ヤマト国の歴史はじまって以来空前絶後の先住民たちの大規模な蜂起
780年という年は、学校の歴史でどのように教えているかどうかはともかく、ネイティブ・ジャバニーズの視点から眺めなおすと、とても重要な年であったことは間違いない。「8世紀の日本列島でいったいなにが起きたのか?」の参考までに、小生が作った『ネイティブ・タイム』の該当ページを以下に引用してみる。この前後にも重大なことはおこっているのだが、その部分は本で読んでください。『ネイティブ・タイム』は日本列島でおこったことをネイティブ・ジャパニーズの視点から読み直した希有な本です。
▼ What Really Happened in the Year Seven Eighty?
(780年にいったいなにが起きていたのだろうか)
780
前年に太宰府にやってきていた新羅からの国交回復を求める遣いが平城京に入った。唐からの使者も一緒だった。新羅からの使いにたいしヤマト政府は「上表文を持たない使者は今後国境をまたがせないから、よくおぼえておくように」と高飛車におどかして帰らせている。そして新羅からの使者はこれが最後となり、以後新羅との正式な外交は途絶えることになる。しかし、それに反比例するかのように、新羅からの商人の来航は一層盛んになっていくのだった。
平城京に雷が落ち、いくつかの寺から火の手が上がった。新薬師寺の西塔や葛城寺の塔と金堂が延焼した。陸奥国で蝦夷[えみし]の襲撃が続いていたので、三月中旬をめどに陸奥国に覚鰲城[かくべつじょう]を建設するという話が政府部内で持ち上がる。雪が消えて川に雪解けの水が増えた直後に北上川を軍船でさかのぼり胆沢[いさわ]の地を確保する計画だった。「胆沢」は日高見国の蝦夷[えみし]の拠点であり、この場所を守りとおせるかいなかが蝦夷[えみし]の運命の別れ道だった。蝦夷[えみし]にとって覚鰲城は生命線を守る意味でも絶対に作らせてはならない柵であったし、政府軍は「陸奥と出羽両国の安泰のために」なんとしても胆沢を陥落する腹づもりを固めていた。
蝦夷[えみし]のゲリラが長岡(宮城県古川市長岡)に侵入して民家に火を放った。政府軍はゲリラを追撃したが双方に死者を出した。陸奥国が「早々に征討しなければゲリラの来襲と侵犯は止まないので三月中に政府軍を派遣してほしい」と上奏した。天皇はこれに応えて「狼は子供でも野生の心を持って恩義を顧みない。そのように蝦夷もあえて険しい地形を頼みとしてしばしば辺境を侵犯する。兵器は人を害する凶器であるが、この際使うこともやむを得ない。よろしく三千の兵を発して残党を刈りとり、敗残の賊兵を滅ぼすように。すべての軍事作戦は、都合のよい時に随時おこなえ」と檄を飛ばした。
政府軍に胆沢の地を封鎖するように命令が下る。今後は裕福な百姓で、弓や馬が巧みな者たちを兵士に徴用することになり、他は帰農させられた。三月、上治[かみじ]郡の大領までをもつとめていたあの蝦夷[えみし]のチーフ・アザマロが、大量の開拓者たちを流入させ、蝦夷たちを他の地方へ強制移住させるやり方にとうとう業を煮やして、配下の者たちとともに反旗をひるがえす事件が起きた。
アザマロがどうしようもなく蝦夷[えみし]であることを理由に常日頃から侮蔑していた、曾祖父が百済人で日本に帰化していた牡鹿郡の大領(豪族)の道島大盾[みちしまのおおたて]を、チーフたちは手はじめに血祭りにあげると、次に、朝廷が覚鰲城建設のために鎮守将軍として派遣し前線に出張中だった征討軍総督(按察使[あぜち])の紀広純[きのひろずみ]を囲んでこれを殺害、その勢いを駆って、彼と彼に従う者たちは伊治城と呼ばれた政府軍の砦を陥落させた。
伊治城は、陸奥の黄金産地をつなぐゴールド・ラッシュ・ルートの最重要地点であり、そこを基点として桃生城、新田柵、玉造柵、牡鹿柵、色麻柵などという城柵が砦の環をつないで要塞化した軍事境界線をなしていた。伊治城ではのべ二千五百人の帰順した蝦夷[えみし]に種籾を与えて耕作をさせていたという。
アザマロは伊治城を落とした勢いで、数日後には国司が住む、蝦夷地開発の最重要拠点の多賀城をも陥落させ、武器や食料を奪った。武官も文官も後門から逃げ出し屯田兵たちは散り散りになった。『続日本紀』には「逆賊が秩序を乱して、辺境を侵す。狼煙[のろし]をあげるのもむずかしく、見張りも機能を停止した」とある。
このとき悪路王、阿弖流為ことチーフ・アテルイも呼応して、彼に従う多くの同族たちとともに一斉に蜂起している。現在の茨城県から秋田県までのおいつめられていた先住民(蝦夷[えみし]系、天の王朝系、靺鞨系、アイヌ系、出雲伽耶−−伽羅−−系、新羅系)たちがヤマトの勢力を一掃するために武器をとって立ち上がり、一部は関東を越えて富士の裾野にまで攻め上がったともいわれている。日本[ヤマト]国の歴史がはじまって以来空前絶後の先住民たちの大規模な蜂起であり、列島を分断した事実上の南北戦争だったと思われる。ヤマト王朝政権は存亡の危機に立たされた。
平城京ではあわただしい動き。藤原継縄[つぐただ]が征東大使に任じられ、大伴益立[ますたて]と紀古佐美[きこさみ]の二人が征東副使に任命された。大伴真綱が陸奥鎮守副将軍に、安倍家麻呂が出羽鎮狄将軍にそれぞれ任命される。征東副使の大伴益立は陸奥守を兼任させられた。平城京の庫と諸国にある甲六百領を出羽の鎮狄将軍のもとに送った。天皇は出羽国に「渡嶋[わたりのしま]の蝦夷が以前に誠意を尽くして来朝し、貢献してきてからやや久しくなる。今まさに俘囚たちが反逆を起こし、辺境の民を侵し騒がせている。出羽鎮狄将軍や国司は渡嶋の蝦夷に饗宴を賜る日に、心がけて彼らをねぎらい諭すようにせよ」と命じた。なにを諭すかというと、国家に反逆する者たちは妻子も家族も命を落とすか永遠の奴隷になるのだぞと。
坂東諸国と、能登と、越中と、越後に、糒[ほしい]三万石を準備させている。再び天皇からの檄が飛んだ。「狂暴な賊徒が平和を乱して辺境を侵犯し騒がせているが、狼煙[のろし]台は信頼できず、斥候も見張りを誤っている。今、征東使と鎮狄将軍とを遣わして別々の道から征討させている。日を定めて大軍を結集させるからには、当然のこととして文官と武官は謀議を尽くし、将軍は力を尽くして、よこしまなことを企てる者を苅り平らげ、元凶となっている者を誅殺すべきである。広く志願兵を募り、素早く軍営に送るようにせよ。もし機会を得たことに感激して、忠義勇気を励み、自ら力を尽くすことを願う者があれば、特に名を記録して教えてきなさい。平定が終わったら、異例の抜擢をおこなうから」と。
百済王俊哲が陸奥鎮守副将軍に任命された。多治比宇佐美が陸奥守に就任した。天皇が副将軍の大伴益立らを、征東の効果がまるであがっていないことで責めたてた。征東使、鎮狄将軍、都を進発する。征東使の要請により、尾張など五国に甲[よろい]千領を運ばせる。同じく要請のあった襖[わたいれ]四千領を東海道、東山道の諸国に作らせた。坂東兵士たちを九月五日までに多賀城に集結させる計画が動きはじめた。当時の官軍の兵が備えるべき物の一覧が残されている。「弓、箭[や]、太刀、鞆[とも]、脛裳[すねはばき]、頭纏[はちまき]、水甬[みずおけ]、塩甬[しおおけ]、小鉗[こかなはし]、縄解[なわとき]など。七月、下総国の糒六千石、常陸国の糒一万石を陸奥国の軍所に運ぶ(ある計算では、これだけの食料を運搬するのに、下総国では最低でも一万二千人、常陸国では二万人の役夫が必要となる)。
「筑紫の太宰府では外敵からの侵入に備えて将校と馬を選び出して鍛え、武装兵を精鋭にして非常時に備えているが、北陸道もまた外敵の侵入を受けやすいのに、軍兵はまだそのための訓練を一度もしていないから、いざというときには役に立たない。至急太宰府にならって軍事教練をせよ」との命令が下る。
夷狄のシラスや俘囚のウナコらが心配して「政府軍はわたしたちを見捨ててこの秋田城を放棄してしまうのですか? もしそういうことなら、われわれがこれまでどおりに、当番を決めてここを守るようにしたいのだが」と鎮狄将軍に嘆いたという。政府は現実には保てなくなっていた秋田城をあえて保持する決定を下して−−ここを頼りにして帰順して歴史をつくってきた俘囚たちの心をくじかないために−−専当国司一人を派遣して置き、要害の地にある由理柵[ゆりのき]とともに蝦夷対策にあたらせることにした。藤原小黒麻呂を持節征東大使に任命したものの、征東軍は蝦夷たちのテリトリーに入ることもできずに、多賀城、玉作城のふたつの城をひたすらに防御する一方だった。
天皇は腹に据えかねたと見えて「いいかげんにしろ。何万人もの歩兵と騎兵が集まっているのだから、今ごろはとっくに平らげているかと思えば、やれ甲を送ってくれだの、綿入れがほしいだのと、征討ができない言い訳ばかりしているではないか。そのうえ、食料の準備もしないで勝手に駐留して、こんどは食料を送れとはなにごとだ。まだ真冬にはなっていないのだから、戦えるはずではないか。それなのに攻め入ろうともしない。人と馬とがことごとく痩せれば、なにをもって敵と戦おうというのか。今月中に賊地へ討ち入らないのなら、多賀城・玉作城などに駐留し、よく防御を固め、もう一度戦術を練るようにせい」などと伝えている。
出羽では蝦夷[エミシ]たちは大室要塞に司令部を置いて木を切って道を塞ぎ砦の回りの溝を深く掘ったりしてゲリラ戦を展開していたし、陸奥では蝦夷[エミシ]たちが副将軍・百済王俊哲を完膚無きまでに打ちのめし、政府軍は全滅寸前で神仏に祈るしか道はなかった。
このころ京の町の街路に多くの人々が繰り出し、男や女の巫覡[ふげき](呪術使い)と一緒になって、わからないままに淫らな祭りを尊び、藁で作った呪術用の犬やお札や護符の類などさまざまにあやしいものを作って、それらが道の上のあちこちに溢れる状態になっていた。当時、律令国家日本は呪術を固く禁じていた。幸福を求めることをたのんで呪術にかかわりあっていることは「実に妖しく淫らなものを長く養うことになる」という天皇の意見で、そうしたものが改めてここでも禁止された。だが、病気を治すための呪術に関しては、京内に住んでいるのでなければ許可された。
常陸国の国司が、戸籍からもれている神賎(神社が所有する奴隷)七百七十四人を鹿島神社の神戸に編入することを求めて許可されている。戸籍からもれている奴隷の数がかなりにのぼることを想像させる。こうした奴隷が律令国家の下部を支えており、蝦夷[エミシ]の中でも「俘囚」や「夷俘」とは異なり、反体制的な、あくまでも自由を忘れない者たちは皆この「奴隷」に組み込まれた可能性を捨てきれない。ヤマト政府にとっての「蝦夷征伐」は同時に「奴隷獲得戦争」であった。このことを忘れてはならない。
チーフ・アザマロの叛乱は当然国家反逆罪にあたるものだが、結局彼が捕らえられて処刑されたという記述は、このとき以後どこにも見いだせないのである。副将軍の百済王俊哲から「蝦夷[エミシ]軍に包囲されて苦戦したが、桃生と白河郡の神十一社に祈ることでその囲いを撃ち破ることができました。ついてはこの十一社を弊社に列することを請う」との伝令。ヤマト政府はさっそくこれを許可した。
最澄が近江の国分寺で出家し僧籍に入った。
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Comments
始めまして 山田久夫と申します。よろしく。
775年に天体異変が起こり屋久島の杉の炭素14の濃度が上がったことが明らかになりました。このころ田や畦が枯れ蝦夷が騒ぎ始めたとあります。780年のアザマロの乱の後に多賀・玉作城が蝦夷に囲まれ矢も尽き兵は疲れた。とあり
下記の785年に仮に多賀、階上の二郡がおかれました。
785年まで郡さえ無かった辺境の地に陸奥国府が在ったとは思えません。国府は国府と明記されたほゞ同時期の史料があるので多賀城は陸奥国府ではないと思いますがKitayama樣は如何お考えでしょうか。
多賀国府なる文言が見られるのは吾妻鑑であり、その内容は鎌倉幕府の史料と公家の日記をもとに後代に編纂され曲筆が多く含まれているとされています。
延暦元年六月十七日 [続記・紀略・補任天応二年] 782年
春宮大夫従三位大伴宿禰家持為二兼陸奥按察使鎮守将軍一、外従五位下入間宿禰広成為レ介、外従五位下安倍猨嶋臣黒縄為二権副将軍一、
延歴四年四月七日 [統紀] (785年)
中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍大伴宿禰家持等言、名取以南一十四郡、僻在二山海一、去レ塞懸遠、属レ有二徴発一、不レ会二機急一由レ是権置ニ多賀、階上二郡一、
Posted by: 山田 久夫 | Sunday, August 30, 2015 03:39 PM