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Monday, October 31, 2005

少女のふたつの瞳の奥の輝き

サイドバー冒頭の「 Peace 」な写真、今回はポモ一族の乙女を選んだ。写真が小さいときは、写真をクリックすると大きくなるし、その大きな写真の左下にある「Higher resolution JPEG version」をクリックすると、より解像度の高い鮮明な写真で見ることができる。エドワード・S・カーティスが1924年に公開した写真で、そこには「ポモの乙女。彼女が身につけているビーズは貝殻から作られたもの。こうしたビーズは今も年長者によって作られている」というコメントが付されていた。トクサという植物の茎をつかって穴をあけた貝殻を砂岩のうえで丸くなるまでひとつひとつ研磨してつくられたビーズだ。こうしたビーズは50年代には日本製が、それ以降は東南アジア製がほとんど駆逐してしまった。彼女のまっすぐにこちらを見つめているふたつの瞳の奥の輝きが何とも印象的な一枚だ。

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Sunday, October 30, 2005

『ネイティブ・タイム』の読者のみなさまへ

『ネイティブ・タイム』(地湧社刊)の読者のみなさまで、その補遺にあたるBLOG版「NATIVE TIME」をお申し込みいただいた方には、すでにそのサイトのアドレスとサイトにはいるためのパスワードをお送りしてあると思います(まだの方はここを参照)。このたび20世紀の1999年から1991年までのデジタルデータ・バージョンを暫定的に公開しました。アドレスは別アドレスですが、パスワードとユーザー名はそのままではいることができます。まだ文字データのみですが、今後はそこに図版や地図などのリンクを組み合わせていくつもりでいます。データ部分も書籍のものより増えていますので、参考にしてください。今後、1900年の分まで、この20世紀ネイティブ・タイム・ブログでは新しいバージョンで実験的に公開していきます。いつまでかかるか、なにができるかはわかりませんが、ご期待ください。

 Native Time blog : http://native.way-nifty.com/native_time/
 Native Time 20th Century blog : http://native.way-nifty.com/nativetime20th/

   (どちらもユーザー名とパスワードが必要)

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Saturday, October 29, 2005

長い距離を旅するアホウドリ一族の運命を握る日米共同保護計画

読売新聞(2005年10月29日11時20分)が、「アホウドリ、非火山島など安全な新繁殖地に…米が草案」としてアメリカの連邦魚類・野生生物局が、伊豆諸島の鳥島と尖閣諸島でかろうじて繁殖し、絶滅の危機にあるアホウドリ保護のため、「火山噴火などの危険性のない新たな繁殖地に誘い込むことが望ましい」と提言する保護計画を策定し、草案を公表したと報じている。ワシントンの笹沢教一特派員の報告だ。

albatross英語名を「アルバトロス(albatross)」というアホウドリは、まったく阿呆な鳥ではない。地球最大の海洋鳥であるために、敏速な動きを苦手にしているだけなのだ。のろのろしていて簡単につかまえられるという、ただそのことをもって日本人は「阿呆な鳥」と見てその名をつけたわけ。

アホウドリ一族は生涯一夫一妻を維持し、家族を守りながら、米アラスカ州南部沿岸やアラスカで快適な夏を過ごし、日本の鳥島からハワイ諸島に列なるミッドウェー環礁、ニュージーランド島、オーストラリアのタスマニア島までの太平洋全域を部族の生活圏に含めている。米国でも生物種保存法の対象種に指定されていて、だから記事によれば同局が日米協力のもと、保護計画をつくりつつあるのだという。アホウドリはその9割が絶滅の危機にあるとされますが、原因は人間たちの漁法にあることがわかってきました(詳しくは東邦大学メディアネットセンター・アホウドリ復活への軌跡のなかの「苦境に立つアホウドリ類」を参照のこと)。

草案は「アホウドリの個体数を減らした元凶である羽毛目的の乱獲の脅威は消えたが、小さな群れが噴火や泥流、漁網の混獲、地球規模の気候変動などの脅威にさらされている」と指摘のうえ、「さらに安定な状態に回復させるためにも新繁殖地が必要」としているらしい。現在、アホウドリ一族は、その大半が火山島である日本国の鳥島の不安定な崖下斜面にキャンプを設営して繁殖しており、同局は特定の島の名前などは挙げずに、新繁殖地に望まれる条件として「非火山島で強固な地盤の場所」としている。日本の環境省は、小笠原諸島の聟島(むこじま)を、彼らの移住先の有力候補地と考えていて、住民の了解を得た上で、日米協力で移住に取り組む考えだとか。

誘い込みの方法としては「おとり役の模型(デコイ)や録音されたアホウドリの声を使って、別の島を鳥島だと誤らせる手法を使う」(同記事)らしい。しかし、同じ繁殖地で繁殖を続ける習性があるため、当局者は「成熟したつがいに住み慣れた場所を替えさせるのは至難の業で、住み替えは若い個体が主な対象になる」としている。この移住計画が、一族の「涙の旅路」にならないことを祈りたい。

知っていましたか、アホウドリは

  • その生涯をほとんど海のうえですごす
  • みんな40年以上生きる
  • 10歳ぐらいになると島の岸に行って子作りにはげむ
  • 生涯一夫一妻主義
  • 1年から2年に一度子供をもうける
  • 卵は一度にひとつだけ
  • 巣を地面のうえにむきだしのまま無防備に作る
  • 夫婦は共同で子育てにあたる
  • 家庭以外では夫婦は別々に行動する
  • 羽根を広げるとゆうに3メートル以上ある
  • その羽根を大きく広げて強い風に乗り、ほとんど羽ばたきをせずに一度に何百キロも滑空する
のです。

arrow2 東邦大学メディアネットセンター・アホウドリ復活への軌跡

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水道のうがいでじゅうぶんだった

風邪予防のために「うがい」を行う日本独特の衛生習慣が、実際に効果があることを京都大保健管理センターの川村孝教授(内科学・疫学)らのグループが実証し28日、発表したと毎日新聞が「うがい:風邪予防に効果 京都大グループが初めて実証(2005年10月29日/鶴谷真記者)」という記事で伝えています。なんでも、これまではうがいの有効性を裏付ける根拠は何もなかったらしくて、世界初の成果だとか。グループは全国で18〜65歳の計約380人のボランティアを、水うがい▽ヨード液うがい▽何もしない、の3群に分けて2カ月間追跡調査。うがいは15秒を2度行い、1日3回以上実施したそうです。その結果、水うがい群は何もしない群に比べて風邪の発症が4割も減ったと記事は言っています。また驚いたことは「ヨード液群にはグループの予想に反し、はっきりした予防効果がみられなかった」こと。一般的な感染予防にうがいが有効と指針を出してきた厚生労働省結核感染症課は「あくまでも通説に従っていた」とコメントしたとか。ヨード液を主成分とする国内シェアトップのうがい薬「イソジン」を製造販売する明治製菓(東京)は「のどを殺菌・消毒・洗浄する治療薬であり、風邪予防の効能はもともとPRしていない」と逃げ腰のようだ。うがいって、日本独自の習慣だったのですね。

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Friday, October 28, 2005

沖縄県内最古の縄文土器か

琉球新報(2005年10月28日 [金])が伝えた記事の要約。那覇市鏡水那覇市鏡水の沖縄西海岸道路建設工事現場からこのほど、遺跡が発掘され、県内では最古とされる縄文時代前期(約6500年前)の爪形文土器が市内では初めて見つかった。そのほか石斧(せきふ)ややじりなども多数出土し、那覇市教育委員会は「まとまった資料が得られるのは市内では初めてで、貴重な成果」と話している。遺跡は陸上自衛隊那覇基地の一角にあり、地名から「箕隅原(ミーヌシンバル)遺跡」と名付けられている。

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主要記事の目録 2004.04-2007.01

このブログをはじめてから2006年12月現在までに掲載した主要な(全てではない)記事の目録を作った(最近のものは入っていない)。こうやってみてみるとさまざまなニュースをみなと分けあってきたものだと思う。ネイティブ・ピープルとその文化にまつわるニュースは当然ながら大きなメディアにはまったく掲載されないし、テレビで報じられることもまれである。しかし、ネイティブの人たちの世界でも、現代世界と同じ事が起こっているわけで、ニュースには事欠かない。小生は、ネイティブの世界とのつながりを維持するためにインターネットの世界にとどまり続けているみたいなもので、そうした彼らの声を伝える小さなメディアに触れるのがいつの頃からか日々の習慣になっている。自分ののばしたアンテナに触れた記事のなかでも、彼らの世界や世界の見方を理解するのにふさわしいと思ったものを紹介するように努めてきているが、これらは膨大な世界のほんの一片に過ぎない。それでもこうしたニュースに日頃触れることのない人たちの頭とハートには何らかの刺激を与えられるし、そうあってほしいといつも願っているし、これらの記事のなかで伝えられていることはわれわれの日常生活ともけして無関係ではあり得ないとぼくは確信している。記事のなかにはその後も繰り返してアップデートを続けているものもある。なお、おはなし(物語)、言い伝え(ホピ関連以外の予言や教え)、インディアン・ジョークについてはそれぞれ別の目次を参照されたい。それらは右サイドバーの「書棚の探索」に別にリンクが張ってあります。
Revised Monday, May 12, 2008


なぜ「ホピ」なのか?

母なる地球の嘆き


土地の名前と土地の履歴


いわゆるリトル・トリー問題


WHOLE LIFE CATALOG


ネイティブ・ヴィジョンズ


ネイティブとしての存在のしかた


バランスを失った暮らし


ローリング・サンダー・ノート


ネイティブ・アメリカン


2007年の気になったニュース


2006年の気になったニュース


2005年の気になったニュース


2004年の気になったニュース


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Thursday, October 27, 2005

チェロキーに伝えられた予言 #08

物事の動きがスピードを増していくのを見るようになるとき、地球のうえで生きる人たちの動きもいや増しにましていくことだろう。孫たちの世代はもう祖父母になる時間はないかもしれない。男子も女子も親にはなれても子供たちを持つ時間はないかもしれない。時間の流れがさらにさらに速まるように見える。エルダーたちはわれわれに警告を与えた。物事の速度が早くなっていくようなときには、おまえたちはスローダウンしなくてはならぬと。時代が早く動けば動くほど、われわれはスピードを落とさなくてはならない。物事の動きが速くなるときには、この地球が三回目に揺すられようとしているのであるから。グレイトスピリットはこれまでに二回この地球を揺すられた。第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、われわれがひとつの人間家族であることを、われわれひとりひとりが兄弟であり、姉妹として、互いに挨拶を交わすべきだったことを思い出させるためのものだった。地球が揺さぶられた後、ともにより集まって輪になるチャンスが、過去に二回われわれには与えられたのだが、われわれはその機会をミスしてしまった。

空の家
spacestations
今エルダーたちは地球が三回目に揺すられるときの御しるしについて話しておられる。あの人たちはエルダーたちの言葉で言うなら「空の家」となるものをこれから造るらしい。1950年代にすでにその話を耳にした。彼らは家を造り、その家を空に放り投げると。人間が空に永住するようになるのを見たら、グレイトスピリットが地球をまさにつかもうとしていることをあなたがたは知るときである。そしてそのときにはグレイトスピリットは、これまでのように片手ではなく、両手で地球をつかんで揺さぶることになるだろう。

今度、つまり三度目にグレイトスピリットが地球を揺さぶるときには、その空の家から下の地球に向かって「灰のつまったヒョウタン」が落とされるのだ。

エルダーたちによれば、そのころにはこの大地のうえにあまりにも広大でどこまで続いているかはとても見渡せないぐらいの大きな村ができていることになっている。そしてさまざまな予言によればその広大な村は「石の村」とか「石の平原」と呼ばれている。

それらの石は大地から空に向かってのびていて、それぞれの石があまりにも高くそびえているために、村から遠くまではとても見渡せないのだそうだ。

そうした村という村のそれぞれの中心には、ネイティブ・ピーブルがいるだろう。彼らは石の平原のうえをそれぞれがさながら「実のない貝殻」のごとくに歩いている。

エルダーたちは「実のない貝殻」「貝の抜け殻」と確かに言った。それはネイティブ・ピープルたちが自分たちの伝統にたいする理解をすっかり失って、内側が空っぽになってしまっているということなのだ。

彼らはこう言った。イーグルが月に舞い降りた後、石の大平原のなかに暮らす人たちのなかから、その石の平原を離れて、昔ながらの生き方を学び、自分を生まれかわらせようとするものたちが現れはじめるだろう。なぜならそうやって新しい一日がはじまるのだから。

だがそこまでするのはほんの限られた数の人間に過ぎない。多くはそのまま石の平原にとどまるだろう。

skyline

エルダーたちが言うには、やがてそのときが来る。朝日が昇ってきたときにはそこに確かにあった石の村が、夕方には大地からのぼりくる蒸気に包まれているだろう。

それは立ちのぼる蒸気としてやって来る。多くの石の村の中心地が、瞬時にして蒸気に姿を変える。そのとき町に残っていたネイティブ・ピープルたちも、目を覚まして石の村から出て行かなかったがために、一瞬のうちに蒸気になってしまうだろう。

エルダーたちは地球が三回目に揺さぶられるときはそうなるのだと言っている。あまり見たくないような光景ではあるが、それでも生き残るものは生き残る。われわれはそれを生き延びるだろう。

そしてそれを生き抜いた後、そのときにもまた地球のうえに生きる人たちの間で輪を作ろうという試みが起こる。そして今度は、ネイティブ・ピープルも仲間に加わるために請願する必要はなく、はじめから輪に加わるように招聘されることだろう。エルダーたちに言わせると、そのときまでには人びとのわれわれに対する態度も一変しているというのだ。

人びとはわれわれをその輪の中に入れてくれるだろう。四つの方向に分かれていた四つの色の人たちが互いの知恵を分けあうこともでき、地球にも平和が訪れる。

そのときが今迫りつつあるのだ。

予言というのはどんなものであれ絶対的なものではない。いつも可能性は常に残されている。1565年のときにみんなで集まることだってできたし、そうすれば偉大な文明を今ごろは築いていたかもしれないのだが、われわれはそうはしなかった。

いつだってわれわれは、こうした予言の筋道にそって、ひとつに繋がることができた。これからだって、まだできるはずだ。われわれが人種や宗教に基づく不協和音をしずめることができるのなら、われわれもこの第三回目の揺さぶりを体験しないでもすむかもしれない。

エルダーたちは言っている。その可能性はほんのわずかなものであるだろうと。このわたしの目から見ても、可能性は限りなく小さい。だが、もはやなすすべがないかというとそうではない。エルダーたちに言わせれば、われわれにできることは、その衝撃を和らげることであり、そうすれば被害はそれほどにはひどいものにならないだろうという。ではそのために、われわれになにができるのか? それが、われわれをもう一度ひとつにつなぐための教えを分けあうことなのである。(了)


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Wednesday, October 26, 2005

チェロキーに伝えられた予言 #07

そのギャザリングが実際におこなわれるようになるのは1950年になってからのことだ。とともに、ある特定の人を、英語によってこれらの予言について解説するための通詞として、エルダーたちははじめて認定した。

これらの通詞のうちで、わたしが何度も何度も耳を傾けたのはトーマス・バンヤッカ(Thomas Banyaca)の語る話だった。彼は、石版に記されたものを英語で話すことを長老たちから認められており、その人生をひたすらそのことのために費やしてきた。彼らはみなわれわれに向かってそのギャザリングについて語りはじめた。「あなたがたは、あなた方が生きているうちに、人類が自分たちを作り上げている青写真を見つけはじめるときの到来を、その目で見ることになる」

dnasm今ではそれは「デオキシリボ核酸(DNA)」と呼ばれているが、彼らはこうも言った。「あの人たちはこの青写真を断つこともする」と。

それは今では「遺伝子組み換え」とか「遺伝子接合」と言われているものだし、彼らはさらに、連中はこの地球に新しい動物を作るようになり、こうした新しい動物たちがわれわれを助けてくれるようになると考えるようになるだろうとも語った。なるほどそれらはどうやらわれわれを助けてくれそうではある。だがおそらく孫や曾孫たちはそれによって苦しむことになるだろう。

かなり昔のことになるが、エルダーたちがこう言った。「連中はこのようなものたちを世に放ち、利用するようにもなるだろう」と。この遺伝子組み換えは、さほど遠くない将来に解き放たれることになるだろう。新しい動物たちが作られよう。エルダーたちはそれについてこう話した。「あなたがたは新しい動物たちを目撃することになる。昔の動物たち、人びとがすでに消えたと思いこんでいた動物たちですら、帰ってくるかもしれぬ。あちこちでそうした動物たちを見つけることになるだろう。それらが再び姿をあらわしはじめるのだ」

eaglemoon「あなたがたはイーグルが夜中に空の最も高いところまで飛び、そのまま月に着陸するのを目撃する現場に立ちあうことになるだろう。それが起こるとき、ほとんどのネイティブ・ピープルたちは眠りについているだろう。鷲が空の最も高いところを飛んで月に舞い降りるときにネイティブのものたちが寝ているということは、教えが失われたことを象徴的に意味する」

つまりわれわれは教えが失われた時代にいるのだ。イーグルが月面に着陸したのは1969年のことで、連中は月から『鷲は舞い降りた』というメッセージを地球に送ってきた。

伝統的に北はイヌイットの暮らす地域から、南は南米アンデスの民であるクエチュアスの人びとの土地まで、われわれはここでお伝えする予言をこれまでのところ共有し続けている。(不定期につづく)

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Tuesday, October 25, 2005

チェロキーに伝えられた予言 #06

それから、エルダーたちは、あの人たちが、まるで沙漠の雲母のように光を反射するガラスをつかって国際連合ビルを建設するのを眺めはじめ、遅からずそれが「雲母の家」であることを知り、地球のうえに生きる人びとはすべてそこに行くべきであるということになった。そしてエルダーたちは一堂に会してそのことを話しあった。1920年代のときには文書を送ったものの返事はもらえなかったので、今度は雲母の家の正門の前まで直接でかけていくべきだということになった。なぜなら事態ははるかに悪くなっているようだったから。

雲母の家
houseofmica
そこでいくつかの部族を代表するエルダーたちが車でニューヨークまで出向いた。国際連合が開かれたとき、彼らは雲母の家の正面入り口の前でこう伝えた。「われわれは北米先住民族を代表するものであり、地球の各国のみなさんの前でお話しをさせていただきたい。われわれに話をさせるかどうかをみなさん方が検討できるように、答えをいただくまでに四日間という時間を与えよう」

彼らはそのままニューヨーク州の中にあるシックス・ネーションズの居留地のひとつに退いた。そして四日後に再び国際連合のビルの前に戻ったのだ。地球の各国々の人たちはインディアンが入り口のところまで訪れたことを確かに聞いたのだとわたしは信じている。彼らはインディアンたちを議場に入れるかどうかを投票できめることにした。彼らはインディアンたちがなにを言おうとしているのか聞きたかったに違いない。だがアメリカ合衆国は拒否権を持つ五つの国のひとつだった。にもかかわらず、先住民族の自主独立の気運が高まっていた頃でもあり、かなりの関心を抱きはしたのだが、わたしが思うに、結局のところ彼らはネイティブ・ピープルが国連のなかにはいることを拒否したのだ。

エルダーたちは他にも地球のうえで起こることがわかっていた。だから彼らはそのまままたシックス・ネーションズのリザベーションに撤退し、そのことについて話しあい、改めて時が迫って来つつあることを確認した。1949年のことだった。エルダーたちはこういった。「合衆国を四つの地域に分けて、毎年ギャザリングを持つことにしよう。その集まりを白いルーツの平和ギャザリング[White Roots of Peace Gatherings, the]と呼ぶことにする」(不定期につづく)

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Monday, October 24, 2005

人間が大きくなるには痛みが必要なのだ

成長は痛みをともなうプロセス
チーフ・ウィルマ・パール・マンキラー チェロキーの最高女性チーフ

成長するときにはほとんどの場合、人は感情的な執着を解き放たなくてはならない。なにかを自分から手放すことにはいつだって痛みがともなうものである。成長は時としてわれわれを恐怖と向き合わせにさせることがある。ここでいう恐怖というのは、いかなるものであれふたつに分けられる。「自分のものであるなにかを失う恐怖」がひとつ。そしてもうひとつの恐怖は「ほしいと思っているものが手に入らない恐怖」である。このいずれの恐怖も、必ず痛みを引き起こす。成長するに際しての最善の道は、グレイトスピリットに祈り、その導きと守護を求めることだろう。成長はどんなものであろうと必ず神によって導かれているのだから。

ウィルマ・マンキラーは1945年生まれ。病気や離婚などさまざまな困難をものともせずにチェロキー・ネーションの再建に尽力した。83年にはオクラホマにあるチェロキー国の最高チーフに選ばれている。アメリカを代表する女性として殿堂入りも果たした。(写真

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Saturday, October 22, 2005

チェロキーに伝えられた予言 #05

だから彼らにはこれから起こるだろうことがわかっていた。物事の速度が少なからず速まるだろう。地球をまるごと覆いつくすように蜘蛛の巣が張られて、人びとはこの蜘蛛の巣をつうじて会話を交わすようになる。話をするためのこの蜘蛛の巣(電話)が地球の周囲に作りあげられたとき、東の方からいのちの御しるしが姿をあらわすけれど、しかしそれは傾いたままの死(ナチの鉤十字)を運んでくる。それは太陽を引き連れてくるだろう。だが太陽そのものはいつの日にか、東ではなく、西の方に高くのぼるだろう(日本帝国の旭日)。

flag_naziエルダーたちはこう言った。「東に太陽が昇るのを見、その東でいのちの御しるしが裏返しになり傾いたままであるのを見るとき、とてつもない死がこの地球にやってくるのをおまえたちは知るだろう。グレイトスピリットが再びその手で地球をつかまえて激しく揺さぶることになるのだ。このときの震わせ方は、最初の震わせ方などとは比較にならないぐらい激しいものになるだろう」

risingいのちの御しるしが裏返しのまま傾いている形を、われわれは「スワスティカ」と呼ぶし、東に昇る太陽とは日本の旭日旗のことだ。これらふたつのシンボルはアリゾナにある石に彫り込まれている。それらのシンボルを掲げたふたつの旗を目にしたとき、エルダーたちはそれが地球が再び揺さぶられることのしるしであることを知ったのだった。

守護されるべき火のより悪い誤った使われ方のことは「灰のつまったヒョウタン」と呼ばれている。その灰のつまったヒョウタンが空から落ちるだろうと彼らは言った。それは人びとをして、大平原を焼き尽くす野火のなかの草の葉のごとくにしてしまうだろうと。そしてその後はいくつもの季節が過ぎてもなにひとつ地面から生えてくることはないだろう。原子爆弾、それが灰のつまったヒョウタンのことであり、アメリカの歴史のなかで最も堅く守られた極秘事項だったが、エルダーたちは1920年にはすでにそれについて話さなくてはならない思いに駆られていた。

あのとき彼らが国々の連盟に加わることができていたならば、当然彼らはそのことについて話をし、それが間近に迫っていることを伝えていただろう。エルダーたちは時の大統領のルーズベルトとなんとか接触を持ち、灰のつまったヒョウタンの使用を思いとどまらせようとした。なぜならそれを使うことは地球にとてつもない影響を及ぼし、結果としてさらにひどい破壊をもたらして、三回目の地球が揺さぶられること、第三次世界大戦につながるだろうから。

地球が二回目に激しく震えて、灰のつまったヒョウタンが空から落ちるのを見ることになった後、この大地のもうひとつのはずれで平和を作る試みが為されるだろうことを彼らは知っていた。西海岸における平和の試みが失敗に終わったので、彼らは特別な家をこの亀の島の東海岸に建設することになるだろう。この家には地球のありとあらゆる国々や人びとが集まってきて、「雲母の家」と呼ばれることになり、沙漠の上の雲母のように、それは輝くだろう。(不定期につづく)

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スピリットのある穀物について考えたことありますか?

ミネソタのWCCOテレビ(CBS)が10月21日の朝のニュース番組で「ワイルドライス論争」について報じた。同局のウェブサイトでニュースを動画で見ることもできる(右上の画像のしたにあるPlayボタン)。ミネソタで生きているオジブエ(アニシナベ)の人たちがどのようにワイルドライスとつきあっているのか、その一端を垣間見ることができるだろう。カヌーで湖を進みながら夫婦がワイルドライスをへらのような木製の棒でカヌーのなかに収穫していく光景がきちんと収録されているし、科学者とネイティブの人の意見を交互にはさんで、ワイルドライスとオジブエの人たちとのつながりをわからせてくれるようなシーンがいくつも挿入されている。

arrow2 Wild Rice Controversy In Minnesota

ニュースによれば事の発端は、ミネソタ大学の農学部が、科学的な研究の一環として、ワイルドライスの遺伝子組み換え実験を行うと発表したことだった。ミネソタ大学では地域の農作物として50年近くワイルドライスを研究してきた。1950年代初頭に大学の研究者たちはワイルドライスの新しい種類を交配によって作り出してその新種を地域の農業者たちが生産できるように手助けもしている。当然のように研究者たちは、ワイルドライスの遺伝子組み換えが、そのまま農業の大きな進歩につながると考えた。「医学部の連中がミバエを研究することで人間について学ぶように、ワイルドライスや、白米のことを研究すれば、トウモロコシや小麦について学ぶこともできるのです」と。

しかしこのたびのワイルドライスの遺伝子組み換えに真っ向から異を唱えたのがミネソタに長くくらしてきたネイティブ・ピープルのオジブエの人たちだった。彼らにとってワイルドライスは「いのちをつなぐ道」なのであり、彼らに言わせれば「ミネソタ大学は聖なるワイルドライスに遺伝子組み換えをおこなうことでその生き方そのものを脅かしている」ということになる。オジブエの人たちはワイルドライスのことを「マノーミン」と言う。だがこの「マノーミン」は単に「ワイルドライス」を意味するものではない。「マノーミン」を「ワイルドライス」と理解することは、その表面的な部分をひっかいているに過ぎないのだ。

ミネソタにあるホワイト・アース・インディアン・リザベーションで伝統的なヒーラーをしているポール・シュルッツ氏はこう言う。「マノーミンを大切に扱えば、マノーミンもわたしたちを大切に扱ってくれます。だから一緒に行って、よくその目で見てほしい。マノーミンをよく見ればわかるように、それはいのちそのものなのです」

オジブエの人たちの言い伝えによれば、彼らは創造主に水のうえに食物が育つところに行きそこで暮らすように言われたことになっている。そしてミネソタ地域こそがその場所なのである。ワイルドライスの物語はそのまま彼らの生き残ってきた歴史であり、文化そのものなのである。

「そこには強力にスピリチュアルなつながりがあって、それは西洋の知のプロセスが理解しようとしはじめているとはいえ、およそ深い理解には及んではいません」とシュルッツ氏。「ワイルドライスの遺伝子操作はやり過ぎです」

彼は、遺伝子操作されたワイルドライスが鳥や嵐などによって何マイルも運ばれることがけしてないとは言えないと主張するのだ。ある日、遺伝子組み換えされてたくましくなったワイルドライスが自分たちの湖を制圧してしまうか、特許権がとられて大きな会社の所有物にされてしまうのを、彼は恐れているようだ。

大学側はインディアンの人たちの主張は、まったくないとは言い切れないものの大げさすぎると言う。遺伝子研究を、大豆やトウモロコシのように、そんなに大がかりにやるつもりなどみじんもないと。インディアンの人たちとの対話は続けるつもりだが、「学問研究の自由」というものが自分たちにもあることはわきまえてほしいものだと。

アメリカやカナダにおいてはワイルドライスは、とても貴重で高級な食材になりつつあることはまちがいない。現在ミネソタで生産されているワイルドライスのうちわずか三パーセントしか天然物のワイルドライスはない。天然物というのは「自然にはえているものを昔ながらのやり方で収穫し脱穀したもの」で、ネイティブの人たちは基本的にはこの方法を採用しているし、当然ながら値段も栽培されたものの数倍はするのだという。

いのちをつなぐ穀物というものを改めて考えてみるのも良いかと思う。ほんとうにスピリットのある穀物とはなにかを考えるヒントをこのニュースの映像は与えてくれます。日本列島の水田で長いこと毎年生産され続けている水稲には、はたしてスピリットはあるのだろうか?

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Friday, October 21, 2005

チェロキーに伝えられた予言 #04

彼らはいかにすれば苦難の時を乗り越えて生きながらえることができるかを知るために人びとを送り出してヴィジョンを見させようとした。彼らはあらかじめ予言のなかで、その場に集うすべての人たちに、万物のなかにある神聖さについて思い出させるようにしなくてはならないと、告げられていた。もしそれができるのなら、そのときにはこの地球に平和がもたらされるだろうと。けれどもしそれがかなわなかったときには、つまり、われわれがひとつの人間家族としてまとまることができなかったときには、グレイトスピリットがその御手でこの地球をつかまえられて、激しく揺さぶることになると。

mt西海岸のエルダーたちは、あの連中がいずれ黒いリボン(註・舗装された道のこと)を作りはじめることを予言していた。そしてこの黒いリボンのうえを一匹の虫が動き回るだろうと。この虫をあなた方が大地のうえで見るようになったときは、地球が最初に震える御しるしであると。そして地球が最初に震えたとき、あまりのふるえの激しさに、その虫は大地から放り出され、やがてその虫は空を飛びながら動きはじめるだろう。そしてこの地球の震えがおさまる頃までには、この虫は世界の空を飛び回るようになると。虫の背後には土ぼこりのもうもうと舞う道ができ、そして最終的には、地球の空という空のほとんどの部分が、この舞いあがる土ぼこりの道によって汚されてしまうことになり、その結果、わけのわからないような病気がたくさん引き起こされることになるだろう。そう、大地のうえを動き回る虫、今ではそれはどこにでもいるしだれの目にも入る。1908年、T型フォードがはじめて大量生産にかけられたとき、エルダーたちは、最初に地球が揺さぶられるときが間近に迫っていることを知った。そしてそれが第一次世界大戦だった。

第一次世界大戦において、飛行機ははじめて広く使われるようになった。それは空に放り出された虫だった。これを見たとき彼らにはやがてとても重要ななにかが起ころうとしていることがわかった。この大地の西の海岸において、平和を作ろうとする試みが起きることになっており、エルダーたちは固唾をのんで推移を見守った。やがて彼らの耳に、サンフランシスコで地球の各国々の同盟が作られようとしているという知らせが届きはじめた。そこで1920年ごろ、エルダーたちがアリゾナで一堂に会し、みなで時の大統領であるウッドロー・ウィルソンに宛てた手紙を書いた。エルダーたちはそのときに作られつつあった国々の連盟(国際連盟)にインディアンもふくまれるかどうかをその書状で問いただした。

アメリカの最高裁判所はインディアンの居留地はアメリカとは分けられており、半ば独立国と見なすべきとの判断を示していた。リザベーションは合衆国の一部ではないが、合衆国によって保護されている土地であると。しかし居留地がどんどんと自分たちのところから離れていくことをあの人たちは望まなかったから、ことは重大事だった。連中はリザベーションを独立した国のように見ることを望まなかった。だからあの人たちは返事をよこさなかった。そしてネイティブ・ピープルは国際連盟の国の枠からはずされ、輪は未完のまま終わってしまった。あのときの国際連盟という国の輪の南側には南の扉が設けられていた。南の扉は黄色い人たちのものだった。西側の扉は黒い人たちのもので、北の扉は白い人たちのものだった。しかし東の扉には人が配置されていなかったのだ。エルダーたちは知っていた。人類の輪がこのように未完成のままであるのなら、地球のうえに平和が訪れることはないと。四つの色の人たちがひとつの輪を分けあって腰をおろし、それぞれに伝えられた教えをみなで共有できたときにはじめて、地球にも平和がもたらされるのだと。(不定期につづく)

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3000年前の階段状の道が発掘されたそうだ

19日の東奥日報(青森市)の記事によれば、青森県教育委員会が発掘調査している西目屋村砂子瀬地区の水上(みずかみ)遺跡で見つかったその約3,000年前の道は「幅一・五メートル、長さ八メートルの規模。北から南の住居群へ上っていく形で緩斜面に造られ、表面には粘土状の土が張られている」とある。「道の中ほどには踏み段が五つ刻まれ、幅〇・五−一メートルの丸太が敷かれた痕跡」もあるらしい。道の先には集落があったようで「住居跡は延べ十軒ほど」だが、それぞれ微妙に時代が異なっていて、おそらく二〜三世代にわたって維持されつづけた小さな村(プエブロ)で、今回発掘された「階段道」はムラの出入り口だったと思われる。(写真あり)

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Thursday, October 20, 2005

世界平和よりむずかしいこと

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。
北山耕平 拝

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Wednesday, October 19, 2005

ルイジアナの先住民たちに合衆国政府の支援の手は届かず

houmalogosmall思った通りルイジアナの先住民たちに救助の手は届いてはいない」(Native Heart Wednesday, October 05, 2005)の記事の続報である。これは「新たなる基準(The NewStandard)」というノン・コマーシャルな独立系メディアが10月18日に報じた「ハリケーン・リタの洪水の後自力で更生を目指す沼地地帯の町」という記事(ジェシカ・アズレイ記者)の要約である(別のニュースでは3つ目のハリケーンが勢力を強めてフロリダを狙っているというではないか)。

ふたつの巨大ハリケーンに襲われたメキシコ湾岸の湿地帯の町であり、連邦ホウマ国のあるルイジアナ州デュラック(Dulac, Louisiana)は、人口のほとんどがネイティブ・アメリカンから構成されている。この町はニューオリンズの南西70マイルのところにあり、ふたつのハリケーンの洪水から1ヶ月を経たいまも、多くが泥付けの状態で荒廃したまま放置されている。連邦緊急管理庁(FEMA)からまったく無視されたこの町の住民は、しかし長年の経験ではなから援助を期待するほど愚かではなかった。

連邦ホウマ国のみならず、このエリアのインディアンの人たちは合衆国政府よりも、個人的に寄付された食物や、水や、おしめ、もし可能な場合に清掃する掃除必需品であふれたトラックでやってくる2、3のボランティア団体の方を信頼している。

連邦ホウマ国の女性のチーフ・ブレンダ・ダーダー・ロブショーは「もしわれわれが連邦緊急管理庁や赤十字の来るのを待っていたら、今ごろは苦境に陥っていたことだろう」と語った。連邦ホウマ国では推定で4000人ほどの人たちが家を失うか破壊されてしまった。ロブショーをはじめとする各インディアン部族の指導者たちは、ルイジアナのレースランドのチーフの家の庭に独自に緊急支援物資の集配センターを起ちあげ、各地から寄せられる寄付の食料、衣類、必需品を分配している。

チーフ・ロブショーは言う。「部族のメンバーのところを訪ねて話を聞くと、みんなひとりひとりが苦しんでいることがわかります。生活のこと、自分たちの今後のこと、家族をどうやって食べさせていくかについて、どこに暮らせばよいのかについて。ほとんどが保険に入っていなかったし、入っていたとしても非常にわずかなもので、こういう人たちの力になれるのは、われわれしかいないのです。それでも、みんなは口々に、特にエルダーたちは目に涙を浮かべで自分らは元の家に帰りたいのだと言います。われわれにとっても、彼らが元の家に戻れるようにすることが重要なのです。なぜならそここそがわたしたちの共同体であり、わたしたちの歴史であり、わたしたちが受け継いだ遺産であり、わたしたちは幾世代にもわたってそこで生きてきたのです。だから、もしそこに帰ることができなければ、わたしたちはわたしたちをわたしたちたらしめているある部分を失うことになるのですから

自分の部族のメンバーが連邦緊急管理庁からの援助を受けようとした場合にはとんでもない障害があるとチーフ・ロブショーは語っている。彼女の一族の人たちは1960年代まで公立学校への入学が認められなかったために、ほとんどの人が読んだり書いたりすることが出来ないし、もっと大きな問題は彼らが英語をまったく話せないと言うことである。「連邦緊急管理庁の支援の網にかかることなく、自分の生活の面倒も見れない人たちの世話をわたしたちはしているのです」

fdlogo2合衆国政府のハリケーン被害にたいする支援がまったく受けられない状況を、チーフ・ロブショーは過去の歴史を振り返りつつ、記事の最後にこう言っている。「まあ、われわれとアメリカ政府との関係は、昔から一貫してこういうものだったので、期待はずれではあるけれど、驚くほどのことではありません

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Monday, October 17, 2005

星の国から来た人たちによれば母なる地球は

シャイアンは『スピリット・シーカー(スピリットを探す者)』として知られている。他の惑星からやってきて、地球に生まれた人たちだ。われわれは創造主と多くの物語を分けあっていて、そうした物語はわれわれにいかにすれば母なる地球を生かし続けられるかという道筋を教えている。母なる地球は現在、汚れを洗い流しているただなかにあり、わたしが思うに、母なる地球にとってハリケーンは汚れを洗い流す方法のひとつなのだ。
フィリップ・ホワイトマン・ジュニア ノーザン・シャイアン一族

去る10月10日のネイティブ・アメリカン・デイ(コロンブスの日改め)にサウスダコタのクレイジー・ホース記念碑で開かれた「融和と学びのためのアメリカ・インディアン文化祝祭の日」の集まりにおいてシャイアンからゲストとして登壇したストーリーテラーでインディアンフルートの奏者でもあるこのフィリップ・ホワイトマン・ジュニアの言葉は、インディアン・カントリー・トゥデイ紙(October 17, 2005)の記事で見つけたもの。彼がいうようにシャイアンには「星の国で生まれた」とする言い伝えがいくつも残されている。ぼくが3年前に「大人になる前に聞かされるお話し」として紹介した『星の少年——シャイアン・インディアンに残された物語』(ビイングネットプレス刊 2002)というストーリーも、星から来た少年が困難を乗り越えて精神的にも成長していく物語のひとつだったっけ。

参考サイト HOTWIRED
「自然災害の新時代」到来か――その対策は?(上・下)
http://hotwired.goo.ne.jp/news/20051012307.html
http://hotwired.goo.ne.jp/news/20051013307.html

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それもこれもお国のため

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。
北山耕平 拝

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Sunday, October 16, 2005

インディアンは笑う 目次 2007.01-2009.01

Indian Humor

「インディアン・ジョーク」は、Native Heart blog のカテゴリーでいうなら「Indian Humor / Indian Jokes」におさめられているものだ。いわゆるエスニック・ジョークの範疇のなかに「インディアン・ジョーク」もふくまれているが、インディアン・ジョークには「インディアンを笑う」ものと「インディアンが笑う」ものがある。わたしが集めてここで公開しているのは基本的には後者である。

Native jokesネイティブ・ピープルにとって笑いはとてつもなく重要なものであり、なおかつ神聖なものと考えられてきた。かつてわたしは『ネイティブ・マインド』(地湧社刊 1988)のなかで「ネイティブであるということは、自分が一人の、時には弱い、人間であるということをはっきりと知っていることである」「ネイティブな人たちは、人生をシリアスに考えないために、我を忘れて興じることのできる遊びと、世界をひっくり返すための笑いを忘れたことがない」と書いた。今もその伝統は消えていない。彼らは厳しい現実を超えていくためにとにかく遊び笑う人たちである。

ネイティブの人たちのユーモアとはいかなるものかをご理解いただくために、ブログをはじめてから最初の3年間に Native Heart のなかで発表紹介してきたインディアン・ジョークの数々は、『インディアンは笑う』というタイトルで2007年6月28日には書籍として発売(マーブルトロン刊行・中央公論新社発売・ISBN978-4-12-390161-1)されたので、削除した。せっかくお越しいただいて申し訳ない。というわけで、ここには、本に収録しなかった写真を使ったものと、今年2007年の1月以降のものが掲載してあるだけである。以前ここに掲載してあったネイティブ・ジョークを求めてこられた方は、これもなにかの縁、下のリンク先にある前書きを読まれた上で、なにとぞ書店にて本を手にとっていただきたい。読まれたあとで推薦の弁をアマゾンなどの書評に書き込んでいただければ当方にとって無上の喜びであります。

next Native Heart 関連記事: インディアンは笑うという本のまえがき

next Native Heart 関連記事: 北山耕平、東京エフエムのスタジオに行く


Revised Friday, February 13, 2009

  インディアンは笑う 目次 2007.01-2007.08

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ネイティブ・アメリカンに残る言い伝え 目次 2004.03-2010.01

Native American Story

このブログをはじめてからこれまでに紹介したネイティブ・アメリカン諸部族の「言い伝え」のリストを作った。Native Heart blog のカテゴリーでいうなら「Native American Story」におさめられているものだ。もとよりこれは現在進行中のもののリストなわけだが、読者が過去記事にアクセスしやすくする意味もあってのものである。ほとんどがこのネイティブ・ハートではじめて紹介したものだが、なかには他の媒体に発表したものも数編ふくまれている。本ブログの「おはなし宝箱」で紹介した「物語」と「言い伝え」の違いは、「教えについての色合いの強いもの」「予言」とされるもの、話を聞く年齢が幼年期を過ぎた世代を対象にしてあるものが中心の点であるが、重なっているものもあるかもしれない。厳密な違いはなく、気分に応じて分けた。これらのなかには今のわたしたちを取り巻いているさまざまな状況を変える力になるものもあると思われるので、あなたが人生という旅を続ける羅針盤としてお使いいいただければ幸いである。

Revised Friday, January 22, 2010

  言い伝え 目次 2004.03-2010.01

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宇宙を貫くひとつの法則を伝える原初の教え

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Saturday, October 15, 2005

単行本「ジャンピング・マウス」(太田出版刊)のまえがき 再録

以下は今年の春の終わりに出版された単行本『ジャンピング・マウス』のまえがきそのままの再録である。したがって本をお読みいただいた人には無用のものかもしれない。再録する目的は、いまだ本を読んでいなくて、その中身がどのようなものか想像している人に、実際に本を手に取ってみようと思わせるための情報提供である。シャイアン一族に残されてきた「ジャンピング・マウス」とはいかなるお話しなのかということを、出来るだけたくさんの人たちにわかっていただきたいと思うし、今回紹介するものが、これまで日本で紹介されてきたいくつかの「ジャンピング・マウス」のお話しのバージョンと、どこがなぜ異なっているかを知っていただきたいと思ったからである。

▼ジャンピング・マウスのまえがきを読む。

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Thursday, October 13, 2005

そういえば南北アメリカ大陸先住民にはめんを食べる風習はなかったな

「中国科学院地質・地球物理研究所などの研究チームが、同国北西部にある青海省の喇家(ラーチア)遺跡から約4000年前のものとみられる土器と、その底にあっためんの遺物を見つけた」と asahi.com 文化ニュース(2005年10月13日08時15分)が伝えた。

記事によれば「チームは黄河上流域にある同遺跡の地層を発掘中に、逆さになった状態で埋まっているおわん状の土器を見つけた。掘り起こしてみると、底の部分から細長い形をしためんが出てきた。出土しためんは直径約3ミリで、長さは50センチ以上あった。色は黄色で壊れやすく、中国でつくられている伝統的なめん類に似ていた。炭素同位体を用いた年代測定から、この地層は約4000年前のものと考えられた。めんの原料となった穀物は、同じ地層から見つかった穀物との比較から、キビとアワとみられる。イタリアやアジアのめんによく使われている小麦とは異なっており、中国独特の原料とみなすことができた」とある。同研究チームは「我々の発見は、少なくとも4000年前にはこの地で穀物の粉をこね、ゆでて、めんを作っていたことを表している」と結論づけた。同じ記事はまた「めんの歴史に詳しい研究者」の言葉として、「めんについて中国で最も古い文字の記録は約2000年前。4000年前というのは古すぎて、にわかに信じがたい」との声も紹介している。

映像でたまたまこのニュースを見たのだが、土器の底に「めん」のようなものがとぐろを巻いているのが写し出された。まるで誰かが食べ残した硬焼きそばのめんのようだったな。ほんとかどうかはともかく、めんの材料がキビとアワという雑穀であることが妙に頭にこびりついた。黄河の流域でアワやキビがいのちをつなぐ穀物として栽培されはじめるのが考古学的には9000年前とされているらしいので、問題はめんを作る高度な技術がいつ頃どのように出現したかということになる。4000年前というのは地球規模で考えると、なんらかのかたちで精神革命が起こり、それが引き金となって「前の世界」から「今の世界」への移行がはじまった時期ではある。いまにつながる組織宗教や哲学の萌芽もこのころだったのではないか。最初の偉大なる覚醒の時で「モノにこだわる生き方」への革命が起きたのかも。もしかしたら「めん」というのは新しいテクノロジーの作り出した最初の食べ物だったのかしらん。:-)

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Wednesday, October 12, 2005

すべてのつながるものたちのための放送局

stationlogoaある人から「ネイティブ・アメリカン・ミュージック専門の放送局 NativeRadio -- Your Portal to Beauty and Mystery 」(Saturday, October 08, Native Heart)のサーバーが落ちているようだと教えていただいた。そればかりか「Four Directions Relief Project(四つの方角からの救済計画——コミュニティー・サポート・アクション)」(Monday, October 10, Native Heart)も落ちている。つながるべきところがつながらないと、なにかあつたのではと不安になる。インターネット時代の不安というのは「便りがないこと」にはじまるのかもしれないな。じつはぼくは「ネイティブラジオ」は時々聞くぐらいだ。あまりよい聴取者ではない。もちろんネイティブ・アメリカン・ミュージックが嫌いというわけではない。嫌いなら紹介なんてしない。ではなぜか? ほかに聞いているインターネットのラジオ局があるからなんだな。ぼくがふだん聞いているのは LIVE 365.COM のたくさんあるラジオ局のなかでじっくりと聞き比べて選んだ「K-BEAR Radio Free Native America」というワイオミングのシャイアンというところから FM 32kps MP3 で送信されているラジオ放送で、たまに曲が途中で切れたりすることがあるけれど、ここが気に入っている理由の第一は、ネイティブ・アメリカンの個人放送局であり、ネイティブ・アメリカン・ミュージックもそれなりに流れるけれど、同時に60年代、70年代の古典的な——ディランとか、デッドとか、バーズ、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・レノン、オールマン・ブラザーズ・バンド、ディープ・パープルなどの——耳の底に焼きついているにもかかわらず最近ではとんとラジオでは耳にしないロック・アーティストたちの「ぼくたちの時代」の音楽も流れるし、伝統的な音楽に混ざって北米大陸にあるインディアン・カントリーのヘッドライン・ニュースや、パウワウの案内なども幅広く流してくれるからだ。もちろんネイティブ・アメリカンのミュージシャンのメッセージたっぷりのもの——フロイド・ウエスターマンの「カスターは汝が罪を背負って死せり」とか、ラッセル・ミーンズのあじるようなAIM的トーク・ロックまで——もちゃんとかけてくれる。なんというかなセージとスイートグラスの煙が今にも漂ってきそうな感じの放送局なのさ。DJはウォルフというエア・ネームのシャイアンの男性で、音質はそんなに良くはないのだが、長く聞いていてもちっとも飽きが来ないし、ネイティブのアーティストの最新チューンなんかはきっちりおさえていてそつがない。今だったら、ワレラが唄うチェロキー語のアメージング・グレースなんか、日に2、3回はかかるんじゃないかな。 LIVE 365.COM は、コマーシャルが入るのを我慢すれば無料で聞けるし、年間聴取料を払うとコマーシャルがまったく入らなくなる。ぼくはコマーシャル入りのをただで聞いている。他のラジオ局がつまらなく感じたら、ぜひここにどうぞ。

arrow2  K-BEAR  http://www.live365.com/stations/wolf_broadcasting

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Tuesday, October 11, 2005

チェロキーに伝えられた予言 #03

それぞれ四種類の人たちはそれぞれが自分に与えられた方角に行き、自分たちに与えられた教えを学ぶことになった。いつだったかさほど昔ではない頃のニューズウィーク誌に、人類の食べている食べものの十のうち八つが西半球でもともと作られていたものだという記事があったが、それは赤い人たちが教えを、地球と地球からはえるものたちの教えを、しっかりと守護してきたことのあかしであるだろう。われわれには、われわれが兄弟として、姉妹として、再び相まみえることができたとき、互いに教えを忘れないでいたことを確認しあって行うことになる皆の前で見せるべき「聖なる握手」が与えられているのだ。

ホピの人たちに与えられた石版には、最初の姉妹たちや兄弟たちが、それぞれ亀の姿をとって大地を横断してきて、その姿をあらわすと記されていた。それらは確かに人間ではあるかもしれないが、やって来るときには亀の姿形をしていると。そのときが近づいたとき、ホピはそのための特別な村で、はるばる遠くから大地を横断してやってきた亀たちを出迎えることになっていた。ある朝彼らは朝の光のなかで立ちあがり、朝日の差し込んでくる方角に目をこらした。

conquistadorどこまでも続く沙漠のはるか向こうから、スペイン人の征服者たちが、各人がさながら亀のごとく見える鎧甲を身にまとって、こちらを目指してやって来るのが見えた。まさしくそれは、大地を横切ってやって来る亀たちのように見えたのだ。そこでホピの人たちは村を出てスペイン人たちを出迎えた。握手をしようと手を差しのばしたその手に、スペイン人はつまらないはかりごとを返してきた。そのことがあってすぐ、北アメリカ大陸中に「厳しい時代が訪れる」との知らせが広められた。「兄弟姉妹のなかにすべてのもののなかにある神聖さを忘れてしまったかもしれぬものたちがおり、これがために地球に生きるものたちが苦しむことになるだろう」と。

そこで部族という部族が、しかるべき人間たちを山に送り、自分たちが生き延びるためにどうすればよいかについてのヴィジョンを求めさせた。そのころミシシッピ大盆地のなかだけでも、ざっと10万もの町があり、盛り土をする文明で知られていた。町という町が、そうした巨大な盛り土のうえに建設されていた。この大きな盛り土群は、今もそこに残されている。なぜ盛り土をしたのかというと、厳しい時が訪れることがわかっていたから、なんとか地面から離れたところで生き延びることを学びはじめようとしたのだ。(不定期につづく)

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Monday, October 10, 2005

ただちに四つの方角からの救済を

fdlogo2ハリケーン・カトリーナとその後のハリケーン・リタのふたつの大嵐によって壊滅的な被害を受けた南ルイジアナに暮らす5つの先住民コミュニティーを支援するために今月上旬に組織されたばかりの「Four Directions Relief Project(四つの方角からの救済計画——コミュニティー・サポート・アクション)」が立ちあげたばかりのホームページで緊急の呼びかけを世界の四つの方角に向けて行っている。「フォー・ディレクションズ」はネイティブ・アメリカンに共通する認識のひとつで、「東西南北の、この世界のあらゆるところから」を意味する言葉だが、このホームページのニュースを読むまでもなく巨大ハリケーンによる高波と上げ潮による被害はことのほか深刻であるらしい。以前(Wednesday, October 05, Native Heart)にもお伝えした連合ホウマ国などミシシッピ川下流域、南ルイジアナのネイティブ・アメリカン・コミュニティーの人たちには、緊急物資人手長期的な財政支援の3つが決定的かつ深刻に不足していると言うことである。合衆国政府からの目に見えるインディアン・コミュニティへの支援はまったくなく、草の根ボランティアによる支援だけが頼りだという。

大きな被害を被った連合ホウマ国(the United Houma Nation)、ポイント・オゥ・チェン一族(Pointe-au-Chien Tribe)、ジーン・チャールス島のビロクシィ・チティマチャ一族(Isle a Jean Charles Band of Biloxi Chitimacha)、グランド・カイロウ/デュラクのビロクシィ・チティマチャ一族(Grand Caillou/Dulac Band of the BiloxiChitimacha)、ラフォーシェ沼地のビロクシィ・チティマチャ一族(Bayou Lafourche Band of the Biloxi Chitimacha)の5つのコミュニティーへの直接の支援金などの送り先も掲載されている。

arrow2 Four Directions Relief Project

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本日はネイティブ・アメリカン・デーなり

INDIANER_SMOKESIGNAL今日(10月10日、10月の第2月曜日)は日本では体育の日ですが、アメリカではコロンブス・デーという休日です。近年、中南米ではこの「コロンブスの日」を祝うことに抗議する動きが高まっています。この日を「先住民族の抵抗の象徴の日」にしようという声も聞かれます。先住民族の団体はコロンブス・デーの祝賀会にこぞって反対し「ヨーロッパ人の出現は先住民族の伝統と土地を守るための戦いの始まりのしるし」だったと主張しています。アメリカ国内でも、無邪気にコロンブスの到着を祝うだけのお祭り気分は薄れつつあるようです。いまだに「コロンブス・デー」と普通は呼ばれていますが、インディアン・カントリーのひとつで、かつて「偉大なスーの国(グレイト・スー・ネーション)」の一部でもあったサウス・ダコタ(ダコタという言葉はスーの言葉で盟友を意味する。つまり「友だち」)では、ネイティブ・アメリカン・デーと呼ばれています。サウス・ダコタ州がこの日を「アメリカ先住民の日」と呼ぶようにしたのは1990年、沈む太陽を追いかけて船出したコロンブスがたまたまバハマ諸島のサンサルバドル島に姿をあらわしてから498年後のことでした。

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Sunday, October 09, 2005

これからスミソニアン博物館にラコタのウインター・カウントの展示を見に行きませんか

lonedog「ウインター・カウント」とは主に平原インディアン、とりわけラコタの人たちの「歴史」を意味する言葉である。彼らが時の流れを計るやり方には、ムーン・カウントとウインター・カウントがある。ムーン・カウントとは月と特定の恒星の位置の関係から導き出された公転周期である28日を基準に月日を計るやり方で、これによれば一年は13の月からなる。28日ごとにムーン・カウンティング・スティックという特別な棒に刻み目を入れていき、13の刻み目が入ると一年が過ぎたことになる。ウインター・カウントは、ラコタ語で「ワニエトゥ・ウォワピ」といい、毎年冬の季節に、その一年に起きた部族にとって忘れ難き出来事を簡単な絵文字にしてなめした皮のうえに描き残したもので、「ワニエトゥ」は「最初の雪から翌年の最初の雪まで」、「ウォワピ」は「平らなものに書かれたり描かれたりしたもの」のことで、それは文字通り「冬を数える」ものであって、ムーン・カウントが月ごとのカレンダーだとすれば、ウインター・カウントは自分たちの歴史であり年表だと言える。そのようにして描きとめられた絵文字はストーリーテリングにおいて遠い記憶を鮮やかに呼び起こすための引き金となるものであり、毎年冬の間だにその意味するところが新しい世代へと口から耳へと語り継がれる。

アメリカのスミソニアン国立自然歴史博物館が現在、このラコタのさまざまな一族に残されていたウインター・カウントを整理して1775年から1902年にいったいなにが起きたのかをラコタの人たちの側から再確認できる特別展示をインターネットのうえで行っている。ここに写真で紹介しているのはバッファローの皮のうえに描かれているウインター・カウントで、現在は同博物館が所蔵しているが、オリジナルは1860年代にモンタナ領に暮らしていたヤンクトナイ・バンドのローン・ドッグという人物が持っていたもので1800年から1870年の70年間に彼の一族に起きたことと彼の一族が目撃した得意な自然現象が年ごとに記録されているもの。中心から外側に向かって円を描かれるように絵文字がならんでいるのがわかるだろう。その絵文字のひとつひとつが一年をあらわしている。今回の展示ではそれらの絵のひとつひとつが意味することも解説されている。

絵の並びからわかるのは、彼らの時の流れの認識のしかたが、わたしたちの年表ように直線を描いてはいないことである。彼らにとっては時も又このようにして円を描くように、環を描くように経巡っているのである(少なくともそのように受けとめられているのである)。ウインター・カウントに書かれてあることを、今回は逐一翻訳して書きとめることはしない。いつか機会を見てそのひとつでも紹介できればよいと思っているのだが。

今回のスミソニアン博物館における異なるバンドのいくつものウインター・カウントの展示は、今までこのような形で見せられたことがないくらい良くできているし、デジタルの特性も取り入れて、実にわかりやすい構成になっていて、ラコタといわれる人たちがどのような人たちなのかもしっかりと学べるようになっている。ブロードバンドで接続している人はFlashでつくられたさながら映画でも見るように音楽や映像で多角的に一族の歴史と歴史観を楽しみつつ深いところまではいっていけると思う。英語の勉強にもなります。できれば夜陽が落ちてから見てほしいなあ。それでは——

arrow2 LAKOTA WINTER COUNTS AN ONLINE EXHIBIT
   Smithsonian National Museum of Natural History

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Saturday, October 08, 2005

最新ネイティブ・アメリカン・ミュージック情報

littlenative_spotlight1以前もお知らせしたインターネットとMp3を使って「あなたを美と謎の世界に誘う」ネイティブ・アメリカン・ミュージック専門の放送局 NativeRadio -- Your Portal to Beauty and Mystery のアドレスが変更になっていたのであらためてお知らせする。ストリーム放送のチャンネルが3と4、6から9までの6チャンネルに変更されている。#3は「ネイティブ・アメリカン・ミュージック・アワード(NA音楽大賞)2001」の受賞曲、#4は「ネイティブ・アメリカン・ミュージック・アワード2003」の受賞曲、#6が本放送で各ジャンルが取り混ぜてあるもの、#7はトラッドな「パウ・ワウ・ミュージック」、#8はネイティブ・アメリカンのヒップホップ、#9は昨年の「ネイティブ・アメリカン・ミュージック・アワード2004」を流している。ぼくはふだんは、ネイティブ・ラジオがおすすめのカットを放送してくれるストリーム6を基本的にはバックグラウンドで流している。今放送されている曲を演奏しているアーティストやタイトル、カバージャケットがホームページの一番上に掲載されるようになっているのも便利だし。

NativeRadio -- Your Portal to Beauty and Mystery

walela-live-in-concert今年の2月に「ネイティブ・アメリカン・ミュージック・アワード2005」が開催されて各賞が発表されて、もうしばらくするとそれ専用のストリームがオープンされると思うのだが、今年受賞したなかでいちばんの注目が「ワレラ(Walela)」という3人の女性グループ。「ワレラ」というのはチェロキーの言葉で「ハチドリ(ハミングバード)」のことで、3人の女性ミュージシャンに霊感を吹き込んだ存在だとされる。それは「空飛ぶ宝石」ともいわれている世界一小さな鳥のことで、3人のミュージシャンとは、リタ・クーリッジ、妹のプリシラ・クーリッジ、そしてプリシラの娘、つまりリタの姪のローラ・サターフィールド。リタ・クーリッジは、こ存知のようにロックンロールの世界でも大御所で、グラミー賞の受賞者でもあり、70年代に自分にチェロキー一族の血が流れていることをカミング・アウトしたことでも知られる。プリシラもロックの世界では著名な存在でボブ・ディラン、ロービー・ロバートソン、ウィリー・ネルソンらのコーラスを歌っていたこともある。そしてプリシラの娘のローラは、ロービー・ロバートソンが「白いバッファローの娘」にたとえたほどの逸材。この3人の女性がアメリカのなかに点在するネイティブ・アメリカンの国々の独立自治を守るための基金集めのコンサートをおこなったものが「Walela Live In Concert」としてCD、DVDが発売されている。悲しくて切なくて勇気が湧いてくるようで祈りとスピリットにあふれた出来となっている。ワレラの最初のデビューアルバムは「Walela」でこれにはチェロキー・バージョンのアメージング・グレースがおさめられているし、セカンド・アルバムは「Unbearable Love」(忍び難き愛)といってネイティブ・アメリカンのハートとスピリットを感じさせるものでどちらもおすすめ。個人的には「I Have No Indian Name(わたしにはインディアンネームがない)」という歌が気になっているのだが。Amazon.co.jpでもすこしだけ試聴できる。もちろんネイティブラジオでも最近はしばしば耳にするので、要チェックだ。

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Thursday, October 06, 2005

放射性物質を含んだ土が日本からユタの沙漠にむかって送り出された

sn_logo_2002_copy_trans_150_150一昨日ウラニウムがふくまれた土壌500トンがわたしたちの住んでいる国からアメリカユタ州南東部の沙漠(赤い岩の国の心臓——the heart of the Red Rock country——と呼ばれる地域で、コロラド川の源流域)に送られたのを知っていますか? このグレイト・ベースン沙漠の一部を自分の国とするショショーニの人たちの母なる大地に「地球規模の核のゴミ捨て場」がつくられるのではないかとの懸念が高まっています。

ユタの州都ソルト・レイクで刊行されているソルト・レイク・トリビューン紙は「ここ6年間実質的にウラニウム鉱石の処理を停止してきたインターナショナル・ウラニウム精錬会社のホワイト・メサ工場にとっては良いニュースかもしれないが、環境活動家にとっては今回の日本からのウラニウム残土の搬出でユタ州がアメリカ国内の放射能廃棄物の最終処理地になるだけでなく、地球規模の核廃棄物の処理地になることにつながるパンドラの箱を開けたというシグナルと受けとめている」と昨日(10月5日)の記事「ジャパンが毒性物質をユタに向けて搬送——放射能汚染残土は廃棄ではなく処理が目的だとか」のなかで書いています。

10月4日に神戸港からパナマ船籍の貨物船「ブライト・ストリーム」 (9991トン?)に載せられてユタの沙漠にむかった「毒性物質」とは、核燃料サイクル開発機構が鳥取県湯梨浜町方面(かたも)地区に長いこと放置(!)してきたウラン残土3000立方メートルのうち、比較的放射線量の高い290立方メートル分。ウラン残土とは「ウランの探鉱・採掘に伴って出た放射性の鉱石混じりの残土。ウランとその崩壊によって生じる各種の放射性物質を含む。ウラン自身のほか、骨や肺のガンを引き起こすラジウム、肺ガンの原因となる気体のラドンは特に危険で要注意だ。核燃機構(当時は原子燃料公社)は1950年代末〜60年代にかけて、岡山・鳥取県境の人形峠周辺12地区でウランの探鉱・採掘を実施。その結果発生したウラン残土の量は、80年代後半まで続いた岡山県上斎原村の夜次地区の露天掘りを含めて、計45万立法メートルにのぼる。ほとんだが野積みで放置されたままで、ずさんな日本の原子力行政の姿を象徴しているが、鳥取県東郷町の方面地区は1988年の放置発覚以来、ウラン残土の撤去を核燃機構に要求して今日に至る」とウラン残土訴訟を支える会のホームページにあります。ウラン残土問題についてはこの「訴訟を支える会」のホームページを読まれると信じられないようなこと(たとえば放射性廃棄物として搬送すると法律に抵触するのであくまでも"ウラン鉱石"として輸出し製錬を依頼したとか)があきれるぐらいたくさん書かれていてたいへんにためになると思いますので、この機会にぜひお読みください。

utahdeserthiwayショショーニの人たちは自分たちの国を「ニュウイ(美しい大地)」と呼びます。そこは二車線の黒い道(ツー・レーン・ブラックトップ)がどこまでも続いているだけのほんとうに美しい沙漠なのです(写真左)。日本の愚かで腐りきった原子力行政のつけは、膨大な税金となって自国の国民に廻されたばかりか、数週間以内にアメリカ先住民であるユテの人たちの居留地や西ショショーニ国の人たちの裏庭に運び込まれようとしています。ユタ、アリゾナ、ネバダの沙漠は、ユテ、ショショーニだけでなく多くの先住民の人たちの母なる大地なのです。

放射能汚染は、すべてのいのちの天寿を全うさせません。いのちといういのちをことごとく弱体化させて生きる時間を短くしてしまうからです。いのちは放射能とともに生きることはできません。ショショーニのメディスンマンであり、シュンダハイ・ネットワークという「先住民の叡智を集めて核の鎖を断つことにすべてを捧げる組織」を率いるコービン・ハーネイがいうように「われわれはひとつの水、ひとつの空気、ひとつの母なる地球をわけあって」います。こうした状況下において、わたしたちは「核の鎖を断つ」ために「母なる日本列島と地球を癒すため」になにができるのかを、そろそろ本気で考えなくてはなりません。行政が好んで使う台詞である「唯一の被爆国」は、もはやなんの免罪符にもならないのですから。

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Wednesday, October 05, 2005

思った通りルイジアナの先住民たちに救助の手は届いてはいない

crawfishlogoSMALLredハリーケーンで多大な被害を受けたルイジアナでは先住民の部族には、やはりどこにもまだまったく援助の手がさしのべられていないことがわかった。インディアン・カントリー・トゥデイ紙が9月30日の記事で伝えた。連合ホウマ国(United Houma Nation)はふたつの巨大なハリケーンが流し去ったルイジアナの沿岸部の「バイヨー」と呼ばれる沼地で海老漁を続けながら細々と暮らしてきた先住民の国。人口3500人ほどのうち、現在ハリケーンの被害を受けてほとんどの人の住む家が全壊し、1000人を越す人たちがホームレス状態にあるにもかかわらず、合衆国政府も、州政府もなにひとつ援助の手をさしのべていない。

ホウマのチーフであるブレンダ・ダーダー・ロビショーは、アメリカ・インディアンの部族のなかでハリケーン・カトリーナの被害の最も大きかったのがホウマ国であるにもかかわらず、危機管理局も赤十字も部族の人間にたいしてなにひとつ援助らしい援助を行っていないと語っている。ニューオリンズの南にあるレースランドに建つロビショーの家の庭には現在草の根ボランティアたちが野営していて、そのテントを中心に部族のメンバーに医薬品を配ったり壊れた家の修復に手を貸しているらしい。部族の人間にはケイジャン・フレンチといわれる独特なフランス語しか話せないものたちも多く、必要なものを伝える手段を持っていないものたちもかなりの数にのぼる。チーフ・ロビショーは「部族のみんなは、こうなった責任はすべて自分たちにあり、誰かが手をさしのべてくれるのを待つのではなく、自分たちで再建するつもりだ」と語っているという。

連合ホウマ国はそのホームページで被害状況を報告しているし、ボランティアや寄付も求めている。

arrow2 連合ホウマ国のホームページ http://www.unitedhoumanation.org/

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Tuesday, October 04, 2005

夜空にはなぜ無数の星が散らばっているのか知っていますか?

nightsky秋は夜空を見あげる機会が多くなる季節ですね。先日どこかで読んだのですが、東京で最後に天の川が見えたのは1971年だそうです。34年前のことです。1971年以後に生まれていちども東京から出たことがない人は、天の川も、無数の星たちが瞬く夜空も、見たことがないということなのでしょう。悲しいことに東京に暮らしているかぎり、満天の星はプラネタリウム以外ではもう見れなくなってしまっているのです。

東京に暮らさなくなってわたしはこれまでにたくさんの星空をいろいろなところで見てきました。でもやはり夜空の星といったら、沙漠(デザート)にかなうところはありません。何百万、何千万、いや幾億こもの星にみつめられていることが実感できるのです。きっとみんな考えるはずです。いったいなんでこんなにたくさんの星が夜空にぶちまけられたようにあるのだろう?

プエブロの人たちの言い伝えでは、昔、それも遠い昔、人びとが地下の世界から今の世界にやってきたときの話というのが残されています。われわれの母親、すべての人びとをうみたもうたあらゆる人の母親が、ひとりの少女に白い木綿の布で作られた袋を運ぶように命じたそうです。少女は名をコチマンヨといいました。母親はその際、なにがあってもその袋を開けてはならないと伝えました。

何日も何日も歩き続けるうちに、しかしコチマンヨはだんだんその袋が重くなってくるのを感じました。小さな少女が持って歩くにはたいへんな重さです。

ある夜のこと、一族のみんなが歩く足を止めました。コチマンヨはひとりで近くの小高い山にのぼると、誰にも見られていないのを確認してから、例の木綿の白い袋の口をしっかりと結わいてあるいくつもの口紐をひとつひとつほどいていきました。全部の口紐をほどいてコチマンヨがその袋のなかをそっとうかがおうとした途端、いきなり袋の口が大きく開いて、無数の明るいものが大空にチリじりになって逃げていったのです。

あわててコチマンヨは袋の口を手で押さえました。でもそのときにはもういくつかの星座のかたまりだけが袋のなかには残されていただけで、他の星という星たちは夜空のあちこちにまきちらかされてしまっていました。だから星たちは今も夜空にぶちまかれたようになっているのです。たったひとりの少女のちょっとした好奇心のおかげで。

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Sunday, October 02, 2005

ストーリーテリングはテレビよりずっとおもしろい

ひさしぶりにサイドバー冒頭の「 Peace 」な写真を取り替えた。今回はアパッチ一族の人たちが「物語を交換しているの図」だ。写真が小さくてよく見えないかもしれないが、写真をクリックすると大きくなるし、その大きな写真の左下にある「Higher resolution JPEG version」をクリックすると、より解像度の高い鮮明な写真で見ることができる。エドワード・S・カーティスによって1903年に公開された写真で、そこには「アパッチの人たちに特有のストーリーテリング・グループ。彼らはしばしばこのように座り込んで昔や今の話を交換しあう」というコメントが付されていた。拡大写真を検証してみると、右側の大きな石の下に座って頭に帽子をかぶっているのがストーリーテラーである。彼のすぐ近くに腰をおろして話に耳を傾けている3人の男性は毛布で身を包んでいる。おそらくかなり寒くなった季節と思われる。ネイティブの人たちは伝統的に夏の間はストーリーテリングをしない。それは最初の霜が降りてから、春の雪解けまでのあいだの一族の楽しみなのだ。左側には馬にまたがつたまま思わず話に引き込まれて身を乗り出しているふたりの男性がいる。ストーリーテリングが彼らにとつては現代人のテレビのようなものであり、そのまま一族のことを学ぶための学校のようなものだということがわかる写真である。アパッチ一族の歴史は、文字にされることもなく、きっとこのようにして数千年間語り継がれてきたのだな。テレビが低俗なエンタに明け暮れている今こそ、みんながついつい引き込まれてしまうような語り継ぐ一族の壮大な歴史ストーリーテリングの復活を望みたいものであります。

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