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Saturday, February 12, 2005

スピリチュアルな迷子

「自然がなにを語りかけようとしているのかわからなくなったときというのは、知や力の新たなる源と自分がつながって、それを自分のものとし、使いこなすための機会を失っているのかもしれない」と、普通のネイティブ・アメリカンの文化では考えるようだ。スピリチュアルな迷子のようなものと考えてもらえればいい。

たとえいくつになっていたとしても、そういう状態になると、彼らはたいてい長老やメディスンマンやメディスンウーマンのもとに相談をしに行く。さまざまな捧げものなどを持って、うやうやしく彼らのもとを訪れ、どうすればよいのかを尋ねるのだ。ことわっておくけれど、長老やメディスンマンやメディスンウーマンには、そうした心の迷子を助けなくてはならないといったような義務があるわけではない。しかしたいていの場合、相談に赴くものが応分の敬意を払うことを忘れなければ、彼らは相談に乗ってくれることになっている。

どの部族でも、年寄りというのは「知識の宝庫」と考えられていて、伝統的な知恵を持ち、それらを理解しているものと信じられているからだ。相談をしに行くと、ふつうは自然についての「グランドファーザー・ストーリー」なるものを聞かせてくれたりする。おもしろおかしい物語の数々だ。そういう人たちは常にみんなとわけあうことができる昔からの神話や言い伝えなどをいくつも頭の中にしまってある。エルダーもシャーマンといわれる人たちも、みんなかなり特殊な知覚の仕方でこの世界を認識していて、今起こっていることをユーモラスに、そして時にはシニカルに解説してくれたりする。

彼らは自然界と自然界の中で起きていることはなんであれみな自分を学ばせ、心を喜ばせるためのものなのだと考えているのである。それに反して、西洋文明というか、弥生文明というか、便利なものに囲まれて、すべてがお金で買えるもののなかでくらしている人たちのあいだでは、「知識の宝庫」も枯れ果てて、自然界や自然界の中で起きていることから学ぶ機会なんて、はじめからあらかた失ってしまっているに等しい。となると、われわれは独力で今自分がどんなところにいるのかを知るための知識や知恵を集めなくてはならなくなる。ずっと迷子の状態がよければそれはそれでひとつの選択ではあるけれど。

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