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Saturday, July 30, 2005

約2千年前の木製弓が完ぺきな姿で復元された

2千年の時超え弓復元 1日から資料館で公開 石狩・紅葉山遺跡

北海道新聞ニュース(本物とレプリカの写真あり) 2005/07/29 06:55

bow【石狩】1982年に石狩管内石狩町(現石狩市)の紅葉山33号遺跡から発掘された続縄文時代(約2千年前)の木製弓が完ぺきな姿で復元され、8月1日から市の砂丘の風資料館で公開される。国の重要文化財級の発掘とされ、考古学ファンの間で広く知られる「幻の名品」。劣化の恐れからこれまで樹脂で封印し、保管してきたが、京都の業者が開発した新たな保存方法で公開が可能になった。

この弓は、石狩町教委(当時)が同遺跡内の墳墓の一つを調査中、地表から約六十センチの所で発掘した。全長約一・一メートル、直径約三センチの丸木弓で、三カ所で分断されていたものの、ほぼ原形に近い形で出土した。全体に二層の朱色の漆が塗られ、黒の渦巻き模様が描かれている。祭祀(さいし)用の飾り弓とみられる。

(中略)

 北大大学院の小杉康助教授(考古学)は「木製の弓の出土は近年増えているが、続縄文文化のもので全体に漆が施され、模様が完ぺきに残っているものは例がない」と語る。当時の漆工芸技術の高さを証明する上で貴重な存在で、弓を副葬されていた人物の社会的地位もうかがえるという。弓の模様は、アイヌ民族のアイウシ(神の矢の意味)という渦巻き模様との類似性から、アイヌ文化と関連があるとする見方もある。専門家らは「今回の公開で研究に弾みがつく」と期待している。

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原爆投下から60年目の今年、青森県では核の再処理が進められようとしている

六ヶ所村に核燃料サイクル施設(再処理工場+高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター+ ウラン濃縮工場+低レベル放射性廃棄物埋設センター)が出来る以前は足繁く東北に通っていた。わたしは陸奥の自然がことのほか好きである。再処理工場の建設がきまった1984年の時、これは「奈良平安の御世から続けられてきた蝦夷征伐のとどめである(都人にとっては総仕上げだ)」と思った。この考えは今も変わっていない。なぜ毎年核弾頭およそ1000個分のプルトニウムを取り出せる核の再処理工場を、本州の北のはずれに持って行かなくてはならなかったのだろうか? 青森という土地は日本国にとっていかなる意味があったのだろうか? これらの疑問とともに私は生きている。たまたま今、アメリカのユタ州でゴシュート・ショショーニ族の聖地であるスカル・バレーというところに高レベル放射性廃棄物捨て場(処理場)が作られようとしていて、これに反対する抗議の声が上がっているのだが、そのなかに「ネイティブ・ピープルは、南西部フォーコーナーズ地域のウラニウムの採掘から極北の水力発電まで、アメリカの過去のエネルギー政策による攻撃の矛先を一身に引き受けてきた。今こそエネルギー政策にも正義をもたらす時である。時代は新しいエネルギー政策を必要としている」という Honor the Earth というグループのプログラム・ディレクターであるウィノア・ラデューク(Winona LaDuke)さんの意見があって、日本国のエネルギー政策に正義はあるのかと考え込んでいたところだった。さて先日グリーンピースからのメールで『「平和の羽根」』計画というものがあることを知ったので、今回はその記事の一部を転載しておく。

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広島と長崎が被爆60年目を迎える今年、青森県六ヶ所村にある再処理工場で、原 子爆弾にも使われたプルトニウムをとりだす計画が進められています。プルトニ ウムは長崎型の原子爆弾に使われた、巨大な破壊力を持つ物質です。この工場は 核兵器を持たない国(非核兵器国)で初めて、一年で核兵器を1,000発分にも相 当するプルトニウムを取り出す予定です。

原爆投下から60周年の今年、グリーンピースは核のない平和な世界を求めるメッセージを鳩バルーンに付けて、広島の空へ大きくはばたかせます。世界の人びととノーモア・ヒロシマ・ナガサキの祈りを共にするためです。

そして、「平和の羽根」プロジェクトで集められたメッセージを小泉首相と三村青森知事に届け、世界が核のない平和を望んでいることを訴えます。

あなたの平和へのメッセージをぜひ送ってください。

送られたメッセージは、羽根の描かれた用紙に印刷され、12羽の鳩型の風船の翼に貼られて、広島の空に揚げられるのだという。

arrow2 「平和の羽根」を広島の空へ飛ばそう!

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Thursday, July 28, 2005

沈黙の力

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Wednesday, July 27, 2005

グレイトスピリットにはすべてがお見通しであるということ

「グレイトスピリットには見えないものはなにひとつなく、聞こえないものはなにひとつないことを、われわれは信じるように教わって育つ。そうやって見たり聞いたりしたことを、彼は絶対にお忘れにはならず、その功罪に応じてひとりひとりの人間にスピリットの家を与えてくださるのだ。心良き人間には良き家庭が与えられ、悪しきものには悪い家庭が与えられる」
チーフ・ジョセフ(1840-1904)
ネスパースの有名なチーフ

人の目はだませても、自分を創ってくださった偉大な存在の目は誰にもだませるものではない。自分がなにを考え、なにをしようとしているか、そうしたことはすべてお見通しなのである。ネイティブ・アメリカンが「グレイトスピリット(偉大なる精霊)」と言うとき、それは自分をも含めたこの世界のあらゆるいのちを創りだされた存在を意味している。創造主であり、造物主だ。かつてネイティブだった記憶をかすかに持つわれわれ「日本人をやっているもの」の頭のなかからすっぽりと消されてしまっている概念のひとつが、この「グレイトスピリット」であるだろう。人間を「神」にするかわりに失ったものはとてつもなく大きいようだ。グレイトスピリットは創造主として火、水、土、風の四つの要素からすべてのいのちを作り出された。すべて自然のなかにあるものがそれぞれつながっていていのちの網になっているというのはその事実を伝えている。その存在はなにもキリスト教の専売ではない。創造主は、当然ながら「応報のシステム」もおつくりになられた。応報のシステムとは、なにかをすればなにかが返ってくるというもののこと。春に植物の種をまいて、夏にそれなりのケアをすれば、秋には収穫があるというのもそのひとつ。良いことをすれば良いことがかえってくるし、悪いことをすればそれなりの報いがもたらされる。「因果応報」という言葉は知らない人はいないだろう。これはあたりまえのこととして「その人間が考えること」にもあてはまってしまう。われわれが誰かのことを考えたとき、われわれのほうも又同じように誰かに考えられているのである。われわれが送り出すエネルギーは、物質であれ精神であれ、そのまま自分たちのところにかえってくる。この「応報のシステム」そのものを改変することは、われわれ人間には出来ない相談である。これからどうするかよりも、その人間がこれまでなにをしたのかが、ほんとうに大切なことなのだ。

ネスパースは現在のアイダホ州から北ワシントン州にかけてをテリトリーとしている平和を愛する一族。チーフ・ジョセフは、一族の人間には「水面から立ちのぼって山の高見から空にしろしめす雷」という名前で知られた偉大なチーフだった。同じようにチーフだった父親が合衆国政府と結んだとされる一方的な条約にもとづいてリザベーションに送られることになり、一族のものの先頭に立って最後の戦いを闘ったが、力尽きて投降。捕虜となった一族は居留地に送られた。チーフはなんとか故地にかえるべく交渉を続けたが、結局居留地で絶望のうちになくなった。「戦うことにつかれた。わたしは二度と永遠に武器は取らない」という言葉が記録されている。

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Tuesday, July 26, 2005

BANYAN(台風7号) 2005-07-26 3:00 (UTC)

banyan

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聖なる輪が機能不全に陥っているときには

「人は目を覚まさなくてはならない。およそ眠ったままでは神の声など聞くことは出来ぬのだから」
バーノン・クーパー
ランビー・インディアンの長老

ランビー・インディアンは北米大陸南東大西洋沿岸(現在のノースカロライナ地方)に数世紀にわたって暮らしてきた川の人たち。ミシシッピ川の東では最大の部族。ランビー川の流域をテリトリーとする。もともとこの地方にいたラコタ(スー)の人たちと同じ系統の言葉を話す。

バーノン・クーパーはランビー・インディアン屈指の知者とされる。薬草使いのメディスンマンだった。彼は忘れ難い数多くの言葉を残している。良く引用されるのは「現代人は知識ばかりを追いかけている。知識は過去のものであって、知恵は未来のものであるのに」というものがある。今回のものも、きわめて印象的な言葉ではある。ラコタの聖者であったブラック・エルクがしばしば「聖なる輪」について話している。人びとをひとつにつないでいる聖なる輪があると。その人びとをつないでいる輪が病気になると、つまり「聖なる輪が聖なる輪として機能不全に陥る」と、ひとびとは互いに依存し合い、なれ合い、アルコールへの依存度を高め、家庭内暴力がはびこり、いじめが日常化し、人種や性による差別も恒常的になる。その結果ひとびとはその状態に麻痺して、それがあたりまえのように思いこむようになるのである。

この状態のことを、バーノン・クーパーは「眠っている」と表現したのだ。地球に生きる人間としてのスピリチュアルな生き方から遠ざかったままでは、人は寝ているのとなんら変わらない。いつまでも自分の力を別のものに明け渡しているのなら、ひとびとは眠りこけたままでいるだろう。地球に生きるネイティブ・ピープルの部族のなかには、たいていの場合コヨーテの役割をする氏族がいる。コヨーテでなければ、ワタリガラスでもよいし、タヌキやキツネでもかまわない。言うならばこの人たちはトリックスター・ピープルなのだな。そして人びとが眠っている時こそトリックスター・ピープルの出番である。この人たちの役割は、人びとの目を覚まさせること。迷惑だと多少はうるさがられることもあるかもしれないが、この際、人びとの神経を逆撫でして少しぐらいいらだたせる必要もあるのかもしれない。なんとしても今一度スピリチュアルな道に、われわれはもどらなくてはならないのだから。

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Monday, July 25, 2005

自分のことを「メディスンマン」という「メディスンマン」はいない

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Thursday, July 21, 2005

ネイティブ・ジャパニーズを探して

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Wednesday, July 20, 2005

コットンウッドの林のなかの居心地の良い野営地

今回「Peace」な写真(本ブログのサイドバー上段)として選んだのはエドワード・カーティス(Curtis, Edward S., 1868-1952.)が20世紀がはじまってすぐの1910年頃にモンタナ州で撮影したあるシャイアンの家族の野営地の写真。「ジャンピング・マウス」のおはなしを語り継いだ人たちでもあるシャイアン一族は平原の民、プレーンズ・ピープルである。北米大陸の大平原は、現在のカナダのアルバータ集からテキサスまでのとてつもなく広大な範囲に広がっている草の海だが、ただひたすらに草原が広がっているのではなく、川が流れているところの周辺にはコットンウッドのやぶがあったりする。この写真が撮影されたのはモンタナ州を流れているタン川(tongue river)に沿って広がるコットンウッドの林のなかに設営されたティピ(移動式簡易住居)の建つ野営地(キャンプ)。コットンウッドの樹は、北米大陸産のポプラの一種で、樹高が30メートルくらいにもなるものがある高木で、平原インディアンにとってはきわめて神聖な樹とされていて、シャイアン一族が夏至の日におこなう年に一度の大例祭サンダンスの際のご神木として御柱にもなる。ヒロハハコヤナギ(Populus deltoides)という日本語名がついている。木漏れ日のなかの居心地の良さそうな野営地であります。(写真をクリックすると大きな写真が見れます。そこからさらに写真の下にある「Higher resolution JPEG version」という部分をクリックすると、より鮮明で大きな画像が得られます。環境によっては読み込むのに時間がかかるかもしれないけれど、一見の価値はあると思います)

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Sunday, July 17, 2005

だからふたつの文化のなかで生きる道を学ぶ必要があるのだ

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Saturday, July 16, 2005

なぜふたつの文化のなかで生きる道を学ぶ必要があるのか

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Friday, July 15, 2005

ネイティブ・ジャバニーズのカヌー(全長8メートル)復元へ

京都新聞[Kyoto Shimbun News 2005年7月14日(木)]に縄文時代の丸木船(日本列島先住民の航海カヌーといってくれないかしらね)の復元事業がはじまるというニュースがでている。以下はその一部。

1998年2月に舞鶴湾口の浦入遺跡から出土した同丸木舟は、大きさや出土場所から外海航行に使われた約5300年前の舟とみられる。保存処理の後、市内各地などで巡回展示されてきた。▼しかし出土部分は全長8メートルと推定される舟の約半分(長さ4・6メートル、幅1・1メートル)だけ。舟全体の大きさや、列島各地との交易のため外洋にこぎ出したという姿を具体的にイメージしにくく、出土部分や同時期の他の事例をもとに新たに全体を復元することにした。▼復元再生にかかわる市民スタッフ30人(先着順)を募集し、考古学の専門家らも含む「再生プロジェクト実行委」を8月3日に立ち上げる。当時使われた石斧(せきふ)なども自前で作り、直径約1・1メートル、長さ9メートルの丸太を使って舟づくりを始める予定で、2007年3月の完成を目指す。事業費は約100万円。▼市民スタッフの申し込み、問い合わせは同市教委社会教育課 Tel:0773(66)1073へ。

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Thursday, July 14, 2005

あなたも「地球に生きる人」になれる

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Sunday, July 10, 2005

虹の戦士は沈まない

20th anniversary of the bombing of the Rainbow Warrior

今日は「虹の戦士号」という名前のグリーンピースの船がフランス政府によって爆破させられた日から20年目にあたります。グリーンピースのサイトでは虹の戦士号の特集が掲載され、いくつもの美しい船の写真がギャラリーに掲載されています。

arrow2 グリーンピース・ジャパン
arrow2 Greenpeace International

「今から20年前の1985年7月10日、フランスの核実験を中止させるため、南太平洋のモルロア環礁へと向かっていたグリーンピースの船、虹の戦士号は、これを阻止しようとするフランスの工作員によって爆破、沈没され、乗組員の一人が命を奪われました。しかし、この航海によって世界中へと広まった実験に反対する人々の声は、翌年のフランスの核実験停止へとつながりました。」(グリーンピース・ジャパンより)

【追記】Greenpeace International のアドレスを掲載したのは、こちらにだけ笑える一枚の写真が掲載されているから。グリーンピース・インターナショナルのスタッフが大挙してアムステルダムからバスでわざわざはるばるとフランスのパリまで遠征したときの記念写真(これを撮影するためにバスを貸しきりでチャーターした?)で、遠くに証拠のエッフェル塔が写っている。記念写真よろしく整列したスタッフ一同が一枚の大きな旗を広げていて、そこには「おまえには虹を沈めることなんてできない」と大書きされているの。虹の戦士号を沈めようとしたフランス政府にたいする一種の抗議広告みたいなものだけど。わらえます。いい写真です。

wrs「地球が病んで動物たちが姿を消しはじめるとき、まさにそのときみんなを救うために虹の戦士たちがあらわれる…」アメリカ・インディアンが信じつづけてきた最後の再生への物語「虹の戦士」の原典。太田出版刊のロングセラー。

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Saturday, July 09, 2005

なに、インディアン・タイムだって?

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Thursday, July 07, 2005

糸魚川周辺を基点に縄文の交易網7千年前から

現在の石川県と新潟県糸魚川周辺の海岸地域を結ぶ交易網が、縄文時代早期の約7000年前にすでに存在したことが、金大・金沢学院大の藤則雄名誉教授(地球科学)の研究で分かったという記事が北國新聞社のきょうのニュース(2005年7月7日更新)にでていた。

石川県内の同時代の遺跡から出土した石器に、糸魚川産の石灰岩を含む石材が使われていることを藤教授が突きとめたのだという。すでに存在が確認されている縄文前期末—中期の糸魚川産ヒスイの全国的流通(交易)ネットワークよりも前、北陸地方ですでに石を通じた交易が行われていたことを示しているらしい。

七尾市の三引遺跡、能登町の真脇遺跡、金沢市の上安原遺跡、野々市町の御 経塚遺跡など県内の縄文早期から晩期にかけての遺跡から出土した石器約6400点の材質を調べたところ、このうち、三引遺跡など縄文早期から前期初めにかけての遺跡から出土した装身具が、糸魚川産の石灰岩系の石を加工したものと特定された。そのほかの石器にも蛇紋岩(じゃもんがん)や輝緑凝灰(きりょくぎょうかい)岩、粘板(ねんばん)岩、古生代砂(こせいだいさ)岩など、糸魚川や周辺山地の石が使われていたという。

ヒスイが運ばれた交易網は加工技術が発達した縄文前期末以降、産地の糸魚川を中心に礼文島から九州まで全国に拡大したことが知られているが、今回の研究では、縄文人がヒスイの加工技術を獲得する以前にも、比較的加工が容易な石材の交易を行っていたことをうかがわせる。金沢学院大の小嶋芳孝教授(考古学)も「ヒスイの全国的な広がりは、それ 以前にあった原石の交易ルートにのって各地に広がったものと思われる」と指摘する。

藤教授は石材の運搬技術について、「南米ペルー・チチカカ湖で用いられるような枝や草などの船を造り、沿岸を含む海路で運んだ可能性もある」との仮説を示し、これまで県内の遺跡からこうした船の出土例はないとした上で、「今後、こうした観点で発掘を進めると共に、実証のための実験を行いたい」と述べたという。

以上が記事の一部始終だが、そういえば20年ほど前、静岡側からフォツサマグナ(日本列島の裂け目)を辿って糸魚川まで行き、姫川の上流にある巨大な翡翠の原石の上に寝転がってきた記憶がある。太古から神石信仰の拠点であった糸魚川周辺だが、日本列島の開拓初期(日本国成立以前)に、糸魚川姫川のヒスイの多くが出雲を経由して半島大陸に送られたと小生は考えている。

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Wednesday, July 06, 2005

アンティロープたちとガラガラヘビたちのダンス

今回、右サイドバーの「Peace」な写真として選んだのはカメラマンのエドワード・カーティス(Curtis, Edward S., 1868-1952.)が1920年ごろに撮影したホピ・インディアンのオライビ村の広場でおこなわれたアンティロープたちとガラガラヘビたちのダンスの1シーン。小さくてよくわからないという人は、写真をクリックすると大きな画像で見ることができる。ホピの男性は成人するとみな秘密結社にはいる。そうした結社のなかにアンティロープもスネークもある。写真の右の列、腰から尻尾を下げているのがアンティロープ結社の人たち、左側で左側で全身を赤茶に塗り手で蛇を持っているのがガラガラヘビ結社の人たち。まさにスネークダンスが始まろうとしている時だ。右端にコットンウッドの樹が見えているだろう。このコットンウッドの茂みのなかには蛇の守り人が座っていて、蛇のはいっている壺を管理し、一匹一匹ガラガラヘビを取りだしてダンサーたちに手渡す。後ろのアドベ・ハウスの屋根には村人が集まってダンスを観ている。昔ながらの日干し煉瓦造りのホピの家はどの家も屋根に上がれるようになっている。メサと呼ばれる卓上台地のうえの光景で、拡大写真では左端遠くに二本の棒が地面からつきだしているのがかろうじてわかる。これがキバと呼ばれる地下の神聖空間にはいるはしごである。一切の写真撮影やスケッチが禁止されている今となっては貴重な一枚である。

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白いカモシカはなにを伝えに来たのか?

埼玉県の奥秩父にあって神さまの岩山として信仰を集め伝説も多い標高1,723メートルの両神山(りょうがみやま)のふもとで、全身白いカモシカの毛皮をまとったスピリットが撮影されたというニュースが asahi.com(2005年07月05日14時33分)で流れてきた。記事によると「地元の清滝小屋の管理人神田武治さん(67)が4月、林道近くで、寄り添う2頭のカモシカに出あった。うち1頭は胸や腹の一部が泥で汚れていたが、全身真っ白だったので、ビデオカメラで撮影した」とある。ビデオ画像から写真にしたものが掲載されている。女性なのか、男性なのか、知りたいところではあります。もののけ姫かな。

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Tuesday, July 05, 2005

彼女の名前が「メディスン・ハート」にきまったようです

medicineheartNative Heart (Wednesday, June 22, 2005) でお知らせした白いバッファローの女の子の赤ちゃんに「メディスン・ハート」という名前が与えられました。ケンタッキー州のバグダッドという町からAP電が、最新の白いバッファローとセレモニーに集まった人たちがガマの穂のようなもので太鼓を打ち鳴らしているシーンを写真入りで伝えています。

ネイティブ・アメリカンのあるグループが、ケンタッキー州のシェルビー郡で、白いバッファローが誕生したことを祝して、セレモニーを執りおこなった。白いバッファローはきわめて珍しく聖なる象徴と考えられている。「メディスン・ハート(ふしぎな力を持つこころ)」と名づけられた赤ん坊の白いバッファローは、6月3日にシェルビー郡のシェルヴィヴィル(SHELBYVILLE, Ky.)にある観光牧場(Buffalo Crossing Restaurant & Family Fun Ranch )で誕生した。本日、1時間半ほどをかけて儀式をおこなったのは、インディアナ州から駆けつけたショウニーに属しラコタの血も受け継ぐスティーブ・マックロウ(Steve McCullough)なる人物で、くだんのバッファローのラコタ名は「カンテ・ペジュタ(Cante Pejuta)」となる。カンテが「ハート・こころ」で、ペジュタが「メディスン」のことだ。だから正確には「こころのメディスン」という意味になるのかな。

ともあれメディスン・ハート姫の長命を祈りたい。

arrow2 牧場が提供しているメディスン・ハートの写真は必見

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法律も、警察も、牢屋もなくて、どうして安全が保てたのだろうか?

rosetta物語の持つエンターテインメントとしての価値が大切なものであることは言うを待たない。ネイティブの人たちの世界において、みんなが楽しめる話が多く寒さの厳しい冬の夜に語られるのは、そのことでみんなの心を元気づけて強くし、スピリットに息吹を与えるためである。そしてもうひとつお話しが楽しめるものでなくてはならない理由は、そのお話しを聞く人間がとにかく話を聞くことにすべてを集中させておかなくてはならないからである。全神経を集中させてお話しの世界に没入してもらうことが出来れば、お話しが伝えようとしているレッスンそれ自体も聞く人のハートの深いところにまで到達するからだ。

ネイティブの人たちの国では、それがどこであれ、記憶が定かでないぐらい遠い遠い昔から、レッスン・ストーリーやティーチング・ストーリーによって、みんなが力を合わせることや、いかに生き抜くかということを教えてきた。ネイティブの文化に共通していることは、個人が一人でも生きていけるぐらいに独立していることと、共同体の全員にとって良いことをすすんでおこなうことの二つを、ことのほか大切にしてきたことであるだろう。その二つは他のなによりも重要だと一族の人たちに認識されていた。一人で生きていけるだけの力と知恵があり、いつでもみんなのことを考えて自発的に行動さへしていれば、基本的にはなにをやっても良いと考えられてきたのである。現代においても、ネイティブの人たちは、相手がインディアンであれインディアンでなかろうと、誰に向かっても直接面と向かってあれをすべきだとか、なぜこれをしないのかなどと問いつめることはほとんどない。人間のあり方に干渉しないというのは、彼らの基本的な生き方なのである。ひとびとは、さまざまなお話しによってあらかじめどのように振る舞うべきかを学ばされているのが普通であり、状況に応じて適切な行動を取ることをはじめから求められている。法律も、警察も、牢屋もないのにかかわらずほとんど犯罪らしい犯罪がなく社会が機能してきたのはそのためである。

法律によって処罰されることの恐怖によってなにかをしたりしなかったりしているのとはわけがちがうのだな。ネイティブの世界で基本的に良くないこととされていた行為は、大人が子供たちを叩くことだった。だからインディアンの人たちはスパルタ教育と称して子供たちを殴りつけて教育するヨーロッパ人のことを理不尽で邪悪なこころの持ち主と見た。子供をぶつことは最終的にこころをねじ曲げてしまうなど悪い結果を生むだけなのである。それは子供のスピリットを打ち壊すか、もしくは深い敵意を植えつけてしまう結果にならざるを得ない。彼らは子供をぶつことは臆病者のすることだと考えた。臆病な振る舞いを人前で見せてはならないと。子供をぶつ人間は、子供たちが親よりも大きく強くなった時に逆に子供によって打たれるかもしれないのである。

子供たちが悪いことをしたとき、肉体的な罰を加えるかわりに、まずは子供たちにお話しを聞かせるのが普通である。物語の力によって子供たちの心の向かう方向をもっとポジティブな方へと変えてやるのである。そうした子供たち自分の過ちを気がつかせて、みんなのために導くための教訓を教えるレッスンのためのお話しが各部族にはいくつも残されているはずである。

ストーリーとストーリーテリングについては、これからも話をする機会もあるので今回はこのぐらいにしておこうと思う。

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Sunday, July 03, 2005

レオナルド・ペルティエがインディアナ州刑務所の独房に移送された

6月30日木曜日のこと、家族や弁護士になんの通達もないまま、ネイティブ・アメリカンの政治犯であるレオナルド・ペルティエはインディアナ州テレ・ハウトの刑務所の独房に移送された。独房にいれられる期間は無期限だとか。ペルティエはすでに29年間獄につながれていて、よわい60歳を数え、健康状態もあまりよろしくない。弁護委員会と家族や友人たちは彼の体調、健康状態、身の安全や、彼がこれまでレブンウォース刑務所や他の監獄における品行方正によって得た彼の権利(信仰、絵を描く、面会、電話をするなど)が脅かされるのではないかと、ことのほか危惧している。詳細は以下のサイトへ(英文)。

Leonard Peltier Moved to Indiana, and Put In "The Hole"

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Saturday, July 02, 2005

カチーナたちが最後の踊りを踊るとき

ctgthr80体ものホピ族のカチーナたちが日本列島を巡業している。彼らの弓の島における旅は昨年の6月にはじまり、1年以上をかけて高松市美術館、伊丹市立美術館、岩手県立美術館、いわき市立美術館とまわってきた。おそらく各地でその場に居合わせたものにしか理解されないかもしれないが、いくつもの不思議なことを引き起こしてきたことだろう。これまで何回かわたしはカチーナたちに会いに行く幸運を得たし、その都度このページでも記事にしてきた。

 80体のカチーナ人形たちに会いに行きたいThursday, July 08, 2004

 カチーナたちに会いに行きますTuesday, November 16, 2004

 オン・ザ・ロード 講演旅行記Thursday, June 16, 2005

カチーナたちは日本列島を巡業して、いよいよ最後の踊りを踊る土地となる神奈川県葉山町にその姿をあらわす。ネイティブ・アメリカンの文化に関心がある人だけでなく、ホピの精神文化に惹かれるものを感じている人だけでなく、自分は誰か(なにものなのか?)ということに関心のある人は、この機会を逃さずにぜひ夏の神奈川県葉山町を訪れて、カチーナたちと対面してくるべきだと思う。

アメリカ南西部に長く暮らしてきたホピの人たちとホピの信仰の形態を源泉とするプエブロやナバホの人たちは、きわめて特別なありがたい存在のことを彼等の伝統的信仰に基づいて「カチーナ」と呼ぶならわしがある。カチーナを英語であらわす綴り方はいくつもある。katsina、kachina、k`atscna、k`ats`na、thlatsina、koko、qxuwah、thliwanなど。

それはスピリットであり、仮面であり、人であり、祭式であり、生き方であり、その意味が表現される目に見える言葉のことである。フランク・ウォーターズというアメリカ南西部の自然と文物の研究者、ジャーナリスト、教育者は「微妙で、深く、しかも単純で、あらゆる村落に根を下ろした教義」と書きのこしている。

ホピは万物のなかに精霊の存在を認めた。すべての生きてあるものは二つの顔を持っているのだ。見えている顔と、見えていない顔。普段は見えないものの存在を認め、それを常に信仰の力で見ようとし続けてきた。カチーナは無言の尊敬で受け入れられた。ときとしてカチーナは神の言葉をつたえたり、病を癒したりすることもあった。カチーナたちは儀式のサイクルに則して彼らの生活のあらゆる局面において卓越した役割を演じてきた。ホピの人たちの暮らしは常にカチーナの儀式と共にあった。なかでも最も重要なカチーナが登場する儀式がニマン・カチーナと呼ばれる儀式である。

bn_h_antes02それは一年の半分をホピの村々で暮らすカチーナが彼らの家のある聖山であるサンフランシスコ連山に帰る里帰りする儀式で、夏至の10日後ごろにはじまり、儀式は10日間続くとされる。なんという偶然だろうか! 今がまさにそのときなのである。アメリカ南西部の極端に水の少ない沙漠の中にあるメサと呼ばれる卓状の切り立った台地のうえではホピの人たちが儀式をしているだろう。カチーナは9日目の夜明けに人びとの前に姿をあらわし踊りは終日、翌朝日が昇る時まで続く。

人間の想像力の限界を超えたような様々な仮面。冠には雲や稲妻やトウモロコシが描かれ、背中にはカチーナの人形を背負って、エゾマツの葉のひだを首に巻き付け、片手には木の枝を持ち、彼(彼女)たちは踊る。観客はのなかには鷲の羽根で彼らに水滴を振りかけたり、儀式用のパイプを吸って煙を吹きかけたり、トウモロコシの粉を撒きちらかしたり、ピキと呼ばれるトウモロコシの粉を焼いて作った薄い紙のようなパンなど様々な伝統的な食べものを差し出すものがいたり、子供たちは畑でとれた最初の小さなトウモロコシや小さなメロンをおずおずと差し出す。カチーナも子供たちに贈り物を与える。弓矢、自分の姿に似せたカチーナの人形・・・

そうなのだ。カチーナの人形は、カチーナが自分の姿に似せて作ったものとされているのだ。

カチーナの踊る伝統的な儀式は千年以上も変わることなく続いているが、20世紀になるとカチーナの人形は世界の様々な人たちの心をとらえるようになる。今では高価なコレクターズ・アイテムにもなっている。おそらくそれは誰もが自分のなかにカチーナの存在を感じているからに他ならない。ホルスト・アンテスというドイツ人のシュールレアリストの画家は、ホピのカチーナに魅入られた一人だ。彼が集めたカチーナ人形は800体にもなると言われている。しかもそれらのカチーナ人形は、1960年以前に作られたきわめてまれなもの、まずほとんど普通の暮らしをしている人にはお目にかかることもないようなものばかりだ。ホピの土地にもこれだけのものはそろってはいないという貴重な人類の遺産であり、原初の信仰の形態をうかがううえでも重要きわまりない一級の資料であり、しかもそのスピリットは見事に健在なのだ。

今回そのきわめて貴重な人形たちの中から80体が選ばれて日本列島の各地をまわってきた。各地でいろいろな不思議を引き起こしてきたことだろう。自分のなかにいるもう一人の自分と対面したければ、この機会にぜひ足を運ばれてカチーナ人形を見に行くことをおすすめする。日本列島で彼らが沈黙の踊りを踊り続けるのも後ひと月ほどしかない。彼らがどんなメッセージを運んできているのかは、彼らを前にしたときにあなたのハートのなかに声が聞こえてくるはずだ。

この夏の神奈川県立近代美術館葉山館における展示の詳細な告知は以下にあります。またポスターをクリックすると同美術館の案内ページに飛びます。

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ロシア民族学博物館アイヌ資料展の案内

ロシア民族学博物館アイヌ資料展 −ロシアが見た島国の人びと−
2005年7月2日(土)〜8月28日(日)

休館日:毎週月曜日(7月18日は開館)・7月19日(火)

川崎市市民ミュージアム
〒211-0052 川崎市中原区等々力1−2
TEL044−754−4500

(交通:東急東横線・JR南武線・東急目黒線「武蔵小杉駅」北口よりバスで約10分)
開館時間 午前9時30分〜午後5時(入館は4時30分まで)

観覧料 一般500円  高校・大学生300円
    小中学生と65歳以上は無料

主催  川崎市市民ミュージアム  財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構

後援  国土交通省 文化庁 北海道 北海道教育委員会 
    川崎市 川崎市教育委員会 社団法人北海道ウタリ協会

arrow2 川崎市市民ミュージアムのホームページ

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Friday, July 01, 2005

聖地についてのノート

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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