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Saturday, October 22, 2005

スピリットのある穀物について考えたことありますか?

ミネソタのWCCOテレビ(CBS)が10月21日の朝のニュース番組で「ワイルドライス論争」について報じた。同局のウェブサイトでニュースを動画で見ることもできる(右上の画像のしたにあるPlayボタン)。ミネソタで生きているオジブエ(アニシナベ)の人たちがどのようにワイルドライスとつきあっているのか、その一端を垣間見ることができるだろう。カヌーで湖を進みながら夫婦がワイルドライスをへらのような木製の棒でカヌーのなかに収穫していく光景がきちんと収録されているし、科学者とネイティブの人の意見を交互にはさんで、ワイルドライスとオジブエの人たちとのつながりをわからせてくれるようなシーンがいくつも挿入されている。

arrow2 Wild Rice Controversy In Minnesota

ニュースによれば事の発端は、ミネソタ大学の農学部が、科学的な研究の一環として、ワイルドライスの遺伝子組み換え実験を行うと発表したことだった。ミネソタ大学では地域の農作物として50年近くワイルドライスを研究してきた。1950年代初頭に大学の研究者たちはワイルドライスの新しい種類を交配によって作り出してその新種を地域の農業者たちが生産できるように手助けもしている。当然のように研究者たちは、ワイルドライスの遺伝子組み換えが、そのまま農業の大きな進歩につながると考えた。「医学部の連中がミバエを研究することで人間について学ぶように、ワイルドライスや、白米のことを研究すれば、トウモロコシや小麦について学ぶこともできるのです」と。

しかしこのたびのワイルドライスの遺伝子組み換えに真っ向から異を唱えたのがミネソタに長くくらしてきたネイティブ・ピープルのオジブエの人たちだった。彼らにとってワイルドライスは「いのちをつなぐ道」なのであり、彼らに言わせれば「ミネソタ大学は聖なるワイルドライスに遺伝子組み換えをおこなうことでその生き方そのものを脅かしている」ということになる。オジブエの人たちはワイルドライスのことを「マノーミン」と言う。だがこの「マノーミン」は単に「ワイルドライス」を意味するものではない。「マノーミン」を「ワイルドライス」と理解することは、その表面的な部分をひっかいているに過ぎないのだ。

ミネソタにあるホワイト・アース・インディアン・リザベーションで伝統的なヒーラーをしているポール・シュルッツ氏はこう言う。「マノーミンを大切に扱えば、マノーミンもわたしたちを大切に扱ってくれます。だから一緒に行って、よくその目で見てほしい。マノーミンをよく見ればわかるように、それはいのちそのものなのです」

オジブエの人たちの言い伝えによれば、彼らは創造主に水のうえに食物が育つところに行きそこで暮らすように言われたことになっている。そしてミネソタ地域こそがその場所なのである。ワイルドライスの物語はそのまま彼らの生き残ってきた歴史であり、文化そのものなのである。

「そこには強力にスピリチュアルなつながりがあって、それは西洋の知のプロセスが理解しようとしはじめているとはいえ、およそ深い理解には及んではいません」とシュルッツ氏。「ワイルドライスの遺伝子操作はやり過ぎです」

彼は、遺伝子操作されたワイルドライスが鳥や嵐などによって何マイルも運ばれることがけしてないとは言えないと主張するのだ。ある日、遺伝子組み換えされてたくましくなったワイルドライスが自分たちの湖を制圧してしまうか、特許権がとられて大きな会社の所有物にされてしまうのを、彼は恐れているようだ。

大学側はインディアンの人たちの主張は、まったくないとは言い切れないものの大げさすぎると言う。遺伝子研究を、大豆やトウモロコシのように、そんなに大がかりにやるつもりなどみじんもないと。インディアンの人たちとの対話は続けるつもりだが、「学問研究の自由」というものが自分たちにもあることはわきまえてほしいものだと。

アメリカやカナダにおいてはワイルドライスは、とても貴重で高級な食材になりつつあることはまちがいない。現在ミネソタで生産されているワイルドライスのうちわずか三パーセントしか天然物のワイルドライスはない。天然物というのは「自然にはえているものを昔ながらのやり方で収穫し脱穀したもの」で、ネイティブの人たちは基本的にはこの方法を採用しているし、当然ながら値段も栽培されたものの数倍はするのだという。

いのちをつなぐ穀物というものを改めて考えてみるのも良いかと思う。ほんとうにスピリットのある穀物とはなにかを考えるヒントをこのニュースの映像は与えてくれます。日本列島の水田で長いこと毎年生産され続けている水稲には、はたしてスピリットはあるのだろうか?

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Comments

断然スピリットがあるでしょう。

Posted by: waka moana | Saturday, October 22, 2005 at 07:51 PM

長いこと「お金」として生産され続け、換金作物のチャンピオンになった「家畜」としての米にあるスピリットって、いったいなんなのでしょうか? 日本列島って、水田稲作のプランテーションとして開拓されたわけですよね。もともとコメ以前に長いこと日本列島のスピリットをつないできた穀物は、アワであり、ヒエであったような気がしますが。いのちを育てているという感覚ではなく、お金を作っているという感覚で人びとはコメとつきあってきたわけで、一般の人はコメを口にするのは特別なときだけとされていたわけだし。コメがお金になったときから神聖さは失われていたかもしれないのですが。

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Saturday, October 22, 2005 at 09:07 PM

 コメが経済の規模を測る指標だった時代にも、貨幣は別に存在していたわけですから、コメが「お金」だったという表現はちょっと無理があると思います。それに、ハレの食物であるということが、イコール、スピリットを認められていないというよりも、逆にコメが最も強いスピリットを持つ食物と思われていたから、数ある作物の中で特別視されていたという解釈も可能でしょう。コメが換金作物であったことも、ある時期以降の日本列島社会の多様性・複雑性を考えれば当然の帰結であり、高い換金性を持つということをもってコメのスピリットが失われたと即解釈するのは難しいと思います。貨幣経済には貨幣経済の良さもありますから。日本列島というそれなりに広い空間内で多様な品物を効率よく流通させるには、どうしたって貨幣経済を取り入れなければいけなかったでしょう。日本列島が水稲耕作を食物生産の中核に据えたのも、それはそれで歴史の中でなされた一つの選択であって、それ以前の形態の方が望ましかったかどうかは、一義に決定しがたいんじゃないでしょうか。ちなみに私は日本車にもスピリットが宿っていると思っている口です(笑)。

Posted by: waka moana | Sunday, October 23, 2005 at 12:19 AM

正直なところを言いますと、わたしはコメは人間の精神を奴隷にしてしまうものと考えています。つきあい方には用心が必要だと。ある意味で麻薬的でもあります。米を食べていると知らず知らずのうちにコメの意識で生きていくようになります。わたしたちはどの意識かで生きていくかを主体的に選ばなくてはなりません。他のどんな作物でも言えることなのですが。たとえば煙草を新大陸の先住民たちが吸っていたときにはそれは神聖でスピリットのあるものだつたのですが、いちどそれが換金作物となって世界に広まると、スピリットはあらかた失せてしまいました。全くなくなったわけではないでしょうが。「日本列島が水稲耕作を食物生産の中核にすえた」のは、「水稲耕作を食物生産の中核にすえた人たちによって開拓占領されたから」とみることもできます。今も続いている「弥生時代」とはそういう時代だったのではないかと思っています。アメリカ大陸が「牧畜を食物生産の中核にすえた」わけではなく、「牧畜を食物生産の中核にすえた人たち」によって開拓占領されて現在あるように。ネイティブの人たちがバッファローにたいして抱く信仰に匹敵するものが、コケイジャンの人たちの牛にたいする考え方のなかにあるとはとても思えないのですね。牛は金を生む食べものであっていのちではないのです。なにを言いたかったかというと、食べるものの本質であるいのちにたいするリスペクトがなければ(なくなれば)その食べものには力がないということなのです。米を食べることを否定するものではもとよりありませんが、食べるときには——ハレの食べものであるということよりも——コメの意識下に組み込まれるというそれなりの覚悟が必要な穀物であると、わたしは考えているわけです :-)

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Sunday, October 23, 2005 at 10:50 AM

食べもの(に限らずですが)にどのようなこころで対するか、ということなのだと思います。動物実験についてシャイアンのひとが言っていたことを思いだします。「蛙を使って勉強するなら蛙にとってためになる勉強をしなければならない。解剖したり神経に電気を通して死体を動かしたりすることが蛙のためになるのか? そんなことが本当に勉強なのか?」
コメにせよワイルドライスにせよ、食べることで自分も相手も「生きる」ことをまっとうすることが出来る付き合いかたなら、それはお互いのスピリットを認め合うものなのでしょう。でも、「商品」としてそれを作り出したり育てたりすることが、相手のスピリットを大切にしていることになるのか?ということですよね。車だって一台を心をこめて(誰かのために)作るのと、ベルトコンベアで流れてくる部品をガチャコンガチャコン完成像も知らないまま作るのでは宿るスピリットも違わないわけないと思います。
自分以外のどの相手に対してもスピリットを尊重する生き方、それがなくなれば自らのスピリットもやがて失い、「物質」のみに使われる存在でしかなくなってしまうのです。

Posted by: 山竒 | Monday, October 24, 2005 at 11:13 PM

たとえば「車に宿るスピリット」は、それを道具として使う人間のスビリットのような気がしています。作った人たちのものではなくて。道具に宿るスビリットは、その道具をいかして使えるかどうかにかかってくるわけです。使う人間によってそのものに宿るスピリットはまったく異なるという体験を、わたしは何度もしています。同じ年式のものでも、それぞれまったく違ってくるし、運命も異なる。いのちに宿るスピリットというのは、グレイトスピリットによって送り込まれるもので、これまたひとつひとつすべてが違っている。だから自然のなかにはふたつとして同じものが存在しない。米粒であろうとも。

Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Tuesday, October 25, 2005 at 09:49 AM

なるほど。仰るとおりですね。いのちたちを道具のように「作る」「使う」とする時点で、いかに(道具としての)スピリットを宿せても、もう別の次元の話ですね。
ひとつひとつのいのちと確かに関わることで、グレイトスピリットを感じていきたいです。

Posted by: 山竒 | Tuesday, October 25, 2005 at 01:24 PM

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