昨日までなにをしていたのか
いなぎおはなしの会が企画し、稲城市中央公民館が主催した小生の12日の講演会は、国政選挙の翌日であり、また月曜日の午前中というスケジュールにもかかわらず、70名近くがご参集くださった。はじめからテーマを『聴くということ○語るということ』としたために、ネイティブ・ストーリーテリングを学んできたものとしては当然話にも熱が入らざるをえなかったし、聞き手にとっては普段はあまり聴くことができない話を耳にする機会だったのではないかと思う。講演の後に関係者の方々と昼食と稲城市で収穫された梨を共にしながら雑談をするなかで、その日に回収されたアンケートも読ませていただき、講演がおおむね好意的に受けとめられたことに安堵する思いだった。話の基本的な部分は、良き話し手になるためにはうちなる自由を獲得することが重要だということだったが、この「うちなる自由の獲得」は、ほんとうのことをいうと、なにをするにつけても同じように重要なことなのだということを理解していただきたいと願う。また自分としても機会を見つけてこの「自由」については、繰り返して話してみたいと考えている。
ここ数日、長野県の農業協同組合が毎月出している「長野県のおいしい食べ方」というブログマガジンの共同編集作業をしていた。今から20年ぐらい前、アメリカの沙漠から帰国して、それ以前にやっていたような「都市生活者」にむけてのアンリアルな雑詩作りに嫌気がさしている自分を見つけ、といって雑誌や書籍を編集したり、文章を書いたりすることぐらいしか生き延びる糧をえることができないで伊豆の山の中でネイティブ・アメリカンについての本を書いてくすぶっていたぼくに、もう一度雑詩作りのおもしろさを体験させてくれたのが『家の光』(家の光協会刊行)という農家の人たちのための雑誌であり、同協会が青年農業者向けに編集刊行している『地上』という月刊誌だった。すくなくとも「土に触ることで生計を立てている人たち」になら、自分が関心を持つようなことをある程度は楽しんでもらえるのではないかと考えたからだ。自分が学んできたことを分けあっていちばん喜んでくれるのは、心ある農業者に違いないという気持ちは今も変わっていない。はたせるかなそういう素晴らしい農業者たちと何人も巡りあい話をする機会を得ることもできた。それは自分にとって大きな財産になっている。今では長い年月を経て、昔のように積極的にインタビューにいったりすることはなくなったが、それでもそのときできた人間関係のおかげで、ぼくは雑誌づくりがどういうものかをかろうじて忘れないまま、現実世界との接点を保ち続けさせてもらっている。農協関係者のなかで「有機栽培」という言葉が公然と使われるようになってきたのもこの間のことである。今現在、長野県の農業協同組合のためにブログ・マガジンという月刊誌のスタイルのネット雑誌の編集委員のひとりとして手と頭を貸しているのもその結果であるし、長野県は日本アルプスを有して日本有数の農業県であり、その自然と環境のありようは日本列島全体に影響を与えうる位置にあることはまちがいないように思えたからだ。できるだけたくさんの人の意識を信州に向けさせることはやりがいのある勤めである。農業そのものが、また農協そのもののありかたもが、当然ながら根幹から大きく変わろうとしているが、土と太陽と風と水を要素とする人間の営み自体は変わることはないと信じる(最近では各地に野菜製造工場なんてものが生まれてはいるけれど)。ぼくの希望は、その変わらないところの農耕に係わる人たちのあたまとこころに働きかけ続け、彼らに「大地の守護者」としての意識を芽生えさせることであったし、あるし、これからもありつづけるのだが、現実の世界はそんなに甘くないことも知っている。ともあれようやく変わるかもしれないと言うところまで日本の農業は来ているようなので、新たに農という「本質的には知的な」作業を志す——自分の頭で考えて農業をする——新しい世代の登場を夢に見つつ、この行く先がどこなのかもうしばらくつかず離れずの関係を保っていこうと思う。もし気が向いたら、「長野県のおいしい食べ方」という季節を感じたい人のための月刊ブログマガジンもお楽しみください。
その雑誌の仕事も一段落しようとしていた昨日の夜、テレビで窪塚くんの『ネイティブ・アメリカン紀行(「窪塚洋介 ネイティブアメリカン紀行 魂に触れる旅 聖なる大地へ」)』という特別番組(TBS 14日 夜)を観た。友人からメールが届いて、ぜひ観るようにすすめられたのだ。サウスダコタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ぼくにとっては愛おしくも懐かしい光景がいくつも出てきた。空を飛んで落ちた窪塚くんが元気になったこともよくわかった。彼が有能な役者であることも、自分の頭で考える人間であることも痛いほどよくわかった。それよりもぼくが感じたのは、一過性テレビメディア番組の限界というものだった。番組のなかでナバホのヒーラーのエルダーが、何回も撮影を止めるようにいい、言葉を荒げ、最後には窪塚くんに「おまえはほんとうに自分のための儀式を撮影させたいのか」とわざわざ問いかけるシーンは、2時間のなかで最も印象的な悲しいシーンだった。窪塚くんは「自分は役者であり、多くの人に見せたい」といったような意味の言葉を口にしたが、ヒーラーのエルダーは苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。正直な話、いかなる理由があれ撮影は許可されてはならないものだったとぼくは思う。聖なる瞬間というのは、きわめて個人的なものであり、それは撮影をしてみなと分けあうようなものではないからだ。メディスンマンの老人はそのことをよくわかっていた。その瞬間に、聖なるものは俗なるものに変化してしまう。番組としてはそれが売り物なのだから撮影したいという気持ちは画面の隅々にまであらわれていた。それは老メディスンマンにとっては耐えられないくらい非礼なことなのだ。これまでにもぼくは日本人の有名人であるミュージシャンや歌手や役者がアメリカ・インディアンのところをたずねていくドキュメンタリー紀行というものを何回かテレビで見たことがある。そしていつも思うのだが、彼らはそのときの体験を自分のなかで発酵させることよりも、その場にいたということをみなに見せたいだけなのではないかと。これでは「うるるん滞在記」と本質的な違いはどこにもない。これは窪塚くん自身に問題があるのではなく、日本的なテレビの番組作りにいつも感じるある種の傲慢さである。同じことが学者といわれる人たちにも言えるだろう。番組の関係者が最初望んだようにホピの国に入れなかつたのは当然の結果だといっていい。関係者は「リスペクト」ということをもう一度はじめから勉強しなくてはならない。それは「ていねいな言葉遣い」以上のものなのである。結論、地球の秘密を知りたければ、沙漠はひとりぼっちで体験すべし。
「Sharing Circle (Infos)」カテゴリの記事
- トンボから日本人とアメリカインディアンのことを考える(2010.09.03)
- ジャンピング・マウスの物語の全文を新しい年のはじめに公開することについての弁(2010.01.01)
- ヴィレッジヴァンガード 下北沢店にあるそうです(2009.12.30)
- メリー・クリスマスの部族ごとの言い方
(How to Say Merry Christmas!)(2009.12.24) - 縄文トランスのなかでネオネイティブは目を醒ますか 27日 ラビラビ+北山耕平(2009.12.16)
The comments to this entry are closed.
Comments
「雑詩作りのおもしろさ」の「雑詩」という変換ミスがいいですね。
ぼくも「雑詩ライター」を自称したくなりました。
Posted by: 南風椎 | Thursday, September 15, 2005 05:09 PM
雑誌、あれ、ちゃんと変換できるぞ。そうか意図的に「雑詩」と書いていたのか。偶然にしてはいい言葉ですね。「雑詩ライター」といわれれば、そのものだけど。いつかは誰かが「詩」として読んでくれるといいな。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Thursday, September 15, 2005 05:24 PM
はじめてレスします。
昨日の窪塚くんの番組を観てまさに北山さんと同じ考えをもちました。ネイティブの文化に対しての誤解を招くような内容。まさに「うるるん紀行」な世界で、実際の所は彼自身に聴かないとわからないですが、彼はあそこに居ただけ。ともかく窪塚君が元気になったことは良かったと思います。番組とはいえあの地で暮らす時間を得られた窪塚君には認められるなにかがあったのかな?
しかしあの番組を一通り見て一般の視聴者に訴えられるものとは、そこに映し出される風景や自然にたいしての感動だけだった気がする。いいなーとか行ってみたいなーとかの思いは得られた、でもそれだけ。そこに生活する部族の精神なんかは見事に流されていたような。テレビが視聴率目当てで作るものなので最初からあまり期待はしていなかったけど、、、このブラウン管の中の風景が商業主義の観光客を引き寄せインディアンの聖地を汚すことのないよう祈るばかりです。
Posted by: ひでろー | Thursday, September 15, 2005 09:07 PM
ひでろーさま
あの番組のなかでもうひとつ印象に残っているのは、彼が日本人スタッフに自分のことを「タレント」と言われて、きちんと「自分は役者だ」と訂正していたところです。まわりにいた人間にはどうでもよいことかもしれないが、彼にはそれがとても重要そうだった。ネイティブ・アメリカンの世界とは関係ないけれど。テレビの人間というのはどうしてあんなに傲慢なのだろうかね。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Friday, September 16, 2005 12:20 AM
先日セドナに実家のあるナナさんに会った。
ホピの土地の実体についてメッセージをもらった。
それを聞いてから、
テレビの映像が、観光案内のように見えて寂しかった。
聖なるものを尊いと思うような人たちを
増やしていきたいな。
Posted by: 虹の戦士☆ぴょん | Friday, September 16, 2005 12:57 AM
みなさん、こんばんは。北山様、お久しぶりです。
その他に私が感じたことは七夕の短冊に書かれた願い事でした。
ナバホの人は「みんなの健康や幸せ・世界平和」と書き、窪塚くんは「よい旅になりますように」と書きました。
どうしても比べてしまって…比べてしまう私自身も悲しくなったのですが。
Posted by: まちゃみ | Friday, September 16, 2005 01:51 AM
自分がそうでしたが、あの番組で最初にうらやましいとか憧れな気持ちが出てきて、そのあとに「いや待てよ」という感覚が来たんです。また短冊の内容にしてももし自分が書いたならやはり自分のことを書いてしまうな。このことに気づいた時、自分はまだまだだなと。なかなかあのような境地に達することって難しいのかも。でも日々の努力ですよね。毎日の祈り、そして尊敬。
あと、テレビや雑誌って結局それを作る側のフィルターを通して送り出されるものだから。作る側に問題があればやはり誤解された内容になってしまいますよね。でもああいう形で日本の社会に送り出されたことにも意味があるのでしょうか?
僕は日々精進していつかまた彼の地を訪れることを機会をいただけるようになりたいと思います。
Posted by: ひでろ− | Friday, September 16, 2005 08:54 AM
なんか違うなとは思いながらも、『うるるん滞在記』でも泣いてしまうようになった自分がおかしいなと感じていました。自分に起こった出来事や旅先で経験したことを、まだ自分の中に答えも質問さえも出ていないのに、沈黙の怖さからなのか?べらべらと人に話してしまうことがあります。そうすると、翌日にものすごい疲れと寂しい気持ちに襲われます。お酒を飲んでいないのに二日酔いをしているような感じです。そして私の話を聞いた人たちに何か間違った先入観を(例えば外国の話でも)持たせてしまったのではないかと、口先だけで話してしまったことをものすごく後悔するのです。
北山さんの体験を発酵させる・・という言葉が胸に刺さりました。
この夏以来、何度かお話を聞かせていただくようになって、お酒やお味噌で言うなら糀菌でしょうか?北山さんのお話を聞くと今まで経験したことや知識のひとつだったことがぶくぶくと泡立ちはじめます。まだまだ口に入れられるような代物ではありませんがいつか美味しく発酵させることができるようになりたいものです。美味しくなれば口先だけでなく、味わって話すことができるようになるのかな?まずは糀菌、酵母菌を死なせてしまわないようにしなくてはならないようです。
『うるるん滞在記』を見て泣く私と口先で話す私が同じだったと気が付きました。
「マジかよ!」 「ハンパない!」
(半端じゃないの略と思われます。)
窪塚くんのこの単語は説得力がありました。
Posted by: Y.Shima | Friday, September 16, 2005 10:11 PM
いくらでもお金を使えばその土地に行くことができるでしょうし、なんでも手に入れることができるのかもしれません、誰もが体験できないようなヘリコプターからの絶景を見たりもできるでしょう。けれどそれに私はひとつも魅力を感じない。
誰もが体験できないような体験をしたことがすばらしいのではなく、自分自身が体験したどんな体験からも多くを学び自分のストーリーを育んでいくことがすばらしいのだと思います。
"聖なる山も、誰にでも見えるというものではない。聖なる山を見ていても、それが聖なる山であることに気がつかない人はたくさんいる。聖なる山を見るためには、「聖なるものを認識するハート」を持っていなくてはならないからだ (ジャンピングマスより)"
そして、物事を深く広く見ることができる心を持ちたいものです。それには常に謙虚さが必要な気がします。
聖なる山を理解するということはそういうことのような気がします。
Posted by: yasu | Saturday, September 17, 2005 09:48 AM
「ウルルン滞在記」で、私のよく知らない若者が、ハワイのポイを「不味い」「大和糊みたい」とスタジオで言って、そこに雁首を揃えていたテレビ芸人がゲラゲラ笑っていたのが衝撃でした。この若者はカウアイのクムフラにフラを学びにいって来たということになっていて、実際にヘイアウの中でフラ・カヒコを踊らせてもらった映像もあったのですが・・・・。ポイはそういう「ネタ」にして良いものではないと私は思うのですがね。
Posted by: waka moana | Sunday, September 18, 2005 10:59 PM
神聖な作物にたいする理解と尊敬が行き届かないのは、自分たちのまわりから「聖なるもの」をあらかた喪失したこの国が本質的に抱えている根の深い問題なのかもしれません。お金で買えないものはないとする生き方の行き着く先は、つまるところみじめなものです。人間としての基本的なものを持ち合わせていないテレビ芸人たちも問題ですが、それをそのまま垂れ流しにして視聴率を稼げればよいとしている判断停止状態のメディア関係者の頭のなかももっと問題にされるべきでしょう。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Monday, September 19, 2005 10:19 PM
テレビをつけたら懐かしいセドナが
見えたけれど、番組は見ていません。窪塚君、元気になったのですね。
ずいぶん前、ヘンプの普及に関わる運動の中に名前を連ねていたのに、まるで違う方向に
利用したかのような彼の奇行を見たときは、
「影響力」のある人間がとる行動というのは
本当の真実を曲げてしまうこともあるなあと
思ったものです。責任がありますよね。
どちらもきっと同じエネルギーなのでしょうが、
やはり善なる気持と方向にそれが向くことを
願ってやみません。
なんだか時としていいもんのように批判して
いる自分がいますが(笑)
ものによっては暴力のようなメデイアの情報に
振りまわされないような心を持ちたいと
思います。
Posted by: 信珠 | Tuesday, September 20, 2005 03:53 PM