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Monday, February 28, 2005

われわれは母なる地球に帰れるか

昨日は一日かけて神戸に行ってきました(参照)。行く時の新幹線からは4合目あたりまで真っ白く雪化粧をした富士山が望めるという良き知らせを受けたとおり、それぞれに意識の高い人たちが30人ほど集まってくださって、さわりの部分だけでなく、かなりつっこんだところでの話をすることができました。神戸は、淡路島を踏み石として「日本の国」がはじまった土地のひとつだと思います。この特別な土地からネイティブの精神を探求する動きが出てきたことに驚きと喜びを感じました。一次会、二次会、三次会と場所を変えて、新幹線の最終に乗る直前まで、「自分のなかで失われてしまっている地球とつながるものをいかに取り戻すことができるか」「終わりに向かって直線的に進む世界ではなく、はじまりもなく終わりもない輪を描いている世界にもういちど帰るためになにをすればよいのか」について話をし、エネルギーを分けあいました。生命の樹の周りを巡るこの環が、よりしっかりと、着実に回りはじめ、沢山の人たちがその木の枝の下に平和な木陰を見つけられると良いと思いました。今回の会の呼びかけ人となっていただいた辰巳玲子さん、切東璃音さん、梅井尚子さんの3人にお礼をいいます。

その際の話のなかで、ネイティブ・ピープルの定義について触れた部分を、参考までにもういちど再整理しておきます。

アメリカ合衆国だけでも700ちかくあるネイティブ・アメリカンのさまざまな部族がそれぞれに伝えてきた集合的な生き方あるいは信仰のなかから、ネイティブ・アメリカン・ピープル全般にに共通している部分を探し求めようとする努力がこれまでさまざまになされてきました。1978年に、アメリカの子どもたちの福祉のための法律の制定に際して、50を超える異なる集団から招集されたひとたちが伝統に基づいた文化の価値について、人間と自然と環境の関係から討議し、ネイティブ・ピープルとはいかなるものかを定義しています。

それによるとネイティブ・ピープルに通底するものは

  • 自然を支配するのではなく、自然との調和を求める欲求がある。
  • 未来よりも現在を、より大切なものとして選択する傾向がある。
  • 人間の本性が本来的に「悪」ではなく「善」とする信仰がある。
  • 部族的、氏族的、共同体的生活様式の方を、個人的な立場や優先事項よりも重視する。
  • 物質的なものではなく、精神的な達成感を得ることに、より大きな価値を見いだす。
  • 他の宗教を敬い、信仰の転向を求めない。

の6つに集約されるといいます。この「ネイティブ・ピープルの定義」はいかなる文化のなかにいたとしても、より調和的な生活を求める人たちにとって価値あるものかもしれません。

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Saturday, February 26, 2005

フライド・ブレッド・ブルース

rfrybreadイティブ・アメリカンを代表する食べものについて今回は書こうと考えた。いったいそれはなんだとあなたは思いますか? とにかくアメリカ・インディアンといったらこれを忘れてはいけないとされている定番中の定番の食べもの。各地で開かれるパウワウでも、インディアン・ロディオ大会でも、必ずこれが出される。部族を越えて老いも若きもこの食べものがみんなに好かれているわけ。

それがインディアン・フライド・ブレッド。あるいはフライド・インディアン・ブレッドと呼ばれるもの。ファースト・フードの極めつけみたいな食べ物だ。作り方は簡単。小麦粉とラードと塩少々とベーキング・パウダー、それからぬるま湯。これを静かに混ぜて耳たぶぐらいの硬さになったらそれをしばらく寝かせておく。ふきんをかけておくといい。これを手のひらにのるぐらいのボールに切り分けたものを手のひらぐらいの大きさの平べったい丸に手でのばして、これを油で揚げる。真ん中がふくらんでふわふわのパンのようになるから、これに蜂蜜をたっぷりとかけて、ハーブティーなんぞと一緒に熱々でいただく。うーん、うまー。これぞインディアンの醍醐味というやつ。家々によって、リザベーションによっても、多少作り方は違うけれど、北アメリカ中どこに行ってもこれだけは必ず食べられるインディアン・フードというか、インディアンのソウル・フードだ。

ところが、すべてのインディアンが大好きなこのフライド・ブレッドに正面からかみついた女性が登場したから、ネイティブの人たちの世界にちょっとしたさざ波が起きている。シャイアンとマスコーギーの両方の血を受け継ぎ、現在ワシントンDCでモーニングスター研究所(The Morningstar Institute)というネイティブ・ピープルのための教育などの研究を行う機関の所長をしているスーザン・ショーン・ハルホ(Suzan Shown Harjo)女史がそのひとである。彼女はアメリカ・インディアンのための日刊新聞にときおりコラムなどを寄稿しているかなりの著名人だが、彼女がある記事のなかで「自分は二度とインディアン・フライド・ブレッドを食べないことを誓うし、みんなにも食べてほしくない」と書いたのだ。それは油をいっぱい使ったとにかく不健康な食べ物であり、「姿を変えた火の水(アルコール)のようなものだ」と。かつてアルコールによって自分たちの国を失い、今はフライド・ブレッドによって最後の砦である健康まで失われようとしていると。

とくにフライド・ブレッドをたくさん食べているのが、南西部に暮らすプエブロ、ナバホ、アバッチの人たちで、当然ながらこの人たちからいっせいにブーイングが上がっている。ほとんどの部族の人たちがこれを大好きなのだが、とりわけプエブロの人たちはこれに目がない。ナバホとズニの混血で2003年のミス・インディアンのニューメキシコ代表も「わたしの大好物」としてフライド・ブレッドを真っ先にあげているほどだ。

だがしっかり覚えておかなくてはならないのだが、フライド・ブレッドは、ネーティブ・アメリカンの伝統食などではない。インディアンの歴史にフライド・ブレッドは一度も登場しない。それはきわめてリザベーション的な急場しのぎの食べ物なのだ。国土が占領されて住民たちがことごとく強制収容所に収監された時、戦勝国の合衆国政府が緊急生活援助物資として小麦粉と塩と鉄鍋を送り込んだことから、インディアン・フライド・ブレッドは誕生した。とりあえず子供たちや家族になにか腹にたまるものを食べさせないといけない状況に追い込まれていたリザベーションのなかのお母さんたちが良くこねた小麦粉と火にかけられたラードをもちいて考え出した苦肉の策の食べ物がこのフライド・ブレッドだったわけ。それが100年も経たないうちにネイティブの人たちの大好物になってしまうとは、キリストさまはご存じだったのだろうか?

現代のインディアン・リザベーションの最大の健康問題がいわゆる三大成人病のひとつである糖尿病で、これによって命を落とす人たちが近年急増しているその最大の理由が、甘いものをたっぷりかけて食べる油一杯のフライド・ブレッドだとスーザン女史は指摘したわけ。実際のところ子どもたちの肥満も深刻だ。小生が足繁くいろいろなリザベーションに顔を出していた70年代後半から、このことはかなりささやかれてはいた。インディアンの最大の問題は、アルコールだけでなく、伝統的な生活のスタイルを喪失したことに起因する食生活全般にあるわけだから、可能な限りもういちど伝統的な食(トウモロコシやカボチャや豆とすこしの肉、魚)に戻ろうと主張する人たちとも何度か会ったことがある。しかし伝統的な食生活に帰るためには、それを可能にする生活のスタイルを取り戻さなくてはならず、リザベーションのような見えない塀に囲まれた牢屋のなかでは、とてもじゃないがそうした生活ができるわけもないのである。だからそういう人たちのかけ声が、一般のインディアンの人たちの耳に届くことはまれだった。とにかくなにか腹にたまるものが必用な人たちがいまだにたくさんいるのも現実だ。

彼らは日々ファースト・フード(ソーダ、フライド・ポテト、ハンバーガー)か大好物のフライド・ブレッドにかぶりついて舌鼓を打っている。今後ネイティブの人たちがフライド・ブレッドを食べる量を減らすことができるかどうかが、リザベーション全体の生存を賭けた新たな戦いとなるかもしれない。食生活の改革が急務なのである。スーザン・ショーン・ハルホ女史がこの運動を起こした背景には、インディアン・フライド・ブレッドを自分たちの伝統のひとつと考え、一族を象徴する食べ物と見る子どもたちが増えていることに危機感を感じたためだという。しかしと彼女は言っている。「熱つあつを食べてみるとやはりおいしいから、それに反対するキャンペーンを広めるのも大変なのよね」

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Friday, February 25, 2005

人工的な生活

「都会での暮らしはすべてが人工的である。多くのひとびとは自分の足の下にある土をまったく感じることはないし、植木鉢で育つ植物以外の植物を目にすることもない。街灯があるせいで、星のちりばめられた魅惑的な夜空までは目が届かない。グレイトスピリットが織りなす光景から遠く離れて生活するとき、ひとびとはいともたやすくグレイトスピリットの法を忘れてしまう」
ウォーキング・バッファロー
(ストーニー・インディアン/カナダのアルバータ在住)

ストーニー・インディアンはアシニボインとしても知られる人たち。カナダとアメリカの国境をまたいで暮らす平原の民で、ナコタ語を話し、スーの国の一部を構成している。「アシニプワット」というアシニボイン語から一族の名前はつけられており、意味は「石のひとびと(ストーン・ピープル)」。言い伝えによれば17世紀ごろにミシシッピ川をさかのぼり、途中でスーの人たちと分かれて北の大平原に移り住んだという。隣接するクリー族と同盟を結んで、ヨーロッパ人の侵攻に立ち向かった。アシニボインの名はカナディアン・ロッキーのなかの山の名前にもなっている。

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Thursday, February 24, 2005

1988

の年、1988年は、ホピの平和宣言を起草したトーマス・バニヤッカ氏がはじめてホピ国のパスポートで日本に入国を果たした年であり、小生が最初の本『ネイティブ・マインド−−アメリカ・インディアンの目で世界を見る』を上梓した年でもあり、8月8日に八ヶ岳で——888の8の年 Yeah!——いのちの祭りが行われた年であり、またアメリカ合衆国議会が先住民の文化を守ることを謳った「国際文化生存法」を通過させた年でもある。ではその「国際文化生存法」の一部をお読みいただこう。とても素晴らしいことをいっているのだけれどねえ。

「先住民族は、自然や人間、そして両者のバランスのとれた関係について豊富な知識を持つ。スピリチュアルな世界についての彼らの考え方から、熱帯雨林、治癒、農業などについての伝統的知識にいたるまで、彼らの社会は、世界やわれわれ自身に関する新しい解釈のための機会を提供する。しかし、こうした先住民族の多くが、現在、深刻な差別、人権の否定、文化的・宗教的自由の喪失、そして最悪の場合、文化的・物理的な破滅にも見舞われている。世界中の数多くの場所で、こうした傾向が続けば、人類の文化的・社会的・言語的な多様性が急速に失われて、取り返しのつかないことになるだろう。文化的・社会的・宗教的・芸術的な表現の測り知れぬほどの豊かさはいうをおよばず、文書化されていない生態学的・生物学的・薬理学的な知識の膨大な宝庫さえも、失われることだろう」
−−アメリカ合衆国議会 「国際文化生存法」その一節

また1988年は、スイスのコンピュータ・サイエンティストがワールドワイドウェブを考案する前年にあたっていた。余談だがわたしが知っている限り、アメリカ・インディアンの人が最初にホームページを立ちあげたのは翌年の1989年のことだ。確か「APACHEPASS(アパッチの抜け道)」という名前だった。現在ではネイティブ・アメリカンの人が運営するサイトも無数にある。生き残っているすべての部族がホームページを持っているといってもいいだろう。網の目とはよくいったもので、インターネットの世界ではネイティブ・ピープルはことのほか元気である。蜘蛛の網の目のごとく地球を覆い尽くしているインターネットこそは自分たちの声を世界に伝えるために彼らが手にした最初のメディアだったと言えるのかもしれないう。

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Wednesday, February 23, 2005

PEACE な写真のこと

度ご来場いただきましてありがとうございます。今回は当ブログの右サイドバーにある「PEACE」と題された写真ギャラリーの案内です。写真をクリックしていただきますと、(読み込むのに多少時間がかかりますが)該当の写真が大きく表示されるはずです。また大きく表示された写真の下にある[Higher resolution JPEG version ]をクリックされますと、より解像度の高いきれいな写真としてごらんいただけます。当ブログにおいては、ほぼ一週間ごとに展示写真を代えていますが、ここに掲載しているのはすべてエドワード・カーティス(Edward S. Curtis 1868-1952)という米国人写真家が20世紀の初頭に撮影した「北米インディアン」と題されているものです。著作権はすでに失効しており、現在これらは米国国会図書館が公開していて、デジタル化はイリノイ州にあるノースウエスターン大学がおこないました。カーティスはウィスコンシンで生まれましたが、22歳の時に家族でワシントン州に転居し、23歳のときにシアトルで写真館を開き、人物写真と風景写真のうまさで評判をとるようになります。有名なチーフ・シアトル(Chief Sealth)の娘の肖像などを残します。20世紀初頭に大統領のセエドア・ルーズベルトに招聘されて「消えゆく種族の失われつつある文化」の撮影とフィールドワークを開始します。大平原、沙漠、高地、南西部、カリフォルニア、北西太平洋沿岸、アラスカなどで、彼はネイティブ・ピープルと彼らの国々を写真に収めていきました。写真の多くはそのために特別な衣装を付けさせたり、ポーズをとらせたりしていて、自然の姿を撮影したものではないと批判されることもありますが、それでもなお地球に生きる人たちの貴重なポートレイトであることは間違いありません。わたしはカーティスが撮影した写真のなかでも特に北西部太平洋沿岸の人たちの文明化される以前の姿を見るにつけて、日本列島にいたとされる「縄の模様のついた土器を使っていた人たち」と出会ってしまったような奇妙な感慨に打たれます。他ならぬアメリカ合衆国とされてしまっている国で、20世紀の初め(ほんの100年前)まで確かに縄文時代が続いていたということの証拠写真のようなものばかりです。当ブログでは今後もほぼ週替わりでさまざまな彼の写真を掲載していく予定ですが、もしこれを機会に一挙に全部彼の作品群を見てみたいとお考えになった方は、米国国会図書館のデジタルライブラリにある北米先住民の写真の陳列棚を閲覧してください。巡回の仕方としましては、[Browse by Subject]のところから入りますと、迷わずに理解しやすい分類になっています。

curtis

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Tuesday, February 22, 2005

縄文時代のコメ栽培

読売新聞 (2月18日)が「縄文前期地層から稲の細胞化石、新たな起源論争も」という記事を配信している。稲作の起源が縄文時代前期にまでさかのぼるというものだ。おそらく陸稲とされるものなのだろう。それも焼き畑農耕によるものかな。焼き畑農耕は「火」→「穀」→「森」の循環からして、すべてが輪によって構成されているネイティブの人たちのライフスタイルにかなっていたようだから。ちなみに今なお焼き畑による陸稲づくりにこだわる中国雲南省の先住民で人口17000人ほどの基諾(ジノー)族の農耕について報告している河北新報の「焼き畑(下)——伝統を生かす道探る」という記事(1998年の特集「オリザの環」の一部)はおもしろい。水田稲作によらないコメ作りが形作っていた生活様式に興味津々です。問題の読売新聞配信の記事は以下のようなもの。

 岡山県灘崎町の彦崎貝塚で、約6000年前(縄文時代前期)の地層から、稲のプラント・オパール(細胞化石)が出土したと、同町教委が18日、発表した。

 同時期のものとしては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石の量が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかったことから、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文時代晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。

 史跡整備に伴って発掘した際に採取した土を分析したところ、地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり約2—3000個に達する稲のプラント・オパールが見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量に当たる。

 主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30—60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。小麦、キビ、ヒエ、アフリカ原産のシコクビエやコウリャンなども少量見つかった。

 これに対し、西本豊弘・国立歴史民俗博物館教授(環境考古学)は「プラント・オパールは非常に小さく、古い時代の地層に移動するのは普通」として、年代測定などとのクロスチェックの必要性を強調している。

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Monday, February 21, 2005

巨大建築物への信仰

最古の経蔵・鐘楼の跡か 奈良・明日香村の川原寺跡」というニュースが本日付けのニュースで流された(asahi.com)。一読されると良いと思う。日本書紀に「673年に天智天皇の弟の天武天皇が一切経(すべての経典)を収めた」とされる川原寺についての遺跡のニュースである。とくにわたしの目が吸い付けられたのは、

礎石に柱を乗せるための「柱座(ちゅうざ)」と呼ばれるくぼみは直径約1メートルあり、同寺の中金堂や塔の70〜80センチを上回る。柱の太さや間隔から、2階建てで軒がせり出した豪華な建物だったと推測される。同研究所の担当者は「寺院の中心施設である中金堂より太い柱に驚いた。格の高い建物だったのだろう」と話す

の部分。この太い柱とされた巨木は、いったいどこから切り出されたのだろうかと思った次第。思わず日本列島に「日本」が建国される以前の自然風景を想像してしまった。太い木々がそこかしこにたくさん生えていた深い緑の森の島だったのだろう。たくさんの巨木が切り出されて都周辺の寺院の柱に使われてしまったのだ。当時の巨大建造物を造る人たちは、どこから来た人たちだったのだろうか? そんなことができたのは日本列島のネイティブではなかったから、スピリットの根っこが大地から切り離されていたからに違いない。

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真実


「努力すれば、必ず真実は見える」


        印象に残っているローリング・サンダーの言葉

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Sunday, February 20, 2005

神戸で会いましょう

突然ですが、27日に神戸でトークをおこないます。神戸を基点にして映画『ホピの予言』の上映会をしているランド・アンド・ライフの辰巳さんに声をかけてもらったので行くことにしました。前回、神戸のモダナークという素敵な空間でおはなしをしたことがきっかけですが、より広い視点からみんなと共有できる世界を作りあげようと考えてのことです。昨年はWPPDにおいてたくさんの人たちと出会うことができました。これまでなかなか実態の見えていなかったほんとうの自分とそれにふさわしい生き方を求める人たちと出会えたことは得難い体験でした。小生は今年、さまざまな機会をつくって、「日本列島に生まれたわたしたちにとってネイティブであるとはどういうことか?」について、これまで自分がさまざまなネイティブの人たちから学んできたことを多角的に分けあうための場、いうならば塾のようなものを持とうと考えています。それは「インディアンのように振る舞うことをすすめる」ためのものでもありません。『インディアンになりたがる人たち」を増やすためのものでもありません。わたしたちが母なる日本列島のネイティブという感覚を取り戻すための気づきを提供しようとするものであり、これまでわたしが一貫して日本の次の世代に伝えようとしてきたことでもあります。今回の神戸トークは、そのための準備と位置づけています。関東においても同じような試みの計画が進行中です。ネイティブのなんたるかを学ぶといっても、もとより系統立てられた学問ではないわけですが、今の日本列島の有様を見るにつけ、自分たちのスピリットの根っこを大地につなぎあわせることがとても重要に思われてなりません。そのためのきっかけとなるようなことをみなで確認し会えればよいと考えています。

以下にランド・アンド・ライフの辰巳さんからの呼びかけをそのままペースとしておきます。

翻訳家の北山耕平さんを シリーズでお招きしようと思っています。

詳しい内容はこれからです。
今回は準備会のつもりで集まっていただいて
北山さんからいろいろお話しを引き出し、
ひざをまじえて語り合い、
今後の展開と深まりを考えていきたいのです。

急なお知らせになりますが、
お知り合いもお誘いくださって、
どうぞご参加ください。
きっと、いい出会いと
オーガニックなつながりの集まりになると思うのです。

こころもからだも
新しい芽吹きの準備をしているこの時期に
お会いできることを楽しみにしています。

ありがとうございます。

呼びかけ人  辰巳玲子・切東璃音・梅井尚子

日時 2月27日(日) 1:00〜4:30

場所 健康道場サラ・シャンティ 078・802・5120
   神戸・阪急六甲駅南側歩3分 クレアール六甲2階
   ホームページ http://www.npo.co.jp/santi/

参加費 2,000円  マイカップご持参ください。

懇親会 5:30〜7:00 それぞれ実費
    近くの喫茶店を考えています。

問い合わせ  電話 078・881・8163 辰巳まで
       メール landandlife@r6.dion.ne.jp

ランド・アンド・ライフ
〒657−0817
神戸市灘区上野通1−2−35−312
T/F 078・881・8163
http://www.h6.dion.ne.jp/~hopiland/
landandlife@r6.dion.ne.jp

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Wednesday, February 16, 2005

興味深いイベントの紹介と案内

今月から来月にかけて日本列島各地の遺跡や博物館や資料館でおこなわれている入場無料のイベントのなかから、独断的におもしろそうなものを選んで紹介します。これらがすべて小生の歴史観と合致しているとは限りませんが、それなりに得るものはありそうなものばかりです。もし機会があるなら、どうぞ。レポートなどのちに送っていただけると、ありがたいのですがね。


☆三内丸山遺跡展示室・企画展示コーナー
青森県 青森市三内字丸山293
電話:017-781-6078
企画展「祈りやまつりの道具 -不思議な形の道具類-
会期:2005年2月27日(日)まで

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☆岩手県立博物館
岩手県 盛岡市上田字松屋敷34番地
電話:019-661-2831
テーマ展「えみし』社会の誕生
会期:2005年3月2日(水)〜5月5日(木)

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☆板橋区立郷土資料館
東京都 板橋区赤塚5-35-25
電話:03-5998-0081
収蔵品展「樺太アイヌ民族誌
会期:2005年2月5日(土)〜3月13日(日)

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☆八王子市郷土資料館
東京都 八王子市上野町33
電話:0426-22-8939
特別展「井上コレクション よみがえる縄文の技と美
会期:2005年2月16日(水)〜3月20日(日)

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バッファローと野ネズミ

平原インディアンに伝わるおはなし 部族不明


かし、動物がまだ人間と同じ言葉を話していたころ、一匹の野ネズミが冬に備えて野原で野生のマメを集めていたとき、近くに暮らしていたバッファローが草を食べにのっそりと姿をあらわしたことがあった。バッファローはざらざらした長い舌で草という草をみんな刈り取ってしまう。そうなると天敵の鳥たちからネズミが姿を隠すことができなくなってしまうのだ。小ネズミにはそれがどうにも気にくわなかった。ようし、と野ネズミは腹を決めた。今日こそは人間のようにあいつに戦いを挑んでやる。小ネズミはきーきーした小さな声で叫んだ。

「ホ、友だちのバッファローよ。ぼくと正々堂々と戦え!」

しかしバッファローは知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた。どうせ冗談だとしか思えなかったからだ。野ネズミが怒ったように繰り返した。

「やい、友だちのバッファローよ。ぼくと正々堂々と戦え!」

それでも敵はあいかわらず黙々と草を食べ続けた。ネズミが相手を軽蔑したような笑い声を上げると、やっとの事でバッファローはネズミに目をやってぞんざいにこたえた。

「おい、ちび助、ちっとは黙っていたらどうだ。あんまりうるさくしてると、ぺったんこに踏みつぶすぞ!」

「そんなこと、できるものか」とネズミがこたえた。

「黙れと言ったら黙れ」バッファローの頭に血がのぼりはじめていた。「もう一度口を開いたら、いいか、ほんとうにおまえをぺったんこにしちまうからな」

「やれるものならやってみろやい!」

わざとバッファローを怒らせるようにネズミが言ったとたん、バッファローは前足でいきなり地面を踏みつけた。蹄が草を踏みつけ大地を切り裂くような音がした。ぐいぐいと前足に力を込めたあと、バッファローがおもむろに足をどけてネズミの姿を探したが、そこにネズミはの姿はなかった。

「だから言わんこっちゃない。思い切り踏みぬいたから、跡形もなくなっちまったじゃないか」

バッファローがつぶやいた。

その時のことだった。バッファローは自分の右の耳のなかが妙にかゆいことに気がついた。何回も何回も首を思い切り振り、いらついたように耳をぱたぱたしたが、かゆみはとれない。それどころか、最初はかゆいだけだったものが、だんだんと痛くなり、痛みはだんだん奥に入っていき、耐えられないほど痛くなってきた。あまりの痛さに気も狂わんばかり。思わず前足の蹄で地面を蹴飛ばし、二本の角で大地を掘り返して、我を忘れて鳴き叫び、たまらずいきなり大地を揺るがせて駆けはじめた。それも最初は一直線に、やがては同じところをぐるぐると、全速力で走りまわるばかり。好い加減そうやって駆け回っていたが、あるときいきなり走るのをやめた。全身がぶるぶると震えている。そのとき、バッファローの耳から例のネズミがぴょんと跳びだした。

「ぼくのほうがえらいってことが、これでわかっただろう?」

「わかるもんかあぁぁぁっ!」

バッファローが怒鳴り声をあげて再びネズミを踏みつぶそうと進み出た。ネズミの上に蹄が踏みおろされようとしたそのとき、ネズミの姿がいきなりぱっとかき消すように消えた。次の瞬間、バッファローは自分の左耳のなかにネズミがいるのがわかった。なぜならそこからまたあの激痛が走ったからだ。バッファローはあまりの痛さに気が狂いそうになり、大平原をむちゃくちゃに走りまわり、転げ回り、ときどき宙に跳ねあがったりした。そしてしまいにはそのまま地面に音を立ててどさっと倒れ込み、絶命して動かなくなった。

するとネズミがバッファローの耳の中から出てきて、魂の抜け殻となったバッファローの死体の上に仁王立ちになって、

「どうだ、見たか! 野獣のなかの野獣を、ぼくはやっつけたぞ!」と金切り声を張りあげた。「他の動物たちも、これで一番偉いのがぼくだってことがわかるだろう」

死んだバッファローの死体の上にのって一人で「ぼくは強いんだぞ、このナイフで皮をはいでやる!」と勝ちどきを上げているネズミの声を、すこし離れた草むらのなかで聞きつけたのが赤ギツネだった。赤ギツネはいつものように腹がぺこぺこ。朝飯になるようなネズミはいないものかと草の間を探していたところだった。少し前にうまそうなネズミを一匹見つけて、思い切り飛びかかったもののこしゃくにも逃げられてしまったばかりなのだ。赤ギツネはひどく落ち込んでいた。そんなとき赤ギツネは勝ちどきを聞いたのだ。

「ええい、皮をはいでやる!」

もう一度その声が聞こえるや即座に赤ギツネは声のする方角に向かった。小さな丘を越えてしばし立ち止まり耳を澄ませた。だがいくら耳を傾けてももはや声は聞こえなかった。赤ギツネが帰りかけたその瞬間、またあの勝ちどきが聞こえた。なんだか力の入らないさみしい勝ちどきだったが、はっきり「皮をはいでやる」と言うのが聞こえた。その声を確かめたとたん、赤ギツネは脱兎のごとく走りはじめた。

赤ギツネは見る見る地面に横たわるバッファローの小山のような死体に近づいた。死体の頭の上にはまだネズミが仁王立ちになっていた。ネズミが赤ギツネの姿を認めて口を開いた。

「おいそこのきみ、ぼくのためにこのバッファローの毛皮を着なさい。おいしそうな肉をすこし分けてやるから」

「はいはい、ありがとうございます。承知しました。喜んで着てあげましょうとも」

ばか丁寧に赤ギツネはこたえた。

さっそく赤ギツネはバッファローの毛皮を身にまとって見せた。ネズミは近くの土の山の上に腰をおろして成り行きを見守りながらあごの先で赤ギツネにあれやこれやと指図をした。

「きみ、肉を小さく取り分けてくれたまえ」

赤ギツネが言われたとおりにすると、ネズミはキツネに小さなレバーの固まりを差し出した。

「ほら、お礼だ」

赤ギツネは差し出されたレバーを一口で腹に収めた。舌なめずりをしながら、

「お願いしますよ、もう一切れくださいませんかね」

と下手に出た。

「なぜ?」とネズミがこたえた。「あんなに大きいのをあげたのに? おまえはなんと欲の深いキツネなんだ! しかたがない、血の固まりをいくつかやろう」

大きな声でネズミがさも赤ギツネを馬鹿にするように言った。

哀れな赤ギツネは言われるままいくつかの血のかたまりを口に入れ、それではたりずに意地汚く血のこびりついた周りの草までぺろぺろとなめ回した。赤ギツネはほんとうに腹をすかせていたのだ。

「頼みます、頼みます。おみやげにもう一切れくださいな。家で腹をすかせた子供たちが六匹もわたしの帰りを待っているんです。食べるものがまったくないんです」

「仕方がない。じゃああとバッファローの肉を四きれやろう。そのぐらいあれば家族みんなで食べるには充分だろうから」


「へ、へ。おありがとうございます。しかしネズミさま、わたしには女房もおりまして、このところ猟がうまくいかず、食うや食わずの状態がずーっと続いておりまして、ぜひこの愚妻にも、肉を一切れいただけないかと・・・」


「とんでもない!」とネズミがおもむろに宣言した。「もう十分すぎるくらいやったではないか。あの程度の働きで、なにを言うか! ほしければ頭のところをくれてやる、それ持って行け」

その言葉が最後まで聞こえないうちに、いきなり赤ギツネがネズミに飛びかかった。ネズミはかすかにキーッという叫び声を残して次の瞬間には赤ギツネの腹の中に姿を消していたとさ。

まあ、ふんぞり返って自分のことばかり考えていると、しまいにはすべてを失いますよという忠告のおはなし——

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Tuesday, February 15, 2005

ネイティブ・アメリカン音楽大賞発表

7th Annual Native American Music Awards(NAMMY)Winners

ネイティブ・アメリカン音楽大賞が2月13日に決定され、現在ネイティブ・ラジオ(NativeRadio.com)の Stream 9 で受賞作品が終日放送されています。大賞にあたるのが、最後の「Z」にある「ネイティブ・ハート賞」というのが、よくないですか。どこかで聞いたような名前だけど。

【受賞作品は以下の通り】

Continue reading "ネイティブ・アメリカン音楽大賞発表"

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前の世界の新聞

turtle_1理学者のグレアム・フリント氏なる人物が、自ら設計して軍事偵察機や原子炉の部品から組み立てた手製のカメラで、米国各地の風景を巨大かつギガピクセル級の超高解像度写真に収めるプロジェクトを展開しているというニュースをホットワイアード日本語版(2005年2月7日号)で読んで、そのままなにげなく彼の運営する『ギガピクセル・プロジェクト』(Gigapxl Project)のページを見に行ったら、イメージギャラリーのなかでグランドキャニオンの超精密な写真に魂を飛ばされたばかりか、そのすこし下に懐かしいニュースペーパーロックの写真を見つけて、ぼくはそのままずっぽりとはまってしまった。

ためしにその写真をごらんになっていただきたい。この岩は、アリゾナ州のさるところにあり、ディネ(ナバホ)の人たちが「話をする岩」と呼んでいるものだ。いわゆる巨大な岩石にきわめてシンプル化されたペトログリフがこれでもかと言うぐらいたくさん描かれている。ごく最近描かれたものもないわけではないが、古いものはおよそ2000年前に誰かによって描かれたとされていて、ナバホの土地にありながらナバホの人たちが先にいた人たちが最初に描いたと言っているものである。

アリゾナの北の方にある岩で、ぼくはこの岩の前でほとんど丸一日を過ごした。午前10時ぐらいから夕暮れになるまでだ。なんとなく離れがたい気がして、とにかくあちこち顔をつけるようにして眺め回した。ひとつひとつの絵がなにかを伝えてきた。言葉を介さないで伝わってくるなにかが存在した。なかにはごく最近に通りがかりの心ないアングロによって描かれたとすぐにわかるものもあった。英語では「新聞岩」と呼ばれている理由も、この写真がはっきりと教えてくれると思う。これまでたくさんの大岩に触ってきたが、ぼくにとっては忘れがたい岩のひとつなのだ。

こんなに精密にこの岩が撮影されたのはおそらくはじめてのことかもしれない。新聞というのは、読むものではなく、さながらお風呂のようにその中に浸かるものだと言ったのは、マーシャル・マクルーハンというカナダ人のメディア研究者(予言者)だった。だからぼくはときどきこの写真を通して「前の世界の新聞」に浸かってみようかと思う。これまでの2000年ほどの間にこの岩の周りでなにが起こったのかを岩は雄弁に語ってくれている。この岩の前にたたずんで不思議な感動を覚えていた20代後半のあの日の自分とインターネットの世界で出会ってしまったような複雑な気持ち。北アメリカ大陸がまだ亀の島と呼ばれていた時代の人たちの心の有様が、手に取るようにわかるではありませんか。

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Monday, February 14, 2005

黒魔術


「黒魔術を使うことは確実に地獄への道につうじている」

        印象に残っているローリング・サンダーの言葉

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Sunday, February 13, 2005

アンクル・ウォーレスを顕彰する


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Wallace Black Elk (1921-2004)


伝統派ラコタのエルダーで精神的指導者でもありチャヌンパ(パイプ)のホルダー、今では「ブラック・エルクは語る」という本で知らぬ人のいない伝説のニコラス・ブラック・エルク(Nicholas Black Elk)の末裔でもあったグランドファーザーのアンクル・ウォーレスが、コロラド州デンバーの自宅で亡くなって、先月の25日でちょうど一年がたった。初期AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)のスピリチュアル・アドバイザーとして、ネイティブ・アメリカンが最後に合衆国政府と銃撃戦をしたウーンデッド・ニーの73日間占拠の現場に、独立オグララ国のウォリアー・ソサエティの一員として、フールズ・クロウ、クロウドッグ、ピート・キャッチィズらラコタのメディスンマンをはじめとするいくつもの部族のリーダーたちとともに立ち会い、また1978年の「アメリカ先住民に宗教の自由を認める法律」の成立に貢献するなど、常にアメリカ先住民の精神と権利の復興運動の真ん中にいた人物で、おそらく彼の人柄を知っている人は日本をふくむ世界中に多いはずた。真実の人であり、偉大な魂の持ち主で、かつてのゴーストダンスの復活を願い続け、聞く耳を持つ人たちのところに平和のメッセージを運び続けて一生を終えた。ネイティブ・アメリカンの代表として国連の会議や非政府組織の国際会議に参加するなど精力的に活動もしてきた。その智慧の深さによって、彼はたくさんの人たちのハートの中でこれからもお生き続けるだろう。

去年の1月にはまだこのブログを立ち上げていなかったので、アンクル・ウォーレスのことを顕彰するためになにもできなかったことを悔やんでいた。だから一周忌が過ぎたこのときに、彼の功績を称えて、彼の旅立ちを未だ知らないかもしれない日本の友人たちへの伝言にかえることにした。

Mi-ta-qu-ye-oh-ya-sin

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Saturday, February 12, 2005

スピリチュアルな迷子

「自然がなにを語りかけようとしているのかわからなくなったときというのは、知や力の新たなる源と自分がつながって、それを自分のものとし、使いこなすための機会を失っているのかもしれない」と、普通のネイティブ・アメリカンの文化では考えるようだ。スピリチュアルな迷子のようなものと考えてもらえればいい。

たとえいくつになっていたとしても、そういう状態になると、彼らはたいてい長老やメディスンマンやメディスンウーマンのもとに相談をしに行く。さまざまな捧げものなどを持って、うやうやしく彼らのもとを訪れ、どうすればよいのかを尋ねるのだ。ことわっておくけれど、長老やメディスンマンやメディスンウーマンには、そうした心の迷子を助けなくてはならないといったような義務があるわけではない。しかしたいていの場合、相談に赴くものが応分の敬意を払うことを忘れなければ、彼らは相談に乗ってくれることになっている。

どの部族でも、年寄りというのは「知識の宝庫」と考えられていて、伝統的な知恵を持ち、それらを理解しているものと信じられているからだ。相談をしに行くと、ふつうは自然についての「グランドファーザー・ストーリー」なるものを聞かせてくれたりする。おもしろおかしい物語の数々だ。そういう人たちは常にみんなとわけあうことができる昔からの神話や言い伝えなどをいくつも頭の中にしまってある。エルダーもシャーマンといわれる人たちも、みんなかなり特殊な知覚の仕方でこの世界を認識していて、今起こっていることをユーモラスに、そして時にはシニカルに解説してくれたりする。

彼らは自然界と自然界の中で起きていることはなんであれみな自分を学ばせ、心を喜ばせるためのものなのだと考えているのである。それに反して、西洋文明というか、弥生文明というか、便利なものに囲まれて、すべてがお金で買えるもののなかでくらしている人たちのあいだでは、「知識の宝庫」も枯れ果てて、自然界や自然界の中で起きていることから学ぶ機会なんて、はじめからあらかた失ってしまっているに等しい。となると、われわれは独力で今自分がどんなところにいるのかを知るための知識や知恵を集めなくてはならなくなる。ずっと迷子の状態がよければそれはそれでひとつの選択ではあるけれど。

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Friday, February 11, 2005

スピリットの声

日お知らせした白いイノシシだけれど、とりあえず食べられてしまうことだけはまぬがれたらしい。「神典」とされ、漢字で記されている『古事記・中巻 景行天皇』に「此の白猪に化れるは、其の神の使者に非ずて、其の神の正身[ただみ]に當りし」と出てくる。血に飢えたヤマトタケルが先住民征伐の帰途、伊吹山の山中で白い猪と出会ってこれを素手で殺そうとしたとき、山の神様がヴィジョンで現れて「白い猪は神の使いなどではなく、神そのものだ」としかりつけたという説話が残されている。「白猪」は「しろき・ゐ」と読む。イノシシは「ヰ(ゐ)」と、一字で呼ばれていた。ヤマトタケルは白いイノシシを殺そうとしたけれど、土地のスピリットがこれを押しとどめたことが、簡単に書かれているわけだ。

わたしは、人類の最初の宗教がどういうものなのかに興味を持って、メディスンマンやシャーマンと呼ばれた人たちの近くで彼らの言動を観察していたとき、その人たちが自然界にあるありとあらゆるものと原初的かつ特別な関係を築きあげていることにひどく感動した。そしてその関係が大前提となって、彼らは自然界の発している言葉やその法則(たとえば「宇宙にあるすべてのものが、〈もの〉と〈スピリット〉のふたつの顔を持っている」とか「自然界とわれわれとのあいだにあるギブ・アンド・テイクの関係、なにかを与えることなしにはなにひとつもらうことはできないという聖なる循環の法則」など)を理解していたことは間違いないと確信するに至っている。

伊吹山のスピリットがヴィジョンの中で「白い猪は神の使いなどではなく、神そのものだ」と伝えたとする伝承をかろうじて言葉の墓場(書物)のなかに持つわれわれは、文明的な生活の中でそうした自然界とのコミュニケーションをとることがあらかたできなくなってしまっているが、それはそのためのチカラをわれわれが長いこと、そうさっと千年以上も眠らせ続けてきたからに他ならない。昨年の秋の熊騒動(彼らは豪雪を伝えていたのだ)といい、今回の「白猪」といい、自然界の発するメッセージを受け止められる人たちをなんとか増やしたいものであります。

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Thursday, February 10, 2005

白いイノシシが捕らえられた

のところリアル・ワールドの仕事がいそがしくてなかなか更新できませんが、今日は特別なニュースを見つけたので、みんなと分けあいたいと思いまして、すこしだけ書き込みます。こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、わたしは動物たちが話をするというのを信じるものです。スピリット・アニマルというかトーテムとしての動物というか、そうした存在は確かにあると。たとえばカラスは典型的で、よくわたしに話しかけてきますし、その話の内容も信じるに足るようなことが多い。あるときには警告だつたり、予言だったりと、さまざまなメッセージを運んでくる。いつだったかひどく年寄りの、羽根なんかすり減ってぼろぼろの御カラスさまに強烈に話しかけられたことがある。彼は羽根をふるわせて必死に何事かを伝えようとしていた。たまたまその話しかけられた場所というのが、東京の山手線のある駅で、いやうるさいのなんのって。たまたま駅に居合わせた人たちも何事やあらんとあきれたような顔でそのカラスを見ていたっけ。

確かに日本列島には日本列島固有のスピリット・アニマルが存在する。カラスなんかは世界中どこにでもいて、ネットワークもしっかりしているようだが、きわめて日本列島的なスピリット・アニマルの代表が「イノシシ」なんだと思う。この意味では蝦夷(えみし)の末裔を登場人物に配して中世の荒ぶる神と人間の戦いを描いた宮崎駿監督の「もののけ姫(Princess Mononoke)」はきわめてよくつくられていた。その映画のなかに森の守護者としてのイノシシの群れとイノシシのチーフが登場するのを覚えているだろうか。イノシシとブタは、オオカミとイヌ、バッファローとウシぐらい違うものだ。その精神、たたずまい、存在の仕方からいって野生と家畜とはまったくの別物と言っていい。そこで二日前の西日本新聞(2/9 大分地域ニュース)に掲載された次のニュースと写真を見ていただきたい。(2/10朝にリンク切れを修正した)

1000頭に1頭!? 白イノシシ 佐伯で捕獲

この大分県佐伯市の山裾でベテラン狩人の仕掛けた罠に不覚にもとらえられた白いイノシシは、写真を見る限りあきらかにイノシシのチーフであるようだ。なんとかねんごろに言い聞かせて山に還してあげるようにはできないものだろうか? きっと大切な大地のメッセージを伝えに来たのだと思うのだが、どうだろう?

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Monday, February 07, 2005

大丈夫


「たとえ死んだ後でも、わしなら自分の一族の力になれる」

         印象に残っているローリング・サンダーの言葉

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Saturday, February 05, 2005

新訳「ホピ 平和宣言」 V. 2.8.0

HOPI DECLARATION OF PEACE
New Japanese Translate Version 2.8.0 (Last updated Wednesday, June 15, 2005)


(註)この宣言を起草したトーマス・バニヤッカ氏はホピ一族のオオカミ、キツネ、コヨーテの氏族に属します。1948年に、ホピのメッセージを世界に広めるために当時の伝統派の精神的指導者たちから選び出された四人の通詞のうちの最後の一人でした。翻訳の Version 1.X.X は、80年代初頭に小生が翻訳して宮田雪監督の映画「ホピの予言」とともに広まりましたし、映画でもそれが使われていますが、恥ずかしながら不必要な言葉や若さ故の翻訳のあやまちもあり、いつか腰を据えて訳し直したいと念願しておりました。 2004年に、病気療養中の宮田雪監督の意志を引き継いで復活し、映画「ホピの予言」の上映会を再開したランド・アンド・ライフ・ジャパンの辰巳玲子さんからの求めに応じて、新世紀のためのホピの平和宣言の改訳——もっとシンプルでストレートに——を心に決めて、これをワークとして小生は続けていくつもりでいます。ご意見、提案などいつでもお送りください。検討のうえ次期バージョンに反映させていただくことがあるかもしれません。21世紀を通して人々の頭と心に生き残りつづける平和宣言になっていけばよいと願っています。平和で、思いやりがあり、寛容で、真実に満ちたホピの精神の一端に触れていただくために、この平和宣言は、本BLOGにおいてバージョンアップを繰り返しつつ周期的に掲載されます。引用は自由ですが、その場合は部分引用ではなく全文の引用をお願いします。またご面倒ですが、その際には「Version No.」も入れていただけると幸いです。
(北山耕平 記)



ホピ平和宣言


起草者 トーマス・バニヤッカ*1 伝統派ホピ一族通詞


この地球において、真の平和を求めるすべてのひとびとの、頭とスピリットとをひとつにまとめあげるものが、ほんとうのホピの力のなかにはある・・・

「ホピ」とは「平和なひとびと」を意味する・・・そして、真に最も偉大な力とは平和の力である・・・なぜなら平和は、偉大なる精霊の意志なのであるから・・・

だが、ほんとうのホピが戦わないのは、たんに偉大なる精霊がほんとうのホピに戦わせないために、けして武器を取ってはならないといわれたからだとか・・・われわれが「いのちの正しい道」として知っているもののためになら死ぬこともいとわないのだとか、考えたりしてはならない。

ほんとうのホピは、殺すことも、傷つるけこともなく闘うすべを知っている・・・

ほんとうのホピは、偉大なる精霊の光のなか、真理と肯定的な力を用いて闘うすべを知っている・・・

ほんとうのホピは、明晰な思考と・・・良い絵や写真・・・そして厳密に選び抜かれた言葉とによって、いかにひとびとを教育すればよいのかを知っている。

ほんとうのホピは、質素でスピリチュアルないのちの道−−生き残るであろうただひとつのいのちの道を、真に探し求める人たちひとりひとりの頭と心に届くように働きかけ、伝えていくことで、いかに世界のすべての子どもたちに、ほんとうのいのちの道の手本をみせるかを知っている。

ほんとうのホピが、地球で生きていくための聖なる知識を絶やさないでいる理由は、地球が、ひとりの生きて成長しつつある人であり、そのうえにあるいっさいのものが、彼女の子どもたちであることを、ほんとうのホピが知っているからだ。

ほんとうのホピは、聞く耳をもち・・・見る目をもち・・・そうしたものごとを理解するハートをもつ世界のすべてのひとびとに・・・正しいいのちの道をいかに示してみせるかを知っている。

ほんとうのホピは、いかにすれば真の地球の子供たち全員の頭とスピリットとをつなぎあわせるにたる力を呼び起こせるか・・・そしていかにすればその人たちを肯定的な力や偉大なる精霊とひとつにすることができるか、そしてその結果、自分たちがこの世界の苦しめるすべての場所において、苦痛と迫害に終止符を打つことができるかを知っている・・・

ほんとうのホピは、ここに、ホピの力こそが、世界に変化をもたらす原動力であることを、宣言する。

---------------*2

われわれは、すべてのものが生きており、われわれの声を聞き、われわれを理解していると信じるものである。

ホピは不毛の大地に暮らしてはいるが、われわれは、われわれが「マーサウ」と呼ぶスピリットによってこの地に導かれたことを信じる。われわれの役割は、ある種の知識を、全人類のために絶やさないようにすることであり、この知識は、すべての(先住民の)国々を理解し存続させ続けるために必要不可欠なものである。


*1 起草者のトーマス・バニヤッカ氏は1999年2月6日にホピの土地でなくなった。
*2 この破線以下の2小節は最終稿には残されていないが、全体の理解の便宜を考えて残した。 

▼英語のオリジナルは続きにあります。

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