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Thursday, March 31, 2005

アメリカ・インディアンのお国言葉

4002603318.09.MZZZZZZZ昨日、一昨日と中米、とくにメキシコで先住民の言語が急激に消えていっているという記事を紹介した。当然ながらこれは世界の先住民のすべてに当てはまることである。言語民族学の専門サイト「Ethnologue」で試しに調べてみると、20世紀末のデータでは、日本列島において日本語を話す人の数が1億2千1百5万人で、アイヌ語はアクティブ・スピーカーが15人、韓国語が67万人とある。北米大陸の先住民であるアメリカ・インディアンについて調べてみると、かつて600近くあったとされるお国言葉のうち、1996年の段階で残っていたのはわずかに154カ国語で、最も話す人の多いネイティブ・ピープルのお国言葉はナバホ語の14万8千5百30人、ついで西部オジブワ語、3万5千人、ダコタ語、2万3百55人という具合。少ない方を見ると10人以下の言語は、アバッチ語、グロス・ヴェンチュラ語、マカ語、ポモ語など40を越える。今この瞬間においても、アメリカでもいくつもの母なる言語が死につつあり、それと共に世界の一部が消えていっているのである。アメリカ・インディアンの各部族についてどのくらいの数の言語を話す人がいるのかについては以下のリストをご覧ください。なお、アメリカ・インディアンの言語のなかでも、とくに「ネズパース語」についてはカリフォルニア大学の青木晴夫先生がフィールドワークの記録として著された『滅びゆくことばを追って——インディアン文化への挽歌』(岩波書店刊 同時代ライブラリ 1998)が詳しく、日本人をやっている(やらされている)われわれにも学べることが沢山書かれている。

アメリカ合衆国における先住民の国の言葉を話す人たちの数

   話す人の数  言語  話されている地域の順

  • 148,530  Navajo  Arizona; Utah; New Mexico; Utah
  • 35,000  Ojibwa  Western Montana; Lake Superior; North Dakota
  • 20,355  Dakota  Nebraska; Minnesota; North Dakota; South Dakota; Montana
  • 17,890  Choctaw  Oklahoma
  • 12,693  Apache  Western Arizona
  • 11,905  Cherokee  Oklahoma; North Carolina
  • 11,819  Papago-Pima  Arizona
  • 10,000  Yupik  Central Alaska
  • 8,000  Ojibwa  Eastern Michigan
  • 6,413  Zuni  New Mexico
  • 6,213   Muskogee  Oklahoma; Alabama; Florida
  • 6,000  Lakota  Nebraska; Minnesota; North Dakota; South Dakota; Montana
  • 5,264  Hopi  Arizona; Utah; New Mexico
  • 4,580  Keres  Eastern New Mexico
  • 4,280  Crow  Montana
  • 4,000  Inuktitut  Northwest Alaska Alaska
  • 3,500  Inuktitut  North Alaskan Alaska
  • 3,390  Keres  Western New Mexico
  • 3,000  Yakima  Washington
  • 2,284  Shoshoni  Nevada; Idaho; Wyoming
  • 2,100  Micmac  Boston; New York City
  • 2,000  Paiute  Northern Nevada; Oregon; California; Idaho
  • 1,984  Ute-Southern Paiute  Colorado; Utah; Arizona; Nevada; California
  • 1,800  Apache  Mescalero-Chiricahua New Mexico
  • 1,721  Cheyenne  Montana
  • 1,631  Tiwa  Southern New Mexico
  • 1,301  Jemez  New Mexico
  • 1,300  Tewa  New Mexico; Arizona
  • 1,100  Yupik  Central Siberian Alaska
  • 1,092  Kiowa  Oklahoma
  • 1,070  Cree  WesternMontana
  • 1,062  Blackfoot  Montana
  • 1,038  Arapaho  Wyoming; Oklahoma
  • 1,007  Havasupai-Walapai-Yavapai  Arizona
  • 1,000  Chickasaw  Oklahoma
  • 1,000  Hawaiian  Hawaii
  • 927  Tiwa  Northern New Mexico
  • 887  Malecite-Passamaquoddy  Maine
  • 854  Comanche  Oklahoma
  • 812  Apache  Jicarilla New Mexico
  • 800  MesquakieIowa  Oklahoma; Kansas; Nebraska
  • 775  Tlingit  Alaska
  • 697  Nez Perce  Idaho
  • 600  Koasati  Louisiana; Texas
  • 539  Kikapoo  Kansas; Oklahoma; Texas
  • 496  Mikasuki  Florida
  • 406  Yaqui  Arizona
  • 400  Yupik  Pacific Gulf Alaska
  • 365  Gwich'in  Alaska
  • 343  Quechan  California
  • 321  Cocopa  Arizona
  • 300  Koyukon  Alaska
  • 256  Alabama  Texas
  • 250  Hocak/Winnebago  Nebraska
  • 234  Mohave  Arizona
  • 234  Shawnee  Oklahoma
  • 200  Kalispel-Pend Do´reille  Montana
  • 200  Seneca  New York; Oklahoma
  • 200  Tenino  Oregon
  • 181  Maricopa  Arizona
  • 150  Assiniboine  Montana
  • 141  Caddo  Oklahoma
  • 138  Haida  Alaska
  • 126  Karok  California
  • 115  Tanana  Upper Alaska
  • 113  Tsimshian  Alaska
  • 112  Okangan  Washington
  • 107  Salish  Southern Puget Sound Washington
  • 102  Kutenai  Idaho; Montana
  • 100  Hidatsa North Dakota
  • 100  Skagit  Washington
  • 100  Walla Walla  Oregon
  • 97  Kumiai  California
  • 90  Aleut  Alaska
  • 90  Arikara  North Dakota
  • 88  Klamath-Modoc  Oregon
  • 85  Omaha-Ponca  Nebraska; Oklahoma
  • 78  Yokuts  California
  • 75  Tanaina  Alaska
  • 69  Wasco-Wishram  Oregon; Washington
  • 65  Tanacross  Alaska
  • 60   Lushootseed  Washington
  • 50  Kashaya  California
  • 50  Oneida  New York; Wisconsin
  • 50  Potawatomi  Michigan; Wisconsin; Kansas; Oklahoma
  • 50  Spokane  Washington
  • 50  Umatilla  Oregon
  • 43  Luiseno  California
  • 40  Coeur D'Alene  Idaho
  • 40  Degexit'an  Alaska
  • 40  Kuskokwim  Upper Alaska
  • 40  Pomo  Central California
  • 40  Pomo  Southern California
  • 39  Columbia-Wenatchi  Washington
  • 39  Menomini  Wisconsin
  • 35  Cahuilla  California
  • 34  Quapaw  Oklahoma
  • 30  Salish  Straits Washington
  • 30  Tanana  Lower Alaska
  • 21  Ahtena  Alaska
  • 20  Abnaki-Penobscot  Maine
  • 20  Mono  California
  • 20  Panamint  California
  • 19  Kansa  Oklahoma
  • 18  Apache  Kiowa Oklahoma
  • 17  Chinook  Wawa Oregon
  • 15  Onondaga  New York
  • 12  Holikachuk  Alaska
  • 12  Nisenan  California
  • 12  Shasta  California
  • 12  Yuchi  Oklahoma
  • 10  Achumawi  California
  • 10  Apache  Lipan New Mexico
  • 10  Gros Ventre  Montana
  • 10  Kato  California
  • 10  Kawaiisu  California
  • 10  Maidu  Northwest California
  • 10  Makah  Washington
  • 10  Miwok  Northern Sierra California
  • 10  Miwok  Southern Sierra California
  • 10  Pomo  Southeastern California
  • 10  Snohomish  Washington
  • 10  Tututni  Oregon
  • 10  Washo  California; Nevada
  • 10  Wichita  Oklahoma
  • 10   Wintu  California
  • 10  Yurok  California
  • 9  Cupeno California
  • 8  Hupa  California
  • 8  Miwok  Lake California
  • 7  Han  Alaska
  • 6  Mandan  North Dakota
  • 6  Quinault  Washington
  • 6  Tubatulabal  California
  • 6  Yuki  California
  • 5  Chehalis  Lower Washington
  • 5   Chetco  Oregon
  • 5  Clallam  Washington
  • 5   Miwok  Central Sierra California
  • 5  Osage  Oklahoma
  • 5  Tolowa  Oregon
  • 5   Unami  Oklahoma; New Jersey; Delaware
  • 4   Atsugewi  California
  • 4   Pawnee  Oklahoma
  • 2   Chehalis  Upper Washington
  • 2   Cowlitz  Washington
  • 1  Coos  Oregon
  • 1  Eyak  Alaska
  • 1  Kalapuya  Oregon
  • 1  Miwok  Coast California
  • 1  Miwok  Plains California
  • 1  Pomo  Northeastern California
  • 1  Serrano  California
   361,978 TOTAL

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Wednesday, March 30, 2005

世界の一部が消えていく

昨日お知らせした「ラテンアメリカから見ると」というBlogの「言語の劇的な消滅、メキシコ」という記事のMarch 30, 2005付けの続報(その2/終)のなかからの一節。

「言語は世界を眺める展望台であり、現実に近づく道である。言語が思考方法を規定する。従って、一つの言語が死ぬことは世界の一部が消えてしまうことで、これは大変なことだ。言語は、文学のように、料理方法のように、歌のように、音楽のように、侵してはならない祖国だ。」
ラテンアメリカの先住民語の権威
ミゲル・レオン-ポルティージョ博士の言葉

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Tuesday, March 29, 2005

母なる言語が死んでいく

ラテンアメリカから見ると」というBlogをわたしはしばしば読む。文字通り中米や南米からのニュースをていねいに拾って紹介してくれているサイトだ。そのMarch 29, 2005の号に「言語の劇的な消滅、メキシコ」という記事が掲載されていた。記事には「(その1)」とあるから、しばらく連載されるのだろう。La Jornada というジャーナル紙からの翻訳だ。グローバリゼーションのために言語が死んでいくスピードが速まっていることを危惧する記事で、以下にその一部を引用する。

 「16世紀の頃、メキシコでは170言語が存在したが、20世紀の初めには110になり、21世紀には62近くになる。つまり、500年で100の言語を失うことになる。これからの20-40年で少なくとも19がなくなり、さらにまもなく多くとも40言語しか残らなくなる。」著作家カルロス・モンテマジョールは説明する。

 「メキシコの先住民」の著者はこの問題のポイントをこう説明する。「言語はどちらが優れているとか劣っているとかいうものではないから、言語それ自体の理由でなくなることはない。言語がなくなるのは政治的理由あるいは経済的理由によるものだ。英語がサポテカ語より優れていたわけではない。ドイツ語やフランス語がマヤ語やミステカ語に勝っていたわけではない。これは謝った解釈だ。たとえば、メキシコ人はインディオは方言を話すと言うがそうではない。すべての言語は複雑なシステム、生きた文化、人々の記憶を包含している。」

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力の集まる場所と Mount Fuji

sacredmt日はネイティブ・アメリカン・メディスンの中核にある「力の集まるところ」と「聖なる場所」についてすこし考えてみたい。ネイティブのエルダーたちは、偉大な創造主がそのような場所をつくられたのには当然ながら理由も意味もあるのだといっていた。太古より伝わる神話や物語によれば、そうした「力の集まるところ」は、スピリットたちや「神々」とされる存在がもともと住んでおられる場所であるとされてきた。さらに時代が新しくなると、それだけではなくて、人が「すべての生命を貫いて流れている偉大な霊」と——相手が実際に目で見える見えないにかかわらず——直接にコンタクトをとるためにおもむく場所のことも、そうした場所にふくまれるようになってくる。いずれにせよそれらの場所は神聖とされ、「聖地」と呼ばれる。そうした場所は、であるからこそ、じゅうぶんに敬われ、守護され、保護され、正しい取り扱い方をされなくてはならないのである。

聖なる惑星 地球

そうした「聖地」「力の集まるところ」にはどういうところがあるだろうか? ふむふむ、エジプトのピラミッド、ストーンヘンジ、シナイ山、天空都市マチュピチュ、マヤの神殿、ラコタの人たちのブラック・ヒルズ、キリマンジャロ、ヒマラヤ、アルタイ山脈などなど、地球上には実に沢山の聖地が存在する。小さいのも大なのも、高地にあるものも低地にあるものも、与えられる力がポジティブなものもネガティブなものも、ニュートラルなものも、その両方を備えたものまで、聖地はさまざまである。それらはとてもじゃないがここに書ききれないぐらいあるはずだ。地球という星のそれぞれの地域環境には、それぞれの自然と適応したシャーマンやメディスンマンがいて、それぞれに独自の力の集まる場所から力をもらい受けてきた。これこそ地球が「聖なる惑星」といわれるゆえんでもある。

では北米大陸(亀の島)に目を移してみよう。アメリカ・インディアンの人たちが聖地だと考えている場所として、わたしが知り得たところをいくつかあげてみる。ことわっておくが、これはそうした場所のすべてをリストアップするための場所ではない。あくまでも小生が自分の人生において知り得たいくつかの場所を書き記すにすぎない。したがつて××××がないからといって、お怒りのメールをいただいても困りますからね。では以下がそのリストだ。

ここでもうひとついっておかなくてはならないことは、こうした聖地、あるいは力の集まる場所は、単にそこへ行けば力がもらえるといった単純でない場所も存在するということである。例えをあげると、シャスタ山やセント・ヘレンズといった山、それもえてして特別に偉大な山は、地域のネイティブ・ピープルはこれまでけしてそこに登ってヴィジョン・クエストの儀式などをしてはこなかったということがあげられる。それはなにも先住民たちの登山技術が現代のそれよりも劣っていたという理由ではなく、彼らにはその頂の場所が持っている力がいかなるものなのかを「理解」されていたからに他ならない。彼らがその場所で力やヴィジョンを求めなかった理由もまさしくそこにある。

ネイティブ・ピープルがすべての偉大なる山をスピリットたちや神々の住まうところと認識しているわけではなく、山によってはそこを大地のスピリットそのもの、最高霊の顕現と見ている場合も多々あるからである。やさしくいうなら、そここそが創造主がときどき住まわれるきわめて特別な場所であり、あまりにもパワフルであるがために人間はそこに立ち入ってその存在の邪魔をしてはならないとされてきたわけ。人間はそこに分け入ることが許されるくらいに純粋な存在ではないということが、少なくても彼らにはわかっていて、畏れを知っていたのだな。

本州最大の聖地

それではわたしたちの国土に目を移してみる。世界中の圧倒的多数が日本の聖地として認識しているのは「富士山」である。これ以外にはない。「伊勢」「熊野」などを知っている西洋人と日本以外で出会ったことは残念ながらまだない。いわんや他の山々をや。きっとわれわれの多くが暮らしている本州島最大の聖地が富士山であることは、間違いがない事実なのだ。WPPD2004(せかいへいわといのりの日)が昨年に富士山でおこなわれた最大の理由もまさしくここにある。

日本列島の本州に暮らす人間にとって「聖地のなかの聖地」と呼べる場所があるとすればそれは富士山であり、富士山の今の有様を見る人が見れば、そこに暮らしている人たちの心の状態も生き方も手に取るようにわかってしまうのである。昨年世界各地からネイティブの人たちが富士山にやってきたとき、これまでのわれわれの聖地の敬い方、守護のしかたが改めて問われたのである。われわれはこれまで富士山と正しいつきあい方をしてきたのだろうか? あのとき、巨大な石のメディスン・ホィールが出現したそこに日本列島各地から集まった3000人近くの人たちは、聖なる土地、力の集まる場所のもうひとつのリアリティを体験することが出来たと、今のわたしは信じている。

こう書くとおかしいかも知れないが、富士山が「日本人によって富士山と呼ばれる以前」から特別な御山だったことはおそらく誰もが認めるところだろう。おそらくはそこは人間が登るべき山ではないと日本列島の先住民たちは考えていたに違いない。マウント・フジは、母なる地球のスピリットそのもののあらわれであり、御山が誕生して以来長い間そこには登ることが神に許されなかったと想像される。

聖なる山とのつきあい方

日本人と富士山の関係はごく最近に、ほんの1000年ほど前にはじまったにすぎない。なにしろ富士山らしい山が日本国の記録にはじめて書きとめられるのは781年のことである。それはまさに東の国にアテルイという蝦夷のチーフが4千人もの戦士を引き連れてがんばっていた時代であった。公式文書で実際に「富士山」という名前が使われるようになったのはそれから20年がすぎたころの本格的な大きな噴火からでしかない。つまり日本国は、おおやけには8世紀になるまで富士山の存在を知らなかったか、富士山が自分たちの国のなかにある山だとは考えていなかった可能性が高い。富士山山頂まで、いろんな理由をつけて人が登りはじめたのもそのくらいのころからだったろうと想像される。

それ以前、富士山がどんな山の名前で呼ばれていたのか、いかなる集団の人たちがそれを敬い守護し保護してきたのか、われわれは知り得ない。そこにいかなる神々が住まわれていたかを伝える物語も、われわれにはない。8世紀以後につくられたもっともらしい話がいくつか残っているだけである。富士山が昔から日本人の心のシンボルだったなんて偏狭な国粋主義者の世迷い言にすぎないのではなかろうか。もし百歩譲ってその言葉を認めるのなら、演習と称して平気で富士山に向かって日々、大砲の弾丸を幾発も発射し続けている軍隊を持つ国は、自らの心に向けて大砲を撃っていることに他ならないではないか。そんな聖なる山ってありなのか?

富士山と呼ばれている山は、もともとは地球に生きる人たちにとってこそ「神の住まう山」だった。日本列島の母なるスピリットと自分を結びつけるためには、その地平からもういちど富士山の今を見直さなくてはならないときがきているのかもしれない。はたしてわたしたちのマウント・フジの扱い方に敬意はあるのだろうか? おそらくそれがわれわれと富士山の新しい関係を築くための出発点となるだろう。昨年の5月21日、夏至の日の富士山朝霧高原で、そこに集まった人たちは、嘘のように優しくも強力な台風(神風)の嵐の中、富士山が地球的なスケールにおける聖地であることをはっきりと確認したとわたしは信じている。あらためてあれはものすごい体験だったと、今日は書いておくにとどめよう。いくつもの偶然が重なって、あの日あの場所にいれたことを、御山のスビリットにわたしは感謝している。

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Monday, March 28, 2005

チェロキーの祈り

おお、偉大なる精霊よ
いついかなるときにも穏やかに真実が話せますように
他者の話に心を開いて耳を傾けていられますように
静寂のなかで得られる平安を忘れることがないように
どうぞそのお力をお貸しください
チェロキーの祈り

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Sunday, March 27, 2005

メディスンマンの仕事

メディスンマンたるもの、一族の人間のために祈りをあげるときには、山にはいるか、もしくは相応の力の場所におもむかなくてはならない。それはメディスンマンの仕事だ。わたしは力の源とつながることで、山の頂から直接聖なる踊りのなかに力を引き下ろしてくる。それはさながら光の帯というか電気がまっすぐ一直線にこちらにもたらされるようなものなのだ。その力によって、癒しの力はより強力となり、踊り手たちにもいっそうの力が与えられる。そのうえでわたしはスピリットたちに、山の頂からお降りいただき、われわれと共に儀式の踊りの輪に加わってくださるよう、ねんごろにお頼みする。すべてがはじまったときにわしらのご先祖さまたちがそうしたように。
ネイティブ・ピープルのカルク (Karuk) 一族のメディスンマン
チャーリー・ソム Charlie Thom の言葉

カルクの人たちは、シャスタ一族に属する。北カリフォルニアのクラマス川とサーモン川の上流域で1万年ほど前から深い森を守りながら暮らしてきた。狩猟採集の民で、川を遡上する鮭にたいする信仰がある。緻密なバスケットを編むことで知られている。白人との最初の接触は19世紀初頭。カリフォルニアのゴールド・ラッシュの際、一族の目の前で村という村がことごとく焼き払われて、領地を失い、部族が散り散りばらばらに離散するという決定的な被害を被った。現在(2000年)の人口は2700人。

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Thursday, March 24, 2005

インディアンの生活より石油が大事なのか

衆国政府が人里離れたアラスカの奥地における石油の掘削を認める決定を下したことにたいして、アメリカの先住民たちから非難の声が上がっている。人間の手がまったく入っていない野生がかろうじて残されているアラスカの北極圏での石油の試掘が議会で認められてしまったからだ。原油の輸入に頼りたくないとするブッシュ政権のエネルギー政策の重要な部分が、アラスカ北極圏国立自然保護区における石油資源の開発だった。その野生保護区を地元としているインディアン部族のひとりは、その土地はカリブーや渡り鳥や他の野生動物(北極熊やジャコウ牛)たちにとってかけがえのない場所なのだと指摘している。「われわれの食料は7割を大地に依存しています。カリブーがいなくなることはわれわれにとっては死活問題に等しいのです。これはわれわれにとっては基本的人権の問題であり、先住民一人一人に与えられている生存の権利の問題なのです」


arrow2 save alaska ( Arctic National Wildlife Refuge)

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Wednesday, March 23, 2005

「ネイティブ・タイム」からお知らせ

Revised Friday, January 12, 2007
[この文章は2005年3月に公開したものの改訂増補版です]

nativetimes

ネイティブ・タイム 先住民の目で見た母なる島々の歴史 』(地湧社刊)を2001年の2月に刊行して以来、毎年一度、その補遺として読者のために「Native Times」なるものをpdf書類で作成して、希望するという意思表示をしてくれた方に提供してきた。『ネイティブ・タイム』という本は、わたしのヴィジョンに基づいて日本列島におけるネイティブ・ピープルのたどった・たどりつつある道を年表のように、始まりも終わりもない時代まで辿るための厚さ5センチ(およそ1000ページ)もある「道具としての本」で、活字として刊行されたもの(Version 3)は、年表的にいうと2000000年前から西暦2000年までの日本列島でネイティブの人たちに起こったできごとを追体験するようになっている。いくらページを費やそうとも、当然書籍としては終わりがあるものではあるけれど、しかしそのプロジェクトには終わりはなくて、刊行後も Version 4 の製作はきわめて個人的にすすめられてきた。それは今もすすめられている。

BLOG版「NATIVE TIME」開設!!

そして毎年一度、春先に、前年度に起こった日本列島のネイティブ・ピープルの存亡にかかわる出来事を整理したものを補遺として地湧社版『ネイティブ・タイム』の読者に提供してきた。昨年にこのBLOGをはじめて、そろそろ一年目に向かいつつあるのだが、諸般の事情から今年から年に一度の「Native Times」の刊行を取りやめることにした。その最大の理由は、昨年中頃に小生のコンピュータがクラッシュしてハードディスクごと昇天して、せっかくの「Native Times」の読者のリストがことごとく消失してしまったことによるものである。

『ネイティブ・タイム』のデータは常に分散して保存されていたので消失はまぬがれたものの、定期購読を希望していただいたみんなのアドレスの喪失は残念きわまりなく、なんとかこれに代わるものをと考えていたのだが、このたび『ネイティブ・タイム』の読者の方で、その後の補遺を希望される方にむけて、特別なBLOG版「NATIVE TIME」を開設することにした。こちらは2000年以降の書籍版には含まれていないつい最近の出来事を年ごとに整理して掲載してある。

BLOG「NATIVE TIME」(21世紀版)には、まだ最近の6年分を収めてあるにすぎないのだけれど、今年の分はリアルタイムにアップデート途中のものもご覧いただけるようになっている。

このBLOG版「NATIVE TIME」は、あくまでも地湧社版の『ネイティブ・タイム』の読者を対象にしていて、はじめから非公開を原則としており、誰もが見れるようにはしていない。なぜなら、『ネイティブ・タイム』という本がそうであったように、きわめてデリケートな問題も含まれる可能性もあるからで、本があれだけのヴォリュームで描こうとした世界を前向きにかつ陽気に受け入れることが出来て、なおその続きを購読希望される方は、ご面倒ではあるけれど、あらためて小生にメールをいただきたい。メールアドレスは、このブログの「プロフィール」のところに掲載されている。折り返し(なるべく4日以内に)BLOG「NATIVE TIME」のアドレスとパスワードをメールで発送します。

追記 限定公開中のBLOG版「NATIVE TIME」は2007年の1月現在、21世紀版と20世紀版の2種類があります。21世紀版は2001年から現在までを扱い、20世紀版は1901年から2000年までを収録する予定で作業を進めていますが、作業の遅れと小生の怠慢のなせるわざで1976年までしかさかのぼれていません。2007年中には1945年までの改訂進化版をアップする予定です。

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ネイティブ・アメリカン・ホロコースト・モニュメント計画

ベブレン町発アメリカンニュースの抄訳

endtrail「これだけはなんとしても後世に伝えたい」と語っているのはブライアン・ウイリアムズさん。サウスダコタのベブレンという町に暮らすサンテ・スーの人間だ。彼が父親のラルスと、仲間のミルトン・クインさん(同じくスーのなかのシセトン一族)の三人で計画しているものは、しかし単に一族の歴史だけでなくて、ネイティブ・アメリカンの大虐殺を未来永劫まで伝えるための--ピラミッドのような--モニュメントである。その名をネイティブ・アメリカン・ホロコースト・モニュメント(Native American Holocaust Monument)という。

「ホロコースト」というのは第二次世界大戦において推定で600万人のユダヤ人が殺されたことを指すのだが、ブライアンさんは「アメリカの先住民も同様の運命をたどったのである」と声明文に書いている。「われわれもまたこの大陸においてホロコーストを経験した。一族のものはこの事実をけして忘れてはならないし、それは永遠に歴史にとどめておくべきものだ」と。

アメリカ先住民の大虐殺を後世に伝えるための記念碑はレイグ・トラバース居留地(サウスダコタ)に建設される予定だが、同じ州のフランドルー(Flandreau)、もしくはヒューロン(Huron)のふたつの町も候補地にあげられている。記念碑は計画段階にあって完成に向けての計画も予算もまだなにもきまってはいない。

ブライアンさんの父親のラルスによれば、このメモリアルのことは「12年ぐらい前からああだのこうだのと考え続けてきたこと」だそうだ。彼のヴィジョンでは、記念碑の中心は建物にすると20階建てほどの大きな女性の立像になる予定で、彼女は両腕に赤子を抱えている。この女性が抱えている赤ん坊は、クリストファー・コロンブスが訪れて以来命を落とした何千何万という子供たちを象徴しているのだという。

その女性を中心に四方を囲むように、四つの方角にそれぞれひとつづつ建物が建てられる。これら四棟の建物にはネイティブ・アメリカンを代表する四人の偉大なチーフの肖像が掲げられることになっている。

ミルトン・クインさんによると、ひとびとがそこでモニュメントと自分の人生をゆっくりと考えられるように、「癒しの庭(ヒーリング・ガーデン)」の建設も予定されている。ラルスさんははさらに38の首つり縄を金属で作って展示することも考えているそうだ。それらは「1862年にミネソタ州のマンカトという町で見せしめのために一度に公開で首つり処刑された38人のインディアンを象徴しているのだ」と息子のブライアンさんが説明した。

彼はこのモニュメントをゆくゆくは先住民の文化と彼らの抱えている問題について学んだり出来るようにしたいと考えている。計画にはすべての北米先住民の部族から提案や意見を受け付けているし、インディアンのアーティストや建築家の参加も歓迎しているという。現在三人は資金集めのための寄付金募集に奔走している。

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Tuesday, March 22, 2005

ネイティブ・ピープルによれば世界とは

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Monday, March 21, 2005

沈黙の音

ひとりでいることが出来なくなっていたり、ひとりになりたがらなくなっていたり、ひとりのときにはなにか音の出るものがそばにないといられなかったり、気がつくと必ずテレビのスイッチを入れていたり、音楽を聴いていたり、友達に電話をしていたり、ネットの世界にずっぽりと浸っていたりと、沈黙を満たすための音を機械類に常に頼るようになって、つまりひとりで黙ったままなにもしないで静けさにつかっていることが耐えられない精神状態なってきているのなら、それはあなたが個人的にスピリチュアルな成長を必要としていることをメッセージしています。

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Sunday, March 20, 2005

スーの骨の一部が日本上陸

日、3月19日(土)から東京は上野にある国立科学博物館で「恐竜博2005 〜恐竜から鳥への進化〜」(朝日新聞社、テレビ朝日主催)が開催されている。最大の目玉は、アメリカ・フィールド博物館所蔵で、“SUE(スー)”という名前がつけられている、全身の90%以上の化石が発見され、オークションで8千四〇〇万ドル、約10億円で落札されたことで世界一有名になった、ティラノサウルス・レックス(T・レックス)の全身複製骨格だ。これが日本初公開されるのだとか。また、いままで「門外不出」だった“SUE”の実物化石の一部も、初めて館外に貸し出されて公開されるらしい。

Sue at The Field Museum

sueこのティラノザウルスの“SUE(スー)”という名前を聞いて勘のよい人ならすぐにわかるが、この世界最大で世界で最も形が整っている恐竜の骨は、ネイティブ・アメリカンのスー一族の聖地であるサウスダコタのバッドランドから1990年に掘り出されたものである。ほんとうはラコタと呼ばれるスーの人たちのスーは「sioux」と書かれるのが普通だが、白人の発見者の名前がたまたま「スー Sue」だったこともあり、両方をかけて発音通りに「sue」と綴られている。ラコタの人たちはずいぶん昔からそこに恐竜の骨があることは知っていて、その一部を削って薬にしていたのだ(古代中国の漢方薬にも「気分を安定させる作用を持つとされる竜骨」[マンモスなどの骨の化石]なるものがある)。小生が翻訳した『レイム・ディアー(インディアン魂)』(河出書房新社刊)にもバッドランドの化石の記述が出てくる。

お前さんたちが「化石」とよんでおるものだが、あれもわしらは薬として使っている。遠くバッドランドの山奥まで分けいれば、そこで巨大な骨の化石が見つかろう。それはウンクテギラの骨だ。人類が現れるずっと以前にこの地球に生きていた馬鹿でかい生物、それがウンクテギラだ。わしらはそれを水の怪獣ウォーター・モンスターとよぶ。実際そこにある小さな山などは、山の背がまるごとウンクテギラの化石で形作られていたりする。いつだったかそのてっぺんまでよじ登ってみたことがあるが、あたかも馬に乗るような格好で、その背骨の隆起にまたがって、腰をすこしづつ前に進めていくしか、他に方法がなかった。怪獣の背中にまたがるというのも、われながら妙な気分だったぞ。さらに夜ともなれば、山のそのあたりには仄白い灯がちらちらと飛び交う。それはスピリットの出す光だ。わしはそこで見つけてきた化石を自分の治療に使っている。
レイム・ディアー(インディアン魂)
第7章「フクロウと蝶ちょに話しかける」より

この骨を、「発見」して文明世界に紹介したのが、化石ハンターのスー・ヘンドリックソン(Sue Hendrickson)で、結局この恐竜の骨が誰のものであるのかを巡ってすったもんだあって落ち着く先がきまるまでに、それから5年の月日を要している。いくら化石ハンターとはいっても、それが埋まっている土地を掘る時には土地の所有者の許可が絶対に必要なのだ。しかし問題はそこがスー・リザベーションの一部であることは間違いないが、ご多分に漏れず所有権が入り組んでいて実際の所有者がはっきりしないことだった。実際の所有者はスーの血を一部受け継ぐ牧場主なのだが、土地は事実上合衆国政府の管理下にあった。そして起こったのが「告訴合戦」。

あちらがこちらを訴え、今度はこちらがあそこを訴えるという複雑きわまりない裁判の連続。結局、最終的に判決が降りて、合衆国政府に土地を預けていたスーの血を一部に受け継ぐ個人牧場主が正当な骨の所有者となり、1997年10月にニューヨークでひらかれた公開オークションでT・レックスが競売にかけられることになり、約10億円で現在の所有者であるフィールド博物館(The Field Museum)が落札したというもの。化石としては世界で一番高価なものだとか。化石の実物の一部が公開されているけれど、全身の骨格は複製である。削って飲んでも薬にはなりません。

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Saturday, March 19, 2005

風の言葉を話す人たち 再び

明日20日(日)の日曜洋画劇場(テレビ朝日)で、ニコラス・ケイジが主演する、あの「ウインドトーカーズWindtalkers)」が放映されますね。第二次世界大戦、それも太平洋戦争に出征したナバホの暗号要員を描いた映画です(監督ジョン・ウー)。ニコラス・ケイジは、暗号要員が日本帝国軍に捕まらないようにあらゆる代価を払って守るのが任務という設定。「あらゆる代価」のなかには「敵に捕まる時には先に殺してしまう」ことも含まれているわけ。

太平洋戦史を振り返れば、結局日本帝国軍は最後までナバホ語の暗号を解読することは出来ませんでした。映画は、ナバホのリザベーションから太平洋の島で、日本帝国軍を相手にした激戦地であるガ島(ガタルカナル)サイパン島に送られるインディアンの若い通信兵を描いていきます。ナバホの通信兵は「コードトーカー」と普通呼ばれますが、これは「暗号で会話をする者たち」の意味です。コードトーカーにされたネイティブ・アメリカンはナバホだけでなく、スーもコマンチもいましたが、ナバホのコードトーカー、「風の言葉を話す人たち」から映画では「ウインドトーカーズ」とされていますが、正しくはディネと自らを呼ぶナバホの人たちが、この任務に就いたなかでは圧倒的に多かったのです。以前この「ネイティブ・ハート」(Wednesday, May 26, 2004)の注釈のなかでこの映画のことをすこし書きました。

わたしは最初この映画をレンタルビデオで見たとき、まちがって「日本語吹き替え版」を借りてしまっていたために、しばらく不思議な感覚を体験したというものです。吹き替えされた日本語と、ナバホ語と英語と吹き替えでない日本語がでてくるから。今回の放映ははじめから日本語吹き替え版がメインで流されますから、あのときわたしが味わった不思議な体験を多くの人が味わうかも知れません。とくに最初の20分ぐらいはぜひ見て欲しいなあ。映画のなかに、「ナバホとジャップはほとんど見分けがつかない」といったようなせりふが出てきますし、実際日本人だといってもおかしくない顔つきの人も多いのです。

わたしはかつてナバホのある人の家で、ガラスのケースのなかに飾られた第二次世界大戦の対日戦争の記念品を見せてもらったことがあります。きわめて敬意あふれる取り扱いをされた「日の丸」や「軍刀」などを指で指し示してくれた後、彼は「日本兵はみな勇敢でした」とぽつりと言いました。

そういえば先日、ナバホの土地に暮らし、ナバホの嫁さんをもらって、今、かつてのナバホのコードトーカーズたちの写真を撮り続けている写真家のKawano Kenjiさんという昔の知り合いのテレビ・ドキュメンタリーを偶然見ました。「Warriors: Navajo Code Talkers」という彼の写真集も米国では話題になっています。わたしが彼と知り合ったのは彼が嫁さんと結婚した直後のことで、彼はナバホ・タイムズの専属カメラマンをしていました。不思議な運命の巡り合わせで、河野さんの娘さんは今イラクに従軍看護婦として派兵されているのですね。「ウインドトーカーズ」は日本人とネイティブ・アメリカンのつながり(縁[えにし])を、いろんな意味で考えさせてくれる映画です。

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Friday, March 18, 2005

瞑想のための場所

祈ったり、瞑想をしたりする場所をまったくもっていない人間、なぜ自分がつくられたのかについて深く自らの内側をのぞき込んだことのない人間、この人生において自分はなにをなすべきかを考えたことのない人間、宇宙のあらゆる存在にたいし導きを求めて耳をそばだてたことのない人間、こうした人間は、未だ飛ぶことを学んでいない鳥のようなものである。鳥として必要なものは全部そろってはいるのだが、それでも大切ななにかが欠けている。地球に生きる人として全体性を獲得するには、肉体、感情、知性、精神のそのすべてにおいて生きていることが求められる。

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Thursday, March 17, 2005

おまもりのコレクション

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。
北山耕平 拝

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Wednesday, March 16, 2005

ネイティブ・ピープルの道

3pueblosbeforeafter
写真解説 カーライル・インディアン工業学校 (Carlisle Indian Industrial School,1879 - 1918) という、捕虜にしたインディアンの子供たちに強制的なアメリカ人化教育を施すための寄宿学校で、20世紀初頭に撮影された写真。左と右の写真に写されている3人はまったく同じプエブロの少年たちである。ビフオア・アンド・アフター。この「文明人教育」を行う学校はペンシルバニア州にあった。


つてわたしは自分が書いた最初の本である『ネイティブ・マインド』(地湧社刊 1988)のなかで「日本列島で日本人をやっているわれわれがルーツを失ったインディアンである可能性」について言及した。これは、今のアメリカという国で同じようにルーツを失ってインディアンをやっている遙かなる兄弟姉妹たちを長く見続けてきてのひとつの結論だった。おそらく今から一世紀ほど経つと、北米大陸のほとんどの先住民たちがすっかりアメリカ人やカナダ人となって、それぞれのルーツをあらかた喪失してしまっているかもしれない。無論そうならないことを祈りたい気持ちは山々だが、現実はその方向に向かっている。しかし、とはいえ国家による徹底したアメリカ人化教育が政策として推し進められるなかでも、「インディアンであるとはどういうことかを学びなおそうとすする動き」がまったくないわけではない。近年ではそれが西洋文明の良質な部分を巻き込んでひとつの文化的な潮流にすらなっている。この「ネイティブであることを学びなおす作業」は、およそ千年ほども前に差別を巧みに操る日本人化教育がはじめられたために「すっかり自分が誰か」をわすれてしまっているわれわれにも必ず役に立つものであるだろう。それはまた、一切の聖なるものが失われかけて、世界で最も大地を汚し続けている自分のなかのインディアンの部分(われわれがこれまで目をそらし続け、なんとか忘れようとしてきたもの)と出会うことにもなり、いずれそのことがこの列島に、再び自然を呼び戻す引き金となるかも知れないと考えたからだ。

ネイティブであることを学ぼう

  • わたしの考えるネイティブ・ピープルの道とは、地球に生きるひとびとのはるかなる遠い祖先がそうしていたように、自分が何者であるのかを自分で見つけ、自分が誰であるかを知っていく道である。文化的、社会的、人種的な背景がいかなるものであれ、人は誰もがほんとうの自分を、自分が誰であり、なにであったかを誇りにすることを学ばねばならない。と同時に、われわれは他の文化や、ネイティブの人たちを理解し敬う必用もあるだろう。

  • ネイティブの道のうえで自分を見つけることは、これまでとは異なる文化的な視点から人生をながめる機会を与えられることである。ネイティブの視点から物事の優先度をきめはじめてみよう。ほんとうに大切なものはいったいなんだったのだろう? われわれは大切なものを失いかけてはいないだろうか?

  • ルーツを失った根無し草の個人という観点からではなく、ひとつのスピリットによってつながっている集団、もしくは拡大家族のひとりとして自分を見つめなおしてみること。

  • われわれはなぜここにいるのか? 自分がほんとうはどこの土地に根を生やしているのかの探求をはじめよう。これまで教えられてきた自然よりも国家を愛するように仕向けるための歴史を、ネイティブの視点から、自然であることにたどり着くための歴史として、自分のスピリットがつながっている大地のことを知るための歴史として、もういちどていねいに見直す作業が必用となる。どこかに置き去りにしてきているものはないか?

  • われわれがもともと持っていた文化の多様性を理解することは、ネイティブとしての自分を知るための道である。われわれはみな同じなのではない。われわれはそれぞれみなちがっていて、それがわれわれを特別なものとし、ある種の美しさをも与えていたのだ。

  • われわれとは誰か? どのような人間なのか? ネイティブ・ピープルの哲学や信仰や政治的な信念を、それぞれが学ぼう。そうしたことを通してわれわれは自分と自分の可能性についてさらに深く理解できるようになるから。そして同じ道のうえをわれわれよりも以前に進んでいった人たちにたいして頭と心がひらくようになるから。

  • 自分の身体のなかを流れている血をさげすんではならない。その赤い血は、最初に風が吹いていたところがどこだったのかをわれわれに教えてくれている。一切の名前が奪われるくらいに遠い昔のことかもしれないが、手を太陽にかざしてみればそこに風の道、ネイティブの道が見えるだろう。その道のうえを伝って今に残っている個人的な容姿や性格を卑しんではならない。

  • 自分たちのものとされている創世神話を学ぼう。それはほんとうに自分たちのものなのか? いつの間にか別の神話にすり替えられていたりはしないのか? 世界各地のネイティブ・ピープルに残されている神話や伝説について学ぼう。その中に違いや共通するものを見つけよう。あらかじめ物語を失われていたわれわれには、新たな物語を作り出す必要があるのかも知れないから。

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Tuesday, March 15, 2005

星を見つめる人の存在

5千年前に「北斗七星」観測か=星座表す石刀発見−中国

【北京11日時事】新華社電によると、中国青海省黄南チベット族自治州にある拉毛遺跡から、穴とくぼみが規則正しく並んだ石製の刀が発見された。その配列は「北斗七星」や「牽牛星(けんぎゅうぼし)」と分かる星座模様となっていた。石刀は今から5000年以上前の新石器時代のものとみられ、専門家は「中国最古の天文観測を約1000年さかのぼる証拠となる可能性がある」と指摘した。 

マヤの暦では、われわれの暮らしている今の世界がはじまったのが、今から五千年前ぐらい、正確には紀元前3113年とされているそうだけれど、同じころチベットにも「星を見つめる人(スター・ゲイザー)」がいたのだね。当然のことなのだろうけれど。でもこれがどうして「中国最古」なんだろうか? 中国なんて(日本もだけれど)まだなかったころなのに。漢民族が大挙して南下して長江流域に植民地を形成したり、黄河流域でようやく水田稲作がはじまったばかりのころなのにさ。

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イロコイ連合のスポークスマンが来日する

「人間の役目は、自然を開発し、利用することではない。人間の役割は、自然に仕え、自然が犯されないように見守ることだ。人間にあるのは力ではなく、責任なのだ」
OREN LYONS(イロコイ・オノンダガ国)

アメリカ先住民の精神的指導者のひとりでオノンダガ国・亀氏族(タートル・クラン)のフェイス・キーパー(信仰の守り人)で、イロコイ連合のスポークスマンであって国連環境計画先住民委員でもある Oren Lyons 氏が、東京で行われる19回国際宗教学宗教史会議世界大会に出席されるため来日することになり、その会議の前に、京都の総合地球環境学研究所で講演会が予定されている。『ネイティブ・アメリカン=叡智の守り人』(S・ウォール+H・アーデン著 船木アデルみさ訳 築地書館刊 1997)という本をお読みになった方は、ホピのトーマス・バニヤッカ氏などと並んでいる氏の名前をその中に発見するだろう。冒頭の言葉は、そこから引用した。なおこの本では彼の名前は「オレン・ライオンズ」と表記され、彼の属する部族は「イロコイ」となっている。彼の来日を伝える手紙と共に送られてきた講演会のお知らせを以下に転載します。

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講演会のお知らせ

来る3月21日(月)、北米先住民の指導者であるホデノショニ(イロクォイ)のオーレン・リアンズ氏(Oren Lyons)の講演会を下記の要領で開催します。皆様、ご参加ください。

日時:平成17年3月21日(月)午後1時から5時
場所:総合地球環境学研究所1F大セミナー室

〒602-0878
京都市上京区丸太町通り河原町西入る高島町335
TEL/代表075-229-6111 FAX/代表075-229-6150
総合地球環境学研究所 http://www.chikyu.ac.jp/

講演者:オーレン・リアンズ氏

講演タイトル:

 1:「ホデノショニ(イロクォイ)の伝統と自然世界」
       (午後1時から2時、続いて、質疑応答)

 2:「自然世界への感謝の祈り」
   (午後3時から4時、続いて、質疑応答)

参加費  無料

同時通訳付き

※映画「ホピの予言」制作者の宮田雪さんのお連れ合いの辰巳玲子さんも参加されます。

独立行政法人日本学術振興会「人文社会科学振興プロジェクト研究事業」
「千年持続学の確立:心性の持続性に関する学融合的研究」(代表 筑波大学 木村武史)+「千年持続学の確立:社会制度の持続性に関する学融合的研究」(代表 総合地球環境学研究所 加藤 雄三)

本講演会に関するご質問は、筑波大学木村まで(takekimu@logos.tsukuba.ac.jp

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Monday, March 14, 2005

偉大な走る人たち

ホピの国の歩き方 補遺

前回「ホピの国の歩き方」で、ホピの土地へ行く一番現実的な方法は車を使うことと書いた。おそらくこれ以外に選択肢はないと思われる。「徒歩とか馬とか馬車なども考えられなくはない」と書きはしたものの、「アメリカのサハラ砂漠」と形容されたこともある土地であるわけで、わたしにはとても耐えられないと思う。この軟弱さを鼻の先で嘲笑うのがネイティブ・アメリカンのご先祖さまたちである。

ニューメキシコで見つけた
絵はがき
indianpcs
今でこそ彼らも自動車を使うが、19世紀まで、ホピの人たちはこの大地を歩いて、あるいは走って往き来していたのである。1908年にアメリカで刊行された本に『Learning from the Indians』というものがある。著者はワートン・ジェイムス(George Wharton James)という人物で、アメリカ南西部でインディアンと共に暮らして学び続けた人らしい。この本は1973年に復刻されていて、小生は1979年頃にサンタフェの町で偶然に入手した。

この本の中に「偉大な歩く人としてのインディアン」という記述がある。インディアンたちの戸外生活にふれたところで彼はこう書き記した。

「インディアンたちは偉大な歩く人であり、偉大な走る人であり、偉大なる馬の乗り手であり、山岳地帯や峡谷においては偉大な登山家である。インディアンたちが歩くのは必要に迫られてのことではあるが、同時に彼らは歩くことに楽しみや喜びも見いだしている。(中略)4キロぐらい歩くのはなんでもない。あまりにも簡単に歩き通すので端で見ていると楽しんでいるかのようにすら見える」

サード・メサのオライビやセカンド・メサのムスンヌビのトウモロコシ畑で農作業を終えた後、ホピの国の西のはずれに近いモエンコピにある自分の家までの80キロ以上の道のりを、熱く焼けた沙漠の中を丸一日かけて走って帰宅するホピの人たちも珍しくはなかったと、ワートン・ジェームズは驚嘆したように書いている。

「一度彼らの帰る途中を写真に撮影しようと考えて、往復で160キロにもなる長距離ランニングのゴール近くで待ち受けたことがあるのだけれど、わたしが見た老人はその顔にいささかも疲れの表情は見せてはいなかった」

他にもホピの人たちの健脚ぶりについてこんな記述もある。

「わたしは何度かホピの若者に1ドルほどの金を与えて、ファースト・メサのオライビの村から東のキームス・キャニオンまで、およそ120キロほどを走って手紙を届けてもらったことがある。彼は120キロを走ってわたしの手紙を先方に届け、そのまま先方からわたし宛の手紙を受け取ると、再び120キロを走って帰ってきた。所要時間は36時間であった」

当時、オライビの村には、健脚でならしたクワウェンティワという男がいて、サード・メサのオライビから、西のはずれのモエンコピまでいき、そこから今度はサード・メサ、セカンド・メサとホピの国を突っ切ってファースト・メサのワルピにいき、さらにそこから出発地だったサードメサのオライビに戻るまでのおよそ150キロを24時間で走破したと言うから、驚くではありませんか。数字だけ聞いていると簡単そうに聞こえるかもしれないけれど、灼熱の沙漠の中を走るんだぜ。しかもなるほど彼は健脚で知られていたかもしれないが、同じようなことを苦とも何とも思わずにみんなやっていたのだから、現代人の軟弱さが知れようと言うもの。

しかもこれはホピの人たちに限ったことではないのだな。グレイトベイスン大砂漠に暮らしてきたほとんどの部族の人たちが、迷子になることもなく、道なき沙漠を走って往き来するのを苦にも何とも思わずに楽しむ風情まで見せていたという。まちがっても走ってホピの国まで行こうなどとは考えないでくださいね。

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Friday, March 11, 2005

ホピの国の歩き方

Revised Monday, March 14, 2005

セカンド・メサのはずれにあるワルピ村
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ホピの国はアメリカの道路地図の北アリゾナのところに「ホピ・インディアン居留地(Hopi Indian Reservation)」と記されている。ネイティブ・アメリカン・ピープルに対する関心の高まりも後押しする形で、最近ではホピの国を訪れる人たちも増えているようだから、「ホピの国の歩き方」について「ホピ文化保護局(Hopi Cultural Preservation Office)」で得られる情報を下敷きにして、すこし書いておこう。

ホピの国はよく沙漠という水のない海のなかに浮かぶ島にたとえられる。もちろん飛行場なんてものはない。昔さながらに、徒歩とか馬とか馬車なども考えられなくはないが、一番現実的な行き方は自動車だろう。一番近くにある飛行場はアリゾナのフラッグスタッフ(FLAGSTAFF)である。およそ半日のドライブ。ニューメキシコのサンタフェ(SANTA FE)からだとまるまる一日はかかるかもしれない。途中でをいろいろ見て回るのなら、ホピの国まで2日はみておいた方がいい。

ホピの国は、3つのメサと呼ばれるテープル状台地によって分けられている(地図)。それぞれの呼び名は「ファースト・メサ」「セカンド・メサ」「サード・メサ」だ。それぞれのメサの麓をつないでいるのがアリゾナ州の州道(ステイト・ハイウエイ)264号線である。最も東に位置するのがファースト・メサでサード・メサが西側に当たる。それぞれは「メサ」の呼び名であるが、地名としてはその切り立った崖の麓のエリアをもふくんでいる。

ファースト・メサ
メサのうえには3つの村がある。ハノキ、シツォモビ、そしてワルピ。ハノキに最初に住み着いたのはニューメキシコから移住してきたリオグランデ・タノア語を話すプエブロの人たちで、それは1680年のプエプロ大蜂起の直後のことだった。すぐ近くのシツォモビはホピの人たちの村で1750年に創設された。すこし離れたところにあるワルピは1690年につくられた。ファースト・メサの3つの村は棒状の粘土を手でまいて作る焼き物を生み出すことで世界的に有名である。

セカンド・メサ
セカンド・メサは3つのホピの村の複合体である。ムスンヌビ、スパウロビ、ソンゴパビの3つの村だ。「ミションナビ」とも発音されるムスンヌビと、「シパウラビ」とも発音されるスパウロビのふたつの村が、メサのうえを東と西に分けている。セカンド・メサから降りたところにセカンド・メサ・ストアストアという雑貨屋があり、そこからさらに数マイル西に離れたところに「ションゴポビ」とも発音されるソンゴパビの村がある。もともとソンゴパビはメサのすぐ麓のところにあったホピの人たちの村なのだが、1680年のプエプロ大蜂起の後に現在のところに移動した。この村は銀細工の巧みさで有名である。

サード・メサ
北アメリカ大陸で最も長きにわたって人が住み続けている村のオライビはサード・メサにある。キコツモビ、ホテビラ、バカビも同じサード・メサに位置する。このサード・メサから40マイルほど北西のチューバシティのそばにあるモエンコビという名の、ホピの人たちの村のなかでも一番西に位置する村も、現在の場所に移動してくる以前はサード・メサのなかの村のひとつで、オライビ村の飛び地のようなものと考えられている。キコツモビにはホピ部族の政治の中心である部族政府が置かれている。

一応政治的な中心が部族会議にあるというものの、ホピの村々は村ごとにはっきりと分かれていて、それぞれが集団として自治を行っている。どの村も車の駐車場がはっきりと限定されているので注意が必要だ。どこに車を駐車すればよいのかがわからない時には誰かに尋ねること。どの村にも村にはいるからには守らなくてはならない規則があって、場合によっては村の中でおこなわれる宗教的な儀式に観光客の立ち入りを認めていないところもある。もしそのような規則が事前に伝えられていたら、ホピの人たちの願いを聞き入れて、彼らのプライバシーを守り、無理矢理村の中に入っていかないこと。

ホピの村を訪れる時には礼儀をわきまえよ

相手が観光客であれなんであれ、窓越しに家の中をのぞき込んだり、かってに家の中にずかずかと入っていくことは、きわめて無礼なこととホピの人たちは考えている。ホピの村は「生きている博物館」ではないのである。そこはあくまでも個人の土地であり、ホピの土地を訪れているあなたは個人の家の「客人」にすぎない。過去に訪問者が勝手気ままに振る舞ったことが、村への立ち入りを規制することにつながったことがあることを忘れないようにしよう。

ホピの人たちの共同体に迎え入れられること、それも彼らの宗教儀式の場に立ち会えることは、彼らの特別な計らいによるものである。それは観光客の権利などではない。せっかく与えられた機会を台無しにしてしまわないように、訪問客はやってはいけないことにたいして心の底から配慮しなくてはならない。彼らにたいする敬意が十二分に払われてさへいれば、あなたはホピの人たちの暮らす世界で学ぶこともたくさんあるだろう。やってはいけないことというのは、人の道に反するようなことは当然のこととして、改めて注意を喚起しておきたいのは以下の点である。

なんであれ記録は一切とるべからず

個人の家の中は当然のこと、ホピの村の中でも、村の外でも、ホピの国に入ったらどこでもいかなるかたちであれ記録することは原則として禁じられている。記録のなかには、写真撮影、ビデオ撮影、録音、スケッチ、ノートを取り出してメモをとることなどが含まれている。とくに儀式が行われている場においては、そのような行為は厳禁である。

ホピの人たちのところに訪れる機会を得たら、ふたつの目とふたつの耳を使ってよく見て、よく聞いて、頭と心にそれらの情報を焼きつけるようにすること。ホピの村で見たり聞いたり、そしてあるときには特別な許可を得て記録したものを、ホピ文化保護局(Hopi Cultural Preservation Office)に事前に相談することなく、あるいはエルダーから直接の許可を得ることなく本などにして公開することは搾取と考えられている。まだホピ文化保護局など存在しなかった時代に『ホピの書』を著したフランク・ウォーターズも、伝統派の長老たちから非難され続けた。

arrow4Hopi Cultural Preservation Office Home Page


techqua_wheel儀式の場に立ち会うのは権利ではなくて光栄なこと

情報が時代をリードするようになって「知的財産」という言葉もしばしば耳にするようになったと思う。「著作権」という法律用語もある。はっきりいえることはここ何十年にもわたってホピの人たちの「知的財産」は、ホピではない人たちによってまるっきり守られてこなかったということである。観光客や学者やジャーナリストが隠し撮りしたホピの儀式のビデオのコピーや、録音された儀式のダンスの音楽が勝手に売り出されたこともある。ダンスの衣服がなにひとつ相談されることなく写真に撮影されて同じようなものが市場で売り出されていたこともある。彼らのものをホピの土地の外で公開するには彼らの許可が絶対に必要である。一例をあげるなら、かつてランド・アンド・ライフが刊行した「ホピ物語——生命の始まりから浄化の日まで」という小冊子は、ホピのエルダーが「ホピの教えを売ることは自分の母親を売ることに等しい」と言われたとおり、はじめから値段がつけられていない。今ではコンピュータでもダウンロードして読めるかもしれない。しかしそれはただではないのである。それを読んだ人は、彼らの知的財産に敬意を払う意味でも、自分にできる範囲で応分な寄付をホピの人たちに送らなければならない。ホピの儀式の写真を書物のなかで公開する時には文書による許可が必用である。ホピの窯元の匠たちが作り出したデザインの多くがホピでない人たちによってコピーされて商品化されてきた。彼らが神聖なものとしているカチーナの人形は今も希少価値から高額で売り買いされているが、そうやって売買されるカチーナ人形のなかにも、ホピでない人たちがホピの儀式を見て自分勝手に作ったものが混ざっていたりする。

ホピの行う儀式というのは、常に万人の利益になることを願ってのものなのではあるけれど、そこでいう利益は、伝統的な儀式そのものが適正に守られて行われることが前提になっている。ホピでない人が、ホピの人の許可を得ることなく、ホピのものを用いて個人的な利益を求めることは、ホピの人たちの知的財産を侵害する行為とされてもおかしくない。ホピの世界に触れる時にはいつでもこの問題がついて回ることを念頭に置いておいていただきたい。

(「ホピの国の歩き方」の最初に掲げられているセカンド・メサにあるワルピ村の写真は、エドワード・カーティスが撮影した。メサのうえに家が並んでいるのだが、遠くからだと見分けがつかないくらい風景にとけこんでいる。20世紀の初頭に撮影されたものだが、遠景は今もほとんどかわっていない。Northwestern University Library, Edward S. Curtis's 'The North American Indian': the Photographic Images, 2001. )


着ていくもののこと

もしもホピの儀式に参列する栄誉が与えられた場合、友人の結婚式や家族で行う儀式同様に、着ていくものには考慮を要する。いくらホピの土地がアメリカ南西部の沙漠の中にあって昼間は気温が30度を超すことがあるからといって、やはりショートパンツやミニのスカートは避けるべきだろう。せめてロング・パンツやロング・スカートぐらいは身につけていきたい。それに南西部の沙漠は昼と夜の気温の差が大きいので、重ね着の出来る長袖のシャツや、ロング・パンツやロング・スカートは必ず持って行った方がいい。冬には当然ながら暖かいコートも必用になる。それから歩いて村のなかを回ることになるわけだから、日焼け止めは欠かせない。

儀式をさえぎってはならない

まずあらかじめ書きとめておかなくてはならないのだが、ホピの人たちが月の満ち欠けにあわせて行うすべての儀式が一般に公開されているわけではない。これだけはよく頭に入れておいていただきたい。儀式の場にいくと、なかにはいることを許されている人たちが書き出されて、張りだされていることがしばしばある。そうしたサインが出されていない場合でも、村の雑貨屋などで尋ねるか、それぞれの自治会に確認をとるべきである。一般に公開されている儀式の場においては、その場に居合わせた人たちが守らなければならない規則は当然ながら守らなくてはならない。

相手がめでたい結婚式をしているのに、彼らの祭壇に不用意に近づいてあれこれ質問をしてひんしゅくを買っていても、そのことに自分ではまったく気がつかない人たちもいる。ホピの人たちの儀式が行われている時には、それがいかなるものであれ、身勝手に儀式に割って入ったり、中断させたりするような真似をしてはならない。

いろいろタブーがあってややこしいのだが、おぼえやすくて簡単な決まり事としては、たとえ招待してくれる人があった場合でも、最も神聖な儀式が執り行われているキバ(地下の神聖空間)のなかにわざわざはいることは、遠慮すべきである。キバの入り口の周りに踊りを踊る人たちや行進をする人たちがいたりするから、その人たちのところにとどまっているのがよいだろう。自分がいっかいの見学者であることをくれぐれもよくわきまえること。それ以上の存在でもそれ以下でもないのだ。その場に偶然居合わせたことだけでありがたく思い、ひとりで目立つようなことがあってはならない。

触るなということ

それがなんだか自分には理解できないものが目の前にあったなら、絶対に手で触らないこと。それがなんであれ。アメリカ南西部の沙漠には、ホピに限らず、いくつもの、ヒスパニック系や、ネイティブ・アメリカン系や、アメリカ南西部で生活をしているさまざまに文化的な背景のある「聖なるもの」があったりする。ハイウエイの路肩に置いてある、事故で死んだ愛する人をしのぶ記念品などにも、触ってはいけない。聖なるもののすべてが、誰にでも見分けがつくとは限らないのであるから。

ホピの人たちの精神性、スピリチュアリティーは、彼らの日常的な暮らしと密接に結びついている。あなたにとっては見慣れたなにかであろうと、それを祈りと共にそこに置いた人にとってはとてつもなく意味のあるものかもしれないのである。神聖なものにあたえられている神聖さを打ち壊すような真似は、これをしてはならない。沙漠の中などに、ホピの人たちが持ち寄ってさまざまに置いてあるようなものを万一見つけたときも、いきなりそれを手に取りあげたりするのではなく、それを捧げ物としてそこに置いた人の気持ちにたいして尊敬を払い、視線を他に移すこと。

ホピの国を訪れるときになにを持って行くか
たとえばあなたが今年の夏にホピの土地へ訪れる計画を立てているとしよう。その場合にはあらかじめいくつか知っていなくてはならないことがある。ひとつ、飲み水をたくさん持って行くのを忘れないこと。ふたつ、日焼け止め。強烈な太陽だけでなく、空気が信じられないぐらい乾燥しているから。みっつ、長時間歩くのにふさわしくて快適な履き物。ホピの村のなかはどこも乗り物で移動することが禁止されている。

冬にホピの土地へ訪れる場合には、暖かな服を忘れないこと。とくに夜は思いの外冷える。メサのうえは風が強くて身を切るような寒さだ。使わない時には車のなかに置いておけばよいのだから、上から着れるダウンのコートなどがあった方がいい。

ホピの国で泊まれるところ
ホピ・インディァン・リザベーションのなかには宿泊施設が2カ所しかない。一件は東側のはずれにちかいキームス・キャニオンにあるホテル&モーテル(The Keams Canyon Hotels & Motels)で、もうひとつはセカンド・メサにあるホピ・カルチュラル・センターに付随するテックスメックスというかプエブロ風のイン(The Hopi Cultural Center Inn)である。

キームス・キャニオン・モーテルは部屋数が24、カフェとギフトショップがある。どちらかというとアメリカ中を旅して回るトラベリング・セールスマンたちの定宿といったおもむき。ホピ・カルチュラル・センター・インは部屋数が33、レストランと博物館、キャンプ場もある。こちらはエキゾチックで、いかにもホピの国の真ん中という感じがたまらない雰囲気をかもしだしている。ホピの土地のまんなかでキャンピングカーを駐車して宿泊できるのはここだけ。

どちらのモーテルも、夏場はかなりの混みようだ。ホピの国を訪れる1ヶ月前までには予約を入れておくことを強くおすすめする。

pueblo"The Hopi Cultural Center Inn" Home Page
"The Keams Canyon Hotels & Motels" Home Page

その2カ所以外に宿泊施設があるのは近郊のチューバシティ、ウインズロー、フラッグスタッフといった北アリゾナの町であり、いずれの町からも、半日から丸一日のドライブを覚悟しなくてはならない。

ホピの国ではどこで食事ができるのか
食事のとれる施設がリザベーションのなかにはいくつかある。キームス・キャニオン・ショッピングセンターにはカフェがある。セカンド・メサにあるカルチャー・センターのショップのなかには小さなレストランが、カルチュラル・センターのなかには大きなレストランがあり、大きなレストランでは、いわゆるアメリカン・スタイルの食事以外に、ブルー・コーンでつくられた紙のようなパンであるピキ・ブレッドなどの伝統的なホピの人たちの食事も味わうことが出来る。

またそれぞれの村には、観光客に有料で伝統的な食事を出してくれる家もあったりするし、軽食であれば、各村の村営ショップや個人経営のコンビニで購入も可能であるが、そうしたショップをはじめての観光客が見つけられるとは限らない。

ホピの国のその他の施設

リザベーションのなかにガソリンスタンドは5カ所。南からのぼる場合、最初のスタンドはキームス・キャニオンになる。マギーの店とカフェに隣接している。2つ目のスタンドはポラッカのサークルMというコンビニにある。3つ目はハイウエイ264とハイウエイ87の交差点から4分の1マイルほどのところで、ここには修理工場もある。4つ目のスタンドはキコツモビ村のなかに、5つ目はホテビラの生協(コープ)にある。ホテビラから50マイルほどのチューバシティにもいくつかスタンドがある。

ギフト・ショップ
リザベーションのなかのハイウエイ264に沿っていくつかギフト・ショップがあり、ホピの工芸品を購入できるが、壺だとか銀細工などは村人の家で直接購入することもできる。そういう工芸家が個人ギャラリーを構えている家には、「土器売ります("Pottery sold here")」とか「カチーナ人形販売の店("Katchina dolls sold here")などと描かれた看板が出されているので、訪れてみる価値がある。

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Thursday, March 10, 2005

ショショーニとパイユートが仲が悪いのはなぜか

ヨーテというのは、彼の兄弟である狼(ウルフ)とおなじように、スピリチュアルな存在なのだ。世界がはじまったときコヨーテは亀の島のふるさとをあとにして、太陽が昇る方角に向かって東へ東へとどこまでも旅を続けて大きな海を越えたという。はるか遠くの土地で、コヨーテは嫁さんをめとり、たくさんの子どもたちをもうけた。この子どもたちというのがインディアンである。南北アメリカ大陸に長いこと暮らし続けている偉大な部族のご先祖さまたちだ。

パイユートの籠水筒
PaiuteBasketjag
コヨーテはふるさとに帰るために、柳の木の枝で編んだ「ウォサ」という名前の、水を入れてもこぼれないぐらい丈夫で頑丈な栓のついた籠水筒のなかに、子どもたちを押し込んだ。出発を前に、なにがあろうと、旅が無事に終わって、ロッキー山脈とグレイトベイスン沙漠に着くまでは、くれぐれもウォサの栓をあけてはならないと、コヨーテは言われていた。

ずる賢くて好奇心だけは人一倍旺盛なコヨーテだったが、ふるさとに帰る旅の途中、ようやく亀の島の東海岸に帰り着いたところで、ウォサのなかから太鼓を打つ音や歌をうたう声が聞こえてくると、もう矢も盾もたまらずに、ここまで来ればちょっとぐらいなかをのぞいたところでどうってことはあるまいと考えた。

そこで彼がウォサの栓を開けて中をのぞき込もうとしたとたん、ウォサの中から子どもたちが一度にわっと飛び出して、四方八方今の南北アメリカ大陸のあちこちに散らばっていってしまった。大あわてでコヨーテがウォサに栓をしたときには、なかにはもうふたりしか残っていなかった。そのふたりがショショーニとパイユートだったのだ。しかたがないのでコヨーテはそのふたりを連れてグレイトベイスン沙漠のふるさとに戻った。

コヨーテがグレイトベイスン沙漠にたどり着いてウォサの栓をはずして逆さまにすると、なかから残っていたふたりの子どもが転げ落ちてきて、いきなり喧嘩をはじめた。

コヨーテはふたりを蹴り飛ばして喧嘩をわけるとこう伝えた。

「いいか、おまえたちふたりはどちらも俺の子どもなんだ。ほかの子どもたちはどこかに消えちまったので、これからは好きなだけおまえたちで兄弟喧嘩をするがいい」

とまあ、こういうわけで、今のカリフォルニアや、ネバダ、アイダホ、ユタ、オレゴンに暮らして、自分たちのことをそれぞれ「ニュウイ」と「ユマ」と呼んでいるグレイトベイスン沙漠のショショーニとパイユートのふたつの部族は、顔をあわせるといつだって喧嘩をしている。

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Wednesday, March 09, 2005

(転載)シンポジウムのお知らせ

    シンポジウム— 3月27日(日) 10:00〜12:30
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     ☆★日本の森で何が起こっているのか★☆
            〜クマ大量人里現象から学ぶ〜
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               主催:日本熊森協会
               協賛:園田学園女子大学

 2004年秋、全国各地で大量のクマが人里に出て来るという
 異常現象が起こり、原因をめぐって様々な説が出されました。
 いったい本当の原因は何だったのか。
 無念にも殺されていった、大量のクマたちから、
 人間は何を教わり、何を学び、今後、何をせねばならないのか。
 様々な立場の方をゲストに招き、みんなで考えたいと思います。

Continue reading "(転載)シンポジウムのお知らせ"

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古代の台湾島と日本列島のつながり

台湾の古人骨 日台共同研究 日本人の起源解明へ 九大など参加

なぜこれが「地方ニュース」になるのかよくわからないけれど、YAHOO! NEWS の九州で見つけました。研究の結果の公開が待たれるではありませぬか。

【台北6日竜口英幸】台湾大医学部(台北市)と、琉球大や九州大など日本の七研究機関は、台湾大が所蔵する世界有数の人類骨格標本を総合的に調査し、台湾先住民の特徴や起源、日本人の祖先との関係を探る共同研究に乗り出す。調査成果は個体別データベースとして公開する方針。台湾先住民が属する南島語族と、日本の縄文人との遺伝的近さを指摘した研究もあり、台湾と日本人の起源との関係解明が期待される。

台湾大医学部の骨格標本は、日本統治下に同大の教授を務めた故・金関丈夫氏(のち九大医学部教授)らが発掘・収集。戦後、教え子の蔡錫圭同大名誉教授(人類学)が研究と標本整備を進めてきた。台湾の先住民を中心に沖縄やフィリピンのものなど多様で、全部の骨がそろった完全標本だけでも約二千体がある。

共同研究には東北大、京都大、鹿児島大に加え国立科学博物館(東京)、国立民族学博物館(大阪)の研究者も参加。最先端の骨計測法によるデータの統計処理やDNA抽出による遺伝子の調査などを実施。まず標本の中心を占める台湾先住民の各部族ごとの特徴と、相互の関係を明らかにする。その上で、日本人の祖先との関係を重点的に検証する。

予備調査は既に終えており、日本側団長の土肥直美・琉球大医学部助教授(人類学)によると、五月ごろに研究チームを正式編成し、三年程度で成果をまとめる方針だ。

古代の日本や台湾先住民に共通する抜歯風習の研究を担当する中橋孝博九州大教授(同)は「抜歯の起源は大陸か南島か、なぜ生まれたかなど、よく分かっていない。起源や地域差を探り、日本との関係を解明したい」と話している。

■台湾大の人類骨格標本

日本統治下の1930年代、台北帝国大教授として赴任した金関丈夫氏や、森於菟(おと)氏(のち東邦大教授)、考古学者の国分直一氏(のち梅光学院大名誉教授)らが発掘・収集を始めた。台湾の先住民や2000―3000年前の古人骨をはじめ、フィリピンや中国・海南島、福建省のもの、琉球列島の日本人の骨格など多様な標本がある。これまで研究者不足などから国際的、科学的調査が進んでいなかった。金関氏は弥生人研究の先駆者として知られ、九大教授時代、土井ケ浜遺跡(山口県)の人骨研究などをもとに弥生人渡来人説を提唱した。(西日本新聞 - 3月7日2時25分更新)

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パイユートの人たちが大喜びの理由

せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。
北山耕平 拝

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Friday, March 04, 2005

七つの火の予言

The Prophecy of the Seven Fires


Editor's note: この教えのなかの予言の部分はグランドファーザーのウイリアム・コマンダ(William Commanda)翁が1997年4月16日と17日にカナダ、ケベック州のアイルナーで開催された the Aboriginal Learning Network Constituency Meeting of Elders, policy makers, and academics で一族に伝わるワムパムという帯の図柄を解読して公開したものを基に翻訳編集したものである。


からざっと千年以上も前、アニシナベの人たち註1は北米大陸東北部の大西洋沿岸地帯に広がる森と川と湖の大地で暮らしていた。人の数も多く、力のある一族で、その地方の一番高い山の頂からながめて見えるところは四方八方どこまでも、ことごとくすべてがアニシナベの国だった。

カヌーを足の代わりに用い、冬になると犬ぞりを使って遠くまで旅をした。暮らしはとても豊かで、いつも美に包まれていた。その信仰は「輪の道(way of the circle, the)」と呼ばれ、夢やヴイジョンを通して知恵や力を自然に受け継いでいた。ひとびとはスピリットの道に従い、すべてのいのちあるものたちとの調和のなかを、バランスをとって歩いていた。

いのちを差し出して食べものとなってくれる動物たちや魚たちとも言葉を交わすことができた。草や木々の話す言葉に耳を傾けて病を癒す薬も得ていた。不思議な力の存在と螺旋の神秘を理解していて、この知識を利用することでいともたやすく空間を越えて長い距離を旅することができるものもいた註2

アニシナベの国には警察も法律も裁判所も判事も牢屋もなかった。彼らは「輪の道」にしたがって共に助け合い、一族の共同体の幸福と健康のために持てる才能と技を惜しみなく使った。狩人も猟師も腕の立つものは獲物をわけあうことを常とした。女たちはみなで野や森に入って食べるものを採集し、それを一族のものたち全員に分配した。

最初に創造主から与えられた指示にしたがって、彼らは「輪の道」のなかに場所を得ているあらゆるいのちあるものを愛し、讃え、尊敬した。その教えは天地創造のはじめにすべてのひとびとに与えられたものであり、われわれひとりひとりのハートに書き込まれていた。


ニシナベに語り継がれる歴史は、これまでに一族のもとに七人の予言者が現れたことを伝えてきた。それらの予言者は、一族のものたちが北米大陸東北部沿岸で平和の内に暮らしていたときに別々に訪れた。どのような未来がやってくるのかについて予言者たちは予言を残した。予言はそれぞれが「火」と呼ばれ、それぞれの火はまた未来のある特定の時代を示すものとされた。それがために、七人の予言者が残した教えは、「七つの火」として知られている。

はじめの予言者は、アニシナベの国に「最初の火の時代」が到来する日のことを伝えた。海岸の近くに村を作り、海で採れる子安貝を宝物としていた一族が、いずれその土地を離れることになり、子安貝のうえにあらわれる御しるしにひとびとが従う時がくるだろうと。一族は西方の見知らぬ土地へ、亀の形をした島を探して長い旅をすることになると。その島は大地の浄化と関係があり、一族は長い旅の最初と最後にそうした島を発見することになっていると。旅の途中で、一族はふたつの大きな甘い水の海をつないでいる川と遭遇し、その川を伝っていくと、さながら大地を切り裂くナイフのように、川幅は見る見る狭くなり、川の深さはさらに深くなるだろう。一族は川をさかのぼりながら全部で七度、村づくりを試みることになっていて、この旅が終わるのは、水のうえに食べものが育つのを見つけたとき註3だとされた。もしそのまま今の場所に居続けて旅に出なければ、多くの苦難がのしかかってきて、一族は滅びるし、旅に出れば出たで、他の国々から狙われて攻撃を受けるだろうから、いつでも戦えるように守りを固め、あらかじめめいめいが体を鍛えるなど準備を整えておかなくてはならないだろうと。

二番目の予言者は、甘い水の海の近くで野営をしているとき、一族は道に迷うことになって、「第二の火の時代」の到来を知るだろうと伝えた。そしてそのときがきたら、一人の少年が夢の中で正しい道に帰る道を見つけ出して、未来へと続く道に戻ることができると。

三番目の予言者が伝えたところでは、「第三の火の時代」に、アニシナベ一族は自分たちのためにあるような土地に通じる道を見つけることになると伝えた。一族はその道をさらに西に向かい、やがて水のうえに食べものが育つ場所にたどり着くだろうと。

四番目の予言者は一人のように見えて実はふたりいた。ふたりでひとりの予言者は「第四の火の時代」になると、明るい肌の色をした人たちが到来すると伝えた。アニシナベ一族の未来は、その明るい肌をした人たちがどのような顔をしであらわれるかにかかっているのだと。彼らが友好的な顔であらわれるのであれば、素晴らしい変化の時が訪れるかもしれない。昔ながらの知識のうえに新しい知識が加えられて、ふたつの人たちは力を合わせて強力な国を作りあげる。その後さらにふたつの国がこの国には加わって、全部で四つの国がいっそう強力なひとつの国を形作るだろう。その人たちが知識と善なる意志さへ持ち寄ることができるのなら、みなは兄弟のごとくなるだろうと。

「しかし」と四番目の予言者の別のひとりが言った。「その明るい肌の色をした人たちが死者の顔を持ってくるときにはくれぐれも用心しなくてはならない。友好的な顔と死者の顔は見分けがつかないくらいよく似ているからだ。苦しみを引き連れてあらわれる彼らはあなた方をからかい、見下すことだろう。連中のハートはこの大地に秘められた豊かさにたいする強欲であふれている。そのものたちが真の兄弟か否かは、そのものたちに証明させればよい。くれぐれも頭から信用したりしてはならない。それが死者の顔かどうかは、川の水が毒となり、魚が食べられなくなることではっきりすることだろう」

五番目の予言者は、「第五の火の時代」に、明るい肌の色をした人たちの考えている生き方と、自然に従う人たちの多くの国々の自然なスピリットの道とのあいだで、とてつもない戦いが起きるだろうと伝えた。「この火が熱を失うころ、大いなる喜びと救済を約束する人たちがあらわれる。ひとびとがそれらの約束を受け入れて、昔から伝わる道を捨て去ることがあるかもしれないが、しかし戦いは何世代にもわたって続くだろう。このときの約束は偽りの約束であり、それを受け入れたものたちは、ほとんどが滅び去る」

六番目の予言者が一族のものたちに伝えたところによれば、「第六の火の時代」になると、「第五の火の時代」に受け入れた約束が偽りであったことがおのずからあきらかにされるという。「その約束に目をくらまさせられたものたちは、エルダーの教えから子どもたちを遠ざけることになる。孫や子が年寄りに逆らうようになり、エルダーたちは生きる目的を失い、多くが病のうちに死にゆくだろう。それまでになかった新しい病気がひとびとの間に広まり、たくさんのものたちの人生がやがて悲しみと嘆きで満ちあふれることだろう」

七番目の予言者は、それ以前にやってきた六人の予言者よりも年齢が若くて、その目には不思議な輝きが宿っていた。彼は、そのときがくれば、長く飲み水に毒が加えられ続けたためにその水で生きていた動物たちや植物たちが病に冒されて死にはじめるだろうと告げた。森林の大半が、草原の大部分が失われ、空気の中のいのちの力が失われはじめると。白の国が、赤と黒と黄の国々にもたらす「頭の道(way of the mind, the )」によって、地球そのものがまるごと危険にさらされることになるだろう。そしてこの「第七の火の時代」になったとき、幻の雲をかき分けて新しき人たちがあらわれると予言者は伝えた。

彼らは今一度自分たちの進んできた道をたどり直して、細い道のかたわらにうち捨てられたままになっていた宝を見つけ出すだろうと。失われていた物語が彼らのもとに帰ってくる。最初に創造主から与えられた根本の教えを彼らは思い出し、「輪の道」のなかに力を見つけ出すことだろう。その力を探し求めるなかで、彼らはエルダーたちのもとへと導かれて、新しき人たちも導きを求めるようになる。だが、そのときすでに多くのエルダーたちは星々の網のなか魂の道を歩きはじめているし、かろうじて生き延びたエルダーたちは、昔の知恵を忘れ去っていて、およそ力になることなどできないかもしれない。なかには、眠りこけたままのものもいるだろうし、見当違いの誤った方角を指し示すエルダーもいるだろうし、おそれるあまりに口をつぐんで黙したままのものもいるだろう。しかしなかには、それまでに誰も知恵のことを尋ねてくれなかったからという理由だけで、口を開かないできたエルダーたちも、いないわけではない。新しき人たちはエルダーたちに用心しつつ近づかなくてはならない。新しき人たちの任務はたやすいものではないだろう。

turtfireanim2もしこの新しき人たちが、あらゆるものの道のなかで、輪のなかで、心を強く保ち、頼れるものを見つけたなら、そのときにはもうエゴの発する利己的な声は不要となり、彼らも自らの内なる声を信じはじめることが出来るだろう。夜といわず昼といわず、あまたの夢の中に知恵が再び見つけ出されるようになるだろう。聖なる火が再びともされる。このときには明るい肌の色をした人たちにもふたつの道註4の選択が与えられよう。この人たちが正しき道を選べば、第七の火が第八の、そして最後となる火をともすことだろう。ひとびとがみな兄弟姉妹のように生きる時代、最後の火の時代がおとずれるのだ。もしその人たちが選ぶ道を過ち、いつまでも「頭の道」にとどまり続ければ、今度こそほんとうの破滅がもたらされる。地球に生きる人たちはさらなる苦痛と多くの死を体験することになるだろう。

Beadline.jpg


註1 アニシナベ 「ひとびと」という意味。カナダではオジプエ、オジブウェイと、アメリカではチペアとも呼ばれるが、自分たちで自分たちのことをいうときにはアニシナベ(Anishinabe)という。アニシナベには、ミクマック、マリシーツ、ペノブスコット、ワンパノアグ等の部族を含む。北米大陸先住民の中で最大の言語圏アルゴンキン語族に属する。もともとは北米大陸東北部大西洋岸やハドソン湾岸の森林地帯にウィグワムという簡易住居を建てて暮らしていたが、のちに西方に移住拡大し、現在は五大湖の周辺、主にはスペリオル湖の周りに暮らしている。北米先住民のなかではディネ(ナバホ)やツァラギ(チェロキー)と肩を並べる大きな部族。ビーズ細工でさまざまな図柄を施した「ワムパム」という帯と、それぞれのパターンの解読法を伝承することで、一族の歴史を長く伝えて今日に至る。

註2 現在のアメリカ合衆国の南西部の沙漠の中にあるホピの国には、彼らがキバと呼ぶ地下の聖なる部屋に、いきなり姿を現したアニシナベの人間のことを語り継ぐものがいる。その人間はホピの人たちとしばらく話をしたあと、ともに儀式を行い、そしてまたそのままキバの壁のなかに姿を消したという。

註3 「水のうえに育つ食べもの」とは彼らにスピリットを与えるとされる「メノミン(ワイルドライス)」のこと。「インディアン・ライス」と呼ばれることもある。日本名を真菰(まこも)といってイネ科の大型多年草。川や沼や湖で成長する。アニシナベの文化の中心にある聖なる穀物。ヨーロッパ人がやって来る以前の北米大陸北東部から南東部のほとんど至る所の沼地や湖に生えていた。「神さまの庭の食べもの」ともいわれる。東アジアでは若芽などを食用としてきたが、日本では古くから薬草のひとつとされ、今も特に神事に用いられていて、たとえば出雲大社の巨大なしめ縄は真菰で作られていたりする。

註4 インディアンの国に住んでいる多くの伝統的な人たちは、この明るい肌の色をした人たちのふたつの道を、「科学技術に至る道」と「精神性に至る道」というふうに理解している。

参考 小さな兄弟 アニシナベ(オジブウェイ)族につたわるおはなし
   コウモリはなぜコウモリになったのか?

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Thursday, March 03, 2005

第七の火

home_spiritlogoスピリット——第七の火』(ピーター・バフェット Peter Buffett 演出)という長期公演のライブステージが昨年来、米国で話題になっている。専用に組みあげられて750人の観客を包み込む巨大なテントの会場のなかで、ライブ音楽と巨大なスクリーンに映し出される映像とネイティブ・アメリカンのダンスとドラムビートとストーリーテリングによってアメリカ・インディアンのスピリットとヴィジョンを90分間で体験させようという過去に例を見ない壮大な試みだ。全米から選ばれたネイティブのダンサーやシンガーやドラマーたちが顔をそろえて、ネイティブ・アメリカンの音楽家・作曲家として著名なショウニー族のチーフ・ホーク・ポウプを音楽と語りの柱に据えて、大人から子どもまでに魔法のような時間を体験させてくれるのだという。昨年後半は演出家のピーター・バフェットの活動の拠点であるミルウォーキーで主に公演を続けてきた舞台は現在は休演中だが、今年の初夏からはいよいよ全米各地でのツアーに動きはじめる。最初の公演地はフィラデルフィアに決定した。各種のメディアも取りあげはじめているので、おそらく今後大きな話題になるだろう。

「第七の火」とは、「調和のとれた新しき生活を求めてはるかな祖先の足跡をたどって歩きはじめる新しい人たちがあらわれる癒しの時」のことで、これもまた「虹の戦士」と同じように予言の中、アニシナベと自分たちのことを呼ぶ北東部大西洋沿岸地帯の森と川の民の予言の中に登場した「新しい時代」の概念である。この目と耳と心に訴えかけるダンス・シアターは、観客にある種のスピリチュアルなヴィジョンを体験させることを目的に構成されているようだ。この『スピリット——第七の火』はアメリカ・インディアンの伝統的な文化を紹介するだけで終わるようなものではなくて、先住民の世代観や歴史観をとおして、われわれが誰であり、どこから来て、いずこへ向かうのか、その理由をも問いかけるものとなっていると、新聞に掲載された批評は書いていた。いうならば「劇場におけるヴィジョン・クエスト」であるとも。詳細や舞台の画像やテーマとなる音楽サンプル、劇場ができあがるまでの映像などは以下のホームページへ。

Spirit - The Seventh Fire

なおこの『スピリット——第七の火』はアメリカの「ルドルフ・シュタイナー財団」が後援をしている。あの地球と共同体を癒すことを目的にするシュタイナー教育のシュタイナー財団であります。このツアーがアメリカのあとで日本にもやってきてくれないかなと思うのはわたしだけだろうか? うーん、今年は一度アメリカに渡ってこの公演を見てくることも考えなくては・・・

追記

アニシナベの人たちに伝えられた「七つの火」の予言について、ここで書こうと思ったのだが、あまりに長くなって、まだ終わらないので、明日のブログに掲載することにした。しばし、お待ちを。

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Wednesday, March 02, 2005

蝦夷(えみし)に朝廷がコメ支給

興味深いニュースを見つけた。3月1日の 11:01 にasahi.com が配信した「蝦夷に朝廷が米支給 秋田・胡桃館遺跡の木簡判読」というもの。記事を全文引用する。木簡の写真はリンク先でご覧ください。なおこの記事は同日の夕刊(3版18面)に掲載されたときには写真がなく「『蝦夷』の地に朝廷の出先か」というタイトルに差し替えられていた。

秋田県鷹巣町の平安時代の集落跡「胡桃館(くるみだて)遺跡」から出土した木の板が、米の支給を記した帳簿とわかったと同町教委が1日、発表した。9世紀末から10世紀初頭ごろの、行政の記録らしい。一帯は、11世紀半ばまで京都の朝廷の支配が及んでいない「蝦夷(えみし)の地」とされてきたが、朝廷側の出先があった可能性が高くなった。▽木の板は37年前の調査で見つかっていたもので、約22センチ四方。このほど奈良文化財研究所が赤外線装置で調べたところ、米を支給した記録が墨の文字で書かれていることがわかった。「玉作麻呂」「米一升」などと受け取った人の名前と米の量が記されていた。▽熊田亮介・秋田大教授(古代史)によると、胡桃館遺跡では4棟の建物が確認されているが、周囲の蝦夷の住宅とは構造がまったく違い、集落の性格をめぐり議論が続いてきた。発見された木の板は朝廷側の行政の記録とみられるという。▽「出羽の国府の出先のような形で、蝦夷の地に何らかの役人が常駐していたことが考えられる。古代の北方社会の支配の状態や、蝦夷と朝廷側の関係を考えるうえで貴重な資料だ」と熊田教授は話している。 (03/01 11:01)

秋田県鷹巣町は白神山地にもほど近い出羽国の山奥にあり、積もり重なった火山灰(十和田湖や白頭山の大噴火によるもの)の下から出土したものは、ヤマトの朝廷が蝦夷(えみし)にコメの食料援助をしていたことがわかる行政側の記録である。ちょうど今から1000年ぐらい前のもので、この当時はフロンティア・ラインがかなり押し上げられていて、純粋に先住民の国と呼べるものは、本州島では現在の岩手県と秋田県の一部と青森県ぐらいしか残されてはいなかったようなのだ。

コメを蝦夷たちに配給した理由はいったいなんだったのだろうか? コメの配給を受けていた蝦夷とは誰なのか? どのような「蝦夷」なんだろうか? この当時、都ではあの秀才の菅原道真が『類聚(るいじゅう)国史』という歴史百科を編纂していて、このなかでヤマト国に朝貢してくる集団を「殊俗部」と「風俗部」の二つに分類している。「殊俗部」には朝鮮諸国などの外国が収められ、「風俗部」には隼人・多禰(種子島)・掖玖(屋久島)・吉野の国巣・蝦夷・俘囚など内国(うちつくに)の被征服民が、ヤマト国の中に組み入れるべき存在として扱われている。すでに日本列島の先住民は、国外の異民族扱いされることがなくなっていた。

9世紀末には出羽の国で朝廷側についた俘囚(捕虜蝦夷)と朝廷側につくことを拒み続ける蝦夷(おそらくは北海道島でのちにアイヌと名のるようになる人たち)との間で大規模な戦闘も起きている。また西日本各地に強制移住させた捕虜の蝦夷(俘囚)が反乱をしばしば起こしたので、彼らの出身地である本州島東北部に送り返す政策も採用されたりしている。このときに税金を免除して生活基盤を保証して、辺境警護と水田開発に従事させたという記録が残されているから、生活基盤の保証として、おそらくはコメを配給した可能性もあるだろう。蝦夷(本州島先住民)はコメを水田で大規模に生産し主食とするにはまだ至ってはいなかったのだろう(北米大陸の先住民が小麦粉とその加工品を食べる習慣がなかったように)。朝廷から支給されるコメを習慣的に食べるようになると、言い換えると「コメの依存症」になると、とどのつまり大地と自分をつないでいたスピリットが「日本列島」から引き抜かれてしまうのかもしれませんな。いや冗談ではなく。

小生は人間にスピリットを与えているものは食べ物、それも主食であると信じています。人間は食べたものになるのだと。日本列島とそこに暮らすひとびととのスピリットとをつないでいた食べ物はアワ・ヒエ・そばなどの穀物と魚や鹿だった可能性が高いのではないか。そういえば近年「低糖質ダイエット」といって「糖質」を制限する食事療法があるけれど、やっぱりコメを口にしなくなることが「脱日本人化」のはじまりなんだろうかな。コメの自由化で弥生時代が終焉を迎えたあとも日本国政府ができるだけたくさんのコメを国民に食べさせようとしているのは、あながち農業・農民の保護だけが目的だけじゃなかったりして。くわばらくわばら。今日のお昼は信州のそばでも食べるか。

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Tuesday, March 01, 2005

注目すべき今週のテレビ番組

3/5(土)14:35〜15:50 フジテレビ系
極北の大地アラスカに生命の営みを見た!
カリブーを追う狩猟の民イヌピアット・エスキモーの村ほか3100kmの縦断旅行

3/10(木)朝8:15〜9:00 NHKBS2 ☆2001年秋の再放送☆
世界わが心の旅「スコットランド 響き合うアイヌの心・萱野茂

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