聖なるものはお金で買えるだろうか?
「聖なるものが消え失せて、なにひとつ聖なるものがなくなると、すべてが売り物となる」
聖なるものを「聖なるものたらしめているもの」はスピリチュアルな価値であるとエルダーたちならいうだろう。ネイティブ・アメリカンの世界に足を踏み入れた人は必ず「この地球のうえには聖なる土地がある」とか「われわれの儀式は神聖なものだ」とか、「子供たちというのは神聖な存在だ」とか、「身体は神聖な魂の入れ物だ」とか「結婚は聖なるつとめだ」とか「踊りの時に身につけるものは神聖なものだから触れてはならない」などという言葉をいたるところで聞くことになる。なにかが「聖なるもの」「神聖なもの」であるというのは、あまりに尊く得がたいものであるから、およそそれはお金には換えられないものであるということを意味している。当然ながら「聖なるもの」「神聖なもの」は売り物などではない。聖なるものを買いたいと申し出ることそれ自体が、相手にとってはおよそ考え得る最大の侮辱なのである。
ここで聖なるものがなくなっている国のことを考えてみるのもなにかの役に立つだろう。その国には聖地はもはやない。かつて聖なる山とされた山はゴミであふれかえり、聖なるものがはいっていた建物では人びとから金を巻き上げる方法を常に考えて生計を立てている。自然は科学に置き換えられて、科学で自然を創る試みがあちこちでおこなわれて、結局破綻してさらに自然が失われる。聖なるものが失せてしまっているから、人びとは聖なるものがなにかを忘れ去り、儀式はもはや形だけ。子供たちは神聖ではなくなり、神聖なはずの自らの肉体を売り歩いている。結婚は聖なるつとめではなくなり、単なる契約とされ、かつて聖なるものだったはずのものが値札を付けられて店頭に並べられている。スピリチュアルなものは値段がつけられて見せ物にされる。ここではお金で買えないものなんてひとつも存在しないというふうに。
聖なるものがあるから、そのまわりにスピリチュアルな空間も生まれるのである。聖なるものが失われたスピリチュアル・ライフは、恫喝と自己満足と自己憐憫と見せ物にすぎない。聖なるものの神聖さが、はじめてそのものを尊く得がたいものにするのである。そこには世界を創られた存在にたいするリスペクトが満ちあふれていて、きっとそれは誰の目にもはっきりと見て取れるものなのだ。
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