東京でアイヌ民族供養の式 同化教育施設の跡地で
共同通信が7日午後、東京都港区から伝えている。
首都圏に住むアイヌ民族の団体「レラの会」(長谷川修会長)などが7日、明治初期に同化教育の施設があった東京都港区の芝公園で、先祖供養の儀式「イチャルパ」をした。施設は「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」の名称で1872(明治5)年に設置、日本語や農業などを教えた。北海道と千島列島(クリール諸島)から38人のアイヌが連れてこられたが、生活環境が激変し、病気などで4人が死亡。教育所はわずか2年で廃止された。
儀式は今回が3回目で、約70人が参加。民族衣装を着た約20人が、アイヌ語でカムイ(神)に祈りをささげた後、公園に設けた祭壇に酒や果物を供え、教育所のアイヌやそれぞれの先祖を供養した。
長谷川さんは「『教育所』の歴史的事実や、アイヌが先住民族であることを、もっと多くの人に知ってもらいたい」と話していた。
▼ ちなみに1872年がどのような年だったのかを、小生の『Native Time Version 4 (digital edition 未公開)』で俯瞰してみると以下のようになっている。(Version 4 は『Native Time Version 3 (paper edition 地湧社刊行)』に改訂を加えたもの)
1,872
政府が天皇に牛肉を試食させ、すでに形ばかりになっていた肉食の禁制を完全に解いた。僧侶にも肉食妻帯蓄髮が認められた。収監されていた榎本武揚が、黒田清隆、西郷隆盛、福沢諭吉たちの助命運動により釈放され、そのまま北海道開拓使四等出仕を命じられた。福井藩の藩校で教えていたW・E・グリフィスが新政府に雇われ、東京大学の前身である南校で理学や化学を教えはじめた。グリフィスはこのころ天皇とも親しくつきあっている。日本ではじめて全国の戸籍調査が実施された。横浜の外国人居留地で最初のガス灯に火が入れられた。
日本の総人口は三千三百十一万八百二十五人で、北海道だけだと約十一万人だった。それ以前は、寺人別帳が住民登録のかわりで、寺人別に入っていない者は無宿者として差別され続けた。しかしこの年の戸籍調査では、山奥や秘境などに隠れとおして寺人別帳に入っていなかった者が、入っていた者とほぼ同じくらいいたとされる。またそれでもまだ安心できずに山の中を逃げ回っていたのが、サンカとされる人たちだった。そして「サンカ」という言葉もこの前後から警察関係者によって調書などの中で使われはじめる。それは戸籍を持たずに山間や河川敷きをねぐらにしていた自由民、漂泊民、浮浪民にたいする警察の用語として使われはじめ、最初は「山の穴に住んでいる」と思われて「山窩」あるいは「山に住んでいる」として「山家」という字があてられていた。
山伏の経営する寺子屋に入るなど、幼少のころから出家遁世を願っていた大阪府(堺市)の河口定次郎が、この年小学校に入学した。土地永代売買の禁が二百二十九年目にして解かれた。土地が動産と同じように、商品交換体系の中に組み入れられたのだ。「北海道土地売貸規則・地所規則」が制定された。北海道開拓使の命令で、アイヌ二十七人(女子七名、男子二十名)が教育を受けるためとして東京へ強制的に連行された。一説では三十五人だったとする意見もある。子どもたちは東京芝の増上寺境内に作られた開拓使仮学校付属北海道土人教育所と東京府下渋谷村(現東京都渋谷区)に設置していた開拓使第三官園に強制的に入れられている。その結果、一年たらずで行方不明になったり病気で命を失ったりで、帰郷できた者はわずか五人しかいなかった。帝国政府がアイヌの聖なる儀式であったイヨマンテ(熊送り)を開拓使をつうじて禁止させた。
仙台県が宮城県と名前を変えた。北海道開拓次官だった黒田清隆が「北海土人の容貌も言語もまったく内国人とは異種の体をなしていて、風俗や習慣は醜いものであるから、これを内国人のように開化せしめることが開拓政策として必要である」という届書を、国制を統括する太政官の最高官庁である正院に提出した。黒田が北海道開拓顧問団の監督として、アメリカ合衆国第二代の農務省長官ホーレス・ケプロン将軍を招き、この二人の植民地主義者によって、北海道開拓のマスタープランが作られることになる。このとき将軍は北海道をアジア版ニュー・イングランドと見ていたことは間違いない。将軍はアメリカ先住民から「押収」した土地を自作農地としてヨーロッパ人の入植者たちに切り売りしたのと同じ方式をモデルにすることを提案するとともに、激しい軍事的抵抗にあったアメリカのような「リザペーション(特別限定居留地)」による隔離政策ではなく、アイヌには大規模な同化政策を推進するようにと主張した。
スパイとして本国に追放されたあと「エビス(蝦夷)はミカド勢力に占領されたアイヌだ」と主張したドイツ人のシーボルトの次男、ハインリッヒ・フィリップ・フォン・シーボルトが、オーストリア公使館の役人として来日し、公務の傍ら北海道の日高地方で考古学や人類学の研究をおこなって、父親が提唱した「アイヌ石器時代人説」をさらに追究した。
新橋と横浜の間の鉄道が開通して、古代の服装のままの天皇【2字ルビ・ミカド】、貴族たち、文武百官、琉球の王族、アイヌのチーフ、外国からの賓客らが列席した。これを見るとよくわかるが、日本帝国とは古代国家がそのまま西洋の服を着ただけのものにすぎない。
琉球が藩に組み込まれた。いわゆる「琉球処分」といわれるものだ。それまで独自に清国との関係を結んでいた琉球国にたいし、日本帝国の政府は清国との関係を絶つように勧告するとともに、琉球国王尚泰を一方的に琉球藩主に任命、東京に来て天皇に会うよう要請した。だが琉球の王は病気を理由にその命に従わず、あいかわらず独立国として清国との交流を続けたので、この年の三月に帝国政府は内務大臣松田道之に官吏五十人、警官百余名、陸軍の兵隊四百余名を派遣し、武力によって琉球国王尚泰を首里城から別の屋敷に強制移住させている。この時点で琉球王国は消滅し、沖縄県が生まれた。ヤマトによる沖縄の支配がこのときからはじまった。琉球国王尚泰は東京行きをかたくなに拒んでいたが、半ば強制的に日本帝国政府の迎えの汽船「東海丸」で連行され、侯爵の地位を与えられ、以後七十年間、東京住まいを余儀なくされた。
太陰暦のかわりに太陽暦(グレゴリオ暦)が採用された。違式かい【「言」偏に「佳」の右側】違【4字ルビ・いしきかいい】条例が東京をはじめ各府県で出された。軽犯罪を取り締まることをたてまえにしたもので、混浴、行水、裸体、裸足、刺青、ほうかむりなどを、諸外国への体面と国家創設のために罰則付で禁じたもの。コジキ禁止令も東京府から出された。十二代目弾左衛門の周司が世を去った。
神話に基づいて神武天皇即位の年を紀元とし、即位日−−一月二十九日−−を祝日にすることが決定された。この年の十二月三日、いきなりこの日が「皇紀二千五百三十二年(明治六年)一月一日」になった。石川県で衛生上の理由から「諸勧進や物貰い」などの禁止令が出され、コジキ狩りがおこなわれた。性の抑圧と一夫一婦制に基づく家庭を創設するために「よばい」などのような、それ以前の町村共同体的な風習が、このころことごとく否定されていった。
北米大陸南西岸ちかくのカリフォルニアの沙漠を震源として、先住民の国である西ショショーニ国全域を揺るがすほどの大きな地震が起きた。
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Comments
最近は無知からではなく特定の政治的意図を持って国内のマイノリティを抹消しようという人々が元気ですから、こういった活動は応援したいですね。
Posted by: waka moana | Monday, August 08, 2005 06:13 PM