球の家族と宇宙の家族

アメリカ・インディアンが冬至と夏至の日をことのほか大事だとしてきたことの背景にも、太陽の力の復活を祈る儀式がありました。北カリフォルニアの太平洋沿岸に暮らしていたチュマッシュの人たちはその日をきわめて大切な日と認識して数日間続く祭りを数千年前から伝えていました。独自の星の知識を持つラコタの人たちは北のホワイトバッファローの象徴としてこの日の太陽を見たようです。ホピの人たちはこの日から1ヶ月ほど続くソーヤルという祭りに入ります。冬至の日を新しいサイクルのはじまりの日として大切にする人たちは、天球に起こっている変化がわたしたちと密接につながっていることを理屈ではなくハートで知っていました。

この宇宙のなかにあるものはそこにある他のものすべてと網の目のように連結されていて、当然ながら宇宙にあるものはことごとくが太陽の影響を受けているのです。これはどこかに書いたことなのですが、インディアンの人たちはしばしば「わたしたちには親や兄弟があって家族を形作っているが、ほんとうの母親はマザー・アースであり、父親はファーザー・サンなのだ。母なる地球と父なる太陽が宇宙のすべてにいのちを与えている」と言います。これは美しい表現でありますが、けして夢のようなことを言っているのではなく、もっとリアルなことを伝えようとしているのです。それは、あなたには地球の家族があるように、宇宙の家族も存在しているのですよということです。

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Monday, December 19, 2005

最初のアメリカ人たちのアート展

dress芸術活動は常にネイティブ・ピープルの生活の一部にしっかりと組み込まれていた。そのことをあらためて目で見て確認させてくれるような興味深いオンライン・イベントが米スミソニアン・アメリカン・インディアン博物館で今月おこなわれている。題して「ファースト・アメリカン・アート(first american art -THE CHARLES AND VALERIE DIKER COLLECTION OF AMERICAN INDIAN ART)」展。

これはニューヨーク在住でネイティブ・アメリカン・アートのコレクターであるダイカー家が長い年月をかけて収集したきわめて美しく装飾されたバスケットやボウル、クレイドル・ボート(赤ちゃんを入れて運ぶもの)などさまざまな工芸民具やモカシンやドレスなどの衣服やベルト、袋物、仮面や置物、絵画やカチーナ人形、19世紀にネイティブの人が描いたスケッチなどで構成されているイベントだ。一枚一枚作品の写真を見ていくだけでも楽しいので、寒い季節のネットサーフにはうってつけかもしれません。

first_american_logo写真はこのイベントに展示されているもののなかの一枚で、1870年に作られたラコタのバックスキンの女性用ドレスで、パウワウ・ダンスの際に着用されたもの。製作者の名前は残されていません。あでやかなビーズ細工がひときわ目をひく。アートが「創造作業」として生活の中に組み込まれていたことがよくわかります。これを着て軽やかにステップを踏むラコタの女性の姿が想像できませんか。

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Sunday, December 18, 2005

ジャスト・ライク・スターティング・オーヴァー

偉大なる曽祖父よ、われわれは承知しています/あなたがお創りになられたすべてのいのちのなかで/ひとり人間家族だけが/聖なる道を 踏み外してていることを。
オジブウェイの祈りの言葉

今回は思うところがあって、冬至の日という特別な日があるために、あらためてもう一度聖なる言の葉』のなかからオジブウェイ一族の祈りの言葉の一節を選んだ。いったいわたしたちは、なにがあったために、もともとの道——ほんらい地球に生きるヒトのたどるべき道——からこんなにも遠くに離れたところまできてしまったのだろうか。いったいなにがわたしたちに起こったのだろうか。わたしたち「人間家族」に、なにが起き・起こり・起きつつあるのだろうか。すべてのひとりひとりがこれらの疑問にたいする回答を求められていることは間違いない。ひとりひとりが自らにたいしてそれらの問いにたいして答えなくてはならない。わたしたちはもう一度聖なる道に戻ることができるのだろうか。生き方を改めると言うことは簡単だが、ではそのためになにからやりなおせばよいのだろうか。答えはひとつしかない。祈ることだ。祈るというのは、自然なるものとのコミュニケーションのことだ。自分に理解できないきめられた言葉を何回も唱えることだけが祈りなのではない。わたしたちを創造(想像)された存在が、地球と魂を結びあわせて生きるいのちたちを偉大な癒しに導いてくれるように祈ることが本質であるだろう。すべての人たちがアルコールからも、ドラッグからも、お金からも自由になれることを祈ろうではないか。魂と魂が繋がりあってひとつになっているような文化に、わたしたちひとりひとりが自分自身を癒し、もう一度強さを取り戻して、ほんらいの道に還れる日がきますようにと、祈ろうではないか。

聖なる言の葉—ネイティブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い』(マーブルブックス|スタン パディラ 編|北山 耕平訳|2004年刊行)のなかには、既成宗教のむずかしい祈りの言葉ではなく、地球に生きる人たち(ネイティブ・アメリカン)のシンプルで直接魂に働きかける祈りの言葉がたくさん載っています。もう一度祈りのある生活を取り戻すための道案内として活用されんことを。

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Friday, December 16, 2005

12月16日 シッティング・ブルが殺された日

sitting-bull

1890年12月16日(火曜日 月齢4日)合衆国政府によって捕虜の身となり、サウス・ダコタのイェーツ砦(陸軍基地)に収監されようとしていたシッティング・ブルが第八騎兵隊の兵隊たちとインディアン警察官によって殺害された。39人の警察官と4人の志願兵はシッティング・ブルを逮捕するために集められていた。殺害現場に集合していたシッティング・ブルの支援者100人以上の目の前で凶行はおこなわれ、当然現場は阿鼻叫喚の極みとなって、結果としてシッティング・ブルの他にも何人かが死んだり怪我をした。陸軍の記録によれば、兵士4人とインディアン8人が死に、3人の兵士が負傷したとされる。この事件が起きた週末の『アバディーン・サタデイ・パイオニア』紙(Aberdeen Saturday Pioneer)は、その社説でシッティング・ブルのことをつぎのように書いた。一部を引用する。


「ここに広がる広大な大草原のもともとの所有者たるものの誇り高きスピリットは、大草原の所有を巡って幾世紀にも及んだ激しくかつ血なまぐさい戦争の時代をつうじて生き延び、シッティング・ブルの胸の中まで脈々と伝えられた。彼が倒れたことでインディアンの気高さは消失し、わずかに残されたものたちはもはや、自分たちを打つ手に鼻を鳴らして憐れみを乞う野良犬たちの群れにすぎない。白人は、征服の法に基づき、文明の裁きによって、名実共にアメリカ大陸の支配者となった。今後はわずかに残されたインディアンどもを徹底的に壊滅せしむることによって開拓地への移住者の安全は保証されることになろう」

このまつたくもって身の程知らずで手前勝手な——今のブッシュ大統領のイラクにたいする演説にも共通する響きがある——文章を社説に執筆したのは、同紙の編集委員のライマン・フランク・ボーム(L. Frank Baum)という人物であり、彼はのちに『オズの魔法使い』(1939年)の原作者として世界に名を轟かせることになる。なおシッティング・ブル殺害の実行犯は、白人からあることないことを吹き込まれたインディアンの警察官だったとされる。シッティング・ブルは同じネイティブ・アメリカンによって暗殺されたのである。そして同年同月の凍てつく年末29日の「ウーンデッドニーの大虐殺」へと時代は音を立てて流れていく。

それは、年も押し詰まった12月末、極寒のウーンデッドニー・クリークで、チーフ・ビッグ・フットをはじめとして女性や子供120人を含む350人のインディアンが、ゴースト・ダンスをするための準備中に、500人を数えたアメリカ陸軍第七騎兵隊の兵士たちのの銃撃を浴びて30分ほどのうちに女性や子供たちを含む150人が撃ち殺される悲劇として、「ウーンデッドニーの大虐殺」として後世に語り継がれる事件である。

(「暗殺」と「殺害」という報道上の用語の区別について考えたことがあるだろうか? 生前その人物がどのくらい偉大だと考えられていたのかによって、ただ殺されたのではなく、暗殺されたとマスコミは書くのだろうか? 疑問)

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Monday, December 12, 2005

18世紀の北米大陸にあなたがもし旅をしていたらなにを見ただろう?

title当ブログを定期的に訪れてくれる人には必ず得るものがあるはずのサイト——今月いちばんのおすすめリンク——を今日は紹介したい。イェール大学と言えばアメリカの名門だが、これは同大学の図書館が公開している希少本などのコレクションのなかにおさめられていて、タイトルを「THE ILLUSTRATING TRAVELER ADVENTURE AND ILLUSTRATION IN NORTH AMERICA AND THE CARIBBEAN 1760-1895」という。日本語にすると「描く旅人 1760年から1895年までの北アメリカとカリブ諸島における冒険と図録」となる。

リンク先はその巻頭ページで、ここにおさめられているいろいろな欧州から来た旅人たちの「絵」と一部初期の「写真」が今回ここに紹介してあるものだ。そこにはこのコレクションにはどんなものがおさめられているのかを概観させる文章がある。ざっと読むと、これが18世紀から19世紀にかけて、絵心を持つ文明国からの旅人が北米大陸とカリブ諸島でどんな人たちと遭遇し、なにを目撃したのかをイラストによって報告した文書のコレクションであることがわかる。

重要なのはこのページの一番下にある6つのリンクで、それぞれ


  1. Encountering Native Americans
    ネイティブ・アメリカンとの遭遇 全3パート

  2. Customs of the Country
    この国の風俗習慣 全3パート

  3. Valor and Endurance
    剛勇と忍耐 全3パート

  4. An Analytic Eye
    分析的視点 全3パート

  5. The Sublime and the Picturesque
    崇高さと美しさと 全3パート

  6. The Spirit of Place
    場所のスピリット 全3パート

というイェール大学らしい妙に知的なタイトルがつけられているが、なにおそれるにはあたらない。ぜひそれぞれの項目におさめられている絵をじっくりと見ていってほしいものである。ひとつひとつのタイトルがさらに3つのパートに別れているので、それらもチェックするのを忘れないように。絵や写真には短い解説がつけられているので、これを読むのもまた興味深いと思う。登場するネイティブ・ピープルは実にさまざまなエリアに別れている。その当時の北米先住民たちがどのような風俗や習慣を持っていて、ヨーロッパからの渡来者たちにどんな目で見られていたのか、北米大陸の自然景観はどんなだったかなど、さまざまなことを伝えてくれる貴重な資料である。ぜひ時間を作って、じっくりと腰をすえて先住民たちが「亀の島」と呼んだ大地へ時空を超えて旅をしてみてください。


img0002

ここに紹介するのは「剛勇と忍耐」のパート2に掲載されているイラストレーション。ジョージ・カトリンという画家で著名な作家が1845年にニューヨークで刊行した『カトリンの北米インディアン図録』という本に収録されているもので、当時のロッキー山脈山麓の大草原で見た狩りを楽しむバッファロー狩りの図(リトグラフ)である。

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Saturday, December 10, 2005

あるナバホのアーティストの訃報に接して

logo_bottomディネ(ナバホ)の現代美術を代表するアーティストのR・C・ゴーマンが11月3日に亡くなっていたというニュースを「サンタフェより」というブログで知って軽いショックを覚えた。

じつは当ページのサイドバーの中程にアフリエイト(成果報酬型広告)で「Allposters.com」のポスターやアート作品を4点ずつ紹介している。オールポスターズ・コムはさまざまなポスターやアーティストたちのプリントされた絵や写真などの作品を幅広く世界に向けて販売している会社で、ぼくがこの会社をアフリエイトの相手に選んだのは、こちらが提供したいと思う作品だけを紹介できるような仕組みがあったからと、同時に、ワールド・カルチャー、とくにネイティブ・アメリカンに関する作品や自然についての作品がことのほかたくさん集められていて、比較的リーズナブルな値段で日本にも配送してくれるからである。1ヶ月に2度ほどサイドバーに掲載する作品を選ぶのがぼくの楽しみ(ギャラリーのオーナーにでもなった気分)でもあるのだが、そのコーナーのコンセプトは、最初が「マザー・アース」つぎが「自然界(マザー・ネーチャー)」そしてあとの2点がネイティブ・アメリカンのアーティストの作品、あるいはネイティブ・アメリカを題材にしたものにきめている。R・C・ゴーマンの作品はその独特の色づかいといい、構図といい、主にナバホの女性を描いている技法といい、きわめて目をひき、見るものの魂を奪うものであるために、これまでも何枚も紹介してきた。今回公開した4点のなかの3番目「Navajo Dawn(ナバホの夜明け)」と題されたものが彼の作品である。この作品をクリックしていただければ、同作品が拡大されたものと、他の彼の作品も会わせてご覧いただける。

Thunderstorm
Northern Arizona University Art Museums & Galleries, 1993
Thunderstorm

サンタフェより」によれば彼のギャラリーがニューメキシコのタオスにあるという。R・C・ゴーマン(R.C. Gorman 1931-2005)のナバホ・ギャラリーでウェブサイトもある。このサイトには彼の1970年代以降のポスター作品がすべて見れるページもあるので、この記事を読まれたのもなにかの縁だろうから、その縁を大切にして今日はぜひ一度彼の作品をしみじみとご覧になってください。

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マカー族の乙女は瞳で語る

およそ1ヶ月ぶりに右列サイドバー最上部のピースな写真を差し替えた。エドワード・カーティス(Curtis, Edward S., 1868-1952)が1915年に公開した写真の一枚で「マカー族の乙女」(クリックすると大きな写真が出ます)というタイトルがつけられている。こういうまなざしで見つめられたら、言葉を失うでしょ。

マカー族というのは北西太平洋沿岸の浜辺の5つの村に別れて暮らす海の人たちで、アメリカの国のなかで最も北西のカナダ国境に接したワシントン州のオリンピック半島というところに国を持っている。そのかつての生き方や暮らしぶりなどは、おそらく太古の日本列島ので暮らしていた海の人たちもかくやと思わせるようなライフスタイルだった。伝統的な(2000年以上続く)スピリチュアルな——ひと月も続く祈りと断食と清めの儀式をともなう——やり方で、カヌーを巧みに操ってクジラ狩りをすることをアメリカ合衆国政府に認めさせている海のインディアンのなかでは唯一の部族である。1920年代にアメリカの商業捕鯨産業が北太平洋で灰色クジラの捕鯨をしすぎたためにクジラの数が激減してマカーの人たちのクジラ・ハントは事実上休止状態に追い込まれたが、1999年の5月、ほぼ70年ぶりに、環境保護論者が反対し、世界中のメディアが注目するなか、カヌーを使う伝統的な昔のままのクジラ・ハントのやり方にのつとって灰色クジラ一頭をしとめた。そのクジラが周辺の村からマカーの人たちを支援しに集まっていたたくさんのカヌーによって岸まで曳航されると、初めてクジラを生で見た子供たちは目を丸くしてその大きさに驚愕したという。マカーの人たちを生き延びさせるためにいのちを捧げてくれたクジラに盛大に祈りがあげられ、クジラのスピリットが解放されて彼岸に送られた。しきたりどおり正しい敬意が払われた上でクジラは解体され、今に生きるマカーの人たちは、彼らの先祖を数千年間安定して生きながらえさせてきたものの肉を、70年ぶりに口にした。クジラの解体は夜通し続けられ、その肉は冷凍されたり薫製にされたりシチューになった。その出来事があった週、カナダや合衆国のあちこちから先住民の代表がマカーの土地を訪れて、マカーの人たちがもう一度クジラ狩りの伝統に還ったことを祝したと言われている。その後マカーの人たちは自分たちの権利である伝統的なクジラ・ハントを続けるべくいくつかの裁判闘争を争って今日に至っている。

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Friday, December 09, 2005

すぐそばにおられる存在との会話

あらかじめ自分に備わっている才覚を疑うなかれ。自らを鍛えるものは、いついかなる非常時にも対応ができるものなればなり。
オマハ一族の言い伝え

この格言が伝えていることは、人間というものは自らにあらかじめ与えられている才覚に則って個々に機能し、すべてを作られた存在を信頼するように、もともと設計されているということである。ネイティブ・ピープルの信念体系はシンプルでありわかりやすく、そしてみごとなまでに普遍的だ。われわれがグレイトスピリットとの間に独自に自分たちの関係を築きあげているのなら、われわれはいつ非常事態が起きようが準備は整っているといってよいだろう。だからこそわれわれはすべてを作られた偉大な存在と信頼関係を作りあげる必要がある。そのためになにが必要かというと、絶えずすべてを作りあげている存在と会話をしていなくてはならない。一日に何回も「彼」と個人的に話をするのは悪いことではない。それを続けることによって、われわれはいずれ確信することになるのだから。たとえその姿がまったく見えなくとも、「彼」がいつもわれわれと共にすぐ側にいてくれて、われわれの要求に応じる準備ができているということを。

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Wednesday, December 07, 2005

アマゾンの熱帯雨林で生き延びてきた名前のない部族

「ブラジルで名前のない部族を救う動き」という小さな囲み記事がLAタイムスの12月1日に掲載された。記事はリオデジャネイロ発でAP電が伝えたものである。

ブラジル政府の当局者によれば、現在警察があるアマゾンの地域から移住者たちや木々を伐採する製材関係者たちを閉め出そうとしているらしい。なにしろその地域には「世界で最も孤立したインディアンの部族」が暮らしているのだ。外界と隔絶したところに暮らしてきた部族であるがために、彼らのことはこれまでまったくと言っていいほど知られることがなかった。

リオデジャネイロの北西1400マイルのマトグロッソ州で、警察は120人の捜査員を導入して、これまでに27人の人間を土地の不法占拠と大量虐殺未遂の容疑で逮捕した。

「われわれはこのグループのインディアンたちが組織的に虐げられていると認めました。所有物を残したままのインディアンたちとの間で、われわれはこれまで軽々に見捨てられてきた解決策を見つけたのです」と連邦インディアン局辺地インディアン課のアーマンド・ソアレス・フィルホ課長は語った。

ブラジル政府に雇われた人類学者がその部族の痕跡を最初に発見したのが1998年。3年後の2001年には、インディアン局が命令を出して、そのあたりの41万エーカーの熱帯雨林から部外者を追放すると同時に、人類学者たちに部族との接触を許可し居留地の境界を定める手続きに入っている。

問題の部族にはもともと名前などなかったが、近くを流れる川の名前をとって「リオ・パルド族(Rio Pardo tribe)」と暫定的に呼ばれてきた。この集団については、およそ15人ほどの構成員がいて、土地の動物を狩猟し、野生の果実や野菜を採集して暮らしているらしいこと以外、まったく知られていない。

ソアレス・フィルホ課長によれば、最近になってインディアン局は部外者たちがこのインディアンの集団を追い立てて、この地区一帯が居留地に指定されないように、彼らの存在の痕跡を消しにかかっていることを発見したのだという。

課長によれば、当局はまた地元の政治家たちと、牧場主たち、製材関係者らが結託している証拠もつかんでいるらしい。こうした事実に基づいて、これまでに検察官は70以上の逮捕状を出して、これまでにインディアンが殺された形跡がないかどうかを調査している。

「われわれは該当地域のなかでGPS(汎地球測位システム)装置、チェーンソーを持ち、武装して、ふたつの爆弾まで持つ一団の男たちを発見しました」とソアレス課長は言った。「はっきりしているのは、この連中がインディアンを追い立てて皆殺しにしようとしていたことです」

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Tuesday, December 06, 2005

声を送る 目次 2004.03-2010.01

Native American Teachings

このブログの書庫に収蔵されている「ネイティブ・アメリカンのエルダーたちの教え」とぼくがこのブログの読者にどうしても伝えておきたい大事なことに関係するもののリストを作った。Native Heart blog のカテゴリーでいうなら「To All My Relations」におさめられているものだ。「地球に生きるための教えとその解説」として現在も続けているものではあるが、ひとつひとつはいつ読んでもよいように考えてあるので、こうした索引があると便利だろうと思った。ほとんどがこのブログではじめて紹介したものだが、なかには他の媒体に発表したものも数編ふくまれている。またこのカテゴリにおさめられているものすべてではない。エルダーの声が聞こえるようなもの、生き方に影響を及ぼすと思えるものを主に選択し、日常的な印象などを記したものは省いた。ひとつひとつの教えが、もう一度地球で生きるとはどういうことかを考えるきっかけになるとよいと思う。

Revised Friday, January 22, 2010

  教えとその解説 目次 2004.03-2007.08

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Monday, December 05, 2005

ジャンピング・マウスの25年

曜日の夕方、八王子からスーパーあずさに載って甲府駅、小淵沢駅を経由して八ヶ岳山麓(北杜市白州町)のおおえまさのりさんの家を訪れた。「じゃんぴんぐまうす」を巡るお話会に出席するためだ。じつはおおえさんが日本で最初に「じゃんぴんぐまうす」を自家版で出版されてからもう25年になる。ぼくが今年長尺版の「ジャンピング・マウス」(太田出版刊)を上梓したときから、おおえさんとはどうしてもお会いしておかなくてはならないと思い続けた。むろんぼくはおおえさんと初対面ではない。はじめて当時新大久保にあったC+F(別名・吉福学校/吉福伸逸氏主催の学びの場)でおおえさんと会ったのは30年近く前のことになる。おおえさんはすでに日本の精神世界ではスターであり、ぼくは駆け出しの編集者だった。それ以後もさまざまな機会に顔をあわして挨拶をしてきた。最近では富士山朝霧高原のWPPD2004の台風に洗われている会場でずぶ濡れになりながらおおえさんと手をつないで輪の一部に加わっていた。しかしぼくはおおえさんの家を訪れたことはこれまでなかった。今回は2年前に段々畑の一番上のところに家を買われて移り住んだという話を聞かされていたし、「ジャンピング・マウス」の本を出版したことの報告とこれまでのお礼もかねてうかがったのだ。

巨大な亀のような石に出迎えられて到着。青い夜の空にはいくつもの星が輝き、庭には大きなティピがたてられていて、そこかしこで焚き火が焚かれて、おいしそうな匂いが漂っていた。集まった人たちのために食事が供されるのだ。夕方のおおえ邸にはたくさんの人たちが集まっていて、家の中央でレンガ造りのペチカが勢いよく燃やされていた。なにか懐かしい同窓会のようでもあり、ジャンピング・マウスのことを語りながらこの25年間のことを総括するおおえさんとのお話は、集まってくれていた人たちにとっても満足いくものだったのではないかと思う。ぼくは近いうちにおおえさんが出版されるアボリジニーの「ドリーム・タイム」の話と、道元禅師の「春は春から春になり、夏は夏から夏になる」という「いま・ここ」についての話が印象に残った。その夜遅くまでみなと旧交を温めつつ語り合った。11時頃おおえ邸の一隅に布団を敷いていただいてそのまま眠りについた。

daynite

曜日の朝は晴れていた。6時半頃に起床した。今日はおおえ邸から15分ほど車を走らせたところにある蔵やグリーンズというコミュニティー・スクールをめざすスペースで「風をひらく」ワークショップで「耳を整えた」後に「ジャンピング・マウス」(語り 古屋和子 インディアン・フルート 野中かつみ)を「聞いて体験する」催しが行われる。おおえさんの申し入れによりフォッサマグナ地域限定のイベントとなった。このスペースは、小淵沢周辺の自然農を志す人たちの拠点であり、音楽家のポール・ウインターやビートニックの詩人のゲーリー・スナイダーも訪れている由緒ある場所である。朝食をごちそうになった後で、60人ほどの人たちと裏の林の中でしばし風をひらいた後、古屋さんとかつみさんの語りと演奏をおおえさんらと聞いた。

「ジャンピング・マウス」を「古屋+野中+北山」のユニットでおこなうのはこれが、富士山奉納、目白のゆうどに次いで3回目である。古屋さんの語りは、ジャンピング・マウスがだいぶ体に入ってきたと古屋さんがおっしゃるとおり、聞く人たちのハートを惹きつける力を増していた。みんなは吸い込まれるように話の世界に浸っているのがよくわかった。風をひらくというのは、耳のとおりをよくするためのちょっとしたメディテーションなわけで、これをした後でお話しを聞くのに実に適している。聞く人たちのハートをひとつにまとめることで、そのエネルギーを大いに高めることができるのだ。

はたせるかな話が終わってみんなでそとで盛大な焚き火を囲みつつ昼食の豚汁やチリビーンズや他にもたくさんの心づくしの由緒正しきごちそうと新米をいただいていたときには、甲斐駒ヶ岳の方から降りてきた雲のなかから雪が舞い始め、それがみるみるうちに本降りとなった。集まっていた人たちは口々にこんなに早く初雪になるなんてという声が聞かれ、スタッドレスに履き替えていない車で来ていた人たちもあわて気味。その日の午後は、メーンルームにてみなで「風をひらく+ジャンピングマウス」体験のトークシェアリングをおこなった。ホールでは薪ストーブが赤々と燃えていたが、表では雪が林の葉の落ちた木々の枝にも見る見る降り積もって、駐車した車の屋根など軽く積雪10センチを超えていた。この雪は俺たちが降らせたんだぜといっても、みんな信じたかもしれないぐらいの集まりだった。関係してくれたすべてのみなさんの見えざる力のたまものである。\(^O^)/

その夕刻、野中かつみさんの四駆で小淵沢駅まで送ってもらい、十数分送れて小淵沢駅を発車したスーパーあずさで古屋さんと甲府、八王子、そこで古屋さんと別れて、さらに町田、相模大野を経て帰宅して、丸太のような眠りについた。

一夜明けた今朝はまたものすごいサンライズで、輝くような大山や丹沢の稜線にも雪が残っていたが、午前中の太陽で融けてしまうだろう。本格的な冬の訪れを確認した二日間だった。じつはあの雪、われわれが降らしたんですと、山に向かってつぶやきたい気分である。\(^O^)/

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Thursday, December 01, 2005

ひとつだけ望みをかなえてあげよう

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。
北山耕平 拝

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