だからふたつの文化のなかで生きる道を学ぶ必要があるのだ
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。北山耕平 拝
「To All My Relations」カテゴリの記事
- わたしにつながるすべてのみなさまへ(2010.04.03)
- 一月の二回目の満月が訪れるまでの間のtweets収録(2010.02.08)
- 冬至、クリスマス、新年を間にはさんで月が満ちて欠けて消えるまでのtweetsを公開(2010.01.14)
- 『地球のレッスン』が本日発売されました(2009.12.18)
- ほぼこの1ヵ月の間にぼくがTwitterで公開してきたものなど(2009.12.14)
The comments to this entry are closed.
Comments
二つの世界。
確かにこの二つは、離反し、引き剥がされるような感覚をともなう中で感じ取れる「二つの」世界だ。
だが本当は、大地のうえに息づく果てのない「ネイティブの世界」と、その上に造られた絨毯のような人工の「ノン・ネイティブの世界」。
大地がなければ絨毯は敷けない。だがノン・ネイティブの精神は絨毯の上しか知らない(知らされない)無菌室のように隔離されている。大地のうえに立つものにはそれらの絨毯がどのように造られ、絨毯の世界で何が起こっているのか確かに視えていても、絨毯の上からはその外の世界は見えない。
絨毯の上で「科学」は進歩し「学問」は発達する。だが思い出すべきだ。ひとはそもそも脳という檻に閉じ込められた存在じゃない。からだの細胞のひとつひとつが大地の存在を「知っている」。
大地のうえに素足で立ちながら絨毯の上の世界を知ることは可能だ。怖がらずに絨毯から下りることだ。
日本という絨毯から下りて日本人であることを止めよう。そうしたからとて日本を捨てるわけではない。より広い世界に立つんだ。たとえ絨毯の上で生まれた命だとしても、いのちは直接大地に繫がっている。覚えているんだ。
ひとつの地球に根ざしているあらゆる獣たちや木、草たちともう一度言葉を交わせるようになるんだ。
Posted by: 山竒 | Monday, July 18, 2005 01:16 PM
山竒さん 絨毯をくるくると巻き上げるとその下から手つかずの自然があらわれるというゴーストダンスの考え方が少しずつ世界各地に戻ってきているような気がしています。ゴーストダンスが二度と誤解されないようにしなくてはなりません。自然の蘇りを希求するもののひとりとして。
参照 http://native.way-nifty.com/native_heart/2004/03/post_5.html
山竒さんのコメントですが、同じものがいくつもはいっていましたので、その中のひとつを選ばせてもらいました。ありがとう。ひさしぶりの熱いメッセージでした。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Wednesday, July 20, 2005 10:38 AM
パソコン初心者なもので、同じ文をなんども送信してしまったようです。お手数おかけしました。謝m(_ _)m
Posted by: 山竒 | Thursday, July 21, 2005 08:35 PM