瞑想のための場所
祈ったり、瞑想をしたりする場所をまったくもっていない人間、なぜ自分がつくられたのかについて深く自らの内側をのぞき込んだことのない人間、この人生において自分はなにをなすべきかを考えたことのない人間、宇宙のあらゆる存在にたいし導きを求めて耳をそばだてたことのない人間、こうした人間は、未だ飛ぶことを学んでいない鳥のようなものである。鳥として必要なものは全部そろってはいるのだが、それでも大切ななにかが欠けている。地球に生きる人として全体性を獲得するには、肉体、感情、知性、精神のそのすべてにおいて生きていることが求められる。
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Comments
>地球に生きる人として全体性を獲得するには、肉体、感情、知性、精神のそのすべてにおいて生きていることが求められる。>
そのとおりだと思います。
そのすべてにおいて生きるためには更に感受性を磨くことが必要で、感受性を磨けば、現代の生存競争社会では生きにくいというジレンマがあります。
だから社会そのものがダメという議論もあるのでてすが。
Posted by: 湖南 | Sunday, March 20, 2005 09:33 AM
ゆたかな感受性を保ったまま生きていくためには、ポジティブなドロップアウトが必要なのかも知れませんね。「日本」のような旧態依然たる社会においては、生存競争社会そのものの枠組みを超えられるような生き方をしないとね。自給自足できるようにしてしまうとか、アーティストになるというのはひとつの道ではあるのだが。
Posted by: Kitayama "Smiling Cloud" Kohei | Sunday, March 20, 2005 09:43 AM
たとえば冬、暖をとる為に薪を集めていると、そのためにかけた労力や時間は、「現代社会」では損なのですね。おなじ労費を「仕事」(賃金労働)にかけた方が光熱費をまかなってなお余る「収入」になる。けれども自然界で生きていくということは誰かが造った機構をより「やすく」使うということではない。肉体、精神、知恵、経験、自分のもつものをできる限り使いこなして、そのときそのときに発揮するということが生きるつよさとなる。
自然界で生きるということと人間の造った「社会」で生きるということは離反がある。
けれどもそのことを負担と思わず大地に根ざす生きかたを目指し続けよう。損とか得とか、社会のための概念は無視しよう。社会で生きるために要る「生存競争」はしながらも、それは本当じゃないんだと言い聞かせて、大地に生きる感受性を磨いていこう。大事なのは今実現しているかどうかではなくて、なにを実現させたいか、だと思う。
おれは自給自足を目指しています。現代語の「自給自足」とは多少違うかもしれない。自分自身と、自分と直接関われる人と(こころを分かつことができる関係の人と)、大地からぢかに恵みを貰って生きる、という生きかたです。それが実現するのは、今生生きているうちには無理かもしれない。でもそれを目指して生きている時間は必ず遺り、種を生むことになると信じています。(その種がどう生きるのか、死ぬのか、大地にゆだねるもの)
ひとりひとりに今の状況と個性(得手不得手)がある。できる時間の中でできる事をやっていこう。
北山さんの作っているこのホームページからおれは何度も勇気をもらっています。かつて長老や先達、メディスンマンたちが担った「自然界で生きるために必要なつよさを学ぶすべ」を、北山さんが新たに担っているのだと思っています。
Posted by: 柴﨑徹之 | Thursday, March 24, 2005 02:48 PM