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Saturday, September 10, 2005

今日はローリング・サンダーの誕生日

rollingthunderじつは今日、9月10日は、わたしにネイティブの道を指し示してくれたRTことローリング・サンダーの誕生日である。だから彼の人生について、これまでほとんど明らかにされなかったことを少し書くことにする。

彼が生まれたのはアーカンサス州のスタンプスという町だ。今回ハリケーン・カトリーナの被害を被ったルイジアナのすぐ北の州になる。そのアーカンサス州のほぼまんなかにスタンプスという町はある。

今ではアーカンサスとして知られる州のあるところは、ネイティブ・アメリカンの文化区分でいうと広大な南東部森林地帯文化の南の一角にあたる。もともとこのあたりにどの部族が暮らしていたのか明らかではない。徹底した虐殺など、あまりにいろいろなことがありすぎた土地なのだ。マスコーギー、チカソー、チョクトー、オセージ、アーカンサス、カドゥーらの部族は足跡をたどれるが、ラコタの本流は白人到来以前にこの南東部エリアからミシシッピ川をさかのぼって大平原にはいっていった。今もアーカンサスの北のはずれに「チェロキー・ヴィレッジ」という小さな町があることからもわかるように、すぐ北のアパラチア山脈の南端にはもともと山の民であるチェロキー・インディアンの人たちの大きな国もあった。ネイティブ・ピープルのライフスタイルは農耕と狩猟採集であり、イロコイなどの東部森林地帯の人たちと平原の民とのほぼ折衷したものといってよい。

ローリング・サンダーの生まれた町であるスタンプスに行くには、いちばんわかりやすいのがテネシー州のメンフィスからはいるのがよい。メンフィスからリトル・ロックまで行き、そこで州間高速道路30号線にはいってテキサスに向かうと「ホープ(Hope)」という町が出てくる。そうしたらフリーウエイをはずれて南に向かう田舎道を、地図上では鉄道の線路を左に見るようにしながらえんえんと下っていく。線路と道路はじつはかなり離れているが、スタンプスという町は、彼が地球における旅を終えたネバダのカーリンという町と同じように、鉄道の分岐点となっているのである。希望という名前の町からおよそ半日ほどのドライブでルイスヴィル(Lewisville)の町に着くからそこで州道82号線で東に向かうと、次の町がスタンプスである。衛星写真で上空から見下ろすと、きれいな緑色のグラデーションがデジタルに連なっている。

1916年の9月10日、チェロキーの母親のもとローリング・サンダーは誕生した。父親はケージャンだった。ケージャンというのはフランス系の人たちで、ウィキペディア百科事典日本語版には「"Acadianの訛りで、アカディア(カナダのノヴァスコシア州とニューブランズウィック州)に居住していたフランス語系の人々のこと。アカディアのフランス系住民はフレンチ・インディアン戦争中、イギリス国王に対する忠誠表明を拒否したため強制追放され、フランス植民地でスペイン領となったルイジアナに分散して移住した。ルイジアナ州のニューオリンズに定着した集団がよく知られている。1990年の国勢調査ではケイジャン人口はルイジアナ州で43万人、米国全土で60万人であった」と記されている。あのケイジャン料理のケイジャンであり、ブラック・アメリカン同様今回のハリケーンで大きな被害を受けたのもこの人たちの子孫である。RTはハーフブリード゜(混血)としてこの世界に生を受けた。ちなみに1916年は、北米大陸最後の野生のインディアンととして20世紀に紛れ込み8年間だけ鉄文明時代を生きたヤヒ族のイシが「あなたは居なさい、ぼくは行く」の言葉を残して地球の旅を終えた年であり、日本では大正5年にあたっている。

そのアーカンサス州の西隣のオクラホマ州南東部、ちょうど州境あたりにキアミチ連峰という大きな山の連なりがあり、一帯はオークとヒッコリーの森が続く山の中に湖があって、きれいな川が流れていたりする絵に描いたような風光明媚で自然豊かな土地だが、ローリング・サンダーはこの山の中で母親とともに幼年期から少年期を過ごすことになる。15歳の時には独力でその山のなかに山小屋を造り、そこの森のなかで一人っきりで数年間を過ごす経験をした。ひとりきりで静けさに耳を傾けながら過ごしたもはや誰にもかなわないような少年時代の経験が、ローリング・サンダーの人格や性格やスピリットに与えている影響は計り知れないものがある。彼はそれを自分のヴィジョン・クエストだと語っていた。

彼のことをしばしば「インタートライバルな——部族の枠を超えた——メディスンマン」という人たちがいるし、ぼくもその表現を使うことがあるけれど、彼自身がそう名乗ったわけではない。メディスンマンというのは、部族もしくは共同体があって初めて成立する職能ではあるけれど、スピリットにおいては、はじめから部族というものを超えた存在でもある。部族のネットワークとは別にメディスンマンのネットワークというものも確かに存在するのだ。ローリング・サンダーはさまざまな部族のメディスン・ピープルからメディスンについて学んで育った。チェロキーには彼の薬草の師となるアモネータ・セコイヤ(Amoneeta Sequoyah)という名だたるメディスンマンがいたし、彼の同志、助言者、指導者にはタスカローラのメディスンマンであるマッド・ベア・アンダーソンとか、ホピの予言でおなじみかと思うがホピ伝統派長老だったグランドファーザー・デイビッド・マニャンギ翁がいた。もちろん部族のなかでメディスン・ピープルとなっていく人もいるのだが、彼のように部族の枠を超えてさまざまな師や同志たちに教えを請いながら自分について来る人たちのためにメディスンの道を進んでいる人は今だっている(はずだ)。

ローリング・サンダーは、メディスンについて話すときは実に注意深く言葉を選んだ。たとえばこんなふうに。「わたしのことをメディスンマンだという人たちは確かにいる。わたしは自分としては自分が何者であるかをあえて言挙げはしない」と。しかし彼はたくさんの人たちにとっては確かに信頼に足るメディスンマンであり、賢者であり、知者であった。ぼくもそのことを疑う人間ではない。自分としては、あのときあの場所で彼と出会えたことを幸せだと思う。後々わかったことだが、当時のローリング・サンダーはおそらくいちばん怒っていた時期であり、彼が怒りの嵐にとりつかれると数日は誰もそばに近寄らないようにしていたといわれるころだった。たまたま訪れた日の翌朝早くに、まだ壮健で機嫌のよいメディスンマンとしてのエネルギーにみちた彼と直接顔をあわせる経験が出来たことを、ぼくはほんとうに感謝している。

彼はよく「死んだあとも自分は影響を与えることが出来る」と語っていたが、ぼくの記憶のなかに時々あらわれるローリング・サンダーは、80年半ばの車椅子姿の彼ではなく、奥さんでショショーニのクランマザーであったスポッテッド・フォーンが健在だった1979年当時の、彼が63歳の頃のままなのだ。以前、書いた記事につけられたコメントのなかで、グレイトフルデッドと彼についてのおもしろい話しはないかと聞かれたことがあるが、ぼくが彼と出会ったのは、60年代後半から続いていた熱狂があらかた終息しつつあった頃であり、彼は白人文明が行き着いた地点としてヒッピーたちが産み出した文化なるものにある部分絶望をしていた。それだけ彼はこの世代に期待もしていたのだと思う。彼はその当時の話をほとんど口にしなくなっていたというのが実情だ。

話の締めくくりとして、彼はそれほど完ぺきな人間なのかということについて書いておくと、彼にももちろん完ぺきじゃない部分もあった。「完ぺきなものなんてこの世には存在しない。そこにあるのは完ぺきにむかおうとする力だ」と彼はしばしば口にした。ぼくが彼のことをすごいと思うのは、自分の失敗を否定したりごまかそうとしたり絶対にしなかったことにある。それに彼は「グル」のように扱われるのをおそろしくいやがってもいた。

じつは彼の最後の本である『ローリング・サンダー・スピークス 亀の島への伝言("Rolling Thunder Speaks: A Message for Turtle Island")』(Clear Light Books 1999)という本について、彼の息子(マーラ・スポテッド・イーグル・ポープ)(Mala Spotted Eagle Pope)の息子で、RTの孫にあたるショショーニのレッド・ウォルフ・ポープ(Red Wolf Pope)が、「自分の祖父がブッダかなにかのようにまつりあげられていることに」危険な匂いを感じ、同書の信憑性に疑問を投げかける公開文書をサンタフェの版元に送った。この本を翻訳したり人に勧めたりしないようにしてくれという手紙を今年の夏のはじめに読んで、翻訳しようという熱意が幾分冷めてしまった。ぼくは晩年のローリング・サンダー自身の口から「オレゴンの大学生に自分の原稿を預けている」「それで本を作ろうと考えている」という話を聞いたことがあるのだが、その元原稿となったものが、ローリング・サンダーの最期ををみとって、それ以降ポープ姓を名乗っているカーメン・サン・ライジング・ポープ(Carmen "Sun Rising" Pope)という女性が編集した本になったのかどうかわからない。ぼくはRTの最後の奥さんとなってネバダのカーリンにある家を引き継いだ彼女とは残念ながら面識がないのだ。できるならいちど彼女にもあってきちんとした話をしたいと思っている。

補遺 図版はあの時代のサンフランシスコのベイエリアのおもむきを十二分に伝える『Rolling Thunder』という1972年にリリースされたミッキー・ハートの最初のソロアルバムのジャケット。アルバムの冒頭に、一曲目としてローリング・サンダー本人が発しているスピリットの降臨を求める召命の雄叫び[Rolling Thunder (Shoshone Invocation)]三連発がおさめられている。グレイトフル・デッドのメンバーのなかで最もRTと親交の厚かったのがミッキー・ハートで、ふたりの関係は彼の著書である『ドラム・マジック—リズム宇宙への旅』(ミッキー ハート 著 佐々木 薫 翻訳 工作舎刊 1994年)に詳しい。余談だが、ジャケットをクリックするとアマゾンの該当ページに飛ぶが、そこではそのローリング・サンダーの鋭い叫び声を「試聴用サンプル」として聞くことができる。ぜひお聞きあれ。

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Comments

北山さん、情報ありがとうございます。ミッキーの
アルバムのあの声が朝の訪れの挨拶だったという話
を読んだことがあります。耐え難い殺意にも似た敵
意のような空気がただようなかで、それを吹き飛ば
し笑い飛ばすような絶対的に健康的な咆哮。あの声
を聞くと再び立ち上がろうという気になります。

カウンターカルチャーと名付けられている自体が
現在の人々をそして母なる自然を死に追いやろう
としている文明の対比なのでしょうから、そこから
意識を超えない限りは、そこに救いを求めてもしよ
うがないのかもしれません。しかし僕たちには、
ここしか残されていないのではないかとも思います。

現在、アメリカのコンサート会場でポスターと交換
に食料品の缶詰10個を交換し、それをパインリッジ
などに供給しているNPOの活動があります。将来的
には有機栽培農場のネットワークを全米中の居留区
に作ることを目的としているらしいです。第二世代
のフリーク達のなんとかしたいという熱意は親のそ
れよりもさらに増しているように感じます。以前、
北山さんの記事の中で自分の乗っている馬が死に馬
だったら早くおりなさいよという文面が非常に印象
に残っています。しかし僕は死んだ馬を生き返らせ
る可能性もこの世界ははらんでいると、もうしばら
くは考えて行動したいです。URLにアドレス掲載し
ておきました。是非ご意見お聞かせください。愛と
尊敬を与えればそれが返ってくる人たちなのは確か
だとは思うのですが。

仏教やキリスト教、さらに理解しやすいのがジハー
ド自体が教典の中に存在するというイスラム教的な
危険性をはらむということでしょうか?教義の絶対
的な正しさを背景に戦いに生きるベクターが行って
しまうのでしょうか?

これも以前印象に残った7つの火の予言の中にあった
人間が水の中に毒を加え続けたおかげで木々が死んで
いきスピリットが立ち去っていくという話ですが、
僕の近所の山達を見る限り本当のことだと思います。
この太陽と水の恵みの時期のどんどん木々が衰えて
枯れていっています。台風の直撃が多かったせいも
あるのでしょうが、若い世代に成人病が増えているの
と似ているような気がします。せめて求めている人
には教えが与えられる状態でないと、それこそ危険
だなと感じます。

デニス・バンクス氏の師匠がおっしゃるとおり、
北米大陸を最初の契約どおり持ち主であった人たち
に返し、その生き方を尊重するしか救いの道はない
だろうなという思いのもとにコメントをしている
ことをご理解ください。では日本はどうなのか?
ということになると、お手上げなのですが。敗戦
国は勝った国に従うだろう位に考えています。

Posted by: bpn | Saturday, September 10, 2005 08:33 AM

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