ぼくはもうずっと前に、答えを探すことをやめてしまった
昨日、宮城県沖で朝大きな地震があった日の夕方、思いたって家族で映画を見に渋谷に出かけた。山の中で暮らしている時はこうはいかなかった。街に映画を見に行くのにも2日がかりだから、いきなり思いたって映画を見るなんてことは全くなかった。郊外生活もだいぶ板についてきたかな。映画は『ボブ・ディランの頭のなか マスクド・アンド・アノニマス』というタイトルだ(原題『MASKED AND ANONYMOUS』《顔も名も知られぬままに》)。なんともすごいタイトルだな、と思った。これはどうしても見に行かねばならないと。調べると、1日に1度、夜8時45分から渋谷のシネパレスという、昼間は『妖怪大戦争』や『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』なんかの家族向け作品をやってる劇場のレイトショーで、今週の金曜日(8月19日)まで公開されているという。座席は、混雑してはいるといわれたが、一人ずつあいだを置いて座ってちょうど埋まっているぐらいの観客数で、まあゆったりと観れた。そして予想を裏切らないなかなかの出来の映画で、上映時間1時間46分、1800円(一人の入場料)は高くはない。日本語のタイトル「ボブ・ディランの頭のなか」がものすごく気になったのと、さんざんお世話になった者としてボブ・ディラン本人が出演している映画を観ておかないと後悔すると思えた。低予算映画ではあるのだが、印象をいえば、よくできたビート・ジェネレーションの映画を観たような後味で、期待はいささかも裏切られなかった。最近では珍しく、少しも眠たくなることはなかった。派手なことも、大がかりなことも全くない映画だが、64歳になるディランその人のリアリティが圧倒的。ストーリーはそれほど重要ではなく、革命と反革命、戦争と暴力、持つ者と持たざる者との闘いが日常化した近未来の中米の架空の国(ぼくはEZLNが力をつけてきたメキシコのチアパス州を思い描いた)での出来事を描いているが、全体としてはディランの新しいアルバムがそのまま映画になっている感じかな。たくさん聞くことが出来るディランその人の歌はもちろんのこと、印象的な言葉もつぎからつぎへと出てくる映画だったが、その極めつけは最後のシーンで語られる以下のせりふ。
「すべてのものは崩壊した。とくに法や規則がつくる秩序は崩壊した。世界をどう見るかで、ぼくたちが何者であるかが決まる。祭りの遊園地から見れば、何もかもが楽しく見える。高い山に登れば、略奪と殺人が見える。真実と美は、それを見る者の目に宿る。ぼくはもうずっと前に、答えを探すことをやめてしまった」
そして「ブローウィング・イン・ザ・ウインド(風にふかれて)」の一番新しく味付けされたものが流される。「答えは、友よ、風に舞っているのだ」と。「10回観れば10回新しい発見ができるような、ディランの楽曲と同様、重層的な仕上がり」とプログラムに書かれてあるが、この映画ほどDVDの発売が待たれるものはないかもしれない。時間をおいて何度でも観てみたい欲求に駆られる。それでも劇場でこの映画を観る価値は、おそらく又別のところにあるのだと思えた。見終わって人並みに押し出された渋谷の町が、ひどくアンリアルなものに見えたからだ。ぼくたちは早々に街を急行であとにした。公開が終わるまであと2日しかない。ディランと同じ道を歩んでいると信じる者はぜひ見に行っていただきたい。
『ボブ・ディランの頭のなか マスクド・アンド・アノニマス』ホーム(予告編も)
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