ネイティブ・ピープルにとってストーリーテリングは単なる娯楽ではない
「風をひらく 2nd. Circle」において「ジャンピング・マウス」の物語を、日本におけるストーリーテリングの第一人者である古屋和子さんが語ってくれることになっている。当日にインディアンフルートなどで場を共に作りあげてくれるのは、「虹の戦士」の語りで古屋さんとこの一年近くユニットを組んできたノナカカツミさんだ。今回はよい機会でもあるので、しばらくネイティブ。ピープルのストーリーテリングについて少しずつ書いておこうと思う。
「ジャンピング・マウス」のお話しは、さきごろの富士山への奉納でわかったところでは、時間にして1時間程度のものである。しかしネイティブの人たちにとって神話や伝説は「1時間のエンターテインメント」以上のものなのであることをあらかじめつたえておかなくてはならない。このような教えの物語(ティーチング・ストーリー)を、単なる娯楽と考えていてはならない。ストーリーのなかで描かれる登場人物の冒険やさまざまな試みや言動にはいつでも大切な教えがかくされているのが普通だからである。
つまりネイティブの子供たちが学ぶ最初の公式な「教育」が、こうした物語を聴くことなのである。主人公の冒険の話を何回も何回も聞きながら成長するなかで、子供たちは自分たちを取り囲んでいる具体的な環境についての実際的な情報を獲得していく。部族を部族たらしめている価値や哲学、儀式や信仰、自分と象徴的に繋がっている動物や植物などの無数のいのちのありがたさや大切さを子供たちは語られる物語を聴くことで学ぶ。ネイティブ・アメリカン・ストーリーテリングは、子供たちを「地球に生きる人」として一人前の部族の良き人間になるように力を貸し与えることを最終的な目的にしているのだ。子供たちは自分のとるどのような行為がいかなる結果を生むものなのかを物語によって学んでいく。
物語を生かし続けるために重要なことは「よく聞くこと」「よく見ること」「よく覚えること」「よく分けあうこと」の四つだとしばしばいわれる。なかでもストーリーテリングにおいて重要なのが「よく覚えること」であり、ネイティブの人たちの記憶力の確かさは,ともすれば外部記憶装置としての文字に頼ってしまう、わたしたちの想像を遙かに超えている。以前紹介したインディアンの笑い話「おそるべき記憶力」はそのことをジョークにしたものである。
何千年間ものあいだ、この神聖で伝統的な知識はエルダーたちとメディスン・ピープルよって生きたまま保たれてきた。長老たちが極めて高く尊敬されて認められたのも、彼らの知恵と才能が過去から現在、そして未来へとつないでいくことを可能にしていたからなのである。(エルダーたちの重要な役目のひとつに語られる物語のなかに表現されている一族や氏族の名前だとかテリトリーが寸分間違わないように常に念を入れてチェックし、その正確さを保証するというものがある)
日本列島に生まれたわれわれのように、もはや部族的な価値というものをまったく教えられることなく育つ運命にある「あらかじめルーツを消し去られたモンゴロイド」にとっては、おそらくこのような生き方や価値を伝承する「教えの物語」を耳にする機会はまずないといっていい。文字を読むことによって学ぶのとはまるで異なるトータルな体験は、伝統的な部族社会が子供たちになにを教えてきたのかを耳で学ぶ絶好の機会になることだろう。
もちろんそれは語られる以上、エンターテインメントの部分もないわけではないわけで。次回は物語のなかにある娯楽の部分の持っている価値について考えてみることにしよう。
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