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Wednesday, November 30, 2005

カルロス・ナカイを改めて紹介します

ネイティブ・アメリカン・フルート・ミュージックが今あるのはまったくもってカルロス・ナカイ(R. Carlos Nakai)のおかげだといっていい。今では押しも押されぬこの世界の第一人者となった彼のことを抜きにインディアン・フルートのことを語ることはできない。これはおそらく誰もが認めるところで、最新の『ヴォイス・オブ・アメリカ|VOICE OF AMERICA』(29 November 2005)が、スーザン・ルーグという女性によるカルロスのインタヴューとレポートを掲載している。タイトルは「ネイティブ・アメリカン・フルートを21世紀に持ち込んだカルロス・ナカイ」だ。音声版もあり、ナカイの曲の一部やインタヴューを実際に耳で聴くこともできる。プレーン・イングリッシュ(平易な英語)で記述されているので、英語の勉強にうってつけでもあるだろう(それにアメリカ・インディアン関係の記事もしばしばとりあげられる)。このブログの記事の右に縦に並べられているアマゾン日本の広告には、そのカルロス・ナカイの今現在30枚あるうち入手可能なCDがランダムに出てくるようになっていて、リンク先では曲の一部が試聴できるので、お気に入りの一枚が見つけられるとよいと思う。

インディアン・フルートはとりわけ心を静める働きが強くハートを伝える力の強い楽器であるし、彼の才能と器はフルートによる癒しの域にまで高められているので、どれも安心して聴いていることができ、その音色が流れ出した途端に、どこからともなく吹いてくる風を感じ、今までに誰もが体験したことがない地球の景観のなかにわれわれを誘ってくれるはず。あるいは、ぼくたちが長いこと、そう千年近く忘れていた、ある種の懐かしさすら覚えるかもしれない。

ぼくがユテとナバホの血を受け継ぐカルロス・ナカイと初めてあったのはノーザンアリゾナの博物館のなかだった。1980年代の初頭のことで、彼はそこで小さなワークショップを開いてネイティブ・アメリカン・ミュージックとその音楽を残してきた人びとのことを伝えていた。ぼくは一度でその音色に魂を奪われた。誰もがインディアン・フルートは博物館の陳列棚のなかとか金持ちのコレクターのところに集められていて、その生の音を聞くことはもうないのではないかと思っていた時代だった。

そうした状況のなか、カルロスはインディアン・フルートとそれにまつわる文化とを再生させた最初のミュージシャンだと言っていい。もともとジャズミュージシャンとして古典的なトランペット学んでいたのだという話もそのときに聞かされた。あのときに学芸員の女性に紹介されてもらった彼の名刺をぼくはいまだに自分の名刺バインダーのなかにしまってある。そのとき手に入れた彼のカセットテープはその後すり切れるぐらい何度も何度も聞いた。今では「Journeys」というタイトルでCDになっているそれは最初はほとんど手作りのカセットテープで博物館で販売されていたのだ。それから数年して、映画「ダンス・ウィズ・ウルフス」の日本公開にあわせて、東京の某デパートが「アメリカ・インディアン展」なるものを計画し、そのイベントに企画で参加した際、たまたまフリー・ジャズのコンサートで来日していたカルロス・ナカイに頼んで特別にソロの・コンサートをしてもらったことを昨日のことのように覚えている。そうそう、今では賛美歌にも分類されている「アメージング・グレース」を最初にインディアン・フルートで演奏したのもナカイだった。

世界に広まっていった彼のフルートにインスパイアーされたミュージシャンがこの20年間でたくさん生まれてきている。彼の奏でる音楽は、ネイティブ・アメリカン・ピープルが守り続けようとしている文化がいかなるものなのかを、どんな本よりも雄弁にわかりやすく伝えている。

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Tuesday, November 29, 2005

絶え間のない変化のなかにいる自分

「天地創造は今も続いている。」
ラコタのことわざ

今回は『月に映すあなたの一日——ネイティブ・アメリカンの364のことわざ』(発行 マーブルトロン|発売 中央公論新社)から選んだ。同じラコタのメディスンマンだった故レイム・ディアーは同じことを「ワカン・タンカによる創造はけっして休むことはない」と表現した。ぼくは「クリエーション(CREATION)」にたいして「天地創造」という言葉をあてている。

古代ヤマトの言葉に「国生み」という言葉があるが、これが唯一わたしたちにとっての「天地創造」に近いものかもしれない。天地創造は、そして国生みの主語となるものは、いったいなにか? 「創造主」「造物主」という言葉は、ヤマト言葉を使う文化のなかにはなかったものだろう。神道では「造化三神」という存在があるとされるし、三つをあわせて産霊神(むすびのかみ)と理解した先達もいた。世界を創られた三柱の主の神。あるいはひとつの偉大なる神の三つの働きといおうか。

ネイティブ・アメリカンのラコタの人たちにとっての造物主・創造主はワカン・タンカと呼ばれる。「ワカン」とはたくさんの意味があるが、しいてあげるなら「簡単には理解できないもの」あるいは「概念」のことである。「タンカ」は「とてつもなく偉大ななにか」を指す。つまり「ワカン・タンカ」とは「とてつもなく偉大でおよそ理解を超えたもの」「偉大な謎」「すべてを創られた存在」を意味する。

平原インディアンの世界観であり、「ジャンピング・マウスの物語」が伝えているメディスン・ホイールというものの見方と考え方は、そのまま「変化」そのものを教えていると言っていい。この意味ではそれは古代東アジアのシャーマニズムからスピンオフした「易経(イーチン)」とも相通ずるものである。「易経」はまたの名を「変化の書」という。それはただ単に占いの経典ではなく、メディスン・ホイールとして世界の見方を教えているのだ。

こうした古代のシャーマンたちの教えによれば、創られて世界にあるものはなんであれいずれ壊れてその形を失い、新しく生まれてくるもののために使われるという。それはまた、地球にあるものはすべてがことごとく絶えざる変化のなかにあり、偉大なる精霊によってはじめられた法則や原理に則って動いていると言うことでもある。われわれ人間にはおのずから変化についていく能力が備わっているし、あらかじめ変化を読む能力も授けられている。想像する力もイメージを与える力も使える。信念を改めることも、態度や癖や習慣を変えることも、期待の方向を変えることもできる。そのためにはわれわれは自分のことを知り、変化に逆らわずにそれに自然に——調和のうちに——ついていくために自分の内側をどのように働かせればよいのかを知る必要があるだろう。

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Monday, November 28, 2005

ネイティブ・ジャパニーズとネイティブ・アメリカン

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Saturday, November 26, 2005

すべてのものの一部である自分

「なんともミステリアスであり、かつまた素晴らしい方法で、あなたはすべてのものの一部なのだ。そして同じように、なんともミステリアスであり、かつまた素晴らしい方法で、すべてのものはあなたの一部なのである」
ニッパワノック、アラパホ

ニッパワノックの言っていることを体験するためには、われわれは、見る、聞く、触れる、匂いをかぐ、味わうといった自分たちの感覚が、いかに限られているかを知らなくてはならない。そうした感覚は、目に見える世界のなかでこそわれわれの役に立つものなのだ。目に見えたものはそのまま頭によって解読され、われわれの信念体系のなかに収蔵されて、われわれのリアリティになることもあるだろう。だが目に見える世界だけでなく、目に見えない世界というものもまた存在する。この目に見えない世界においては、われわれが体験するのはなんというか「関係性」だけである。自分がなにかとつながっているという感覚。つながっている先にあるものは謎そのものであり、そこで体験するのは目に見える世界とはまったく異なる世界の見え方だ。目に見える世界と目に見えない世界。このふたつの世界の両方に注意を払うならば、われわれの信念体系はわれわれの頭にこれまでになかった素晴らしいリアリティをす刷りこむことだろう。われわれは世界を見て、自分がすべてのものの一部であることを知るのだ。

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Thursday, November 24, 2005

内なる平和の症状

「内なる平和」について書かれたおもしろいコピーを見つけたので書きとめておく。オーガニック・アップル・サイダーや各種のハーブ類などを扱うJ.CROW'S®というネットショップ(SpicedCider.com)のウェブサイトにあったものだ。タイトルは「内的平和の症状」というもの。つまり「内的な平和を得た人間にどんな症状が観察されるか」というもの。原文はそちらでお読み願うとして、ここでは翻訳を掲載しておく。

内なる平和の症状
  1. 過去の経験に基づく恐怖からというよりはむしろ、自分で考えて自発的にふるまう傾向

  2. その瞬間瞬間を楽しむ誰の目にも明らかな能力

  3. 他を裁くことに対する関心の喪失

  4. 己を裁くことに対する関心の喪失

  5. 争うことに対する関心の喪失

  6. 他の行為を解釈することに対する関心の喪失

  7. しばしば引き起こされるただならぬ感謝の発作

  8. しばしばハートの奥から襲ってくる微笑み

  9. 他によって拡大された愛の感受性の増加、および自らもそれを押し広げたいとする制御不能の衝動

  10. 物事の成り行きを、自ら巧妙に操るのではなく、自然にまかせる傾向の増加

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Wednesday, November 23, 2005

明日、ココログのなかの人が工事をするそうです

2005年11月24日(木) 9:00-15:00の約6時間
ココログのメンテナンスが行われます。
◇日時:2005年11月24日(木) 9:00-15:00の約6時間◇
当ブログの閲覧もその間、全面的に停止されます。
長時間メンテナンスとなります。
men_at_work2
ご来訪のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、
どうぞよろしくお願いいたします。
またのおいでをお待ちしています。

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聖なるものはお金で買えるだろうか?

「聖なるものが消え失せて、なにひとつ聖なるものがなくなると、すべてが売り物となる」
オレン・R・ライオンズ(1930- )
イロコイ六カ国連邦オノンダガ国チーフ
亀氏族のフェイス・キーパー(信仰の守り人)
ニューヨーク州立大学名誉教授

聖なるものを「聖なるものたらしめているもの」はスピリチュアルな価値であるとエルダーたちならいうだろう。ネイティブ・アメリカンの世界に足を踏み入れた人は必ず「この地球のうえには聖なる土地がある」とか「われわれの儀式は神聖なものだ」とか、「子供たちというのは神聖な存在だ」とか、「身体は神聖な魂の入れ物だ」とか「結婚は聖なるつとめだ」とか「踊りの時に身につけるものは神聖なものだから触れてはならない」などという言葉をいたるところで聞くことになる。なにかが「聖なるもの」「神聖なもの」であるというのは、あまりに尊く得がたいものであるから、およそそれはお金には換えられないものであるということを意味している。当然ながら「聖なるもの」「神聖なもの」は売り物などではない。聖なるものを買いたいと申し出ることそれ自体が、相手にとってはおよそ考え得る最大の侮辱なのである。

ここで聖なるものがなくなっている国のことを考えてみるのもなにかの役に立つだろう。その国には聖地はもはやない。かつて聖なる山とされた山はゴミであふれかえり、聖なるものがはいっていた建物では人びとから金を巻き上げる方法を常に考えて生計を立てている。自然は科学に置き換えられて、科学で自然を創る試みがあちこちでおこなわれて、結局破綻してさらに自然が失われる。聖なるものが失せてしまっているから、人びとは聖なるものがなにかを忘れ去り、儀式はもはや形だけ。子供たちは神聖ではなくなり、神聖なはずの自らの肉体を売り歩いている。結婚は聖なるつとめではなくなり、単なる契約とされ、かつて聖なるものだったはずのものが値札を付けられて店頭に並べられている。スピリチュアルなものは値段がつけられて見せ物にされる。ここではお金で買えないものなんてひとつも存在しないというふうに。

聖なるものがあるから、そのまわりにスピリチュアルな空間も生まれるのである。聖なるものが失われたスピリチュアル・ライフは、恫喝と自己満足と自己憐憫と見せ物にすぎない。聖なるものの神聖さが、はじめてそのものを尊く得がたいものにするのである。そこには世界を創られた存在にたいするリスペクトが満ちあふれていて、きっとそれは誰の目にもはっきりと見て取れるものなのだ。

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Tuesday, November 22, 2005

ニワトリに安らかな最期をという訴え

「食肉処理方法で米農務省を提訴」という東京新聞(11月22日)の記事

 【ワシントン=松川貴】米動物愛護協会は二十一日、全米で行われているニワトリなど家禽(かきん)類の食肉処理方法は食中毒を起こす可能性があるとして、米農務省に改善を求める訴訟をサンフランシスコ連邦地裁に起こしたと発表した。二十四日の感謝祭には、四千五百万羽の七面鳥が食卓に上る。

 訴状によると、米国では生きた家禽類を金属のかぎに逆さにつるし、通電したプールに漬けてまひさせ、それを機械で処理している。このため家禽類がプールにたまった排せつ物を吸い込み、肉がバクテリアに汚染される可能性が高いという。

 また、現在の方法では家禽類の神経がまひするだけで、意識が残っていると指摘。処理する前に無意識の状態にすべきだとして、牛や豚などの家畜について一九五八年に定めた無痛食肉処理方法を、家禽類にも適用するよう求めている。

 今回の訴訟に対し、農務省報道官はコメントは拒否し、「訴状にある処理方法はこの業界では一般的だ」と述べた。

この記事を読んで、スーパーマーケットで売られている、誰が殺したのかもわからない、誰が血を洗ったのかもわからない、それがもともとは生きていたものだとわざとわからないようにラップしてあるご清潔な肉には、もはや力などと言うものは残されてはいないのだ、とつぶやいた故ローリング・サンダーの言葉を思い出しました。

arrow2 米国動物愛護協会のサイトでは、とても正視できないような「モノとして扱われているニワトリたちの映像」が公開されています。中央の「Past Due Protections」の記事の「more」で写真が、また七面鳥の写真の下のところにある「Video: See how chickens are hung out to dry at slaughterhouses.(処理場のなかで殺されたニワトリたちがどのようにかわかされているかをご覧ください)」という部分をクリックで動画が見れます。要 RealPlayer。

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目に見えない世界にあるほんとうのパワー

「お金では親愛の情を買うことはできない」
マンガス・コロラダス(1793?-1863)
アパッチの長老

昨日の続きで今回もお金の話である。マンガス・コロラダス(Mangas Coloradas)はかのジェロニモと肩を並べるアパッチのチーフだ。リオグランデ川の西側からニューメキシコ州の南西部をテリトリーにしていた東部チリカウワ・アパッチに属し、名前は「赤い袖」という意味。前半生についてはほとんどわかっていない。背が高く、勇敢で、賢く、寛大であり何人もの子供を抱える大家族だったといわれている。引用した言葉の精神は、20世紀になって「キャント・バイ・ミー・ラブ」というロックンロールとして生まれ変わり、この歌をうたったバンドに大金をもたらした。:-)

とまあ、それは軽い冗談として、すこしお金の話を続けよう。現代は、あまりにも物質的なものに価値が置かれすぎているために、なんでもお金で片が付くという風潮がまかり通っている。ぼくたちの暮らす国では、すでに江戸時代の川柳に「世の中に金と女はかたきなり、早くかたきに巡り会いたい」というものがあって、すでに物質的な価値を重んじはじめていたことがわかる。まあそれでも「マネー・ラブ」を公言し「お金で買えないものはない」と言い切る世代の登場までには200年以上はかかっているわけだが。

たしかに「お金はパワーのひとつ」である。それは間違いない。人びとはお金持ちにへつらい、お金持ちにあこがれたりする。お金持ちがヒーローとなる時代にぼくたちは生きている。お金があればほしいものはなんだって手に入れられると、思いこむ人たちがいるのもわからないではない。物質の世界においては、それは間違いないのかもしれない。売られているものはことごとくお金で買うことが出来る。

だが、目に見えない世界のものは、どうだろう? 目に見えない世界、形のないものの世界では、ぼくたちはなにひとつ買うことはできない。目に見えない世界は、売り物などではないからだ。それはすすんで与えられることによってのみ、自分のものになる。そうしたものには「愛」「愛情」「思いやり」「称賛」「信頼」「尊敬」「献身」などがある。こうしたものはお金以外のものによって与えられるし、もたらされる。見えない世界からもたらされるそうしたものを自分のものとして使うとき、ほんとうの「パワー」にふれているということになる。

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Monday, November 21, 2005

ヴィジョンの探求者として生きる

「インディアンはヴィジョンを追いかけ、白人はマネーを追いかける」
ジョン(ファイアー)レイム・ディアー
ラコタのメディスンマン

ラコタのメディスンマンの故レイム・ディアーの言葉のなかで印象に残るもののひとつで、彼の伝記(『レイム・ディアー インディアン魂』河出文庫)のなかに出てくる。彼はまた、自分たちの隠語として、ドル札のことを「緑色の蛙の皮」と呼んでいるともいっている。グリーン・フロッグ・スキンだ。車に轢かれてアスファルトの道路の上で干からびている蛙の皮が遠くから見ると一ドル札(グリーン・バック)に見えるかららしい。インディアンにとってのヴィジョンと、白人にとっての金というふうに、両者が本質的に求めているものの違いを鮮明に浮き上がらせているのがなんとも興味深いではないか。大地に根を生やしたものと、スピリットが大地から切り離されたものの、生き方の違いがここに鮮明に見て取れるわけだ。

ネイティブ・ピープルは、もともとヴィジョンというものにたいする感覚がとぎすまされている人たちである。ここでいうヴィジョンとは、国や企業の「長期的計画」とか「目標」とか「計画」というものを意味しない。貯金や保険による個人の将来設計でもない。それはふだんは目に見えないものを見る能力、あるいはその力によって見えた特別なものを指し示している。もちろんヴィジョンがわたしたちの未来を決定づけているという観点からすれば、それは「生きるための目標」と言ってもいいだろう。ネイティブ・ピープルであるということは、生まれついてヴィジョンにたいする知識と能力に秀でていると言うことなのだ。彼らは生涯これを求め続ける。

彼らにとってのヴィジョンは、どれもこれも「偉大なる精霊」と必ず関係がある。わたしたちの生活の隅々にまで創造主の意思が行き渡っていることを、彼らは日常的に認識している。必要なのは、一族のものたちについてのヴィジョン、健康的な人間関係についてのヴィジョン、互いに助け合うことについてのヴィジョン、幸福でいることについてのヴィジョン、学び続けることについてのヴィジョンといったもの。日々わたしたちは自分たちのヴィジョンを新しくしていかなくてはならない。創造主がわたしたちをそうあらしめたいと願われる存在に自分がなれるようなヴイジョン、人生において立ちあわせたいと考えておられる場所に自分がいれるようなヴイジョンをお与えくださいと、人は偉大なる精霊に頼み込むべきだろう。金を追いかけて、買えるものを次々と手に入れることを果てしなく求めるのではなく、どこまでもヴィジョンを探求する人間であり続けること。「お金で買えないものはない」なんて胸をはるのではなくてさ。

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Sunday, November 20, 2005

ホヤ! ホヤ!

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。
北山耕平 拝

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Saturday, November 19, 2005

子供の心

「幼い子供たちのハートは純粋であり、それがためにグレイトスピリットも大人たちの目には入らないものをたくさんお見せくださるのかもしれん」
ブラック・エルク(ヘハカ・サパ)
オグララ・ラコタ、メディスンマン

えてして大人というものは、自分たちは子供たちよりもたくさんのことを知っていると思いがちである。しかし実際はだいぶ違うようだ。思うに、真実により近づいているのは子供たちの方ではないだろうか。子供たちをよく見ているとわかることがある。怒りにとらわれている時間も、子供たちの方がはるかに短い。子供たちも怒りを感じるが、つぎの瞬間にはもうそれを忘れることができる。しかも子供というのはよけいな偏見にとらわれることもなく、心はいつも自由だ。そして自分の身体の発する声にたいして正直に反応することができる。おそらく大人たちはもっともっと子供のようになる必要があるのかもしれない。「天真爛漫(てんしんらんまん)」とは子供たちの心のことをいうのだろう。この天真爛漫な心で自らを創られた存在に向かって祈るとき、はじめて創造主が自分にとって絶対に悪いことはなにひとつしないということも信じられるのだ。また「天真爛漫(てんしんらんまん)」は「天心爛漫」とも書かれることがある。「天の心」も「天の真」も、「心と真」がつながっていることを指し示しているのかも。

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Friday, November 18, 2005

アメリカ・インディアンのことわざの本のあとがき

そこでわれわれが出会えますように 北山耕平

「世界のあらゆる人種は、大平原に咲きほこる色とりどりの花のようなものだ」あるアメリカ・インディアンの長老にいわれたことがあります。「なかには黒い花だってある。そしてそこに咲く花はひとつ残らずどれも美しいのだ」と。地球に生きる人たちの文化は、聞くことと見ることと覚えることと分けあうことでとぎれることなく長い間伝えられてきました。二十代後半の時にアメリカ・インディアンの世界に足を踏み入れ、何事にもほどほどとバランスを求める色とりどりの文化を観察するなか、わたしはそこで自分が学ぶことは、自分の生まれ育った土地において多くの人たちと分けあうことで役に立つに違いないと確信したのです。あれからすでに三十年近くが経とうとしています。言葉に精神を注ぎ込むことを技として大切にするアメリカ・インディアンの目には見えにくい文化を日本の次の世代に伝えるという自分が歩いてきた道も、ことわざという形で彼らの伝統的なの教えを伝える本を作れたことで、ようやくひとつの峠にたどりついたと言えるでしょう。真実を明確に伝える方法としてのことわざの役割が広く再認識されてくれるとよいのですが。ネイティブ・アメリカンの言葉については、翻訳するものの精神性が常に問われます。自分はこの言葉を翻訳できるだけのスピリットを内側に育てているだろうか? それだけの準備がおまえにはあるのか? 常にそうした声が心の奥からわきあがってきます。できるだけ正直にそれぞれの言葉の意味するところが伝わるような日本語になることを願いつつ、ひとつひとつの言葉を日本語にしました。これらの言葉があなたに歩くべき道を指し示し、より大きなヴィジョンと理解のなかでわれわれが出会えることを祈ります。

kotowazabookcovers月に映すあなたの一日
—ネイティブ・アメリカンの364のことわざが示す今日を生きる指針

北山 耕平 (編纂と翻訳)

新書: サイズ(cm): 17
出版社: マーブルトロン
ISBN: 4123901069

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Thursday, November 17, 2005

チベットと日本とプエブロと

y_chromosome

アメリカの形質人類学誌(American Journal of Physical Anthropology)に、1977年に掲載された「Y染色体の印を持つ者とベーリング海峡からの分散(Y Chromosome Markers and Trans-Bering Strait Dispersals)」という論文の7ページ目に添付されていた図版なんだけれど、よく見るとなかなか興味深いものがあります。チベットと、日本と、プエブロ、ハバスパイ、ピマ、ナバホというサウスウエストのネイティブ・ピープルをつないでいる目に見えないなにかの存在のことなんだけれど。

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Wednesday, November 16, 2005

月とプレアデスの接近遭遇

本日夜9時、宵の東の空に注目。双眼鏡があれば満月がプレアデス星団に近づくところが見れる。肉眼だと月が明るすぎて、プレアデスがはっきり見えないかも。楽しみです。どっちが東か、わかってますよね?


見たまえ
空と陸の出会う線のむこうで
ゆっくりと、ゆっくりと、起きあがる
プレアデスを!

ご覧あれ!
昇りきて彼らは、われらに道を示す
万全の導きで、われらをひとつにまとめる
プレアデスよ!

汝らのごとく
われらがひとつにつながる道を
なにとぞ指し示したまえ

パウニーの祈り Pawnee tribe

 『聖なる言の葉―ネイティブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い』(マーブルトロン/中央公論新社刊)より

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Tuesday, November 15, 2005

アメリカ・インディアンを絶滅の危機から救ったひとりの学者の死

deloriaネイティブ・アメリカンのラコタ一族出身の学者(コロラド大学元教授)で作家でもあり『神は赤い』『アメリカのインディアンとアメリカの正義』『カスターは汝の罪を背負って死せり』『赤い大地、白い嘘』といったたくさんの書物を著すことで、ネイティブ・アメリカンの精神復興の大きな支柱の一本となり、政治的文化的歴史的にネイティブ・アメリカンを「絶滅の危機から救い出した最大の貢献者」と評する人もいるほどの偉大な人物 ヴァイン・デロリアJr(Vine Deloria, Jr.)氏が13日に亡くなった。氏は2000年に長年勤めたコロラド大学の教授を辞して著作活動に専念していた。1933年にサウスダコタのマーチンという田舎町で誕生。享年73歳。日本語訳が一冊も出版されていないことが悔やまれる。

最近になってわれわれはようやく進歩とはなにかを理解するにいたった。それは自然なるものをことごとく人工的なテクノロジーと置き換えることなのだ。進歩とは、わずかな数のたまたま幸運に恵まれた人たちにとって快適な生活様式をつくりだすための、リアルな世界の絶対的な破壊である。われわれが生きているうちに、インディアンの土地の使い方と、白人の土地の使い方の違いが誰の目にもあきらかになるだろう。インディアンは大地とともに生きた。白人は大地を破壊し、地球という惑星を破壊したのだ。
ヴァイン・デロリアJr 1994年

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Monday, November 14, 2005

仙台スピコンから帰る道の上で

仙台のスピコンで話をしてきた。スピリチュアル・コンベンションである。略して「スピコン」。ぼくはスピコンといわれる催し物で話をするのは初めてで、いうならば「スピコン・デビュー」ってわけ。でも、見事に滑ってしまった。転ぶまでにはいたらなかったけれど、滑ってしまった。

原因ははっきりしている。広い会場のひとつの隅に講演の場が設けられていたために、コンベンションのお客さんたちがいつでもぞろぞろ動いているのが目にはいり、集中力が高まらないのだ。なんとかしなくてはいけないと思うのだが、さまざまな音が四方八方から聞こえてくる。ベルの音、ざわめき、足音、笑い声、タロットをめくる音、オーラを写す写真のストロボ、さまざまなニューエイジミュージック、呼び込みの声、ニューエイジ風鈴の鳴る音、子供の叫声、そしてまた往き来する人。

話というのは、聞く人と語る人の間の緊張関係を必要とする。特にぼくのような人間は、その場のエネルギーを読みながらその場にふさわしい話を紡ぎ出していくスタイルだ。だから、その空間が無防備なままケイオスな状態に開放されていたらアウトである。もっとも会場に足を踏み入れたときから、「スピリチュアル」とはなにかという疑問で頭が混乱していた。この混乱は、最近の本屋さんで、さまざまな自己啓発本などと一緒に、成功する秘訣だとか、いい女になる本だとかいう「スピリチュアルを唄う本」「幸せになるための本」「金持ちになるための本」がたくさんまとまって並べられているのを前にしたときと同じ混乱である。窪塚洋介という精神性を大切にする若い役者さんがナバホの国を訪れてそこで生活のまねごとをするドキュメントをテレビで観たときに感じたのと同じ混乱である。

自分はそこでなにを話せばよいのか? なにをどこまで誰に向かって話せばよいのか? 話を聞く準備ができている人はどのくらいいるのか? とりあえず自分がなにも知らなかったときのことを話すことに精神を集中させて、アメリカのネイティブ・ピーブルとわたしたちの関係について、ほんとうのガイドラインを話すことに精力を傾けた。いろんな人が話とは関係なく出入りするなか、十数人の人たちが最後まで熱心に耳を傾けてくれたことが救いではあり、結局ぼくはその人たちのために最後まで倒れることなく語り続けることができた。みんながそれぞれ勝手にトリップをして渦を巻いているようなスピコンの広い会場で、スピリチュアルとはなにかについて、そしてほんとうの知とはなにかについて、心底考えさせられたことを告白しておく。回転している洗濯機の洗濯槽に落ちたようなもので、これはかけがえのない経験であった。

ぼくにとってスピリチュアルとは、ほしいものを容易く手に入れるための心の技術などではなく、簡単に神さまと友だちになるためのテクニックでもなく、自分をより高めるために常になにかを真剣に学び続けることを意味する。いっときの心の慰みなんかではない。それは目の前の道のようにどこまでも続いている。行きたければ沙漠の奥にまでだってその道は続いている。人はなにであれひとつのことを真剣に学ぶことで、高みに、スピリットに近づくことができるはずなのだ。そして学ぶためには、精神的なものにたいする十分すぎるぐらいの尊敬が必要なのである。

仙台という街がとてもきれいなことが印象に残った。東北地方の人たちは精神的なものにたいして用心深いという話しも聞いた。さもあらんというのが実感だ。このつぎに仙台に来るときには、話を聞くというのはどういうことなのかを、聞く準備のできた人たちと分かち合いたいものである。ぼくは彼や彼女たちと分かち合いたいことがたくさんあるのだ。

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内側も外側も清める

「神聖な儀式の場に立ちあっているときにはそれぞれがハートのなかで祈らなければならない。儀式に参加しているものたちの内側も外側も共に清めることこそが、儀式の目的なのだから」
トーマス・イエローテイル、クロー族のメディスンマン

頭で祈っているか、ハートで祈っているか? このふたつの違いを見分ける方法は簡単であると教えられた。頭で祈っているだけでは、なにも感じるものはない。ハートで、心で祈ると、感じるものがあるというのだ。感じるものは、なんのために祈りを捧げているかによって異なる。ときには悲しみだったり、喜びだったりするだろう。声を出して泣きたくなることだってあるかもしれない。ネイティブ・ピープルの儀式においては、必ずそこに浄化が起きることになっている。メディスン・ホィールという世界観によれば、東西南北の四つの方向にそくして、われわれの内側にも力が備わっている。感情の力、知の力、肉体の力、霊的な力である。祈る者は、感情と知と体の三つの力をコントロールする。われわれが祈りにおいて自分の感情や、頭のなかや、肉体的な純化を求めるとき、スピリットが方向を指し示して浄化が引き起こされるのである。

 arrow2 Thomas Yellowtail (1903-1993) クロー族の研究家であるロドニー・フレィ(アイダホ大学人類学教授)ウェッブサイトにあるイエローテイルの紹介ページ

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Saturday, November 12, 2005

インディアン・サマー

夜来の雨が上がったかと思ったら、いきなりインディアン・サマーが訪れた。空は見事に晴れ渡り、山脈がはっきりと見える。ぼくがいつも見ている山は相州大山と丹沢山塊で、これらは関東平野の南のへりにそびえている山と山の連なりで、その背後には富士山がひかえて、ぼくが子供の頃から常に見続けてきて意識の底に焼きついている御山である。曇っていたり雨が降っていたりするときにはまったく見えないが、晴れるとすぐ近くに山がそびえているのは精神的にすごくいい(昔富士吉田の街に暮らしていたときにそのことは大いに実感させていただいた。すぐ近くの富士山ですらまったく見えなくなる日があるのだ)。車で走っていても目の隅で慣れ親しんだ山の形を探していたりする。大山は湘南海岸からもランドマークとしてよく見えるきれいな山で、雨降山ともいわれ、かつては修験の人たちの修行の山だった。天気がよいと紫がかった岩肌までよく見える。

ところでインディアン・サマーというのは11月11日から11月20日までの間に起こる現象のことなのですと、アメリカに暮らしていたときに教わったことがある。たしか「オールド・ファーマーズ・アルマナック」という暦にもそんな記述があった。秋になって時々思い切り天気が崩れたり、初霜がおりたりして冷え込んだ日のすぐ後に、その寒さがなんだったのかと思わせるぐらいの暖かい陽気がかえってくることをインディアン・サマーといって、日本語では「小春日和」なんていう。英国では「古女房の夏」と呼ぶらしい。

11月11日は、西洋の(正確にはドイツの)暦では聖マーチンの日(St. Martin's Day)にあたっていて、そしてこの11月11日の11時11分ちょうどに、「11」の魔力にしたがって、聖マーチン(セイント・マーチン)を祝福するのだとか。比較的新しい西洋の格言に「サンタたちが冬を運んでくるのなら、聖マーチンはインディアン・サマーを連れてくる」というのがある。クリスマスのサンタさんが、「セイント(聖人)」のことだって知ってました? で、今日はまさにセイント・マーチンズ・デイの翌日の12日で、昨日は気が滅入るぐらいの寒さだったから、今日のこの陽気こそが、インディアン・サマーっていうものなわけ。


の「インディアン・サマー」の「インディアン」が、いったいなんなのかについてずっと興味を持ち続けて、あるときそれがネイティブ・アメリカンの死生観と関係があるらしいことがわかってきた。多くのアメリカ先住民の信念体系のなかに、人は死ぬと、死者の魂はるか南にある「特別な土地」に行き、そこに永遠にとどまるとする考え方がある。南にある特別な土地は「ハッピー・ハンティング・グラウンド(幸福な狩り場)」などと呼ぶ人たちもいる。この季節に暖かい空気を運んでくるのは南からの風なわけ。死者の魂が幸せに暮らしている土地から送ってくる風。

narragansettribeニューヨークの北東、ボストンの近くにロード・アイランドがあり、そのナラガンセット湾にコナニカット島という島があって、この地方のネイティブのナラガンセットの人たちの死者を祀る場所がある。その島には彼らの生と死を司る神であるコータントウィットの住む家があるとされていて、ナラガンセットの人たちは、春のような陽気をもたらす風は、その彼らにとっては南西の神がそこから送り届けてくると信じていたといわれている。

おそらくそうしたネイティブの人たちの言い伝えが、非常に早い時期に新大陸の移民の人たちの間に広まって、聖マーチンの日などといっしょになって、インディアン・サマーという言葉も定着していったのだろう。後10日もすると、本格的な冬となり、多くの人たちが南カリフォルニアの天気を夢想する季節となる。さて、そろそろ明日の仙台行きの準備でもしよう。明日もインディアン・サマーになるといいな。

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Thursday, November 10, 2005

アース〇サークルから「北山耕平の連続講座」のご案内

arrowheadアース〇サークルはWPPD2004を契機として誕生した「地球のネイティブであるとはどういうことか」を学ぶ非営利の団体です。小生は今年、これまで東京でアース〇サークルの主催で二度講演会を行いました。講演会に参加いただいた方々から「もう少しつっこんだ話をしてもらえないか」という声があがったのを受けて、アース〇サークルの主催、『時の輪講座 インディアンの目で見た日本列島の歴史を語る』というテーマで連続講座を行うことにしました。これは冬から早春にかけてのストーリーテリングの季節だけの特別講座であって、講演会ではありません。できるだけたくさんの人に来てもらうためにおこなうものではないことをあらかじめおことわりしておきます。すでにアース〇サークルとご縁のあった方々を対象に一次募集をすませておりますが、今回募集の受け入れ枠を若干名広げて、最大で8名ほどを追加募集することになりました。以下に、アース〇サークルからのお知らせと、小生からのご案内とをそのまま掲載します。興味のある方は続きをクリックしてお読みください。

★11月12日に定員となり、受付は終了しました。ありがとうございます★

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Wednesday, November 09, 2005

アルコールと違って「ペヨーテ」は脳を損傷しない

ホットワイアード日本語版(2005/11/09 17:01)のトピックのひとつ「研究結果:幻覚剤「ペヨーテ」は脳を損傷しない」はためになるので読んでおくべき記事である。以下は同記事からの部分引用。

collection_icon一定量のペヨーテを摂取すると、有効成分の化学物質、メスカリンによる幻覚作用が得られる。ハルパーン博士たちのチームは、ナバホ族から被験者を募り、3つのグループに分けた――ネイティブ・アメリカン・チャーチの信者でペヨーテを定期的に服用していた61名、アルコール中毒者で過去2ヵ月以上禁酒していた36名、アルコールも薬物もほとんど摂取しないと申告した79名だ。研究チームはこれらの被験者に、精神的健康度と認知能力のテストを実施した。

 その結果、脳になんらかの問題があることを示す徴候が見られたのは、アルコール中毒者のグループだけだった。実のところ心理学的見地からすると、ネイティブ・アメリカンのペヨーテ使用者は、薬物を使用しないグループに比べて情緒的により安定した状態にあった。

 なぜだろうか? 理由の1つには、ネイティブ・アメリカン・チャーチが信者に十分な精神的支えを提供していることがあると、ミネソタ大学霊性・ヒーリング研究センターで上級講師を務めるデニス・J・マッケナ氏は語る。

 もう1つの理由は、ネイティブ・アメリカンのペヨーテ使用者がその使用に細心の注意を払っていることだ。「どのような文脈で使用するかがきわめて重要だ」と、マッケナ氏は言う。サイケデリック・カルチャーの教祖的存在、ティモシー・リアリー氏が薬物の使用環境を設定することの重要性を強調したのとは異なり、「幻覚キノコやLSDを気晴らしのために使う人のほとんどは、この種の使用における文脈というものを理解していない」という。

[日本語版:江藤千夏/高森郁哉]

「どのような文脈で使用するかがきわめて重要だ」という指摘は、それ以外に言いようがないくらい正しい。ただしその「文脈」のなかには「聖なる薬草にたいするリスペクト」が大きな部分を占めていると言うことは書かれていないので改めて指摘しておく。ネイティブ・アメリカン・チャーチの歴史にリンクが張られているけれど、日本語の解説がないのは残念だが、それでもこの記事は読む価値がある。トリップするためにならなんでも口に入れてしまう人たちに決定的に欠けているものを考えさせられた。

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聖なる山は聖書のようなものとナバホ国主席が語った

「キリスト教徒をキリスト教徒たらしめているものが聖書であるように、ナバホをナバホたらしめているものが御山なのです。御山は誰がなんといおうと生きています。それは、われわれにとって最も重要なものであり、力の源であり、還るべき家なのです。キリスト教徒なら、聖書につばを吐きかけられたり、びりびりに破かれたりするのを見たくないでしょう。今回おこなわれようとしていることはそれと同じ事なのです」

ナバホやホピやその他の近隣のプエブロの人たちが聖なる山と仰ぐサンフランシスコ・ピークス(連峰・ライブカメラ!)山腹にあるアリゾナ・スノーボール・スキーリゾートというアウトドアレジャー施設のスキー場が、施設を拡大して麓のフラッグスタッフの街の生活排水を再生再利用した水で人工雪を降らせようという計画をすすめていて、これたいしてアメリカの連邦森林局が(the U.S. Forestry Service)与えた許可の取り下げを求める裁判で、先日ナバホ国主席のジョー・シャーリーJr.( Joe Shirley Jr.)55歳が証人として出席して語った言葉。(ニューメキシコ・ファーミントンのデイリータイムズ紙11月4日の「Navajo President in San Francisco Peaks Trial」という記事より)

arrow2 NASA Earth Observatory, San Francisco Peaks, AZ
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Tuesday, November 08, 2005

南ルイジアナからさらなる緊急支援の呼びかけ

fdlogo2ハリケーン・カトリーナとその後のハリケーン・リタの大嵐によって壊滅的な被害を受けた南ルイジアナに暮らす5つの先住民コミュニティーを支援する「Four Directions Relief Project(四つの方角からの救済計画——コミュニティー・サポート・アクション)」のナオミ・アーチャーさんから緊急支援のお願いが、11月5日に届いています。あいかわらず政府の援助の手は先住民コミュニティーには届かずにいろいろな物資が不足しているようです。呼びかけの文の中ごろに必要なもののリストがあります。メッセージを世界に広く伝えるため——英文のまま転載しやすいよう——に、日本語にはしていません。関心のある人は読んでみてください。Four Directions Relief Project のトップページもアップデートされているので、そちらもご覧ください。地球で生きる心ある人たちのハートに届くことを祈っています。(北山耕平 記)

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NOVEMBER 4th URGENT CALL FOR DONATIONS AND VOLUNTEERS*
*Hurricane Relief Needed in Native American Communities of Southern Louisiana*
*Visit www.intuitivepath.org/relief.html for more information.*

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Monday, November 07, 2005

昨晩ケビン・ロックがみんなに教えたサイン・ランゲージ

昨日の夕方、冷たい雨の降る新横浜へ、先般お知らせしたケビン・ロック(Kevin Locke)氏のインディアン・フルートとフープダンスを見に行ってきた。彼のインディアン・ネームはラコタ語で「トケヤ・イナジン(最初に立ちあがるもの)」という。会場は満員であり、インディアン・フルートの演奏も、ケビン・ロッ