法律も、警察も、牢屋もなくて、どうして安全が保てたのだろうか?
物語の持つエンターテインメントとしての価値が大切なものであることは言うを待たない。ネイティブの人たちの世界において、みんなが楽しめる話が多く寒さの厳しい冬の夜に語られるのは、そのことでみんなの心を元気づけて強くし、スピリットに息吹を与えるためである。そしてもうひとつお話しが楽しめるものでなくてはならない理由は、そのお話しを聞く人間がとにかく話を聞くことにすべてを集中させておかなくてはならないからである。全神経を集中させてお話しの世界に没入してもらうことが出来れば、お話しが伝えようとしているレッスンそれ自体も聞く人のハートの深いところにまで到達するからだ。
ネイティブの人たちの国では、それがどこであれ、記憶が定かでないぐらい遠い遠い昔から、レッスン・ストーリーやティーチング・ストーリーによって、みんなが力を合わせることや、いかに生き抜くかということを教えてきた。ネイティブの文化に共通していることは、個人が一人でも生きていけるぐらいに独立していることと、共同体の全員にとって良いことをすすんでおこなうことの二つを、ことのほか大切にしてきたことであるだろう。その二つは他のなによりも重要だと一族の人たちに認識されていた。一人で生きていけるだけの力と知恵があり、いつでもみんなのことを考えて自発的に行動さへしていれば、基本的にはなにをやっても良いと考えられてきたのである。現代においても、ネイティブの人たちは、相手がインディアンであれインディアンでなかろうと、誰に向かっても直接面と向かってあれをすべきだとか、なぜこれをしないのかなどと問いつめることはほとんどない。人間のあり方に干渉しないというのは、彼らの基本的な生き方なのである。ひとびとは、さまざまなお話しによってあらかじめどのように振る舞うべきかを学ばされているのが普通であり、状況に応じて適切な行動を取ることをはじめから求められている。法律も、警察も、牢屋もないのにかかわらずほとんど犯罪らしい犯罪がなく社会が機能してきたのはそのためである。
法律によって処罰されることの恐怖によってなにかをしたりしなかったりしているのとはわけがちがうのだな。ネイティブの世界で基本的に良くないこととされていた行為は、大人が子供たちを叩くことだった。だからインディアンの人たちはスパルタ教育と称して子供たちを殴りつけて教育するヨーロッパ人のことを理不尽で邪悪なこころの持ち主と見た。子供をぶつことは最終的にこころをねじ曲げてしまうなど悪い結果を生むだけなのである。それは子供のスピリットを打ち壊すか、もしくは深い敵意を植えつけてしまう結果にならざるを得ない。彼らは子供をぶつことは臆病者のすることだと考えた。臆病な振る舞いを人前で見せてはならないと。子供をぶつ人間は、子供たちが親よりも大きく強くなった時に逆に子供によって打たれるかもしれないのである。
子供たちが悪いことをしたとき、肉体的な罰を加えるかわりに、まずは子供たちにお話しを聞かせるのが普通である。物語の力によって子供たちの心の向かう方向をもっとポジティブな方へと変えてやるのである。そうした子供たち自分の過ちを気がつかせて、みんなのために導くための教訓を教えるレッスンのためのお話しが各部族にはいくつも残されているはずである。
ストーリーとストーリーテリングについては、これからも話をする機会もあるので今回はこのぐらいにしておこうと思う。
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