ネイティブ・ジャパニーズを探して
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。北山耕平 拝
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Comments
さる方よりお教えいただき楽しく読ませていただきました。北山さんの文章は、なにしろ爽快です。個人的になんだかモヤモヤとしていた部分にバッサリ切り込んでくる感じが何とも痛快です。音楽に例えるならロックでしょうか。
Posted by: 鈴木 穣 | Saturday, July 23, 2005 05:51 AM
近代化後の学問は「線を引く」ことが何かを解ったことだと思っているようですよね。「△△時代」と線を引くことが重大なことになっている。そして肝心なのが、その線を引く基準は(動機でもある)自分たちノン・ネイティブの世界が「正しいもの(確固たるもの)」であると言うためのものなのですね。その意味でこれらの「歴史」は現代の価値観・世界観を始点とし、過去に向かって「線」の領土を広げていくことが目的となっている。そして未来へ向かってもこの領土を続けさせようと躍起になっている。
だから、今の自分の位置を確認したり考え直して、自分以外の世界とのバランスを見直す、という学びとは対極の役割を果たしている。
・・・逆に言えば、そういった自己肯定という防衛を常にしていないと、「ノン・ネイティブ」という本来存在していない架空のパラダイムは維持できないのでしょう。
縄文とはまさしく土器の名称なわけで、彼らが言おうとする縄文時代とは一万二千年前どころかさらに前の「石器」時代、そのさらに前の、彼らの言葉・現代日本語では名前のついていない時から脈々と絶えることなく続いている。もちろん今も。名前を貼り付けることで「縄文時代」というモノに終わりを告げさせ、過去のものとしたがっているようにおれには思える。亀の大陸で「インディアン」を過去のものとして現代はみなアメリカ人になったのだ、としたがっているように。
現代語にとらわれず、われわれの持っていた本来のことばを想い出そう。そのことばでかたれば、ときは線で区切ったりするものじゃあない。ひとつのつちのうえ、ひとつのひのした、わに、めぐっているんだ。
Posted by: 山竒 | Monday, July 25, 2005 11:19 AM