心に浮かぶ言葉
冬の土曜日の朝、家の中ではストーブが音を立てて燃えている。晴れてはいるが外の風は冷たくて、林の木々も静まりかえっている。時折雲間から日が差して、一瞬世界が明るくなるものの、じきにまた雲の中に太陽が隠れて、いつもの寒い冬がかえってくる。熱いコーヒーをすすりながら、CNNテレビで今し方まで「ラリー・キング・ライブ」を見ていた。テーマは「GOD AND TSUNAMI(神とツナミ)」。アメリカの各地から、キリスト教、ユダヤ教、仏教、ニューエイジのスピリチュアル・リーダーらが揺るぎのない信仰と今回の大災害について語り合っていた。この番組が、即何かの役に立つとは思わないけれど、地球規模の出来事に対して悲劇をのぞき見るニュース程度の関心しか払わず、目と耳とを覆いたくなるぐらいにくだらないものばかりを垂れ流している日本のテレビ各局の番組を見ているよりは、はるかに気持ち的にも納得できるものだった。いったいこの国のメディアの人たちは、今地球で起きていることに対して、なにを考えているのだろう? なにも考えてはいないのか? 地球規模で悲しみを分け合わなくてはならないこのときに、テレビの中でグルメの旅をしたり、うまいものをにこやかに食べて見せたり、程度の低い笑いに逃避したりすることに、彼らはほんとうに意味を見いだしているのだろうか? 落差の激しいうわついた言葉だけが流されている。いったいこれはなにを意味しているのだろうか? この国に生きている精神的な人たちの声がなにひとつ伝わってこないのはなぜなのか? 仏教者や、宗教学者や、偉そうなことを説く小説家の声は、どこに響いているのか? われわれはなにかとてつもなく大切なものから目をそらしているのではないのか? この国のシステムは常にその中に暮らす人たちが本質から目をそらしたままでいるように仕向けることに勢力をつぎこんできた。ほんとうに大切なもののことなんか考えてもらっては困るとでも言うかのように。わたしはかつてそうした生き方を「楽しい奴隷暮らし」と呼んだことがある。その言葉にわたしはコピーライトを主張するものである。誰であれその言葉を使うものはわたしに許可を求めてほしい。「楽しい奴隷暮らし」とは、「奴隷暮らしが楽しすぎて誰も奴隷をやめようとなんて思わない」状態を意味する。奴隷暮らしを楽しんでいる人たちは自分が奴隷だなんて考えてみたこともない。世界に対して門を閉じていたか、世界などというものが存在しない時代ならいざ知らず、網の目のようにネットワークが地球を覆い尽くしている今も、「奴隷暮らしの楽しさ」にしがみついたままでいるのはなぜなのか? 進んで牢屋の中に入ってその中で自分は自由だと思いこんでいる悲しさと滑稽さ。地球の声に対して、いったいわれわれはなぜこれほどまでに鈍感になってしまったのだろうか? 林の中で鳥たちが鳴いている。空が明るくなることはあっても、心にまでは太陽の光は差し込まない。偉大なる覚醒の時を前にして、今は癒されることのない悲しみを分かち合う時。
「Koyaanisqatsi (Life out of balance)」カテゴリの記事
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Comments
友人に薦められて
このページを開きました。
メディアの大規模な
洗脳は怖いと思う反面、
だからこそ、毎日自分の考えを持って
生きていくのが大切だと思います。
俺は中南米の先住民のことを
ブログでまとめようと思っています。
まずは墨西哥から南下しながら
話を始めようと思います。
上記のURL以外で作成を
考えています
そのときはまた書き込みを入れます
まずは出会いに感謝
Posted by: 太陽と地平線 | Monday, February 14, 2005 05:35 PM