なぜネイティブのエルダーたちはみな賢いのだろうか
「いずれにせよ偉大なる精霊グレイトスピリットによって、おまえさんやわしには、自然という宇宙のなかを、森のなかを、川を、山々を、動物たちを学ぶ機会が与えらられている。そしてその動物たちのなかにはわしら人間もふくまれている」タタンガ・マニ(ウォーキング・バッファロー)
1871-1967 ストーニィ・インディアンの長老
わたしたちがほんとうに学ばなくてはならないこと、それは「いかに与えられたいのちを全うするか」ということである。つまり「なにをして人生を送るか」ということだな。わたしたちがたとえば「均衡(バランス)」や「調和(ハーモニー)」や「自然の法」や「人生いかに生くべきか」を学びたいと考えたとき、本を読んだり、人に聞いたりするのもなるほどよいけれど、一応知識を詰め込んだ後で最後に学びにいかなくてはならないところは、つまり人生のことを教えてくれる大学のような場所は、文字通り自然のなかである。小学校や中学高校ではないことに注意されたし。カナダ、アルバータ地方の西洋社会のなかではジョージ・マクリーンという名前で知られていたストーニー・インディアンの名だたるチーフ、タタンガ・マニ(歩くバッファロー)爺さまも、96歳でこの世界での旅を終える前にそのことを語っていた。「生きている宇宙のなかにはいりこんでそれなりの時間を過ごすまではなにひとつ学んだことにはならないのだぞ」と。そういえば自然を一冊の本に例えた哲学者も存在した。自然という本を読むことで様々なことをわれわれは学べると。自然という本を読む行為と、自然のなかに学びにはいる行為は、同じ事をつたえようとしているのかもしれないが、微妙にその姿勢において違っているような感じも受けないわけではない。まず自然という大学に入っていけば、いのちがなんたるかについての試験や学ぶことがそれこそ山のようにたくさんあることはまちがいない。と同時に、たくさんの癒しも与えてくれることだろう。この自然が与えてくれる癒しは、自然をただ読んでいるだけでは絶対にもたらされないもののひとつなのではあるまいか。ただ読むのではなく、自然の中に入りこむ。自然は人間にたくさんの薬を授けてくださったし、これからも授けてくださるし、知識も癒しも与えてくださる。ネイティブ・ピープルのエルダーたちがみんなとても賢くあるのは、彼らがこの自然という大学のなかで、正しい教育のシステムにもとづいて学んだからに他ならない。
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